12月26日(水)
ねじめ正一さんの『荒地の恋』を読んでいる。初めは詩人の私生活をのぞきみることを、どこか後ろめたさを感じながら、おもしろいと思っていた。けれども読んでいくうちに悲しい気持ちになってきた。北村太郎さんの名誉はどうなるのだろう。恋愛や生活に向かう心情は書かれているけれど、それ以上は踏み込んでいないので、詩人の苦悩がつまらないものに思えてくる。登場人物が小さくみえる。ねじめさんはそのように書こうとしたのだろうか。
まだ数十ページ読んだだけだが、そのうち詩人の内奥に深く入っていくことを期待しつつ読もうと思う。
12月24日(月)
22日池袋で友人と会う。バーボンをたくさん。23日アルコールが抜けずにふわふわと過ごす。アンケートの入力と郵送作業。夜はチキンのローズマリー焼き、コブサラダ(海老、アボカド、インゲン、トマト、パプリカなど)。黒オリーブで全体の色を締めようと思っていたのに、まちがえて黒豆を買ってしまった。ああ。ソース(オリーブオイル、酢、マヨネーズ、ケチャップ、ハチミツ)にエシャロットを刻んで入れた。これは成功。
12月17日(火)
国分寺へ。車中で小林秀雄の『モーツアルト』。モーツアルトはピアノ曲と交響曲を少し聴いたことがある程度。やっぱりオペラを聴かなくてはだめだとわかった。母が死んだことを知らせるモーツアルトの手紙についての言及を興味深く読んだ。母の死から数時間後に書いた手紙がシンフォニーのような構成になっているというのである。まず郷里の家族を驚かさないように母の具合は快方に向かっていると書き、日常の細々した報告をし、そして本題に入るというように。やっぱり凡人と違うのですね。
武蔵野茶房でコーヒー。和の大きなカップに入ってくる。花も一輪。ウェイトレスさんのエプロンがレトロでかわいい。
12月13日(木)
松竹に勤める姪がチケットをくれたので、日比谷で『チャングムの誓い』を観る。韓流ドラマにはまったく興味がないけれど、せっかくだからと出かけた。宮中の女官の物語。菊川怜主演。凛とした賢いヒロインははまり役だと思う。舞台装置がダイナミック。衣装の色合いも美しい。3時間半の長い舞台。まあまあ楽しめた。
劇場内にあるカフェで遅いお昼。おしゃれな店なのに窮屈で、値段のわりにコーヒーもバゲットサンドも不満な味だった。
12月12日(水)
所沢図書館で来年2月16日(土)、17日(日)に第8回図書館まつりが開かれます。落語や講談、文学碑や作家の紹介、コンサート、映画会など催しがたくさん。お近くの方はぜひお寄りください。図書館はリニューアルのため休館中。来年1月5日にオープンになる。きょうはガードマンにフェンスを開けてもらって館内に入ったけれど、各階を見ることはできなかった。きょうは委員長さんが欠席のため、副のわたしが進行役。のどが乾きました。
12月10日(月)
茂木健一郎の『脳と仮想』(新潮社)を読む。小林秀雄の講演テープを聞いたことから始まる。小林秀雄や夏目漱石の仕事について、わたしの知りたいことが書かれている。この本を読み終わり、理解できれば、何かが変わるような気がする。少なくとも、この数か月のブランクは埋められるのではないかと思っている。
ところで小林秀雄の講演テープは手に入るものなのだろうか。どうしても聞いてみたい。
12月6日(木)
この一か月の間、いただいた冊子を積んだままにしていた。すみません。ようやく開封しました。毎朝、ものごとの優先順位をメモしていますが、見積もりや点検といった用事が入ったりして、すぐに日が暮れてしまいます。そんな日々ですが、多くの方にお願いしたアンケートの回答がぼつぼつ届いて、入力を始めました。誰よりも早く原稿を読める喜びに浸っています。みなさんにも早く読んでもらいたいと思いますが、それは来年2月になります。楽しみにしていてくださいね。
初めてロフトに上がる。高いところは苦手。どうしても見つからないものがあったので。もう上がらないぞ。

12月2日(日)
引っ越して1か月。まだモノがおさまるべきところにおさまっていないけれど、スーパーマーケットへの近道を見つけて、桜の大木が黄色い葉をつけているのを見る楽しみもできた。落ち葉を掃くために大きなちりとりを買った。家の前の藪から絶え間なく枯れた葉が降ってくる。掃いても掃いてもきりがない。修行をしているみたいな気分。
村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んでいる。フルマラソン、100キロマラソン、トライアスロン。レースに出るために毎日練習をし、体調をととのえる。作家の強靭な意志と持続するちからに圧倒される。きょうは福岡国際マラソンと韓国vs日本の野球をちらっと見た。
11月29日(木)
娘たちは銀色夏生のファンで、度々『ミタカくんと私』がおもしろいよと言う。たまには軽い読書もいいかと思って読んでみた。とてもとても軽かった。吉本ばなな風。おかしくて何度も笑う。「このごろパパをみないけど、どうしたの?」「ああ、離婚したのよ」一緒に住んでいる家族の会話である。年も男女も関係なく、みんなお友だちという温さ。素人っぽいかわいいイラスト、沖縄旅行記もある。若いひとに受けるわけだと思った。
しかしミタカくんは芯のある、なかなかすてきな少年。娘に続編『ヒョウタンから空』を借りた。
11月26日(月)
普通の生活はできるようになったけれど、快適というわけではない。まずゴミの問題。燃やすゴミが週2日、有害ゴミとビン・カンが隔週、プラスチックが週1日。裏口がないため小さな庭に置いておくしかないのだが、まだ庭まで手が回らない。塀も垣根もないので、ひとが通ると丸見え。前はキッチンに小さなベランダがついていて、ゴミはそこに積んでおくことができたのだった。
読みたい書きたいと思うのだが、まだその余裕がない。アンケートの回答がぼつぼつ届きはじめて、焦りを感じるこの頃です。
11月22日(木)
コンビニがあってファミレスはない。銀行はなくATMが二つ。うどん屋はあるけれどパスタ屋はない。肉屋と魚屋はなく八百屋が一つ。書店はない。さびれた街である。10分ほど歩いてスーパーマーケットに行く。踏切を2つ渡る。高い建物がないので、空がよく見える。少しずつ街の地図ができてきた。好きになれるといいと思う。
11月19日(月)
『雨期』50号の記念に、アンケートを詩人のみなさんにお願いしたのだが、第1便がとどいた。うれしいことです。締めきりまであと1か月。そろそろ書き始めなくては。家のこともようやく落ち着いた。まだ小さな工事などがあるけれど、あいだを縫って書いていけそうな状態になった。
昨日段ボールを開けたら、懐かしい本が出てきた。平出隆さんと稲川方人さんの『書記』7号「対話片24」。ボール紙のような厚紙でできた、24頁の詩誌。手造りのぬくもりがある。
11月14日(水)
埼玉県民の日。久しぶりに新宿に出る。半分紅葉した木々が美しい秋の街。中村屋のマ・シェズへ。マイシティがルミネになったことを知らなかった。驚き。ペペで買い物をして新所沢に戻り、図書館の会議に出る。熟年主婦の女性が多いためか、会議の進行が遅い。3時間で終わり、歩いて帰宅。途中で食料を購入したため、家まで60分もかかってしまう。土踏まずがひりひりする。
11月12日(月)
先日テレビで『普通の人々』を観た。1980年。ロバート・レッドフォード監督。ティモシー・ハットン主演。兄をヨットの事故でなくしたことで自分を責めるコンラッド、次男を愛せなくなった母、家族の再生に心を砕く父。ちっとも普通ではない家族の話。父を演じるサザーランドの湖のような目が印象に残った。冒頭で流れるパッヘルベルのカノンが最後まで響いているように思える。母親が出て行き、父と息子が抱き合うラストは意外だった。地味だけれど、家族のありかたを問う、いい映画だと思った。
11月7日(水)
引越の間、行方不明にならないように稲川方人さんの詩集をバッグに入れていた。まだ本の箱は1つも開いていないから、これは正解。『聖-歌唱』を毎晩少しずつ読んでいる。一昨年前から「死」を近しいものとして実感するようになった。そうした精神状態のなかで、楽しい詩や発見の詩は遠いものになり、思考をうながし世界を解き明かすような詩をもとめているような気がする。
11月2日(金)
引越。引越業者の若いひとがてきぱきと運んでくれる。昨夜は興奮した猫が暴れ回っていたので、寝不足でフラフラ。一人で立ち会い、うまくいかないことだらけで反省。次に引越するときはもう少しスムーズにできると思う。夜はビールとシャンパン、デパ地下の惣菜。
駅から徒歩5分、前は竹藪。乗降客は多いのに、駅前には銀行とコンビニしかない。駅の改札はひとつ。踏切を2つ渡り返さなければならない。早く開発されるといいのですが。
10月28日(日)
本の箱詰めを開始。部屋中ごった返す。たくさんの本を捨てる。昔のアルバムをめくったら、23年前の出版記念会の写真が出てきた。黒い髪の岡田幸文さん、辻征夫さん、一色真理さん、小長谷清実さん、文人のような諏訪優さん。そしてすらりとした氷見敦子さん。懐かしい。詩を書き始めて間もなかったわたしには今も名前がわからない若い詩人たちも映っている。
稲川方人さんの新詩集『聖─歌章』(思潮社)とどく。緊張のなかで封を切る。チャコールグレイの表紙、格調高い装丁の詩集。
10月25日(木)
風邪気味なのとストレスでセキが出て何度も吐きそうになる。体重は減っているし、ちょっと心配。クリーニング店からカーテン屋へ。できあがったカーテンを提げて30分ほど歩く。あまりの重さに目がチカチカしてきた。帰宅してダウン。情けないことに、基礎体力がない。
角田光代の『対岸の彼女』。とても暗い。どんよりとした気分になる。
10月20日(土)
昨日はアンケートの発送をする予定が、突然の内見者。子ども連れの若い女性とその母親。質問もせずにそそくさと帰っていった。反応のないひとは疲れる。不動産屋はジャンパーを着たおじさん。ウィークディに突然来たのだから、それなりの挨拶があってもいいと思うけれど。
今日は部屋の採寸をして、カーテンの店で布を選び、ホームセンターで照明器具を買う。建て売り住宅にはカーテンレールも照明も付いていない。午後、シティケーブルネットが説明に来る。入れかわりに引越の見積もりをしてもらう。忙しい一日。
来月初めに引越をします。慌ただしい毎日ですが、読書生活は続けたいと思いますので読んでくださいね。
10月18日(木)
ようやく『雨期』次号のアンケートを決める。50号なので多くの方にお願いしたいと思っている。原稿は12月20日締めきり、来年2月に発行の予定。
角田光代『対岸の彼女』を買う。『村上春樹にご用心』を作業の合間に読む。おもしろく、納得する点がたくさんある。
10月16日(火)
カーテンとじゅうたんの店で、カーテンの見積もりをしてもらう。店の名は「カーテン王国」。ううーん、王国というより「ストア」という感じ。布地のサンプルが大量に下がっているだけではイメージが湧かない。もっと見せる工夫をしたほうがいいのでは?少しは夢心地にさせてくれないかな。モデルハウスと提携するというのはどうだろう。既製品なら格安のものもあるけれど、だいたいにおいてカーテンは高い。ただの布なのにね。
椅子の張り替えを頼むため、座板をドライバーで外す。25年ほど前に買ったものを直しながら使っていたのだけれど、いい機会なので、修理に出すことにした。45センチ四方の板を4枚。梱包は苦手。とてもとても不器用なのだ。
夕食は里芋と牛肉の肉じゃが。うちではリクエストの多い料理です。
10月13日(土)
煩瑣な雑務が終わった。心からうれしい。村上春樹の新作『走ることについて僕が語るときに僕の語ること』を購入。このタイトル、買わずにいられますか。そして内田樹の『村上春樹にご用心』。これから忙しくなるので、作業の合間にこの2冊を少しずつ読むことになると思う。
猫が足の上で眠り、寝苦しい。そのせいなのか、猫を料理しようとするおぞましい夢を見る。朝起きて猫に謝った。
10月9日(火)
