第11章 古都・京都
第56話 国宝・古建築講座
その3 〜平安京の遺構〜
延暦13年(794)に遷都されてから明治2年(1869)、東京に遷都されるまでの約1,100年の間、平安京は日本国家の中心であった。唐の長安を模倣してつくられたこの新京は、当時の最新技術をもってつくりあげられた理想都市で、その規模は東西4.57km、南北5.31km。面積は長安の4分の1程度であったが、都としての機能は決して引けをとるものではなかった。
平安京の表玄関は都の南側、九条大路に面して建つ羅城門(らじょうもん)であった。堀に架けられた唐橋を渡って羅城門をくぐると、道幅84mの大通りがまっすぐ北にのび、その先に優麗な大内裏(だいだいり)正門、朱雀門(すざくもん)を遙か彼方に見ることができた。これが平安京のメインストリート、朱雀大路である。この通りの左右には築地(ついじ:泥で塗り固め屋根を葺いた塀)が築かれ、街の喧噪を遮断していた。路傍には柳の木が等間隔に植えられ、新緑の頃ともなれば、柔らかな風にゆらゆらと枝葉をゆだねていた。
この堂々たる羅城門をはさんで、ちょうど両翼を広げたように建てられたのが平安京の2大寺院、東寺と西寺である。
両寺は左右対称の伽藍配置をとり、東西255m、南北515mの広大な敷地に、金堂、講堂、食堂(じきどう)、五重塔などの諸堂が立ち並んでいた。
平安京
平安京の寺は、この2寺しか存在しない。
大寺院が立ち並ぶ現在の京都の町から想像することは容易ではないが、遷都当初、平安京内の寺院の建立は東寺と西寺以外に許可されなかった。平安京は都市計画の中で奈良の仏教寺院の進出をはっきりと拒絶した。それは力を持った奈良仏教の政治介入を粛正(しゅくせい)するものだった。
そしてこの2寺をもって国を鎮定し守護するという重役を担っていたのだ。都の東方は東寺が、西方は西寺が鎮護し国家安泰を祈ったのである。
以来、1200余年の時を経た今日、平安京の偉容なる姿を偲ばせるものはない。
都ではたえず権力の争奪戦が繰り広げられ、そのたびに土足の軍兵が都を踏み荒らし、兵火はいくども都を焦土と化した。それは国家の中心であった都の宿命かもしれない。新勢力が台頭するたびに権力の新陳代謝を繰り返す帝都に、平安の遺構など残るはずもないのかもしれない。
だが、その中にあってただひとつ、平安京創建当初の姿をとどめているものがある。
それが東寺である。
平安京の表玄関だった羅城門も大内裏の大極殿も、いまはその位置を碑によってしるしているだけである。創建当時に意気揚々と未来に向かって翼を広げた輝かしい新都の雄姿は、発掘調査によってその面影を知るにとどまっている。
そして東寺とともに建てられた西寺も、今はない。西寺の寺域の大半は人家の下で永い眠りについている。新幹線は西寺の北隅をかすめ通り、東寺とほぼ同じ大きさの金堂は西寺児童公園と唐橋小学校の地の底にある。
しかし、東寺は残った。不思議にも平安京が創建された東寺の場所に、当時とほぼ変わらない伽藍配置で佇んでいる。
東寺南大門
東寺の南大門をくぐれば平安の世のタイムスリップすることができる。新都の希望という光を瓦いっぱいに受けた東寺の大伽藍がここにある。官寺としての威厳を象徴するかのような荘厳な金堂の前に佇めば、遥か悠久の昔、平安の住人が受けた驚きと同じ思いを懐(いだ)くことができるだろう。
またここには、空海が完成させた密教寺院がある。空海は10年ほど東寺に住んでいる。この地は空海の歩いた地でもある。
南北朝時代に足利尊氏が本陣をおいたのも東寺の境内だった。後醍醐天皇をはじめ、楠木正成、新田義貞も東寺を訪れた。織田信長も豊臣秀吉も本陣をおいている。江戸時代には国学者の本居宣長(もとおりのりなが)も訪れている。
