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1955年から50年眠り続けていたタイムカプセルが、
09年7月、植田氏によって発掘された!

東京天文台人工衛星追跡用シュミットカメラ
のそばで、学生達と原田三夫氏(柴田挿入)
シャーロックホームズやコナン・ドイル、ミステリー等の研究を
続けてこられた東京新宿・植田弘隆氏のブログに紹介された
私(柴田忠彦)の活動。(文中の写真は省略させていただきます。)
(日本宇宙旅行協会(JAS)、理事長・原田三夫、往時の宇宙旅行
と人工衛星・ロケットその他関連事情に関して。)
(以下引用:柴田)
2009年07月03日15:56
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日本宇宙旅行協会会報『宇宙旅行』No.9(昭和32年1月)
原田三夫が、「日本宇宙旅行協会」(JAS)を設立したのは、昭和28年9月のこと。機関紙「宇宙旅行」は、始めは年に2回、後には年4回発行した。入会金は、100円(後、200円)で、年会費は100円。会員になると年4回機関紙「宇宙旅行」がもらえた。
僕が持っている「宇宙旅行」は、No.9、15、16、17の4冊だけ。創刊号は、持っていないので、No.9(写真左)に記載されている本会の主旨を見ると、こう書かれている。
「(……)宇宙旅行を考えると科学の広い知識が養われ、天体や宇宙に心を向けることから心構えが大きくなり、島国根性を治すのに役立ち、寛容の精神も養われ仁慈相愛の情を深め、ひいては世界平和に貢献するところも少なくありません、宇宙の神秘に感ずることによつて、正しい人生観も養われます、どうか挙つて御協力下さい。」
――とある。なんとも気宇壮大ではありませんか。本会には、理事・常務理事・委員が置かれていた。昭和32年1月時点の役員の主な顔ぶれ(僕が知っている著名人)を記すと――
原田三夫(理事長)、岸田虎二(事務長)以下、<常任理事>保積善太郎(天文クラブ会長)、木々高太郎(医学博士・作家)、北村小松(作家)、新羅一郎(明大教授)、徳川夢声など9名、<理事>江戸川乱歩、畑中武夫(東大教授)、石黒敬七(評論家)、糸川英夫(東大教授)、正木ひろし(弁護士)、村山定夫(国立科学博物館天文部)、中島健蔵(評論家)、野尻抱影(天文研究家)、横山泰三(漫画家)など28名、<委員>荒正人(文芸評論家)、早川雪舟(映画俳優)、広津和郎(作家)、式場隆三郎(医学博士)など37名(肩書きは、本誌に記載されたもの)。
この内、岸田虎二は、ホームズ物語を初めて個人全訳した延原謙の夫人(克子)の実兄。原田と乱歩は、昭和29年、乱歩が司会役のラジオ番組「安楽椅子」に原田がゲスト出演したのが初対面で、二人は意気投合。その時のことを原田は『思い出の七十年』のなかで、次のように回想している。
「私が出演したのは私が江戸川の先輩の小酒井不木と親しかったからである。ゲストはもう一人映画ゴジラの原作者香山滋がいた。終わって江戸川はお茶を飲もうといったが、私は喫茶を好まぬので、三人がレバンタでビールを飲んだ。そこで私は江戸川が好きになって、無遠慮に話をしたが、香山は驚いてほんとうに初対面かといった。
江戸川は世界平和のために、世界共通語としてエスペ(ラ)ントに代わるベーシック・イングリッシュを宣布する運動に関係していたが、日本宇宙旅行協会も人間の目を宇宙に向け、地球上の闘争をなくすることを一つの目的としていたので、かれは喜んで会を助けることになった。」
その後、原田と乱歩の付き合いは、乱歩が病床につくまで続いたという。それにしても、乱歩が世界平和のための活動をしていたとは! さすが、である。
さて。写真右の「宇宙旅行」No.17(昭和34年8月)の31ページには、兵庫県芦屋支部主任・柴田忠彦氏の「芦屋支部の歩み」が掲載され、その下には、「SF愛好者の皆様へ」と題し、日本”最古”のSF同人誌「宇宙塵」の紹介が載っている(文責・「宇宙塵」編集部・柴野拓美)。
(中略:柴田)
最後にひとつ。原田三夫をモデルにした映画が2000年に上映されている。小嶋拓監督・脚本『火星のわが家』。キャストは、日下武史、鈴木重子、ちわきまゆみ、それに、今超売れっ子の堺雅人(映画初出演)。鈴木重子は、ジャズ・ヴォーカリスト。主題歌”IT’S TIME TO LOVE”を聞いてファンになってしまった。出不精の僕が2度もコンサートに行ったなんて珍しい(もっとも、数年前の話だけれど)。