市役所と郵便局へ。事務的な雑事を片づける。娘の残していった化粧品の中身を捨て、燃やせないゴミをまとめる。マニキュアの強烈な匂いがキッチンに充満する。わたしたちはほとんど必要のないたくさんのものに囲まれて暮らしている。人生も半分過ぎた(?)ので、これからはタイトな生活をしたいと思っている。
10月6日(土)
ポール・オースターの『最後の物たちの国で』読み終わる。オースター作品のなかでいちばんよくできていると思った。本国アメリカでは埋もれてしまっている一冊であるという。近未来が舞台のようだが、世界の断片を組み立てて作られた現在の物語。いつもの遊び心はまったく見られない。スリリングな展開と豊かな想像力。『わたしを離さないで』と同じく、最後になってようやく傑作であることがわかる小説。1987年に発表されているので、多くの作家に影響を与えたのではないだろうか。多和田葉子さんの不条理な世界を舞台にした小説のいくつかを思い出した。
オースターは現代のドストエフスキーだと思う。
10月4日(木)
『左庭』『たまたま』『スーハ!』『ことのは』。同人誌を読み、送ってくださった岬多可子さん、おのめぐみさん、佐藤恵さん、広岡曜子さんに手紙を書く。
ふとんをカットして捨てる。大きなゴミ袋3つ分になった。毎日大量のモノを捨てている。捨てるのは惜しいと思うものは、図書館まつりの資金調達のためにフリマに出す予定。本のほか、わたしの持ち物は少ない。
10月3日(水)
29日の文章のなかの「ある状況」というのは「極限状況」ということ。モノのない貧しい街で、人々は奪い取ったものを売りながら暮らす。行方不明の兄をさがすために街に入ったアンナ・ブルームも、屑を漁って生きのびる。不運が次々とやってきて、出会うべきひとに出会い、苦境を切り抜け・・・。ラストはどうなるのか、ハラハラしながら読んでいる。オースターはやっぱりすごい作家である。
9月29日(日)
新高円寺へ。車中でポール・オースターの『最後の物たちの国で』(柴田元幸訳・白水ブックス)の続きを久しぶりに読む。この世の果てのような場所を一人称で語るスタイル。ようやく語り手である主人公にかかわる人々が登場。俄然、話がおもしろくなってきた。オースターの小説には、ある状況に追いこまれた人間の意識をていねいに書いていくものが多い。そういう作品がわたしは好きだ。
夜7時に帰宅して、初鍋。豚バラ肉とほうれんそうの常夜鍋。日本酒をたくさん入れ、大根おろしと昆布ポン酢で。
9月28日(金)
駒沢敏器『語るに足る、ささやかな人生』読了。1961年生まれの著者は、サウスダコタやアーカンソー、ミシシッピ州など観光とは縁がないような小さな街に入って行く。寂れた土地、神に見捨てられたような場所、温かみのあるすばらしい街。短編映画のようでおもしろかった。ただ肩にちからが入った感じの文章で、知人の文体に似ているなあと思いながら読んだ。
文体といえば、幼女誘拐殺人犯のM・Tが女性を装って書いた脅迫状が、知り合いの詩人の文章に似ていて、もしかしてと疑ってしまったことを思い出した。そうでなくてよかった。
9月24日(月)
自動改札で引っかかった。磁気の故障という。特急券と乗車券を投入したのだが、きちんと入れたから問題はないはず。しかたなく窓口で特急券を渡し、乗車券をもって乗り換える。到着駅でまた引っかかる。またしても「磁気の故障」と出た。切符に何かあるのだろうか?改札を閉じられてしまうことがなぜかわたしは多い。磁気に何かの関わりがある体質なのだろうか。それとも、ただ「とろい」だけか。
9月22日(土)
市ヶ谷〜東京駅〜O市。いつもは大宮から新幹線に乗るけれど、今日は東京駅から。都心はいいなあ。老親のマンションを掃除。めずらしく12時まで昔話を聞く。30年前のことはよく覚えているのに、23日前のことはほとんど忘れているので愕然とする。遠いけれど時々来てほしいと言うが、これから1か月は引越の準備に追われるため、当分行けないそうもない。
寝る前に、『語るに足る、ささやかな人生』。わたしだったら、こう書くだろうと思いながら読む。
9月17日(月)
隣の駅にある市民ホールで『椿姫』を観る。ウィーンのバーデン市立劇場の公演。一生に一度はオペラを聴きたいと思っていた。生のオーケストラ、歌手の肉声。華麗なセットは照明が落とされたなかで転換作業が進められる。舞台は奥行きのある大広間からパリ郊外の別荘へ、仮装舞踏会の会場からヴィオレッタの臥せる小さな部屋へ。それを観るのも楽しみの一つだということがわかった。
「享楽の小径を行くのです」高級娼婦ヴィオレッタは自分の人生を思い定めている。純情な青年アルフレッドの求愛を一度は拒否するが・・・。ストーリーはあまりにも有名なので省略。すばらしく贅沢な夜でした。
9月16日(日)
駒沢敏器『語るに足る、ささやかな人生』(小学館文庫)を読んでいる。著者はアメリカの小さな町を旅して、そこに住む人々の物語を書きとめる。好きなタイプのエッセイなのだけれど、なぜか先に進まない。文章にクセがあるように思える。たとえばコーラを買ったときの「最初のひと飲みで缶の中身はどこまで減るだろうか」。もっとあっさり書けばいいのにと思ってしまう。単に好みの問題ですね。
9月14日(金)
ラジオデイズオープン。おめでとうございます。みなさまぜひお出かけください。
9月11日(火)
國中治さんの短編小説集『風景画の窓』(れんが書房新社)を読んでいる。詩人が書いた小説はやはり小説家の作品とはちがう。ストーリーよりも一つの一つシーンにウェイトが置かれていると思う。そのため話の流れがつかめないということがあり、読み返すことになる。半分ほど読んだ。
空間をスライドさせた幻想的な短篇が多い。ていねいな描写とどこか古風な感じが、國中さんらしい。國中さんと初めて会ったのは20年ほど前のこと。『詩学』のパーティだった。まだ学生だった國中さんは、小さな詩誌に書いたわたしの作品に辛口のコメントをくれたのだった。
9月8日(土)
田中佐知さんのご遺族から、ていねいな手紙と著書が2冊とどく。エッセイ『詩人の言霊』と遺稿詩集『樹詩林』。あとがきはともに実弟の田中佑季明さんが書かれている。ご遺族は佐知さんの作品を多くのひとに伝えようと、旺盛な活動をつづけられている。
近所の蕎麦屋へ。法事などに使われる大きな店。なぜか一角がコーヒー屋みたいなカウンターになっていて、本格的な用具と豆が並んでいる。テーブルがふさがっているため、そのカウンターで蕎麦を食べているひとが数人。何だか変な感じだ。
9月5日(水)
『雨期』49号の「旧市街」という詩は苦しんで書いたもの。6月のジュンク堂のトークで、瀬尾育生さんと稲川方人さんが、中尾太一さんの詩について「決して散文にいかないだろう」とおっしゃっていた。それで自分でも散文に流れない詩を書いてみようと思った。苦しんでいる間、あるアメリカの詩人の作品を思い浮かべていました。誰かは内緒。あざみ書房のHPで紹介してくださいました。
今年7月に出た鈴木東海子さん編集・発行の詩誌『櫻尺』にも同じタイトルの作品を書いている。しばらくは「旧市街」をテーマに考えてみたいと思っています。
昨日郵便局で、窓口にあった「あさかの四季」という切手シートを買った。1200円は高いけれど、きっと50円切手も入っているのだろうと思った。帰宅してひらくと、80円切手10枚。これはフレーム切手シートというもので「写真部分を郵便物に貼って、ご利用いただけます」と書いてある。大きな道路の写真のまんなかには「あさかの四季」という、安っぽいお土産みたいな文字が。だれがこんなもの貼るか。これが400円なんて信じられない。
確認しなかった自分が悪いと思ったが、知人が詳細を調べて「局員がフレーム切手であると一言添えて販売することになっている」と教えてくれた。さらに郵政公社に掛けあって、メール係の方が善処してくださるという話をつけてくれた。
まず郵便局に電話をした。返品交換はできない、当日でないと対処できないという。それから郵政公社に電話。メール係につなぐことはできないというので、窓口のひとに説明し、納得できないと言うと、郵便局に伝えるとのこと。
すぐに郵便局から電話があり、シートを売った局長が申し訳なかったと謝罪した。けれど返品交換はしてはならないと上のほうからいわれているとのこと。なぜできないのか。そちらの不手際で400円も損をしたのに。しかしそれ以上は説明のことばを持っていないみたいだ。「ご不満ならわたしが買い取ります」。もう関わりを持ちたくない。
みなさんもフレーム切手シートには注意してくださいね。
9月3日(月)
くるりの「jubilee」がとてもいいと騒いでいたら、娘がアルバム『ワルツを踊れ』全曲をダウンロードしてくれた。CD買わなくていいの?古い人間であるわたしは後ろめたいような気持ち。やっぱり「jubilee」に感じるものがある。「ブレーメン」もいい。「薔薇の名前」がデビュー曲だったか?初めて聴いたときにはっとしたのだけれど、彼らのゆるさに今ひとつ同調できなかった。今も脱力系の音楽には何となく距離を置いてしまう。でも「jubilee」は別。
9月1日(土)
やっと秋。この涼しさがうれしい。今夜はお鍋でもいいくらい。
村上春樹の『海辺のカフカ』を再読。この小説も「どこであれそれが見つかりそうな場所で」とオーバーラップするところがある。僕と大島さんが「生き霊」について、強い憎悪がそうした現象を引き起こすという話をする箇所がある。時空を越えて起こる不思議な現象がたくさん出てくる。あの世とこの世が向かい合わせになっていて、そこを行き来することができるポイントのようなものがいくつかあるのだなと思いながら読み、下巻に入った。
8月30日(木)
『雨期』49号できました。モスグリーンの表紙です。今号のアンケートは「会ってみたい歴史上の人物」。執筆者は古内美也子・荻 悦子・原口哲也・皆川秀紀・北野英昭・須永。原口の『YORIAI』は最終回、わたしは『読書日記』の他に故田中佐知さんの詩集『砂の記憶』について書いています。お読みになりたい方はお気軽にメールをください。
8月26日(日)
駒沢敏器の『語るに足る、ささやかな人生』(小学館文庫)をamazonで買う。アメリカの小さな町を旅して綴った13のストーリー。ロードムービー風か。ずっと読みたいと思っていた。近くの書店になかったので、探す時間を節約。一緒に『俳句の作り方110のコツ』辻桃子&安部元気著(主婦の友社)を注文。俳句のハウツー本はかなり買っている。「添削だからよくわかる」というサブタイトルに惹かれた。
初心者が作ったと思われる句を添削したものと、「わたしならこうする」というプロの句が110。テキスト風のスタイルがなかなかおもしろい。連句があまりにも下手なので、自分なりに納得できるところまでやってみようと思っているのです。
8月23日(木)
本の整理をしていて、村上春樹の『スプートニクの恋人』を見つけ、再読。小学校のとき国語の教科書にスプートニクの説明文が載っていた。隣の席の男の子は「スープトニク」と読んだ。「スープと肉」。今回読み返して、それがロシア語で「旅の道連れ」を意味することを知った。「スープと肉」なるほど。
木の上にのぼった仔猫が降りられなくなり、姿を消してしまうという挿話があり、主人公のすみれもまたギリシアの島で行方不明になる。『東京奇譚集』の「どこであれそれが見つかりそうな場所で」を思い出した。姿を消したいという願望、あるいは意思が強いものであるならば、一時的に行方をくらますのはさほど難しいことではないのだろうか。二つの小説はともに消えた人間が戻ってくる。
さらにドッペルゲンガー現象。若く美しい女性が遊園地の観覧車に閉じこめられ、そこからもうひとりの自分に起こる事件を見てしまう。救出されたとき、ショックのために黒かった髪が真っ白になっている。こちら側とあちら側。村上春樹の文学のテーマは変わっていないのだと思った。
8月22日(水)