さらにいえば、現在の東寺とほぼ同じ姿を、都に住んでいた、あるいは都を訪れた歴史上の人物のほとんどが見ていただろうということである。そこには西行法師も平清盛や源頼朝も、徳川家康、徳川慶喜、近藤勇や坂本竜馬の姿もあっただろう。また、江戸、京都、大阪を往来する商人や旅人の姿もあっただろう。
彼らは東寺を見て何を思ったのだろうか。彼らにそれをたずねることはできないが、東寺を通してそこに生きた人たちの姿を知ることはできるかもしれない。
参考:三浦俊良氏著「東寺の謎」
第57話 教王護国寺[東寺]1 金堂
僕は、とんでもないくらい久しぶりに京都駅に降りたった。京都に住んだのは学生時代のほんの4年間だけど、今でも京都での思いでは心に深く残っているのだ。ここで多くの友達ができたし、人生の勉強も少しばかりした。僕の奥さんとも20歳の時ここでめぐり逢えた。駅の前に立つ京都タワーでビアガーデンのアルバイトをしたこともある。御池通り近くの旅館でアルバイトしていた時には、夜な夜な河原町や木屋町を練り歩いた。(学生だから先斗町や祇園には行けなかったんだ。)
そんな思い出のある京都なのに、京都駅は昔の面影がまったく残っていない。
1,100年の都、京都の表玄関である京都駅は、120周年を迎えた平成9年に新しく生まれ変わってしまった。
初代京都駅は明治10年に赤煉瓦造りの2階建てで、文明開化のシンボルとして市民に愛されたそうだ。大正3年ルネッサンス様式の木曽檜造り駅舎に改築されたが、昭和25年に焼失してしまい、2年後の昭和27年に建てられた3代目駅舎を経て平成9年に完成した今の京都駅が4代目である。
京都駅ビルの設計は、建築家・原廣司氏によるもので、斬新なデザインの建物になっているようだ。今のところ駅ビルとしては全国一大きなものだそうだ。残念ながら今日は駅を見るのが目的ではなく、近鉄電車に乗り継ぐだけの間を歩いたが、やっぱり昔の風景が無くなってしまっているのはちょっと寂しい思いがする。
京都よ、変わらないでくれ!
と言い切るのは、僕のわがままだろうと思う。
近鉄電車を京都から一駅、「東寺駅」で降り九条通添いを歩いて5分くらいで東寺に着く。
東寺は正式には教王護国寺(きょうおうごこくじ)と呼ぶ。創建の時期は明らかではないが、延暦13年(794)の平安遷都とともに、王城鎮護の目的で、西寺に対して羅城門の東に建てられたものと考えられる。嵯峨天皇はこの寺を密教の根本道場として空海に賜り、真言密教の教学に専念させた。これが真言宗としての東寺の始まりである。
南大門を入ると真正面に金堂が立つ。
平安京の都市計画の中で創建された金堂は、文明18年(1486)の土一揆(つちいっき)で焼失してしまう。目の前に立つ現在の金堂は豊臣秀頼の時代の慶長4年(1599)に再建が着手され、4年後の慶長8年(1603)に完成した。この再建においては、創建時の礎石(そせき)をそのまま動かさずに用いたため、建物の規模は平安京のものとほぼ同じである。
東寺金堂 写真はクリックすると大きくなります。
金堂の正面に立つと、その壮大さに威圧される。金堂は東寺の建物の中でも最も大きく、奈良時代に建てられた東大寺大仏殿の建築様式を色濃く伝える荘厳な建築物だ。桁行7間、梁間5間、屋根は裳階付きの2重の屋根で入母屋造・本瓦葺きである。
裳階の正面中央の間のみは一段切り上げて、壁面に両開きの扉を入れた窓を設けている。この小窓が開扉された時には本尊の光背をのぞむことができるらしい。このような形式は中世にしばしば使われ、東大寺大仏殿、平等院鳳凰堂、法界寺(ほうかいじ)阿弥陀堂などでも見られる。建物の周囲は壁がなく、扉と連子窓が交互に並んでいる。
