第9章 東奔西走
| 第46話 円覚寺舎利殿 |
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僕が円覚寺に訪れるのは、もう3度目になる。しかし国宝建造物である、その舎利殿は未だ見たことがない。それは舎利殿が正月三が日と11月初旬の「宝物風入れ」の時にしか一般公開されていないからなのだ。(舎利殿は1年に6日間しか一般公開されないのだ!)
今日は11月4日の日曜日、今年の「宝物風入れ」による公開は一昨日の2日から行われている。このチャンスを逃すと、お正月は関西で過ごす僕にとって、今度国宝に出逢えるのは1年先ということになってしまう。国宝倶楽部部長の僕は、当然この日に照準を合わせ待っていたのだ。幸いにも昨日からの雨もやみ、秋空が広がった。
JR横浜駅で乗り換えた横須賀線は観光シーズンの晴天ゆえか、結構混み合っていた。「そうか、みんな鎌倉へ遊びに行くんだ!」と、思っていたら何と、7割方の乗客が北鎌倉駅で降りるではないか。
「どっひゃ〜!これみんな円覚寺さんに行くの〜?」
小さな駅のプラットホームは、みるみる人で溢れかえった。
「この人出は大阪梅田の阪神百貨店より上だね!」
と、つまらんことを考えながらも、やはり国宝を愛するのは僕だけじゃないんだ、と悟った。(当たり前じゃないか。)
石段を登り総門をくぐると杉木立が光を遮り、道は少し暗くなる。前回来た時は雨降りの早朝だったので参拝客が少なく、充分歴史の深さに浸ることができたが、今日は様相がちょっと違う。参拝客の行列に混ざり、さらに石段を登ったところの三門をぬけると仏殿が建つ。仏殿の前は少し開放的になっていて、ベンチなども置いてある。座ってちょっと息抜きをするのには格好の空間である。
円覚寺は、宋僧子元祖元(しげんそげん)を開山とし、元寇といわれる文永、弘安の両役における戦死者の霊を弔うため、八代執権北条時宗(1251〜1284)が弘安5年(1282)に創立し、鎌倉五山の第二位として禅宗寺院中でも重要な位置を占めてきた由緒ある寺である。(ちなみに鎌倉五山とは、一位より順に建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺である。)
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| 円覚寺三門 |
参道の一番奥に
舎利殿の屋根が見える |
仏殿より左手をさらに奥に進み、妙香池(みょうこうち)脇を左に折れたところに舎利殿に続く四脚門がある。が、今日は拝観客やチケット販売でちょっと、ぐしゃぐしゃになっている。上の写真は数ヶ月前に訪れた本来の舎利殿に向かう参道である。普段はこんなに落ち着きのある静かな一隅で、この門の間から舎利殿の屋根だけが臨めるのである。いつもならこの門の前でシャットアウトだ。門の前の石塔には、「沸牙舎利塔(ぶつげしゃり)」の文字が彫られる。なんだろう?この「佛牙舎利」っていうのは?
門をくぐると左手に鐘楼、宝蔵、右手に宿龍殿(しゅくりゅうでん)、正法眼堂(しょうほうげんどう)が並び、さらに正面奥の唐門の脇をくぐるとようやく舎利殿が全景を現す。
最初に目に入ったのは思ったより華奢(きゃしゃ)な舎利殿の姿である。次に目に入ったのはその前で仁王立ちする一人のお坊さんの姿である。さらにその次に目に入ったのは舎利殿の前に立つ「撮影禁止」の立て看板だ。
「ええ〜っ!撮影禁止なの?」
でも、参拝客の人たちはバシバシ写真を撮っているじゃん!(横浜弁になってしまっている。)
僕はおばあちゃんの遺言で、自分に嘘をついてはいけないことになっている。「撮影禁止」となっているのにそれを無視して、みんなと同じように写真を撮るわけには行かないのだ。僕は仁王立ちするお坊さんに、つっけんどんに詰め寄った。(だって遠くから重たいカメラと三脚をかついで来ているんだもん。)
「写真、撮ったらダメなんですか?」
仁王立ちのお坊さんは、思ったより柔らかなもの腰で、
「えっ、・・・え〜と、一応はダメなんです。」と答えた。
何なんだろう、その「一応」っていうのは?