『雨期』49号の入稿。今回も苦しんだ。いつもなら打ち上げだけれど、食欲がない。困った。印刷所のおばさんたちが帰り際に「暑いから気をつけてね」と言ってくれて、うれしくなった。
印刷所は清瀬にある。駅の向こう側に叔母が住んでいた。この駅に降り立つ度にどこかでぱったり会うかもしれないと思った。もうそんなことはないのだ。唯一わたしを一人前に扱ってくれた叔母だった。
8月19日(日)
ポール・オースターの『最後の物たちの国で』(柴田元幸訳・白水uブックス)を読み始める。何年か前に買ってそのままになっていた。数行読むと眠くなってしまう。女性が語るスタイルで「です・ます調」の文章が、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を連想させるからか?何もない悪夢のような国が舞台だからか?もう少し我慢して読んでみよう。
昨日老親の家へ行き、掃除とゴミ捨てをして、今日の午後に帰宅した。疲れた。
8月15日(水)
市役所の広報車が「ただいまの気温は38.4℃です」と言っている。こんなことは初めて。最高気温なのだろう。歩くスピードも落ちるわけである。
『雨期』49号の原稿がそろった。ページ調整のためにもう少し『短篇通信』を書かなければ。今回は作品を発表する場所があまりなかったので、早く出したくてしかたない。
終戦記念日。数年前、某地方詩誌に「敗戦記念日」のことを書いたら、何の断りもなく削除された。二度と関わるまいと思った。
8月14日(火)
ペルセウス座流星群。午前0時30分から1時にかけて空を見る。肉眼で大小合わせて3つの流星を見ることができた。感激。
8月13日(月)
午後4時を過ぎても陽ざしは強い。近所まで買い物をするのに、日焼け止めを塗り帽子をかぶり日傘をさす。この夏初めて日焼け止めローションを買った。海に行くときだけ使うものだと思っていたが、最近では女子高生も赤ちゃんも塗るのという聞いて驚いた。
食欲もない。昼食は冷たい麺類か豆腐丼。ご飯の上にくずし豆腐、ゴマ、大葉、ミョウガ、海苔などをのせ、昆布ぽん酢をかけて食べる。チリメンジャコがあれば完璧です。
『孤独の発明』を読む。オースターはやっぱりいい。この作家は単なるストーリー・テラーではない。小説のなかで、思考のプロセスが語られるところがスリリング。
8月11日(土)
『間宮兄弟』をDVDで観る。江國香織原作・森田芳光監督。脱力系のほのぼのした映画。仲の良い兄弟を演じるのは佐々木蔵ノ介と塚地武雅、その母が中島みゆき。朝顔の色水作り好きが高じて、ビール工場に勤務する兄、オタクな校務員の弟。もてない二人はホームパーティをひらいて意中の女性を招待するが、うまくいかない。カレーパーティ、浴衣でゲーム・パーティ、おでんパーティ。
書棚に囲まれた部屋、弟のために兄が作る塩むすび、銭湯で飲むコーヒー牛乳、毎晩兄弟でする反省会。わたしたちの幸福というのはこういうささやかなものの集まりなのだと改めて思わせてくれる作品。緑のまぶしい川原の土手、アーケードの商店街など、蒲田のあたりか大宮かとロケ地を考えるのも楽しい。
8月8日(水)
明日、祥子さんの歌唱ライブがあります。お時間のある方はぜひお出かけください。わたしもぜひ聴きたいのですが、体調不良のため行けるかどうか微妙です。今回は伊藤悠子さんの詩が加わるとのこと。伊藤さんの『道を 小道を』(ふらんす堂)はすばらしい詩集です。昨日読み終えて、すぐに手紙を書きました。わたしの今年度No.1です。
先週トップページに書いた、ベッツィ&クリスの「夏よおまえは」の詞を渡辺洋さんがおしえてくださいました。「夏よ 浮気な夏よ」だそうです。2番は「つれない夏よ」。想像もつきませんでした。渡辺さんありがとうございます。
8月6日(月)
6月に相次いで祖母と叔母が亡くなった。百に近く、ここ数年寝たきりだった祖母が逝ったのは母の誕生日。もしかしたらこれは一族のいざこざに蓋がされたということかもしれない。そうであることを祈りたい。母方の実家とはもう関係がないと思っていたのだが、そうはいかないらしい。二人の葬儀にも出ることができなかったのに、書類が必要だと連絡があった。人間というのはほんとうに悲しいものだと思う。
8月4日(土)
小池昌代さんの短篇集『タタド』(新潮社)が届き、一気に読んだ。川端康成文学賞を受賞した表題作を含めた3篇。小説家としての確かな成熟がうかがえるが、小池さんは楽しんで書いていないのではないかと思った。登場人物は年齢に関係なく人生を半ば降りた人々。日々を生きるなかにあるピュアなものがあまりみえないような気がする。それは時代の空気をあらわしているのかもしれない。流されるまま、自分で人生を選択しない生き方。それはそれでいいのだろう。全体に倦怠感が流れているようで、ちょっと心配になった。
8月3日(金)
走り始めてすでに1ヶ月が過ぎた。贅肉が落ち、朝起きたときに顔がむくむこともなくなった。よれよれと10分ほど走るだけで結果が出るなんて何ともうれしいことである。走ったあとに飲む水もおいしい。食べるものにも気を遣うようになった。豚肉ならヒレ、鶏肉ならササミ。旬のよいものがあれば魚料理。お酒はウィスキーから芋焼酎に切り替えた。これで長生きするつもり。
8月2日(木)
お悔やみの手紙を2通書く。子どものような字なので恥ずかしい。『えんぴつでなぞる奥の細道』をやっているのにあまり効果がない。何枚も書き損じてしまう。詩集の礼状は絵はがきを使うが失敗して捨てることも多く、詩の草稿は何度もプリントアウトする。ずいぶん紙の無駄遣いをしていると思う。そのうちばちがあたってもしかたない。
とりあえず気の重い作業が終わった。今月は何が何でも『雨期』49号を出します。
7月31日(火)
奥成達さんから『gui』81号が届く。國峰照子さんの「森原智子さんを改めて読む」という論考を一息に読んだ。よき理解者が、彼女の詩について書いてくれるのを待っていた。國峰さんは森原智子の詩人としてのスタートから作品を丹念に追う。未読だった初期の作品も紹介されていて興味深い。とてもシャープな感性を持った詩人だった。森原さんの詩を読むと、いつもダリの絵を連想する。なぜだろう。そのあたりから書いてみたいと思っていたのだけれど、どうしても進まない。モダニズムの詩を評することばをわたしが持っていないからだと思う。書くことができない言い訳ですが。
7月30日(月)
昨日は投票に行き、夜遅くまで選挙番組を見た。今朝はテレビで若い女性当選者のインタビューを聞いたが、政治にそれほど興味がないらしい発言内容だったので驚いた。選挙に勝つことが目的だったのだろうか。埼玉のある候補者は、芸能人のいとこ(某グループのダンサー)に応援演説をさせた。何を考えているのだろうと思ったが、当選してしまった。怒。政治を担う人々はもっと危機感をもって欲しい。きれいごとはもういい。
『兄 小林秀雄』を読み終える。身びいきはかなりのものだった。高見澤さんは心から兄を尊敬し愛していて、文章の端々にそれが出ている。13も年上の岡本かのこが涙ながらに愛を告白したというエピソードにびっくり。いい男だったのでしょう。
7月28日(土)
甥の結婚式へ。披露宴に出席するのは四半世紀ぶり、親族としては初めて。新しいウェディングホールでプロデュースされた式は、まるごとテレビドラマの世界だった。ガラス張りのチャペル、外人の神父(長身でハリソン・フォード似。きっとタレント)、ゴスペルの聖歌隊。
テラスでのシャンパン、ブーケ投げ、ケーキカットとお互いの口にケーキを運ぶ瞬間(!)の撮影タイム。セミプロの司会者が盛りあげようとがんばって、かなり浮いていた。ゆっくり食べる暇もなく終わる。新郎新婦が幸福そうでよかった。出会って十数年、やっと仕事が安定してこの日を迎えた甥は満面の笑顔。我が子のことのようにうれしく、もらい泣きをした。
学生結婚、教会で3万円コースの挙式をしたわたしたちには別世界のような1日でした。
7月27日(金)
ポール・オースターの「見えない人間の肖像」を読む。偏屈な父親を描いた短篇。このひとの作品には実在の人物が実名で出てきて、エッセイか短篇か分かちがたい感じがある。ほとんどの作品がオースターの実体験をベースにしているため、内容が重なっているように思う。
不幸な境遇と家族の固い結束ゆえに、どこかが壊れたような父親の姿を追う作家の冷徹なまなざし。呆けはじめたわたしの二人の父を思い出し、ちょっと胸が痛んだ。
7月24日(火)
数週間前にテレビで吉田秀和の番組を見てから、わたしの周囲は静かな小林秀雄ブームになっている。本や同人誌の整理をしていて、有名な評論「モーツァルト」について書かれたエッセイを見かけた。モーツァルトの音楽は「疾走するかなしみ」というのは誤訳で、ほんとうは「溌剌としたかなしみ」であるという一文があったのだけれど、著者は誰だろう。
押入から『兄 小林秀雄』を出して読み始める。実妹の高見澤潤子さんによる追想記。1985年発行。20数年ほど前にもらったままになっていた。
一般に家族の思い出を書いたものは身びいきが過ぎたものになるけれど、この本は違う。表紙にはルオーのピエロの絵。
7月21日(土)
横浜へ。池袋から湘南ライナーの快速に乗って36分。みなとみらいの海上レストランで友人たちと食事。ビールを少し飲み、きょうはまわるのが早いなと思ったら、店が揺れているのだった。シーバスで山下公園へ向かう。ベイブリッジや倉庫群、赤レンガなどを眺める。海はいいなあ。横浜は20数年ぶり。みなとのみえる丘公園、外人墓地、ホテルのバー(ボーイさんの完璧なサーヴィスに驚く)、中華街、ジャズバー。
ずっと詩について話す。詩を書くひとと詩の話をするのはほんとうに久しぶり。今年後半のスタートを切ったような気持ちになる。車中でポール・オースターの『孤独の発明』を再読。
7月18日(水)
聖書はちょっとお休み。堀江敏幸『めぐらし屋』(毎日新聞社)を読む。文章のうまい作家だけれど、できごとやモノがすべてつながっていて意味を持っているのが窮屈に感じられる。新聞に連載した小説ということなので、いつもよりそれが密になっているように思える。せっかくちょっと抜けた女性を主人公にしているのだから、もっと風通しをよくすればいいのにと思ってしまう。頭のよいひとなのだろう。
走り始めて3週間になる。体重は2.5キロ減り、ウエストの肉が落ちた。これはもう続けるしかないかな。
7月16日(月)
外で走れない日はステッパーの上でジョギング。これはきつい。路上を走るほうがまだ楽。ステッパーは、その上を踏むと歩数とカロリー消費量が表示される運動マシン(?)。
家のなかを聖書を持って移動し、少しでも時間があると読んでいる。結婚したときに教会でもらった英和対照の新約聖書。学校では旧約も入っている分厚いものを使っていた。聖書ではイエス・キリストの容貌にはまったく触れていない。でも映画や絵本では必ず長身で長髪、面長である。ストイックさを全面に出すとそうなるのだろう。
『マルコによる福音書』と『マタイによる福音書』を読む。これと『ルカによる福音書』は内容がほぼ同じ。『ヨハネによる福音書』だけが少し後に書かれたためか、ちょっと違う。他の3つでは突然のように出てくる挿話について、きちんと説明されている。3つの福音書は「共観福音書」と呼ばれていると聖書の時間に教わったことを思い出す。昔よりは「譬え」の意味するものが理解できるような気がする。
7月13日(金)
最近届いた詩集を3冊読む。詩の世界へ戻るリハビリをしているような気分。詩も文章も毎日書いているけれど、締めきりがないから、どんどん長くなっていく。方向は見えている。でもすごい迂回をしていると思う。
『雨期』49号を8月中に出す予定。「ひたすら書いている」と書きたいところだが、資料を読む時間のほうが長い。キリストに関する本があるかと書棚を探すが、ゼロ。しかたなく聖書をひらく。
7月11日(水)