2009年07月01日16:23
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柴田忠彦氏と原田三夫
左は、「毎日新聞」昭和33年1月20日付に掲載された記事。「飛ぶぞ!苦心の”学生ロケット”」という見出しで、柴田氏のロケット製作と1月26日(ママ)に予定されている手製ロケット発射実験について報じている。
柴田氏(当時、大学1年生)は、1月25日に西宮市甲子園浜で、発射実験を行い5本が打ち上げに成功。各紙がこの実験の模様を報じた。これらの記事を読むと、アルミ製の鉛筆キャップに火薬を詰めて飛ばして遊んでいた、僕などとはレベルが全く違うので、改めて驚いた。
さて。これまで、原田三夫、原田三夫、と書いてきたが、この人物について現在では、知る人は少ないと思うので、ここで、少し紹介しておこう。
彼について知るには、自伝『思い出の七十年』(誠文堂新光社 昭和41年)や荒俣宏『大東亜科学奇譚』(筑摩書房 平成3年)に収載されている「火星の土地を売った男 科学啓蒙家・原田三夫」を古書店で見つけて読んでもらう他はない。しかし、そうもゆかないので山本夏彦『私の岩波物語』の一節を引こう。
「私は少年倶楽部の全盛時代、昭和二年前後の読者である。(……)少年倶楽部は矢つぎ早やに長編人気小説を並べて日本少年を圧倒した。(……)してみれば『子供の科学』(誠文堂新光社)の原田三夫は天才である。子供にも文科系と理科系があるのに、原田は全盛の少年倶楽部から読者を奪った。ハメルンの笛吹きについて行くように、少年倶楽部の読者の一部はぞろぞろ『子供の科学』についていった。以後科学記者で原田のごときを見ない。」
山本夏彦のこの一文は、原田の核心をついて見事である。もうひとつ、原田の『宇宙旅行の話』(昭和31年8月 社会思想研究会出版部)の裏表紙(写真は原田)に記された略歴の一部を引く。
「明治二十三年名古屋生まれ、愛知一中から札幌農学校に入学、中退、八高を経て東大理学部で植物学を修めたが、大正五年卒業後直ちに科学普及のための著述に志した。(……)大正十三年、その後『子供の科学』を創刊した。(……)今日の第一線の科学者で、多少なりとも著者の影響をうけていないものはなく、著者によって科学に志したものも少なくない。著者は今日まで終始一貫、科学啓蒙に従い、その著書は百巻にのぼるが、一九五二年国際宇宙旅行連盟から日本に宇宙旅行協会を設立しないかと勧誘があると、著者の事業の一部として、私財を投じて、それを設立した。」
さて。話をもとに戻して、原田三夫が柴田氏に宛てた葉書を2通紹介しよう。
2通とも年賀ハガキ。右は、昭和31年のもので、「ことしから本部を左記に移し」とあり、住所は、「東京都中央区銀座六ノ四(尾張町ビル七階)」となっている。それまで、原田は、千葉の自宅を仮本部としていたが、会員が激増したため上記に事務所を開くことになった。江戸川乱歩は、1月31日に開かれた事務所開きについて、こう記している(『探偵小説四十年』昭和31年度)。
「三十一日、銀座の尾張町ビル七階で原田三夫君の主宰する『日本宇宙旅行協会』後援会の発会式(注:事務所開きのことであろう)が行われ、徳川夢声、石黒敬七、横山泰三、北村小松、西脇仁一東大教授、木村秀政日大教授の諸氏や私などが出席した。私は「地球人は宇宙を相手として一体となるべし」「世界連邦を作り、戦争をやめるべし」「世界語を一つにする前提として日本語もローマ字で書くべし」という考えを持っているので、この宇宙旅行協会にも興味を持ったのである。」
乱歩と原田の付き合いについては別に書くことにして、2通目(写真左)は、1964(昭和39)年のもの。文面を「七十四才になりましたが、この通り元気です。」と結んでいる。
(続く)
*柴田忠彦氏から貴重な資料を送りいただき、掲載を許可いただきましたこと、厚くお礼申し上げます。
2009年07月01日11:28
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JAS芦屋支部彙報『ロケット』No.1 1955年2月7日発行
今回ほど、インターネットの凄さを実感させられたことはない。それはこういうことである――。
昭和29年、僕が中学生の頃、原田三夫が設立した「日本宇宙旅行協会」(Japan Astronautical Society=JAS)に入会した。そんな折、どういう経緯だったか記憶にはないが、神戸方面(となんとなく覚えていた)の同好の人から、謄写版刷りのロケット関係の冊子を送ってもらったことがある。