僕は考えた。
「一応」って言うのは本格的に三脚を立てたり、ストロボをたいて撮るのはダメで、それとなくスナップを撮る程度ならいいのかもしれない。
と、勝手に解釈して、首からぶら下げていたEOSくんとCAMEDIAちゃんのうち、EOSくんをバッグにしまい、三脚も片づけた。
「これならいいんですよね!僕はそれとなく、スナップを撮らせていただきます。」(仏様、僕の煩悩をお許し下さい。)
僕がスナップ写真を撮っていると仁王立ちのお坊さんが突然、解説を始めだした。「そうか、解説もやってくれるんだ。」
舎利殿は源実朝が大慈寺にまつっていた仏舎利を円覚寺に移し、弘安8年(1285)ころ創建したもので鎌倉時代の代表的な禅宗建築として著名なものでありましたが、永禄6年(1563)の大火により消失してしまいました。
しかし、現在の舎利殿の建築様式を見ると、到底永禄火災後の新築とは考えられず、「新編鎌倉志」などには鎌倉尼五山の一つである太平寺の仏殿を移したものとの伝えがあり、現在はその伝え通り火災後移築されたものとしています。ただ、太平寺の歴史が明らかでないため、太平寺のものであったとしても文献的にその年代を知るすべがありません。
舎利殿の「舎利」とはお釈迦様の遺骨のことを指します。お釈迦様の遺骨は小さく分けられて、全世界8万カ所(数字はちょっと聞き違えたかもしれません。)に祀られています。ですからそれぞれの遺骨は大変小さいものになっています。米粒のことを「しゃり」というのは、この小さい「舎利」に似ていることから言われています。そしてこの舎利殿には、遺骨の中でも価値が高い、お釈迦様の「歯」の部分が安置されています。
なるほど、そうだったのか!「沸牙舎利塔」っていうのはそういう意味があったんだ。
(さらにお坊さんの解説は続く。)
屋根は柿(こけら)葺きとなっています。柿葺きというのは椹(さわら)の木を長さ30〜40センチ、厚さ3〜4.5ミリくらいに手割りにし、葺き足3センチぐらいに竹の釘で葺き上げるものです。
すごい!僕は何も知らずに柿葺き、柿葺きと言っていたけど、こんなに手の込んだものとは知らなかった。大体、「さわら」というのは、魚の鰆(さわら)の西京漬けしか知らない。木にも椹(さわら)があるなんて、どうやら、ひのきの仲間らしいぞ!
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改修時に取り除かれた
「こけら」
(舎利殿の前に
展示してました。) |
柿葺きはその葺き材を準備するのに相当の年月がかかるのに対し、葺き上げた屋根の耐用年数は25年くらいです。したがって、江戸時代になってからの寺院建築は耐用年数の長い、銅板や瓦葺きが多く使われたようです。
これもすごい!何年もの長い年月をかけて、たかが25年しか保たない屋根の準備をするなんて。確かに「こけら」の現物を見たら、手間がかかるのはうなずける。
現代の経営者が
「企業の経営はコスト対成果だ!」
などと胸を張ってのたまう時代には、決してこんな文化は生まれるはずがない。僕は寂しい時代に生まれたものだ。
軒裏をごらん下さい。垂木が放射状に配置されています。これを扇垂木(おうぎたるき)と呼び、禅宗様の建築様式です。(ふむ、ふむ、それは知ってるぞ。)組物は柱の上だけでなく、柱間にもあります。これを詰組(つめぐみ)といいます。(うん、それも知っている!)
建物は2重に見えますが、実際は1重です。下の屋根は裳階(もこし)と呼ばれるもので、文字通り腰に付けた飾りの階のことで、この場合「一重裳階付」と呼んでいます。裳階の下には小さな弓の形をした連子(れんじ)を並べた、弓欄間(ゆみらんま)が周囲を廻っています。これにより内部にいても外の様子がうかがえるようになっています。(これは、清白寺:第35話や安楽寺:第43話にも出てきたぞ。)
白い障子を貼っている窓は花頭窓(かとうまど)と呼ばれ、上部の反転曲線は禅宗様独自の形式です。また、両側の枠が垂直に立ち上がるのは比較的古い形式です。(これは第21話:正福寺地蔵堂で勉強した。)
正面の柱をご覧下さい。6本の柱が見えますが、中央の柱間は広く、外にいくにしたがって柱間が狭くなっています。これは内部に立った時、空間をより広く見せるための技法です。
と、まあ こんな具合にお坊さんの解説は続く。しかし、僕はお坊さんの言っていることの8割方は知っていたし、すべて理解できた。よしよし、これも苦労のたまものだ。僕の知識も遂に普通人の域を超えたぞ!
そして冒頭にも書いたが、舎利殿は思っていたよ華奢(きゃしゃ)で、派手さはないがかなり美人だと思う。(このように国宝を擬人化するのは危ない傾向かもしれないが...。) 外観は夏の暑い日に訪れた東京都東村山の正福寺地蔵堂に極めて似ている。違いを見つけるとするなら、地蔵堂の裳階は銅板葺きであるが舎利殿は柿葺きであること、屋根の反りが地蔵堂の方が少し大きく感じられることくらいしか僕には分からない。そうそう、それから舎利殿は年に6日間しか見られないが、地蔵堂は年中それも拝観料なしで見ることができる。そういう点では地蔵堂はありがたい。しかし細部を見れば違うところも結構あるらしい。例えば主屋の扇垂木の平行なのは中央5本だけで、地蔵堂の12本より少ない。この点は舎利殿の方が年代的に新しい手法だと見られているらしい。が、舎利殿は関東大震災で相当の痛手を被り修復されているので、この技法が当初からのものかどうかは定かではない。したがって地蔵堂とほぼ同時期の応永14年(1407)前後の造立ということになっているらしい。
僕はこの舎利殿の前を行ったり来たり、多分1時間あまり眺めていたと思う。(僕より長い時間いた人はいなかったと思う。)誰よりも思いを強く入れること、このことは(笑う人もいるかもしれないが)何をするにつけても、大切なことだと思う。人の数は多かったが、普段は見ることができない貴重な建造物を見られたことは幸せに思う。今日は円覚寺しか見ることが出来なかったが、鎌倉にはまだまだ見るべき文化遺産は数多くある。またきっと訪れてこの欄で紹介したいものだ。
次は「国宝倶楽部」第2回目の活動で山形の羽黒山五重塔に出逢う。お楽しみに・・・。
僕は山形というところに足を踏み入れたことがない。山形のことについてはサクランボと山形弁のことくらいしか知らない。知らないからこそ期待も膨らむ。
第2回国宝倶楽部の活動は、そんなサクランボと愛嬌のある方言の国、山形なのだ。
第1回目の国宝倶楽部活動は7人も集まったのに、今回はあきらくん、だいちゃん、とむと僕の4人「おたくちゃん分科会」のメンバーだけにになってしまった。すこし、寂しいのだ・・・。部長の僕の力が及ばなかったことを反省し、次回はもっとたくさん集まるよう頑張ろう!