8日の続き。自殺未遂を起こして退院した叔父を迎える夕食は、Kのフライドチキンとサラダを紙皿で。飲み物はスプライト。壊れた家庭らしいメニューである。ちょっと前はアメリカといえば温めるだけのテレビ・ディナーだった。最近は映画に出てこないけれど、最近はどうなのだろう。数年前に見たアメリカの食生活の映像番組によると、夕食がピザだけという共働きの家は珍しくないらしい。それでは栄養的にも満たされず、気持ちが荒れてしまうと思う。
確か、アン・タイラーの『夢見た旅』という小説のなかに、自分を誘拐した若い男がポテトチップスとコーラか何かでお腹を満たしているのを見た中年女が、「そんなのだめ」というようなシーンがあったと思う。日頃からどこか遠くへ行きたいと思っているヒロインが、ある日人質として犯人と逃避行をすることになるというロードムービーみたいな小説だった。結構よかったな。
7月8日(日)
『リトル・ミス・サンシャイン』をDVDで観る。美少女コンテストに出場が決まった娘のために、家族がワゴン車で会場に向かうロードムービー。こう書くと楽しい映画のようだけれど、そうではない。家族はばらばらである。人生成功論の本を出すことに夢中の父、ヘロイン常習者の祖父、パイロットになるまで無言でいることを決めた長男、プルースト研究者で自殺未遂したゲイの叔父。
1200キロの旅の間に、それぞれに不幸なできごとが起こり、壊れた家族が少しずつ変わり始める。痛烈なミスコン批判にもなっている。平凡な母親を演じるトニ・コレットがいい。アリゾナの砂漠を走る黄色い小型バス。でも、どこかアメリカ映画らしくないところがある。佳作。
7月6日(金)
先週聞いたトークについて考えている。ことばの断片は記憶しているが、まだ文章にできそうもない。それで『詩の雑誌midnightpress』を押入から引っ張り出して、稲川方人さんと瀬尾育生さんの対談を読み始める。17号から30号まで。掲載中はあまり熱心な読者ではなかったので、初めて目にするような緊張感をもって読む。バックナンバーを読めば、二人の詩人の話が立ち上がってくるかもしれないと思った。
その合間に「短篇通信」を書くため、ウィリアム・トレヴァーの『聖母の贈り物』とチャンネ・リーの『最後の場所で』を再読。
7月4日(水)
毎日午後5時半になると、町内に「地域のみなさんで子どもを守りましょう」という放送が流れる。聞くたびに嫌な気分になる。そんなことを言われなくても、まともな大人であれば困っている子どもをそのままにはしておかないだろう。放送を流せば「子どもたちの安全のためにやるべきことはやった」と考えるお役所の考え方に不快を感じる。こんなことを外で言ったら、要注意人物にされてしまうのでしょうね。小学校の保護者会などで発言すると、冷たい視線を感じることがよくありました。中島義道の気持ちがわかります。
7月1日(日)
スーパーマーケットで戻さず使える生春巻きの皮を見つける(モランボン)。うれしいなあ。これでいつでもベトナム気分が味わえます。家族の誕生日には生春巻きやトルティーヤにすることが多い。本場の味は知らないので適当にタレを作り、具はエビ、肉、春雨、サンチュ、大葉、細葱、キュウリ。エスニック料理好きです。
6月30日(土)
JR大崎で降りて、品川の原美術館へ。大崎には高校時代の友人が住んでいて、20年ほど前に来たことがある。駅前に巨大な駅ビルができているので驚く。たっぷりした空間。外国のよう。急な坂を上って美術館へ。ここも十数年ぶり。こじんまりした建物が隠れ家みたいだ。ヘンリーダーガー展「少女たちの戦いの物語-夢の楽園」。裸の少女たち、同じ服を着た少女たちが、遊び、いたぶられ、首を絞められている。絵画というよりイラストに近い。不幸な幼少年期を過ごしたダーガーの歪んだ時間が、少女たちの絵になっている。不気味です。
蒲田の知人宅を訪問。19時から池袋ジュンク堂で稲川方人さん、瀬尾育生さん、中尾太一さんによる詩のトークイベントを聞く。第一詩集を出した中尾さんの朗読から始まる。一行を息継ぎなしで読むというスタイル。その一行がとても長い。詩集はできたばかりで、これから発送されるそう。硬質なことばでガラスの片のようなフレーズを作り、それを変奏させることによって一編の詩が成り立っていることがわかった。
トークの内容については、まだまとまっていない。意味が壊れたところから、それを自覚しつつ書いている中尾さんの、詩に向かう姿勢と完成度の高い作品を稲川さんと瀬尾さんは評価なさっている。意味の解体を負って書かれた詩。中尾さんは自作についても、おそらくは今書かれているほとんどの詩に対しても悲観的であるように思える。多くの浮かれたところのある、自己陶酔が透けてみえるような詩に警鐘を鳴らしているとも考えられる。このイベントについてはまた改めて書こうと思います。
6月29日(金)
『櫻尺』30号とどく。鈴木東海子さん編集。執筆者は粕谷栄市・新井豊美・岩佐なを・國峰照子・時里二郎・太原千佳子・神尾和寿・嵯峨恵子・山口眞理子・小笠原鳥類・中村不二夫・井坂洋子・高貝弘也・鈴木東海子。わたしも「旧市街」という詩を載せてもらいました。連作にする予定で、まんなかから書いたもの。お読みになりたい方はメールくださいね。
ジョギングは続けています。まだ身体が重いけれど、少しずつ距離を伸ばしていければと思います。
6月26日(火)
ジョギングを始める。最近身体が重くなって、やばいなと思っていた。夕食の支度をしてから近くの公園へ。ちょっとしたジョギングコースがある。走り始めるときと終わった後の気持ちよさは何ともいえない。夜のメニューは鶏肉と根菜の煮物(ゴボウ、冬瓜、こんにゃく、エリンギ、大根、生揚げ)、鯛のカルパッチョ、冷奴、茄子の煮浸し。ヘルシーです。
土曜日に池袋ジュンク堂で19時からイベントがある。中尾太一さんの第一詩集出版記念ということで、稲川方人さんと瀬尾育生さんとのトーク「現代の詩を負う」。ぜひ行きたいと思っているのですが。要予約。飲み物付き1000円だそうです。
6月24日(日)
DVDで『キャッチボール屋』を観る。大森南朋主演・大崎章監督。舞台は都心の公園。ひょんなことから10分100円でキャッチボールの相手をする仕事を任されたタカシ。会社をリストラされ、酔った勢いで東京に出て来た30男である。大森南朋はテレビよりも映画のほうが合っていると思う。茫洋とした、どこか煮え切らないところがいい。前任者の部屋で生活しながら、わけありのお客たちとキャッチボールをする。売店のおばちゃん役の内田春菊が、ちょっとダサく色っぽくて存在感があった。
映画としては盛り上がりに欠ける。でもアーチのある公園やアパート、コインランドリーなど街の映像がよく、キャッチボール屋という発想もユニークで、わりと楽しめた。アドバイス付きなら10分1000円でもいいと思います。
6月23日(土)
『鰐組』222号に高橋馨さんが「ナジャ論」を書いている。20代のころに読んで、とてもおもしろいと思ったのだが、その後読み返すことがなかった。で、書棚の奥からアンドレ・ブルトンの『ナジャ』を引っ張り出す。訳は栗田勇・峰尾雅彦(1976年・現代思潮社)。霊能力のある若い女ナジャ。実在の作家たちが登場し、図版(写真や絵)が多数入っていて、素人作家が書いたような(失礼な表現ではありますが、翻訳のせいか入っていくのに時間がかかって)奇妙な小説なのだが、読み始めたら止まらなくなってしまった。新しい詩のヒントが見つかりそうだと期待しつつ、今日中に最後まで読もうと思う。
6月20日(水)
テレビで『電話で抱きしめて』を観る。甘いタイトルとはまったく違う、呆けた父と娘の物語。メグ・ライアン主演、ダイアン・キートン監督。ウォルター・マッソー演じるわがままで偏屈な父が、病院からイヴにしょっちゅう電話をかけてくる。ルームサービスがない、中華料理が食べたい・・・。メグ・ライアン演じるイヴはその度に姉(雑誌のカリスマ編集長)と妹(テレビドラマの女優)に連絡をし、一人で病院へかけつける。母に捨てられただめな父であるけれど、幼いころに愛された記憶があるから放っておけない。酔っぱらって孫のパーティをぶち壊し、イヴが生まれたときに母が「いらない」と言ったことを暴露するような最低の男である。
携帯電話でヒステリックに叫ぶシーンが多くて、ちょっと閉口した。でも今の自分にとって他人事ではないので、メグ・ライアンの魅力に引きずられて最後まで観た。
6月18日(月)
スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』を読み終える。報道写真を歴史的に検証して1冊の本を書いてしまうところがすごい。ソンタグは作家で批評家。
現代社会においてはニュースで流れる映像や『ニューズ・ウィーク』などの雑誌に掲載される写真を通して、世界で起きている悲惨事を知ることができる。大量の映像が送られることによって、残虐な行為に対する人々の感覚は麻痺していく。報道写真は、そんなわたしたちを立ち止まらせ、思考をうながしてくれるものである。
神山睦美さんの著書で「共苦-共感(コンパッション)」ということばを知り、とてもいいことばだと思ったのだが、報道写真を見ることは「共苦」の時間を得ることではないだろうかと思う。戦争、病、貧困、地球の温暖化。悲惨な写真を見ることには苦痛が伴う。それでも見ることを拒否したら、今のこの世界について考える契機を失ってしまうような気がする。きっかけがあれば何でも見たいし知りたい。そう思っています。
6月15日(金)
一生に一度はオペラを観たいと思っていた。市民ホールで9月にヴェルディの『椿姫』があるというので、思いきってチケットを購入する。ウィーンの森バーデン市立劇場の公演。市民ホールはドラマ『のだめカンタービレ』の撮影にも使われた、パイプオルガンのある大きな建物。オペラといえばドレス(?)。『プリティ・ウーマン』でジュリア・ロバーツが真っ赤なドレスを着て観劇するシーンはよかったなあ。市民ホールにはよく行くけれど、椅子がふかふかでなくカジュアルだけれど、やはり正装したほうがいいのだろうか。
近所の奥さんが、酒を飲まないご主人の趣味がオペラで、お金がかかるとこぼしていたのを思い出す。チケットが2万円と言っていた。有名歌手が出る特別な公演なのかもしれない。オペラってそんなによいものなのかと思ったのでした。
6月11日(月)
小池昌代さんの『裁縫師』(角川書店)を読み終える。小池さんには太古の女性のような骨太なところがあって、「女神」はそれがよく出ている短篇だと思った。魅力的な薬局の女性に骨抜きにされる男たちの話で、民話の趣がある。「野ばら」はどんな境遇に陥っても動じず、どっしりかまえる少女が主人公。この少女も旺盛な食欲と生活力を持っていて、とてもたくましい。芳醇な文章が描き出す妖しい世界を楽しみました。
6月10日(日)
昨日、写真展を見に行ってから、ずっと報道写真について考えている。イラクの今、戦後のチェチェン、フィリピンの少年刑務所、小児癌の少年、人身売買で娼婦にされた女性、バングラデッシュの働く子どもたち。わたしたちの目には「悲惨」と映る人々の姿に、人間の強さを見る思いがした。人間は与えられた運命を生きなければならない。どんなに過酷な環境にあっても生き延びる力をわたしたちは持っているのだと思った。
報道写真は、世界の真実を伝える。ニュースの映像はほとんどが記憶に残らないけれど、写真はある瞬間が切り取られ固定化され、何度も見ることによってわたしたちの記憶にくみこまれてゆく。
PHILIA PROJECTのパフォーマンスを観る。広河隆一さんの映像が流れ(チェルノブイリの村)、祥子さんが村人の名を次々に読みあげる。悲痛な声で叫ぶように。戦争で亡くなったひとたちの名前。静かにはじまった小沢恵美子さんのダンスがだんだん激しくなり、最後に救いを求めるように手を伸ばした。白い衣装に村の映像が映る。小沢さんの顔が涙で濡れていた。悲しみと祈りを表現するパフォーマンスだと思った。
6月8日(金)
明日、新宿のコニカミノルタプラザ(高野フルーツビル4F)で開かれているDAYS JAPANフォトジャーナリズム写真展に行く予定で、観客の感想などを見ていたら「目をそらさない勇気が必要」というコメントがあった。そうか心しておく必要があるのだなと思い、買ったままになっていたスーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』(北條文緒訳・みすず書房)を読み始める。