その内容が、田舎の中学生にはとても高度な専門的なものだったので舌を巻いたことをよく覚えている。その冊子の記憶が、ずっと頭の隅にあったけれど、もう半世紀以上も前の、ガリバン刷の冊子など再び見ることはできないだろうと諦めていた。
ところが、である。僕は、ホームズ本の他に、JASが発行していた機関紙「宇宙旅行」や原田三夫や宇宙旅行関係の本を集めているので、先日も、ネットで、ロケットとか、原田三夫とか、宇宙旅行とかの単語で検索していたところ、意外なものが眼に飛び込んできた。
昭和29年5月 日本宇宙旅行協会入会
昭和30年2月 芦屋支部彙報『ロケット』No.1(35頁)を謄写印刷、配布
あれれ!、これは、これは!!日本宇宙旅行協会―昭和30年―芦屋―謄写印刷の「ロケット」――これこそ、僕が半世紀前に読んだ冊子に違いないと思い、調べたら、上記の2行は、柴田忠彦氏のHPに記載されたものであることが分かった。早速、メールを送り、事情を説明したところ、柴田氏から、その冊子のコピーの他に、新聞記事、原田三夫の書簡など様々な資料を送りいただいた。それらを見て、ただただ、感激……。
そんな訳で、今回は、半世紀振りに対面した、JAS芦屋支部彙報『ロケット』The ”Rocket”No.1 1955・2・9 (編集・発行 日本宇宙旅行協会芦屋支部長・柴田忠彦)を紹介したい。
写真左が、その表紙。中央は、日本宇宙旅行協会代表・原田三夫の「創刊に寄せる。」。冒頭部分を以下に引く。
「柴田忠彦さんはじめ、JAS芦屋支部の会員諸君が、JASの事業を十分に理解し燃えるような熱意をもって目的達成に努力されていることは、まことに頼もしいことで、かつ喜び、かつ感謝しているしだいです。こんどその仕事の一つとして、芦屋支部彙報を発行されることは、一層効果を大きくするものとして双手をあげて賛成します。」
右は、フエルンヘア・フォン・ブラウン、ジェームズ・P・ヘンリー、ウイリー・レイ著 柴田忠彦訳「空間に於ける人類の生存」(”コリアーズ”MARCH 14,1953より)を掲載した冒頭のペ−ジ。そこには、柴田氏の「訳者の言葉」がこう記してある。「昨1954年8月20日に神戸にて、この”コリアーズ”を入手した時は、あまりの幸運に全く仰天してしまった」と。
この他、柴田氏による「ロケット解説(連載)」という専門的な記事が8ページ(今、読んでも難解だから、中学生の僕に歯が立たなかったのも無理はない)、足立俊治氏「星めぐり」、柴田氏「嵐の中の科学者―ブラウン博士の半生」他、支部報告、新刊案内まで、盛りだくさんな内容である。
それにしても、専門的なロケットの解説に、翻訳まで掲載した冊子を、謄写版で作り上げた柴田氏の熱意には、頭が下がる。
(続く)
2009年06月29日22:37
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『中学生の友』昭和29年新年特大号
(中略:柴田)
さらに、さらに。原田三夫によって設立された「日本宇宙旅行協会」に、僕が入会したのもこの年である――そんな訳だから、僕の人生の原点は、この昭和29年にある、と言っても過言ではない。
「日本宇宙旅行協会」(JAS)に入会したのは、ロケット遊びに夢中になっていたからである。どこで,この会のことを知ったのか覚えていないが、入会金100円、年会費100円を払ってバッジを貰った。以来、宇宙旅行やロケットが描いてある本を見ると、ついつい手が出てしまう。
上の写真は、昭和29年1月号『中学生の友』(小学館)。右は、小松崎茂が描いた、宇宙ステーションと月着陸船。この口絵が素敵なので、購入した。購入してからなかを見たら、「月世界へ飛び立つ」と題し、原田三夫先生と中学生2名の座談会が載っていたのである。写真下が、その座談会の始めのページである。
原田先生は――
「口絵の小松崎さんの絵は、博士(注:フォン・ブラウン博士)の研究によったものです。――ただ、それまでにいろいろ研究しなければならんこともあるし、たいへん費用がかかるのですが、あと二十五年か三十年ぐらいで月世界旅行が実現するのではないかと思います。」
――と語っているが、人類が初めて月面に立ったのは、それから15年後のことである。
(引用ここまで。後略:柴田)
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