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短篇通信
2001・9
橋の上の天使 グラス・ダンサー 八月のベーダ ぼくたちが大人になれない12の理由 死んでいる
2002・2
偶然の音楽 光とゼラチンのライプチッヒ 熊の敷石 郊外へ いとしい 蛇を踏む 朗読者 体の贈り物
2002・8
凍った電線 ふくろねずみ カーラのゲーム 私たちがやったこと テレサへの手紙 海辺のカフカ レイミー ホーム
2003・2
ニュークリア・エイジ ボディ・アーティスト リブラ・秤 リヴァイアサン
2004・1
本当の戦争の話をしよう 失踪 オレンジだけが果物じゃない 敵あるいはフォー 無知
2004・8
夜を抱いて 僕が戦場で死んだら カチアートを追跡して 世界のすべての七月 感光生活 この世の果てまで ららら科學の子
2005・1
家庭の医学 コインロッカー・ベイビーズ サバイバー アフターダーク ピンク・バス 幸福な遊戯
2006・2
東京奇譚集 ほとんど記憶のない女 一人の男が飛行機から飛び降りる ルーガ 空中庭園 プラナリア 雪沼とその周辺
2006・8
インディアナ・インディアナ いつか王子駅で 僕はマゼランと旅した 秋の前奏曲 包帯クラブ
2007・2
ピアノサンド 海の本 最後の瞬間のすごく大きな変化 わたしを離さないで
2007・8
最後の場所で 裁縫師 タタド 聖母の贈り物 猛スピードで母は めぐらし屋 孤独の発明
2001年9月
*橋の上の天使/ジョン・チーヴァー(川本三郎訳・河出書房)
チーヴァーは、わたしの読むべき本のリストにずっとあった作家。もう少し早く出会っていたら、感想はちがうものになったかもしれないと思う。重い。レイモンド・カーヴァーを読んだあとでは、彼の小説世界は時間的にも空間的にも広がりすぎていて、そこにミニマリズム的な手法が用いられているので、重いと感じるのではないかと思った。
チーヴァーが描くのは、ニューヨークの北に位置する郊外住宅地。いわゆる白人中産階級の家庭で、幸福そうにみえる彼らの生活のなかにも孤独や憂鬱がある。それを淡々と描いていく。文章は抑制がきいて禁欲的でさえあり、透明な悲しみのようなものを作品全体に漂わせている。
1912年マサチューセッツ州生まれ。17世紀から続く古い家系だが、父は人生の失敗者だったため若くして独立しなければならなかった。よき家庭人でありながら、つねに女性とのロマンスを求め、経済的に恵まれずアルコール中毒、中年期にホモセクシュアルになるという波乱に富んだ一生だった。
ジョン・アップダイクは、彼の短編を評して「天使の羽のペンで書かれた作品」と言った。「現代アメリカ文学の短編の名手といわれている作家は、ほとんどが彼の影響を受けている」とあとがきにある。「世界はときどき美しい」から、感動的な最後の部分を引きたい。
それから私はベッドに坐り、自分に向かって大声でいう。「勇気!愛!美徳!同情!輝き!やさしさ!知恵!美!」こうした言葉は大地の色に彩られているように思える。そして私は、この言葉を繰り返しているうちに、心のなかに希望があふれてきて、夜の闇の中で心が平和になるのを感じるのだ。
*グラス・ダンサー/スーザン・パワー(小沢瑞穂訳・めるくまーる)
インディアンの神話の世界を現代の物語に移した異色作。恋と魔術、精霊と夢が錯綜し、何代にも渡る彼らの悲喜劇を描く。語り手が章ごとに変わる。主人公のハーリーは踊りの名手。彼に恋するシャーリーン、その祖母マーキュリーは悪の魔法の使い手、精霊であるその叔母レッド・ドレス。ハーリーの父と兄、恋人パンプキンは魔法の力で事故死させられ、母は声を失う。魅力的なキャラクターぞろいで、映画化すればおもしろいものができるのではないかと思う。
恋人を失って自暴自棄の生活をしていたハーリーは、4日間穴のなかに立つ修行をして、やっと自分の能力に気づく。戦場跡に立てば戦闘のシーンが浮かび、月を見ればその表面を歩くときの感触を思う。豊かな想像力で、彼はビジョンを見て感じることができる。
インディアンの世界はとても文学的だ。先祖の霊と一帯になって生きる暮らしは、アジアの国々に共通するものではないだろうか。その世界が若い女性作家によって作品化されるということは、現在でも神話が生きて、人々の生活を少なからず左右しているということだと思った。
パワーは1961年シカゴ生まれ。母親は保留地出身の純血のスー族という。この作品は最高のデビュー作に与えられる「アーノルド・ヘミングウェイ賞」を受賞した。
*八月のベーダ/中上紀(集英社)
1998年に「すばる新人賞」を受賞した『彼女のプレンカ』とともに併録されている作品。主人公の千秋は妹を亡くし、放浪に出た父からの消息も絶えて、心ここにあらずという感じで暮らしている。昆虫学者の叔父に誘われて出かけたミャンマーで話は展開する。土地の青年との恋、彼女の頭を離れない黄金の蝶の伝説。青年は情緒不安定で突発的な行動をする千秋に惹かれていく。青年ティンの祖母は日本人との混血という設定。『彼女のプレンカ』でも、主人公は母がタイ人という設定で、舞台はタイであり、さらに不在の父が大きな存在感を持って描かれているという点で共通している。
妹や父の幻影を追う千秋。彼女を静かに護るティン。この作家の筆は骨太で気持ちがいい。千秋は川に落ちて頭に変調をきたすのだが、ティンは島に家を建て、狂った彼女と生活する。黄金の蝶が貧しい青年にルビーのありかをしたという伝説が、この小説に色と影をおとしている。哀しく美しい結末が、全体をきっちり締めていると思った。
*ぼくたちが大人になれない、12の理由/ラルフ・ブラウン(アーティストハウス)
16歳の少年2人が主人公のヤングアダルト小説。イギリス南部に住むジェイクとスティーヴンは、スキー旅行中に雪崩に遭って10人の仲間を失う。ジェイクは絶望と哀しみのあまり自殺しようとするが、スティーヴンはそれを1年後に延ばして、「生命の書」に記した12の課題を一緒にクリアしていこうと提案する。「学校を燃やす」「銀行強盗をする」等々。2人は互いに不信感を抱き、時には嫉妬し裏切り、苦しみながら1年間を過ごす。
生き残ったことで、加害者意識を抱いて苦しむ2人が生き延びるためには、何か大きな錘のようなものが必要だった。それが「生命の書」で、最後にそこに書かれた12の課題は仲間の「いちばん叶えたい夢」だったということが明かされる。
『ニューイヤーズ ディ 約束の日』という映画を小説化した作品。、ラルフ・ブラウンは俳優でもある。かなり残虐なシーンや悪意に満ちた行為などがあるけれど、映像的な効果のためには必要なのだろう。ヤングアダルト小説というのはヘビーなのだなと思った。
*死んでいる/ジム・クレイス(渡辺佐智江訳・白水社)
原題は「BEING DEAD」。2000年度全米批評家協会賞に輝いた問題作。50代の夫婦が砂丘で殺されるところから始まる。2人は動物学者で、セックスしていたところを襲われる。死体は動物たちの餌食になり、変化していく「死」を美化することなく、生物の死のプロセスがリアルに記述され、そこに厳然とした美しさが浮かびあがるという稀有な存在感のある小説。
あとがきによると、クレイスは無神論者の父を亡くしたとき、遺言に従って儀式の類を一切おこなわずに火葬にしたのだが、自らも徹底的な無神論者でありながら耐え難い空虚感に苛まれた。その体験から自身の無神論に再考を迫られて、書かれたのが本書であるという。
予期しない死が訪れ、夫婦の身体は誰にも看とられずに自然のなかに放置されて数日が過ぎる。これは今までなかったシチュエイションの小説だろう。神や宗教の「救い」はまったく入ってこない。あまり魅力的とはいえない2人がどのように生き、どのように死んでいったか。出会いと恋、セックス歴と合宿の日々、夫婦が情熱を持って観察したバリトン湾周辺の植物や動物たち。神のことばの代わりに、愛情に満ちた日々と思い出が、死の縁飾りになっている。
一人娘シルが両親の死体と対面するまでのスリリングな数日間。両親を嫌って一人暮らしをする娘の行動がはさまることで、話はリアリティーを帯びてくる。スキンヘッド、元ウェイトレス、もぐりのタクシードライバーを引っ張りまわす現代娘。オレンジの皮やひからびたパンや愛読書が残された無人の家。けれど彼女にとって二人の死は、彼女の人生の始まりだった。
物語のなかでは誰も夫婦の死を嘆き悲しんだりはしない。動物学的な死と、そこに至るまでの日々があるだけだ。神に祈らなくても永遠の生命を求めなくても、人は懸命に生きることができるし、他人を愛すること、幸福を感じることができる。このメッセージは今まで差し出されることがなかった、実は普遍的なものではないだろうか。
ジム・クレイスは1964年イギリス生まれ。現代英国文学界屈指の作家といわれている。本書は日本で紹介される初めての作品。

2002年2月
*偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳・新潮社)
1998年に出版され、話題になった小説。主人公ナッシュはアメリカの荒野を車でひたすら走る。バッハやヴェルディのテープを大音量でかけながら、夜になると安モーテルに泊まるという生活。思いがけない遺産が入ったので、消防士の仕事を辞めて旅に出たのだ。ロードムービーのようで、このまま話が終わってもいいくらいに楽しい冒頭である。
けれども13か月めに一人の男を車に乗せたときからナッシュの人生が狂い始める。いかさまポーカーで稼ぐポッツイ。1万ドルと車をなくしてしまい、さらに50日間の肉体労働をする羽目になる。大金持ちの屋敷でポーカーゲームが始まると、話は救いのない方向に進み、どんどん暗くなっていく。賭けに負けて、広大な庭に石の壁を作るため、1個が25キロの石を運んでは積み上げるという仕事をすることになるのだ。ナッシュにとっては気ままにやってきた過去に片をつけるいい機会ではあるのだが、若いポッツイには屈辱でしかない。
あと30日で何もかも終わる。ナッシュはそう自分に言い聞かせた。俺だってそれくらい乗り切れないんじゃ、人間としてどうしようもないじゃないか?
