第12章 斑 鳩(いかるが)
第61話 中宮寺・如意輪観音像
東京に「斑鳩」がやって来た。
上野・東京都美術館の「聖徳太子展」だ。
美術工芸・考古資料の粋を集めるとともに、太子の死後から現在に至るまで、連綿と続く太子信仰の所産である絵画・彫刻・工芸・書跡の名品が、一堂に会するらしい。法隆寺や四天王寺をはじめ、太子にゆかりの深い多くの寺院などから、国宝・重要文化財約90件を含むおよそ230件の文化財が出展されているのだ。
地下鉄の駅には、奈良・斑鳩の中宮寺の国宝・如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)が優しく微笑みかけるポスターが各所に貼られた。通勤の時、毎日ように微笑みかけられると、何か惹かれる思いが強まっていく僕なのだ。この感覚はちょっとやばいかもしれない。
そういえばこのあいだ酒田に行った時寄った土門拳記念館にも京都広隆寺の弥勒菩薩半伽思惟像と並んで、この像の写真が展示してあった。土門拳も思いをよせた像らしい。
実は僕もこの仏様の美しさに魅入られたのだ。
「よし、見に行こう!」
僕は意志決定と行動が早い!(この程度のこと大した意志はいらないが・・・)
早速、「おたくちゃん分科会」のメンバーに打診した。
あきらくんも、だいちゃんも、とむも是非行きたいという。さすがだね、おたくちゃん達の団結力は。
おまけにだいちゃんは大阪にいる彼女の「やしろちゃん」と友達の「さおりん」が来たいといっているという。大阪でも2002年1月に「聖徳太子展」はあるのだけど、残念ながら大阪会場ではこの「如意輪観音像」が見られないのだ。(そのかわり大阪は「玉虫厨子:たまむしのずし」が見られる。)わざわざ大阪から東京に来てまでも見る価値がこの像にはあるのだ。
さらにそれならと、とむも彼女の「まゆちゃん」を連れて来るという。おたくちゃん達とそのまわりの人達は文化レベルが高いのだ。
12月9日 9:00上野駅集合!開館に合わせて、おたくちゃん達の朝はいつも早い。
あいかわらず僕と「あきらくん」はこういうところには一番に現れる。
「だいちゃん」は両手に花で、恥ずかしそうに現れた。
「さおりん」は集英社の学習漫画「日本の歴史
第3巻」を小脇に抱えているゾ!
「なかなか、やる気だね!」
昨夜予習をしたという「やしろちゃん」の顔は、もうすでに如意輪観音像に変身しつつある。
「とむ」は風邪をひいて声がガラガラ変わっているというのに、「まゆちゃん」と一緒に元気に現れた。
というわけで今回は、
2001年総決算 如意輪観音像大鑑賞特集!!
なのである。
飛鳥彫刻の美を代表する名作として知られる半伽思惟の菩薩像である。本来は法隆寺の東院の東に建つ中宮寺の新本堂に安置されている本尊なのだ。その像がはるか斑鳩から東京にやってきてくれた。
右手の指先を軽く曲げて右ほおにあて、榻座に左足を踏み下げて坐り、右足首を左膝の上に伽す半伽思惟の姿である。
この如意輪観音は呼び方がさまざまあるようだ。
●菩薩半伽像 ●双髻弥勒(そうけいみろく) ●弥勒菩薩 ●久世観音(くぜかんのん)
などである。
この像が飛鳥時代には弥勒菩薩としてつくられていたことは、色々な調査からも明らかである。この中宮寺の本尊は弥勒菩薩だったのだ。
しかし、平安時代に、この像を如意輪観音(にょいりんかんのん)の姿とする信仰が形成されたため本来の呼び名が失われてしまったのである。鎌倉時代の伽藍(がらん)復興時の記録には如意輪観音とあり、それがそのまま継承され、現在に至っている。でも本当は弥勒菩薩なのだ。
弥勒菩薩とは、過去仏である阿弥陀(あみだ)、現在仏である釈迦のつぎに仏になる未来仏で、56億7千万年先に、この地上にあらわれて大衆を苦しみから救ってやろうと、今、兜率天(とそつてん)と名付けた浄土で待機している菩薩とされているらしい。頬に指をあてて思惟している姿は、遠い未来にどのようにして大衆を救済しようかと思索にふけっている姿とされる。
そんなに長く待たなくても、今すぐあらわれてこの不況から僕らを救ってほしい!
