第17章 斑鳩 5
第86話 法起寺のおっちゃん
またまた、僕は戻ってきた。
4月27日(土) 今日は僕の誕生日、別にお祝いというわけでもないが斑鳩に来てしまったのだ。法起寺(ほうきじ)に三重塔を見に行こうと思う。それに、4月11日から5月18日の間は法隆寺夢殿の秘仏救世観音像の扉が開かれる。
おまけに今日は北関東から国宝倶楽部員のあきらくんが「是非、斑鳩へ」とこちらに来ているのだ。
僕の斑鳩中毒はまだ治ってません。
法起寺は国道25号線の「中宮寺東」の交差点から北へ数分走ったところにある。のどかな田園風景の中にぽつんと三重塔が立っているのですぐにそれだと分かる。しかし、法隆寺と比べるとずいぶん小さなお寺で、観光客相手の店もなければ、駐車場もない。
寺務所に車を止める場所を聞きに行ってくれた「あきらくん」が、「その辺の道に邪魔にならんように止めとけや!」と言われたという。そういえば、幹線道から入った道路には都会では常識の駐禁標識がない。この風景と同じように、お巡りさんもきわめておおらかな土地柄なんだろう。
法起寺には西側にある小さな四脚門から入る。まだ朝の8時半なので、当然僕らの他に拝観客はいない。入ってすぐ鮮やかな赤紫色のつつじの花が目に入ってくる。
法起寺は「ほうきじ」と読むが、解説書によっては「ほっきじ」というものもある。でも、法起寺でいただいたパンフレットには「ほうきじ」とルビがうってあるので、こちらが正解なんだろう。
法起寺は聖徳太子の遺言により岡本宮(おかもとのみや)を寺とし、福亮僧正(ふくりょうそうじょう)、恵施僧正(えしそうじょう)によって造営が進められ、8世紀初めに完成したと考えられている。しかし伽藍の多くは失われ、現在まで残る建造物は三重塔だけである。
門を入って左側に寺務所兼拝観受付があり、70歳くらいのどちらかというとちょっと無愛想に見える「おっちゃん」が対応してくれる。まさに「おっちゃん」と呼ぶにふさわしい風貌だ。
にいちゃんら、写真やるのか?
首から2台のカメラをぶら下げて僕を見て「おっちゃん」はつっけんどんに聞いてきた。
そんな質問をしてくるということは、おっちゃんも写真に興味を持っているということか?窓口から室内を覗き込むと、額にいっぱい写真を飾ってあるぞ!
おっちゃんも写真やるのん?
おっちゃんの顔がいっぺんに和らいだように見えた。
おう、ちょっと中に入って見てみいや!
おっちゃんは本当は人なつっこいのかもしれない。ちょっと狭くて窮屈そうだけど、せっかくだから入らせてもらうことにした。
うゎ〜〜〜〜〜っ!
中に入って、僕はびっくり仰天した。
掲げられている額の写真はプロが撮ったのかと思われるほど素晴らしいものばかりだ。四季折々の風景の中で三重塔をみごとな構図でとらえている。特に朝焼けと三重塔を撮ったという写真は特選ものである。10月にはこんな空が現れるらしい。さらにおっちゃんは棚の中からたくさんの写真を出しては見せてくれる。どれもいい写真だ。聞くところによると、プロのカメラマンが撮影に来たときに、おっちゃんは案内がてら横でプロの構図を盗んだらしい。
こりゃぁ、「門前の小僧 習わぬ経を読む」みたいなもんだね。(失礼)
この社務所はまさに法起寺写真館なのである。
おっちゃん、写真の撮り方教えてよ!