これは東洋的な考えであるように思えるが、どうなのだろう。逃げることに疲れ、人生に前向きになろうとしたナッシュはどんなに理不尽な事態が待ち受けているとしても真面目に取り組もうと決めていた。話はここで終わってもよかったように思うが、まだ先がある。
長い仕事が終わるという日、請求書がまわってくる。飲食費や新聞代、ポッツイが頼んだ娼婦への支払い。この分をさらに働いて返さなくてはならないのだ。ポッツイはついに切れ、脱走しようとして半殺しの目に遭う。ナッシュが死を選ぶところで物語は終わるが、生き抜くという展開であってもよかったのではないかと思った。希望を残しておいて欲しかった。
*光とゼラチンのライプチッヒ/多和田葉子(講談社)
10の短編がおさめられている。どれも多和田葉子独特の毒に満ちた世界。そのなかで「砂漠の歓楽街」がおもしろかった。ストーリーだけでできているような作品だと思った。主人公は契約書を交わして砂漠の町に入る。いくらでも職があり、12歳以下の子どもは住めず、カロリーを制限した食事を出すレストランのある町。賭博場の客はすべての生命力を賭博に注ぐので、身なりもだらしなく性にも食べ物にも関心がないようにみえる。シュワルツネッガーの映画『トータル・リコール』を連想させるような世界である。
賭博の熱に額を奪われ、視線は数字に貼り付いて、懐の紙幣がなくなってしまってからも肌をむしって一枚一枚ルーレット盤の上にのせていくような人さえいる。それで、光でできた化け物のような町はますます肥えていく。
悪い夢を見ているようなストーリーだが、それはこの作家のほとんどの作品に共通するものだ。どんな夢の断片も逃さず、作品にしてしまう。多和田葉子の仕事にはそういうエネルギーを感じる。
若い時には、仕事ならば何でもいいと思ってしまう。毎日目を覚まして、自分の絞る雑巾があるだけで、朝日がまぶしく感じられる。お金を少しもらっただけで、自分は役にたつ仕事をしたのだと思い込まされてしまう。
シンプルなこの文章になぜかいたく共感した。
*熊の敷石/堀江敏幸(講談社)
翻訳小説のよう。一行一行が息の長い文章は、無駄がなく格調が高い。それだけでも芥川賞にふさわしいように思えてしまう。日本人の「私」が二年ぶりに友人のヤンに会って一日を過ごす話。けれども過去が現在に絡んでいて、複雑な厚みのある内容になっている。
ヤンはユダヤ人の写真家。「私」はフランス語辞典を作ったリトレの伝記の紹介文を書いている。リトレはユダヤ人。二人の話は歴史をさかのぼっていく。写真、収容所、演劇祭、大家の女性、熊のぬいぐるみ、リトレの晩年。それらが一点に収斂されていく。ちょっと窮屈な感じがしないでもないけれど、巧みな展開と博識に引きこまれた。
ヤンは父母が収容所にいたことを話さないこと、両親がイディッシュ語を伝えてくれなかったことなどに哀しみを感じている。ヤンが家族の歴史とその継承における齟齬を卑下したり蔑ろにしたりするわけもなくただ「ありふれた」話だと見なしているのは、たぶんこうした局所的な悲劇があちこちで人々の痛覚を刺激しているという生活の土台があるからだろう。
ラ・フォンテーヌの引用「忠実な蠅追い(熊)は敷石をひとつ掴むと、それを思いきり投げつける」「無知な友人ほど危険なものはない。賢い敵の方がずっとましである」転じて「いらぬお節介」の意味だそう。もしかするとヤンにとって自分は、この熊みたいなものだったのではないか。そこからタイトルがついたということだけれど、全体の雰囲気と合わないような気がしないでもない。
*郊外へ/堀江敏幸(白水ブックス)
「郊外」をめぐる十三の短編がおさめられている。端正な深みのある文章。タイプライター、アラン・ドロン、古本市、カフェの主人、家などが題材になっていて、どれも「私」が語る形なので、長いエッセイのようにも思える。
殊にアラン・ドロンに触れた「坂道の夢想」は、元ファンならではの知識が興味深い。わたしも先日何十年ぶりかで『サムライ』をテレビで見た。カナリアを飼い、帽子とトレンチコートを愛用する殺し屋をドロンがクールに演じている。カナリアが彼の唯一の家族であり慰めなのかというとそうではなく、彼以外の人間が部屋に入るとエサを食べず、暴れるので羽が散らばるからであると堀江敏幸は書いている。
部屋に戻ると、コートと帽子をとってきちんと掛ける。行動のすべてをマニアックなまでに儀式化し、死の間際までそれを護持する殺し屋。
この文章は、すっかり忘れていた映画を見るきっかけになったのだった。また、作家のエピソードや読んだ本の話がはさみこまれているためか、ストーリーがやや複雑で、確認しながら読まないと、意味がたどれないということがあった。ヘミングウェイの作品のタイトル『何を見ても何かを思い出す』というように、本や人の名前から連想されるものがあり、物語はそこに向かって凝縮していく。現実はもっと寄り道が多いものだけれど、などと意地悪な感想を持ってしまった。
それでも1964年生まれの若い作家が作り出す世界は上質の外国小説の味わいがある。料理をする人なのだろう、食べ物に関する文章には情熱が感じられる。クロックマダムやエスプレッソ、グリュイエールなど、すばらしくおいしそう。殊に『熊の敷石』に出てくる「葡萄の葉のファルシ」がとても気になっている
*いとしい/川上弘美(幻冬社)
この作家の小説をいくつか読んだ。吉本ばななをタフにした感じかなと思った。語りの巧い人である。マリエとユリエの不思議な恋の話。父が春画師で、恋人が露天商というリアリティを排した設定。そのなかで浮世離れした姉妹の暮らしがなめらかな口調で語られて、午睡に誘われたような心地になった。父の死後、弟子だったチダさんがアパートにやってきて、母の手をスケッチする。チダさんの個展で、自分のものではない手の絵を見て気を悪くした母に、マリエは「何がいやなの」と聞く。「考えがいりくむことがね」と
母が答える。ここでわたしはうなってしまった。はぐらかされたような、答はこれしかないというような含みのある言い回しだと思う。
マリエは泣く泣く別れた恋人の紅郎に手紙を書く。
「よきものになりたいなあって思いました。よきものって、ほんとうはどんなものかわからないけれど、そういうものになりたいなあって、ただ思っていました。」
静かな輝きを放つ文章だと思う。流されるままに生きてきた、わりといい加減な教師であるマリエの、新しいスタートを暗示させる。
*蛇を踏む/川上弘美(文春文庫)
あとがきに、自分の小説は「うそばなし」だと書いてある。だから、わたしたちはただ楽しんで読めばいいのだろう。
カナカナ堂という数珠店で働くサナダヒワコと店の夫婦と蛇の話。「つくね団子の煮たの」とか「大黒さんが運んできた蕎麦」など、懐かしい匂いのなかで変身話が展開する。達者な語りに引きこまれた。たとえば、
「サナダさんね、あの蛇の話」注文品を帳簿に書き入れながら、コスガさんは言った。「追い出しなさいよ。来たら」「来たらって」「だから蛇」。
意識や思考は絶え間なく流れているのに、わたしたちが口にするのは、その一部分、ごくわずかなことばだけである。生活するにはそれで十分であり、さらに人との会話のなかでは反復も重要な話法のひとつになる。そんなことを考えた。
*朗読者/ベルンハルト・シュリンク(松永美穂訳・新潮社)
一昨年話題になった一冊をやっと読んだ。書評を読んでも、誰もラストを明かさない理由がやっとわかった。思いがけない展開に驚かされた。読んでいくうちにタイトルの意味もわかるのだが、純文学作品にしては作りすぎという批評があるのもうなずける。スリリングで巧み。ナチス時代が、今も人々の生活に暗い影を落としていることをわたしたちに知らせてくれてもいる。回想の形をとっていて、全体に内省的な語り口になっている。
15歳のミヒャエルと36歳のハンナ。恋の日々の、こういう描写が好きである。
彼女がぼくの上で眠りこみ、中庭のノコギリの音も止み、ツグミが鳴き、台所にある物の色が溶けあって明暗のある灰色に包まれるとき、ぼくは完璧に幸せな気持ちだった.。
2人が一生をかけた純愛。ヨーロッパの歴史とサスペンス的な要素。訳もすばらしいし、ベストセラーにならないわけがない。
*体の贈り物/レベッカ・ブラウン(柴田元幸訳・マガジンハウス)
これも大きな反響を呼んだ本。エイズ患者の世話をするホームケア・ワーカーの女性を語り手にした11の短編は、とてもシンプルである。やさしいことばで、今起こっていることをそのまま書いているかのように、読む者の心にまっすぐ入ってくる。一つ読むたびに涙が出て、本を閉じた。一気に読むのはつらい。
「私」は患者が嫌がることを避け、気持ちよく過ごせるようにさりげなく心を砕く。自分についてはほとんど語らない。患者の手を握り、話しかけ、抱きしめる。ほとんどの人はいつか身近な介護という問題に突きあたるだろうが、「私」のように接することができればいいと思う。患者のプライベートに立ち入らず、患者が人間としてのプライドを最後まで持てるように配慮すること。
各短編に「〜の贈り物」というタイトルがついていて、これは「私」が患者からもらったものを意味する。汗や動き、希望などを「私」は受け取るのである。
説明や心理描写を省くことで、人と人とのひそやかなつながりを浮かびあがらせている。病を得て精神的にも追いつめられたとき、人は肉親や親しい人にそばにいてもらいたいと願う。不安や恐怖や苦痛のなかで、自分の話に耳を傾け、手を握ってくれる人がいたら、こんなに心強いことはないと思う。どのように死の準備をするか、どのように看取るかということを考えさせてくれる本である。

2002年8月
*凍った電線/ エバン・アリス
『12のウエディングケーキ』(柴田元幸他訳・スーザン・スタンバーグ&ジョージ・ギャレット編)は12人の小説家がウエディングケーキをモチーフに書いた短編を集めたもの。エディングケーキなんてイメージが固定していて、むずかしそうだなあと思いながら、あまり期待もなく読んだ。
アンソロジーのよいところは、ときどき掘り出し物に出会うこと。エバン・アリスの「凍った電線」は、妻子ある男と不倫をしている若い女性の孤独な生活といらだちを描いていて、暮らしの肌触りをリアルに感じさせてくれる。
アヴォカドで作ったワカモーレをボウルから直接食べ、ドナ・リード・ショーをテレビで観た。そのままうたた寝をして、目を覚ましたときには、テレビにはもう何も映っていなかった。横に何本もの波線が走り、雑音を発しているだけ。
女は町で知らない人に悪態をつき、煮え切らない男に腹を立てる。若い女性が主人公なのに、甘さがないのが新鮮で硬いものをかみ砕いているような不思議な心地よさがある。
*ふくろねずみ/ チャールズ・バクスター(畑中佳樹訳)
これも同じアンソロジーに収録されている。バクスターはわたしの好きな作家で、この短編は上出来とはいえない(何といってもケーキの存在が薄い)けれど、ありきたりではない。バクスターらしい奇妙な味がある。
車のなかで退屈した姉と弟が、ゲームを始める。一人が目をつむり、一人が車窓から見えたものを言って、それがほんとうかうそか当てるのだ。「火星の犬」と弟が言う。うそだと答えた姉に弟はほんとうだと言い張る。「宇宙耳をしているから火星の犬だ」というのである。
この弟が男というもののなんらかの典型なら、彼女がいつかペニスの付いた人間と結婚しなくちゃならないなんて想像もできなかった。
この持って回った言いまわしが何だかおかしくて気に入ってしまった。そういえばバクスターの作品には子どもが出てくるものが多い。
*カーラのゲーム/ゴードン・スティーヴンス(藤倉秀彦訳・創元社文庫)
内戦下のボスニアが舞台の長編小説。主人公カーラが、片手に幼い息子、もう一方に鍋を抱えて橋を渡るところから物語は始まる。スナイパー(狙撃手)の攻撃をくぐり抜けて、食料供給所へ行く描写に、思わず身体に力が入ってしまう。
たまたま並行して読んでいたスーザン・ソンタグのエッセイ集『この時代に想う テロへの眼差し』(木幡和枝訳・NTT出版)に、サラエヴォでは街なかにスナイパーが隠れていて、住人はつねに生命の危険にさらされていると書かれていた。ソンタグが芝居の演出をするためにボスニアの首都サラエヴォに滞在したときのことである。命がけで配給を受けるというのは、小説のなかの話ではないのだ。
カーラは爆撃で息子と夫を失い、遠い街の避難所へたどりつく。ぎゅうぎゅう詰めの部屋、薄いスープ。絶望のなかで体力を取り戻し、闇屋を経てテロリストになっていく。テンポは早いが、文章はていねいで、不幸な女性の暮らしをそばで見ているような臨場感がある。
もう一人の主人公は、停戦工作のためにボスニアに送り込まれたSAS隊員フィン。カーラが、危険な地雷の原でフィンの仲間を助けたことから、二人の間に友情が生まれ、その後、フィンの「敢然と戦う者が勝つ」ということばが、何度もカーラを奮い立たせることになる。力をくれる呪文のようなことばであると思う。
航空機をハイジャックし、世界に向かってボスニアを救って欲しいと要求するあたりから、まったく映画の世界のようになってしまうのが残念。それを差し引いても、純文学の重厚さがあり、スパイ小説のようにスリリングで、ボスニアをめぐる世界状況もよくわかる。異論はあるだろうが、わたしはすぐれた文学作品といっていいのではないかと思う。
*私たちがやったこと/レベッカ・ブラウン(柴田元幸編訳・朝日新聞社)
『むずかしい愛』というアンソロジーのなかにある一編。一昨年『体の贈り物』というすばらしい小説集を出したブラウンが、他にどんな作品を書いているか興味津々で、読みながらどきどきした。
