覚書通掲歎異抄12条・第10の金言  通掲の趣旨および資料頁へクリックOK!

本願を信じ念佛をまうさば(ぶつ)に成る、そのほか何の(かく)(もん)かは往生の要なるべきや。

まことにこの(ことわり)に迷へべらん人はいかにも〜學問して本願の旨をしるべきなり。(第12条)

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(柴田私釈)往生には『本願を信じて念仏すれば仏になる』これ以外なんの学問が必要というのか。

《しかし、どうしてもこの理が納得できないという人は、大いに学問して本願の中味を味わい知るべき

である。》

ただし第10条に“念仏には無義をもて義とす。不可称・不可説・不可思議の故に”(不可思議の仏の

願からもたらされているので自己の思慮を加えず、意味付けしないことが大切。)とも記されている。

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   第三首目  者の、字をよくみれば (ブッダ)から                                                        

                 仏   

                                   

         

 

佛を念ずる心は佛に念われている証である

「法話」和 56 年 (1981)真宗教団連合HPより

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阿弥陀仏とその御本願、信心、そして念仏。

 

信心よろこぶそのひとを

 

如来とひとしとときたまふ

 

大信心は仏性(ぶっしょう)なり

 

仏性すなはち如来なり      親鸞聖人・浄土和讃

 

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信心すなはち一心なり

 

一心すなはち金剛(こんごう)(しん)

 

金剛心は菩提(ぼだい)(しん)

 

この心すなはち他力なり         親鸞聖人・高僧和讃

 

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煩悩具足と信知して

 

本願力に(じょう)ずれば

 

すなはち()(しん)すてはてて

 

法性(ほっしょう)(じょう)(らく)証せしむ        親鸞聖人・高僧和讃 

 

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五濁(ごじょく)(あく)()のわれらこそ

 

金剛(こんごう)の信心ばかりにて

 

ながく生死(しょうじ)をすてはてて

 

自然(じねん)の浄土にいたるなれ     親鸞聖人・高僧和讃 

 

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金剛(こんごう)堅固(けんご)の信心の

 

さだまるときをまちえてぞ

 

弥陀の信光(しんこう)摂護(しょうご)して

 

ながく生死をへだてける     親鸞聖人・高僧和讃 

 

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下記2本願寺鹿児島別院内 鹿児島教区懇談会HPより、抜粋着色行変え10.06.12柴田)

宗祖のお手紙に「自然法爾章(じねんほうにしょう)」と呼ばれている一文があります。その中で宗祖は「自然」という言葉を「おのずからしからしめる」と釈されて、法の道理として、如来が迷える衆生をおのずから無上の仏果に至らしめようとはからわれているのであって、凡夫の計らいによって凡愚が仏になるのではない。如来の法の徳のはたらきによって、凡夫はおのずから仏果に至らしめられるのである。それを「自然法爾」というのだと示しておられます。

 

そして凡夫が「無上仏」に成ることについて、無上仏とは、かたちのましまさない真如そのものの意味ですが、そのためには真如がまず動いて、凡夫の前にすがたを現し、真如の功徳の全体を凡夫に与えなくてはならない。その真如の法の功徳の全体を出現せしめた「すがた」が「南無阿弥陀仏」だと説いておられます。無上仏である真如が、一切の凡夫を無上仏に至らしめるために阿弥陀仏に成られ、凡夫の心に響く言葉が名号として凡夫に来る。それは凡夫を南無阿弥陀仏と一体になさしめて、凡夫を真如に至らしめようとする如来のはからいであって、それが自然法爾と呼ばれる法の道理だと明らかにされるのです。

 

このような道理を踏まえて宗祖は、南無阿弥陀仏の六字を次のように解釈されます。『阿弥陀仏は一切の衆生を救おうという本願を成就され、無限の智慧と慈悲の功徳の一切を衆生に廻向しようと発願されました。その発願こそ阿弥陀仏自身が名号という言葉となって衆生の心に来り、衆生を歓喜せしめ信ぜしめて、浄土に往生せしめる業力なのです。