庇(ひさし)に近づき軒裏を見上げると、その豪快な造りに驚かされる。前にせり出す6段に重ねられた挿肘木(さしひじき)、柱を横につなぐ3段の通肘木(とおしひじき)、これらはまさに大仏様の定石を守った形式だが、大仏様独自の木鼻(きばな)は見られず、代わって禅宗様に由来する拳鼻が近世に再建されたことを物語る。
金堂は内部拝観もさせていただける。内部は広大な空間である。天井までの高さが12mもあり、長い柱によって支えられている。
入側柱の内部に、ほぼ間口いっぱいの幅で、奥行きは2間分の大きな須弥壇を設け、そこに薬師三尊を安置する。
薬師三尊像は国の重要文化財に指定されており、中尊の薬師如来坐像は東寺の本尊である。
薬師如来の信仰がはじまったのは7世紀終わり頃、天武天皇が皇后の病気平癒を祈り発願した薬師寺の薬師三尊像が信仰の初期のものとされている。8世紀になると光明皇后が聖武天皇の病気平癒をを祈り、新薬師寺を建立し、七仏薬師如来像を安置した。このころの仏教は国家の平安を護り、王権の安泰を願う鎮護国家のための役割を担っていた。そのため仏教は教理を学ぶのではなく、呪術として捉えられ、法の力によって病を除き、国家を繁栄に導いてほしい、と。
そのような時代背景の中で、多くの寺院の本尊に薬師如来が抜擢されていった。ここ東寺の本尊に薬師如来が選ばれたのも、ごく自然のなりゆきからであった。
本尊の左右には脇侍の日光菩薩、月光(がっこう)菩薩を配している。この両菩薩は休むことなく昼も夜も世の中を照らし続ける仏様である。大きさは中尊の薬師如来坐像が丈六(じょうろく)、日光菩薩、月光菩薩が半丈六(はんじょうろく)といわれるものである。丈六とは仏像の基本となる大きさで1丈6尺、つまり4.8mほどになる。これは釈迦の身長が1丈6尺あったという信仰に基づくものである。しかしこの本尊は座っているので実際には2.88mしかない。立ち上がれば身長4.8mになるそうだ。
また、台座を取り巻いている高さ1mほどの12体の十二神将像は薬師如来が立てた12の大願を守る神として存在している。
三尊とも金堂と同様、焼失後の1603年に彫刻の巨匠・運慶の流れをくむ康正法印(こうせいほういん)らの手によって完成した。
第58話 教王護国寺[東寺]2 五重塔
金堂、講堂、食堂(じきどう)と直線的に並ぶ東寺の伽藍の平面を少しそれて、境内の東南隅に五重塔が立つ。
何度この五重塔を新幹線の中から遠目に見てきたことだろう。京都のシンボルであるこの五重塔は、そばで見ると更に存在感が大きい。
東寺五重塔はあまりにも巨大である。
もし僕がアメリカ人だったら間違いなく「Oh! great!」と表現するんだろう。
総高54.8m、初重のの屋根の1辺は9.5m。高さ・大きさともに我が国に現存す多重塔の中で最大である。
この五重塔は少し前までは京都市街地における高さの基準だったという。京都の歴史的景観を守るために、五重塔より高い建物を建てることは遠慮されていた。しかし今では、京都ホテルが60m、京都駅ビルが59.5mと五重塔を上回ってしまった。しかし、京都の街がいかに近代化されようとも、この塔は京都のランドマークタワーなのである。
しかし、
この五重塔の歴史は炎上の歴史だった。
五重塔は東寺の諸堂の中でも最も完成が遅れ、元慶元年(877)頃に落慶したといわれている。
完成から数年後、真新しい塔は落雷をうけ損傷してしまう。修理したのは43年も後のことである。
だが、天喜(てんぎ)3年(1055)またも落雷をうける。その直後に火の手があがり、初代五重塔はわずか178年で焼失してしまった。
2代目の五重塔は、白河上皇が院政を始めた応徳3年(1086)に再建される。しかし、鎌倉時代中期の文永7年(1270)にまたもや焼失する。史料には「累火にあらず、雷火にあらず、はなはな思いがたき」と原因不明の出火であると書き記されている。184年の命だった。
