DATAbook3 作品172「秋を訪ねる」の選考覚書頁関連
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インド哲学と仏教にみる“自己”
参考文献・宮元啓一著「インド哲学七つの難問」講談社選書メチエ2002年11月10日、行分け着色柴田。
1.生き物は、死んでは何かに生まれ変わり、また死んではまた何かに生まれ変わり、というように、再生と再死
を永遠の昔から永遠の未来へ向かって繰り返すという死生観に立つのが輪廻説である。
この輪廻説は、「善因善果、悪因悪果」で「自業自得」を原則とする因果応報思想に論理的に支えられて、
紀元前八世紀ごろに、インドの宗教、哲学の前提となる考え方として確立された。(中略) 112頁
欲望を滅ぼせば、輪廻という苦もなくなると人々は考えた。(中略)
ここでゴータマ・ブッダは、大きな発見をした。
すなわち輪廻のメカニズムの起点は欲望ではなく、さらにそれをもたらす、ほとんど自覚不能、制御不能の
根本的生存欲、(仏教用語で、渇愛、無明など)が奥底に控えていることを発見したのである。(中略)
そして、ゴータマ・ブッダは、この根本的生存欲を滅ぼすものは、智慧であることを見出した。智慧とは、
輪廻的な生存についての根本的な事実を繰り返し観察、考察し、それを知り抜いたすえ、不動のものとなった
知識のことである。智慧のみが解脱をもたらすことを発見したゴータマ・ブッダは、徹底的に思考を深める瞑想
に入り、短時日のうちに目覚めた人、ブッダ(仏)となり、解脱して永遠の安楽である涅槃の境地に入った。
(中略) 113〜114頁
2.仏となったゴータマ・ブッダは、多くの弟子たちを育てた。そのときに、まず強調したのが、輪廻的生存(人生)
は苦に満ちていることを徹底的に理解することであった。仏教は、人生が苦であることの理解から始まるので
ある。苦を徹底的に観察、考察することを苦観という。四苦八苦説もそこから出ている。
そして、その苦観を代表する説が四聖諦説である。これは、人生がみな苦であると見、ついで苦には原因があり、
それは根本的生存欲であると見、ついで原因を滅ぼせば苦もなくなると見、ついでそうする道が確かにあることを
見る、という構成になっている。 114〜115頁
3.苦観を補助するものとして重視されたのが、無常観である。人生は無常迅速であるが、ふつうの人々は、この
あたりまえの事実を忘却してしまう。(中略)
われわれは、心身を自己だと勘違いすることが多い。だからこそ、人生の無常がわからず、死という無常に直面
するまで、安逸に生きてしまうことになる。これを戒めるために、ゴータマ・ブッダは、心身を五つの要素に分け、その
いずれも常住の自己ではない(非我)と説いた。これを五蘊非我説という。 115頁
4.一方、ゴータマ・ブッダは、経験論の立場をとり、経験的事実を出発点としない、いわゆる形而上学的な議論には、
みずから口を閉ざし、また、弟子たちにも、そのような果てしない水掛け論に熱中して修行がおろそかになることを
強く戒めた。
そこで、ゴータマ・ブッダは、日常的な会話には「自己」ということばをふつうに用いているが、自己をめぐる形而上学
的な質問には、沈黙をもって対応した。
ところが、ゴータマ・ブッダが入滅してからしばらくすると、心身のいずれも自己でないならば、そもそも自己なるものは
ないのだとする、きわめて形而上学的な無我説が誕生することになった。(中略) 115〜116頁
5.その無我説が、理論として展開された最初の仏典は、おそらく『ミリンダ王の問い』である。これは、紀元前二世紀
半ば、ギリシア系のバクトリア王国の王メナンドロス(訛ってミリンダ)が、仏教者の長老、ナーガセーナと対論し、ついに
感服して仏教に帰依したという歴史的事実を伝える、たいへん風変わりな仏典である。
以下一部解説挿入、柴田。
インド・グリーク朝は、アレクサンドロス大王による大遠征の後、その遺民たちにより、アレクサンドロスの
ディアドコイ(後継者)の地位を巡って引き起こされたディアドコイ戦争の中で建国された、セレウコス朝シリア
と、インドのマウリヤ朝の覇権が衝突する狭間で、バクトリアの地を拠点に自立したギリシャ人国家である
グレコ・バクトリア王国が、マウリヤ朝の衰退に乗じて北インドに侵攻し、後に分裂することで生じた国家である。
その第8代目の王に当たるメナンドロス1世(ミリンダ王)は、この王朝で最も有名な王である。
原典はパーリ語で伝えられ、漢訳経典としては『那先比丘経』(東晋代に成立。二巻本および三巻本。
いずれも訳者不明。漢訳大蔵経では論集部に収録。)がある。メナンドロス1世(ミリンダ王)は、
漢訳経典では弥蘭(那先比丘経)、あるいは弥蘭陀王(弥蘭陀王問経)と音写される。
以上、フリー百科事典「ウイキペディア」中の“ミリンダ王の問い”より部分引用。2011.10.20(柴田・着色)
本書では、以下に、この仏典でナーガセーナが展開する無我説を、批判的に検討する。なお、本文の引用は、中村元・
早島鏡正訳『ミリンダ王の問いーインドとギリシアの対決1』(東洋文庫七、平凡社)によった。 116〜117頁
王と長老が多数の問題点を対論したなかで、著者が哲学的に批判した箇所も多いが、対論の大部分を割愛させて頂く。(柴田)
6.(前略)王は問う。
「尊者ナーガセーナよ、次の世に生まれかわるものは何ものなのですか?」
「大王よ、実に名称・形態が次の世にうまれかわるのです」(一二三ページ)
(中略)つまり、「名称・形態」というのは、心と身体のことである。これをより仏教らしくいえば、色受想行識の五蘊という
ことになろう。要するに心身ということなのである。
心身が輪廻の主体だというのは、いささか奇異の感があるのはいなめない。というのも、心身は、今生で死ねば消えて
なくなるものだからである。では、今生の心身が次生の心身にそのまま移行するのかといえば、それでは死というもの
もなければ、生まれ変わるということもないことになる。 130〜131頁
7.(中略)ミリンダ王は、つづけてつぎのように問う。
「この<現在の>名称・形態が次の世に生まれかわるのですか?」
これに対して、ナーガセーナは、つぎのように答える。
「大王よ、この<現在の>名称・形態が次の世に生まれかわるのではありません。大王よ、この<現在の>名称・形態
によって、あるいは善あるいは悪の行為(業)をなし、その行為によって他の<新しい>名称・形態が次の世に生まれかわる
のです」(一二三ページ) 131頁
8.現在の心身と他の新しい心身とは、いうまでもなく別ものである。行為(業)によってとあるけれども、その行為をなしたのは
あくまでも現在の心身である。(中略)ところが、まったく別の新しい心身の誕生という話になれば、そこには行為の担い手
としての連続性がないということになるのではないか。行為は責任を生むものであるから、そうだとすれば、ナーガセーナの
輪廻説は、無責任説となってしまうのではないか。 131〜132頁
9.そこでミリンダ王は、じつにもっともな質問を発するのである。
「尊者よ、もしもこの<現在の>名称・形態が次の世に生まれかわるのでないならば、人は悪業から免れることになるのでは
ありませんか?」(一二三ページ)(中略)
長老は答えた。
「もしも、次の世にまた生まれることがないならば、人は悪業から免れるでありましょう。大王よ、しかしながら<実際には>
次の世にまた生まれるが故に、悪業から免れないのです。」 132頁
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