 

そうすると発願のすがたが「南無」ということになります。この意味からして南無阿弥陀仏とは、本来的には阿弥陀仏が衆生に向かって南無する心です。』と宗祖は私たちに教えて下さいます。

 

こうして、私たちが称えている一声一声の称名念仏、その「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏ご自身がこの私を摂取(救う)ために、私に向かって躍動している、仏の本願力そのものになります。私が称える一声の念仏は、私を仏果に至らしめようとする、阿弥陀仏の躍動のすがたなのです。そうだとすれば、現に迷える私の悟りへの道は、この名号に導かれるのみということになります。

 

衆生がいかに名号を一心に称えたとしても、その名号が阿弥陀仏の本願の真実信心より来っていることを知ることが出来ないのであれば、その念仏にはいまだ願力の信心が具せられていないのと同じことになります。(中略)  
そうしますと
「ただ念仏」とは、本願の声として弥陀が私たちに、「汝を救う」と喚んでいる言葉になります。その「汝を救う」という弥陀の言葉を私が信じるのです。

 

阿弥陀仏は一体誰を救おうとしておられるのでしょうか。「念仏せよ、汝を救う」というのですから、この本願を信じている人を救うのです。では、なぜ念仏せよといわれのでしょうか。それは、その念仏の中に、衆生を救う如来の大悲の功徳のすべてがあるからです。それ故に、「念仏せよ、汝を救う」と勅命されるのです。        
 

では、この本願の真実が、もし本当に信じられたらどうなるのでしょうか。この人の人生のすべては、ただ念仏のみということになるのではないでしょうか。「念仏せよ、汝を救う」という言葉を信じれば、念仏することのみになるからです。それが信じているということです。信心に関して、「信心がすべてであれば、信じた上になぜ念仏が必要か」という質問が出されることがありますが、それは宗祖の教えをまだよく理解していないといわざるを得ません。

 

私たちは何を信じるかというと「念仏せよ」という本願の勅命を信じるのです。そうすると、それを信じたすがたは当然「念仏するのみ」ということになります。ある教えを信じたならば、その教えのごとくなるのです。したがって、「ただ信じる」ということと「ただ念仏する」ということは、実は一つのことなのです。    
 

そのような意味で、私たちにとって最も重要なことは「ただ念仏せよ」という阿弥陀仏の教えに從うということなのです。まさに、阿弥陀仏の言葉を信じる=ただ念仏申す、それが真宗者のすべてになるのです。          

 

下記7行、浄土真宗「光徳寺」様HP部分引用。http://www.fuchu.or.jp/~sat/  

お念仏を申すと言っても、ただ口先で「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と言っておればいいということではありません。「どんなことがあっても、あなたを救う」と呼び続けてくださる阿弥陀如来の呼び声に信順してお念仏申すのであります。

 ですから、お念仏とは、阿弥陀如来のお心に信順する心が、言葉となって現われた相であります。また、信心といいましても、阿弥陀如来の呼び声に信順する心のほかにはありません。

 念仏申しながら、その念仏の一声一声を阿弥陀如来の呼び声と頂戴していく心の相が信心であります。このように、念仏と信心は一つのものなのです。

 

金子大栄師の領解より

金子大榮著 口語訳「教行信証」附・領解(法蔵館・昭和50115刷)参照。

(下記、行変え・ルビ・着色、表記一部現代化、柴田)

 真実の教は本願を説くを(むね)(心)とし、名号を(もっ)(たい)(法)とするものである。したがって本願の体は名号であり、名号の宗は本願である。しかれば、われらの道もまた本願を宗(信心)とし、名号を体(念仏)してゆくものでなくてはならぬであろう。一切の群生(ぐんじょう)を救う本願名号の真理は、この身の(ぎょう)(しん)によりて事実となるのである。                (16頁)