と思うのは僕の雑念だろうか。
この像がつくられた時期については、明治以来さまざまな説が唱えられており、飛鳥時代の推古朝(7世紀前半)から白鳳時代の天武・持統朝(7世紀後半)までかなり広範囲に分かれている。
この半伽思惟像には止利(とり)様式のような飛鳥前期の古い要素がある一方、白鳳的な新しい要素も認められるというところに制作時期の特定の難しさがあるようだ。しかし、僕にとって細かな制作時期はさして重要ではない。とにかく美しく、優しい姿の像なのである。いまだかってこんなに美しい仏像を僕は見たことがないと思う。それくらい柔らかく、優しく、かつ神秘的なほほえみを浮かべる。
だいちゃんが
「この仏像、男ですか、女ですか?」
と聞いてきた。
「もちろん、女だよ!」
と僕は答えたが、本当は仏さまに男と女の区別はないらしい。しかしまぎれもなく女性の像であると思う。土門拳をはじめこの像の多くのファン達は「マドンナ」と表現している。ありがたいことにこの国宝はガラスケースなどで仕切られておらず、如意輪観音像と同じ空間を共有することができるのだ。しかも展示室の中央に置かれているので、後ろ姿も拝められるのである。この像の前で僕らはしばし、くぎづけにされた。
どこから見ても美しいが、特にというなら、向かって右前方の斜め方向から礼拝するときの立体構成はまことに美しいと思う。やや面長の顔に、額は広く、眉が美しい弧を描く。この弧線から幅のせまい鼻梁(びりょう)がのび、小さな小鼻がつく。この眉間の鼻梁のみが顔の中で唯一かたく、仏らしい部分で擬人化しにくいところであると(僕は)思う。
上瞼と下瞼で段差をもつ眼は伏目がちに見え、切れ長だ。この瞼の下から口にかけての頬の曲線こそがこの像のもつ美しさの根源だと(僕は)思う。頬の肉付けは一般の仏像に比べて決してふくよかではないが、かといって痩せているということでもない。軽く曲げて頬に触れる右手の指のしなやかさとあわせ、どうやればこんな曲線がだせるのだろうというような、微妙で巧妙なマドンナ・ラインである。
人中(にんちゅう:鼻の下の縦にくぼんだ溝)を掘り、唇は両端をやや上向きに反らし頬の中にとけ込んでいくようなつくりで、柔らかな微笑みを表している。
本像はその色からして銅像か青銅像かと勘違いしそうだが、実は一本の樟(くす)材から彫られている。複数の矧(は)ぎ部はあるけれど、全部一本の材から木取りされている。本体は11材、椅子のような榻座(とうざ)が1材、反花(かえりばな)と共彫りの框座(かまちざ)が2材、光背が1材である。
現在は全体が黒光りしているが、昭和42年の修理報告によると、当初は樟材の木地に錆漆(さびうるし)のようなものでうすく地固めをして黒漆を塗り、その上に白土を下地として彩色を施していたという。左足裏の見えないところに肉色が鮮やかに残っていたところから、肉身部は肌色であったらしい。また下半身をおおう裳は朱色、榻座(とうざ)の懸裳(かけも)は金箔や緑青でかなり豊富な色彩で塗られていたようだ。
今の像からは想像もできないし、むしろ僕は今の濡れたような黒光りした色が魅惑的でいいと思う。
頭の上には2つの球をならべたようなめずらしい双髻(そうけい)をのせ、左右に耳の後ろから美しい髪を両肩に垂れる。この垂髪は三筋からなり、両側の筋は肩で蕨手(わらびて:蕨の先のように丸めた意匠)をつくり、中の筋は上腕にまで達する。髪際(はつさい)は顔の側面こめかみのあたりは明瞭に彫っているが、額(ひたい)の上部では線はほとんど見えない。
肩も両腕も丸みをもってゆったりと肉付けされ、胸から腹部にかけてはほっそりと全体をなだらかな曲線でつくっている。頬にそえる右手の指や右足首にのせる左手の指は長くてしなやかだ。この時代につくられた多く半伽思惟像が、上半身を前傾して坐るのに対し、この像は上体を直立させ、頭部だけをわずかに前に傾ける姿である。
