覚書通掲歎異抄12条・第10の金言  通掲の趣旨および資料頁へクリックOK!

本願を信じ念佛をまうさば(ぶつ)に成る、そのほか何の(かく)(もん)かは往生の要なるべきや。

まことにこの(ことわり)に迷へべらん人はいかにも〜學問して本願の旨をしるべきなり。(第12条)

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(柴田私釈)往生には『本願を信じて念仏すれば仏になる』これ以外なんの学問が必要というのか。

《しかし、どうしてもこの理が納得できないという人は、大いに学問して本願の中味を味わい知るべき

である。》

ただし第10条に“念仏には無義をもて義とす。不可称・不可説・不可思議の故に”(不可思議の仏の

願からもたらされているので自己の思慮を加えず、意味付けしないことが大切。)とも記されている。

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この作品は、“ただ一つの方向を向く”“一向に”というスタンスを避雷針に

感じて綴ったものである。ここからまた“一”というキーワードに則って、ここ

では親鸞聖人『教行信証』解説書を参照しつつ考えたいと思う。(柴田)   

 

金子大榮 著 『教行信証』口語訳 附 領解(りょうげ)」法蔵館・昭和50111日(5刷)より

文字一部現代化、着色・ルビ付加。・ルビと前に点を付したものだけが原本からのルビ、以外は

私が付した。また、漢文混じりの『教行信証』原古文からすれば解りやすい口語訳ながら、文語的

表現が多く含まれるが、文はあえて現代文に変えていない。(柴田)             

 

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「行の巻、口語訳」より                 ここより下80余行あります。 

 

天台の祖師、慶文法師はいう、佛のみ名は(こう)寿(じゅ)(はか)りなき眞身から()り、大慈悲

から成り、大誓願から成り、智慧海から成り、法門海から成ったものである。

故にもしただ(もっぱ)一佛のみ名を称えれば、(つぶさ)によろずの佛のみ名を称えることと

なるのである。その功徳が無量であるから、罪障を滅ぼして浄土に生まれることが

できる。どうして疑う必要があろうか。           6162頁。

 

 「行の巻、領解」より

 

 ただ一乗(・ひとつのみち)がある。それは大乗(・おおいなるみち)であり、佛乗(・さとりのみち)である。

 一乗佛乗である。それゆえに、それは無上道である。これによりて一乗に帰依する

ものは、必ず涅槃(ねはん)に至り法身をさとる。されば法身というも如来というも、

一乗を究めたるものの外にはない。そしてその一乗を究むるところに現われるものは

広大無辺であり、悠久不断である。

 

その佛乗こそ大乗といわれるものである。したがって大乗は必ず一乗でなければ

ならない。(中略)

 

 その一乗とは弥陀の本願であり、それを究むるものはただ念仏である。

 

 あらゆる差別をも、一如(いちにょ)の色に包む広大無辺の光明(・ひかり)、いかなる動乱の中にも静寂

を感ぜしめる悠久不断の真実(・まこと)、それを思い知らしめるものは本願念仏である。

 

 それゆえにそれは佛乗であり、また大乗といわれる。そしてそれこそただ一乗

いわれるものでなくてはならない。

 

 この身は個人である。本願に信知せしめられるものは全人を包む無辺の光明である。

この命は短き一生である。御名に身証せしめられるものは、歴史を超えたる悠久の真実

である。これによりて、この身、この生もまた無辺不断の一乗にあらしめられるのである。                                      136137頁。

 

ここを以て念仏にまさる自利は無く、信心にまさる利他はない。(まこと)にこれ無碍(むげ)広大(こうだい)

一道である。                       

念仏は、佛、人となりて人を救いたもう一道である。佛はわれらの生死を道場として、

その自利利他を成就せられる。その大行が念仏である。   106

 一声の念仏において久遠の願心を聞く。ひるがえって久遠の願心によりて称えしめられた

念仏の一声であることを思う。ここに信楽(しんぎょう)開発(かいはつ)一念が広大難思の慶心となるのである。                       123

 

「信の巻、口語訳」より

 

 往生の正行(しょうぎょう)には二種ある。一には一心に(もっぱ)ら弥陀の名号(みょうごう)を念じて行・住・坐・(),時節(・とき)