帯に「写真は戦争やテロに対して抑止効果をもつのか?」と書かれている。心の準備をしておけば、動揺しないで済むと思うのだけれど、「号泣した」という感想もありました。
6月6日(水)
神山睦美さんにお礼状を書く。やはり感想はメールではなくハガキや手紙で送りたい。さらに小柳玲子さんの詩集『夜の小さな標』(花神社)を読み、お礼状を書いた。早く書かなければと思うのだが、最近とみに筆不精になっている。
小池昌代さんの短篇集『裁縫師』(角川書店)が届いて、すぐに表題作と「女神」を読んだ。「裁縫師」はマルグリット・デュラスの世界を連想させる官能的な作品。「女神」は若い男が語るスタイルで、昔話のようなホラーのような不思議な話。
6月3日(日)
車で老親の住む街へ。家で不要になった掃除機を持っていく。入居して12年の間掃除機をかけていないという。最近は泊まると皮膚がかぶれる。埃のせいだろう。大量に発生したカビを取り、使っていない家電や食器、期限切れの食材をまとめて捨てた。80を過ぎた老親には、いつ何が起こっても不思議はない。
それにしても第三セクターの作った建物はひどい。住居のまんなかに洗濯機置き場があるというのがどうにも解せない。洗面所と風呂場から離れているのだ。どの部屋も壁紙が剥がれかけ、管理人の姿はなく、全体の4分の1くらいしか入居していないという状態。土曜日の地震でエレベーターが止まり、普段は絶対に使わない急階段を上った。手すりもない。設計者は年寄りのことなど考えてもいないのだろう。
佐藤亜紀の『雲雀』を買ってみた。第一次世界大戦中の特殊工作員を主人公にした連作短篇集。暗い気持ちになって、読むのをやめた。
6月1日(金)
『夏目漱石・・・』を閉じて、今まで理解できたことを反芻してみる。漱石は43歳のときに30分間の〈死〉を体験した。そのことが契機になって、存在について考えたことが、作品にあらわれる。漱石はまず世界を俯瞰する位置を設定するために、主人公を社会から追放する。いわゆる「高等遊民」という設定。彼らの悩みは自己の内面で展開する。実体のない嫉妬や疑念に向き合い、存在の意味を自問しつづける。
漱石は苦悩する主人公の内面、その思考の変化をていねいに書いていく。それまでの日本のリアリズム小説にはなかったスタイルであり、世界を見渡して優れた文学や新しい哲学を取り入れつつ、生み出したものといえる。
というところまでは把握できたと思う。
5月31日(木)
神山睦美さんの『夏目漱石は思想家である』(思潮社)読了。漱石といえば文豪、今読んでも新しさを感じる、すぐれて現代的な文章を書いた明治の作家。そんなものではないということが、この本を読んでわかった。世界文学最高峰のドストエフスキーやトルストイと同等のレベルに達した小説家であること、存在論への興味と思考が作品に取り込まれていることなどを知った。感想がまだまとまらないので、時間をおかずに読み返すことにする。
今週末6月2、9、10日にPhilia Projectのダンスと映像パフォーマンス「沈黙の未来」があります。映像は広河隆一さん、演出は二瓶龍彦さん。場所は新宿の高野ビル4階。無料。お時間のある方はぜひ。わたしも9日に見に行く予定です。
5月28日(月)
『新潮』6月号を買う。月刊文芸誌を買うのは2年ぶりくらい。小池昌代さんの短編小説「タタド」を読む。「スワッピング」という、やや古くさいことばが評にあるが、一組の夫婦と、友人である客の男女4人が海辺の別荘で一夜を過ごす話。全員五十代という設定で、それぞれに病や不安を抱えている。ふっくらした潤いのある文章と性や身体に対する大らかな表現。会話がとても自然で、うまいなあと思う。
川端康成賞にふさわしい、官能的で幻想味のある小説。詩人のまなざしが随所に織り込まれている。小池さん、おめでとうございます。
5月26日(土)
入院している義父が一時帰宅をするので、新幹線で北関東の実家へ。掃除と洗濯をし、ゴミを捨てる。車中で長嶋有の『猛スピードで母は』(文春文庫)を読む。久しぶりの軽い読書。壊れているのにどこか明るい家族の話が二つ。2001年に文學界新人賞を受賞した「サイドカーに犬」は、母親が出て行って、中古車販売をやっている遊び人風の父と暮らす少女、薫が主人公。食事を作りに通ってくる洋子という女との間に友情が芽生える。洋子は父の愛人らしいのだが、意志が強く行動力のある若い女性。
表題作は2002年に芥川賞を受賞している。母子家庭の話。好き勝手に生きる母と学校でいじめに遭っているの息子。母は一人前の大人を相手にするように息子に接する。強い母である。この明るさは著者が1972年生まれの男性だからか。家庭の崩壊が文学のテーマであった時代が終わり、変則的な家族形態がめずらしくない社会になったから生まれ得た小説だと思う。
5月24日(木)
神山睦美さんの評論『夏目漱石は思想家である』の六章は、クレーの「新しい天使」の絵をベンヤミンが「歴史の天使」と呼んだという話から始まる。そういう記事をスクラップしておいたことを思い出して、読んでみた。細見和之さんの「瓦礫の蓄積としての歴史-ベンヤミンがクレーの天使に託したもの」(2003年5月5日・朝日新聞夕刊)。アメリカが国連の承認を得ないまま開始した対イラク戦争が終結して二週間たった時点で書かれたエッセイである。
数日前に届いた桐田真輔さんの『断簡風信』221を開くと、『ベンヤミンの迷宮都市』(近森高明著・世界思想社)という本が紹介されている。ベンヤミンの研究書だそう。読んでみたい。読書の楽しみの一つは、読むべきものがこんなふうにつながっていくことだろう。
5月22日(火)
夏目漱石の『彼岸過ぎ迄』には須永市蔵という男が登場する。漱石らしくない名のつけかただと思う。音も字もかなり重い。須永という名字は群馬県に多いらしい。
「須」も「永」も自然の事物をあらわす漢字ではない。「紀」も同じ。名前はヒトの運命に何らかの影響を及ぼすのだろうか。
5月19日(土)
車で都心へ。初めてナビを使う。わたしは助手席で道路地図をチェック。所沢街道から青梅街道、環八。都内は車線が複雑だなあ。怖ろしい。こんなところは走りたくないと思う。芦花公園、多摩美などを通過。帰りは五日市街道を通って、吉祥寺を抜けて行った。武蔵野市役所周辺の桜並木(?)がとてもきれい。電車では見ることのできない街道沿いの風景を楽しんだ。
5月18日(金)
この1か月、外出もままならない状態だったのだけれど、それも一段落。と思ったら、義父がまた入院したという電話が来た。検査のために何度も胃カメラを飲まされているらしいが、声が明るいので少しは安心。川柳が入選したといっては図書カードを送ってくれる。呆けた義母のために1日でも長く生きてほしいと思う。
家では『夏目漱石は・・・』、病院ではハイデガーを読んでいる。「もっとも自己的な究極の可能性はおのれの死」。何だかいつも「死」について考えているような気がする。
5月13日(月)
神山睦美さんより『夏目漱石は思想家である』(思潮社)とどく。こういう本が読みたかった。「人間いかに生きるべきかという素朴な問いを考え尽くした夏目漱石」に迫る長篇論考。最近なかなか詩集を読むモードに入れず、先延ばしにしている。この本を読んでからまとめて詩集を読む予定です。送ってくださったみなさん、ちょっと待っていただけますか。
漱石の研究者といえば弟子の小宮豊隆。中学・高校のクラスメートに小宮豊隆の孫娘がいた。とても頭のいいひとだったことを思い出した。
5月10日(木)
母の三回忌。いろいろな事情があって、一人でお墓参りに行く。この二年のあいだに何度もお寺に行った。お花やお線香を売っていた腰の曲がったおばあさんの姿は見られなくなり、小さかった黒猫が少しだけ大きくなった。ひとは生きているときと同じように死んでいく。母が死んでわかったことである。何も思い出のないことが悲しく不思議なことに思える。
車中で木田元(編著)「ハイデガー『存在と時間』の構築」。難しくて何度も同じページを読む。最近は哲学の本を読んでいるときだけ余計なことを考えずにいられる。
5月8日(火)
10日(木)から12日まで、神田岩本町のギャラリー「サージ」で、麻生アユミさんのダンス・ソロ「和解のとき」第1部「不在者の場所から」があります。二瓶龍彦さん設計の公演です。お時間のある方はぜひお出かけください。
中島義道の『哲学者というならず者がいる』(新潮社)をとてもおもしろく読んだ。哲学を研究するだけではなく、つねに丸ごと哲学者として生活するとはどういうことか。それについて書いている。ひとに嫌われ、狂人扱いされ、長い不遇時代を耐えて哲学者になったひとの文章にはやはりちからがある。
5月4日(金)
北浦和の埼玉近代美術館へ。「澁澤龍彦-幻想美術館」を観る。没後20年を記念して、澁澤が称賛した美術家の作品を展示している。埼玉の名家に生まれ、恵まれた少年時代を過ごした作家。批評家で仏文学者でもある。7つの部屋のすべてに解説のパネルが置かれ、年譜と活動がよくわかるようになっている。
ブリューゲル、ピラネージ、モロー、ルドン、ゾンネンシュターン、バルテジュス、ダリ、伊藤若沖、池田満寿夫、横尾忠則、四谷シモン、合田佐和子、野中ユリなどの膨大な作品を見て、「少年時代」と「玩具」が澁澤を解くキーワードではないかと考えた。奇形の人形や緊縛された女性の裸体、カトリーヌ・ドヌーヴ。壊れたもの、壊したもの。女には理解できない世界なのかもしれないと思う。
近くにあるチェーン・レストランMへ。ここはセットメニューの豚汁が美味しい。上質の味噌を使っているのだろう。とても上品。肉料理ももたれず、ファミレスと全然違います。
5月3日(木)
某HPの連句に参加しようと思った。前回は投稿を控えて(そんなレベルではないので)、投稿句とコメントを毎日チェックして、少しは学んだつもりになっていた。でも何時間考えてもまともな句は出てこない。そこの主宰者であり捌きをなさる先生に、俳号を変えて参加してみたらどうかと勧められたので意気込んでいたのだけれど、まだ早いみたい。
この間に清水哲男さんの『打つや太鼓』、吉本和子さん(吉本隆明夫人)の『寒冷前線』、辻征夫さんの『貨物船句集』などを読んだ。もっと読んで、下手でもどんどん作ること。ノートを用意したのだが、書いては破るを繰り返している。
4月29日(日)
苦しんで仕上げた詩を投函し、さわやかな気分。GWの恒例になった所沢市民吹奏楽団の定期演奏会に行く。ほぼ満席で、指揮者のみえる3階席へ。2部は団員である知人のYさんが指揮をする。Yさんは毎年演奏会の案内を送ってくださる。「仁義なき戦いのテーマ」「男はつらいよ」「チャップリン・メドレー」「パイレーツ・オブ・カリビアン」。みんなが楽しめるプログラムになっていて、団員さんの踊りやコントもある。
3部に棒を振ったのは家田厚志さん。劇団四季のミュージカル「オペラ座の怪人」の日本初演を指揮して劇的な成功を収めたひと。登場すると会場がどよめいた。黒に赤や黄の図形が描かれたサイケなシャツを着ている。派手である。繊細にして大胆な指揮に目が離せなくなった。『日本むかしばなし』の常田富士男に似た愛嬌のある顔の表情がくるくる変わる。曲はバーンスタインの「キャンディード」とJ・ウィリアムスの「スター・ウォーズ・トリロジー」。アンコールは「卒業写真」と「宇宙戦艦ヤマト」。この選曲、同世代を感じます。
全身で音楽を表現する家田さんの姿に感動。目がウルウルになって困った。
4月27日(金)
地域の情報紙を見ていたら、尾崎翠の小説が映画化されたという紹介記事があった。見たいなあ。松戸出身の若い女優さんが主演、監督は浜野佐知さんというひと。『こほろぎ嬢』『歩行』『地下室アントンの一夜』を一本のストーリーとした恋物語だそう。5月5日(土)〜18日(金)、シネマアートン下北沢で上映とのこと。シネマアートンはかわいらしい小さな劇場です。うーん迷うなあ。