下半身につけた裳(も:巻きスカート)や榻座(とうざ)の懸裳(かけも)などの衣紋(えもん)は、飛鳥風にくっきりと刻みだし、縦の方向では直線状に折りたたみ、縁ではS字形を向かい合わせたような、またC字形を横にしたような図式的なひだを繰り返して美しくまとめている。
この本体と台座を通して全体を眺めると、どの方向から見ても、丸い台座の下框(したかまち)を底面として、双髻(そうけい)を頂点とする大変安定のよい円錐(えんすい)形の中に像の主要な部分がすっぽりと納まるのである。他に例を見ない独自の調和のとれた美しさの秘密はここにもある。
像の寸法を紹介しょう。
| 全高 |
167.6cm |
| 頂上から身底まで |
87.9cm |
| 顔の長さ |
31.3cm |
| 顔の幅 |
19.2cm |
| 耳張 |
19.3cm |
| 顔の奥行き |
19.6cm |
この寸法を見ると、顔が長いのである。そのことについて、僕は驚くべき事実に気がついた。
顔の幅と顔の長さの比率である。19.2:31.3=1:1.630
なのだ。これは黄金分割(1:1.618)に限りなく近いのである。黄金分割とは正5角形の一辺と対角線の長さの比であり、横と縦の比率にしたときには最もバランスの良い比率とされている。ミケランジェロやレオナルド・ダ・ビンチの絵、ミロのヴィーナスやエジプトのクフ王のピラミッドにも黄金比が見られるのだ。
なるほど、如意輪観音像の美しさの秘密はここにもあったのだ。(僕は素晴らしい発見をしてしまった。)
実は以前、部員のだいちゃんの顔の寸法を測ったことがある。だいちゃんの比率は
1:1.62 で忠実に黄金比を再現しているのだ。彼は、本当はルネッサンスか、飛鳥の時代に生まれたら神か仏になれたのかもしれない。
僕も、そして今日ここに来た6人の仲間達も、みんな満足した。東京にいて遥か飛鳥・白鳳時代の斑鳩に触れられるなんて。
東京はちょっと得だね!
と思う反面、楽をして見られる東京はちょっとずるいとも思う。
「今度この像に出逢うときは、やっぱり斑鳩の中宮寺で出逢いたい。」
と誰かが呟いた。
第62話 法隆寺はいかがですか?
Happy new year!
新しい年が明けた。2002年のお正月は寒風吹きすさぶ、寒いお正月になってしまった。(世相を反映してるのかもしれないね。)
新しい年の三が日は、ちょっと寒かったし、神社やお寺はどこへ行っても混雑してるだろうからと家でのんびりしようと決め込んだのだ。しかし僕の思考は休んではいない。これからどのようにして国宝を探訪していくのか、あれこれと悩んだ。仕事のことでちょっとは悩めよ!と自分でも思う。しかし、仕事は仕事、これはこれで別問題なのである。
何を悩んでいたのかというと、暮れに出逢った中宮寺の如意輪観音菩薩の余りの美しさに、安直にもこの章のタイトルを「斑鳩」としてしまったことである。斑鳩の国宝建造物といえば、法隆寺と法起寺しかないのだ。
「えらいこっちゃ、どうしよう!」
「法隆寺に行かなきゃいけないじゃないの!」
別に法隆寺に行くのが嫌っていうことじゃなくって、法隆寺は僕にとって、どでかすぎるのだ。
1300余年の風雪を耐えてきた世界最古の木造建築、日本最初の世界遺産、国宝建造物なんと18件、国宝彫刻17仏群、さらに数々の国宝群・・・、実に重たいのである。
僕のような修行中の未熟者が法隆寺の奥深さが分かるはずがない。
いや、分かるかもしれない・・・。
いや、無理だろう。
でも、やってみなければわからない。
「まあ、いいや。とにかくやってみよう!」
ということで、何はともあれ行ってみることにした。もちろん6年前までは、ずっと大阪に住んでいたので法隆寺は幾度か行ったことがある。しかし、今は当時と思いや状況が違うのだ。国宝に思いを強く持つ者として、また国宝倶楽部の部長の使命として、そのへんの観光客のように、この寺をさらっとなめてくるというわけにはいかないのだ。(だいぶ気持ちがはいってるでしょ!)
