1月2日(金)

新年おめでとうございます。本年もよろしくお願い申しあげます。

31日に老親の家へ行き大掃除。結露で泥のような匂いがする壁を拭き、大量のゴミを捨てる。1日はお寺へお金をとどけ、神社で初詣。昨年のお札やお守りをおさめ、新しいものを買う。お昼には兄の家族と食卓を囲む。作る暇がないので、おせちは市販。夜に帰宅。車中で『いま哲学とはなにか』(岩田靖夫・岩波新書)を読む。

今年はじっくり書く年にしたいと思います。発表する場所があまりないのは淋しいことですが、今こそ個人誌・同人誌の時代といえるのかもしれません。一つ一つ全身全霊で書いていくだけです。がんばりましょう。


12月30日(火)

きのう年賀状を投函し、きょうは買い出しと洗車。ちっともうまくならないけれど、車をぶつけることがなくてよかった。秋には仲間と連詩を始めて3年目の記念に朗読会とトークをやり、連句の会で朗読をする機会をいただいた。最近は今までに発表したものを書き直すという作業をしている。来年は何とか詩集を出そうと思っています。

読んでくださった皆さま、ありがとうございます。来年は2日からスタートします。よいお年をお迎えください。


12月27日(土)

恒例の忘年会。還暦を過ぎた先輩はまったく枯れる気配がない。昨年よりパワーアップして、病気の話で盛り上がる。歯医者と皮膚科くらいしかお世話になったことのないわたしはもっぱら聞き役。口をはさむ隙がない。家中の酒がなくなったところでようやくお開きになる。無事に帰宅できたかどうか。

二日酔いにならないように、水を飲み『幻影の書』を数ページ読んでから眠る。大学教授である主人公は妻子を事故で亡くし、たまたまテレビで観た昔の喜劇映画に興味を持つ。トーキー映画のストーリーが紹介されるが、それがとてもよくできている。実在したフィルムとしか思えない程見事。喜劇なのにメロドラマやサスペンスの要素も盛り込まれていて、改めてオースターは稀代のストーリーテーラなのだと思った。


12月24日(木)

ポール・オースターの『幻影の書』(柴田元幸訳・新潮社)を読み始める。数冊が読みさしになっているけれど、寝る前はこの本をひらくことにする。amazonからオースターの『ナショナル・ストーリー・プロジェクト1』のお薦めメールがとどく。多作な作家ですね。

夕食はローストビーフ。cookpadにあったケリードール子さんのレシピ。コブサラダ(海老・アボカド・ゆで卵・インゲン・カリフラワー・プチトマト・黄色のパプリカ)、じゃがいものグラタンとシャンパン、フルーツタルト。


12月21日(日)

ミューズ(市民ホール)で、交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付き」を聴く。第1楽章は流れるようなソナタ。2階席なのでよく見えないこともあって、猛烈に眠くなる。困った。第3楽章が始まるころにソロの4人が登場。女性歌手のドレスがまぶしくて目が覚める。やっぱり第4楽章が圧巻。ダイナミックな佐渡裕の指揮によって、怒濤のように歓喜が押しよせてきました。

いつまでも拍手は止まなかったけれど、アンコールはなし。そういうことになっているのだろうか。


12月19日(金)

内田樹『昭和のエートス』(バジリコ)を買う。「昭和人」とは何かというテーマから始まる。これはかなりおもしろそうです。

今月は老親の家へ行く他は何も予定がない。一つだけ、21日に市民ホールでの「第九」のコンサートへ。佐渡裕指揮、東京フィルハーモニー交響楽団。今年はクラシックのCDをたくさん聴いたので、締めにベートーヴェン。楽しみです。家ではフルトヴェングラー指揮、バイロイト祝祭管弦楽団のCDを聴いている。


12月15日(月)

毎晩猫がふとんに入ってくるので温かい。こんなことは初めて。死期が近いのではないかと、ちょっと心配。ふとんをかけ直すときなどに手を噛まれることもあるけれど、まあいいか。猫に好かれるのはいいものです。

『日本語が亡びるとき』のなかに「よく耕された精神をした顔」という表現があった。そういう顔になりたいと思う。硬質な文章がたいへんよい。何十年ぶりかで竹西寛子さんの『往還の記』(中公文庫)を開いたら、『日本文学が亡びるとき』と呼びたいような内容。水村さんの本にも出てきたドナルド・キーンさんの功績をたたえ、本居宣長の仕事に言及している。「松坂の一夜」「あがたゐのうし」など、春に読みかけになっていた小林秀雄の『本居宣長』にも出てきた事柄を見つけて、うれしくなる。読書の楽しみですね。


12月11日(木)

水島英己さんの詩集『楽府』(思潮社)と眞神博さんの詩集『修室』(ダニエル社)を読み、礼状を書く。フィリア・プロジェクトのメールマガジンを読み、感想を送る。13日の午後に神山睦美さんのレクチャーがある。ご案内をいただいたけれど、土曜日は老親の家へ行くことになっている。神山さんとはなかなかお会いする機会がなくて残念。


12月8日(月)

水村美苗の『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)を読み始める。外国で長く暮らしたひと特有のストレートでシニカルな文章が小気味よい。一章では、アイオワで大学生活を送りながら自分の仕事をするというIWP(International Writing Program)に参加したときのことを書いている。体調が悪くプライドの高い水村さんは、世界の作家たちとの交流を最小限にしようと決めてキャンパスに入るのだが、恵まれた環境にない国からやってきた作家や特殊な言語で書く作家と知り合い、理解を深めていくことになる。クールに書かれているが、そのプロセスには感動的なものがある。


12月5日(金)

オルハン・パムクの『わたしの名は紅』(和久井路子訳・藤原書店)、夏に買ったのにまだ読み終わっていない。617ページの長篇。舞台はペルシア時代のトルコ。細密画の絵師の死をめぐって、登場人物が一章ずつ語るスタイルになっている。うまく入ってしまえばいいのだけれど、まるでアラビアンナイトの世界なので、なかなか難しい。149ページまで読んだが、なぜノーベル文学賞なのか、今の時点ではまったくわからない。


12月2日(火)

リン・ディンの『血液と石鹸』を読み終える。プロットだけでできているような短篇。玉石混淆の37篇のなかで、「非常階段」と「自殺か他殺か?」がよかった。マンハッタン周辺を舞台に、都市で暮らすベトナム人の滑稽な姿が描かれている。情緒的な記述は排されていて、アジアンを戯画化する、やや自虐的な視点が新しいのではないかと思った。

テレビの料理番組でやっていた「鱈の長ネギあんかけ」を作る。とてもおいしかった。鱈をぱりっと焼いて、豚バラ肉の細切りを少しと長ネギを炒めたソース(オイスターソース・しょうゆ・酒・かたくり粉を混ぜる)をかけたもの。寒い夜にはあんかけ料理がいいですね。


11月30日(日)

武蔵村山のモールへ。グッドウィルドーム、貯水池のあたりの紅葉が美しい。箱根に負けないくらい。おいしい店やロープウェイや美術館があれば、ちょっとした観光地になるのに。ユネスコ村も恐竜館もなくなり、残っているのは醜悪な山口観音と狭山不動尊。建立したひとのセンスと信仰心が疑われる代物。昔ユネスコ村と狭山湖は遠足の定番コースでした。


11月26日(水)

東中野ポレポレで福間健二さん監督の映画『岡山の娘』を観る。とてもおもしろかった。福間さんの詩の世界が映像になっているのを身体で感じることができたし、これからの詩について考える時間をもらったと思う。

大学、川、商店街。岡山の街がロードムービーのように描かれている。ヒロインのみずきを演じるのはごくふつうに見える若い女性だが、だんだん俳優の顔になって台詞にも凄みが出ているのに驚く。顔も知らない父と急死した母。父からの突然の手紙と自己破産の危機。友人と電話でけんかをして、切れたみずきは「わたしは面倒くさい女なんよ」と言う。この台詞に胸を衝かれた。

やわらかい岡山弁がいい感じ。現代詩が随所に使われている。わたしはみずきの親の世代であるので、彼ら(父、詩人、喫茶店の女主人)の物語も観てみたいと思った。

先着の岡山土産をいただき、福間恵子さんにもお会いできてよかったです。


11月24日(月)

三木聡監督の『転々』を観る。借金の取立屋(三浦友和)が相手(オダギリジョー)と東京を歩きまわる話。井の頭公園、新宿御苑、蒲田のアーケード、六郷土手、千鳥ヶ淵。取立屋は妻を殺したので霞が関へ自首をしに行こうとして、借金をチャラにするからとオダギリと長い散歩に出る。

第二の妻(小泉今日子)の家で、息子のふりをして食事をするシーン。取立屋が入所する前に食べるのはカレーと決めているのを知って涙を見せるオダギリ。知らない者同士が家族のように過ごす時間に、孤児同然で育った彼は過剰に反応してしまう。ドラマ『時効警察』の監督なので、コメディなのだが、ちょっと泣ける話になっている。出演は他にふせえり、岸部一徳、岩松了、石井苗子。


11月20日(木)

池袋で二人の詩人と会う。3時間ほど詩や音楽の話をする。SNSやメールのやりとりで、お互いにどんなことをしているか、だいたいわかっているので、ついこのあいだ会ったばかりのような気がする。だらだら飲みながら静かに話をした。

太原千佳子さんの詩集『日を摘む』(砂子屋書房)を読む。太原さんとお会いしたのは、永塚幸司さんのH氏賞を祝う会でのこと。確か受付をなさっていたのではなかったかしら。井坂洋子さんやねじめ正一さんもいらしていた。他に中本道代さん、河津聖恵さん、阿賀隈さん・・・。ずいぶん昔のことです。


11月17日(月)

知人がやっている絵絣の展示会に行く。西武池袋線の秋津から、武蔵野線の新秋津までは徒歩5分。2つの駅を小さな商店街がつないでいる。毎日利用するひとは不便に感じているだろう。アーケードにするとか歩く舗道にするとか、何かできないものかと思う。

あまり乗ることがないこともあって、武蔵野線という名称にはノスタルジックなものを感じる。関東の校歌のほとんどに「武蔵野」ということばが入っているのではないだろうか。武蔵野新秋津から北朝霞までは山里のような風景が続く。府中本町と西船橋を結ぶ線。当初は貨物専用線だったという。週末になると赤鉛筆を持ったおじさんたちがたくさん利用するので、ギャンブル線とも呼ばれています。

絵絣は知人のコレクション。120点が並んでいた。藍で木綿を染め、ふとん地や着尺に使われたもので、七福神や鶴亀、牡丹などの柄が織り込まれている。使うひとの長寿や幸福を祈る女たちの手で作られた絵絣。文明開化後には汽船や洋傘、日清・日露戦争のころには軍艦や大砲が柄になったという。最終日でした。


11月14日(金)

県民の日で学校が休みの娘と吉祥寺へ。井の頭公園近くの雑貨屋でモデルさんを見かける。ずいぶん長身の女性だなと思って顔を見たら、『ピープルツリー』のHIKARUさん。雑誌に出ているときと同じノーメークで透明感のあるひとでした。エスニックの雑貨屋の多い通りです。

車中で堀江敏幸の『子午線を求めて』。パリの郊外は移民が多く住んで荒涼としていると随所に書かれていて、日本では郊外イコールのどかなところなのに、ずいぶん違うのだと思った。「哀れなパリ郊外、みなが靴底をぬぐい、唾をはき、通りすぎていくだけの、都市の前に置かれた玄関マット、いったい誰がこの哀れな郊外を思ってくれるのか。」1944年に発表されたセリーヌのエッセイの一部だが、本書には郊外を舞台にした現代の小説が多く紹介されている。セリーヌの他は初めて聞く作家ばかり。読んでみたいと思う。


11月11日(火)