4月25日(水)
ウィリアム・トレヴァー『聖母の贈り物』(栩木伸明訳・国書刊行会)読了。短編小説集というより中篇小説集という趣。どの作品もずっしりとした手応えがある。家族のつながりを描いたものが多いのはアイルランドという土地柄だろうか。今朝の朝日新聞で加藤典洋さんが絶賛していたので驚いた。厚い本で、実は二作品は途中でギブアップしたのでした。
ところで「ポンコツ車」として「トヨタ」の名前が出ていた。こんなに高齢な作家にとってもトヨタは身近な車であるというのがすごい。
4月23日(月)
病院や郵便局の待ち時間に『ハイデガー「存在と時間」の構築』(木田元編著・岩波現代文庫)を読んでいる。ハイデガーと同年生まれのウィトゲンシュタインが、直接ハイデガーに言及して言ったことが書かれていて、とてもすばらしいと思ったので写してみます。
私はハイデガーが存在と不安について考えていることを、十分に考えることができる。人間には、言語の限界へ向かって突進しようという衝動がある。たとえば、なにかが存在するという驚きを考えてみるがいい。この驚きは、問いの形で表現することはできないし、また答えなど存在しない。われわれがたとえなにかを言ったとしても、それはすべてアプリオリに無意味でしかない。それにもかかわらず、われわれは言語の限界へ向かって突進するのだ。(1929年、シュリック家での談話、「ハイデガーについて」)。
4月19日(木)
『無灯艦隊』という西川徹郎さんの句集をいただく。未知の方である。「天才と呼ばれた少年詩人の〈十七音の銀河系〉」、西川徹郎文學館記念出版と帯にある。昨年あたりから句集や歌集がよく送られてくるようになった。なぜだかわからない。俳句も短歌も好きである。けれどもあまり読んでいないので知識がなく、何を読んでも「ほう」と感心してしまう。だからお会いしたこともない方が送ってくださっても、うまく反応できなくて心から申し訳なく思う。
などと言っている暇に読めばいいのですよね。読んでみます。
4月17日(火)
家族の付き添いで病院へ。待合室で佐藤正午の『小説の読み書き』をたっぷり読む。最後に自作『取り扱い注意』について書いているが、これはつまらなかった。わたしがその小説を読んでいないためでもあるだろう。何だか言い訳みたいだ。一読者としての距離を持てていないと思う。
最近のヒッはベーコンと納豆のチャーハン。よく炒めると納豆のねばりが消えて意外な美味しさです。ベーコンは細かく、味付けは納豆のたれ。もう一つは空豆とタコ。にんにくと塩、胡椒で味付け。
4月14日(土)
『ジョゼと虎と魚たち』をビデオで観る。妻夫木聡&池脇千鶴。犬童一心監督。原作である田辺聖子の短篇を二十代のころ読んだ。つまり古い小説を映画化したということになる。体が不自由で隔離されたような生活をしている若い女くみこ。大学生の恒夫は偶然知り合った風変わりなくみこに惹かれる。ここが今ひとつわからない。くみこは口が悪い。育ててくれている祖母とそっくりの声で同じような話し方をする。料理がうまく、学校教育は受けていないが、たくさん本を読んでいる。恒夫は麻雀屋でバイトをしている女たらし。基本的にヒトが好きで、ヒトを惹きつけるものを持っている。
今どきの若者である恒夫はくみこについていけなくなる。別れた後、恒夫は道の真ん中で号泣するが、くみこは一人で新しい生活を始めるというラストはよいと思った。大阪弁と妻夫木くんの自然な演技がこの作品を温かなものにしている。オダギリジョーと妻夫木くんには甘くなってしまいますが。
4月12日(木)
よこしおんクラブの掲示板で、『スーハ!』の同人である佐藤恵さんが、好きな詩集として稲川方人さんの『君の時代の貴重な作家が死んだ朝に君が書いた幼い詩の復習』(1997年・書肆山田)を挙げているのを見て、全詩集を読み返している。こういう詩が書きたいと思う。どういう詩かきちんと説明はできないのだけれど、行き詰まっている今、必要なのはこのような詩集だと思った。ちょっと古い言い回しになるが、「ことばが屹立している」。時に意味を断ち切り、遠くへ飛ばしながらも体温を感じさせる詩のことば。
4月11日(水)
佐藤正午『小説の読み書き』(岩波新書)。樋口一葉の『たけくらべ』の章がとてもよい。恥ずかしいことに、わたしは一葉を読んでいない。森鴎外も未読。文語体の小説は敬遠してきた。不勉強を反省。『たけくらべ』の各章は動詞で始まり、最後は台詞で締めくくられていると書かれていた。大変に驚いた。何と新しいスタイル。やはり一葉は天才だと思う。
また、この作家は国語の教科書に載っていた井伏鱒二の『山椒魚』を読んで退屈したという。わたしもそうだった。教科書に載っっている文学作品に感動したことはほとんどない。モーパッサンの短篇『ジュール叔父さん』と小林秀雄のエッセイ『当麻』くらい。佐藤正午は1955年生まれ。同時代を感じて、うれしくなる。
4月7日(土)
先輩たちと恒例のお花見。山菜おこわ、菜の花のからし和え、空豆の塩ゆで、煮物、卵焼きを作る。桜の花が散って吹雪のように寄せてくるのもまたいいものです。ただフェスティバルをやっているらしく、バンドやカラオケ、ダンスなどいろいろな音楽が聞こえてくるのが興醒め。山奥にでも行かなくては本当のお花見はできないのかもしれない。
桜といえば西行。「吉野山 こずゑの花を見し日より 心は身にも添はずなりにき」。だんだんこういう境地がわかるようになってきた気がします。
4月5日(木)
図書館の方たちとお花見をする。イベントの記録集が完成したことと司書さんのお別れ会を兼ねて航空公園に集合し、ランタンの下で飲み会。寒いので焼酎のお湯割り。
『メゾン・ド・ヒミコ』をビデオで観る。柴咲コウ主演、監督は犬童一心。ゲイの老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」が舞台。柴咲演じるサオリはひと夏そこでアルバイトをする。サオリと母を捨てたゲイの父ヒミコがオーナーで、父の恋人である春彦(オダギリジョー)が運営している。日曜日の持ち寄りブランチ、ゲイの青年たちを招いての流し素麺、お盆の準備(提灯を吊るし、皆でおはぎを作り、持っている親族の写真をすべて飾る。キュウリとナスで作った馬と牛がベランダいっぱいに並べられているシーン)など遊び心にあふれている。
柴咲コウの他オダギリジョーがよかった。サオリに惹かれて抱こうとするのだが、どうしてもできない。そのせつない気持ちと緊張がまっすぐ伝わってきた。ヒミコは末期ガン、入居者のルビーが脳卒中で倒れて、平穏な日々の土台が崩れていく。死が確実に近づいてきたことで、本人も入居者たちも今まで見ないようにしてきたものと直面しなければならなくなる。前半おもしろく見ていたけれど、死の準備ということを考えさせてくれる映画だった。
「母のためにあんたが許せない」と父をなじるサオリに、ヒミコは「わたしにもひとこと言わせて。あなたが好きよ」と言う。思いがけない台詞に泣きそうになりました。
4月2日(月)
先日、林心平さんより『札幌はなぜ、日本人が住みたい街No.1なのか』(柏艪舎)をいただいた。林さんが初めて出された本である。東京生まれで札幌住まい16年になる林さんが、その文化や自然、農業などについてアンケートやデータを盛り込みながら、温かみのある文章で札幌の魅力を紹介している。わたしは3回札幌に行ったけれど、いずれも8月。「サッポロ・ジューン」と呼びたいくらい6月がすばらしく美しいと林さんは書いている。
林心平さんは数年前にアニー・ディラードの『本を書く』を検索中に、このページに立ち寄ってくださった方。それから冊子やメールのやりとりが始まった。『本のすすめ』という手作りの冊子に拙詩集を紹介してくださったり、詩誌『雨期』にも寄稿していただいた。農業が専門で、家族と料理と本をこよなく愛する優しいお父さん。3人のお子さんは自宅出産。彼のHPでその記録を読むことができる。お会いしたことはないけれど、ほのぼのとした林さんのお人柄が伝わってくるサイト。
著者紹介を見て、林さんが立松和平さんのご子息であることを知った。本の出版を機に執筆生活に入られるそうである。これからどんなものを書かれるのか楽しみです。
4月1日(日)
ずっと行きたいと思っていた八高線の金子駅の桜を見に行く。映画のロケにも使われたと何かに書いてあったので、松たかこ主演の映画『四月物語』の風景を想像していた。けれどもずいぶん違った。駅舎は小さくて、待合室には素朴な木のベンチが2つあり、なかなか絵になる。桜の木は道の片側に数メートルあるだけ。駅を背にして立つと真っ白な桜並木が続いているのだろうと思っていたのに、ちょっとがっかり。地元のひとが桜まつりをやっているのをのぞいてみた。広場に屋台がびっしり並び人々が列を作って身動きが取れない。せっかく評判の駅舎があるのだから、町ぐるみで観光客を呼び込むことを考えればよいのにと思った。住民は線路際にシートを敷いてお花見。売店のような店が一軒あるだけで、土産物屋も蕎麦屋もない。まつり用と覚しきテントでは、ハッピ姿の男たちがおしゃべりをしている。


帰りの電車を待っていたら、広場からバンドの演奏が聞こえてきた。加山雄三とザ・ベンチャーズの曲。真夏のビアガーデン風。何か日本映画みたいだ。地元では人気者の青年が町の催しでエレキギターを弾いて喝采を浴びているシーンが浮かんだ。ルックスも悪くないし女の子にもてる。でも・・・と彼は思う。ちがう、こんなんじゃない・・・と考えていたら楽しくなってきた。
3月31日(土)
佐藤正午の『小説の読み書き』(岩波新書)を買う。amazonで「お薦め本」に入っていたから。「○○さんへのお薦め本があります」と書いてあると何だかうれしい。この作家は未読だった。若いひとかと思っていたら、一つ上。いわゆる文章読本で、文章が柔らかく、同時代であることを感じる。
それから中島義道の『哲学者というならず者がいる』(新潮社)。今いちばん哲学というものに興味がある。ハイデガーの入門書を読んで、今からでも遅くないと思った。この人は毒舌だし、ちょっと胡散臭いところがあるけれど、正直なところが信頼できると思う。
3月27日(火)
図書館関係の人と市内の文学碑を見に行った。5月に行われる文学散歩の下見。西武球場前駅に隣接する狭山不動尊に寄る。全国の寺からお堂や灯篭を集めて造った不思議なところ。そういうの、あり?誰か反対しなかったのだろうか。丘の上に建てられているので眺めはよいし、それなりに立派ではある。でも何だか胡散臭い。
その隣が悪名高い山口観音。けばけばしい朱色の塔で、周囲にはネパールや中国から移築したお堂が異国情緒たっぷりというより妖しげな雰囲気。塀の上に這う緑の竜やコロシアムみたいな水子霊園。悪趣味だ。ジョークなのだろうか。
文学碑はその奥にひっそりとあった。所沢ゆかりの打木村治、高橋玄洋、檜紀代、儘田司水(水道局長だったということで、碑は貯水池に面している)など。そこから下山口駅で降り30分ほど歩いて北野天神へ。長い参道の古い寺。前田利家が植えたという「天神梅」がある。ほんとかなあ。昔旅芝居をやったという舞台小屋(?)が境内にあった。古びていて、使われている様子はないのだけれど、なぜか惹かれる。
3月26日(月)
佐藤恵さんより『スーハ!』創刊号をいただいた。表紙の写真がすばらしく、レイアウトもセンスよく、若い詩人たちの力を感じる。同人は大澤武、香村あん、佐藤恵、中島悦子、野木京子、八潮れん。圧倒されています。
3月25日(日)
『聖母の贈り物』のなかの「ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳」がすばらしくよかった。アイルランドに住む家族の話。「神様が面倒見てくださるだようよ」と両親が心配する末っ子が主人公。修理工場を営む父と叔父、母と5人兄弟の暮らしの描写がセピア色の映像になって現れてくるようだ。薄暗い食堂兼居間、立ち釘に刺した請求書の束、壁紙のあせた男の子たちの寝室、パブとドッグレースと母親の怒り、夕食の揚げパンと玉子焼き。