愛し合う男女が、一方の目をつぶし、一方の耳を焼いて、二人だけの生活をするという話。閉ざされた愛の世界というと、谷崎潤一郎やボリス・ヴィアンを連想するが、その系譜につながるといっていいかもしれない。
男はピアニストで、目が見えなくても演奏にさして支障はないのだが、耳の聞こえない女の話し方は少しずつ変化して、二人の間に溝ができていく。ターナーの展覧会に行って、女が絵の説明をするシーンは悲しい。女は自分の感動をそのまま伝えることができず、男はいらだち、互いの欠けた部分をより大きく感じることになる。男は死を選び、女は緊急電話番号に連絡し、「もしもし」と言い続ける。
なぜなら私にはわからなかったからだ、いつ誰が電話に出てくれるのかも、理解してもらうのにどれくらいかかるのかも、そもそもいつかはわかってもらえるのかどうかも、何があったのかを私がなぜうまくいえないのかも、私たちがやったことを私がなぜ言えないのかも。
見事なエンディングである。ブラウンはこのころ「幻想レズビアン小説作家とでも呼ぶべき作風」といわれていたのだそうである。「一対一」の人間関係を描くのがうまい人である。『体の贈り物』も、エイズ患者と彼をケアする女性との心の触れ合いを淡いタッチでていねいに描いた連作小説集だった。
*テレサへの手紙/ウォルター・モズレイ
このアンソロジーの掘り出し物。独身の中年男ソクラテス、は熱でうなされているときに昔の恋人の夢を見る。27年間刑務所で過ごし、出所後まじめに働いて8年彼はその間会えなかった恋人テレサに手紙を書く。母親からの返事でテレサが亡くなったことを知ったソクラテスは、彼女とその夫の墓へ駆けつけ、物思いにふける。
クリストン(テレサの夫)の葬儀のときだって自分はここに立っていただろう。テレサは気弱になっているだろうが、それにつけ込んだりはしない。慰めになるような話をしたり、金を差し出したり、家のものを修理してあげたりするのだ。彼女の手を握って、君には子供が8人いるんだよ、それに、君に死なれたら困る古い友人が一人いるんだ、と言うのだ。
ソクラテスは、今はいないテレサとともに過ごすひとときを夢見る。
刑務所では欲望を持たずに生きることを学んだ。欲望を心に入り込ませてしまったいま、すべてのものがほしかった。
ソクラテスの孤独な生活と切ない願い。彼に新たな希望がやってくるようにと願わずにはいられない。しみじみといい短篇である。
*海辺のカフカ/村上春樹(新潮社)
すでに多くの評が出ていて、評価はさまざまだけれど、わたしは村上春樹が初めて未来を志向する作品を書いたのではないかと思った。十五歳の少年が主人公だが、村上春樹の音楽や食べ物の嗜好が出て、ちょっと無理があるような気がした。ストーリーは荒唐無稽で、読み解かなくては先へいけないのかと思ったりしたけれど、読者はただただ楽しめばいいのだろう。
カフカと名のる少年が家出をして、一人でどのように生活していくのか。一種の成長小説ということもできる。現実を生きると同時に、少年は生き別れた母と姉を何ひとつ手がかりもないまま追うという夢のような時間を生きることになる。もしかしたら母親であるらしい佐伯さんという女性が出てくると、話はリアリティを失って、茫洋としてしまうのが気に
なった。
少年の行動と並行して語られるナカタさんの話のほうに興味をそそられた。少年の心の住人であるかのようなキーパーソンとして描かれるが、何も明らかにされずに終わる。戦争中に不思議な体験をして記憶を失い、生活保護を受けている老人ナカタさんの存在が光っている。
*レイミー/ジェイン・アン・フィリップス(篠目清美訳・白水社)
ナカタさんのような存在というと、フィリップスの短篇に出てくる少女「レイミー」(『ファスト・レーンズ』)を思い出す。時代はヒッピーが出現した70年代。不幸な境遇に育ったレイミーは、暮らしぶりも考え方も風変わりである。けれども、世界のまんなかにつながるような確かなものを持っている。
レイミーは語り手である「わたし」に、「中絶したとき、自殺しようって思わなかった?」と聞く。「まさか」と「わたし」は答える。当時の女の子たちには何でもないことも、レイミーにとっては重大なことであり、現実生活のなかではトラブル・メーカーである彼女が、人間としてまっとうであったということを、「わたし」は思い出している。
わたしたちはみんな、現実の地理学とはなんの関係もない一連の地図を頼りに生きていた。レイミーは別世界への橋渡しをする電話のようだった。彼女のメッセージは別世界を探る夢から届けられる言葉で、彼女の動作はいずれも、バックミラーに映る道路を見ながら間違いなくハンドル操作をする運転手の動作のように正確であった。
この短篇は今のところ、わたしのベスト1である。フィリップスは1952年生まれで、作風はどちらかというと地味だが、どの作品にも確かな輝きがあると思う。
*ホーム/ジェイン・アン・フィリップス(宮脇孝雄訳)
『ラヴ・ストーリーズU』(チップス&ヘンダーソン編・早川書房)と題したアンソロジーで見つけた。田舎の家に戻って、母親と二人で暮らす若い女性が主人公。少し自棄になっている娘と生真面目な母親。娘が昔の恋人と自分の留守中に家で寝たことで、母親は怒る。その怒り方が切ない。汚れていない皿を洗い、拭き続けながら言う。「よくもこの家で。いいかげんにしてよ……わたしは何でも我慢できると思っているの?もう何が何だかわからない……」。
不幸な結婚をして、もう男はこりごりだと思っているが、まだ女であることを捨てていない中年女性。娘の節操のなさを情けなく思うと同時に、かすかな妬みを感じている。娘は興奮する母を抱き、母は水を見つめ続ける。二人の複雑な思いがそれだけで十分に表現されている。
恋人だった男はベトナム戦争で負った傷跡を見られるのを嫌って、暗いところでしかセックスしない。「わたし」は不安定で次々に男と寝る若い女ということになっている。70年代の問題がさりげなく描かれていると思った。

2003年2月
*ニュークリア・エイジ/ティム・オブライエン(村上春樹訳・文藝春秋)
原題は『THE NUCLEAR AGE』。直訳すると、「核の時代」。上下二巻の大作である。これまでのわたしの長編小説の一番はポール・オースターの『ムーン・パレス』だったが、これを読んだ今では、オースターがちょっとかすんでしまった。
「わたしの小説」であり、紛れもなくこの時代最高の作品であると思う。40代の「僕(ウィリアム)」が、庭に穴を掘るところから始まる。少年時代から、過剰な想像力ゆえに核爆発のさまざまなシーンを見てしまい、それに怯える男の話といったらいいだろうか。シェルターを作って妻と娘をまもるのだという考えに「僕」は取りつかれている。妻と娘が出て行こうとするのを監禁して、シェルターを作るという使命に燃える。穴は闇にひきずりこむように「僕」に話しかける。
この小説にはオブライエンのすべてが注ぎ込まれている。1946年ミネソタ生まれの彼は、22歳のときに14ヶ月間ベトナム戦争に行った。そのときの恐怖や怒り、絶望が彼のなかに重い経験として蓄積されているのを読みとることができる。それは表面には出てこない。優れたストーリー・テラーであるオブライエンは、読者を飽きさせることなく、最後までパワーを持続させて、静かなメッセージを送りつづけているように思える。
1989年に出た『アメリカ青春小説特集』(新潮社)は、わたしにとってアメリカ文学のバイブルのような雑誌である。オブライエンの写真が幾枚か載っているのだが、悲しげなまなざしが印象的。村上春樹訳の短編『The Ghost Soldiers』もそこで読んだけれども、戦争を題材にした作品で、特殊な状況というのがよくつかめなかったため、当時はこの作家にあまり興味を持てなかった。オブライエンを再び見つけるまでにそれから16年かかったわけである。
ハイスクール時代、政治組織時代、結婚後。ウィリアムの成長が60年代アメリカ社会のできごととともに語られる。訳者による詳細な註もあり、それだけ読んでも、得した気分になる。
傲慢で孤独を愛する「僕」が、クールでタフな男になっていく。一種の成長小説ともいえるだろうが、「僕」だけでなく戦闘的な恋人のサラ、彼女に変わらぬ愛を抱くナイスガイのネッド、陰気なセラピストなど、登場人物の一人一人についてもその生活や心情がていねいに書かれている。誰もがチャーミングで、読み飛ばすことなんてできない。
チアガールのサラはゴージャスな女の子で、ウィリアムの優柔不断さを非難しながら、死ぬまで彼の愛を求めつづける。でもウィリアムは、詩人でスチュワーデス(そんなのあり?)のボビを妻に選ぶ。徴兵拒否をして逃亡生活を続けていたウィリアムに、セラピストは山のなかのコテージを用意してくれる。そこで孤独ではあるけれど、快適な生活をする。
こういう話は、村上春樹の小説『海辺のカフカ』にもあった。村上春樹の作品には、翻訳した作品からディテールを得たものが多いのではないかと思った。
「僕」は狂気のなかで正気を保ち続けようと努力する。どんなに人間の尊厳が踏みにじられるような状況にあっても正気を失うな、生き延びろとオブライエンは言っているのだと思う。それは彼が初期の作品から発しているメッセージでもあるだろう。
「あとがき」に、村上春樹は「ティム・オブライエンがこの小説で描こうとしているのは、トゥット(全部)、人の心のありようというものの全部なのである」と書いている。この作家のスタイルは、この時代の文学シーンに多大な影響をもたらしているのではないだろうか。オブライエンは、体験を手放さずに主人公に自分を託して、すべて語る。オースターと並ぶ作家と同じ時代に生きていることを幸福に思う。
*ボディ・アーティスト/ドン・デリーロ(柴田元幸訳・新潮社)
ドン・デリーロについては、トマス・ピンチョンと並ぶ現代アメリカの最高の作家であると知ってはいた。けれども図書館で見かけてもなかなか読もうという気になれなかった。長編イコール大味というような先入観があって、よくないことだと思いつつ、上下巻あるような小説を避けてきたのである。今年に入って、たまたま書店で『ボディ・アーティスト』を手にとり、これだと思った。シックな装丁とクールな文体。すばらしい小説である。
夫婦の長い朝食シーンから始まる。場所は海辺の別荘。年の離れた男と女は、なぜか苛立っている。若い妻ローレンは水道の水や窓の外にいる鳥を眺める。二人とも上の空で、片方がひとこと言うと、片方が聞き返す。ローレンの動作と意識の流れを追うタイトな文章が心地よい。夫は車で出て行き、前妻のアパートで自殺してしまう。傷心のローレンはそのまま別荘で暮らすが、奇妙な青年が住み着いているのを知る。ことばの意味を理解することができず、時間の経過を認識することもできない。けれども、記憶力と物真似の才能があるらしく、夫とローレンの会話をそのまま再現することができる。ローレンは彼に身体の部位の名を教え、風呂に入れ、服を着せる。
青年は何者かということはさほど重要ではないようだ。ディヴィッド・アーモンドの『肩胛骨は翼のなごり』や『闇の底のシルキー』、レイチェル・インガルズの『ミセス・キャリバン』など、この世のものではない存在を描いた話はたくさんあるが、この小説は青年にスポットを当ててはいない。ローレンの心理と行動をカメラの長回しのように追っていくだけである。
村上春樹の『海辺のカフカ』の謎が最後まで解けないように。頭のおかしい発育不全の青年とローレンの間に不思議なコミュニケーションが生まれていく。そのあたりの息苦しいような緊張感がすばらしい。
デリーロは、1936年アメリカ生まれ。旅行と執筆に明け暮れる孤高の作家である。
*リブラ 時の秤/ドン・デリーロ(真野明裕訳・文藝春秋)
ジョン・F・ケネディの暗殺犯とされているジミー・オズワルドの半生を描いたもの。上下二冊の長編である。貧困といじめのなかで育ち、独学で共産主義を勉強し、ロシアへ渡りロシア人の妻を連れてアメリカに戻るという激動の人生。彼に確固たる思想はなく、いわゆる日和見の「主義者」であったらしい。そうしたオズワルドの不安定な意識と思考をていねいに追いかける。
歴史はどう作られるのか。個人はそのなかでどのように思考し、行動するのか。暗殺犯に仕立てられるオズワルドの心理の流れをたどっていくデリーロの文章は、誠実で理知的である。誰もが持っている生活や信条をないがしろにすることなく、人間の苦悩と愚かさをクールに書いていると思った。たとえば
はっきりとした役割意識を持って身を処したい、挫折に終わらない行動を一度はしてみたいと思った。・・・(中略)孤立に終止符を打つには、自分のまわりで起こって
いる真の闘争からもはや切り離されることのない段階にゆきつくほかはない、と彼は思った。この段階を人は歴史と呼ぶ。
オズワルドだけでなく、母や捜査官や中央情報局の分析官など、登場する人間の生活についても、情熱を持って書いているように思える。それらも思わず熟読してしまうようなすばらしい描写なのである。
すべての幸福な家庭の鼓動のモザイク、トースターからパンがはね上がる音、親しげでせわしない調子のラジオの声、耳に残る楽天的な喧噪。新聞配達が折りたたんだ跡もまだ生々しい「レコード・クロニクル」が彼の手の近くにある。家庭用品が整然と並んだ日だまりに中にちらつくイメージ、なにかしら絶えず動く気配、空中に漂うきらめく光、世の中の知っておくべきもろもろのこと。彼はコーヒーをかきまぜ、思案し、またかきまぜ、今度はスプーンを宙に浮かせて、たっぷりとした光の中で動きを止めた。