寝る前に、スチュアート・ダイベックの『それ自身のインクで書かれた街』(柴田元幸訳・白水社)を読んでいる。シカゴ在住のダイベックはポーランド系。シカゴの片隅には東欧の人々が多く住んでいて、アメリカの明るさとはちがう旧世界の空気が漂っているらしい。ショパン、バブーシュカ、ポーランドのことわざ。故国での暮らしを大切にする家で育った少年の目を通して描かれるシカゴの街。明るい淋しさのようなものが全体を覆っている。いい詩集です。他に連作短篇集『シカゴ育ち』『僕はマゼランと旅した』があり、どちらもお薦めです。

結局覚えているのは 自由の
気分。僕はそういうふうに終わりたいと思う、
そうして僕は立ち去り、
変色した記憶の紋章にではなく
夢に対して忠誠が誓われる
現在の終章に入っていく。
(「自伝」9部分)


11月9日(日)

車で市内を移動。道路沿いの店がいくつも潰れている。ガソリンスタンド、中古車販売店、レストラン。立地の悪い場所にできたレストランはいつのまにか消えて、別の店になっている。きっとお客はつかないだろう。車が停めにくかったり、特別美味しいとかサービスがよいというわけではなく、リピーターが呼び込めなかったり、いろいろ理由はあると思う。「管理地」の看板が立っている。ここで働いていたひとたちはどうしたのだろうと思う。

このあたりではモールがどんどん建設されているが、一時苦戦を強いられていた激安スーパー「ジャパンホームセンター」ががんばっているみたいだ。そこはカード払いはNO。不景気だから現金払いがよいのだと思います。

埼玉西武が優勝。全力でプレーする若い選手と彼らのちからを信じる渡辺監督、大久保コーチ。いいチームです。西武ドームはすぐ近く。球団が所沢に本拠を移して30年。23日には初めてパレードをやるということです。


11月5日(水)

田中庸介さんの詩集『スウィートな群青の夢』(未知谷)を読む。ポップで饒舌、叙情的、ユーモラス、ちょっと自虐的。とにかくうまい。詩人のいくつも顔が見える。ついこの間、詩の集まりでお会いした。そのときのしゃべる速度と頭の回転の速さを思い出す。疾走感。「当代最高の詩のスピリット!」と帯にある。戦略的なところもこの詩人らしい。散文詩「京都」と、自身の離婚とその後の日々を書いた「武蔵野」がいい。新聞紙と一緒に洗濯機で洗ってしまったTシャツに付いた「悔恨のわたぼこり」。腹立たしくて目にするとつらい、わかるなあ。全10行の「光の谷」にも惹かれるものを感じた。シンプルで何の気負いもない。田中庸介さんの知性とセンスが詰まった、きらきらした詩集です。


11月3日(日)

ホームセンターへ行った帰りに、気になっていたうどん屋へ。落ちついた風情のある佇まい。極楽うどんというのを食べる。コシのある麺。挽き肉入りのあんかけ風汁で美味。久々に満足しました。


11月2日(日)

1日、O市の老親の家へ。ゴミを大量に捨て、掃除をする。父は89、母は87。2日、湘南ライナーで帰宅。目をつむって詩のことを考えようとするが、うまくいかない。お昼は賞味期限の近いカップヌードルをおそるおそる食べる。池袋のWAVEで買ったディヌ・リパッティのCDを聴く。1950年に33歳で病死したルーマニアの伝説的ピアニスト。録音はよくないけれど、昔レコードを持っていたので、懐かしい。


10月31日(金)

友人の個展を観るため銀座へ。曇り空のせいか、いつもの華やかさが感じられない。不景気だからか。すれ違う人の多くが中国語をしゃべっている。銀座は年に数回しか行かないし、買い物をすることもない。きれいな街だけれど、どうも落ちつかない。

車中で堀江敏幸の『子午線を求めて』。フランスの文学をめぐるエッセイ集。読んだことのない本ばかりだが、感想だけでなく、アーティストとの交流や実際にパリの街を歩いた時間などが書かれている。喩の多い複雑な文章。初めはだめかと思ったけれど、読み進むうちにおもしろくなってきた。


10月28日(火)

清水哲男さんの「ZouX」の購読料を振り込む。欠員が出たということで、ようやく会員になることができました。

倉田比羽子さんの詩集『種まく人の譬えのある風景』(書肆山田)を読んでいる。美しい詩集。倉田さんの詩は難解であるが、このところ哲学書を読んでいたので、比較的すんなり入ることができた。少しずつ倉田さんの書こうとしていることがわかってきたと思う。現代詩の可能性を提示する、すばらしい詩集であることはまちがいない。


10月26日(日)

『浮世の画家』読了。戦時中に日本精神を鼓舞する画風で有名になった小野益次の、終戦後の日々を描く。娘の縁談が壊れたのは自分のせいなのかと悩み、過去を回想する。登場人物は話の核心を避けつつ、やんわりとことばを交わす。『東京物語』の世界ですね。戦時中の著名画家を主人公にするという大胆な試みは、日本と距離があるからこそ可能だったのだと思う。小野の古傷である弟子や仲間との訣別は読者の興味を惹くところなのだが、曖昧に書かれている。全体に靄がかかっているようなのがイシグロの作風である。現在の日本では決して生まれない類の小説といっていいと思った。


10月24日(金)

朗読会の後のディスカッションで聞いた若い詩人たちの熱いことばに圧倒されて、この一週間ぼうっと過ごしていたのだけれど、そろそろしゃきっとしなくては。佐藤恵さんからいただいた『SOOHA』4号をひらく。「古賀忠昭、その遺文の問うもの」という追悼特集。娘さんである古賀繭さんのインタビューと、鍋島幹夫さん、山本源太さん、中尾太一さん、稲川方人さん、同人のみなさん(佐藤恵・谷合吉重・陶原 葵・野木京子・日吉千咲・八潮れん)の論考。これは腰を据えて読まなければならないと思った。


10月22日(水)

カズオ・イシグロ『浮世の画家』(飛田茂雄訳・早川epi文庫)を読み始める。戦後間もない地方都市が舞台。主人公は引退した画家で、その二人の娘の名は節子と紀子。わたしの妹も節子という。不思議だ。端正な文章で描かれる小津安二郎のような物語に浸っていると、時間の感覚がなくなって、永遠の黄昏のなかに自分が居るように感じられる。


10月20日(月)

荻窪から阿佐ヶ谷まで歩く。善福寺川に沿い、かなり遠回りして阿佐ヶ谷パールセンターへ。何だかさびれた感じ。昔あった店はいくつか残っている(乾物屋、ねじめ民芸店、和菓子の「鉢の木」、サンジェルマンなど)が、携帯ショップがそこらじゅうにできて、全体としては活気がなくなっているように見えた。30年前のパールセンターは歩くのが楽しいおしゃれな商店街だったのに。

サンジェルマンでエクセルブランを買って帰る。高校時代に初めて食べて感動したイギリス食パン。阿佐ヶ谷に来ると必ず買います。


10月19日(日)

池袋マダム・シルクで朗読会。岡田幸文さん、中村剛彦さんと連詩を始めて3年、6篇の詩ができたので、朗読会を兼ねてトークとディスカッションをする.。詩のなかの「私」とは誰か、「自然」とは何か。熱い時間を共有することができたと思います。参加してくださったみなさん、ありがとうございました。


10月18日(土)

家族が買った茂木健一郎『すべては音楽から生まれる』(PHP新書)を読む。最近クラシック音楽をよく聴くようになったので、タイトルに吸い寄せられてしまう。サブタイトルは「脳とシューベルト」。けれど今ひとつ物足りないのはなぜだろうと思ったら、茂木健一郎が書いた文章ではなく、編集者がまとめたものだった。文章に個性がない。著者の声が聞こえない。不思議なほど記憶に残らない本。もう一度読めば少しは聞こえてくるだろうか。


10月13日(月)

先週末、ジョン・アッシュベリーの「四月のガリオン船」が急に読みたくなり、この一編をくりかえし読んでいる。『ジョン・アッシュベリー詩集』(大岡信・飯野友幸訳・思潮社)におさめられている。難解であるし一部を引用しても全体の魅力をうまく説明できそうにないのだけれど、書き写してみます。

冷たく曲がりくねった都市の名前に向かって、
ただしその都市はありそうに響いたがその実
どこにも存在しないのだ。私には平底船が見えた、
それは歓喜の大海原を指している爪やすりのようで、
私のために停まってくれた、君と私は傾いたデッキがどんなに
がたつくかためしたあと、いつか戻っていく、宵の口に引き裂かれた
オレンジ色のとばりをぬけて。そこでは私たちの名は
違う発音でのみ通っているだろう・・・

ラストはわたしの大好きな「若い王子と王女」を思い出させる。

彩色された都市で霧がどのように湧き出たか、病めるものたちはどの方角へ
去ってこの眼差し、なじみ愛の眼差しを避けたか、という話を。


10月10日(金)

池袋で二人の詩人と話をする。ビールとバーボンを1杯ずつ。帰宅後、いつもの量を飲む。最近、毎日のように書いたものを読み直して推敲しているのだが、これはどうにもならないというものもある。潔く捨てようと思う。でも次の日になると、やっぱり何とかなるかもしれないと思ったりする。我ながら未練たらしい。でもきっと今がいちばんいい時間なのだろう。


10月7日(火)

リン・ディンの『血液と石鹸』(早川書房)を読んでいる。ラストはオチといってもいい、やや古風なスタイル。アメリカとベトナムを舞台にした掌編が37。ことば(英語)をテーマにした作品が多い。ディンはサイゴン生まれの詩人でもある。

段々社の『タゴールの歌』(神戸朋子・編訳)を買う。「自然と人生をみつめなおす歌詩60選」というサブタイトルがある。CD(ベンガル語と日本語)がついているので驚く。すごいなあ、坂井さん。彼女はアジアの文学を紹介するべく、たくさんの翻訳書を出版している。20年ほど前に新聞で段々社の本の存在を知り、「これからはアジアの文学だ」と思った。注文したら、近所にお住まいだとわかって、直接受け取ることになったのだった。『雨期』の読者でもある。とてもタフな女性です。


10月5日(日)

飯能へ。車で1時間。苗とプランターを買う。再生紙で作ったものなので軽い。手入れの行き届いたハーブ園に来ると、ガーデニング気分になってくる。その気が失せないうちに、帰宅してすぐに庭仕事。といっても苗を植えかえただけなのですが。

midnightpressのサイトで、「EXTRA2008夏」がアップされました。「いま、詩はどこにあるか?」12人の詩人が書いています。ぜひ読んでください。


10月2日(木)

近藤弘文さんの詩集『夜鷹公園』(midnightpress)を読む。上手い。新しい現代詩である。感想をまとめながら、自分の詩を古いと感じるはなぜなのか考える。

リン・ディンの短篇集『血液と石鹸』(柴田元幸訳)を買う。amazonのおすすめ本。著者は1963年生まれのベトナム系作家。「牢獄で一人、何語かさえ不明な言語の解読に励む男の姿を描く「囚人と辞書」」という紹介文があったので、1クリックで注文。サルトルの『嘔吐』に出てくる独学者など、修行者のように読書をするキャラクターに惹かれます。


9月29日(月)

小池昌代さんの短篇集『ことば汁』(中央公論新社)を一気に読んだ。幻想的な6つの短篇。小池さんのホラー風小説はいつもおもしろい。女性らしい小道具と独特のシチュエイション。殊に「すずめ」は力作。これから読むひとのためにこれ以上は書きませんが、読んでいるうちにじわじわ怖さが増してきます。それにとにかくうまい。脱帽です。


9月25日(木)

花森こまさんの句集『銀河の恋人』と句誌『逸』を読む。誌は同人制ではないとのこと。『雨期』と同じなりたちなのがうれしい。世界とのかかわりかたにも共感するところ大。惹かれた句をいくつか。


