Pon-f's SITE お便り紹介
小畠さんより (2)
2003年3月1日【小畠さん→Pon-f】
今朝、3月1日東京管制のコンピューターに不具合が生じ、羽田から離陸できない事態がありましたね。なんでも、予備のものまで同じに新しい方式に切り替えたため、身動きできなくなったとか。何故、予備のものまで一緒に交換してしまったのでしょう。
これを見ても、現在の技術過信には危うさを感じます。コンピュータは便利なもので、今の社会になくてはならないものになっているでしょうが、しかしまた同時に未完成品なのではないか、そしてその事に技術者自身も気がついていないのではないかと思わざるを得ません。
(おかげで修学旅行の子供、と申しても高校生ですが、鹿児島から羽田に戻ってきたのが3時間半遅れで、10時だったとか。家に帰りついたのが、午前0時前でした。)
なんの関係もない内容ではありますが、今度の件をみても古川さんの主張されている、修理しながらも30年は使える体制がカメラには欲しいというのが、意味を持ってきます。技術が熟成する前に、いえ、誰も真価が分らないうちに次々と新しいものに替わっていくとなりますと、もはや制御不能の事態が発生するやもしれません。
30年はきちんと使える保証が為されるような社会であれば、直接関係はなくとも、社会全体の考え方が落ち着いたものになってくると思います。実際、そうならないと浮ついた、ただただ忙しく、守り残すべき文化を失っても平気な、根っこのない薄っぺらな社会ができあがってしまうでしょうね。事実もうそうなりつつあるように感じます。
3月7日【Pon-f→小畠 さん】
3月1日のニュースの件、先日拝見しました。
複雑な世の中ですねえ。おそらくシステム整備はコンピューター会社に丸投げなんでしょうね。バックアップの準備などはあたりまえのようでいて、なにか事件が起こらない限り対処できないものなのですね。
1度失敗しないと、対策を打たない(予算がつかない)というのはいまの我が国の法治国家のあり方とおんなじみたいですね。放置国家とでもいいましょうか。
小畠さんが指摘される「薄っぺらな社会」。ホントにそうのように感じます。製品でいえば、あらゆるメーカーが供給する商品はまるで「脆弱」がコンセプトのようです。
カメラ話ですが、今週たまたまコンタックスTシリーズの最新版でコンタックスTvsデジタルなる商品を店頭でさわることができました。ひとこと、ガックリです。元祖コンタックスTをはるかに凌ぐ華奢なつくりです。筐体はベコベコ、スイッチを入れるとジーとレンズが出てくるわけですが、グラグラの状態です。こんなカメラで、思い通りに写真が撮れるんだろうか?と素朴に感じました。
これについてはメーカーのスタンスにも問題があると思う一方で、消費者がこうした商品を望んでいるというということにもっと大きな流れを感じざるを得ませんでした。
ちょっと言い過ぎかもしれませんが、とくに我が国では良いものを長く使う経験、あるいは長く使えるものがあるという知識がなさすぎかもしれないと、あらためて思う今日この頃です。(余談です。家電リサイクル法などくそ食らえです。)
私も、まちづくりに携わる点で我田引水となりますが、なぜ日本の街がこうも美しくないのか。と考えてみると共通の問題があるように感じます。日本人は美しい街など誰も望んでいないのです。でも美しいインテリアは高いレベルで望んでいるのです。
(またまた余談、ウチは雑種2匹が家の中を走り回っているのでインテリアも美しくありません!)
3月8日【小畠さん→Pon-f】
日本の社会ばかりだとは、断言はできませんが、乏しい知識の範囲内で感じることは、どうも日本人の考え方は、古川さんの言われる「放置国家」で、個々についても昔から使い捨てをムネとしているように思われます。よく言われますが、台風で倒壊した家屋をすぐにまた建てなおす、それなら台風などで倒壊しないものを作ればよいのですが、そうはなりませんでした。この歴史がずっと続いているようにも思われます。
つまらない例ですが、調理に使う圧力釜です。ドイツの製品ですと、確かに新型はだされます、しかし容量も大きくなっても、傷みやすいゴムパッキングのサイズは大中小いずれも変わらないのですね。そのためゴムパッキングだけを取り寄せれば古いものでもいつまでも使えるわけです。勿論、このようなことは圧力釜だけに限った事ではありません。
ところが、日本製品は新製品がでると、それまでの製品の主要部分が悪くなっていないにもかかわらず、もう使い物にならないということがあります。まことにもったいない話です。
前にお書きした音響関係でもおなじことです。日本では次々と新製品、新規格の製品が出され、それ以前のものは捨てて省みられなくなってしまっています。ヨーロッパではCDプレーヤなどのモデルチェンジのサイクルも日本のように毎年ではないと聞いております。日本では、それどころでなく、CDはもう見る影もなく、MDだDVDだとなっておりますが、これがいつまでもつか、保証の限りではないでしょう。こうやって、次から次へと変わっていき、それを追いかけさせられる、これではまるで、落ち着きのない、浅薄な社会を作り上げていくことを目的としているかのようです。
カメラについても、同じことがいえると思います。どうして、しっかりした製品が作られないのでしょうか。コンタックスTvsデジタルですか。ひどい話ですね。驚きました。ソンな製品を出していたら、会社の信用を失ってしまうではないですか。仮に高級品は違いますとアナウンスしても、だれも信用しなくなりますよ。
また今、資源は有限である。またゴミ問題も深刻になっております。そのような状況下で、よくそのようなすぐ駄目になるような製品をだすのでしょうか。結局、自分の所だけ、しかも今儲けられればそれでよし。あとは野となれ山となれという考え方でやっているのでしょうか。そんなことがつづけられるわけはないでしょうに。
しかし、これはメーカーだけの責任ではありませんね。ご指摘のように、消費者側にも多大な責任があるのです。多少高くてもしっかりした製品ならば、それを選ぶという姿勢があれば、メーカーも考えるでしょう。しかし、消費者が多少高くとも、しっかりしたその場だけでない製品を求めるほうが、結局安くつくのだと考えるようにならなければ、どうしようもありません。リサイクル法を言う前に、寿命の長い製品を作り、また買うようにしなければいけないでしょうね。
どんどん、新製品をだし、旧製品を捨てさせる。これは品物だけに関わることでなく、人間の存在そのものにも関係してくると思います。
町並みの件につきましても、言われるとおりですね。ただ、不思議でならないのは、明治の御世ならいざ知らず、例えばドイツの古い町がステキだと旅行に出かける人が多いですね(すみません、ドイツ語が専門なもので、ついついドイツの例を引いてしまいます)。そんなにあこがれるならば、何故それを(いえ、そのままの形でというのでなく、考え方をですが)とり入れていこうとしないのでしょうか。住まいの周辺でも、めちゃくちゃです。
10年前から、ちょっと環境保全に関わっております。この運動?をしていても、多くの人が口では環境問題をとなえますが、本当に将来までを考えにいれているかどうか、せいぜいのところ小さな子供たちが自然の中で遊べるようにという程度でしかないことに愕然としています。
簡単に申せば都市部にも自然を生かした公園がいくつかあり、またその都市部を取り囲むように森のある田園地帯がある。住居地域でもみどりを多くし、家屋もあまりに統一のとれない突拍子のない形態のものは避けるようにしていく。そして、家屋の寿命もせめて100年は持つような作りにする。
このようにすれば、この社会も少しは落ち着き、よいものを長く使っていくようになるのではないかと思っております。そうなれば、浅薄な浮ついた社会でなく、すこしはじっくりと考えられる社会となるのではないかと考えています。
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