オズワルドは日本の厚木基地に所属していたこともあるらしく、場末の町や日本人娼婦も登場する。そこにはオズワルドのナイーブな一面も垣間見えて、胸をつかれた。資料に基づいているのだろうが、それはデリーロの繊細さであると思う。
*リヴァイアサン/ポール・オースター(柴田元幸訳・新潮文庫)
「自由の女神」を破壊する男の話、と帯にはあって、間違っているわけではないのだけれど、ちょっとちがう。それは物語の核心からずれたストーリーであり、けれども一人の男を説明しようとすれば、そうなってしまうという解説だと思う。
作家であるピーター・エアロンが、友人ベン・サックスを語るところから話は始まる。サックスがいかに魅力的な人物かと書かれているのだが、これが長すぎる。読んでいるうちにピーターとベンが重なってしまって、さらにオースターそのひとのことだと思えてきた。あまりにも複雑過ぎて人物像をつかむのが難しく、共感が持てないのだ。他のキャラクターも単純ではない。アーティストのマリアは、つねにプロジェクトを進行させているのだが、それは作品と呼ぶには個人的に過ぎて、人々の鑑賞を拒否するようなところがある。マリアの親友リリアンはなぞめいた美女で、真実を話すことは絶対にない。リリアンの
夫をサックスが誤って殺し、サックスは遺品の大金をリリアンに渡そうとするのだが、気が変わって結局同居してしまう。
ところで、エアロンの二度目の妻の名はアイリスで、これはオースターの妻シリ(Sili)のアナグラム。オースターの妻も作家で、アイリスは彼女(シリ・ハストヴェット)の小説『目隠し』の主人公の名前でもある。ファンしてはちょっと気になります。
登場する男女のほとんどすべてが関係を持ち、偶然再会し、殺人現場を目撃し、とストーリーは映画のように安直な展開である。これはストーリーなんかどうでもいい、とオースターが考えているということではないだろうか。当然ブーイングも多かったはず。でもオースターが語りたいのは物語ではないと思う。いろいろな事態に陥ったときの、人間の思考と行為を書きたかったのではないかとわたしには思える。このあたりは、村上春樹の『海辺のカフカ』に通じるだろう。
また、この作品ではオースターの文章が幾分しつこく感じられる。一つのものごとに関して、考え得るいくつかの事態を書いているために、そう感じられるのだと思う。たとえば
問題はむしろ、ファニーもベンも私に真実を語っていたのだという確信だった。どちらもたぶん、彼らから見た限りでの真実ということなのだろうが、それでも真実にはちがいない。二人のうちのはどこにもなかったということだ。彼らにとっても、ほかの誰にとっても。責めるべき人間もいなければ擁護すべき人間もいない。唯一正当な反応は共感だった。
というような箇所。いろいろ不満を書いたが、2回読んで飽きることがなかった。この小説はドン・デリーロに捧げられている。

2004年1月
*本当の戦争の話をしよう/ティム・オブライエン(村上春樹訳・文春文庫)
ベトナム戦争をテーマにしたオブライエンの連作短篇集。オブライエンという名の21歳の青年が主人公。つまり作家が自らの体験を描いたもので、ティム・オブライエンにとってどうしても書かなければならなかった本だということがわかる。徴兵通知を受け取ったときのことを彼はこう書いている。
封を開けて、最初の数行にさっと目を通したところで、目のあたりで血液が急にどろりと重くなったことを覚えている。それは思考ではなかった。それは声にならない嗚咽だった。
ごく普通の青年が戦場に行くことになったときの衝撃と嘆き。オブライエンは69年に歩兵としてベトナムに渡った。湾岸戦争、そして今回のイラク戦争でも、派兵されるのは、これから希望に満ちた将来が待っているはずの青年たちである。この文章はそのことをわたしたちに考えるように促してくれる。
兵士たちの持ち物と救援物資(サングラスや手編みのセーターまである)、地雷や汚物混じりの土砂に流されて死んでいった仲間、オブライエンが自らの手で殺さなければならなかったベトナムの少年兵士。なかでも「レイニー河で」がすばらしい。徴兵通知を受け取って動揺したオブライエンは、車で郊外に行きコテージに泊まる。シーズンオフで客は他に誰もいない。持ち主である81歳のエルロイは彼のために食事を作り、ほとんどの時間を一緒に過ごす。オブライエンの置かれた状況を察して何も聞かない。
その男の自制心たるや実に驚異的だった。彼は決して無理にこじあけたりしなかった。何かを誤魔化したり、否定したりしなくてはならぬような立場に決して私を追い込まなかった。
ただ傍にいてくれる存在。淡々と自分の生活をしているひと、、つねに温かな目で他者を見まもることができるひと。こういう老人がたくさんいたら、世界はもう少しよくなるかもしれない。
レイニー河で二人は釣りをする。その先はカナダ。逃げてしまおうかとオブライエンは本気で考える。けれどもそうしたら家族や町の人々は何と言うだろう。彼は「体面を捨て去る」ことができない。ボートの上で号泣し、老人は黙って釣りを続ける。
20年前を回想するという形で書かれた短篇。ベトナムを語るということは、自らの深い傷をえぐり、何度も検証することに違いない。血と涙を流しながら書き続けることが、ティム・オブライエンの戦後なのだろう。ここを通り抜けた作家はもっと広い自由な小説世界を展開することになる。この作品が気になった方は、『ニュークリア・エイジ』をぜひ読んでいただきたいと思う。
*失踪/ティム・オブライエン(坂口緑訳・学研)
サスペンスのようなスリリングな小説。選挙で大敗したジョン・ウェイドが妻とコテージにやってくるが、妻は失踪してしまう。ウェイドがどんな男かということが、たくさんの証言によって語られる。両親に愛されなかった少年時代、自殺した父、趣味の手品、ベトナムで仲間から奇術師と呼ばれていたこと。なぜ妻は消えたのか真相は明かされない。ウェイドは真夜中に「キル・ジーザス(殺してやる)」と叫びながら室内の植物に熱湯をかける。妻はそれを目撃したのか、正気を失ったウェイドに殺されたのか。
ベトナム戦争で村の虐殺に参加した過去をウェイドは隠そうとする。虐殺シーンは壮絶で、オブライエンの他の作品には見られなかったものだと思ったら、悪名高いソンミ村事件をモデルにしたとあとがきにあった。これについては『ニュークリア・エイジ』(村上春樹訳・文春文庫)に詳しい注が載っているのを読んだ。戦闘を指揮したカーリー中尉は社会的不適合者で、ベトナムの非戦闘員109人を殺害。虐殺に参加した兵士の通報で事件が明るみに出て、軍法会議にかけられ終身刑の判決を受ける。後にニクソン大統領によって釈放され、無罪判決を得たという。
仲間に本名を知られていなかったことをいいことに、書類を改竄しようとしたことを暴露され、絶体絶命の男は、愛する妻をも失ってしまう。多くの人に愛されたいという願いが野心に代わり、うそを重ねることで自滅していく。
人間にはあえて踏みとどまるラインがあるし、あえて冒さぬ行いがある。命令だの、絶望的状況だのには関係ない。なぜならそのような行為は、人間の命そのものよりも大切な、自分のなかの何かを破壊してしまうからだ」J・グレン・グレイ『兵士たち 戦いに挑んだ男たちの回想』(1959年初版、1970年再版)
さりげなく差し挟まれた引用。これがウェイドが手放したものであり、彼という人間を語るものでもあると思った。
*オレンジだけが果物じゃない/ジャネット・ウィンターソン
(岸本佐知子訳・図書刊行会)
イギリスを代表する女性作家であるウィンターソンの、半自伝的なデビュー作。他の小説よりもシンプルで読みやすい。何といっても尋常ではない出自のひとである。狂信的なキリスト教徒の養母に、伝道師になるべく育てられたが、教会で知り合った女性を愛して、教会と家を捨てる。そこまでをシニカルなユーモアを持って書いている。教会のために全身全霊で尽くすエキセントリックな母をめぐる人々は、みんな少しずつ奇妙で、彼らに囲まれて育ったジャネットは、学校では何をやっても浮いてしまう。
その後はアイスクリーム売り、精神病院の雑役、葬儀社で死体の化粧係などをし、やがてオックスフォードに入る。すごくポジティヴなのだ。『さくらんぼの性は』『ベネツィア幻視行』『恋をする躯』と読んできて、ストーリーテラーとしての実力と、自分の傷を笑い飛ばすような肝の据わったところに参ってしまった。
*敵あるいはフォー/J・M・クッツェー(本橋哲也訳・白水社)
デフォーの『ロビンソン・クルーソー』と『ロクサーヌ』のパロディ小説。といっても、おもしろい小説というわけでは全然ない。二つの作品を下敷きにして、それに上塗りしていくように仕上げた重量感のある小説。クッツェーは2003年度のノーベル文学賞を受賞した南アフリカの作家。1940年ケープタウン生まれである。
無人島に流れ着いたイギリス女性スーザンが語るスタイル。島にはすでにクルーソーとフライディが住んでいて、スーザンは彼らと暮らしながら救出されたいと願い、漂流のことをいつか本にしたいと思っている。クルーソーには島を脱出する気はなく、暮らしを記録しようとは考えない。自分たちが作った段々畑と壁が残るだけで十分だと思っている。黒人奴隷のフライディはしゃべることができない。舌と性器を奪われた存在ということになっている。被支配者でありアフリカを象徴する存在である。
スーザンは救出された後に自分の体験を作品にしてもらおうと、フォーという作家に向かって話し続け、フォーが失踪すると、彼に宛てて手紙を書き続ける。「現実はいかにして表象されるか」というのがテーマの一つであると、あとがきにある。とめどなく語り続ける女にうんざりしてしまうが、このように語り書き続けることでしか、現実の複雑さ、奇怪さを証明することはできないのだと思った。心情は揺らぎ、決意は点滅し、運命はままならない。
そしてわたしたちが生きるとき、現実以外のものも介入してくる。幻想や夢や幻覚といったものたちが、時にわたしたちを支え、たぶらかし、迷わせる。
西欧とアフリカ、南米(スーザンは娘を捜してブラジルに渡り、船に乗ってきた)。男と女。支配者と被支配者、黒人と白人。スーザンはそれらをひたすら語り、壊れてゆく。詩的な混沌のなかにすべてが溶けていくようなラストが用意されている。
*無知/ミラン・クンデラ(西永良成訳・集英社)
数年の遍歴の後、自分の島を目のあたりにするオデュッセウスの話から物語は始まる。亡命した男女がプラハで偶然再会する話。
主人公イレナは、空港で初老の男ヨゼフを見かける。若いころ彼に誘われ、成就しなかったできごとは、イレナにとって唯一の恋の思い出だ。幸福とはいえない半生を過ごしてきた美しく知的なイレナは望んでもいないのに母国へ帰ることになる。そして友人たちと再会し、オデュッセウスのような失望を味わう。
『オデュッセイア』を引きつつ、チェコスロバキアの悲惨な歴史、イレナの幸福を奪う母、プレイボーイだったヨゼフが捨てた他の女性の物語も織り交ぜて、加速度的に悲劇へとなだれこんでゆく。
亡命者の苦悩は、おそらく普通に生活するわたしたちの想像の域を超えるものだろう。恋愛は命がけ、若さや愚かしさゆえにおかしたことが自分の未来だけでなく、一族の運命をも決定してしまうことがある。
生きることの重さ、時間の濃密さが、日本という国に在って安穏と世界の危機を眺めているわたしたちとはまったくちがうことを考えさせられた。
亡命し、60歳を過ぎてチェコ語を捨ててフランス語で作品を発表しているクンデラの小説は、母国では今なお発禁にされているという。共産主義国家は亡命を、裏切りのなかでも最も憎むべきものと見なし、外国に留まった者は全員有罪になった。自分の人生を行きたいと願うひとにとっては、自国に留まることは死を意味する。今はない国を舞台に、亡命者の宿命を独特のエロスと手触りをもってクンデラは語る。
クンデラ作品は他に『存在の耐えられない軽さ』『可笑しい夜』『緩やかさ』を読んだが、自由のない母国の人々の生活や亡命者の苦悩を書き続けるという一貫した姿勢に、畏敬の念を覚えずにはいられない。

2004年8月
*夜を抱いて/グウェン・エイデルマン(雨沢泰訳・文芸春秋)
濃厚な恋愛小説である。原タイトルは「war story」。とても重い。官能小説のようでもある。主人公のヨゼフは60歳の劇作家。戦争を生き延びた過去を引きずっている。強烈な個性、世捨て人のような暮らし。アメリカの書店で32歳のキティと出会い、激しい恋に落ちる。ともにユダヤ人。
男は食料を山のように買い込み、腐っても捨てず、始終食べている。堅くなったパン、ガチョウの油、シュナップス、レバーペースト、鰊の酢漬け。横柄で毒舌で、輝かしく暗い過去を持つ男にキティは振り回され、疲れ果てる。
いかなる狂気にも備えよ、憎む備えを忘れるな」「逃げ場なんかあるものか。わが身の3倍の重さの荷物を運ぶ甲虫みたいに、我々はみんな背中に過去を縛りつけて運ぶんだ。
悲しみを埋めるために女を抱くヨゼフを若いキティは理解することができず、嫉妬に狂う。別れた後にヨゼフの訃報を知って、作家志望だったキティが小説を書き始めるところで物語は終わる。生き延びるために隠れ、偽り、ほんとうの自分を封印しなければならなかった男と、戦争を知らない世代の女。エロチックな恋愛小説であると同時に、ユダヤ人の苦悩を伝える貴重な作品であると思う。
*僕が戦場で死んだら/ティム・オブライエン(中野圭二訳・白水uブックス)