   全体は一部分なり虫の闇

   刃こぼれの男を宿す後の月


   台風が来てやはらかな骨になる

   一月十七日花びらを飲み干す

   雛祭父はカフカとなる準備

2年前に松本邦吉さんにいただいた「河口付近」という詩のコピーをくりかえし読んでいる。いいなあと思う。冒頭を引きます。

舌先に
湧きあがる日を溜めて
わたしは書き写す

「あなたの仕事は棺とひとつの憩家」


9月22日(月)

夕食は鶏もも肉のみぞれ炒め。大好きでよく作る。材料はもも肉、セロリ、長ネギ、大根。一口大に切った肉に塩こしょうし、両面に色がつくまで焼く。そこに斜め薄切りにしたセロリとネギを入れ、しんなりしたら酒とみりんを加える。蒸発したら大根おろしを汁ごと入れ、醤油で味付け。特別なものは入っていないけれど、手の掛かった料理のよう。大根のちからはすごい。分量は適当でもだいじょうぶと思います。

オルハン・パムクの『わたしの名は紅』(和久井路子訳・藤原書店)を読み始める。


9月19日(金)

昨年買ったままになっていた内田樹の『村上春樹にご用心』(ARTES)を読んだ。この哲学者の文章はとても魅力的。結論への導きかたがドラマチックにうまい。殊におもしろかったのが、批評家vs村上春樹についての7つの文章。「「激しく欠けているもの」について」が圧巻。1982年に『羊をめぐる冒険』が出版された直後に、加藤典洋は村上春樹論を書いて、「そこにはたしかに何かが激しく欠けている」と指摘した。「激しく欠けていたものとは何か」。それは「わたしたちが共に欠いているもの」だという。

生者が生者にかかわる仕方は世界中で違う。けれども死者が「存在するとは別の仕方で」生者にかかわる仕方は世界のどこでも同じである。

「存在するとは別の仕方で」は哲学者エマニュエル・レヴィナスの著作タイトル。

村上春樹は死者が欠性的な仕方で生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けてきた。

うーん、すごい。「スピリチュアルな世界」などと安易なことばでごまかさない。哲学者はすばらしい。『風の歌を聴け』を『群像』誌上で見たとき、同時代を感じた。わたしは二十代半ばだった。当時は月刊文芸誌の発売日に、虎ノ門(仕事場)の書店でチェックするのが習慣になっていた。同世代ではないけれど、そういう感じを持ったのは初めてだった。それから村上春樹の作品はほとんど読んできた。

先日『レヴィナス入門』を読み終えたけれど、やっぱり著作を読まなければだめだとわかった。


9月18日(木)

この3年間に書いた詩をプリントアウトしてみた。途中でスタイルが変わったので、全体的に見るとまとまりが悪い。書き直すことを考える。かなり大変な作業になりそうだけれど、今年の残りの日々は自分の詩を考えることに費やしたいと思う。

オルハン・パムクの『イスタンブール 思い出とこの町』(藤原書店)を読む。モノクロの写真がたくさん入ったエッセイ集。この作家が抱え込む憂愁(ヒュズン)が町を覆っているものでもあることがわかる。


9月14日(日)

府中市美術館へ。「パリ・ニューヨーク20世紀絵画の流れ」という企画展。HPを見ていたらマーク・ロスコの名前があったのでどうしても見たくなった。ロスコの深い朱色と緑。オキーフのシャープな花、ジャコメッティの線が描く男。それからムンクの風景画「サン・クルのセーヌ川」に惹かれるものを感じた。ブルーグレイの橋と夕闇と水。船の灯りが川に落ちて、それを眺める画家の孤独を思った。他にポロックやピカソ、ホッパーなど多数。

美術館は気持ちのよい緑の広がる公園の隅にあります。


9月9日(火)

江古田を散歩。こじんまりとした学生街で、ごくふつうの商店街のなかにカフェや雑貨屋など、ちょっとおしゃれな店があったりする。宝探しみたいです。

『雪』のことを考えている。貧しく後れている国トルコ。ドイツに亡命した詩人を主人公にすることで、自国をはじめとするイスラムの国だけでなく世界に通用する小説になったということ。一般に人々は隣国の文学についてあまり知ろうとしない。文化的に後れていると思う場合は殊に。ある意味で自分たちの過去を見ることに興味がないのだと思う。パムク自身は3年間ニューヨークで暮らしている。トルコの現実をそのまま作品にしても、多くの読者を得ることはできないと考えたのだと思う。この小説はイスタンブールの街カルスで起きたイスラム原理主義と欧化主義の衝突がメインになっている。だから主人公の位置、設定は卓抜というほかない。

Kaが残したはずの詩のノートを探す小説家オルハン。彼によってドイツでのKaの暮らしぶりと詩人としての力量が読者の前にさらされることになる。カルスでは良くも悪くも注目を浴び、美女イペッキと愛し合い、ドイツでの新しい生活を夢見たKaの真の姿が最後に明かされるのである。おそらくパムクは2人の人物に自分を投影させているのだろう。


9月7日(日)

『雪』読了。トルコの現実に圧倒される。2002年に発表され、「9・11」以降のイスラム過激派をめぐる情勢を予見したとして世界的なベストセラーになった理由がよくわかった。主人公である詩人Kaは著者のパムク自身がモデルだと思って読んでいたら、後半になってKaの友人として登場する。構成もすばらしい。訳がよかったら日本でももっと話題になるだろう。世界の文学のレベルは高いのだと思った。

発送作業。


9月5日(金)

『雨期』51号ができました。詩は古内美也子・山岸光人・渡辺 洋・原口哲也・北野英昭・須永。アンケートは「鞄の中身」と須永の「短篇通信」。今号は詩作品をたくさん掲載することができて、とてもうれしい。創刊号を出したときのような気持ちです。荻さんは残念ながらお休みですが、ファンの方、次号をお楽しみに。

金曜日はワインの日。チリかスペインの赤がいいかな。特にこだわりはないけれど、素朴な渋みのあるものが好きです。


9月3日(水)

『雨期』51号ができたのだが、表紙にミスがあり刷り直すことに。がっかりするが気を取り直して、送付先に添える一筆を書く。いただいた詩誌にはできるだけ感想を書こうと思うので、時間がかかる。でも書きはじめてしまえば苦にならない。何ごともはじめるまでが大変なのだ。きょうは夜まで書き続けるつもり。


8月30日(土)

『ダブリンの街角で』を観る。アメリカで2館の公開から口コミで動員数を増やし、140館で上映された話題の映画。とにかく音楽がいい。主人公は路上で歌うミュージシャン。音楽の才能のあるチェコ移民の女性と知り合い、彼の曲に彼女のコーラスとピアノが加わる。女性は夫と別居中で、娘と母と暮らしている。お互いに惹かれるものを感じても、二人のあいだには何も起こらない。

仲間を集めて録音したCDの出来がよく、男はロンドンでの成功を夢見るが、女は自分の家庭を取り戻すことを選ぶ。どこか淋しげなダブリンの街、掃除機の修理屋を営む父親(泣けます)、昼休みに女性がピアノを演奏することをゆるしてくれる楽器店、酒と音楽を愛するアイルランドの人々。すべてが温かく清潔な気持ちのよい映画です。主演はアイルランドの実力派バンド、ザ・フレイムスのグレン・ハンサード。監督は同バンドの元ベーシスト、ジョン・カーニー。


8月28日(木)

NHKの『趣味の園芸』を見る。大原に住む英国人女性ベニシアさんの庭。赤と白の花を集めたワイン・ガーデン、赤と黄色のスパニッシュ・ガーデン、北向きのフォレスト・ガーデン、ジャパニーズ・ガーデン。ハーブや樹木の美しさはもちろん、ベニシアさんの動きからも目が離せない。堆肥を作るのも土を掬うのもすべて素手。ハーブを摘むときは「お茶を飲みたいのですが、切ってもいいですか?」と語りかける。貴族の家に生まれたが、愛情に恵まれず、19でインドの旅へ。その後日本に来たのだそう。

除草や水やりを面倒に思ってしまう自分を反省。この雨でオリーブが横倒しになっている。猫の額よりも狭い庭に、最初からおまけのように植えられていたオリーブの木。明日、支えをしなくては。


8月27日(水)

『月と花と恋と』は「全国の連句人から募集した恋と月と花の句、三千句の本」(はしがき)。編著は『十七季』編集部(丹下博之・佛渕健悟)。先日名前を知った方の句もたくさん入っている。連句の流れから取り出した句たちはどれも詩のよう。

日曜日に作った句で、どう考えてもよくない、前に進んでいないと思われるものがあり、迷った末に捌きの先生に訂正をお願いする。ルール違反だから拒否されるかもしれないと思ったが了解してくださった。ありがたいことです。この連句は後日公開したいと思います。


8月25日(月)

『雨期』51号を入稿する。ぎりぎりまで推敲していたが、もうこれまでかと諦めた。我ながら往生際が悪いと思う。とにかくこれでゆっくり、一昨日とどいた『平成連句抄 月と花と恋と』(三省堂)を読むことができる。


8月24日(日)

町田の「市民文学館 ことばらんど」へ。渡辺元彦さんによる「山本陽子さんの詩について」の講演の後、朗読をする。「ワタル」を読んだら、息子さんがワタルという名だという方が、拙詩集を買ってくれた。荻悦子さんがいらしてくださり、20年ぶりの再会になった。司会は佛渕健悟さん。

昼食をはさんで連句大会。12の卓で、各地からいらした捌きの先生を中心に歌仙を巻く。付けるのに時間がかかるわたしを捌きの先生が忍耐強く待ってくださる。が、ちっとも上達していないことを痛感。「転じる」ということがまだ掴めない。かろうじて前句に「付いている」感じ。顔から何度も火が出る。3時間ほどで半歌仙(十八句)を巻く。今日も冷や汗。でもたくさんの人と知り合い話すことができて、刺激を受けた。町田までは約2時間。遠かった。


8月22日(金)

宛先が旧住所になっていて、転送されてくる詩誌や詩集があります。住所録の書き換えをお願いします。11月には送り主に返送されてしまいます。

『雨期』51号の編集作業が終わる。入稿は月曜日になる。最後まであがきます。


8月18日(月)

青梅へ。何があるというわけでもないのだけれど、名前に惹かれて今までに何度か来た。青梅には博物館や美術館がたくさんあるが、月曜日は休館。で、釜の淵公園へ。多摩川に取り囲まれた公園。園内を歩き、川の流れをぼんやり眺める。お土産に生蕎麦や茸を買う。ちょっと遠出した気分。

24日の連句大会に備えて、連句の本を読む。少しでも予習していかないと、一人だけプールに突き落とされたような事態になってしまうのです。


8月17日(日)

13日(水)来客あり、15日(金)お盆のため帰省。夕食に精進揚げを作る。16日(土)朝、提灯を提げてお寺へ〈送り〉に行く。田舎ではお盆の〈迎え〉と〈送り〉は大切な行事。東京生まれのわたしはまだそのしきたりが身に付かず、言われるままに動くだけ。

車中で『レヴィナス入門』を読む。「愛撫」とか「道具」、「手」「衣装」など、哲学用語とは思えないタームが次から次へと出てきて驚く。オリンピックの野球を楽しみに見る。25番新井のファンです。


8月11日(月)

『雪』は訳に難があり、読みにくい。主人公のKaを「あなた」と呼んでいた青年が、次には「あんた」と呼んで、全体にぞんざいな口調になったりするので、とまどってしまう。さらに「○○分後には殺されることになる」というような文章が一度ならず出てきて、興を削ぐ。何とかならないかなあ。

貧しい人々が娯楽をもとめてやってきた国民劇場で起こる惨劇。舞台の上の芝居がそのままクーデターにつながってゆく。観客は事態を把握できない。日本では考えられない緊張感のなかに在る国が世界にはいくつもあるのだ。


8月7日(木)