でも僕らは頑張った。僕は朝4時半に起きて5時半には「だいちゃん」と雨の中の池袋で待ち合わせ、途中 中板橋で寝坊した「とむ」をたたき起こし、熊谷で「あきらくん」と合流した。今日の計画は一気に羽黒山まで行き、そのまま酒田市に走り「土門拳記念館」に行くという、ちょっとハードなスケジュールなのだ。
「みんな!今日 日本海に沈む夕陽、見に行かへんか?」
この雨も山形ではお昼にはあがり、午後は晴れ間が広がるらしい。酒田市は日本海に面する良き港町だ。
「んだ!んだ!わらわら はすっていご!」
ん?もう山形モードになってしまっている!(関西弁で言うと「そりゃええなぁ!早ょ走って行こ!」ってとこか。)
しかし、日没は午後4時半、そんなに時間的余裕はない。僕らは約450kmを一気に走り抜け、お昼には羽黒山に着いたのだ。予報通り、ここ羽黒山は青空が広がった。
羽黒山には国宝五重塔がある。
出羽三山といえば、羽黒山、湯殿山、月山の三つの山のことをいうが、湯殿山は山自体がご神体だし、月山も海抜1979mという高峰の山頂に社殿があるため、そう簡単にはお詣りできない。それゆえ、羽黒山には湯殿山、月山と羽黒山を合祀した出羽三山神社がある。羽黒山は人里に近く比較的容易に参詣できるため、この出羽三山神社が庶民の信仰を集め、大いに発展したというわけである。
しかし、なぜ神社に、お寺にあるべきはずの五重塔があるのかという疑問が出てくる。江戸時代までは神社と寺が混在することはよくあった。しかし明治政府は江戸時代の仏教国教化政策を否定し、神道国教化政策をすすめたのだ。その過程で神社の中から仏教的色彩を排除しようとしたのが、明治元年(1868)3月17日に始まった神仏分離政策である。この政策により、民衆までも廃仏毀釈運動にはこぞって参加し、堂塔・伽藍や、仏像・仏画・絵巻物・経典にいたるまで破却・焼却されてしまったのだ。全国で破却され廃寺になった寺院数は、当時存在した寺院のほぼ半数といわれているが、現在までの調査・研究ではその総数はまだ把握できないようだ。
そんな訳で、当然この五重塔も破壊されることになった。が、その寸前に、この地方が豪雪にみまわれ奇跡的に破壊を免れたそうだ。
そんな数奇な運命をたどった塔に出逢うことができるのだ。
出羽三山神社の総門(随神門)をくぐると、(こんな神社は初めてだ!)なんと長い石段を下って谷に降りてゆくのである。石段の両脇は鬱蒼とした杉の森が覆い被さってくる。石段を下りきったところに、いくつもの摂社・末社が建ち、神さびた雰囲気が一層強まる。
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| 随神門 |
下りてきた石段を
見上げる |
石や木に生す苔 |
朱色の欄干の太鼓橋(板川橋)を渡ると、右手には小さな滝(須賀ノ滝)が落ち、苔生す石木が濡れしっとりとした緑色を呈する。
さらに杉林の中を進むと左手に突然、五重塔は現れる。その手前には天然記念物の巨大な「千年杉」が立っている。僕は千年杉は後回しにして小走りに右手に回り込み、塔の正面に立った。
総高29.4mは、数ある多重塔の中でも決して高いほうではない、中型の塔だ。しかし、巨大な杉の木を従えるかのように雄々しく立っているのである。永年の風雪に耐えてきたことが明らかに分かるほど、素木の部分は色が変わり古びている。しかし歴史を刻み、自然の中に同化した力強さがある。
「何と凛々しい塔だろう!」
僕はこれまでに多くの国宝塔を見てきた。
一乗寺三重塔は「神秘的」だった。明王院五重塔は「華麗」だった。瑠璃光寺五重塔は「美しい」塔だった。大法寺三重塔は「可憐」だった。安楽寺三重塔の「造形美」も素晴らしかった。そしてこの五重塔を形容するなら「力強く、凛々しい」のである。
こんな大事な時に、不幸にも僕のEOSくんは電池が切れてしまった。不覚にも予備の電池を持ってないのだ。しかたなくEOSくんを三脚に乗せ放置したまま、セカンドカメラのCAMEDIAちゃんを手に持ち、僕は塔の周りをうろうろと見て回った。
ふとみんなの方を見ると、あきらくんは新カメラ「EOS1N」で本格的に構えている。とむは、持ち前の身軽さであちこちと飛び回りながら見る位置を変えているようだ。しかし、だいちゃんの姿が先程から見あたらない。