少年時代の日々が、主人公の後の悲劇を際立たせるものになっている。スチュアート・ダイベックの連作短篇集『シカゴ育ち』や『僕はマゼランと旅した』に通じるものがあると思う。
3月23日(金)
小池昌代さんが薦めてくれた短篇集『聖母の贈り物』(国書刊行会)を読んでいる。著者のウィリアム・トレヴァーは1928年アイルランド生まれ。ていねいに年を重ねたひとならではの手堅い作風。やや古風な恋物語「イエスタディの恋人たち」にはビートルズの曲が出てくるので驚く。、同時代の作家なのだ。また「こわれた家庭」は一人暮らしの老女が主人公。ロンドンが舞台のつましい生活描写にカポーティの名作「ミリアム」を連想し、調べてみたらカポーティは1924年生まれだった。こちらはニューヨークの話で、やはり一人暮らしの老女が主人公である。ひそかに「やった!」と思う。
「こわれた家庭」のミセス・モールビーは「昔から、みんなで陽気に楽しみましょうみたいなのがとにかく大嫌い」。わたしもこういう偏屈なお婆さんになるのだわ。
3月22日(木)
朝目が覚めて「わたしたちのために たった一つの この歌のために」という曲が浮かんできた。何だっただろうと考えたら、祥子さんが歌っていた曲だった。守中高明さんの詩「世界、終わりなき傷」のラスト。音楽のちからはすごい。
詩誌『一個』創刊号を読む。同人は井坂洋子・佐々木安美・高橋千尋。井坂さんの後記代わりの「ごあいさつ」に、新たに詩誌を始める清々しい姿勢がみえて、わたしも背筋を伸ばさなければと思った。しかしうまいなあ。i井坂さん、佐々木さんの完成度の高い作品を読んでいると、自分がいわゆる〈現代詩〉から逸れていることに気づかされる。ここ数日いろいろ考えこんでいる。
3月20日(火)
イラク開戦から4年。PHILIA projectの公演はこの日に行われた。「知ること、記憶すること、祈ること。わたしたちにできることはそういうことではないでしょうか」と祥子さんは言った。彼女の熱唱の間に、二瓶さんの軽妙なギターがいい感じに入る。これで4回聴いたけれど、毎回アレンジが変わり、今回は新しい曲も加わった。
現代詩を歌うというのは難しいことだと改めて思った。ことばが重いので、聴く側は意味を追いかけることになる。音楽を楽しむよりも、ことばを受け取ろうと真剣に耳を傾ける。そして自分の思いに沈んでゆく。歌と現代詩の〈距離〉を感じることがこのライブの醍醐味であるかもしれないと思った。
ミニヨンはクラシックな雰囲気の心地よい空間。瀬尾育生さんと中尾太一さんがいらしていた。飲みたいのを我慢して帰宅。
3月18日(日)
来週20日(火)に荻窪の喫茶店ミニヨンで祥子さんのライブ『悲劇の恋/歌』があります。19時開場、19時30分開演。お時間のある方はぜひ。ギターは二瓶龍彦さん。昨年の12月に聴きましたが、キーボードとはまたちがった魅力がありました。わたしも行きたいと思っています。荻窪は久しぶり。といっても通過するときに関西風うどんの店に寄るか、古書店を回るくらいのもの。阿佐ヶ谷に住んでいたころは、よく荻窪で飲みました。
『ハイデガー〜存在の謎について考える』(北川東子・NHK出版)を読み終える。学生時代、哲学にはまったく興味がなかった。ハイデガーの研究者だった教授が熱く語っていた授業を思い出し、書棚にあったこの本を開いた。わたしが今もとめていることばが書かれていると思った。自分に引きつけて納得したのは、「一般性と現状に甘んじてしまうと、自分が自分であるという生き方をすることはできない」ということ。読んでよかった。
3月14日(水)
今朝起きたら、顔がかぶれてまだらに赤くなっていた。昨日ふとんを干して、花粉を払わずに寝たからだ。花粉のちからは怖ろしい。これではデートにも行けない((?)。肌がむずむずする。かゆい。で、障子の桟や書棚の拭き掃除をした。日頃取りだすことのない全集物や古い本に埃が積もっている。これでは身体がおかしくなるのは当然だ。雑巾で一冊ずつ拭いていく。
蔵書の多い方はどうしているのだろう。やっぱり年に一度くらいは出して埃を払うのか。エリナー・ファージョンの『ムギと王様』のまえがき(記憶が曖昧)に、家中の本を開いて広げる一日のことが書かれていた。そのとき金色の埃が宙を舞うのだ。高校生のころ、ファージョンの童話がとても好きだった。
3月12日(月)
『UDON』をビデオで観る。監督は本広克行。『サマー・タイムマシーン・ブルース』もなかなかよかった。昨年派手に宣伝していた映画。とにかく香川の風景が美しい。本物のうどん屋のおばちゃんがゆっくり麺を茹でるシーンがよかった。
90年に村上春樹が「讃岐・超ディープうどん紀行」(『辺境・近境』・新潮文庫)を書いている。十数年たってやっと全国的なブームになったということになるだろうか。関東には讃岐うどんの店は少ない。関西風のうどんの店もなかなか見つからない。出汁のきいたつゆとコシの強い麺。毎日でもいいな。
3月9日(金)
『グレート・ギャツビー』読み終える。物語の語り手であるニックはギャツビーの隣人であり、ギャツビーの恋い焦がれるデイジーの遠い親戚。贅沢で怠惰な暮らしに慣れた人々と一線を画したニックが村上春樹と重なってくる。ギャツビーはデイジーに接近するために対岸の屋敷に住み、毎夜贅を極めたパーティを催す。デイジーを一途に愛し、尋常でない生涯をたどるギャツビーの哀しさ。
長いあとがきに、フィッツジェラルドの天才ぶりが説明されている。デコラティブな訳文から、時代の寵児であった作家独特の文学世界がうかがえる。登場人物の意識の流れが主に会話によって表現され、ストーリー展開も推理小説のように巧みだと思った。
3月5日(月)
ポエトリージャパンのトップページに「旅の時間」という詩を書きました。小さな詩です。
長谷川櫂『一億人の俳句入門』を読んでいる。授業のように繰りかえし基本を教えてくれるのが、初心者にはありがたい。「一物仕立て」(一つの素材を詠む・散文的)と取り合わせ(二つの素材を組み合わせる・俳句的)が俳句の二つの鋳型であるということを初めて知った。自分の句が下手でつまらないのは、「一物仕立て」ばかりで、変形させることもしていないからだとわかった。お薦めです。
3月2日(金)
フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』(中央公論社)を読み始める。村上春樹訳。ロバート・レッドフォードとミア・ファーローの写真が表紙の『華麗なるギャッツビー』を読んだのはずいぶん昔のことである。
村上春樹が訳してもシンプルとはいえない、複雑な屈折のある文章。冒頭から静かな悲劇の匂いがしている。
2月28日(水)
NHKの『あの歌が聞こえる』を見た。視聴者からとどいた青春の思い出を、当時の曲とからめて漫画家が描く番組。きょうは中村雅俊の「ふれあい」で、漫画はわたなべまさこ。驚いた。かなりの高齢なはずだけれど、華奢な少女の絵はむかしと変わらない。40年ほど前に週刊『マーガレット』で連載をもち、人気のあった漫画家である。
ミジンコという生物がいることをこのひとの「ミミとナナ」という漫画で知った。双子の父親がミジンコの研究者という設定だった。懐かしかった。
2月23日(金)
演出家の二瓶龍彦さんが『ほんつな』「フラスコの宇宙」に『中空前夜』の感想を書いてくださいました。ありがとうございます。
『雨期』48号ができあがる。アンケートは「人類がつくった愚かなもの」。執筆者は古内美也子、荻悦子、原口哲也、北野英昭、須永。表紙はプラムレッド。今回も書けなくて苦しんだ。いつも、もうだめだと思いながら、何とか一篇の詩を書く。誰かにとどきますようにという願いをこめて。
2月22日(木)
家族の薦めで、あさのあつこ『バッテリー』(角川文庫)を読んでいる。天才ピッチャー少年の話。映画公開も近い話題作である。おもしろい。中学入学前という設定だが、主人公も他の少年たちも強烈な個性を持つ大人のように描かれている。舞台は岡山県。すごい才能があって気むずかしい主人公の巧、バッテリーを組むことになる大らかな豪、ひとを惹きつける力を持つ巧の弟、青波。岡山弁がやわらかく心地よく思える。
児童文学書ではない。ヤングアダルト小説ということになるだろうか。毎週土曜日に放映しているアニメ『メジャー』の世界に近い。
2月20日(火)
書棚の奥からフェルナンド・ペソアの『不穏の書、断章』(澤田 直訳・思潮社)を引っ張り出し、あとがきを読んでいて、ヴィム・ヴェンダースの名前を見つけた。調べてみたらヴェンダースは1995年に『リスボン物語』という映画を撮っている。知らなかった。ビデオ店で見かけたことがない。評価は分かれるようだけれど、何とか探して観たいと思う。
歯科衛生士さんに、歯がすり減るから、食いしばる癖を直すようにと注意される。上の歯と下の歯を合わせることも「食いしばる」というのだそうだ。上下の歯の間をあけておくのがふつうの状態らしい。初めて聞いた。
2月18日(日)
週末は北関東の義父母の家へ行った。買い物の途中に義父が狭心症の発作を起こしてパニックになる。会うたびに義母の痴呆が進んでいる。二人とも耳が遠いので、何かあったときに対処できるかとても心配である。
車中で茂木健一郎の『生きて死ぬ私』(ちくま文庫)を読む。若き日(33歳)の著作。「脳内現象である人間の心とは何か」についてわかりやすく書かれている。最近はこういう本に興味がある。あらゆるジャンルに天才と呼ばれるひとがいるが、宗教的天才は出にくいという話がおもしろかった。宗教的天才は人類に最大の寄与をするという。イエスとブッダ。これからもっと偉大な天才が出てくるのだろうか。
2月15日(木)
所沢図書館の『今月の図書館』という冊子に、「特別な一日」の一部が引用される。駅前の女神像のことを書いているのを図書館の方が調べてくださった。新所沢駅は1959年、女神像のある噴水は翌年建設されたとのこと。タイトルは「歓び」。写真も入っている。こんなふうに読んでもらって、とてもうれしい。
2月14日(水)
『最後の場所で』読了。戦争中に医務士官だったドク・ハタは同胞の慰安婦を愛するが、彼女は酷い最期を遂げる。罪の意識が彼を苦しめ、他人と距離を必要以上にとるという生き方を選ぶことになる。「礼節を重んじる」その態度が周囲のひとを遠ざけることにもなってしまう。それでもひととのつながりを求めずにはいられないハタの孤独。
慰安婦と兵士の愛。ありえないもののように思えるが、リーの静謐な文章は、若い二人のあいだに芽生えたものを誠実に描き、悲劇的な結末を運命としかいいようがないと納得させてくれる。ラストは死の方向かと思ったが、そうではなく希望が用意されていて、若い作家らしいと思った。
2月11日(日)
田中佐知さんの詩集『砂の記憶』(思潮社)について書いている。2004年に癌のため59歳で亡くなった詩人。翌年弟さんが図書館のイベントにいらして、佐知さんの存在を知ったのだった。発表する予定は今のところない。闘病生活をしながら書き続けたという砂をめぐる詩篇。亡くなられた年に発行された代表作といえる詩集である。女性らしい感性と平易なことば。十分に美しい詩であるけれど、もう少しで観念の世界を突き破ることができたのではないかと思えてならない。詩に関するエッセイが一つ収められていて、この詩人が現代詩に対していかに真摯に向き合おうとしていたのかがわかる。
地域の情報誌を見て、おいしいと評判の蕎麦屋に行く。まだ新しい小さな店。「店主は、そば通の間では知らない人はいない高橋邦宏氏に師事し三年間修行した」と書いてあった。まずそば茶とお盆に載った薬味が出てきて、かなり待たされたけれど、それだけの価値がある麺だった。冬季限定の牡蠣そばを頼んだら、こぶりな牡蠣の揚げ物が7つほど入っていて、すばらしい美味しさでした。幸せ。
2月10日(土)