原稿がほぼ集まったので、『雨期』51号の編集作業を始める。途中になっていた「短篇通信」の続きを書く。時間ができるとオルハン・パムク『雪』(和久井路子訳・藤原書店)を広げる。トルコ(イスタンブール)の複雑な政情。12年ぶりに亡命先のドイツから故国へ戻った詩人のKaは、友人から少女たちの連続自殺事件の取材を頼まれる。わかりにく訳にも慣れた。宗教と政治の渦のなか、無神論者の詩人はどのように事件を解明していくのか。推理小説でも政治小説でもない新しい文学の世界に入っていくよろこびを感じます。


8月3日(日)

お知らせです。8月24日(日)、町田市民文学館で、詩人の渡辺元彦さんによる山本陽子さんの詩についての講演があります。渡辺さんは難解といわれる山本陽子さんの詩の解読作業を続けていらして、『〈するするながら詩〉のゆくえ』という著書もあります。その後、30分ほどわたしが朗読をすることになっています。午後は連句大会。参加ご希望の方は、須永までお知らせください。

日時 8月24日(日) 午前10時〜午後5時

場所 町田市民文学館2F 大会議室

会費 1000円(午前のみは500円)


8月2日(土)

O市の老親の家へ。先月までテーブルの上にあふれていた食材がなくなっている。トマトも揚げ物も煎餅の袋もない。捨てるものが少ないのはうれしいけれど、食べることに興味がなくなってしまったのなら大変なことだ。夕食は牛挽き肉100%のメンチカツ。一度作ったら気に入ってもらえたので、当分作りつづけるつもり。他にキャベツの千切りと枝豆、よせ豆腐、お赤飯。戦争中の話。父にとっては青春時代そのものなので、つらいことも懐かしいようである。

車中で熊野純彦『レヴィナス入門』(ちくま新書)。シンプルで比較的読みやすい。次は著作を読もうと思っている。


7月31日(木)

原美術館へ。副都心線で渋谷まで行き、JRに乗り換える。大崎で降りて、緑の多い坂道を歩く。『アート・スコープ2007/2008』-存在を見つめてと題して、ドイツと日本の画家4人の作品が展示されている。人が少なくてゆっくり観ることができた。館内のレストランで昼食。ペリエがシャンパングラスで供される。ていねいに作られていて美味しい。ここは穴場。

車中で『本居宣長』。下巻に入ってから、あまり進まない。今年中に読めればいいかと思う。家人が『小林秀雄とウィトゲンシュタイン』(中村昇著・春風社)を買ってくる。レイアウトのすてきな、おもしろそうな本。


7月30日(水)

『私家版・ユダヤ文化論』で取りあげられていたエマニュエル・レヴィナスに興味を持った。収容所体験のある哲学者。彼に初めて会ったモーリス・ブランショは、とても深いものがあるのを見て取ったという。哲学を学んだO氏がおしえてくれた『レヴィナス入門』をamazonに注文。レヴィナスはとても難解だそうなので、まずは心の準備を。

O氏は二十年来の知り合い。いつも重要なポイントで的確なアドバイスをくださる。停滞しているときも見放さずに、幾つもチャンスを与えてくれたし、と夕食の支度をしていて突然、導いてもらっていることに気づいた。わたしが師と仰ぐ詩人に引き合わせてくれたのもO氏でした。



7月26日(土)

箱根の彫刻の森美術館へ。25年前に行ったときにはなかったピカソ館。やっぱりすごい。
1階正面に掛けられたタペスリー「ミノトーロマシー」はミノタウロスの残忍な行為を、
ランプを手にした少女たちが見ている絵。
その迫力と見事な構図。2階の張り出したカーブから眺めたら圧巻でした。

戸外に展示された巨大な彫刻たち。前衛的な作品が多いのだけれど、
オープン・エアだから圧迫感がなく楽しく眺めることができる。

箱根湯本から登山鉄道で5つめが彫刻の森駅。
スイッチバックが3回あるので、35分かかる。
箱根は山のなか。

車中で内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』読了。とてもおもしろかった。
古今東西の人々がユダヤ人に畏れを抱き続けているのは、
彼らの思考方法と、
ユダヤの神と彼らとの関係であると著者は書く。
もっと紹介したいけれど、もったいないので止めます。
わたしの知らなかった世界の謎が少し解けてちょっと興奮。
寝る前にもう一度終章を読む。


7月23日(水)

財部鳥子さんの新詩集『胡桃を割る人』(書肆山田)を読む。ほんとうにうまい。詩でしか表現できない世界を、輪郭のはっきりしたことばで一気に(そのように思えるような勢いがある)描いて、美しい。季節の移り変わりを鋭敏に感受する詩人が豊かなことばをもって、自然のものたちに新たな力を与えていると思う。二度読んだ。もう一度読んで、感想を送ろうと思っています。


7月22日(火)

19日(土)いつもは買い物に行くときしか車に乗らないが、今日は郊外まで出かける。ちょっと自信がついた。ガソリンの値上げで、車の数は確実に少なくなっている。20日(日)たまった本を売り、残りは束ねてゴミに出す。21日(月)クラビノーバが届く。引越しのときに処分したけれど、いつかまた買おうと思っていた。昔に較べるとずっと安くなっている。今日からは音楽のある生活だ。


7月17日(木)

amazonにパムクの『雪』と『イスタンブール-思い出とこの町』を注文。隣町の書店で『わたしの名は紅』を見つけたが、どうしても『雪』から読みたかった。amazonサイトのレビューを見たら、『イスタンブール・・・』の訳がよくないという意見が多い。どんなだろう。届くのが待ち遠しい。

パムクの本が置いてあった書店は、主に文庫とコミックを扱っている。いくつかの棚は、書店のひとが好みで選んだものを並べているらしいと聞いて出かけてみたのだった。確かに、こだわりのあるひとが選んだ書物ばかり。うれしくなる。ときどき見に行かなくては。


7月14日(月)

昨夜、NHK教育テレビ「ETV特集」を見た。ノーベル賞を受賞したトルコの作家オルハン・パムクの、イスタンブールから京都への旅。よかった。見ることをやめない作家の姿をカメラが追う。パムクもデジタルカメラを離さない。若々しい風貌と穏やかで明晰な語り口。石牟礼道子と大江健三郎も出演していたが、パムクの知性のほうが際立っているように思った(異論はあると思うけれど、スケールが違う.)。作品を読もうと思う。


7月11日(金)

midnight pressのフリーペーパー「2008年夏、いま、詩はどこにあるか?」届く。執筆者は近藤弘文、清水あすか、chori、上田假奈代、タケイリエ、小林レント、柴田千晶、久谷雉、ヤリタミサコ、桑原滝弥、中村剛彦とわたし。熱い文章が並んでいる。7月13日(日)の東京ポエケットで配るとのこと。ぜひ手にとってみてください。

わたしはこれからどう書いていけばよいのか。『中空前夜』の後、やっとたどりついた答えを書いた。まだやるべきことをやっていないと思っています。

塚原敏雄さんから、お願いした『GATE21』のバックナンバーが届いた。うれしい。


7月8日(火)

今月に入ってようやく風が吹いてきたような気がする。だめなときはどうあがいても裏目に出るだけなので、そういうときはひたすらこもるのがいいと最近になってわかった。

猫がわたしの枕をベッドにしている。寝るときには枕の近くにいるが、朝起きると上で寝ている。ビーズの入った大きな枕である。猫と子どもは居心地のよいところにいくというけれど、ほんとうだ。わたしの周りを離れず、二の腕を狙っている。この間は本をめくったときに動いた力こぶを引っかかれた。カーブした爪は思ったよりも深く皮膚をえぐり、なかなか元に戻らない。


7月5日(土)

先日引用したのは「想像力と倫理について」の章。ここで内田樹は村上龍のエッセイを引用している。『恋愛の格差』(青春出版社)のなかで村上龍はこう書いている。

わたしたちは、状況が変化すればいつでもマイノリティにカテゴライズされてしまう可能性の中に生きている。だから常に想像力を巡らせ、マイノリティの人たちのことを考慮しなくてはならない

内田は「マイノリティの人たち」は「よくわからない人間」であり、「共感する」は、「よくわからない」けれど「私はあなたの権利を間も守ると言うこと」だと説明している。最後の一文は、この不安に満ちた社会に生きるわたしたちに大きな安心感を与えてくれるものだと思う。

私たちが共同体的に生きることができる人間というのは、私のことをすみずみまで理解し共感してくれる人間ではなく、私のことを理解もできないし、私の言動に共感もできないけれど、それでも「私はあなたの味方だよ」と言ってくれる人間のことなのである。

老親の世話をするために田舎へ。途中、池袋で昼食。空いていたので入ったTデパート上の沖縄料理店。ラフテーそばが不味くてがっかり。だし取ってないのではないかと思うような味。量も少ない。内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)を買う。


7月2日(水)

内田樹の『街場の現代思想』読了。「負け犬の遠吠え」について、フリーターや結婚についてコンパクトに論じていて、とてもおもしろかった。殊に倫理についての章。「倫理にかなった生き方のことを「合理的」と呼ぶのである」、そういうとらえかたがあるのかと驚いた。倫理と合理性とは結びつかないもののように思いこんでいた。お薦めです。

竹内敏喜さんの詩集『任閑録』(水仁舎)を読む。主体が思考する、ということを書いた詩だと思った。


7月1日(火)

詩人の中村剛彦さんが貸してくれた『ピロスマニ』のビデオを観る。20世紀初頭のグルジアの天才画家。1969年ロシア映画。二十数年前に池袋にあったセゾン美術館で展覧会を観た。稚拙といってもいいくらい素朴な絵だった。荒野に立つ牛やキリン、ライオン。食卓を囲むグルジアの人々。ピロスマニという名も不思議な響きをもっているので、忘れずにいた。

商売に失敗し、店の壁絵や看板を描いて報酬を得るという生活。一時は画壇から注目されるが、彼の無欲と協調性のなさが災いして、不当に貶められてしまう。貧困と失意のうちに死ぬのだが、最後まで画家としての誇りを捨てなかった。荒涼としたグルジアの風景が胸にしみる。

茨城在住の詩人、塚原敏雄さんからいただいた『GATE21』3号を読む。特集は散文詩。4人の同人が好きな散文詩を持ち寄って読書会をひらき、そのあと各自作品を書いている。時間をかけた詩誌。いいなあ。礼状を書く。バックナンバーも読みたいと思っています。


6月27日(金)

二人の詩人と池袋で会う。ここ数年一つの場所で書きながら、詩の話をしている。詩は単独で書くものだけれど、わたしのやっていることを理解してくれる仲間がいて、それを確認する時間をもつというのはいいものだなと改めて思った。

花の金曜日というのに、西武池袋線は空いていた。なぜ?