この法隆寺の探訪は国宝建築だけではなく、拝観できる(見ることのできる)仏像彫刻にも触れてみたいと思う。だから法隆寺に通っては勉強し、勉強してはまた通うという長期プロジェクト(僕一人だけど)になると思うんです。恐らく数ヶ月の時間が必要だと思うけど、きっとやるからね!お楽しみに。
かくして、1月4日の早朝に僕の「法隆寺」は始まった。
お正月早々バカみたいに早起きする僕のために、僕の奥さんはおにぎりを作ってくれた。(いつまでも優しい奥さんなのだ。)そのおにぎりを口にくわえながら、朝6時半に家を出た。(朝は早いに限るのだ。)しかし何と、阪神高速、西名阪を使えば法隆寺まで40分で着いてしまった。
僕の遠い、遠い 「法隆寺の着地点」に比べると、法隆寺への物理的距離は驚くほど近いのだ。
奈良・大和の国は周囲をなだらかな山で取り囲まれている。その西にある山並みのひとつ、生駒・矢田の山脈が南に尽きようとするあたりに斑鳩の里がある。
奈良盆地の水をあつめた大和川は、この斑鳩の里の南を流れ、やがて生駒山脈をえぐって大阪・河内平野を通り、大阪湾に流れ出る。水にも恵まれた豊かな里がここ斑鳩の地である。斑鳩の地名の由来は「イカル」という鳥だそうだ。イカルというのは鳩よりもずいぶん小さい、黄色いくちばしで翼に白い斑(まだら)のあるアトリ科の鳥である。冬場は関西でも見られるが、その数はかなり減ったらしい。このイカルが群れ飛んでいたことから、斑鳩の里と呼ばれるようになったようである。
イカルはいま140円切手に描かれている。
古く、大陸文化は北九州を経由し、瀬戸内海を通って大阪湾に上陸した。難波(なにわ)からさらに大和川を遡って、奈良盆地にたどり着いた。この地に大陸の新しい教え、仏教が根を下ろした。主役は聖徳太子である。
飛鳥の地での政争の明け暮れをのがれて、この斑鳩の里に宮を移した太子のために、法隆寺をはじめゆかりの寺々がこの地に創建された。仏教文化の礎がここのすえられたのだ。
法隆寺は、用明天皇が病気平癒(へいゆ)を祈願するため創建を決意し、志ならず没したのを妹の推古天皇と摂政の聖徳太子が遺願を果たし、推古15年(607)に完成した寺である。これは、金堂に安置してある薬師如来像の光背の銘が伝える創建の由来である。古くは斑鳩寺(いかるがでら)と称されていた。
ところが、「日本書紀」によると天智(てんじ)9年(670)・4月30日明け方すべての伽藍(がらん)が焼け落ちたと記されている。
この記載をめぐって、現在の法隆寺伽藍は推古15年(607)の創建のままか、それとも天智9年以後の再建かという、いわゆる再建・非再建論争が現在もなお繰り返されている。
昭和14年の調査で、西院伽藍の東西隅にあたる若草と呼ばれる場所から塔と金堂を前後に並べた伽藍跡が発掘され、西院伽藍は再建のものであるというのが通説になった。
しかし、たとえ再建されたものが現在の法隆寺伽藍であるとしても、西院伽藍は飛鳥様式を伝えた最古の木造建築であるという事実に代わりはない。
法隆寺は斑鳩の里の要(かなめ)なのである。
| 法隆寺境内図 |
築地塀(ついじべい) |
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7時過ぎに法隆寺に着いてしまったので、西院伽藍の拝観が始まる8時まではまだまだ時間がある。すこし境内の外周りを歩いてみた。法隆寺伽藍は東西両院に二分される。西院伽藍は法隆寺の中心をなす部分で、回廊に囲まれて塔・金堂・中門・大講堂・鐘楼・経蔵などで構成される。東院は夢殿を中心にこれを取りまく回廊・伝法堂・絵殿・鐘楼などで、すぐ東は中宮寺に接している。
これら両伽藍の外周はいずれも築地塀をめぐらしているが、特に西院の築地塀は鎌倉・室町時代のままといわれている。
夜が明けたばかりの人っ子ひとりいない寂しい路地と、ところどころ崩れかけた土塀の素朴さは、まるで1300年前にタイムスリップしたかのような錯覚に陥らせる。
法隆寺さんおはようございます。
そしてこれから、よろしくお願いします。
【南大門】
国道25号線から法隆寺参道に入り、しばらく松並木を歩くと、築地塀に開かれた南大門が立つ。
恐らくこの門は早朝から開かれているんだろう。近隣の参拝客のものだろうか、門の前にはもう、いくつかの自転車が並んでいる。
寺域の境界に立つ主要な門を大門と呼び、普通南大門と中門を仏門、他の大門は僧門と呼ばれている。