「どこに行ったんだよだいちゃん?!」
ふと来た道を振り返ると、さっきの「千年杉」の前でだいちゃんがひざまずいている。とむがやってきて、「だいちゃん、千年杉に魂(たましい)抜かれたのかもしれん!」と言っている。遠目に見ると、なにか杉の大木に抱きついているようにも見える。そんな趣味があったのかぁ?まあ、それもいいだろう。こちらも忙しいから、だいちゃんが神隠しに合おうが、かまいたちに合おうが、しばらくかまってあげられないのだ。ごめんね。
と、ふと僕のEOSくんの方を見ると、観光客のおっさん達が失礼にも僕のカメラのファインダーを覗いているではないか!人の大切なカメラを勝手に覗き込むなんて!すっ飛んでカメラまで戻った僕は「おじさん、なにしてんのん!」と詰め寄った。
「すごく、よく撮れそうですね。」と言い訳をしている。かなりお酒に酔っているようだけど、悪人ではなさそうだ。しかし、そんなに酔って、来るべき所じゃないだろうが!と思っていると、こんどは「この塔、有名なんですか?」と、とぼけたこと聞いてくる。どうせバスガイドさんの案内も聞かずにお酒を飲んで騒いでたんだろう。あまり応えたくはなかったが、親切な僕は「1370年頃、南北朝時代の塔で国宝ですよ。」と教えてあげた。「ふ〜ん、南北朝というと藤原時代か?」と、またまた訳の分からないことを言う。
おっさん!藤原氏の時代は南北朝の前の鎌倉時代より前だろが!
藤原氏が出てくるところを見ると、岩手の人かもしれない。酒を飲むだけなら、会社の近くか家で飲めよ!
目的もなく旅をするこのおじさん達が少し哀れに思えた。
気になっていた だいちゃんの方を振り返ると、だいちゃんが消えてしまっている。本当に神隠しにあったのかもしれない。
この塔の創建は寺伝では承平(じょうへい)年間(931〜938)平将門の建立と伝えられるが、それはちょっと信じるに足りない。現在の塔はその後の再建で、慶長13年(1608)に山形藩主 最上義光(もがみよしあき)が大修理を行った際に見つかった棟札より、応安2年(1369)に柱を立て、永和3年(1377)に九輪をあげたことが分かった。しかし、永和5年(1379)に建立したという古文書もあり、建立時期は定かではなく、僕がおじさんに教えた通り1370年頃と考えられる。
造りは飾りをまったくつけない正統的な純和様で、中世五重塔の代表例である。後世の諸修理により、相輪、四・五重の一部、初重の軸部などは後補で、縁(えん)の形式も近世のものに替えられているが、垂木の割付や腰長押(こしなげし)の下に束(つか)を入れるなど古い手法を今も残し、塔の形態を損ずるまでに至っていないことは幸いである。
各重とも、塔の通例に従い、三間四方で組物は三手先(みてさき)、軒は繁垂木(しげたるき)の二軒(ふたのき)で構成されている。
屋根は柿葺きで、各重の逓減(ていげん)に微妙な変化がつけてあり塔の姿を美しくしている。
南北朝時代の塔としては広島県の明王院五重塔(第26話)と東西双璧をなす。
1時間近く塔をあちこちから眺めていただろうか、充分堪能し三脚を片付け始めたころ、やっとだいちゃんが現れた。だいちゃんは「千尋」が神隠しから戻ってきた時と同じように、きょとんとした顔をしている。きっと違う世界からこの塔を楽しんでいたのかもしれない。そんな色々な楽しみ方や見方ができる塔だと思う。
帰りにさっきの「千年杉」のところに戻った。どれくらい大きいか、とむに前に立ってもらった。(下の写真)
630年前の五重塔と樹齢千年の大杉。
ほんのつい何時間か前、不夜の街 池袋を発ってきた僕たちにとって、この神聖で何からも汚されていない空間は、まるで異次元世界のようだ。この自然に比べると僕らが都会でやっていることは、ちっぽけで、たわいもないことばかりなのかも知れない。しかし自然は寛大だ。大きな力を秘めながらも、今日の僕らを癒してくれた。
あと、ひと月、ふた月も経てばここも深い雪に埋もれ、人々を拒絶してしまうんだろう。
しばし、大きな力に包まれ、何か忘れていたものに気づかされるような体験だった。
羽黒山で霊気をいっぱい吸い込みエネルギーをフルチャージした僕たちは、次の目的地「酒田市」に向かった。車で1時間もかからないはずだ。酒田市には「第22話」で少し紹介した土門拳記念館がある。