3代目の五重塔は永仁元年(1293)に再建された。落慶供養は完成より41年後、後醍醐天皇によって盛大に執りおこなわれた。法要には後醍醐天皇ほか、足利尊氏、新田義貞、楠木正成らが出席したという。この塔も永禄6年(1563)雷火にかかって焼失してしまう。270年の寿命だった。
翌年から再建費用を集めるための勧進(かんじん)が始められたが、順調には進まなかった。豊臣秀吉の母、大政所(おおまんどころ)を壇主とし、木食上人(もくじきしょうにん)が中心となって再建にあたった。そして焼失より30年目の文禄2年(1593)に4代目五重塔が完成する。しかし、完成から2年目、早くも落雷を受け損傷、42年後にはまたも落雷による火災で焼失してしまう。最も短命な塔だった。
そして現在の五重塔が5代目となる。寛永12年(1644)に徳川家光が大旦那(だいだんな)となって再建したもので、すでに350年以上が経っている。歴代の五重塔の中で最も長寿の塔である。
棟梁をつとめたのは近江蒲生郡の大工組組頭・高木作右衛門、寛永18年(1641)から3年余りの歳月をかけてつくられた。
高木作右衛門は江戸当時の建築に見られる装飾を一切用いず、復古的な建築様式を踏襲し、平安創建の時とほぼかわらない五重塔をつくりあげた。
初重は丸柱を二重の地長押(じなげし)・腰長押・内法長押(うちのりなげし)・頭貫・台輪でつなぎ、柱上に尾垂木つきの三手先組物を置いて、中備(なかぞなえ)は間斗束(けんとづか)を入れる。柱間は中央間が幣軸(へいじく)構えの板扉、両脇間が連子窓である。
ふっと軒下に目をやると面白いものを見つけた。尾垂木の上に「邪鬼(じゃき)」の彫刻がある。初重の四隅に、ちょうど尾垂木の上で軒を支えるような格好で置かれている。たしか法隆寺の五重塔にもこのような邪鬼が屋根を支えていたと思う。
邪鬼とは仏教では押さえ込まれる存在としてあらわされる。よく四天王が踏みつけているのも邪鬼である。身近な邪鬼では天邪鬼(あまのじゃく)が有名である。人に反発する、反対のことをする、といった意味で使われる。大工たちは邪鬼のこの性格を利用して、屋根を支える束の代わりにこれを置いた。反発することにかけてはナンバーワンの邪鬼の力を利用して屋根を支えようとしたのである。邪鬼達は必死の形相で軒を支えている。装飾のないこの塔において唯一ユーモラスな部分である。
五重塔の相輪の高さはそれだけ約15mあり、3本の木によって継がれた心柱が相輪を支えている。心柱は初層の下にある礎石に据えられている。この初層の内陣は、簡素な外観からは想像できない、華やいだ空間となっているらしい。空海がつくった密教の世界がここにあるという。
塔の内部は一般公開されていないが、正月の三が日は特別拝観として扉が開かれるらしい。是非一度見てみたいものだ。
第59話 教王護国寺[東寺]3 大師堂・蓮花門
東寺には空海の思い出が残されている。空海の住まいは大師堂(西院御影堂:さいいんみえいどう)として今に伝わり、空海が東寺を去る時に最後に出た門は、蓮花門(れんげもん)として残されている。ともに国宝となっている。
【大師堂(西院御影堂)】
大師堂(だいしどう)は伽藍(がらん)の西北の、塀で囲まれた一郭に建つ。
東寺には真言密教の根本道場、そして民衆に広く流布(るふ)した大師信仰の中心寺という2つの性格がある。前者を象徴するのが講堂であり、後者を象徴するのがこの大師堂である。
東寺において、空海の住居はこの西院であった。空海の死後、西院に空海の御影がまつられ、御影堂とも大師堂ともいわれるようになった。空海はここに10年あまり住む。空海が高野山奥の院に入定(にゅうじょう)してからは、空海が念持仏(ねんじぶつ)としていた不動明王がこの住まいをまもっていた。このことから不動堂ともいわれていた。