法隆寺の正面入り口にあたるこの仏門・南大門から西院伽藍を望むと、奥に中門、その背後に五重塔と金堂がまるで額縁絵のように美しく浮かび上がる。この南大門は当初、ずっと奥の中門手前の石段を上がったところにあったらしいが、長元4年(1031)この門を再建したときに前に出して現在の位置とした。南大門の位置の変化は、子院(僧侶の住居)の増加・発達に伴うものだとされている。
現在の南大門は、さらに後の永享(えいきょう)7年(1435)焼失後の再建で、同10年(1438)11月19日に上棟したことが棟木に書かれた銘文から分かっている。
門は3間の柱間の中央が扉になっており、8本の柱で支えられる構造から八脚門(やつあしもん・はっきゃくもん)という形式である。八脚門は比較的規模の大きな門で、大寺院の主要な門に使われることが多い。
屋根は入母屋造・本瓦葺きで、軒が中央から大きく反り上がっている。天井部分は、柱通りから持ち出した組み物で天井桁(けた)を受け小組格(こぐみごう)天井を張っている。精妙な彫刻を施した頭貫鼻(かしらぬきばな)は、後の時代に見られる象や獏(ばく)の形をしたものに通じる先駆的なものである。また、柱上の組物の間に配された双斗(ふたつと:斗ますが2つの組物)や花肘木(はなひじき:両端が繰形くりがたになった肘木)などはこの建築に華麗さを添える一方、室町時代中期の建築様式をよく表したもので、寺内の他の建築には見られないこの門ならではの特徴となっている。
室町時代の建築としては特に格調高く、意匠的にも優れたものであって、名建築の多い法隆寺の正門としてふさわしいものである。
【東大門】
南大門をくぐり中門までの参道を100mほど進むと、中門に登る石段の手前で東西につながる広い参道と交差する。
左に進めば西大門、右に進めば東大門そして東院伽藍へと向かう道である。早朝の参道はまだ人がまばらだ。時計を見ると西院開門まではまだ時間がある。右手遠方には東大門が見える。
「よし、東大門も先に見ておこう!」と、石畳の参道を東にとった。
東大門は西院の東側の築地塀に開かれた門で、未だにそのなりたちはよく解明されていない謎の門である。
建築様式や構造手法から推測し、奈良時代8世紀の建立とされ、現在の門はそれが移築されたものであるらしい。しかし、創建時の位置はよく分かっていない。発掘調査や解体修理時の調査により、西院の東側の築地塀はもとは位置が異なり、この門も別の場所から現在地に移築されたものであるらしいということが分かっている程度なのだ。移築時期も不明だが、現在の東大門と対をなす西大門の建立が長元8年(1035)から長暦(ちょうりゃく)3年(1039)に行われたことを示す史料「法隆寺別当次第」により、東大門もその時期に移築されたものと推定されている。
さらに、門の部材には梁上を南古真(みなみこま)または北古真として番号を付け、また東北角、西北角と記した古い墨書があって、その方位をあわせると現在とは90°異なり南北方向に向かって開かれていたものと考えられている。
この門も南大門と同様3間1戸の八脚門である。屋根も同じく本瓦葺きであるが、南大門が入母屋造なのに対しこちらは切妻造である。門外は土地が一段下がるので東正面だけに切石積(きりいしづみ)の基壇をつくっている。土間は漆喰のたたき、中央の通路は石敷きになっている。
円柱(まるばしら)は胴にわずかなふくらみをもたせ、頂部は曲線を描いて急に細めている。また、門の安定を図るためだろうか、正面と背面の柱は僅かに内側に傾斜して立っている。扉がある中央通りの柱と前後の控柱(ひかえばしら)との間に虹梁(こうりょう)を架け、虹梁中央に蟇股(かえるまた)を置き、その上にある三斗で棟に見せかけた円形の桁を受ける三棟造(みつむねづくり)としている。この三棟造とは二間の梁間(はりま)の各柱間(はしらま)中央にある桁(けた)が棟に見えるように垂木をかけたものである。そのために門に入って天井を見上げると、屋根が前後に二つ並んでいるかのように見える。本来の棟とあわせて、このように呼ばれるようになったといわれている。内部壁面にみえる二重虹梁と蟇股のはりのある曲線と構成は、まことに美しい。
法隆寺には毎年100万人の参拝客が訪れると聞く。ほとんどの参拝客がこの東大門をくぐって東院伽藍に行き、そしてまた帰りにくぐり、南大門をでて参拝を終えるのだろう。1年間に述べ200万人がこの門をくぐることになる。ということは、10年で2,000万人、50年で1億人・・・。
1300年立ち続けるこの門は、
いったい何人の人達を見て、通してきたのだろう。
東大門から、さっき来た参道を戻り再び西伽藍の前に立った。