6月26日(木)

内田樹の『街場の思現代想』(文春文庫)を読んでいる。軽い読み物。若いひとたちの行動がよくわかる。自分の好きな作家の本はよく読むが、他には目もくれないので、話が広がらないと書いてあった。なるほど、うちの娘たちにもそういうところがある。音楽でも気に入ったアーティストしか聴かないので、他人との会話も成立しない。

先日テレビでフリーターの部屋を映していた。家具がほとんどないようだった。モノを床や畳の上に置く。当然足の踏み場がない。メイド喫茶で働いているアイドル志望の少女は、100円ショップで買ったらしいバケツを逆さにした上でコンビニ惣菜を食べていた。そこには暮らしというものがなかった。不気味だと思った。


6月23日(月)

小林秀雄『本居宣長』の上巻をようやく読み終える。小林秀雄は宣長の仕事を検証しながら、自身を語っている。『古事記』と『源氏物語』を読み解いた宣長を「優れた歴史家」と位置づけて、次のように書く。

・・・総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知ることに他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味うことが出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。

井坂洋子さん、佐々木安美さん、高橋千尋さんの詩誌『一個』を読み、礼状を書く。


6月22日(日)

堀江敏幸の『河岸忘日抄』あと数ページを残すところまで、ギブアップ。疲れてしまった。寝ころんで読んでいると、すぐに眠くなる。格調高い文章なのだけれど、博学なのはわかるけれど、もっとシンプルに書いてくれれば読みやすいと思う。


6月18日(水)

先日お会いした画家の植垣歩子さんから、できたばかりの絵本
『すみれおばあちゃんのひみつ』がとどく。
ほのぼのとしたかわいい話。
裁縫箱や仕事部屋など、すみずみまでていねいに描かれています。
書店や図書館で見かけたら、ぜひ手にとってみてください。


6月15日(日)

疲れがたまったので、緑を見に行く。小金井公園へ。こじんまりしていて、桜の季節でなければ、のんびり散歩できる。園内の江戸東京たてもの園には歴史的に価値のある建物が移築されている。一見の価値あり。何度も行っているので少し飽きたが、いくつかを見て、絵はがきを買う。重かった肩がほぐれたように感じられる。

堀江敏幸の『河岸忘日抄』を読んでいたら、ショスタコーヴィチの名が出てきた。この作曲家については何も知らない。PHILIA PROJECTの小沢恵美子さんが昨年からショスタコーヴィチを踊っている。案内をくださるのだが、タイミングが悪くて見に行けないでいる。ショスタコーヴィチについて調べてみよう。


6月12日(木)

先週ラフマニノフのCDを購入して、毎日聴いている。自作自演のもの。2週間ほど前にテレビで有名な日本人ピアニストがラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を弾いていた。あまり楽しそうではなかった。ポピュラーな曲である。確か映画『シャイン』で、主人公が弾いていたと思う。CDが欲しくて池袋のWAVEへ行った。たくさんあるなかから、本人が演奏しているものを選んだ。

1929年の録音なので、音はよくない。指揮はレオポルド・ストコフスキー。フィラデルフィア管弦楽団の演奏はロシアっぽい感じ。かなり重くて暗い。アシュケナージのにすればよかったかなと、ちょっと後悔。


6月9日(月)

娘が図書館で借りてきた吉本ばななの『ハゴロモ』(新潮社)を読む。文字で書かれた漫画のよう。スピリチュアルな世界の話。このひとの作品を読むといつも推敲すればもっとよくなるのにと思う。

短い手紙を4通、草稿を1つ書く。ひからびたムカデの死骸を発見。あやうく手でつまむところだった。落ちているものは、まず踏んでみることにしよう。


6月6日(金)

故田中佐知さんの絵本『木とわたし』(定価1000円)が、朱鳥社より刊行された。絵は植垣歩子さん。お祝いの食事会に関係者の一人として出席した。ご遺族と出版社の方、画家さんの計8名。

「窓辺」「道」「木とわたし」「たとえば/一本の木が」の4編。詩にふさわしい心温まる絵がついています。子どもから大人まで楽しめる絵本です。たくさんの方が手にとってくださることを願っています。

お母様の志津さんは91歳。『信濃川』など4冊の小説を書かれた現役の作家。『佐渡金山を彩った人々』という著作があり、佐渡に文学碑が建立されている。凛とした品格のある女性で、佐知さんやご自身のお仕事について話されることばは美しく、記憶は確か。これまでお写真を何度も見ていたので、昔からの知り合いのような気がする。ご遺族は佐知さんの創作意思を伝えようとさまざまな活動をなさっていて、今日もお住まいのあるいわき市から上京された。


6月3日(火)

行定勲監督の『ロックンロールミシン』を観る。2002年製作の映画だが、70年代のような雰囲気。意図したのか、ただ古びただけなのか、わからないけれど、エアコンのないアパートの一室、ミシンの音、昔の女子大生みたいな主人公の恋人。4人の男女がデザイナーズ・ブランドを立ち上げようとする物語。もっと全体が軽いとよいのにと思った。加瀬亮・池内博之・りょう等が出演している。

山岸光人さんに礼状を書く。何度も読み返し、松下育男さんの詩集を読み、やっと感想をまとめた。


6月1日(日)

山岸さんの文章をコピーして知人に送り、読み返す。最後におかれた山岸さんの「雑司が谷墓地まで」という詩もいい。亡くなった小坂さんに語りかける詩。燃えるキリン、サバンナの石、うずくまってふるえる「きみ」。読むことができてよかったと思う。

パソコンの具合がよくないので、これまでに書いた詩をCDーROMに入れる。次の詩集を作るのはいつになるかわからないけれど、『わたしにできること』を出してから10年経ったので、そろそろ考えてみようかと思っている。


5月29日(木)

山岸光人さんから詩誌『たまたま』16号とどく。山岸さんが「懐かしのメロディー ー松下育男さんの詩集を読んだ頃ー」という文章を書いている。松下さんの詩誌『生き事』2号に、山岸さんの文章が転載されるに至った経緯から始まって、70年代終わり、学生運動、小坂さんという女性の存在、松下さんの詩集との出会い、小坂さんの死などが、当時の現代詩を引用しながら語られている。青春のほろ苦い日々と深い喪失感。いい文章である。

わたしより少し年長だと思う。学生運動にかかわったなかで考えたことを手放さず、自分の場所で書きつづけている詩人である。一昨年初めてお会いした。物静かな、青年のような方だった。山岸さんは2006年に『70-78』という小さな詩誌を出している。探して読み返す。わたしの詩について書いてくださっている。タイトルは「懐かしのメロディ」。


5月28日(水)

詩誌『雨期』に連載している「短篇通信」をアップしています。まずは2001年9月に書いたもの。ジム・クレイスの『死んでいる』はすごい小説です。
クレイスはイギリスの作家。無神論者。死体が腐敗する様子を冷徹に描いています。他にジョン・チーヴァー、中上紀など。

堀江敏幸『河岸忘日抄』を読んでいる。このひとは上手すぎるのが難かもしれない。数ページ読んだだけで、うなってしまった。伝説の鮫と船長の話。この挿話は『アザーズ』に似た手法だと思った。表が裏に、裏が表になるのだ。説明は省きますが、興味を持った方はぜひ読んでみてください。


5月26日(月)

『人生ベストテン』読了。40に近い女性が主人公。彼女たちはゆるい日常を変えるために、一人旅をしたりマンションを探したりする。男に失望しこれまでの生活が色褪せて思えるのだ。表題作は、中学の同窓会で昔のボーイフレンドと会う話。二人はそのままホテルに行くのだが、後になって男はボーイフレンドではなかったことがわかる。若くない女たちのほろ苦い日々。騙されたり嫌な思いをしたりするが、主人公たちは「まあいいんじゃないの」と納得して終わる。そこが今風で、よいと思う。


5月22日(木)

角田光代の『人生ベストテン』(講談社文庫)を買う。エッセイ集かと思ったら短篇集だった。「床下の日常」を読む。クロス屋見習いの若い男が、マンションの水漏れ修理をする数時間のあいだに起こったできごとを話すスタイル。好奇心いっぱいの少年のような主人公がさわやか。

自分より若い人間の書いたものは読まないというひとの話を聞いたことがある。そんなもったいないことと思っていたけれど、最近は名前をよく見かけるのに、なかなか読む気になれない作家がいる。若くて売れっ子だったりすると、ちょっと引いてしまうところがあります。よくないなあ。


5月20日(火)

オースターの『最後の物たちの国で』を再読する。やっぱりおもしろい。暗くて気持ちが沈むような話だけれど、サバイバル物語のスリルが味わえる。

主人公のアンナは美しい風景を見ると記憶しておこうと思うのだが、後で再現しようとしてもできない、懸命に記憶しようと努力したことを思い出すだけだという箇所がある。レイモンド・カーヴァーのことばを思い出した。「ひとが墓まで持っていけるのはがんばったという記憶だけだ」というもの。オースターとカーヴァーが重なって、うれしくなった。


5月18日(日)

今週23、24日に小沢恵美子さんのソロ・パフォーマンス公演があります。お時間のある方はぜひ。わたしは地方に出かけてしまうので観に行けないのですが。

花粉症の第二弾がやってきた。早めに直そうと薬を飲んだ。一日中どんよりと眠い。薬は就寝前だけにしたほうがいいようです。


5月14日(水)

amazonで『本居宣長とは誰か』(子安宣邦・平凡社新書)を買う。帯文に「宣長は日本というアイデンティティを考察した最初の思想家」とある。納得。

昨日ムカデが玄関に入ってきた。動きが速い。強い。怖い。ムカデは布団のなかに入ってくることもあり、噛まれると痛いという。そんなおそろしい虫なのか。むかし読んだ『足長おじさん』を思い出す。ツタの這う寮の部屋にムカデが出て、虎のほうがマシだとジュディはおじさん宛の手紙に書いた。よくわかる。このあたり、昨夏にはタヌキが出たとのこと。ぜひ見てみたい。


5月11日(日)

早稲田の小野記念講堂で『みつつのうたでドドントカ』という公演を観る。作曲家の鶴見幸代さんと振付家の山田珠実さんが知的な障害をもつ人たちと音楽やダンスのワークショップを重ねてつくった舞台。知人の高橋あいさんに案内をもらって、すぐに観覧申込みをした。でも今朝になってためらうものがあることに気づいた。

スタッフと障害をもつ人が一緒に歌い、踊る。みんな楽しそうである。けれどもただ観ているだけでいいのだろうか。もちろん何もできないが、客席で彼らの動きを追い、声を聞いていることに後ろめたい気持ちが湧いた。演出家の二瓶龍彦さん、パーフォーマーの祥子さんと小沢恵美子さん、オータ・ナオさんにご挨拶。


5月7日(水)

連休初日から家族が寝込んでいるので、どこにも行かずに読書三昧の日々。レイ・ブラッドベリの『さよなら僕の夏』(北山克彦訳・早川書房)読了。55年を経て書かれた『たんぽぽのお酒』の第二部。主人公のダグラスは14歳になっている。少年たちはおもちゃのピストルで老人を驚かせ、郡庁舎の大時計に爆竹を仕掛ける。期待していたほど楽しめなかったのは、わたしは年を取ったからか。ダグはまだ幼さの残る少年だが、弟のトムは賢く、おじいちゃんはかなりの人格者。度の過ぎたいたずらも叱らずに、自分のやったことをよく考えるようにやんわりと話をもってゆく。こういうお年寄りが近くにいたらよかったのにと思う。

合間に『本居宣長』。今年は『源氏物語』が生まれて千年。この大ベストセラーを「物のあはれ」をキーワードに読み解いたのが本居宣長である。よい時に読んだと思う。とはいえ、まだ四分の一。先は長い。


5月4日(日)

山本楡美子さんが編集発行する『ぶりぜ』4号が届く。わたしも参加させていただいた。執筆者は香川紘子さん、新倉葉音さん、郷原宏さん、山本楡美子さん。

「星の下で」という詩を書いている。うまくいかなかったと思う。直喩を使わない、説明をしないことを考えながら書いた詩。失敗作かもしれないけれど、そのときはこれしかないという気持ちだった。お読みになりたい方はメールをください。


5月2日(金)

若い友人から、「みっつのうたでドドント力」の公演の案内。先月久しぶりに顔を合わせた。写真家の高橋あいさん。美術担当の彼女も出演するそうなので、行ってみようと思っている。


5月1日(木)

国分寺へ。駅ビルのなかにある武蔵野茶房でお弁当とコーヒー。
若布ご飯、肉じゃが、卵焼き、茄子の煮浸し、柴漬け、お味噌汁で1050円。
量もほどよく、ていねいに作ってあるのがうれしい。
コーヒーはちょっと高いけれど1.5杯分くらいの量。
いつも小さな花が一輪添えられています。
ウェイトレスさんの白いレトロなエプロンがかわいい。
店内は落ちついたマホガニー色。必ず立ち寄る店です。