「なぁ とむ、次は土門拳記念館に行くぞ!」
「土門拳って誰ですか?格闘技家ですか?」
「まあ、そんなところや、行けば分かるよ。」
確かに土門拳という名前はとても強そうな名前だ。写真をやらない「とむ」が格闘技家と思うのも無理はない。
土門拳氏は格闘技家ではなく写真家である。
日本におけるリアリズム写真を確立した写真界の巨匠である。
ライフワークであった「古寺巡礼」、そして「室生寺」「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」「文楽」「風貌」「日本の陶磁」など数多くの作品を残し、いずれも不朽の名作群として名高い。
国宝倶楽部のメンバーで行った、中尊寺金色堂、日光東照宮、(そして先程見たばかりの)羽黒山五重塔の国宝の数々も土門拳氏の「古寺巡礼」の中に収められている。
土門拳氏の芸術は、日本の美、日本人の心を写しきったところにあるのだ。
1974年酒田市名誉市民第1号となった土門拳氏は、自分の全作品を郷里の酒田市に贈りたいといわれた。
酒田市はそれにこたえ、1983年土門拳記念館を完成した。
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| 土門拳記念館 |
市街地の南西に位置する飯森山公園の中に建つ記念館は、美しい自然林と丘を背景にして前面に池を配し、広大な水田地帯を視野に収めながら、鳥海山を眺望する絶好の位置に据えられている。
設計は谷口建築研究所で担当されたが、谷口吉生氏はこの美しい自然環境と建物をいかにして調和させるかを最も重視し、その調和する響きの中に土門拳氏の芸術空間をより高純度に醸成することを主題とされたそうだ。
入館し、廊下から展示室に入った正面の壁に掲げられる土門拳氏のことばに、いきなり胸をうたれる。
写真の立場 土門 拳
実物がそこにあるから、実物をもう何度も見ているから、写真はいらないと云われる写真では、情けない。
実物がそこにあっても、実物を何度見ていても、実物以上に実物であり、何度見た以上に見せてくれる写真が、本当の写真というものである。
写真は肉眼を越える。
それは写真家個人の感覚とか、教養とかにかかわらない機械(メカニズム)というもっと絶対的な、非情なものにかかわる。時に本質的なものをえぐり、時に鎖末的なものにかかずらおうとも、機械そのものとしては、無差別、平等なはたらきにすぎない。
そこがおもしろいのである。
写真家は、機械のうしろに、小さく小さくなっている。写真家が小さく小さくなって、ついにゼロになってしまったとき、すばらしい写真が撮れているようだ。
しかしゼロになることは、なかなかむずかしい。せいぜい、シャッターを切るとき、あっちの方を眺めるぐらいなものだ。
写真の中でも、ねらった通りにピッタリ撮れた写真は、一番つまらない。「なんて間がいいんでしょう」という写真になる。
そこがむずかしいのである。
この記念館には土門拳氏の全作品70,000点を収蔵し、その保存をはかりながら順次公開をしている。今は「古寺巡礼 秋」と題して62点の作品を展示している。
法隆寺を始めとし、法起寺、唐招提寺、広隆寺、中宮寺、薬師寺、室生寺などの堂塔や仏像、風景などが写されている。
「写真は肉眼を越える。」
土門拳氏のこの表現を、素晴らしい思想だと僕は思う。
当然ながら僕にはこんな写真は撮れないけど、写真が好きなぶん、写真を見る目は多少持っているつもりだ。早く足もとくらいには及びたいものだと思いながら拝見させていただいた。
土門拳氏の写真のように優れた写真は見る者に語りかけてくる。
土門氏が語りかけるのではなく、被写体が、である。
写真から語りかけてられる言葉は、見る者の心の置き方や想像力によってそのたびに異なり、変わる。心が晴れやかな時は明るく、悲しい時は優しく語りかける。
暗黙の中だけど、何かコミュニケーションが成立するのだ。
そんな気がする。
そこまでは何となく分かるのだけど、それがなぜなのかが分からない。
動く映像のように時間軸持たない一瞬の点を写したものに・・・、
台詞もナレーションもないものなのに・・・、
なぜ氏の写真は肉眼を越えることができるのだろう?
??????、う〜ん、わからん!