康暦(こうりゃく)元年(1379)に火災で焼失するが、翌年には不動堂(後堂)が再建され、さらに10年後の明徳元年(1390)には北側に弘法大師を拝するための前堂と中門が増築され、不動堂、中門、前堂と合わせる形で、1棟の御影堂が完成する。現在の建物はこのときに建てられたもので、西院御影堂といわれるのはその歴史からついた名前といえる。
大師堂は増築による完成形であるがゆえ、構造が非常に複雑である。屋根の形も見る位置によって異なり、別の建物を見ているかのような錯覚にも陥る。建物の平面も複雑である。南側は5間4面の後堂でその北側に孫庇(まごひさし)がついた部分があり、その北に間口5間、奥行き3間の前堂が接続され、更に前堂の西に細長い中門がついている。檜皮葺の屋根形式も、これに対応して後堂が入母屋造の東西棟、前堂の屋根も入母屋造だが南北棟となる。孫庇部分は西側には縋破風(すがるはふ)が取り付いているが、東側では前堂の屋根との取り合いのためこれが取り除かれている。いったいどこが建物の正面なのかがよく分からない構造だ。
大師堂 南西面
(後堂)大師堂 南面
(後堂)大師堂 北面
(前堂)大師堂 西面
(後堂)南面格子戸・高欄
東寺の中にあって御影堂を取り囲む空気は、なぜか一種違ったものを持っている。それは恐らく空海がここに住み、数々の書状や文章を書きしたためた場所だからであろう。この住居が持つ落ち着きや優しさ・静寂というものは、塀をひとつ隔てた伽藍が並ぶ地帯とは明らかに異なるのである。檜皮で葺かれた屋根は、柔らかな曲線をもって全体に低い入母屋造の建物を覆い、建具には寝殿造りの邸宅に見られる蔀戸(しとみど)や格子戸が使われ、縁には高欄を廻らしている。
御影堂の正面の格子戸は一年中開けはなされ、自由に前堂に入ることができる。観光客に混じって近隣の人たちが座り、手を合わす姿は生活の中に根ざした信仰の風景だ。空海の人柄がこのような形となってあらわれているのかもしれない。
【蓮花門】
大師堂の北西にある「西門」という通用門からいったん東寺の外へ出て、南へ100mあまり歩いたところに「蓮花門」が建つ。境内からこの門を見ることはできないようだ。東寺には大きな門が6つある。今日、入ってきた九条通に面する中央に「南大門」、境内の北側に南大門と対称な位置にある「北大門」、それからずっと北にある「北総門」、東には大宮通に面して北側に「慶賀門」と中央に「東大門」がある。そして「蓮花門」は西側に東大門と対称に位置にある。蓮花門のみが国宝の指定を受けており、あとの5門はすべて重要文化財である。
蓮花門はその位置からするなら、本来「西大門」という呼び名が正しいはずなのに、この門だけが愛らしい名前で呼ばれているのだ。
天長9年(832)空海59歳の年、高野山の金堂が完成する。体の不調もあった空海は東寺を弟子の真雅に託し、高野山にて隠棲(いんせい)するために旅立った。空海の心境はいかばかりだったのか、このときのことは何も残されていない。
東寺に伝わる御詠歌である。
身は高野 心は東寺におさめおく、
大師のちかいあらたなりけり。
空海がまさに門を出ようとしたとき伝説は始まった。
空海が自らの念持仏として西院にまつっていた不動明王が見送りにきたのだ。不動明王の目からは、いまにも涙がこぼれ落ちそうであった。眉間にしわを寄せ、歯をくいしばるその顔は、苦しいほどに空海との別れを惜しんでいるのである。空海の足下には蓮の花が咲き、歩いていった足跡にも花が咲いていた、という。
以来、この門は蓮花門といわれている。永く東寺に伝わる伝説である。
現在の門は建久2年(1191)文覚上人(もんがくしょうにん)によって再建されたと考えられている。三間一戸(さんげんいっこ)の八脚門(やつあしもん)で屋根は本瓦葺きである。