4月29日(火)

新宿パークタワーホール『イメージフォーラム・フェスティバル2008』で、鈴木志郎康さんの作品『極私的コアの花たち』を観る。2006年に毎日庭の花を撮影した10時間分の映像を50分にまとめたものという。紫陽花、チューリップ、アマリリス、芍薬、クリスマスローズ、月見草。芽が出て花が咲き、枯れてゆく。庭は緑にあふれ、台風に見舞われ、冬が来る。また季節の移り変わりとともに、腰と足を痛め歩行困難になるという生活が語られる。観客であるわたしたちも、花々の変化に生を重ねるまなざしになっていく。ファンキーな音楽と志郎康さんの温かみのあるナレーションが楽しい。

北爪満喜さん、川口晴美さん、薦田愛さんがいらしていた。ご挨拶だけして、有楽町へ。小学校時代からの友人、宮崎真弓さんの絵を観る。宮崎さんは抽象画の画家で、コンスタントに個展をひらいているが、今回は大学の同窓生のグループ展。ステンドグラス、風景画、ヌードなどジャンルはいろいろ。メンバーのみなさんを紹介してもらう。同年齢というのは何だかうれしい。

さらに銀座三丁目へ。北爪さんからご案内をいただいたビルでの写真展示を観る。すでにサイト上で観たものもあったが、フレームに入っているのを観るとまたちがってみえる。川面にレジ袋が浮かんでいる写真に惹きつけられた。なぜかビニール袋というものが気になってしかたない。そういえば、先ほど倉庫で踊る女性の映像作品を観た。倉庫には花畑のように白い花が展示されている。レジ袋で作ったものだと最後の挨拶で作者が言っていた。女性とレジ袋の組み合わせに興味を持った。


4月28日(月)

『わたしたちが孤児だったころ』(早川書房)読了。何とも複雑な物語。上海の租界で暮らしていたクリストファーは父母が失踪し、10歳で孤児になる。その後イギリスで教育を受け探偵になったクリストファーは両親を探すため、日中戦争が勃発した上海に戻る。

幸福な少年時代が回想される。階段の何段目で誰を見たか、どんな表情をしていたかというようなことが細かく描写される。舞台はさらにロンドンの社交界、戦時の上海へと移ってゆく。記憶を追う旅。そして知る両親の失踪の真実。1954年長崎生まれのイシグロは5歳で渡英し、イギリス国籍を取得している。その距離ゆえに日中戦争の時代を背景に小説を書くことができたのだと思う。

日本軍に助けられたクリストファーは司令部で手当を受け、日本人の大佐に言う。「あなたの国が中国を侵略したために大虐殺が起こって後悔しているでしょう」。イシグロは教養ある大佐に「もし日本がイギリスのような偉大な国になろうとしたら、これは必要なことなのだ」と答えさせている。日本の作家はこのように書くことはないだろうと思った。


4月27日(日

レッドアロー号で秩父へ。何があるわけでもないのに毎年のように出かけていく。いつもは人通りの少ない商店街で囃子大会をやっていて賑やか。観光地だけれど、すれていない大らかな山間の町である。SLが走っている。昼食は蕎麦豆腐と黒はんぺん(いわしのつみれ)、せいろのセット。武甲酒造で武甲正宗を買う。1753年創業の酒蔵。歴史を感じさせる重厚な店内。いつ来てもすばらしいと思う。緑の風をたくさん浴びて帰宅。

車中で『本居宣長』。やっと190頁ほど。


4月23日(水)

柴田千晶さんの詩集『セラフィタ氏』(思潮社)を読み、礼状を書く。今年の話題をさらう詩集になることは間違いない。都会に生きる派遣OLの「私」をめぐる連作詩篇。卓抜な展開と構成。サスペンスドラマを見ているように緊張しました。若い女性の抱える闇と生々しい痛みが伝わってきます。

『本居宣長とは誰か』(子安宣邦・平凡社新書)を買いに行くが、このあたりの書店には置いてない。それで語学講座のテキストを数冊購入。


4月20日(日)

時間があると小林秀雄『本居宣長』。漢文に四苦八苦しながらも、読み進むにつれて少しずつ目の前が開けてきた(と思う)。

心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさえ言えよう。

彼が、式部という妙手に見たのは、「物のあはれ」という王朝情趣の描写家ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった。

このように優れた思想家と批評家の書物を手に取ることができる幸福を思う。今年中に最後まで読めるだろうか。


4月17日(木)

『力・考える力のレッスン』をもう一度読んだ。神山さんはご自身の経験を語りながら、よりよく生きるとはどういうことかを説くとともに、優れた本を紹介してくれている。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』や大江健三郎の『さようなら、私の本よ!』、高橋源一郎の『さよなら、ギャングたち』。わたしはこれをまだ読んでいない。絶版らしいのだが、何としても読まなくては。神山さんに礼状を書く。

amazonにカズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』を注文する。


4月14日(月)

鈴木志郎康さんの『声の生地』読み終わる。感情を排して、子ども時代の光景や家について記録した「詩の書き出し」は圧巻。「ギューン、ギュルルン、ギュルルン、パッ」という映像が切り替わる音が効いている。幻灯を見ているように、文字で書かれたことばが立ち上がってくる。戦争や疎開のことも記されている。わたしの両親は志郎康さんより上だけれど、戦争時代の話はほとんどしなかった。語るとか書くといったことと無縁な人たちだった。〈詩人〉というのはやはり特別な存在なのだと思う。こう書くと誤解を招くかもしれないが、書き記すという習慣はふつうのひとにはない。思い出すことが考えることになる。おそらくふつうの人は思い出すだけだろう。

話す口調、話すスピードで書かれた詩。「極私的ラディカリズム」「詩について」は詩を書くわたしたちに力を与えてくれる。

葉を使うってこと、善し悪しは考えない。
言うってことを続ける。または書くことを続ける。
小さなことを言う。また小さなことを書く。      (極私的ラディカリズム)


生きる自由だ、
詩は。
他人から遠く、
密かに、
元手も掛けずに、
言葉を社会から奪って、
世界を名付ける                     (詩について)


4月13日(日)

『サウスバウンド』を観る。原作は奥田英朗、森田芳光監督。上下巻の原作を2時間ほどに縮めてあるということで、主人公の上原一郎が過激派学生だったことについてはあまり描かれていない。「ナンセンス」とか「展開しろ」ということばが飛び交う程度。著者の年齢からしても、学生運動は過去のものだったはず。そのためか、明るく楽しい映画になっている。舞台は東京下町から一郎の生まれ故郷である西表島に移る。父の過激な行動に困惑していた子どもたちが、南の島に渡ってみるみるうちに元気になっていく。

天海祐希は毅然としていて、元学生運動家という雰囲気。自ら経営する喫茶店でも詩の朗読。何だか恥ずかしくなりました。豊川悦司も適役だと思うけれど、最近は話題作はほとんどこの人が演じているみたいな気がする。この年代の男性俳優は他にいないのだろうか。


4月9日(水)

『読む力・考える力のレッスン』読了。語り口はやわらかく、内容は深い。思春期に神山さんのように深い知識をそなえた大人が周囲にいたら、わたしはずいぶん救われただろうと思う。神山さんの著書はいつもわたしを励ましてくれる。もう一度読んでから感想を書こうと思う。

鈴木志郎康さんの『声の生地』(書肆山田)を読み始める。志郎康さんの映像作品を観ているみたい。いくつか拝見したことがある。映像作品にはご自身のナレーションが入っていて、その声が聞こえてくるようだ。


4月6日(日)

岩井俊二監督の『花とアリス』を観る。二人の女子高生、ハナ(鈴木杏)とアリス(蒼井優)の話。ハナは片思いの男子が自転車で転倒したのをいいことに、記憶喪失であると思いこませ、自分と付き合っていたことにしようとする。元カノということでアリスも片棒をかつぐのだが、彼はハナではなくアリスに惹かれていくのを不思議に思う。

モデル希望のアリスがオーディションでバレエを踊るシーンが圧巻。シューズの替わりに、紙コップをガムテープで巻き付けて踊る。その集中力、身体の底からあふれる喜びに輝く顔。いい女優さんだと思う。


4月4日(金)

八木幹夫さんに礼状を書く。昨夏にいただいたままになっていた山本博道さんの『ダチュラの花咲く頃』(書肆山田)と白鳥信也さんの『ウォーター、ウォーカー』(七月堂)を読み、礼状を書く。神山睦美さんの『読む力・考える力のレッスン』(東京書籍)を読み始める。「優れた作品の言葉を読み取りながら、思春期にぶつかる人生の問いを考えていく。よりよく生きる親と子のために」と帯にある。夏目漱石や村上春樹の小説が紹介されていて、たまたまめくって読んだ村上春樹の「ハナレイ・ベイ」の深い読み解きに驚く。わたしは特に考えることもなく読み流していたのだった。娘の一人はまだ思春期にある。心して読もうと思う。

アサリがおいしい季節。それでこの春は鯛のアクアパッツァをしょっちゅう作っている。鯛の切り身をアサリやトマトと一緒に蒸し煮するもの。鯛の皮は硬いので、フライパンで焼き目を付けてから蒸すのがいいと思う。水と白ワイン(日本酒)、黒オリーブを入れて蓋をして5分。最後にイタリアンパセリ(ふつうのパセリでも)を散らす。簡単なのに豪華にみえる。ぜひお試しください。


4月3日(木)

久しぶりに吉祥寺へ。東急デパートの横を歩いていて、昔このあたりの店に何度か行ったなあと考えていたら、かすかに記憶に残っていた建物が目の前にあるので驚く。店の名は変わっていたが、その下に「旧バンビ」と書いてあった。25年ぶりだ。小さな3階建てのビル。壁には織田廣喜の絵。「赤い帽子の少女」で有名な画家。狭い階段の壁にも絵が架けられていて、織田廣喜ギャラリーという感じ。

年配の客や家族連れが多い。昔から通っているのだろう。サーヴィスも料理もよかったけれど、残念ながら味が濃すぎた。


4月2日(水)

図書館の会議。その後、恒例のお花見。うずらの煮卵と蒟蒻の炒り煮を差し入れ。桜はまだ満開。

八木幹夫さんの『夜が来るので』(砂子屋書房)を読む。八木さんらしい厚みのある作品群。カズオ・イシグロの『わたしが孤児だったころ』を読み始める。


3月30日(日)

小金井公園へ。空が見えなくなるほどの白い満開の桜。怖いくらいに美しい。花見客の数もすごいが、寒いので今ひとつ盛り上がっていない様子。早々と帰宅。この春はお花見弁当を作らないで終わりそう。ちょっと淋しい。

佐藤恵さんと岬多可子さんに詩誌の礼状を出す。新しい詩を書きはじめる。発表する予定はないけれど。とりあえず「雨期51」というタイトルをつける。


3月25日(火)

隣町の書店でブラッドベリの『さよなら僕の夏』を買おうと思ったのだが、置いていないので、書棚に並んでいたポール・セローの『ワールズ・エンド』を買う。十数年前に読み、「世界の果て」というタイトルに惹かれて、同じ題名の詩を書いたことがある。今回読み返したら、ワールズ・エンドはロンドンの地名。アメリカからロンドンに移住した一家の話。幸福だとばかり思っていた夫は、幼い息子と妻のことばの端々から、家庭が崩壊しつつあることを知る。ちょっと怖い短篇小説。

『さよなら僕の夏』をamazonで注文する。その前に前編である『たんぽぽのお酒』を再読しようと思う。

久しぶりにチキン・カチャトーレを作る。鶏もも肉を焼いて、白ワインとアンチョビで煮たもの。他に白インゲン豆、黒オリーブ、インゲン、トマト、エキストラバージンオイル、にんにく。用意する食材が多く、玉葱を30分ほど炒めるという手間があるので、作るのは年に一度くらい。手間を惜しまなければ誰が作ってもおいしい料理だと思います。