まあ、いいや。僕は写真家ではなく、サラリーマンなんだから。
写真を見終えて時計を見ると、もう4時になろうとしている。
このあと日本海に沈む夕陽を見に行くことになっている。
東北の日没は早く、4時半には沈んでしまう。(ちゃんと昨日インターネットで調べたのだ。)もう、そんなに時間はない。僕らは急ぎ足で車に戻り、海への道を探した。
ここ飯森山公園は酒田市街から最上川をはさんですぐ南側にあり、海もすぐそばにある。僕らは、ちょうど最上川が日本海に流れ込む位置にいるのだ。
その昔、松尾芭蕉がここで詠んだ句がある。
暑き日を 海に入れたり 最上川 (芭蕉)
(あつきひを うみにいれたり もがみがわ)
芭蕉が詠ったこの最上川と日本海を、同じこの酒田で見ることができるのだ。しかも今日の酒田は快晴で雲ひとつない。きっと素晴らしい夕陽だろう。
最上川が日本海に流れ込む河口から南の海岸線は、砂浜と防砂のための松林が長く、ずっと続く。しかし車道もこの防砂丘の内側を平行して走っている。
「あの松林を抜ける道を探せば海に出れるぞ!」
ところが、どこまで行っても松林を突っ切る道がないのだ。時計は4時20分をまわった。松林が小高いので夕陽は道路からは見えない。
「あせれ!だいちゃん、もう時間がないゾ!!」
運転していた だいちゃんに僕は叫んだ。
ナビをしてくれてた とむが、
「ここが海に一番近い位置です。ここで降りましょうよ!」
と言って車を止めた瞬間、僕ととむは砂地の松林を駆け登った。後からあきらくんとだいちゃんも車を乗り捨てて追いかけてくる。林を抜けると目の前に、正に陽が沈もうとする雄大な日本海が広がった。
「すごいっ!!!」
僕らは海辺に向かって再び駆けだした。
砂丘といっていいほどの広い砂浜だ。靴の中に砂が入ってくる。
夕陽の砂浜を走るなんて、完全に「森田健作モード」である。
夕陽を正面に、だいちゃんはなにやら携帯電話をいじくっている。この感動的な場面を、大事な人にメールでも打とうというのか。とむは冷たいであろう、海水に手を浸している。僕とあきらくんはカメラを構えて、その瞬間を待った。
空気は冷たく、僕ら以外誰もいない海岸はもう冬の様相だ。稔り多き秋を終え、季節は閉ざされる冬にむかって変わろうとしている。
沈む夕陽を見ていると今日一日の情景が蘇ってくる。
羽黒山、五重塔、千年杉、土門拳の芸術・・・、そしてこの素晴らしい夕陽。今日は感動の連続だった。こんな素敵な一日を過ごせたことに感謝し、またこの一日がこれで終わってしまうのが、何か惜しい気もする。
そこで一句。
行く秋の 名残陽落とす 日本海
(ゆくあきの なごりびおとす にほんかい)
どうだ!金賞ものだね!
第49話 芭蕉を追って
ふぁ〜〜〜ぁあ!
よく寝た。
窓の外は暗い。時計を見るとまだ午前6時だ。
しかし、きのうの晩ご飯はおいしかった。
ホテルのフロントのお姉さんに「酒田でいちばんおいしい(そんでもって安い)店はどこですか?」と聞いて行ったお店だ。
酒田市の相生町にある「さわぐち」は、白壁がおしゃれな割烹だ。
そこで、酒田の名物である「どんがら汁」から始まり、たくさんの日本海の幸をいただいた。「どんがら汁」の「どんがら」とは胴殻(どう・から)が転じたものだそうだ。鱈(たら)のおいしい冬場には、胴も殻(“あら”のこと)もまるごと一本入れて汁にするらしい。それにネギと岩海苔をのせて食べるのが正調だそうだ。白みそ仕立てで何とも食べたことのない美味しさだ。鱈がこんなにおいしい魚だとは知らなかった。特にしゃぶしゃぶにして食べた白子は絶品だった。
お造りはアワビにサザエ、鯛、甘エビ、スルメイカにハマチみたいな魚と正体不明の貝。焼き魚はカレイにメバルなどなど活きのいい魚が満載だ。お酒は国宝倶楽部規約通り「地酒 菊勇」。
なんておいしいんだろう、なんて幸せなんだろう。
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| 酒田名物 どんがら汁 |
地酒 「菊勇 蔵一番」 |
ところで、このハマチみたいな魚はなんだろうと思い、おかみさんに聞いてみた。
「この魚、ハマチだよね。」
「いえ、ワラサです。」
‥‥‥‥?何だよ?ワラサって?サワラ(鰆)なら知ってるけどワラサなんていう魚、聞いたことないぞ。
「でもハマチみたいですよ!」
「ワラサはブリになる前の魚です。」
気丈そうなおかみさんは言いきった。
まてよ、ブリの手前はハマチじゃないのかい?
ちょっと不思議に思ったのであとで調べてみた。
わかし→いなだ→わらさ→ぶり(関東地方)
つばす→はまち→めじろ→ぶり(関西地方)
所変われば呼び名も変わるのだ。ちなみにワラサは稚鰤と書く。文字通り幼い鰤(ぶり)である。ひとつ賢くなった。
ベッドの中で、そんなことを思い出していると窓の外が白んできた。カーテンを開けると、ありがたいことに今日も快晴だ。
そうだ!朝日を見に行こう。
昨日、夕陽があんなに素晴らしかったんだ、朝日もきっといいはずだ!
僕はゆかた姿のままカメラを鷲づかみにし、ホテルの最上階からこっそり非常階段に出て屋上に上がった。ペントハウスは倉庫代わりに使っていて備品がいっぱい置いてある。ホテルの人に見つかったらきっと怒られる、お客は来てはいけないところだと思う。
酒田の朝は寒く、息が白む。恐らく氷点に近い気温だろう。こんなに寒いのなら何か着てくるんだった。
東に向くと北寄りに雪をかぶった鳥海山の頂上付近が輝きだす。やがて陽が昇りはじめると、街の民家の屋根が光りはじめた。
今日も、素晴らしい一日になるだろう! ・・・ふぁっくしょん!!
