いまや世間の関心ごとから薄れてしまった感のある事件のひとつに歌舞伎町の火事がある。どうやら犯行であるらしいが原因が特定できずお宮入りもささやかれている。場所柄、いろいろな特殊要因も絡んでいるだろう。おそらく年末のバラエティ番組では不夜城の魑魅魍魎うんぬんとして、おもしろおかしくとりあげているものと思われる。
繁華街でおこりうる事件としては最悪の結果を招いたこの件を、ごくあたりまえの視点からかんがえてみたい。そんなきっかけを与えてくださったのは、かの大橋巨泉大先生である。
週刊現代2001年9月の大橋氏によるとこの事件の責任は行政にあるという。「そんなばかな〜」の次には「このアメリカかぶれが〜」という捨てぜりふしか思い浮かばなかった。しばらく、のどにひっかかった骨がとれないような感覚が残っていた。そして、ゴミとしてうっちゃっておいた例の雑誌を再度ピックアップして読み直してみた。(注1)
大橋氏がいうように行政が厳しい指導をしていればこういう事件は起こらなかったのだろうか。違うだろう。私は行政の肩をもつつもりはないが、この事件の問題は直接の原因が犯罪であったとしても当事者責任につきると思う。行政とは生活の主体者ではなく必要悪でしかない。なんでも行政の責任にするのは楽なことだ。それで決着がついてしまい思考停止となる。こうした無邪気で無責任な発想しかもちえない浅薄さは、大橋氏特有のものでなく、今の日本の根の深い病気に関連することではないかと思うようになってきた。
事件から1月ほどたったある朝現場を見た。どんな立地にあるか知りたかった。西武線の駅を降りてすぐの位置にあった。いわば歌舞伎町の導入部に位置する。前面道路は狭くない。開放的な場所であり、周辺の商業ビルもごくありふれた雑居ビルである。テレビや雑誌の取り上げ方は歌舞伎町のドロドロした部分を強調して勝手に幻想をつくりあげているようだ。実際に見てみるとこうしたビルは日本中のあらゆる繁華街に存在するということが印象的であった。どこでも起こりうる事件であると感じる。
この問題に対するひとつの見方に過ぎないが、ごく単純なことが思い当たる。自分が生活する、仕事する、遊ぶという日常空間の中で、最悪の事態を想像することをサボって無責任万歳!としていないだろうかということだ。
この事件でたとえれば当事者がヤクザであっても、風俗営業者であっても、不法外国人であっても、犯罪者であっても、こうした結果を招けば相当の痛手をみずから被ることは逃れようのない実態だ。そして一方、直接被害に遭われた客や従業員の方々にとっても悲しいけれど共通のことがいえるのではないかと思う。平和な日本でリスクは他人が負うものという常識が蔓延している。ババ抜き社会である。
難しいことだけれど処方箋のひとつは、なにをしてもリスクは自分が負うものという厳しい社会にしていくしかないように感じる。
蛇足ながら、選挙についてもそう。大橋ら滑稽な議員を多数選んでしまったという責任は日本国民みんなで負わなければならないということになろう。あ〜、しかし今の3流芝居を繰り広げるマンガ政党だらけではどうしようもない問題か。なにはともあれ今後は最悪のことを想定して投票する覚悟は持ちたい。
注1:「歌舞伎町ビル火災の責任は、行政にある」大橋巨泉
44人死亡というから大惨事である。早大時代の4年間を除くと、ボクは新宿とは縁が薄い。主として銀座・赤坂派であった。従って歌舞伎町近辺もよく知らない。(略)
しかしニュースが進むにつれ、解説を見聞きするうち、だんだんハラが立ってき来た。東京都はこんな行政をやって来たのか。初めて聞く言葉だったが、これらペンシル・ビルディングの構造は、ボクが知っている先進国の大都市では絶対といって良い程許可にならないものだ。(略)怖いのはヤクザや不法外人よりも、ズサンな行政なのである。
ボクがバンクーバーの自社ビルを建てたのは、もう15年も前の話である。わずか200坪余の地上4階半、地下(駐車場)1階半の小ビルだ。最初小さいとタカをくくっていたボクは、余りの市の規制の厳しさに参ってしまった。(略)要するにわれわれオーナーやテナントの利よりも、利用者の安全が優先されているのだ。解説を聞くかぎり、日本では全く逆のことが行われているようである。誰が何と言おうと、ボクはこの惨事の責任は、行政にあると思っている。(週刊現代2001年9月22日号より抜粋)