 われらはただみ名によりて仏を知り、仏はただみ名において自身を 示したもう。ここを以てみ名を称うることは身に()いて仏を感ずることであり、即ちこれ仏われらの行となりて現われたもうのである。しかれば念仏があらゆる善を(おさ)め、よろずの徳を(そな)うることも、弥陀のいのち(・・・)と光と力用(はたらき)に他ならぬことであろう。故に真如一(しんにょいち)(じつ)功徳(くどく)(ほう)(かい)といわれる。真如一実は即ち弥陀のさとりであり、涅槃(ねはん)の光である。                                       (97)

 仏の心は本願として現われ、本願は、その仏の名に思い知らしめられる。これに(よっ)て仏願を聞くものは仏名を称え、念仏する身は本願をむねとすることとなるのである。よろずの仏の願と仏の名とはこの因縁をもつものである。 (115頁)

 仏を念ずるものは仏に念ぜられる。ここに本願の約束がある浄土を願うものは浄土の光に摂められる。ここに念仏の利益(りやく)がある

 これによりて涅槃は死の()するところと期せられて生の依るところとなり、永遠は三世を包んで現在に内感されるのである。         (118頁)

 一声の念仏において久遠の願心を聞く。ひるがえって久遠の願心によりて称えしめられた念仏の一声であることを思う。ここに信楽(しんぎょう)開発の一念が広大難思の慶心となるのである。              (123頁)

(中略)大悲の本願は、われらの心に現われて信楽となり、われらの身について念仏となる。これによりて信楽はわれらの真心となり、念仏はわれらの正行(しょうぎょう)となる。その信楽とその念仏との他に、真実にわれらの心身に頼むべきものはないのである。                 (123124頁)

 如来の一切の功徳は、その名に現成せられてある。ここを以てみ名の他に仏の徳を求めることができない。光と命との(はか)なき真身も,大慈悲・大智慧の功徳も、その他、無尽の法味も、悉くみ名に成就(じょうじゅ)し、念仏するものに感知せられるのである。されば罪障の消滅というも、浄土への往生というも、そのみ名による自然の利益に外ならぬのである                          (125)

 念仏は自力を頼む心を破るものである。それゆえに自力の行ではないひとえに大悲の本願に帰する身の行である。それゆえに、他力の廻向(たまもの)である。

 したがって念仏は、凡聖・善悪の人によりて、その徳を(こと)にするものではない。かえってすべての人は、念仏の徳によりて一に帰せしめられるのである。ここに人みな道を同じうして、その徳を(ひとし)うせしめられる世界があるのである。                            (129頁)                                                      

われらの念仏は、如来の本願の「力」によりて現われるものである。それゆえに念仏には本願の力が具わるそしてその力は念仏する身を聖者と同じき静寂の境へとひき入れ、聖者の現わしたもう種々の身と種々の神通と種々の説法とを受用せしめるのである。

 これによりて愛憎に悩む身にも柔軟(にゅうなん)の心は内感せられ、環境に乱れる心にも、機微に徹して(さわ)りなき力を恵まれるのである。そしてそこに大慈悲の説法を聞き、(くう)無我(むが)の真理を知る。まことに念仏者の一道である。

それは念仏に現われる本願の力である。それゆえに念仏は悪をたち善を修するために行われるのではない。ただ念仏すれば自然に柔和忍辱(にゅうわにんにく)の身となるのである。これ即ち()つものなきも音曲自然なる念仏の徳である。

133134頁)

如来とは信心の永遠の相、信心とは現実なる如来の心。それ故に、如来は常に信心のうちに(いま)し、信心は()だひとえに如来を思うのである。 (269)

 

()し人、信あらば凡夫のまま如来である。煩悩は菩提となる。一切の聖行も、これに依りて成就するであろう。明白なる道理である。

されど我等には信心がない。その信心と思念しているものは、すべて虚仮不実のものである。日常の生活は貪瞋邪偽の外にはない。否定のできぬ事実である。

この道理と事実との矛盾を解くものはただ念仏である。而して其の念仏に於て、その解決も、我等の(はから)いではなく、(ひとえ)に如来の御計いであることを信楽(しんぎょう)せしめられるのである。                (270頁)

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