オブライエンのデビュー作。戦争の体験をストレートに書いたもの。指向性破片地雷(クレイモア)、仕掛け爆弾(ブービートラップ)、非常食(Cレーション)、タコツボ。これらはオブライエンの小説に必ず出てくる用語といっていい。全体に力が入っていて生々しい。ここからスタートして体験を書くだけではない小説家になったのだなあとファンの一人として感慨深いものを覚える。
連作短篇集。なかでも「逃亡」がよい。訓練期間中にカナダに逃げることを考え、休日になると図書館へ行き、航空会社に電話をかけ、あとは決行するだけというところまでこぎつけるが、結局は諦めてしまうという話。
主人公はオブライエン。この小説も自身がモデルと思われる。カナダに逃亡したら、田舎の両親たちは何と思うだろう。ヴェトナムには行きたくない。けれど逃げたことで後ろ指をさされたくないという気持ちが彼を支配する。故郷ミネソタ州の大平原の町について彼はこう書く。
21年間その掟のもとで生活し、その教育を受け入れ、その食物を食い、その水を惜しげもなくがぶがぶ飲み、夜は安眠し、ハイウェイを車で走り、空気を汚染してそれを吸い、ぬくぬくとそのぜいたくにくるまってきた。
計画書を破り、彼は基地に戻る。悲しみと不安と絶望に押しつぶされながら。
いまや戦争が終わり、僕の手に残されているのは単純で、ごくあたりまえの真実のかけらである。人間は死ぬ。恐怖は耐えがたく、屈辱的である。勇敢であるのはむずかしい。勇気とはどういうことかすら簡単には言えない。死んだ人間は重く、持ち運びにくい。ヴェトナムでは物の匂いが違う。
オブライエンは作品のなかで勇気とは何かということを一貫して問い続けている。イラク戦争に派兵された若いひとたちの心情を思わずにはいられない。
*カチアートを追跡して/ティム・オブライエン (生井英考訳・図書刊行会)
1978年の全米図書賞に輝く長篇小説。脱走した兵士カチアートを追って、ヴェトナムからパリへと向かう分隊の話。
カチアートを捕らえることが兵士たちの目的になり、職務を忘れた不思議な旅が続く。主人公のポール・バーリンはオブライエンの分身と思われるナイーヴで礼儀正しい青年。途中で遭遇したヴェトナムの少女オゥン・ワンが分隊を導いてゆく。そんなのあり?と思って読んでいくと、話はどんどん妙な方向にふくらんでいった。カチアートという存在が
曖昧。ちょっと頭が足りなくて子どもみたいで、実体が感じられない。東洋的な思想のようであり、夢そのもののようでもある。
極現状対のなかで人間は何を考えるのか。いま在る場所からの逃避、甘い恋の夢、陽炎のような標的。過酷を生き抜くためには想像力が必要、現実を束の間忘れさせてくれるのは想像力であり、それなしではヴェトナムを生き延びることはできなかったとオブライエンは書く。
下ろした窓から夜風が吹き込み、石炭の煙の臭いとまた世界が動き出したという実感のなかで、素晴らしいスピードとそれを支える確かな平地、闇に閉ざされた美しい谷、力強く登る機関車、涼しげな高地、パンジャブからペシャワル、ペシャワルからカブール、カブールからさらにー。
村上春樹の小説にはおそらくこの小説のディテールが取り込まれている。穴、またはトンネルに落ちていく、地下に閉じこめられた男、ナビゲーターの娘など。これは村上訳ではないけれど、村上春樹は『ニュークリア・エイジ』を訳していて、あとがきでオブライエンという作家に敬意を表すると書いている。オブライエンの影響は『世界の終りとハード
ボイルドワンダーランド』に結実されていると思われるので、共通点を探すことも楽しい。
『僕が戦場で死んだら』に出てくるドジな兵隊クラインが「カチアート」のモデルであり、もし自分が逃亡していたらという仮定のもとに構想されたのが本書であるという。
*世界のすべての七月/ティム・オブライエン(村上春樹訳・新潮社)
群像劇仕立ての長篇。ヴェトナム戦争の時代に青春を送った男女が大学の同窓会にやってくる。ヴェトナムで片足を失った男、その男を愛せない妻、戦場へ行かずにカナダに逃げた男、癌で乳房をなくした女、夫を二人もつ女。60年代にはタフで大胆で自信にあふれていた男女が30年を経て告白しあうことになる。それぞれの事情を抱え苦悩する人々。
2日間にわたるパーティが終わり、永遠に失われたこと、新しく生まれたもの、何も変えることなどできないという結論、というふうに各自が何らかの解決を手にする。
戦場の描写には鬼気迫るものがあって、それに較べるとパーティ会場でのバカ騒ぎは気が抜けたように感じられる。それでも青春を一時でも取り戻そううとする50代の男女の姿は痛々しく、いとおしい。
戦争のことばかり書いているという批判のなかで、一作ごとに新しいスタイルを目ざしながら、ヴェトナム体験を挟み込むことを忘れない。自らの体験を決して手放さず、その意味を問い続けるこの作家の生き方は尊敬に値する。人生は苦痛に満ちているけれど、希望を捨てずに自分を奮い立たせることで前に進むしかないのだと、改めておしえてもらった気がする。
*感光生活/小池昌代(ちくま書房)
15の短篇がおさめられている。おもしろい。そして極上のお酒のような味わいがある。小池さんの詩やエッセイは、ことばがふくよかで豊かな香りがあるが、短篇にも同じテイストがあって、日本語はかくも美しいものかと思った。
殊にホラー小説のような「クラスメイト」。高校時代のクラスメイトから雑誌が送られてきて、原稿を依頼された「小池さん」は、そのひとのことを思い出せない。彼女のほうはストーカーであったかのように細かいことをよく覚えている。それらは悪意を含んだことばで語られ、渡した原稿にはあからさまな不満が返ってくる。この女性は何者か。
小池さんは高校時代のアルバムを開く。彼女の顔は黒く塗りつぶされている。二人の間に何かがあった。そのことも忘れてしまっている。悪意がどんどん迫ってくる怖さ。文章がたおやかなので、薄気味悪さがせりあがってくるようである。
*この世の果ての家/マイケル・カニンガム(飛田野裕子訳・角川文庫)
詩人の樋口えみこさんが薦めてくださった『めぐりあう時間たち』の作家が書いた長篇。映画『めぐりあう時間たち』(監督スティーヴン・ダルトリー)と重なる部分があって、謎解きのような楽しみも加わり、一気に読んだ。
ジョナサンとボビー、二人と一緒に暮らすクレア、ジョナサンの母アリス。それぞれのモノローグが一章になっていて、心の内がさらけ出される長篇小説の王道のような作品である。少年が青年になり、田舎から都会の生活に移って、さらに安住の地を見つけるまで。それを繊細な文章で細部までていねいに綴ってゆく。主人公のジョナサンはゲイ。作家自身がモデル。カニンガムは、息子がゲイであることを認めず必死で隠そうとする家族の姿にショックを受けたという。
ゲイであっても家族のぬくもりを求める男、夫はいなくてもいいが子どもは欲しいと思う女。家族のありかたが多様化している現在、このような「疑似家族」はある種の人々にとっては理想の形なのだろう。それぞれが心の闇を抱えていて、幸福になれない。ひとはもがきながら次のステージを目ざして進んでいくしかないというメッセージが伝わってくる。
ウッドストック、ヴァン・モリソン、ボブ・ディランなど60年代の音楽もたくさん出てきて、同時代を感じつつ、共感をもって受け入れることができた一作。
*ららら科學の子/矢作俊彦(文藝春秋)
今年の三島由紀夫賞を受賞した長篇小説。学生運動まっただなかに殺人未遂の罪で追われ、中国に渡った男の話。
男は文化革命下の寒村で30年のあいだ農民として暮らした後、大金を払って日本に密航する。死者も出る過酷な密航生活を終えて、斡旋業者から逃れるシーンはとてもスリリング。戸籍がないことに怯えながらも、男は少しずつ人間らしさと記憶を取り戻してゆく。30年ぶり(現在)の東京が活写され、今どきの女子高生、中国人マフィア、彼を裏切った負い目から経済的な援助を惜しまない男、不動産ブローカーなどが登場して、話はテンポよく進む。心のつながりのなかった両親はすでに亡く、唯一の肉親である妹との思い出が彼を支えている。その妹を探し当て、再び中国へ戻ってやり直そうと決意するラスト。希望のみえる終わりかたはちょっと意外だったが、よいと思った。力のこもった力作である。

2005年1月
*家庭の医学/レベッカ・ブラウン(柴田元幸訳・朝日新聞社)
この夏に母が末期癌の告知を受けた。わたしたち家族は病状の説明を聞くだけのつもりでいたので、心の準備ができていなかった。母はそれが何を意味するか理解できなかったらしく、手術をしないというので喜んだが、週に一度の抗癌剤治療の副作用に苦しむことになった。そんなときにすがるような気持ちで読んだのが本書である。
。
エイズ患者をケアする女性が語るスタイルの『体の贈り物』もよかったが、末期癌の母を介護する日々を書いたこの短篇集もすばらしい。ブラウンは愚痴を言わず、リアルな描写を避けている。入浴を手伝い、カタログで帽子を選び、点滴に付き合う。そうした生活を淡々と綴る。そのため死にゆく母の悲しみと、子どもたちの母への愛情が迫るものになっている。
私たちから見れば、母が死んでいくというのは、体が震え、汗をかく、そういう出来事だった。でもそれはあくまで体の試練にすぎなかったのだと私は思いたい。母のどこかほかの部分は何か別のものによって助けられていたと思いたい。なにか優しいものによって母が助けられていたと私は信じたい。
*コインロッカー・ベイビーズ/村上 龍(講談社文庫)
遅ればせながら村上龍を読んだ。芥川賞を受賞したデビュー作『限りなく透明に近いブルー』を読んで苦手だと思い、敬遠していたのだった。けれども佐々木浩さんと林心平さんに薦められて読んで、よかったと思った。
コインロッカーに捨てられていたハシとキクは、記憶の底に残る母親の心臓の音を求めながら、破滅に向かって突き進む。驚くべきパワーとスピードをもって物語が展開する。闇のマーケット、精神病院。マーケットは映画
ブレードランナー』の世界のよう。二人は上昇と下降をくりかえしながら自滅していく。キクに薄幸の美少女アネモネを、ハシに年上のニヴァを寄り添わせたのは、救いであると思った。キクが構えた拳銃の前に身を投げた実母、孤児である二人を育てた養母は無償の愛を体現する存在だが、キクが母と認めるには至らない。
キクとハシ、彼らをめぐる人々の反社会的な行為が、これでもかというくらい重ねられていく。初めて映画『ダイハード』を観たときのことを思い出した。ブルース・ウィリスがテロリストと格闘するアクションものだが、残酷な殺しのシーンになぜ想像力をこんなところに使うのだろうと思った。子どもが生まれたばかりで、この子を何としても守り育てなければと考えていたから、すさまじい敵意と暴力に恐怖を感じたのである。
村上龍はところどころにカタルシスの場面をはめこんでいて、それはハシとキクの不幸な暴走を止めることはできないのだけれど、読む者はこの作家の繊細さや良心を感じることになる。大胆にして繊細な、20世紀の傑作小説だと思う。
*サバイバー/チャック・パラニューク(池田真紀子訳・早川書房)
おそらく現代のアメリカでなければ生まれない新しい小説である。最終章から物語が遡っていくというスタイル。
「超過激小説」と帯にあるのだが、まず主人公は集団自殺したカルト集団の生き残りという設定がすごい。教団では長男だけが結婚を許され、他は17になると掃除人として外の世界に出されてしまう。主人公ブランソンも金持ちの屋敷で働くパートの掃除人。染み抜き、ディナーのエチケットなど何でも知っている掃除のプロで、与えられた境遇を精いっぱい生きようという意欲がある。
他の生き残りたちが不慮の死を遂げ、最後の一人になったブランソンにエージェントがつく。彼は現代のキリストとしてメディアに登場することになる。指導者は巨躯でなければならないと薬を注入されカツラをかぶり化粧をし、予知能力のある少女ファーティリティの力を借りてマスコミの寵児になるが、長くは続かない。
貧相な娼婦であるファーティリティの兄はブランソンと電話で話した後に自殺する。掃除人だったころ、自殺志願者の電話を受けるボランティアをし、話を聞いては死を煽っていたのだ。これはボリス・ヴィアンの『うたかたの日々』を彷彿とさせる奇妙な恋の物語であると思う。
現代アメリカのホットな話題を取り入れながら、世紀末の倦怠感が漂っている。トレーラーハウスのサンプルで逃避行をするのもアメリカ風。トレーラーハウスには生活に必要な家具は備え付けられているが、サンプルだから水道も電気も使えない。死んだ家のような車だ。
一人になったブランソンは飛行機をハイジャックする。乗客とパイロットを降ろし、墜落しつつある飛行機のコックピットでボイスレコーダーに向かって自分の半生を語り続ける。これが冒頭部分につながる。最後が始まりなのである。
パラニュークのデビュー作はブラッド・ピット主演で映画化された『ファイト・クラブ』。運送会社で働いていたときに、仕事の合間にクリップボードに走り書きして、3ヶ月で仕上げたという。テレビもなく雑誌も読まず、鶏を飼う生活をしているそうで、若い世代にとっては「ぼくたちのドン・デリーロ」という存在であるらしい。毀誉褒貶はあるかもしれないが、どこまでも突っ走っていく想像力には脱帽するほかはないと思う。
*アフターダーク 村上春樹(講談社)
「わたしたちは視点である」。監視カメラのような視点が設置される。幾度か挟み込まれたこの文章によって、読者は作品世界の眺め方について指令を受け、否応なくそこに組み込まれていく。この実験的な試みはおそらく成功しているだろう。会話のさりげなさ、テンポの速さ。主人公浅井エリ・マリ姉妹のキャラクターと関係はややステレオタイプに思える。エリートサラリーマンらしい不気味な白川。中国人の娼婦。元プロレスラーのラブホテル店長カオルと従業員コオロギには興味をそそられた。
