以前ここで「悲壮の樹」と題し、大胆に枝落しをされた大樹を紹介した。1年が経ち、くだんの建物ができあがった。
その樹は、伐採直後の姿と重ね合わせてみると、こぎれいなマンション棟にはさまって、せいいっぱいの生命力をつくし、ふんばっているようにみえる。
一方、樹と建物とのかかわりを見たとき、マンションの玄関前のオブジェとして扱われたようだが、奇妙な違和感しか感じられなかった。『自然との共棲』『豊かなアーバン・ライフ・ステージ』『都市居住環境を演出するシンボル的融合空間』といった、形而上的うたい文句が想像でき、樹に対する傲慢、デザイン行為に対する不遜を感じた。
このマンションはデザイナーズマンションというそうだ。いかにも和製英語的なひびきである。業界の定義を調べてみると、「従来の建設業者等による画一的で効率最優先の設計ではなく、明確に入居者像を設定し、ターゲットとした人たちの望むライフスタイルにあった造り方をするマンション。気鋭の建築家を起用し、敷地の形状や周辺の環境に合わせて一棟ずつ丹念に設計するので、変化しつづけるユーザーのライフスタイルと上手く調和でき、新しい住まいのあり方が提案できる」だそうな。ひらたくいえば目先を変えたカッコ良いマンションならば高く売れる、あるいは高く貸せるという、投機的な商品企画のことだ。
樹を活かすという考え方はけっこうなことだと思う。しかし、美容院で変身させたプードルちゃんのような見世物扱いにするぐらいならば、切ってしまえ!と言いたくもなる。あるいは、技術的にも経費的にも負担がかかることだが、ふさわしい場所へ移植してその経費を料金に載せるぐらいの良心を示してもよかったのではないか。どうもこのマンションには山師的な気配がプンプンだ。
さて、着工前まで、この樹の根元はごみ収集場所になっていた。これからどう扱われるのか。
こうした人間界の思惑にまきこまれた大樹は何を思うか。
居住される方々に受け入れられ、きちんと手入れされていくことを祈るばかりだ。そして、いつの日か自然のたくましさを見せつけてほしい。
いま、わが国の都市整備の分野において一定の開発を行う際、環境アセスメントをするのが当たり前になってきた。アセスを要しない開発であっても都市緑化に関する目標がだいたいどこの自治体でも条例で定められている。政策の方向として十分に肯ける。
しかし、その運用の実態はあまりに乏しい。
緑の率として、一定の範囲のひろがりの中で、樹木や草で被われ、空からみたときに緑の部分となっている土地の割合(緑被率)、あるいは都市施設や社寺、河川、水面などのオープンスペースとして永続性を勘案した緑地の割合(緑地率)など、直感的にわかりやすい指標が使われる。
行政の指導により、区域単位で○○%、あるいは敷地単位で○○%という緑地率もしくは緑被率の確保が義務づけられるわけだ。横並びで数値目標が定められており、この数値が大きければそれだけ地球環境のことに配慮した優れた開発であるという単純な価値観が背景にある。
目にする光景にこんなことがある。
事業に関して利害の反する立場の一部市民は「緑地率20%程度の確保はできているんだろうな?」一方の事業者は「市の条例にもとづく緑地率13%を充分に確保しております。」、市民「開発前の緑被率はたぶん30%程度あるだろ!開発後はそんな数値で済むと思っているのか?」、事業者「開発前の状況では、この芝生の部分はかくかくしかじかの理由でカウントしておりません。ですので開発後はむしろ緑被率が増える計画です。」というように数値に終始した議論だ。緑の質について語られることはほとんどない。
しかしまあ、そんな数値に意味があるのだろうか。とくに商業地においても、なんでもいいから緑の率を確保してしまえというのはいかがなものか。地域によっては偽物の緑でも代用できるようだ。そういうことなら建物を全部緑色にしてしまえ!と思う。
かくして街なかに造られた緑地の相当部分は、陽が当たらず、排気ガスを吸収する、ポイ捨て灰皿がわりになる、そして枯れるに任せるというように緑地という名に値しない空虚な空地になりはてるという次第である。利用者に重宝されるのはせいぜい風よけの植樹ぐらいだ。
また、住宅市街地の中には提供公園という、使われることが少なく暗〜い児童公園があちこちに散在している。これも同様に数値主義のたまものだ。
こまぎれの整備単位内でいちいち細かい緑地をつくって、それが地球環境に優しいとでもいうのか。官僚的なしごとであり、実に無意味なことだ。
しかし一方で、自治体全体として緑の保全と再生に向け、市民を巻き込んだ積極的な行動を起こしたらどうなるだろうか。すでに先進的な市では自然再生条例が制定されて動き出している。かつてあった市域の自然を復活させようという大きな目標が掲げられ、たとえば工事で破壊される自然を事前に調査・予測し、保全できない場合、代替地を確保して植栽するなどの対策が具体化されている。これでこそ緑の率に意味が生じてくるわけだ。

一般市民が、市や県なりが用地を買って市民のための森林として活かしていってほしいという気持ちになるのは当然だ。
地主が悪いわけでない。売らざるを得ない理由がある。
土地を買ったディベロッパーが悪いわけでない。適正な価格で取得し、経済原理に沿って供給するのは企業の仕事だ。そこにビジネスチャンスがあるとみれば同業者間の厳しい競争に勝たねばならない。
市がどう動いたかわからないが、市の構想としてこの森林保全が位置付けられていなければ、民間対民間のやりとりに口は出せないだろう。また、買おうとしたとしても価格面で民間企業と競争しなければならない点に不利がある。
周辺住民がすばらしい環境を維持しようと主張することは当然だ。
誰が悪いわけでない。そこがつらいところだ。
建設プラン上残そうとしたのだろう。歯抜けの状態で残された樹木のあわれな姿。プランの都合で生き長らえたわけだ。群れからとり残されたその姿は痛々しい。
われわれは、こうして消えゆく資源に対してあまりに鈍感になってしまった。
これは土地本位政策の失敗と都市計画の不在が生んだ象徴的な事件だと思う。そしてその後背に腐敗しきった痴呆政党政治がある。
これまで都市緑化は非常にミクロな視点に終始しており、建前だけがのさばってきているように感じる。
緑地率として測れば同じ値になる、数ヘクタールの都市森林と、児童公園の寄せ集めと、どちらが尊いか。ちゃちな公園なら数ヶ月で造成できるが、雑木林は数十年かかる。時間を価値に置き換えて論ずることが、緑を活かしたまちづくりには必要そうだ。
緑の意味付け・評価は、科学がそこそこ進化したのだからそう難しくないと思える。
不動産ディベロッパーにとってみれば、そこにある雑木林は伐採費というコストが余計にかかるマイナスの資産でしかない。しかし未来の市民にとって、どれだけ価値があっただろう。そういう意味で最後に紹介した伐採事例はたいへん残念だ。不動産流通という世界の一元的な価値観のもとで、緑の生死が左右されている。