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今日の国宝倶楽部の活動には「国宝」はないんです。(すいません。)
芭蕉が下った最上峡に行き、お昼には立石寺に行こうと思う。立石寺は芭蕉が「閑かさや 岩にしみ入る‥‥」と詠んだ地だ。ちょうど芭蕉が移動した逆コースをとることになる。
国道47号線を最上川に沿って上流に向かう。せっかくの好天も、山あいに入ってくると霧が滝のように山から降ってくる。
「最上川芭蕉ライン下り」は戸沢村の古口というところにある。
僕らは、8時50分にそこに着いたんだけど、9時には1番船が出るという。何か、わけの分からないうちに係員の人の急かされて、乗船手続きをし船に乗り込んだ。4人の乗船代と車を下船場に運んでもらうのとで1万円ちょっと払った。こりゃ、ちょっといい商売だね。
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| 船の中はこんな感じ |
船長は加藤誠一さん、ガイドさんは太田春美ちゃん、早朝のせいか普段は40〜50人が乗るという船も、10人ほどしか客はいない。これも早起きのラッキーなんだろう、僕らはゆっくりと座ることができた。船も夏場は屋根の部分がとれて、もっと開放的になるらしい。ガイドの春美ちゃんは山形弁のテンポもよく、案内の合間に僕らを笑わせてくれる。
最上川は陸奥(みちのく)より出でて、山形を水上とす。
碁点・隼(ごてん・はやぶさ)などいふ恐ろしき難所あり。
板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。
左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。
これに稲積みたるや、稲船といふならし。
白糸の滝は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨み立つ。
水みなぎつて船危うし。
五月雨を あつめて早し 最上川
芭蕉の「奥の細道」の一節である。芭蕉は元禄2年(1689)の7月(新暦)に、この地に訪れている。その時は夏の真っ盛り、もともと急流の最上川が、折からの五月雨をあつめて増水し、すざまじい勢いで流れ下っていた。その情景を船で詠んだものである。「碁点」というのは碁石を点在させたように、川のあちこちに岩がある意味、「隼」というのは鳥の隼の高速飛行のように水勢が早いところから名付けられた、ともに最上川の三大難所に数えられる。
が、今は晩秋。川の流れは穏やかに、霧の合間からは最上峡のみごとな紅葉が見え隠れする。航海の安全を見守る「安全32体観音」、義経の家臣・常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)をまつる「仙人堂」、そして「白糸の滝」。見所はたくさんある。
♪♪ヨーイサのまーがしょ
エーンャこらまーがせ
酒田さ行ぐさげ
達者(まめ)でろチャ
ヨイトコーラさのえ
はやり風邪など引がねよに♪♪
ガイドの春美ちゃんが最上川舟唄を聞かせてくれる。
「今年は紅葉が遅ぐて、よがったな〜。」
こんな広面積の紅葉は未だかってみたことがない。素晴らしいの一言だ!
そこでもう一句、
芭蕉追い 下る最上に 山紅
(ばしょうおい くだるもがみに やまくれない)
う〜〜ん。これは「佳作」ってとこか?
第50話 幻の国宝
「よく働く、可愛いお嬢さんですね。」
僕は店の向かいの駐車場で働く可愛い娘さんを指しながら、その娘さんとそっくりな顔をしたおかみさんに話しかけた。
ここは立石寺の登山口「まいどや食堂」の店の前である。「まいどや」という関西っぽい屋号に何か親しみもわく。「だいちゃん」と「とむ」はさっき中でそばを食ったばかりなのに、今度はこんにゃくを串に刺して煮たやつをほおばっている。「玉こんにゃく」というこちらの名物らしい。
「お嬢さん、お名前なんていうんですか?」
「“ひとみ”っていいます。」
おかみさんは顔をほころばせ答えてくれる。
「へぇ〜、いい名前ですね。どんな字を書くんですか?」
「ひとみは目に童(わらべ)の瞳です。」
「いい漢字ですよね。」
僕は自分でもこのへんの質問が、なんてうまいんだろうと思う。
「あの娘が生まれるまでは人名漢字に“瞳”っていう漢字がなかったのですが、生まれるちょっと前に改正になったんですよ。」
「じゃあ、日本最初の“瞳ちゃん”かもしれませんね。」
横で、だいちゃんが
「そんなら、キャッツアイの瞳ちゃんはどうなるんだろう?」
と言いたげな顔をして、今度は試食の饅頭をほおばっている。(よく食うね!)