妻飾りは二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょうかえるまた)で、板蟇股の繰形(くりがた)がのびやかである。懸魚(げぎょ)は魚尾形(ぎょびがた)で柱の頂部には粽(ちまき)がつくなど外観は創建当時の様式を踏襲して、簡素で力強い造形だが、内部には格子型の組入天井(くみいれてんじょう)など新しい時代の試みも見られる。創建当時の古式を伝えるこの蓮花門と、それに連なる築地塀(ついじべい)は、平安京の都大路の景観を、1200年以上経た今日に伝える。
第60話 東寺の国宝彫刻
金堂、五重塔、大師堂、蓮花門。ほんの数時間で国宝建造物を4棟も見せていただくっていうことは恐れ多いことだと思う。しかも金堂では堂内に入らせていただき、本尊まで拝ませていただいた。ご存じの通り、僕の旅は「国宝建造物」の旅である。なぜ建造物なのかっていうと、それは僕みたいに気まぐれなヤツが、いつ何どき「ひょい」と訪れても、建造物ならそこに立ってちゃんと待っていてくれるからだ。にもかかわらず、そこに所蔵される国宝仏や国宝の数々を見せていただける確率は、残念ながらまことに低いのだ。確実性を求めるO型の僕が建造物を追いかける理由はそこにもあるのだ。
僕は宗教を知らないし、特に興味を持っているわけでもない。今の僕は国宝建造物に興味はあっても、仏像にまで思いは及んでいない。もしこの「国宝建造物の旅」を幸運にも成すことができたなら、そしてもっと年をくって仏像に興味が湧くようなら、次のステップとして国宝仏などを見るのもいいかな、という程度なのだ。(はっきり言えば、どうでもいいことだったのだ。)
ところが、どうだ!金堂のすぐ北側に建つここ講堂には、そんな悠長な感覚を吹き飛ばすまでの国宝仏がぎっしり詰まっていたのである。
僕はこの数々の仏様に驚き、感動した。
「さすが、古都・京都だ!」
東寺 講堂
講堂の薄暗い空間には、如来、菩薩、明王と三つに大きく分けられ、それぞれ5体ずつ15体が並ぶ。その仏達を取り囲むように四天王、帝釈天、梵天が6体、あわせて21体が配されている。これら諸尊は空海没後4年を経た承和6年(839)6月15日に最終的に完成し、開眼されたものである。空海が人生のすべてを注ぎ込んでつくりあげた密教空間である。
東寺講堂内部の諸尊像の配置
仏教の教えを分かりやすく絵にしたらどうなるのか。密教では、曼陀羅(まんだら)として表現する。密教に登場する諸尊を教理にしたがって絵にしたものである。曼陀羅の「マンダ」は梵語(ぼんご)で「本質」を意味する言葉で、「ラ」は「有する」という意味がある。すなわち曼陀羅とは「本質を有するもの」という意味である。
この曼陀羅を彫刻にしたらどうなるのか。講堂の21尊の仏像はこの発想から生まれた。
曼陀羅を立体化したものを羯摩曼陀羅(かつままんだら)という。空海は密教教学を駆使して、東寺講堂に日本で初めて羯摩曼陀羅を誕生させたのだ。
国宝諸尊(15像) 五大明王像
明王は、シヴァ神などインドの神々の影響を受けて生まれたもので、不動像の常相(じょうそう:顔や手などの数が人間と同じ)に対して、他の4明王像は異相(いそう:顔や手が通常より多い)である。過ちを犯した子供を親が怒りによって正しく導くのと同様、五智如来(ごちにょらい)が煩悩に惑う人々を救うために化身したといわれる。
不動明王坐像 五大明王の中心に配される。後の不動像が目をむいた怒りの形相を強調するのに比べ、この像はやや穏やかである。髪を総髪(そうはつ)にし、左耳の前に編んだ髪を長く垂らす。 降三世明王立像
(こうざんぜ
みょうおうりゅうぞう)四面・八臂(しめんはっぴ:顔が4つ、手が8本)の複雑怪奇な忿怒(ふんぬ)像。足下には大自在天とその妃の烏摩(うま)を踏んでいる。 軍荼利明王立像
(ぐんだり