南大門を背にして、正面の一段高く整地された伽藍要部の門口「中門」である。中門の後方には五重塔と金堂が左右に並ぶ。この風景は、歴史を習った日本人なら誰もが一度は写真で見ているはずだ。(僕は忘れてしまっていたが・・・。)
まさに世界に誇る法隆寺の正面の顔である。
そして、さすが法隆寺、門だけで3つ目の国宝なのだ。
正面4間2戸、梁間3間、2重の門である。重厚で安定した仏堂のような姿をもつ飛鳥様式の門としては我が国唯一の遺構であり、重厚と呼ぶにふさわしい堂々たる楼門なのである。7世紀末から8世紀初めの建立とされている。
この門の特徴は、奥行きが通常の門では2間であるのに対し、3間と大きいこと、また、正面が通常は3間あるいは5間というように奇数であるのに対し、4間としていることである。奥行きが大きい例は、飛鳥寺の中門が3間であったことが発掘調査で確認されており、7世紀当時の寺院建築の形式であるとされる。
また、正面両脇左右の間には仁王像が配され、中のふたつの間には二戸、つまり二つの扉がある変わったつくりになっている。このことが「法隆寺 怨霊封じ寺」の説が生まれた理由である。詳しくは次話(第65話)で触れたい。この正面に見える4間の中央2間と脇の2間は柱間の長さが異なっており、中央10に対し脇7の比率である。これは後方にある五重塔の初重の柱間比率と同じであるらしい。
前後両面の円柱は多く遊離して立っているので、胴の力強いふくらみがよく分かる。このふくらみはエンタシス風でギリシャに始まり、中国、朝鮮を経て日本に伝来した手法である。
二重は初重と同様に正面4間、奥行き3間であるが、柱間も柱高もずっと縮小され門の姿をひきしめている。正面及び背面の中2間、側面の中の間は五重塔の二・三重や金堂の二重に見られるのと同じ形式の連子窓で、脇の間は土壁である。
組物(くみもの)などのデザインや技法も、五重塔や金堂と同様に雲形の肘木(ひじき)や斗(ます)が用いられ、卍(まんじ)崩しの組子(くみこ)を入れ、三斗(みつど)と扠首形蟇股(さすがた・かえるまた)からなる腰組で受ける高欄(こうらん)が特徴的である。[この扠首形蟇股は原始蟇股、撥(ばち)蟇股ともよばれる「人」字形の割束(わりつか)である。]
慶長年間に改造された妻飾りは、虹梁とその上の大瓶束(たいへいづか)、蟇股(かえるまた)、猪の目懸魚(いのめげぎょ)などは南大門と同じ装飾の系統が見られる。
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| 中門正面 |
中門側面 |
組物と高欄 |
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| 内側から見た柱 |
阿形(あぎょう) |
吽形(うんぎょう) |
さて、両脇にすざましい形相で立つ仁王は、和銅4年(711)の製作とされる我が国最古の仁王(金剛力士像)で、重要文化財に指定されている。
向かって右に立つのが阿形(あぎょう)、左に立つのが吽形(うんぎょう)である。阿形は「阿(梵語)」といって口を開けた形、吽形は「吽」といって口を閉じた形をしている。よくいう「阿吽の呼吸」というのがこれである。「阿吽の呼吸」というのは吐く息と吸う息のことで、ともにひとつのことをする時のお互いの微妙な調子や気持ちのことをさすが、もう一つの意味がある。阿吽とはものごとの「始め」と「終わり」、つまり「生」と「死」を表している。たしかに阿形のほうは灰色の全身にところどころ朱色を残して生気が備わっているが、吽形のほうは全身が黒っぽく、痩せた姿になっていてちょっと薄気味が悪い。
像は心木のまわりに小材を組み付けて、その上に塑土(そど)で形づくられたものであったが、吽形は16世紀に胸から下を木彫に改造されている。
多くの建造物や仏像がひしめく法隆寺において、どうしてもこの仁王像は忘れられがちな存在になってしまうが、この不気味で古風な怒りが、この寺の創建者の意図を受け1300年の風雪に耐えさせ、守護してきたのだろう。拒絶を意味する怒りが法隆寺を護ってきたことを忘れてはならないと思う。
第65話 法隆寺の謎 その1
法隆寺に深く接していこうとすると、誰もが多くの謎に突きあたる。それだけ法隆寺は歴史的に古く、解明できていない部分が多い神秘的な寺なのである。
当然この法隆寺を多く知ろうとする僕も、この謎にぶち当たったのだ。
法隆寺には先ず、言い伝えによる伝説的な謎が7つある。いわゆる「法隆寺の7不思議」である。
法隆寺の7不思議
1.法隆寺に住む蛙には目が1つしかない。
2.法隆寺には蜘蛛が巣をはったことがない。
3.雨垂れが穴をあけるはずの地面に、なぜ穴があいていないか?