マリに好意を持つ高橋も魅力的。村上春樹の小説に出てくる男性は例外なくチャーミングに思える。ひとに対する距離の取り方がほどよいからではないかと思う。強引でなく、どこか毅然としたところがあり、ある意味で健全である。高橋の礼儀正しさやユーモアが、生真面目なマリの気持ちを少しずつほぐしてゆく。何ともほほえましい。
コオロギは脛に傷のある壮絶な過去を大阪弁でマリに語る。柔らかい関西弁のアドバイスがいい。いじめの標的になった過去を少しずつ克服したいというマリに「努力できるというのは立派なこと」と言う。ヤンキース松井秀喜の父は「努力できるということが才能」と言ったが、確かににそうだと思う。最近の若い世代のなかには、一所懸命やることを馬鹿にする人たちが少なくなくて淋しく思っているのだが、努力はほんとうに特別なことになってしまったのだろうか。
またコオロギは「人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくもんやないのかな」とも言う。これは真理だと思う。どんなにきつい状態にあっても、愛された記憶は大きな支えになるし、旅や風景の記憶も慰めになる。さらに姉とうまくコミュニケイトできないという話に「お姉さんに対してほんとうに親しい、ぴたっとした感じを持てた瞬間のことを思い出しなさい」とアドバイスする。
この後に読んだ神山睦美さんの著書のなかに、こんな文章を見つけた。
どんなに貧困や差別や苦境のなかにあろうと、あたえられた生の喜びを一度たりとも味わったことのない人間は、いるはずがありません。そうであるならば、その喜びの場所に、永遠に回帰するということ。そのことの発見が、この苦難に満ちた生に、思いもかけない力をあたえるのではないか。そうニーチェは考えたのです。
(神山睦美『思考を鍛える論文入門』ちくま新書)
神山さんを中継してニーチェと村上春樹がつながったように思った。
マスクの男、眠り続けるエリ、中国へ行くというマリ。続編が出ないはずがない。楽しみです。
*ピンク・バス 角田光代(角川文庫)
この作家の作品をまとめて読んだ。よしもとばなな以降の、いい意味での軽さがあるけれど、決して明るくはない。退廃感、慢性的な疲労感のようなものがあって、そこに違和感を覚えながらも引きこまれていった。
妊娠したサエコが夫と住むマンションに、夫の姉である実夏子が転がり込む。実夏子は自閉症気味のようで、妊娠したことを「気持ち悪い」と言われたサエコは動揺し、つわりと義姉の存在に苦しむ日々が始まる。サエコは優柔不断な女。大学に7年もいて、サークルを変える度に、お嬢様やヒッピー、淫乱女やエセインテリになった。さらに浮浪者のようなクラスメートの男についていってホームレスのような生活をしたことがあるという大胆な設定に驚いた。読者というのはどうしても主人公を作者と重ねてしまうものだし、作家は少なからず主人公に自己を投影させるものではないかと思っていたのであるが、この作家はこだわらない。ほとんどの作品で、主人公はだらしなかったりデリカシーに欠けていたりする。
この路上生活がなかなかリアルに書かれていて、気持ち悪くもおもしろい。実夏子はピンクのバスに乗って去っていく。ピンクのバスは、妊娠時の不安的な精神状態が生み出した妄想なのだろうか。つわりを経験したひとにとっては共感するところ大かもしれない。つわりなどとは無関係なひとなら、軽いファンタジーとして読むことができるだろう。
*幸福な遊戯 角田光代(角川文庫)
ハウスシェアで共同生活をするサトコ、立人、ハルオ。同居人同士の不純異性行為禁止というルールの下でうまくいっているようにみえた暮らしが壊れる。家族のぬくもりを求めるサトコはハルオと寝てしまい、家の秩序が少しずつ崩れて、ハルオが出て行く。さらにサトコは立人とも関係を持つ。居心地のよさを維持したいために怠惰な猫のようにふるまうサトコ。読み進むうちに何だか腹立たしくなってきた。
事情を聞きに乗り込んできた立人の恋人に一緒に暮らそうと持ちかけ、家を出るという立人にも3人で暮らそうと提案するサトコ。プライドのかけらもないような女が主人公というのは珍しいと思う。そういう女を描いた小説にチェーホフの『可愛い女』がある(ちがうかな?)。男性が書くのは何となくわかるような気がする。きっと手ひどい目に遭ったのだろう。人間はいくらでも怠惰になれるけれど、目標に向かって進むほうが、生き方としてはずっと楽だと思う。ひとは全くの自由よりも秩序ある生活を愛するものだから。
併録された「無愁天使」は、買い物依存症でモノがあふれかえる豪邸に住んでいて、片づけや支払ができず、出張ヘルス嬢になる女が主人公だし、文庫『ピンク・バス』に併録された「昨夜はたくさん夢を見た」も、デパートに靴下を買いに行ったのに他のものを山と買ってしまう買い物好きのカオルが主人公。ボーイフレンドのイタガキは「生きていく上でぴーんと張ったもんが、おまえにはないよ」と言う。拍手したくなった。
この作品が単行本になったのは1993年だから、「ぴーんと張りつめた」ものを持たないでふわふわ生きているひとがその後もきっと増え続けているのだろう。努力なんかしなくても何とかなるだろうというお気楽な若いひとを見る度に、後悔するよと言いたくなる。
ところで「買い物」は、哲学者の森岡正博さんが話題の著書『無痛文明論』のなかで書くところの「身体の喜び」を得る行為の一つである。その満足は一時的なものであるから、そのひとは次から次へとモノを買うことになる。それに対して「生命のよろこび」は、自ら汗を流して身に付けることでもたらされる、目標に向かって努力する行為のことである。角田光代は、身体のよろこびを得るためには何をも厭わない若い女が、すれすれのところで生きている危うさを書き続けている作家といえるだろう。

2006年2月
*東京奇譚集 村上春樹(新潮社)
雑誌『COURRiER』(講談社)創刊号のインタビューで村上春樹はこう言っている。「毎日、決まった枚数を書きます。休みはとりません。一度書いた箇所に手を入れたり、物語の先を前もって書いたりすることは決してありません」。夜9時に寝て朝4時に起き11時まで、400字詰め原稿用紙10枚ほど書くそうである。そのようにして書かれたということがよくわかる短篇集だと思う。
ストーリーに新味はあまりなく、力業で展開させていったような感じがあると思った。奇譚というと地霊などが関係したおどろおどろしい話を想像するけれど、そういうものは出てこない。村上春樹の文体を楽しみたい、わたしのような読者にはうれしい一冊。
5つの短篇のなかで、「どこであれそれが見つかりそうな場所で」に強く惹かれるものがあった。行方不明になったひとをボランティアで捜す「私」の話。ピンヒールをはいたクルミザワという女性が依頼人で、男はメモを取る。先の尖った鉛筆、パンケーキ、凶器になりそうなヒール。それらの小物はストーリーとは関係ないのだけれど、魅力的に思えてくる。
夫が消えたというマンションの階段を「私」は何度も行き来する。ポール・オースターのニューヨーク三部作のひとつ『シティ・オブ・グラス』を思い浮かべた。小説家クインに「探偵のポール・オースターか?」という電話がかかってくる。クインは探偵ということばに興味を持ち、オースターを名のって仕事を請け負うという話である。探偵の仕事をしているうちに、自分の存在が希薄になっていくのを感じ、自分がどこにいるかも問題ではなくなる。
「どこであれ・・・」の「私」は、夫が消えたというマンションの階段を歩き、踊り場にあるソファに座ってみる。目を閉じ、時の流れに身を任せる。「25分がどこかに消滅していた。悪くない、と私は思った。効用のない摩耗。ぜんぜん悪くない。」
この行為は何を意味するのか。どこにも存在しないような心的状況に自分をもっていって、クルミザワさんが失踪を決意したときに降りてみるということだろうか。彼は金も持たず空腹のまま普段着で消えてしまった。どこかにドアがあるはずだと「私」は考える。強い逃避願望が現状を蹴破ってしまうような、その「時」を「私」は探しているのではないかと思った。目を閉じて自分を無にする、他者になったつもりで見えないものを探すという行為に強く惹かれた。
*ほとんど記憶のない女 リディア・ディヴィス(岸本佐知子訳・白水社)
「アメリカ小説界の静かな巨人」「ちょっとひねくれたあなたに贈る51の短編」と帯にある。著者はポール・オースターの前妻。オースターの『トゥルー・ストーリーズ』や『リヴァイアサン』にも登場する。どんな女性だろうか。これはもう読むしかないと思った。
知的で硬質な文章。生真面目さが時として読者の笑いを誘うというタイプの作家だと思う。「大学教師」という作品がそうである。教師である「私」は映画のなかのワイルドな世界を夢見て、カウボーイと結婚したいと思っている独身女性。イメージに近い男子学生に心惹かれてデートに誘うが、どこかしっくりしない。不器用で、中華料理を食べながら牛乳を飲むような男。男には妻子がいて、そちらに戻ってしまう。わたしは相変わらずカウボーイと結婚したいと思っているのだが、夢にはカウボーイでない男の姿が定着しているというもの。
6行、7行の掌編もいくつかあり、それらはバリー・ユアグローの『一人の男が飛行機から飛び降りる』(柴田元幸訳・新潮文庫)の世界と通じるものがあると思う。殊に好きなのが「混乱の実例」。15章から成り、2行で終わる章もある。冒頭はこんな感じ。
私はホテルの部屋のバスルームの床に座っている。夜明け少し前で、私は酒を飲み過ぎており、そのために単純なことがひどく驚くべきことに感じられる。いや、それとも単純なことではないのだろうか。
意識の流れを確認して物語は進んでいく。繊細な感性と鋭敏な知性がいい感じに成熟した短編集だと思う。
*一人の男が飛行機から飛び降りる バリー・ユアグロー
(柴田元幸訳・新潮文庫)
149本の超短編。ユアグローは1949年アメリカ生まれ。この作家の世界にはなかなか入り込めなかった。悪夢の記録のようで、モノも人もあるべきところにおさまっていないような居心地の悪さを感じながら読んだ。そして「骨」に出会った。背筋がふるえた。9行の短い作品。冒頭部分を書き写してみる。
眠れない。枕の感触が変だ。開けてみると、なかに骨がいっぱい入っている。白い骨で、何か小動物のものと見える。/私はいつの間にか夜道を、骨を入れた袋を抱えて歩いている。
わたしも似たような夢を見て「骨をまく夜」という詩を書いたことがあるのだった。こういう詩。「わたしは黒いビニール袋をさげて/夜の高架道路を歩いている/闇のなかの黒い点のような姿で。/ごろごろしたものがはいっているのだけれど/怖くて開けることができない」
骨が夢のなかに出てくるのはめずらしいことではないけれど、何か不思議な一致に思われる。
*ルーガ 小池昌代(講談社)
小池さんが詩や小説、書評を書くスピードは、もしかしたらわたしがそれらを読むよりも速いのではないかと思う。昨年、3冊立て続けに著書をいただいた。
本書には3つの小説がおさめられている。孤独なスーパーマーケットの店員蜜子とミシンの話「ルーガ」、杖をつく女性詩人葉子が若い男と海辺を歩く「旗」。「ルーガ」はホラー仕立て。小池さんはホラーテイストの小説をいくつか書いている。どれもかなり怖い。ありえない話ではなく、日常のなかでいかにも起こりそうな類のものであるからだ。ミシンについて専門的な記述があって、それも恐怖の伏線であるように思った。
「ニギヤカな岸辺」はちからのこもった中編である。登場人物の話し声が聞こえてきそう。山子と健太郎夫婦の住む家のたたずまいが映像になってわたしの記憶の一部になってしまったみたいだ。平屋の古い家、壁にからまる蔦、坂道、地面にはりつく赤い柿の葉。山子の容姿はご本人とはまったく似ていない独特のものだけれど、自分をまたいでトイレに行く夫を山子がどなるシーンなど、小池さんの顔がなぜかちらと浮かんできた(そんなことはしないと思うけれど)。小説家の友人がいるというのは楽しみの多いものですね。
横山さんという老女が何とも魅力的。細々したモノがあふれかえる汚い家に住みながら、作る料理は一級品という設定。横山さんが登場するシーンには確かなぬくもりが感じられる。
冬の河原で5人の男女がお弁当を食べるラストは、春のピクニックとはちがう寂寥感が漂っている。寄る辺のない人々が縁あって集まり、持ち寄った食べ物を囲む。疑似家族の宴。わたしのなかにとてもあたたかなものが残った。
*空中庭園 角田光代(文春文庫)
若い女性独特の浮遊感を描く作家だと思ったら、初期の作品は現代の家族の生活をリアルに書いたものが多くて、意外な気がした。郊外のマンション、パートをする母、息子の家庭教師と浮気をする父。娘と息子のいる家庭が崩壊していくプロセスが無残に描かれる。隠し事をしないというルールに則って、娘を身ごもったのはラブホテルでのこと母は話す。娘はそこを見たいがために、見ず知らずの男を誘う。息子は家庭教師に誘われてホテルに行く。家族全員がラブホテルに行くことになる。
この家庭には愛が存在しない。日本は貧しい国だと思った。考えてみると、高度経済成長期あたりから日本人の精神生活はどんどん貧相になっているのではないか。わたしの家もそうであったが、親はテレビを始めとする家電製品を買ったり家を新築するために必死で働いた。それが喜びだったのだろうが、ステレオやクーラーが暮らしのなかに入ってきても、生活の質はまったく変わらなかった。庶民の家では暮らしを楽しむというゆとりは一向に生まれなかったと思う。
