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覚書通掲歎異抄第12条・第10条の金言 通掲の趣旨および資料頁へ←クリックOK! 本願を信じ念佛をまうさば佛に成る、そのほか何の學問かは往生の要なるべきや。
****************************************************** (柴田私釈)往生には『本願を信じて念仏すれば仏になる』これ以外なんの学問が必要というのか。 《しかし、どうしてもこの理が納得できないという人は、大いに学問して本願の中味を味わい知るべき である。》 ただし第10条に“念仏には無義をもて義とす。不可称・不可説・不可思議の故に”(不可思議の仏の 願からもたらされているので自己の思慮を加えず、意味付けしないことが大切。)とも記されている。 ****************************************************************************************** 全頁快適に見るため最大化画面でどうぞ! (右上角--■×真ん中ボタンクリック)↑ 前編一覧へ 自選作品の選考覚書 逐次追加中 ⇑ 各ボタンクリックOK! ↓ 作品41「指向」←作品頁へ戻るにはここをクリックOK! ↓ この作品は、“ただ一つの方向を向く”“一向に”というスタンスを避雷針に 感じて綴ったものである。ここからまた“一”というキーワードに則って、ここ では親鸞聖人『教行信証』解説書を参照しつつ考えたいと思う。(柴田) ↓ 金子大榮 著 『教行信証』口語訳 附 領解」法蔵館・昭和50年11月1日(5刷)より 文字一部現代化、着色・ルビ付加。・ルビと前に点を付したものだけが原本からのルビ、以外は 私が付した。また、漢文混じりの『教行信証』原古文からすれば解りやすい口語訳ながら、文語的 表現が多く含まれるが、文はあえて現代文に変えていない。(柴田) ↓ *************************************************************** 「行の巻、口語訳」より ここより下80余行あります。 ↓ 天台の祖師、慶文法師はいう、佛のみ名は光寿量りなき眞身から成り、大慈悲 から成り、大誓願から成り、智慧海から成り、法門海から成ったものである。 故にもしただ専ら一佛のみ名を称えれば、具によろずの佛のみ名を称えることと なるのである。その功徳が無量であるから、罪障を滅ぼして浄土に生まれることが できる。どうして疑う必要があろうか。 61〜62頁。 「行の巻、領解」より ただ一乗がある。それは大乗であり、佛乗である。 一乗は佛乗である。それゆえに、それは無上道である。これによりて一乗に帰依する ものは、必ず涅槃に至り法身をさとる。されば法身というも如来というも、 一乗を究めたるものの外にはない。そしてその一乗を究むるところに現われるものは 広大無辺であり、悠久不断である。 その佛乗こそ大乗といわれるものである。したがって大乗は必ず一乗でなければ ならない。(中略) その一乗とは弥陀の本願であり、それを究むるものはただ念仏である。 あらゆる差別をも、一如の色に包む広大無辺の光明、いかなる動乱の中にも静寂 を感ぜしめる悠久不断の真実、それを思い知らしめるものは本願念仏である。 それゆえにそれは佛乗であり、また大乗といわれる。そしてそれこそただ一乗と いわれるものでなくてはならない。 この身は個人である。本願に信知せしめられるものは全人を包む無辺の光明である。 この命は短き一生である。御名に身証せしめられるものは、歴史を超えたる悠久の真実 である。これによりて、この身、この生もまた無辺不断の一乗にあらしめられるのである。
136〜137頁。 ここを以て念仏にまさる自利は無く、信心にまさる利他はない。洵にこれ無碍広大 の一道である。 念仏は、佛、人となりて人を救いたもう一道である。佛はわれらの生死を道場として、 その自利利他を成就せられる。その大行が念仏である。 106頁 一声の念仏において久遠の願心を聞く。