4.五重塔の相輪(屋根の上の飾り)にはなぜ4つの鎌が刺さっているのか?
5.夢殿の礼盤(僧侶の座台)の下が、いつも汗をかいているのはなぜか?
6.伽藍内に開かれたことのない三つの伏蔵がある
7.南大門の前に、意味不明の鯛石という大きな石がなぜ置かれているのか?
ちょっとオカルトっぽいものも含まれていて、これらは俗説的な謎ということになるが、それに対し古代史上の謎も7つある。
法隆寺古代史上の7つの謎
1.法隆寺は「日本書紀」に記されているように、本当に天智9年(670)に焼失したのか?
2.焼失の真の理由は何なのか?
3.再建は誰が何のために行ったのか?
4.斑鳩の地に聖徳太子の一族が移ったのはなぜか?
5.太子一族が滅ぼされた真の理由は何なのか?
6.3つの伏蔵はいったい何を隠しているのか?
7.法隆寺は怨霊鎮めの寺なのか?
(邦光史郎氏著「法隆寺の謎」より)
さらに日本文化の深層を解明する幾多の論考で著名な
梅原猛氏の考える「法隆寺の7不思議」は次の通りである。
梅原猛氏の考える「法隆寺の7不思議」
1.法隆寺の焼失は記されるが、建造及び再建について「日本書紀」「続日本記」がそれを一言も語らない曖昧さは何か?
2.正確であるはずの「法隆寺資財帳」も同様に建造・再建に関して沈黙し、事実を隠蔽(いんぺい)しているのはなぜかか?
3.中門の謎:中門の真ん中に柱があるのはなぜか?
4.金堂の謎:金堂の本尊が3体あるのはなぜか?など
5.五重塔の謎:「資財帳」に表される塔の高さが実際の1.5倍もあるのはなぜか?など
6.夢殿の謎:なぜ8角形なのか?救世(ぐぜ)観音菩薩はなぜ秘仏にされたのか?など
7.寺の重要な祭り「聖霊会(しょうりょうえ)」において、聖徳太子と舎利が一緒に供養されるのはなぜか?