*プラナリア 山本文緒(文春文庫)
この短編集のなかの「どこかではないここ」も『空中庭園』と同じような設定の作品。リストラされた父と夜中にパートに出る母、母親を嫌って友人の家を泊まり歩く娘。娘は生真面目な母親に圧迫感を覚え、自立する計画を立てている。ともに壊れていく家族の日常が、母である女性の目を通して語られる。パート勤めの母親には仕事に対する誇りと
いうものはない。レジ打ちやウェイトレスをする合間に、近くに住む気むずかしい実母の話を聞いてやる。夫への愛情はすでに冷めている。そういう母親の姿に子供たちが嫌悪を覚えるのは当然かもしれないと思う。
山本文緒の作品に出てくる女性たちは、角田光代作品よりも意志的である。結末に希望が見えるところがよいと思った。乳がんでも無職でも人生に失敗した男でも、自分のちからでもう一度始めてみようと決意する。とても気持ちがよい。
「囚われ人のジレンマ」という短編の「囚人のジレンマ」というたとえ話がおもしろい。共犯の窃盗容疑の二人が捕まる。警察は二人を別の部屋に入れ、それぞれに「お前が先に自白すれば無罪放免にするが、もう一人より後に自白したら重罪にする」と言う。二人は必死で考え、結局告白して、ともに罪に処されるというもの。ウィリアム・パウンドストーンという作家の同タイトルの本があるそうだ。
「囚われ人のジレンマ」は、結婚を約束した恋人同士が相手を愛していないと告白すべきか、とりあえず確保しておくべきか、互いにカマをかけあう話。といったら身も蓋もないようだけれど、ここには愛はまったく存在していない。相手を思いやったり尊敬したりすることなく、結婚がはかりにかけられ、女が先に降りてしまうのだ。
テレビドラマ風の「あいあるあした」もよくできている。映画『居酒屋ゆうれい』を彷彿とさせる。やや通俗的な話ながら、どの人物にも著者の愛情がこめられていて、佳品だと思う。
*雪沼とその周辺 堀江敏幸(新潮社)
連作短編集。山奥のさびれた街を舞台に、住人たちの人生のシーンがていねいに描かれている。「スタンス・ドット」がよかった。小さなボウリング場のオーナーが主役。冒頭部分を引いてみる。
午前十一時から営業をはじめているのに、客はひとりもあらわれなかった。木曜日はいつもこんな調子だからべつに驚きはしなかったが、夜の九時をまわったところで、見切りをつけて、壁面照明の電源をすべて落とした。
閉める寸前のボウリング場に若い男女がやってくる。彼らのゲームを見ながら昔を回想する。「彼」は中古車販売をやめてボウリング場をオープンした。ボールがレーンを転がる音を愛する男である。片隅に喫茶部を作って協力してくれた妻、もとプロボウラーで怪我のためにレッスンプロになった伝説の「ハイオク」さん。1964年生まれの作家が、人生をリタイアした男の人生をさりげなく語って、極上の短編である。
次は、その妻がひところ通っていた料理教室の小留知先生が主人公の「イラクサの庭」。先生は「コルザ」と言って息を引き取るが、このことばの意味は最後に明かされる。ちょっと作り過ぎているように思った。なぞかけのことばは一つでいいのではないか。
「ピラニア」は、中華料理店主が食事制限をされている入院患者のために、駐車場のバンに出前をするという話。料理が下手な料理人という設定もおもしろい。実際にあるのだろうか。

2006年8月
*インディアナ・インディアナ レナード・ハント(柴田元幸訳・朝日新聞社)
ポール・オースターが惚れ込み、柴田元幸が「これだ」と思ったという不思議な小説である。まず登場人物の説明がないので、関係がわからない。読み進むうちにわかってくるのだが、すべては明かされるのは最後になってである。
主人公のノアは知能に少し問題がある老人で、その妻は療養所にいるらしい。妻からの意味不明な手紙と農場での暮らし、思い出の数々がコラージュになっていて、童話のようでもある。全体に流れるかすかな悲しみ。ノアは自分が愚かなことを知っている。妻は出会ったころから精神を病んでいて、若かった二人は両親の保護下で一緒に暮らし始めたのだ。
意味とかテーマを求めようとしても無駄である。ただ純粋に生きたノアという男の物語をわたしたちは追っていけばいいのである。リチャード・ブローティガンの『西瓜糖の日々』の世界に近いかもしれない。ノアは『海辺のカフカ』のナカタさんのような男性です。
*いつか王子駅で 堀江敏幸(新潮社)
縁あって都電荒川線沿線に住むことになった男が主人公。翻訳などをして生活する、著者の分身のような「私」。居酒屋の女将や大家である工場主と娘、古本屋の主人、印章彫りの男などとの交流が細やかに描かれた長編小説。この作家ならではの巧みな構成と文章。島村利正と瀧井孝作の古本、競馬の名レースなど小道具も渋い。
「変わらないでいたことが、結果としてえらく前向きだったと後からわかってくるような暮らしを送るのが難しい」背中に入れ墨のある印章彫りの正吉が言う。もってまわった言い方だが、含蓄のあることばだと関心してしまった。わけありの人生を送ったらしい正吉は秩父で木こりをしたこともあるという設定。
もう一人、魅力的なのが居酒屋の女将。雨に濡れた「わたし」に手ぬぐいを差し出し、洗って返そうとすると「そんな気遣いは誰か大切なひとにとっておいてあげてくださいよ」と言う。また正吉が店に現れなくなったことをあれこれ推測する客に話を振られて「どなたも毎日いらっしゃるわけじゃないし、たまに寄っていただけるだけでうちはじゅうぶんなんですよ、自由に見えてやっぱりひとつところをぐるぐるまわっている回遊魚みたいなひとにも親しみがわくんだけれど、とまちがっても常連なんて言葉は使わない覚悟の柔らかな笑みを浮かべて客の抑圧をさらりと解いて」。いい女というのはこういうひとをいうのだろうと思わせる文章はさすがである。
けれどもこの作家の文体はひとによって好き嫌いが分かれると思う。古文の現代語訳に似た感じがわたしは好きだけれど、たとえば次のような文章は息が長すぎてちょっとどうかなという気もする。
美味にはちがいないけれど甘みと粘りが強すぎておかずの味を殺すこともある雪国産の米よりも淡泊な関東圏の米を、それも新米よりパエリアやリゾットにも順応性のある古米もしくは古々米のほうを好む私は、引っ越しのたびに近所を歩いてそれとなく米屋を物色してきたのだが、いつぞやの米不足騒ぎで入ってきたあのすばらしいタイ米が入荷時にまさるとも劣らぬすばやさで潮が引くように姿を消してこのかた、産地を問わずぱさついた品種が店頭から一掃され、さらにコンビニで米が買えるようになると今度は米屋そのものが減り始めて、私はいらぬおしゃべりを強要されない床屋を見つける以上の困難をもって古米を扱う店を探す羽目に陥った。
名馬のレースと少女の短距離レースを重ねたラストも、きれいにまとめ過ぎ。すべてが一点に収束する手際のよさに息苦しいものを感じた。それでもよいものを読んだという満足感が残った。
*僕はマゼランと旅した スチュアート・ダイベック(柴田元幸・白水社)
シカゴの下町を舞台にした連作短編集。前作『シカゴ育ち』もそうだったが、本作も細部をきっちりと丁寧に書いていて、短編とは思えない重厚な作品になっている。ダイベックの両親は東欧からの移民。シカゴのある地域にはそういう人々が集まって住み旧世界のような空間を作っていて、ダイベックは魔法のようにアメリカのなかの東欧を描き出す。全体の主人公はペリー・カツェクという少年だけれど、ちらっと登場した人物が次の話の主人公というような趣向が凝らされていて、遠近の妙を感じた。
柴田元幸の『ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち』(アルク)でダイベックの話を読み、付録のCDで声を聞いた。神経質な作家かと思っていたら、少年ぽさを残した気さくなひとだったので、うれしくなった。
「ロヨラアームズの昼食」が出色である。大学生になったペリーの、元は古ホテルのアパートでの日々を描いたもの。テーブルがなく、窓台で食事をするような窮乏生活。ポール・オースターの『ムーン・パレス』でも貧乏暮らしの記述にかなりのページが割かれていた。リッチな生活の描写には好みに個人差があるかもしれないけれど、貧しい若者の暮らしには人々の多くが共感できるのではないだろうか。そこにはロマンや未来やユーモアが仄見えるからかもしれない。ペリーは図書館やコインランドリー、公衆トイレの恩恵に預かって生き延びようと計画する。インテリで風変わりなガールフレンドのナターシャがチャーミング。
また「ケ・キエレス」はペリーの弟ミックの物語。ミックは異国の女と次々に暮らし演劇に足を突っ込み、用心棒のバイトや反戦デモに参加して警察に拘留される。問題を起こすたびに父が駆けつける。父と息子の強い絆。タイトルは「お前、何の用だ?」という意味。ミックのスペイン語はプエルトリコ訛りで、メキシコ系の若者川たちをいらだたせてしまう。不良グループが近づいてくるラストはとてもスリリングだ。
*秋の四重奏 バーバラ・ピム(小野寺健訳・みすず書房)
小池昌代さんが薦めてくれた一冊。ピムは過小評価されている作家というアンケートで、著名な批評家二人がその名を挙げたことがきっかけになって復活したという作家である。30年も前に60歳代の未婚の男女を主人公にした小説を書いていたなんて、先見の明があると思う。
舞台はロンドン。同じ会社で働くエドウィン、ノーマン、レティ、マーシャ。特別な趣味も魅力もない、凡庸な人々の日常を淡々と描いている。彼らのあいだに恋愛感情が生まれることはない。ただ一人暮らしで定年間近ということで、時には一緒ににランチを取ることがあり、ちょっとした会話をするというような連帯感を持っている。
訳が古風でシニカルなので、はじめはとまどったけれど、読み進むうちに内容と合っているような気がしてきた。つましい暮らし、おもしろみのない人々、何も起こらない日々。それでも最後は変わり者のマーシャがワンルーム暮らしのノーマンに家を譲るという遺言を残して死に、おしゃれだけが生き甲斐のレティは田舎で友人と暮らす計画を取りやめる。という事件が起こる。
経済的にも精神的にも自立することを当然と考える成熟した社会。日本とはずいぶんちがうと思った。
*包帯クラブ 天童荒太(ちくまプリマー新書)
草野信子さんと柴田三吉さんの二人誌『ジャンクション』で取り上げられていて、ぜひ読んでみたいと思った。主人公は高校生。両親が離婚して不安定な状態の少女ワラは病院の屋上でディノという少年に出会う。自分が傷ついた場所やモノに包帯を巻くという彼の話を聞いて、親友と一緒にやってみる。公園のブランコや理科室の試験管に、セクハラまがいのことをされたり、いじめを受けた場所に包帯を巻く。それは傷を認めることであり、忘れないことでもある。
よい小説であるとは思うのだが、すんなり受け入れることができたとはいえない。16歳の少女の一人称で語っているのは、1960年生まれの作家だからだ。何だかずるいなという気がする。女子高生がひたむjきで賢すぎるのだ。かといって、三人称にすればよかったかというと、そうでもないように思える。そのあたりがもどかしいところ。
石田衣良の『うつくしい子ども』を思い出し、開いてみたら、二人は同年生まれだった。こちらは神戸の少年Aの事件をモデルに、殺人者の弟を持った兄が「ぼく」という一人称で語るスタイル。上の世代の作家が中学生、高校生の話を書くときに一人称を使うことはごくふつうのことだけれども、そこに大人の思考が入るために、作品がとこかステレオタイプになってしまうような気がする。
現役の高校生たちに読んでもらって感想を聞いてみたいと思う。
2007年2月
*ピアノサンド 平田俊子(講談社文庫)
離婚した女性のひりひりした質感が心地よい。「わたし」は百年前のピアノを預かることになって浮き立つ井気持ちでいたのだが、その話が立ち消えになる。エレベーターを降りると以前住んでいた部屋に着き、そこにピアノがあったという不思議な体験が作品に奥行きを添えるとともに、展開のキーを握っていると思う。「わたし」はピアノが海辺のレストランにあると聞いて出かけていく。元同僚の諏訪、燭台のついた音の狂ったピアノ、「わたし」の部屋に通ってくる妻子のある槙野。
ピアノをめぐって「わたし」の日常は変化する。新しく加わる人々がいて、男友だちとの距離が微妙に変わり、結婚生活の苦い思い出が少しずつ消えていく。ピアノ、男友だち、サンドウィッチなど魅力的なディテールが遠く離れているように見えて、だんだん一つにまとまっていく。その手際にうっとりした。
*海の本 小池昌代(みすず書房)
書評集『井戸の底に墜ちた星』に収録された短編小説。「わたし」が海辺の街に住む高校時代の友人を訪ねる話。文芸部の仲間だった貴美は海辺の町で年老いた夫としゃべらぬ息子と暮らしている。もう活字を見るのも嫌で、本は一冊ずつ海に捨てたという。たくましい母親になっても、どこか現ではないものを見ている貴美。
舞台は駿河湾に面した町で、殺風景な家、桜エビ尽くしのごちそうなどの細部と会話にリアリティがある。ミステリー映画を見ているようなスリリングな展開。ラストは岩場に「全訳古語辞典」が打ち上げられるのを「わたし」が見るシーン。
貴美は古典文学に出てくる女なのかもしれない。あるいは「わたし」の妄想の世界の住人。やわらかな詩人の文章は白湯のように心地よい。
*最後の瞬間のすごく大きな変化 グレイス・ペイリー(村上春樹訳・文春文庫)