みょうおうりゅうぞう)三目・八臂(さんもくはっぴで手足に多くの蛇が巻きついている。)種々の障碍(しょうがい)を取り除くとされた。 大威徳明王騎像
(だいいとく
みょうおうきぞう)六面・六臂・六足の異様な姿で、水牛に乗っている。各面とも三目あり、足が六本あることから、六足尊(ろくそくそん)と呼ばれる。 金剛夜叉明王立像
(こんごうやしゃ
みょうおうりゅうぞう)三面・六臂で密教尊らしい異様な姿で表わされている。中央の顔は目が5つある。 五大菩薩坐像
講堂の諸尊のむかって右の一群を構成する。中尊の金剛波羅密多菩薩を除く4像が創建当初のものである。五大菩薩は人々を救済するために、五智如来が菩薩(慈悲の姿)に化身したものである。金剛波羅密多菩薩は江戸時代の後補。
金剛宝
(こんごうほう)右手を膝の上に置き、左手は胸前で掌を上に向けている。もとはこの掌の上に宝珠が載せられていた。 金剛法
(こんごうほう)右手の肘を曲げ掌を前に向け、左手も肘を曲げ胸の前で拳を握る。左手はもとは三摩耶形(さんまやぎょう)という持物を執っていた。 金剛業
(こんごうごう)右手は掌を前に向け、左手は胸前で掌を仰ぐ。この上にもやはり三摩耶形(さんまやぎょう)があった。 金剛薩捶
(こんごうさつた)
「捶」は手偏ではなく土偏
右手を胸前に掲げ五鈷杵(ごこしょ)を執り左手は五鈷鈴(ごこれい)を執る。このように各像は殆ど同形だが、わずかなしぐさと持物の変化で尊名を区別している。 梵天・帝釈天
梵天・帝釈天は、それぞれインド古代神話の創造主ブラフマンと戦闘の神インドラが仏教にとりこまれて仏法の守護神となったものである。この二尊は講堂の立体曼陀羅の両端に配され、四天王と共に如来・菩薩・明王を守護している。
梵天坐像
(ぼんてんざぞう)四面・四臂(しめんしひ)で正面の顔のみ三目となっている。奈良時代の梵天像は例外なく唐服をまとっていたのに対し、条帛(じょうはく)・くん(衣偏に君)・腰布をまとっている。4羽の鵞鳥(がちょう)が支える蓮花の上に坐している。 帝釈天半跏像
(たいしゃくてんはんかぞう)常相の像だが額に第3の目が刻まれている。象の上に乗り半跏の姿勢をとる。中世に大きな被害を受けており、頭部はすべて後補となっている。顔は穏やかで美しい。 四天王立像
講堂基壇の四隅に配され、居並ぶ仏たちがつくりだす仏法の世界を守護しているのが、この四天王たちである。インド古代の神であったが、仏教に取り込まれ、仏教の宇宙観で世界の中心とされる須弥壇の四方を守っているとされる。一般には武装した勇敢な姿で表される。 持国天
(じこくてん)基壇の東南隅に置かれる。
宝髻(ほうけい)を結い、天冠台(てんかんだい)を被る。持国天像が片手で宝珠を持つとする経説に対し、この像は三鈷戟(さんこげき)を執っている。これは空海の意図による改変とされる。増長天
(ぞうちょうてん)基壇の西南隅に置かれる。
躍動感のある持国天に対し、増長天のそれは少ない。同様に宝髻(ほうけい)を結い、天冠台(てんかんだい)を被る。
しかし形相は持国天に匹敵する気迫が伺える。広目天
(こうもくてん)西北隅に置かれる。
兜を被り、羂索(けんざく)を持つ右手を高く振り上げる。基壇前方の2天に比べ表情はおとなしい。多聞天
(たもんてん)東北隅に置かれる。
他の3天がうずくまる邪鬼の上に立つのに対し、多聞天は地天女(ちてんにょ)の両手の掌に両足を支えられて立つ。
目を閉じて、心を静かにすれば諸尊たちは何かを語りかけてくれる。仏像の見方を知らない僕でもそれを感じることができるのだ。このように多くの諸尊を拝ませていただけるこの東寺に(京都・奈良において)一番に来て良かったと思う。これから京都や奈良の国宝仏閣を訪れるにあたり、新しい接し方を教えていただけたような、そんな気付きをくれた寺だった。