と、こんなにも謎があるのである。実はまだ謎を提唱する人はいるのだけど、きりがないのでこの辺でとめておこう。(機会があればまた紹介するからね。)
とにかく間違いなくいえることは、よく解っていないお寺であるということだ。まあ、これからも長い間この法隆寺の勉強をするのだから、僕でも頑張ればいくつかの謎解きができるかもしれない。そして、これらの謎を知るということは、なにやら曰(いわ)くありげなこの斑鳩の7世紀の謎を探ることにもなるのだ。
さて、ひとつ目の謎の解明だ。
法隆寺古代史上の7つの謎のひとつ「法隆寺は怨霊鎮めの寺なのか?」と梅原氏の「中門の真ん中に柱があるのはなぜか?」についてである。この謎が云々されるようになった大きな要因は、第64話で述べた中門の正面のない二戸の入り口にあるのだ。
法隆寺中門は正面4間である。4間ということは左右2間ずつ、真ん中に柱がある門を意味するのだ。僕らが知っている普通のお寺の門は必ず柱間が奇数になっていて、戸が1間であれ、3間であれ真ん中は柱のない出入り口があるのが当たり前なのだ。しかし、中門は中の2間が入り口になっていて、真ん中に通せんぼをするように柱が立っているのである。
そこで、ひとつの説が生まれた。梅原猛氏の「法隆寺怨霊鎮魂説」である。梅原氏はその著書「隠された十字架〜法隆寺論」の中で、670年に全焼した法隆寺は、聖徳太子一族の鎮魂の寺として再建されたとしている。
第62話でも書いたように、法隆寺は天智(てんじ)9年(670)焼け落ちたというのが通説となっている。これはあくまで通説であって、「法隆寺古代史上7つの謎」の中の「法隆寺は日本書紀に記されているように、本当に天智9年(670)に焼失したのか?」という謎を肯定した上にたった仮説である。
法隆寺は壮大な寺院である。これほどの大伽藍(だいがらん)を建設するには、相当の政治力と財力がなければできるはずがない。蘇我入鹿(そがのいるか)により皇極2年(643)聖徳太子の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)が攻められ、その一族が悲劇の最期を遂げた。現在の法隆寺は670年以降、その一族の生き残りが建てたという説もあるが、たとえ生き残った人がいたにしても、その生活ぶりは質素であったにちがいない。だからそんな人たちに、これほど立派な寺を建てられようはずがない。
そこで、滅ぼした側が、滅んだ相手の祟(たた)りを恐れて、丁重に神として聖徳太子を祀ったというのである。つまりこれが、怨霊鎮めである。滅ぼした側は、聖徳太子とその一族の怨霊を恐れていたに違いない。その怨霊を封じ込めるために法隆寺を再建した。その時に怨霊が外に出て来られないよう、門の真ん中に柱を立てたのだ。
いわば、
中門の真ん中の柱は怨霊を閉じこめるための閂(かんぬき)である。
という説である。
なるほど、うなずける説である。
偶数の柱間を「偶数性の理論」として、他の実例も示され、素晴らしい推理だと思う。
しかし、物事を単純にしか考えられない僕は、ちょっとおかしいぞ!と思う。
例えば僕が、聖徳太子一族を滅ぼした張本人だとするならば、そしてその怨霊を恐れて、この寺を怨霊封じの寺として建てたとするならば、閂(かんぬき)はこのように縦にはいれない。閂はその文字通り横にいれてこそ効果があるのだ。縦にいれた閂では、扉はすぐに開いてしまう。僕なら縦に入れると同時に、横にも一本入れ十文字の閂にすると思うのだ。でないといつ出てくるかわからない怨霊に怯えて、おちおち夜も眠れないのだ。(僕は恐がりだから)
それに建築物というものは、昔も今も間違いなく権力や富の象徴として建てるものである。怨霊封じのために建てるのであれば、これほど大規模な建築は必要ないと思う。平泉の高舘にあった源義経をまつる質素な義経堂(ぎけいどう)程度の祠(ほこら)で充分なのでないかと思うんですが、いかがですか?
さらに、法隆寺は多くの人が研究している。その中で僕は建築家の村田治郎氏の説を、なるほど!と思うので引用させていただく。
中門のすぐ南に接して南大門があるので、中門は遠方から眺められる門ではなく、南大門をくぐってはじめて目につく。しかもすぐ通過できる門であり、仏門である。つまり仏が通る門であって、俗人のためではなく、もし法隆寺内が特別な領域だというのなら、南大門のほうに柱を立てるべきだ。
怨霊鎮魂説を否定するということは、なぜ中門が正面4間で真ん中に柱が立つという不自然な姿になったのか、ということを証明しなければならない。次のような説がある。
法隆寺は向かって右側に金堂、左側に五重塔と、重要な建物が左右に2つ分けられて建っている。釈迦の舎利(骨)を納めた塔婆(とうば)ともいうべき五重塔と、本尊仏の家である金堂とを左右に配した法隆寺の伽藍配置は、創建時も今も変わらず、両者が対等の価値として扱われていることを示している。中門の真ん中に柱があって出入り口が2つに分かれているのも、右手は金堂の門、左手は五重塔の門という二元的な世界の現れと理解できないこともない。この理由からわざわざこのような凝ったつくりにしたのである。
当たり前でストーリー性には乏しいけど、これが正解でしょ!と僕は思う。
次回の「法隆寺の謎」に続くのだ。
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