覚書通掲歎異抄12条・第10の金言  通掲の趣旨および資料頁へクリックOK!

本願を信じ念佛をまうさば(ぶつ)に成る、そのほか何の(かく)(もん)かは往生の要なるべきや。

まことにこの(ことわり)に迷へべらん人はいかにも〜學問して本願の旨をしるべきなり。(第12条)

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(柴田私釈)往生には『本願を信じて念仏すれば仏になる』これ以外なんの学問が必要というのか。

《しかし、どうしてもこの理が納得できないという人は、大いに学問して本願の中味を味わい知るべき

である。》

ただし第10条に“念仏には無義をもて義とす。不可称・不可説・不可思議の故に”(不可思議の仏の

願からもたらされているので自己の思慮を加えず、意味付けしないことが大切。)とも記されている。

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私の詩作に関する作品であるが、本作品の構造は前半 “煩悩の身により言い捨てられた詩、

後半 ”真実によりひろわれたる詩“ の二つを結んで、前半の私の本来の境涯を自覚しつつ、

仏より回向される信心・憧憬を、詩作品に具現化したいとの願望を表したものである。

そして、仏の目に真実と見られるものが真の念仏詩であり、果してそのレベルにあるのかという

個々の作品への自省を表出する作品である。

 

すなわち私の境涯は、

悪性(あくしょう)さらにやめがたし  こゝろは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり

(しゅ)(ぜん)雑毒(ぞうどく)なるゆへに 虚仮(こけ)(ぎょう)とぞなづけたる

 

と、親鸞「正像末和讃」にあるように、謙虚な善行のつもりで作った念仏詩でも一片の自力虚仮

でしかない。

 

小慈小悲もなき身にて  有情(うじょう)利益(りやく)はおもふまじ

如来の(がん)(せん)いまさずば  苦界(くかい)をいかでかわたるべき

 

という身の上であるが、

 

無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて  まことの心はなけれども

弥陀(みだ)廻向(えこう)御名(みな)なれば  功徳は十方にみちたまふ

 

と、同ご和讃にあるように、阿弥陀仏におすがりするほかない。そして

 

弥陀の尊号(そんごう)となへつゝ   信楽(しんぎょう)まことにうるひとは、

(おく)(ねん)(しん)つねにして  (ぶつ)(おん)(ほう)ずるおもひあり 

(正像末和讃)

 

で、信じ喜ぶ心をまことに得たところから生じた詩であることを願っているのである。

 

 

作品93 たとえ 選考覚書の下記の部分を再掲する。

仏法といっても、それは文字や言葉に執われるものではなく、真実誠、本当の真心と智慧が

下敷きとなっていることが必須なのです。

()いた餅より心持ち」で、心持ちが尊ければ結果としての餅も尊いのです。
 ただし誤解してならないのは、餅が立派でなければ搗いた人の心持が悪いと言うわけではありません。

どんな粗末に見える餅でも、どんなボロボロに見える建物でも、どんな(つたな)い言葉で表現された

信心領解でも、仏法を下敷きとした生活信条をもって見直してみれば、搗いた人の尊い心持ちが

見える、大工や家主の真心が見える—中略--)と、眼が転じられることが重要なのです。

以上7行、浄土真宗やっとかめ通信(東海教区仏教青年連盟)より随所略、部分引用。

このように、文字や言葉に執われるものではなく、本当の真心と智慧が、“仏法を下敷きとした

生活信条”にかなった詩作品が、真実・阿弥陀仏に拾われる、即ち御心に叶う作品であろうと

思う次第である。(柴田)

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