3月23日(日)

瑞穂町のモールへ。東京都羽村市。山が近い。ここまで来るとドライブをした気分になる。最寄り駅はないのかも。車で来るしかない場所。

荻上直子監督の『めがね』を観る。南の島の民宿に集まる5人の物語。海と緑が美しい。清潔な民宿にゆっくり流れる時間。何といっても、もたいまさこさんがよい。ひとを寄せるちからを持つ、おじさんのようなおばさん。前作『かもめ食堂』と同じ匂いのする映画。


3月21日(金)

『空中ブランコ』読み終わる。プロ野球選手を扱った「ホットコーナー」がおもしろかった。入団十年目の三塁手が一塁に送球できなくなる話。怖さのあまり暴投してしまう。「イップス」ということばを初めて知った。自分の考えていることが体に伝わらなくなり、意に反した動きをしてしまうことだという。元々はピアニストの指が動かなくなることを言ったそう。

「女流作家」はトレンディドラマのような話。恋愛小説を量産する流行作家。書きはじめるうちに、この男女の組み合わせ(商社マンとキュレーターとか)はもう使ったのではないかと不安になり、嘔吐してしまう。若い後輩作家との対談には女の愚かさと醜さがこれでもかと盛ってあって、おかしい。著者はコピーライター、構成作家を経て作家になったひと。なるほどと思った。


3月19日(水)

奥田英朗の『空中ブランコ』を読んでいる。精神科医の伊良部を主人公とした連作短篇小説。一話完結のテレビドラマのよう。伊良部はつかみ所がない男だが、患者の生活に入っていって神経症を緩和させる力を持っている。100キロほどの巨体で怖いものなしの、子どものような男。

尖端恐怖症のヤクザが出てくる。男は包丁はもちろん、フォークも箸も見るだけで脂汗が出る。わたしは裁ちばさみがだめである。抽出をあけてそれが目に入ると、ジョキーンという音が聞こえ背筋が寒くなる。どうしても何かを断ち切るところを想像してしまう。心底怖い。小さなものはだいじょうぶである。ついでにフードプロセッサーもだめだ。食材を粉砕する音を聞くのが苦痛である。これは小さいころに病院でギプスを取るときに感じた恐怖とつながっている。


3月15日(土)

六本木ルーテル教会でオータ・ナオさんのパフォーマンスを観る。少し遅れて行ったら、水の入ったボールをそっと運んでいるシーンだった。水がときどきあふれて、オータさんの手を濡らす。これまで観たいくつかの公演は激しい動きのものだったけれど、今回は静か。それがだんだん激しくなってくる。12歳の少年fを演じるナオさんが何度も床に倒れ、両手で胸や腹を叩く。死を体現したパフォーマンス。そのあと激しい動きで踊り、呼吸が荒くなる。呼吸が静まってゆくのを、観客であるわたしたちは見まもる。再び、水の入ったボールを手に取り、静かに運ぶ。今度は飲むという行為が加わる。ガラスのボールに明かりが映って、祈りのように見えた。

終わってからオータ・ナオさんと話すことができた。いらしていた稲川方人さんとPHILIA PROJECTのみなさんにご挨拶して、帰宅。温かい日で六本木の街を歩くのに最適の日でした。

親しい友人の息子さんが数年前に自死した。14だった。物忘れがひどくなっていくのを悩んでいたけれど、友人はたいしたことではないと思っていたという。若年性のアルツハイマーだったかもしれない。家から数分ほど離れた団地に行き、飛び降りたそうである。友人とわたしが一緒に子どもを育てた団地だ。数か月経ってお焼香に行った。無宗教ということで仏壇はなく、その年は桜がとても早く咲いたのだと友人は唐突に話し始めた。息子の死を、例年と違う桜の開花に結びつけたかったのだと思う。そんなことがあったので、12で自死した岡真史さんの詩集を出版したご両親の気持ちが少しわかるような気がする。


3月14日(金)

今日(19時30分〜)と明日(15時〜・18時〜)、六本木ルーテル教会にて、オータ・ナオさんのパフォーマンス公演「降ル群青、落チタ空ニ身ヲ投ゲタ児ラハー岡真史に」があります。お時間のある方はぜひ足をお運びください。設計は二瓶龍彦さん。

高見順賞の受賞パーティへ。北川透さんと稲川方人さん、おめでとうございます。昨年はこういう集まりに行かなかったので、みなさんにお会いできてよかった。稲川さん、司会の井坂洋子さん、選考委員の新井豊美さんとたくさんのお話をした。岡田幸文さん、祥子さん、手塚敦史さんと受付で会って安心する。他に中尾太一さん、鈴木東海子さん、福間健二さん、八木忠栄さん、添田馨さん、中本道代さん、財部鳥子さん、岡島弘子さん、一色真理さん、鈴木一民さん、宗近真一郎さん、倉田比羽子さん、上久保正敏さん。手紙のやりとりだけだった岬多可子さん、野木京子さん、佐藤恵さんとお目にかかれたのもうれしいことでした。出不精だしパーティはとても苦手なのだけれど、出かけてよかった。


3月13日(木)

小林秀雄の『本居宣長』を車中で読む。漢文の引用も外だと集中して読むことができる。江戸前期の儒学者である中江藤樹についての文章につよく惹かれた。

「藤樹という人は、この、事の自然の成り行きに適応した人々の無意識性から、決定的に離れた人だ。彼は時の勢を拒否もしなかったし、これに呑まれもしなかった。ただ眼を内側に向ける事によって、きわめて自然に孤立した。その有様が、「藤樹先生年譜」に、よく現れている」

「この、事の自然な成り行き」とは、戦国の時代、下克上の世の中にあって、支配者がめまぐるしく変わっていくことだといっていいと思う。庶民の意識も生活も多大な影響を受けたであろう。そのなかで学者としての姿勢を貫いた藤樹という人間を語る小林秀雄の文章は、今読んでも新しい。


3月12日(水)

いただいたままになっていた詩集を読む。五月女素夫『月は金色の星を釣り』、中村不二夫『コラール』、嵯峨恵子『悠々と急げ』、後藤美和子『大地の黄身』。礼状を書く。こんなふうに詩に向かうことができるのをうれしく思う。

温かくなったので、できるだけ歩くようにしている。きょうも遠くまで買い物に行き、往復1時間ほど歩く。家しかない街。小さな川、梅の木、丘陵が見える。


3月9日(日)

ゴダールの『勝手にしやがれ』を観る。わたしにとってゴダールは百科事典に載っていた映画の監督なのだけれど、今観てもちっとも古くない。若き日のジャン・ポール・ベルモンドはチャーミングだし、ジーン・セバーグはとても美しい。自動車泥棒をくりかえすミシェルがパリに行き、アメリカ娘パトリシアの部屋に転がり込む数日間のできごと。

トリュフォー脚本の台詞がいい。ひとは生活するなかでどうでもいいことばかりしゃべっているものなのだとわかる。


3月7日(金)

大事なメールが届かないことがある。どういうわけか迷惑メールにふり分けられてしまう。迷惑メールは一日に100通くらい来るのでチェックしない。それで二人の詩人からの原稿を受け取ることができなかった。締めきりや約束があるときは確認するべきだった。わたしの手落ちである。

『ミシシッピは月まで狂っている』の続き。旅の途中で出会った他国の頭のおかしな青年が「ファ・・・」を連発するという話があまりにも長いので、うんざりする。本筋とはまったく関係ないでしょう?


3月3日(月)

雛祭りは五目寿司と蛤のお吸い物と決めている。国産のハマグリは高すぎて買えない。中国産の4倍くらいの値段。あきらめることにした。乾物も中国産が多いので注意しなくては。

家の前の藪が伐採された。クレーン車やフォークリフト、チェンソーを使う数日がかりの作業。近隣住民には何も知らされていない。竹藪が消え、大きな木が2本残るだけになった。向こうの駐車場と家々が見える。この後どうなるのだろう。また竹がぐんぐん伸びるのか、駐車場が広くなるか。マンションが建つということありうる。でも今週は何の進展もない。なぜ?


2月29日(金)

立川へ。久しぶりの買い物。立川にはルミネや伊勢丹、高島屋がある。駅のなかに新しくデュオというショッピングモールができていて、すごい人出。いろいろ見たけれど服は買わず、詩人の佐藤恵さんにおしえてもらった三上鰹節店で、亀節とゆず七味と芋がらを買う。乾物のいい匂いがする店。立川に行くときは必ず立ち寄ります。さらに富沢商店(伊勢丹の地下にある食材の店)で菩提樹のハチミツ(国産。スーパーにあるのはほとんどが中国産です)と沖縄の塩、昆布などを購入。

ベトナム料理の店でランチ。ベトナムコーヒーは100円。カップに練乳が入っていて、その上でコーヒーを抽出する。かき混ぜ方によって甘さが変わるというもの。


小池昌代さんの詩集『ババ、バサラ、サラバ』を読む。現代詩の枠から抜け出して、伸び伸びと書かれた詩。


2月24日(日)

ゴダールの『気狂いピエロ』をビデオで観る。先日久しぶりにTUTAYAに行ったらゴダールのコーナーがあった。それでゴダール熱がやってきた。1967年の映画だけれど今でも新しく感じられる。倦怠の匂いがする深夜のパーティから始まる逃避行。ミュージカル、ロードムービー、サスペンス、サバイバル物などがコラージュ風になっていて、「ジェットコースター映画」の走りのようだと思った。破滅に向かって突き進むフェルディナン(ジャンポール・ベルモンド)と組織の女であるらしいマリアンヌ(アンナ・カリーナ)。フェルディナンは読書と書くことを愛する男である。ランボーの詩が引用されている。マリアンヌは感情に生きる嘘つきの美女。おもしろかった。来週は何を借りようかな。


2月21日(木)

警察署に行き車庫証明の申請書を出す。何人も並んでいるのに係のひとがいない。奥では野村克也に似たおじさんが何をするでもなく退屈そうに机の前に座っている。暇なら窓口で応対してくださいと言いたくなる。それから車検場へ住所変更の書類をもらいに行く。牛沼というところ。近くには松郷という地名も。田舎だなあ。

『本居宣長』を読んでいるが出かけることが少ないのでなかなか進まない。寝る前には駒沢敏器の『ミシシッピは月まで狂っている』。これも一向に進まない。文章に何かひっかかるものを感じて、今夜はもういいやと思ってしまう。


2月17日(日)

「図書館まつり」2日目。チラシを配り、パネル(所沢ゆかりの作家、市内の文学碑)を見ているひとに説明したり、質問を受けたりする。昨日、同人誌を見てメモを取っているひとがいたので、話しかける。俳句の冊子を発行しているとのこと。司書さんに紹介して雑誌コーナーに置くことになった。役に立ててよかった。

「集会室の窓から額縁に入れたような富士山がみえる」という、この図書館について書いた小説があるのだそう。来館者の方がおっしゃっているのを小耳にはさみ、検索してみたがわからない。高橋玄洋さんか天童荒太さん、奥泉光さん(いずれも市内在住)あたりかと思ったが、違うようだ。その窓から夕焼けの富士山を眺めて帰宅。


2月14日(木)

久谷雉さんにお願いして送ってもらった『ふたつの祝婚歌のあいだに書いた二十四の詩』を読み、礼状を書く。すばらしい上手さ。柔らかく温かみのあることばで作られた小宇宙と思った。

テレビで放映していたナタリー・ポートマンの『あなたのために』を観る。アメリカの田舎が舞台。ウォルマートに置き去りにされた妊婦が素朴な住民に救われる話。アシュレー・ジャッドが珍しく明るい子持ちの友人役で出ている。原作が古いのか、ちょっと間延びした感じ。


2月10日(日)