ひるがえって久遠の願心によりて称えしめられた 念仏の一声であることを思う。ここに信楽開発の一念が広大難思の慶心となるのである。 123頁 「信の巻、口語訳」より 往生の正行には二種ある。一には一心に専ら弥陀の名号を念じて行・住・坐・臥,時節 の久近を問わず、念念に捨てざるもの、それを正定の業と名づくる。彼の仏願に順う からである。 (二には)もし礼拝・読誦等に依らば即ち助業と名づく、この正・助の二行を除きて已外の 諸の善は、悉く雑行と名づける。すべて疎雑の行と名ぶのである。 159〜160頁 信楽は即ち一心であり、一心は即ち真実の信心である。 168頁 また『往生礼讃』にいう。深心とは即ち是れ真実の信心である。自身は是れ煩悩を具足した 凡夫であり、善根が薄くて三界に流転し、火宅を出で得ぬものと信知し、今、弥陀の弘き願は、 名を称えること、たとえ十声でも、またその声を聞くものまでも、必ず往生を得と信知して、 一念も疑心がない。故に深心というのである。 されば彼の弥陀の名号を聞き得て、歓喜の一念を起せば、みな彼の国に生れることを得よう。 165頁 『涅槃経』にいう実諦は一道清浄にして二つないものである。真実というは即ち如来であり、 如来は即ち真実である。真実は即ち虚空であり、虚空は即ち真実である。真実は即ち 仏性であり、仏性は即ち真実である。 170〜171頁 それ真実の信楽を思うに、信楽には一念がある。その一念とは、信楽の開発する時節の 極促なることを顕わし、そこに広大難思の慶心あることを彰わすものである。 ここを以て『大経』に言う。生あるものみな、弥陀の名号を聞いて信心歓喜する。その一念 に御名の功徳は至心に廻施せられる。したがって彼の国に生れようと願えば、即ち往生を 得て、不退転に住する身となるであろう。 187頁 「信の巻、領解」より 信心とは、我等に感ぜられたる大悲心である。それは廻向せられた如来の願心であるから、 我等の所有となるものではない。さればこそ一念も疑の雑ることがないのである。 267頁 如来の本願は永遠の真実であり、その願心に疑いなからしめられる信は一念の直感である。 これによって、その信には広大難思の慶びの心が伴う。その慶びは即ち永遠の真実が、この業苦 の身に浸みて、思いに余るものである。それは洵に広大であり難思であり、不可称・不可思議・ 不可説の慶びである。 されば一念即永遠ということも、特に信は願より生ずる喜びに於て身証せられることである。 278頁 一子地の境地 『涅槃経』にいう、大慈大悲は仏性である。何故ならば、大慈大悲は常に修行者に随うこと、 影の形に於けるが如くである。一切の衆生もまたついには當に大慈大悲を得るであろう。それ故に 「一切の衆生に悉く仏性あり」と説かるるのである。されば大慈大悲は仏性を開覚するから仏性 と名づけ、仏性は如来と名ばれる。 大喜大捨は仏性と名ばれる。何故ならば、修行者は有の世界を捨てねば、無上正真道を得ること ができない。その大喜大捨を一切の衆生も、ついには得るであろう。それ故に「一切の衆生に悉く 仏性あり」といわれる。大喜大捨は即ち仏性であり、仏性は即ち如来である。 仏性は大信心と名ばれる。何故ならば修行者は、信心を以て能く覚の彼岸へ渡るべき行を具足 するのである。その大信心を一切の衆生もついには必ず得るであろう。それ故に「一切の衆生に悉く 仏性あり」といわれる。大信心は即ち仏性であり、仏性は即ち如来である。 仏性は一子地(衆生を一子の如く思う境地)と名ばれる。何故ならば一子地を得ることによりて 修行者は一切の衆生に対して平等なる心を得るからである。その一子地を一切の衆生も、ついには 必ず得るであろう。それ故に「一切の衆生に悉く仏性あり」と説かれるのである。一子地は即ち仏性 であり、仏性は即ち如来である。 またいう。仏道は信心を因とする。仏道の因は限り無いけれども、信心の徳として説き尽くされる のである。 172〜173頁 ↑各ボタンクリックOK! 作品41「指向」←作品頁へ戻るにはここをクリックOK! |
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