立石寺は思っていたよりずっと観光ナイズされたところだ。車で登山口に来るまでに、やたら「駐車場はこちら」とおばさんやおばあちゃん達が誘い込もうとする。食事をするかお土産を買うと駐車場代がタダになるという、観光地によくあるパターンだ。
そんな中で、ひときわ若い女の娘が誘導していたので、僕らは躊躇なくこの「まいどや食堂」さんに車を入れた。
瞳ちゃんは働き者だ。車を誘導するかたわら、観光案内までしてくれる。
「このお寺、どこが見所なんですか?」
「あの上に見える五大堂からの景色は最高ですし、この石段をあがったところにある根本中堂は国宝ですョ!」
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| 下から見た五大堂 |
「へぇ〜、あれが五大堂か。あんな高いところまで登るの・・・。それに国宝まであるの・・・。」
「え〜っ!?国宝? (゚0゚; 」
「な、何が国宝なんですか?」
「建物全部が国宝ですョ。」
「本当ですか?」
「ハイ!」
瞳ちゃんは涼しく言う。
しかし立石寺に国宝があるなんて、聞いたことがない。国宝倶楽部員の「だいちゃん」や「とむ」も「部長!本当ですか?」と詰め寄ってくる。
僕は「断じて無い!」と国宝倶楽部・部長の威信にかけて言い切った。
瞳ちゃん、何か勘違いしてるよ。
僕はちょっと不安になったので店のレジの所にいたご主人にも聞いてみた。
「このお寺、国宝があるんですか?」
「根本中堂が国宝ちゃ。」
僕は完全に狐につままれた。
まあ、いい。行ってみれば分かることだ。僕は瞳ちゃんにお礼を言い、だいちゃんは記念写真まで一緒に撮らしてもらった。
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| だいちゃんと瞳ちゃん |
だいちゃんは「やしろちゃん」というすてきな彼女がいるので、ちゃんと瞳ちゃんとの距離を20センチとっている。食い物には見境いがないが、こんなところにはちゃんと見境いがある。これがだいちゃんの偉いところだ。
「まいどや食堂」さんの前の長い石段をあがると正面に日枝神社、右手に進めば根本中堂(こんぽんちゅうどう)がある。
なるほど、堂の向拝には「国宝 根本中堂」と古い板が付いている。確かに古くて重厚感ある造りだ。本当に国宝なんだろうか?
こういうことは素人さんに聞くより、お寺の人に聞いた方が早いと思い、香炉の所にいたお坊さんに聞いてみた。
「このお堂は国宝なんですか?」
お坊さんはすぐに答えてくれた。
「いえ、重要文化財です。でも昔は国宝でした。」
ここまで聞いて僕はピンときた。昭和25年の「文化財保護法」だ!
謎は解けたのだ。昭和25年の文化財保護法の施行により、それまで国宝とされていた7,000件はいったん重要文化財になってしまったのだ。詳しくは、第45話 国宝・古建築講座の「国宝の定義と歴史」の部分を参照してください。
あきらくんが駆け寄ってきた。「部長、あちらの看板には重要文化財と書いてあります。」
僕らがいつも国宝や重文の前で見かける文化庁の茶色い金属製の看板のことだ。
つまり、根本中堂は正式には国宝ではなく重要文化財なのである。
しかし、国宝倶楽部部長として意見を言わせていただけるならば、これはいただけません。改めるべきだと考えます。先程の「まいどや食堂」さんの案内チラシにも国宝とうたってあるし、こうやって建物にまで国宝の表示がある。僕のようにちょっと国宝を勉強している人間には、すぐさま認識が違うことが理解できても、普通の人には誤解を与えてしまうのだ。現に若い瞳ちゃんは心の底から「国宝」だと信じ切って僕らに説明してくれたのだ。瞳ちゃんはそんな瞳をしていた。(なんちゃって。)
昔は国宝であったかもしれないが、今はそうではないのだから、是非お寺さんが中心となって、そのあたりの表現を改めてほしいものだと思う。
国宝は幻に終わってしまった。
根本中堂は、延文元年(1356)初代山形城主・斯波兼頼(しばかねより)が再建した入母屋造・五間四面の建物で、ブナ材の建築物としては日本最古といわれている。この立石寺は一山の総称であり、「立石寺」という名の堂宇はなく、この根本中堂が立石寺の本堂となっている。
参道を西に戻ると路傍に芭蕉の句碑がある。
山形領に立石寺(りふしゃくじ)という山寺あり。
慈覚大師の開基にて、殊(こと)に清閑の地なり。
一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかりなり。
日いまだ暮れず。
麓(ふもと)の坊に宿借り置きて、山上の堂に登る。
岩を巌(いわお)を重ねて山とし、松柏年旧(しょうはくとしふ)り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物音聞こえず。
岸を巡り岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心澄みゆくのみおぼゆ。
閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声
(しづかさや いはにしみいる せみのこえ)
芭蕉は奥の細道の中でこの寺のことを「りゅうしゃくじ」と呼んでいる。そういえば古都愛好家の僕の奥さんも、僕が「今度りっしゃくじに行くよ。」というと「りゅうしゃくじよ!」と改めた。芭蕉の「奥の細道」を読んでいる人には「りゅうしゃくじ」なのだ。拝観の切符を切る係員の女性にそのことを聞いてみたが、そのいきさつをまったく知らず、ちょっと寂しい思いがした。いずれにしても現在はりっしゃくじと呼ぶのが正解である。
芭蕉が訪れたときは閑かで寂しく、誰も拝観者がいなかったのだろう。芭蕉がこの17文字の不朽の名作を残したが故に、この寺は観光地として栄え、狭い石段は登る参拝者と下る参拝者で、すれ違うのも苦労するほど大変な人出なのである。この寺にとって芭蕉は偉大なのだ。
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| 蝉塚 |
仁王門 |
蝉塚を見、仁王門をくぐる頃には、11月だというのに、セーターを脱がなければならないほど汗がふきだす。だいちゃんはTシャツ一枚になっている。しかし、長い石段だ。年をとったらもう来られないかもしれない。
五大堂から見る景観は山寺随一といわれるだけあって素晴らしい。山々が紅葉で鮮やかに染まっている。
芭蕉のように蝉の声を聞きながら見るのも良いと思うが、こうやって紅葉を楽しむのも良いだろう。
国宝はなかったけど、いい寺に参ることができた。
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