アイロン掛けの途中と寝る前にチャンネ・リーの『最後の場所で』(新潮社)を読んでいる。著者は1963年韓国生まれ。3歳からアメリカ在住という。この若い作家が書くのは日系二世の老人ドク・ハタの人生。ニューヨークの郊外を舞台に、住人の尊敬を集める紳士の生活が綴られる。感情を抑えた静かな文章。長篇である。
養女サニーが男と住む家を覗きに行くシーンにハラハラ。こういう映画があったなあ。高校生の男女がたくさん集まって馬鹿騒ぎをしている。寝室に消えるカップルもある。シビル・シェパード主演だったか。『ラスト・ショー』のような気もするけれど、記憶が曖昧。
2月8日(木)
『雨期』の入稿。印刷所は仕事がたてこんでいて、できあがるのは奥付に記した日より少し遅れるという。
三崎亜記の『となり町戦争』(集英社文庫)をおもしろく読んだ。となり町との戦争が共同事業として行われるという発想がユニーク。町役場から偵察業務の任命書がとどき、「僕」は好奇心から従事することになる。役場の「香西さん」との偽装結婚。一般のひとには見えないところで行われるが、死者も出る不思議な戦争。よくできた小説である。
2月7日(水)
昨夜は2回目なので、さほど緊張することなく読み終えた。ただ途中で意識が遠のくような感じになり、ああどうしようと思った。すぐに元に戻ったけれど、60分はほんとうにきつい。『中空前夜』1冊すべて読んでも45分。15分余る。それで作品についてしゃべってしまう。
聴いてくださったのは、ずっとお会いしたいと思っていた木津直人さん、図書館関係の方が二人、連句の先生、若い女性が二人、薦田愛さん。田川紀久雄さんと坂井のぶこさんがビデオを撮ってくださる。終わって薦田さんと天童さんからアドバイスをいただく。この会場、ギャラリー・アート・ポイントは声がよく響く。猫もいるし、久里洋二さんの絵が飾られている。それで気持ちがずいぶん楽だった。
2月5日(月)
『雨期』48号の編集が終わる。めでたい。明日は朗読なので、入稿は明後日になる。これでもう2月は終わったようなもの。それも淋しいけど、ほんとうに今月は予定が入っていない。逃げる2月を追いかけます。
三崎亜記の『となり町戦争』を読んでいる。役場の香西さんがいい。『ダンス・ダンス・ダンス』のユミヨシさんに似た雰囲気。
2月3日(土)
昨秋行った図書館のイベントの記録集を入力。同時に『雨期』48号の原稿を仕上げる。やっと編集作業にかかれるところまでこぎつけた。とてもうれしい。朗読の日が近づいているので胃が痛い。緊張感を持たなくなったらおしまいだと思うけれど、早く7日の朝を迎えたいです。
『ハチミツとクローバー』をビデオで観る。監督は高田雅博。原作の弾けるようなスピードとパワーはないけれど、キャラクターの雰囲気はそれなりに出ていたと思う。はぐみ役の蒼井優とあゆ役の関めぐみはぴったり。アパートやその界隈の風景がいい感じです。全体にとてもさわやか。若いってすばらしい。
1月31日(水)
銀座のギャラリー・アートポイントで薦田愛さんの朗読を聴く。薦田さんは詩集『流離縁起』のはじめに置かれた清音の詩から読み始める。そういう書き方があることを初めて知った。わたしも書いてみようかな。
古風なことばが随所に光る妖しい詩の世界。ことばがクリアで心地よく耳に入ってきた。よい朗読でした。近々ここで朗読予定の坂井信子さん、田川紀久雄さん、田中庸介さん、山口眞理子さんもいらしていて、少しお話。薦田さんとは初対面だけれど、始まる前にたくさんおしゃべりをした。チャーミングな若い詩人。
来週2月6日(火)はわたしが朗読します。19時開場、19時30分〜20時30分。『中空前夜』の作品をできれば全部読みたいと思っています。ぜひいらしてください。
1月29日(月)
ポエトリージャパンのトップページに「黄金時代」という詩を書きました。ずっと書きかけになっていたものをようやく形にすることができて、ほっとしています。ぜひ読んでください。
『やわらかい生活』をビデオで観る。寺島しのぶ主演、廣木隆一監督。35歳無職の優子に近寄ってくる「だめ」な男たち。合意の痴漢行為が趣味の中年男(田口トモロヲ)、気弱なヤクザ(妻夫木聡)、EDのマザコン都議(松岡俊介)、離婚寸前で優子のアパートに転がり込む従兄(豊川悦司)。
みんなそれなりにいい奴で、躁と鬱の状態を行ったり来たりする優子に優しく接する。なんでー?蒲田の街がいい。東急プラザ屋上の観覧車、銭湯、駅前広場、タイヤ公園、六郷土手。ぜひ行ってみたい。原作は絲山秋子。
1月27日(土)
『恋する2000マイル』をビデオで観る。久々の駄作。ロードムービーというので楽しみにしていたのだけれど、麻薬の話と恋愛と親子の再会がごちゃまぜになっている。タイトルが内容とまったく違う。舞台になっているオーストラリアの風景がもっと見たかった。『マトリックス』でサングラスのスミスを演じたヒューゴ・ウィービングが出ているのが目玉。
つい最近、『ビック・リバー』というロードムービーを観た。これはかなりよかった。舩橋淳監督で舞台はアリゾナの砂漠。主演はオダギリジョー。バックパッカーの哲平が車の故障で困っていたパキスタン人アリを助けて同乗させてもらい、再度故障したところをアメリカ人の若い女性サラが拾ってくれる。砂漠を走り、モーテルに泊まる4日間。説明が足りない部分もあるけれど、気持ちのよい映画だった。
『恋する・・・』は真面目に作っているのはわかるのだけれど、全体が商業映画のレベルに達していないのだと思った。
1月23日(火)
『旅をする裸の眼』読了。とてもおもしろかった。主人公はパスポートを持っていないので、旅というより逃亡の物語といったほうがいいかもしれない。人体実験のアルバイト、学生演劇への参加、流産など怒濤のようにやってくる事態に直面する異国での6年間。そのなかでつねに主人公は映画を観ている。
各章の扉に書かれているのはカトリーヌ・ドヌーヴの出演した映画のタイトル。ドヌーヴは60〜70年代のヨーロッパ映画を支えた女優さんだと思う。凄みがあって近づきがたい雰囲気。彼女に匹敵するような女優さんは現在いないかもしれない。
まだ感想がまとまらないのだけれど、多和田葉子の小説は中毒になる。何か書こうとするとちょっと多和田葉子風の文章になってしまう。
お知らせ。2月6日のギャラリー・アートポイントでの朗読は、19時開場、19時30分開演になります。お帰りが遅くなりますが、よろしくお願いいたします。
1月20日(土)
多和田葉子の『旅をする裸の眼』(講談社)の続きを読んでいる。最初の章が奇妙で難物だったけれど、ベトナム生まれの主人公がパリへ行ったあたりからおもしろくなってきた。同郷の愛雲(フランス人のかなり年上の夫と暮らす)や施鈴(外科医)が登場して、アジア色が濃くなり、物語に温かい血が入ってきた感じ。各章ごとにヨーロッパ映画が出てくる。『Repulsion』『哀しみのトリスターナ』『インドシナ』など。どれも観ていない。観なくては。
1月17日(水)
送信したはずのメールが届いていなかったということがあるようです。アドレスを変えてから何件か。もし返事がないとお思いでしたら、ご連絡ください。
途中になっていたチャンネ・リーの『最後の場所で』(高橋茅香子訳・新潮社)を再び読みはじめる。カズオ・イシグロの『日の名残り』以来の傑作と評判になった長篇小説だけれど、スローな展開にギブアップしたのだった。短い詩を1つ、『雨期』48号の原稿を書く。
1月12日(金)
『わたしを離さないで』読了。最後になって真相が明らかになり、あっと驚いた。未読の方のためにあらすじは書かない。行きつ戻りつする独特の文体に付き合っていくうちに、読むことが快感になっていった。古典文学の趣をたたえた近未来小説。時間のある方はぜひ読んでみてください。すごい傑作です。映画化されることがあったら、微妙な空気感が表現できないかもしれないと、余計なことを考えた。
人間の想像力の上質な実り。そんなことを思って、しばらく茫然としました。
1月11日(木)
カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んでいる。登場人物の表情、仕草の一つ一つをていねいに書いていく。前後して語られる、あらすじとはあまり関係がないように思われる些細なできごと。じれったいと思いながら読み、終わりに近くなってやっと文体に慣れた。バーバラ・ピムの『秋の四重奏』も、日常の些末なことがらの描写がていねいに過ぎて、慣れるのに時間がかかった。イギリスという国、その風土と関係があるのだろうか。
「提供者」「介護人」「ヘールシャム」という特殊な施設。そこでほんとうの兄妹のように暮らし、施設を出てからも運命共同体のように離れることのなかったキャスとルース、トミー。キャスは介護人になり、2人は提供者になって長い入院生活を強いられている。彼らはどうなってしまうのか。
1月7日(日)
朝は七草がゆ。大きな土鍋に1カップの米と5カップの水を入れて炊く。それにチーズ入りの玉子焼き。
新宿で佛渕健悟さんと、山本陽子の詩の研究者である渡辺元彦さんから話を聞く。山本陽子は1943年生まれ、41歳で肝硬変のため亡くなった。5年前に青木栄瞳さん企画のシンポジウムに参加したときに、初めてこの詩人を知った。それまでの詩のかたちを壊し、ことばの音を並べかえて新しいことばを作り、「宣言」ともいえる作品を書いた、といっていいだろう。
渡辺元彦さんは「山本陽子は疾走した詩人です」とおっしゃった。止まらない、つねに流れる詩を書くために「韻」に彼女はこだわった。メタファは読む側に視覚的なものを呼び起こすため、作品はスタティックになってしまうけれど、音としてのことばはちがう。どんどん繰り出していくことができる。だから音を入れかえた造語をピースのように用意して、彼女は詩を書いたのだという。
掃除婦として働きながら、ウイスキーを呷り推理小説を読み、緩慢な自殺というような最期を迎えたという。けれども病を得る前の山本陽子は自分にしか書けない新しい詩をつくるために孤独を選び、同時代の評価などとは無関係に生きた。今まで誰も踏み込んだことのない新しい世界の詩。それは一文学者として健全な生き方かもしれない。彼女の詩の不思議な明るさは、そこから来ているのではないかと思った。
1月5日(金)
『旅をする裸の眼』、直喩の洪水にギブアップ。多和田さんの鋭敏な感受性にはついていけそうもない。読みかけだったカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を手に取る。少女たちの学校生活がちょっと異様なほど細かくていねいに描かれていて、スローな展開になっている。この作家はどうも苦手。
清水哲男さんの詩集『黄燐と投げ縄』の「ひとりぐらし」がとてもいい。「私」が昔飼っていた猫に話しかける。
いっしょに食ったっけね 天麩羅
あとで いっしょにまた食おう
醤油差しはきみが倒して割れちゃったけど
乾いた心に醤油は毒だ
そのまんまの匂いでいいやね
火鉢でちょっと焙ってさ
ほどよく焦げ目がついたところで
いっしょに食おう
そしてね
天麩羅の匂いがしみついたまんまで
きみといっしょに眠るんだ
なぜかニンジンとインゲンの天ぷらを思い浮かべる。カラリとしたころもではなく、厚くしなっとしたやつ。優しい心を失わずにいる、少年のような大人の男のひとってすてきだなあと思います。
1月2日(火)
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
年内に間に合わなくて今になって年賀状を書いている。早々とくださったみなさん、すみません。しばらくお待ちください。今年は詩のほかに、亡くなった幾人かの詩人のことを書きたいと思っています。2月の朗読会の後は特に予定がありません。ずっと流れに逆らわないように動いてきて、何やっているんだとブーイングを浴びながらも、自分のちから以上のことはできないと割り切ってきました。結果としてはそれでよかったのではないかと思っています。全力を尽くして書く。それだけです。
いつもの場所で過ごす夜はいいものですね。旅先やよその家で眠るのは苦手です。