花粉の症状が出ている。立体マスクと眠くならない花粉症の薬「ハイガード」、「花粉ブロック」という塗り薬を買う。昨年は花粉が少なく、軽症だったので油断していたのがいけなかった。早めに予防すればよかったと反省。昨日、雪が積もったときのためにスコップとレインブーツ、手袋を購入。雪かきする気満々です。

執筆者への発送が終わる。表紙に名前を載せたので、今回は星図を入れなかった。ちょっと淋しいかったか。『地球を抱いて眠る』のなかの「ハワイの石の伝説」がおもしろかった。ハワイでは石は動かしてはならないのだそう。死んでいるのに命のちから(マナ)があるからだとか。何らかの不幸に見舞われた観光客はハワイで拾った石を送り返してくるという。アニー・ディラードの本に『石に話すことを教える』というエッセイ集があったことを思い出し、表題作を読み返す。それを試みているひとが実際にいるとのこと。気が遠くなるような行為ですね。


2月9日(土)

印刷所で機械のトラブルがあったということで遅れましたが、ようやく50号が出来上がりました。祝!昨日執筆者宛に添える手紙を書いておいたので、きょうは発送作業。しかしメール便のナンバー入りシールが見つからない。たくさんもらったのに、引越のどさくさに紛れて捨ててしまったのだろうか。そうだとしたら・・・。どうするかは明日考えることにします。

とにかくできたことに感謝。文字サイズを大きくしたので読みやすくなったと思います。アンケートは「わたしの転機」。たくさんの方に回答をいただきました。高木護・草野信子・竹内敏喜・山口眞理子・三井喬子・佛渕健悟・國峰照子・川口晴美・山本楡美子・タケイリエ・福間健二・北沢十一・布村浩一・小柳玲子・岩木誠一郎・岡島弘子・相沢正一郎・八木幹夫・神山睦美・鈴木志郎康・金井雄二・鈴木東海子・野沢啓・國中治・岡田幸文・中村剛彦・松本邦吉・北野英昭・荻悦子・原口哲也・須永紀子。詩作品は池井昌樹・古内美也子・荻悦子・原口哲也・須永紀子。


2月6日(水)

絶不調で一日寝ている。寒気がして泥のような眠りに落ちる。熱はない。夕方やっと起きあがり、印刷所に電話する。入稿してもう10日以上経っている。インクが乾かないという。そんなことがあるのだろうか。


2月5日(火)

日曜の夜から不調で、花粉かと思っていたのだけれど、きょうになって本格的な風邪の症状が出てきた。買い物にも行かないことに決めて、住所録の訂正、「英語づけ」を1時間、昨年いただいた三井喬子さんの詩集『紅の小箱』(思潮社)を読んで感想を書いた。今夜三井さんは都内で朗読をなさるはず。行けなくてすみません。

体調が悪いときは来し方行く末のことを考えてしまう。今までしてきた、ほめられないことの数々を思い出して反省したり、近い将来一人になってしまうのだと淋しく思ったり。

駒沢敏器の『地球を抱いて眠る』に慰められるものを感じつつ、何かがひっかかる。森のなかでの眠りや瞑想の体験について書かれたエッセイなのだが、一人の人間がそんなに幾つものスピリチュアルな体験ができるものなのかと思ってしまう。そういう世界を受け入れることのできる資質をもったひとなのだろう。スピリチュアルな世界にはかなり強く惹かれているが、だからこそちょっと怪しいなと思うのだ。


2月3日(日)

所沢のH会館で、「所沢図書館友の会」主催の講演を聴く。浅賀丁那さんによる「連句の楽しみ」。浅賀さんは「季語研究会」の編集発行人。「英語で奥の細道を読む会」・「英語で連句の会」を主宰されている。連句の先生である佛渕健悟さんもいらっしゃる。ルールは複雑。いまだに覚えきれない。新年会を兼ねていたので、お酒とお弁当をいただき、そのあとに実作。

参加者は初心者が多いけれど、みんな早い。何を書くにも時間がかかるわたしは句を作るのも遅い。既に使われたことばが入ってしまったり、長句と短句を間違えたり。顔から火が出そうになる。だめな生徒のために、先生が特別に枠をくれる。五七五の夏の句。うまくできない。遊びのつもりなのに本気になってしまう。格調高い句を作ろうなどと思うのは十年早いのでした。

帰宅して雪かき。夕食は太巻きと挽き肉だんごの鍋。この冬は鶏挽き肉に蛸(粗みじん切り)を入れたものをよく作っている。ぷちぷちした食感が楽しいです。


2月2日(土)

『ライフ・イズ・ベースボール』のDVDを観る。主演はマイケル・キートン、マイケル・ホフマン監督。1986年、ボストン・レッドソックスが68年ぶりのワールドチャンピオンに王手をかけてニューヨーク・メッツとの試合に臨んだ日の話。どこか文学的なのは脚本が伝説の小説家ドン・デリーロだからだろう。

その日に新作の初演をすることになっている脚本家のニックは、悪名高い批評家が見に来るというので落ちつかない。変人の批評家(ロバート・ダウニー・Jr..)はアンディ・ウォーホールの変装をしてやってくる。ニックの娘と事に及ぼうとしたところで鉢合わせした二人はレッドソックスのファンということで意気投合してしまう。

「これまでか」(This could be it)がキーワード。ニックの芝居の台詞であり、試合や彼の人生をあらわしてもいる。舞台はニューヨーク。キートンが『バットマン』とは違う顔を見せている。熱狂的な野球ファンが多いアメリカにはなかなか渋い野球映画がたくさん作られているが、これもその一つ。


2月1日(金)

毛糸の帽子を猫にかじられる。端がほどけてしまったので、捨てるしかない。この冬3つ目。帽子がないと寒い。買ったまましまっておいた真っ白な帽子をかぶる。頭だけ白鳥みたいで恥ずかしい。まあ、自分では見えないからいいけど。

駒沢敏器『地球を抱いて眠る』(NTT出版)。帯に「都市生活者の精神の旅」とある。最初のエッセイは「ヒプノセラピー」(年齢退行催眠)を受けた体験記。著者は6か月の胎児になって大泣きしたそう。セラピストは幼児期に肉親の虐待にあって、大人になって精神的に自立してからも原因不明の病気にかかり続けたという女性。わたしもそういうひとのセラピーを受けてみたい。そんなことをしなくても、自分のなかの深い闇、欠落した部分についてはわかっているつもりなのだけれど。


1月30日(水)

図書館の会議。2月16日に向けて細かい調整をする。配布物の準備。今回は落語の前に篠笛の演奏もある。利用者が楽しみにしている除籍本のリサイクルはなし。他に館内めぐりーや映画会、ミニ・コンサートなどの催しがある。リニューアルした館内での「図書館まつり」。お近くの方はぜひお立ち寄りください。

先日朝のテレビ番組でRADWIMPSというバンドを紹介していた。すごい人気なのだそう。聴いてみたいと言ったら娘がCDを貸してくれた。めちゃくちゃいい。バンプ・オブ・チキンにちょっと似ているが、もっと楽しくてもっと奥行きがある感じ。ヴォーカルの野田洋次郎は走るように歌う。詞もよい。ことばでもひととつながろうとしているように思う。全員22歳。若いひとの音楽をまだすごいと思えることがうれしい。


1月27日(日)

大阪国際女子マラソンを観る。福士加代子さんの最後の走りに思わず声をあげてしまう。大相撲初場所の決戦もすごかったですね。

栗原澪子さんの歌集『水盤の水』(北冬社)を読む。栗原さんは大好きな詩人。おだやかで控えめな栗原さんの「時々の記録」。果敢に誠実に生きている女性の姿が見えてくる。字余りの歌に「詩人」の気骨を感じた。

小林秀雄の『本居宣長』をamazonで購入する。


1月25日(金)

『雨期』50号の入稿。今回はかなり手間取ったので、無事終わってとてもうれしい。ここまで来ると作品の出来などどうでもよくなる。これしか書けなかったのだものと開き直ってしまう。今日は朝から何もせずに編集作業をやっていたのだが、こういうときに限ってプリンターの具合は悪いし、CD-ROMは取り出せなくなるしでちょっとしたパニックだった。


1月19日(土)

『Radio On』をDVDで観る。デヴット・ボウイ主演、ヴィム・ヴェンダースが製作に関わっている1979年の映画。モノクロのロード・ムービーだが、舞台がイギリスなので、他のヴェンダース作品とはまったく違う風景が展開する。兄が自殺したという知らせを受けてボウイは兄の家に向かう。短いトレンチを着た無口なボウイは若き日のアラン・ドロンにちょっと似ている。

ストーリーはわかりにくい。兵役から戻ったスコットランド人や子持ちのドイツ女性を車に乗せることになるが、何も起こらない。スティングがミュージシャン希望の青年を演じている。なかなか味のあるギターと歌だと思ったら、スティングだったので驚いた。壊れかけた車を捨てて汽車に乗るところで終わるのだが、ここでやっと希望のかすかな光が見えた気がした。

映像は時代を感じさせないくらいスタイリッシュ。音楽は不思議なチョイスのブリティッシュ・ロックです。途中で眠くなったけれど、ヴェンダース映画を見逃してなるかと思って最後まで観ました。


1月15日(水)

成人式を迎えた娘は、ばっちりメイクをして中学の同窓会に行き、朝刊のとどく時間に帰宅した。最近は「オール」の飲み会がふつうなのだろうか。起床は午後1時。人生もったいないなあと思う。すでに子どもが1歳という男子も数人いたという。そんなに急がなくてもと思うけど。

わたしの成人式は淋しいものだった。家を新築するのと着物とどちらがいいかと親に聞かれた。家と答えるしかない。当然成人式にも行かずに、スーツを着て写真を撮っただけ。1日だけ貸衣装のようなものを着るのはおかしなことだと思っていたし、成人式に行く気もまったくなかった。記念品も受け取りに行かなかった。ひねた20歳だった。


1月11日(金)

朝、皿をあらっているときに、突然「詩を書きたい」と思う。霧が晴れたように活力が湧いてきた。こんなことは十数年ぶり。どうかこのテンションが持続しますように。

午後は図書館の会議。リニューアルされた館内は明るく広くなっている。ゆかりの作家コーナーに拙詩集も展示されている。申し訳ないような気持ちです。来月は「図書館まつり」。そのために図書館に入り浸ることになります。うれしいです。


1月10日(木)

ピーター・キャメロンの『ママがプールを洗う日』(山際淳司訳)を読み返している。傑作ではない。でも悪くない。アメリカの田舎(メイン州など)に住むハイティーンの少年少女が退屈な生活を語るスタイルの短編小説集。ぼけたおばあちゃんの面倒を見たり、妹の結婚式に出たり、ガールフレンドと海へ行ったり。軽く明るい。気楽な日常のなかの倦怠感が全体に漂っている。

分厚い文庫本なので再読をためらっていたのだけれど、読んでよかった。当時の自分を振り返ることになったから。


1月6日(日)

『荒地の恋』読了。温厚な詩人と思っていた北村太郎さんの女性関係に驚き続ける。離れない女、包み込む女、恨む女。男と女というのはかくもどろどろした愛と欲にまみれて死にゆくものなのか。それを実感することができないわたしには何かが欠けているのかもしれないと思ってしまう。

鮎川信夫さんと最所フミさんが特別なひととして書かれている。鮎川ファンの一人としてうれしくなった。


1月1日(火)

新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

年末はO市へ。車中で小林秀雄の『モオツアルト』のなかの「西行」を読む。小林秀雄は西行という人間をとても深く理解している批評家だと思う。ただの歌人ではない。月や花ではなく、いかに生きるかという問いを三十一文字で語ることに一生を賭けた。真っ直ぐに生きた僧でもある。西行ファンのわたしにとってはこのエッセイが一冊のなかでいちばんわかりやすく、親しく感じられる。

O市から帰る途中、あまりにも疲れて眠ってしまい、電車を乗り過ごす。滅多にないことです。