輪郭がはっきりした、不思議なテイストの短編集である。ペイリーは1922年ニューヨークのブロンクス生まれ。両親は帝政ロシアの圧政から逃れて来たユダヤ系の移民。ブロンクスは貧しい人々の住むハーレムよりも荒れた町だ。バスで通過したことがある。時差ぼけでもうろうとしていて、窓の外を眺めることができなかった。残念でならない。フェミニストで社会運動家でもある。当然、手強い小説。
最初におかれた「必要な物」に惹かれた。18年間借りっぱなしだった本を図書館に返しに来た中年女性が、27年間一緒に暮らして別れた夫とばったり会って立ち話をする話。短い会話のなかから、二人の性格の違い、生活のずれが見えてくる。
元夫は言う。「僕はヨットが欲しかったんだ。でも君ときたら何ひとつ欲しがらなかった」それが離婚の原因だったのだろう。禁欲的な生活を好む妻と平凡な暮らしをしたかった夫。
「たとえば私は別の人格に生まれ変わりたい。私はこれらの二冊の本をちゃんと二週間以内に図書館に返却できるようなきちんとした女になりたい。私は学校制度を改革できたり、この愛しき都会の真っ只中が抱える諸問題について財政監査委員会で発言したりできるくらいの、有力な市民になりたい」
ああ、わたしも生まれ変わりたい。どこかで大きなリセットをしたい。彼女の思いはわたしにとっても切実なものとして感じられる。
フェイスという名の、これも中年女性が出てくる短編がいくつかある。家族のつながりが特別なのはユダヤの伝統だろうか。「リトル・ガール」はレイプ事件を扱ったもの。容赦ない描写の悲惨としかいいようのない短編。社会運動家として書かねばならなかった一編であるかもしれない。
村上春樹はあとがきで、ペイリーは無駄な装飾や凡庸な表現を嫌うと書いている。彼は原文のもっている不思議な魅力を損なわないように訳している。それでも読みやすいとはいえない。けれどもわたしは「必要なもの」に惚れた。この一編によって、グレイス・ペイリーはわたしにとって大切な作家になったと思う。
*わたしを離さないで カズオ・イシグロ(土屋雅雄訳・早川書房)
たいへんな傑作である。スローな展開についていけず、読みさしになっていたが、再びひらいて辛抱強く読んでいるうちに文体に慣れてきて、心地よく思えるようになった。キャシーという女性が語る不思議な物語。「介護人」「「提供者」ということばが冒頭から出てくるので、ドナーの話だろうと思っていたが単なる、ドナーではなさそうだと気づいた。
前半は「ヘールシャム」という施設での生徒の日常が事細かに描かれる。教師たちのどこか不自然な発言と何かを隠しているような素振り。外の世界と遮断された寄宿舎風のそこでは、絵や詩を書くことが奨励され、欲しいものは交換会と呼ばれるバザーで手に入れる。生徒たちは、友人の一挙一動に敏感に反応し憶測し、仲違いや仲直りを繰り返す。緻密な文章、前後して語られるできごと。キャシーはルース、トミーと強い友情で結束するが、三角関係に苦しむ。運命共同体といってもいいような絆と、自分たちの不透明な未来に。
最後に「ヘールシャム」がクローンの子どもたちを教育する場所だったことが明かされる。臓器提供のために作られたクローンに勉強を教えることなど無駄だという世論が圧倒的な社会。彼らにも心があり、芸術を理解する能力を持っているということを証明するために作られたのが「ヘールシャム」だった。
牧歌的な少年少女の恋愛小説のようでもあるが、実は奇想天外な近未来小説といえるかもしれない。タイトルはキャシーが少女の頃好きだった曲の歌詞。テープを流し、一人で踊った夜、クローンの子どもが音楽を聴いて何かを感じている姿を見て涙を流した女性がいた。涙の意味は後になって知らされることになる。
できごとが語られたあとに意味や真実があきらかになるという時差が、この小説の特徴だと思う。始めはじれったいと感じたけれど、読み終わったときには、もう続きを読めないことが寂しく思われた。
2007年8月
*最後の場所で チャンネ・リー(高橋茅香子・新潮社)
著者は3歳でアメリカに渡った1963年生まれの韓国人。若い作家が、初老の男が語るスタイルでその人生を描く。端正な文章、細かい描写。スローな展開に最初はとまどったが、読んでいくうちに慣れていった。カズオ・イシグロの本を読むときにもそのように感じる。
主人公は老年の紳士ハタ。在日韓国人として日本に生まれ、日本人の養子になり、日本兵として従軍中に同胞の慰安婦を愛してしまう。戦地を舞台に日本人を描く。勇気のある仕事である。著者自身が若く、親もまた戦争体験のない世代であるからこそ、書くことができた小説だと思う。
騙されて慰安婦になった賢く美しいクッアにハタは強く惹かれるが、彼女を救うことができず死に追いやることになる。この挿話は悲痛な美しさと比類のない残酷さをたたえていて、圧倒的な迫力がある。
韓国、日本、アメリカ。どこにも帰属できないハタは過去を封印し、ニューヨーク郊外に瀟洒な家を買い、医療用品店を開く。穏やかで控えめな彼は人々から敬愛されるが、恋人は去り、養女は心を開かずに次々とトラブルを起こす。
原タイトルは「ジェスチャーライフ」。自分を抑えたハタの生き方は近しいひとを遠ざけることになってしまうのだけれど、。ラストには思いがけなく明るい希望がおかれている。著者の若さがなすものかもしれないと思った。カズオ・イシグロの『日の残り』以来の佳作と絶賛された長編小説である。
*裁縫師 小池昌代(角川書店)
エロチシズムというテーマのもとに書かれたと思われる短編集。小池さんの身体や性に対する大らかさが、隠微とはちがう健康なエロスを表現するものになっていると思った。表題作は「九歳の、娼婦であった」という衝撃的な一文を持つ。貧しい女が娘のため有名な裁縫師に服の仕立てを頼む。そのシチュエイションから妖しい雰囲気が漂う。仮縫いの最中に起こったできごと。「仮縫い」という行為には確かに身体の奥をふるわせるものがあるかもしれない。未完成の服から伸びる腕や足。マチ針を打つために触れる肌と指。マルグリット・デュラスの世界を連想した。
「女神」は医院の受付をしている女に翻弄される大学生の話。鳥の巣のような声を持つ中年女、女たちがツルの装束を身につける年に一度の祭り。太古から行われていた「歌垣」と呼ばれる行事のように、男女が性的に解放される時間のなかで男は女と「まぐわう」が、廃人のようになってしまうという怖い話。「野ばら」の、家族に置き去りにされた少女が『にぎやかな岸辺』の「山子」のようにたくましくて、おもしろかった。
*タタド 小池昌代(新潮社)
川端康成文学賞受賞の表題作をふくむ三つの短編がおさめられている。小説家としての成熟がうかがえるが、詩人としてのまなざしはやはりふつうの小説家とはちがうものを掬っていると思う。表題作は五十代の男女四人が海辺のセカンドハウスで一晩を過ごす話。四十代の著者が登場人物をじぶんより上の世代の人間に、そのうち二人を女優とディレクターという職業に設定し、バランスよく彼らの過去と現在を語りながら、それぞれの人物を書き分けていると思う。もっとそれぞれについて知りたいという気持ちをかき立てられた。
海草や夏みかん、アロエのローションなど小道具も効いている。ある年代の読者なら「スワッピング」ということばが浮かぶラスト。どことなく古風で倦怠感が漂っているように思った。
*聖母の贈り物 ウィリアム・トレヴァー(栩木伸明訳・国書刊行会)
小池昌代さんが薦めてくれた一冊。トレヴァーは1928年アイルランド生まれ。ていねいに年を重ねたひとならではの骨太の作風。短編小説でありながら、大きな時間の流れと重厚感を持っている。
「ミス・エルヴィラ・トムレット 享年十八歳」がよかった。アイルランドの小さな町で車の修理工場を営む父と叔父、母と五人の子どもたちの暮らしがセピア色の映像のように展開される。薄暗い食堂兼居間、立ち釘に刺した請求書の束、鉄製のベッドを3つ並べた男の子たちの部屋、パブとドッグレース、夕食の揚げパンと卵焼き。
末の男の子が語るスタイルになっている。彼は両親が将来を悲観するような、のろまで無口な少年である。それぞれの役割が決まっているタフな家族のなかで、孤独な彼は教会や墓地を歩き回り、墓碑銘から想像の少女エルヴィラをつくりあげる。エルヴィラと空想の会話をするうちに、自分の生い立ちに気づく。
僕はうちの大人たちにとって罪そのもので、おまけにそいつは自分たちの目の前でだんだん育っていく罪で、やがては神様に面倒を見てもらう運命を運命を背負っていたのである。
事情を知りながら忘れたように日々を過ごす家族のなかで、エルヴィィラの亡霊は力を増し、繊細な少年は壊れていく。家族や血族のトラブルが殺人事件に発展する例は後を絶たない。上下関係が逆転することもなく、断ち切りたくてもできない血のつながりに抗うには、相手を亡きものにするしかないのだろうか。家族の恥を負って狂った少年。血族の闇はどこの国においても深いものなのだと思った。
ロンドンで一人暮らしをする老女が主役の「こわれた家庭」もおもあいろい。老女は「昔から、みんなで陽気に楽しみましょうよみたいなのがとにかく大嫌い」。わたしもこういうお婆さんになるのだわとうれしくなった。ちょっとトルーマン・カポーティの名作「ミリアム」を思い出した。こちらはニューヨークで一人暮らしをする老女の話。調べてみたらカポーティは1924年生まれ。ほぼ同時代を生きた作家なのだった。
表題作は、キリスト教徒らしい寓意に満ちた佳作。マリア様の二度のお告げでアイルランド全土を歩いたミホール。マリア様が現れなくなったことで、自分の人生は無駄だったのかと失望する。けれども人々の施しを受けながら歩き続けて、最後は年老いた両親の家に辿りつく。アイルランドには素朴な信仰心が根を張っていて、人々はそれがどんなにかすかだとしても、希望を捨てずに生きることができる。人生に無駄なことなど一つもない。老作家の信念が伝わってくる。
*猛スピードで母は 長嶋 有(文春文庫)
表題作は小学校6年生の少年慎が母との暮らしを語るもの。シングルマザーの母は若くて不良少女風。ものわかりのよいおとなしい息子を友人のように扱う。家族の原型はこわれているが、親子の絆は深く、互いを大切に思う気持ちはまっすぐに伝わっている。慎のけなげさ、突っ張って生きることで何とか自分を保っている母の姿に好感を持った。
「サイドカーに犬」もまた、小学校4年生の少女薫が主人公。母が家出をして、怪しげな仕事をする父との暮らしのなかに、洋子という若い女性が入ってくる。自由にふるまう洋子と薫のあいだに友情のようなものが芽生える。薫は母のことを思い出すこともなく、同年齢であるかのように自分と接する洋子になついていく。
悲しみや孤独がまだ重層的ではない少年や少女のまなざしを借りることで、明るい話になったのだと思う。家族や家に囲い込まれることなく気ままにいたいけれど、社会的な責任も負わなければならない三十代の溌剌とした女性は、男性である著者の理想像なのだろう。著者は1972年生まれ。家族のかたちがこわれているのがふつうという時代をおそらく早い時期に通過した作家なのだと思った。
*めぐらし屋 堀江敏幸(毎日新聞社)
文章のうまさにうなってしまった。その一方で、できごとやモノのすべてが意味を持ってつながっていくような書き方に息苦しさを感じた。新聞に連載された小説だという。それでつながりかたが密になっているのかと思った。
離れて暮らしていた父が死んで、残されたノートと一本の電話から、「蕗子さん」が生前の父の足跡をたどっていくという話。挿話の一つ一つがていねいに描かれる。低血圧でちょっと抜けたところのある、独身の心優しい娘。父の思い出をたぐるなかで、蕗子さんの味気ない生活がほんの少し華やいだものになってゆく。
つつましやかな主人公の身の丈に合うように書かれた、古風な味わいの小説である。黄色い傘、百科事典、豆大福、百葉箱。それらによって話が展開する。この手堅さは名人芸といっていいかもしれない。
*孤独の発明 ポール・オースター(柴田元幸訳・新潮文庫)
「見えない人間の肖像」「記憶の書」の二編が入っている。前に読んだとき、わたしにとっては〈死〉はまだ遠いものだった。今度は親の最期について考える時期でもあり、オースターの語る父の晩年と死後が近しいものに思えた。
「依怙地な、かたくなな、あたかも世界に対して免疫の身であるような生き方」をした父。祖母に射殺された祖父の話。オースターは家族について洗いざらいに書く。しかも実名で家族や知人を登場させる。そのためエッセイと小説が時に同じストーリーを持つことがある。一つの挿話が複数の作品に使われる。よくあることではあるけれど、熱烈なオースターファンであるわたしは、もう何度も同じ作品を読んだような気持ちになる。術中に陥ったといえばいいだろうか。
小説を読むのは暇つぶし、上質の娯楽と思っている。けれど、オースターの小説はちょっと違う。読者に思考することをもとめる。
先日、神山睦美さんの評論『夏目漱石は思想家である』(思潮社)を興味深く読んだ。漱石の作品は、世界を俯瞰する場所に主人公を立たせ、当時の社会問題や新しい哲学を取り入れて、いかに生きるか悩み苦しむ人間の内面を書いている。自身の苦悩を作品に結実させたといっていいと思う。他の小説と違うのはそういうことなのかと腑に落ちたのだった。
主人公たちは自問し、迷い、内省する。漱石やドストエフスキー、トルストイの小説を読むときはおもしろいと思うだけではなく、想像力と思考を鍛えられる体験をするように思える。オースターの小説を読むときにもそれに似たものを感じるのである。
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