(・ながし)(みじかし)を問わず、念念に捨てざるもの、それを正定(しょうじょう)(ごう)と名づくる。()の仏願に順う

からである。

(二には)もし礼拝・読誦等に依らば即ち助業(じょごう)と名づく、この正・助の二行を除きて已外の

諸の善は、(ことごと)(ぞう)(ぎょう)と名づける。すべて()(ぞう)(ぎょう)()ぶのである。

159160

 

 信楽(しんぎょう)は即ち一心であり、一心は即ち真実の信心である。      168

 

また『往生礼讃』にいう。(じん)(しん)とは即ち是れ真実の信心である。自身は是れ煩悩を具足した

凡夫であり、善根が薄くて三界に流転し、火宅(かたく)()で得ぬものと信知し、今、弥陀の(ひろ)き願は、

名を称えること、たとえ十声でも、またその声を聞くものまでも、必ず往生を()と信知して、

一念も疑心がない。故に深心というのである。

 されば()の弥陀の名号を聞き得て、歓喜の一念を起せば、みな彼の国に生れることを得よう。                         165

 

 涅槃経(ねはんきょう)()にいう(じつたい)一道清浄にして二つないものである。真実というは即ち如来であり、

如来は即ち真実である。真実は即ち虚空(・さわりなきもの)であり、虚空は即ち真実である。真実は即ち

仏性(・ほとけごころ)であり、仏性は即ち真実である。  170171                    

 

それ真実の信楽(しんぎょう)を思うに、信楽には一念がある。その一念とは、信楽の開発する時節の

極促(ごくそく)なることを顕わし、そこに広大難思の(・よろ)(こび)あることを(あら)わすものである。

 

ここを以て『大経』に言う。生あるものみな、弥陀の名号(・みな)を聞いて信心歓喜する。その一念

に御名の功徳は至心(・ひとすじ)に廻施せられる。したがって()の国に生れようと願えば、即ち往生を

得て、不退転(ふたいてん)(じゅう)する身となるであろう。   187

 

 

「信の巻、領解」より

 

 信心とは、我等に感ぜられたる大悲心である。それは廻向(えこう)せられた如来の願心であるから、

我等の所有となるものではない。さればこそ一念疑の雑ることがないのである。                                  267

 

如来の本願は永遠の真実であり、その願心に疑いなからしめられる信は一念の直感である。

これによって、その信には広大難思の慶びの心が伴う。その慶びは即ち永遠の真実が、この業苦

の身に浸みて、思いに余るものである。それは(まこと)に広大であり難思であり、不可称・不可思議・

不可説の慶びである。

 されば一念即永遠ということも、特に信は願より生ずる喜びに於て身証せられることである。                          278

 

 

一子地(いっしぢ)の境地 

 

『涅槃経』にいう、大慈大悲は仏性である。何故ならば、大慈大悲は常に修行者に(したが)うこと、

影の形に於けるが如くである。一切の衆生もまたついには(まさ)に大慈大悲を得るであろう。それ故に

「一切の衆生に(ことごと)く仏性あり」と説かるるのである。されば大慈大悲は仏性を開覚するから仏性

と名づけ、仏性は如来と(・よ)ばれる。

 

 大喜大捨は仏性と名ばれる。何故ならば、修行者は(・まよい)の世界を捨てねば、無上正真道を得ること

ができない。その大喜大捨を一切の衆生も、ついには得るであろう。それ故に「一切の衆生に悉く

仏性あり」といわれる。大喜大捨は即ち仏性であり、仏性は即ち如来である。

 

 仏性は大信心と名ばれる。何故ならば修行者は、信心を以て能く(・さとり)の彼岸へ渡るべき行を具足

するのである。その大信心を一切の衆生もついには必ず得るであろう。それ故に「一切の衆生に悉く

仏性あり」といわれる。大信心は即ち仏性であり、仏性は即ち如来である。

 

 仏性は一子地(いっしぢ)(衆生を一子(・ひとりご)の如く思う境地)(・よ)ばれる。何故ならば一子地を得ることによりて

修行者は一切の衆生に対して平等なる心を得るからである。その一子地を一切の衆生も、ついには

必ず得るであろう。それ故に「一切の衆生に悉く仏性あり」と説かれるのである。一子地は即ち仏性

であり、仏性は即ち如来である。

 

 またいう。仏道は信心を因とする。仏道の因は限り無いけれども、信心の徳として説き尽くされる

のである。                172173

 

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