このひと言がよかったのかもしれない、僕らが境内にある池越しに三重塔を撮ろうとしていると、おっちゃんが指導に来てくれたのだ。池の手前の石のくぼみに水を入れてくれ、おまけにツツジの花を一輪浮かべてくれた。ちゃんと花弁が上に向くように輪ゴムでおもりの石までつけてくれた。
なるほど、プロのカメラマンはこうやって撮影していたんだ!
 |
 |
水を入れる
おっちゃん |
おっちゃん指導の
写真 |
おっちゃんが言うには、このくぼみのある石は三重塔の心柱の礎石のレプリカだそうで、カメラを構えるとちょうどその心柱の先の相輪が水面に映る。
写真を撮りながら、僕はおっちゃんとしばらく話をした。おっちゃんは何年か前まで法隆寺で働いていたらしい。法隆寺の定年は70歳で、その後この法起寺で働いているらしい。大きなお寺というのは上下関係が厳しいらしく、上の者は下に対し無理を強要し、話を聞かないというのが常らしい。が、おっちゃんは力説した。組織というのは上の者が下に対し会話をし、働きやすいようにするのが務めだ。オレは下位の者との会話を普段から心掛けてきたし、、そうやれば仕事ってものはうまくいくんだ!それでよかったと思う、と。
おっちゃんは人格者だ!
そしてよき指導者だ。これは、お寺であろうが、一般社会であろうが同じだろうと僕は思う。とても、いい話を聞かせていただいた。
国宝・法起寺三重塔は一見しただけで法隆寺五重塔と大変似ていると感じる。言ってみれば法隆寺五重塔の二重と四重をだるま落としで取っ払ったような形である。それもそもはず、この三重塔の寸法は法隆寺五重塔と密接な関係を持つ。柱間の寸法は初重は互いに同寸法、二重は五重塔の三重と、三重は同五重と等しい。それだけに逓減率が大きく、他の塔には見られないくらいの安定感がある。この塔は法隆寺の五重塔にならって建立されたのだという。軒の深さは遠目に見たときに、さらに美しさが増す。
この塔は現存最古の三重塔であるらしい。「聖徳太子伝私記」にあるこの塔の露盤銘で、慶雲(けいうん)3年(706)に相輪が作られたことが伝えられ、このころ完成したらしい。しかし、法隆寺五重塔の再建は一般的には和銅4年(711)とされているので、着工は五重塔が早かったにしろ完成は同時期か、むしろこの塔の方が早かったともいえないことはない。いずれにしても、創建の法隆寺五重塔の影響を受けていることは間違いない。
しかし、文献にあるだけでも9回の修理を経ており、その間、建立当初からかなり改変されていたらしい。昭和の解体修理ではそれまでの研究成果を踏まえ、創建時に近い復元がなされ現在に至っている。この塔の高さは見る文献によって異なるので、どれが本当の高さなのかよくわからない。法起寺のパンフレットは23.9mと記載しているので、これがオフィシャルだろう。三重塔としては中くらいの高さである。
基壇は明治の修理の時に石積みの積替えをしており、花崗岩のように見える新しいものであるが、元は凝灰岩で作られていたらしい。心礎(心柱の礎石)は法隆寺五重塔、法輪寺三重塔、飛鳥寺や四天王寺、中宮寺の塔のように心礎を地中深く据え付けるのではなく、地盤より十数回の版築層(はんちくそう:土を層状に突き固める)の土壇の上に設けられており、年代的にこれらの寺より新しいことがわかる。
各重とも柱の上に頭貫を入れ、その上に台輪をのせる。台輪の上には大斗(だいと)を置き、平肘木・雲肘木・雲斗などの組物を重ねている。これらの形状や二重・三重の卍崩しの高欄は、法隆寺の五重塔に比べると、少し退化はしているというものの、ほとんど同じデザインである。
僕は、この三重塔が五重でなく、三重であってよかったと思う。五重塔になってしまっていたら、いつでも法隆寺のそれと比べられ、日蔭の存在になっていたかもしれないからだ。この塔は鑑賞者の立場で見るとするなら、法隆寺五重塔と比較して見るのではなく、斑鳩の田園風景の中に立つ独立した塔として見るほうが美しいと思う。「法起寺のおっちゃん」が撮っているような写真は、大伽藍に囲まれたようにして立つ法隆寺の五重塔ではちょっと難しいかもしれない。
三重塔の前に佇み、北を見ると現在の本堂である講堂(観音堂)が、西には聖天堂、さらに南には表門があるが、いずれも江戸時代の建物である。
 |
 |
 |
 |
| 塔と講堂(観音堂) |
聖天堂 |
塔と表門 |
田園から見た塔 |
僕らが、収蔵庫にある十一面観音菩薩立像(国重文)を見て受付まで戻ると、おっちゃんはまた出てきてくれ、門の外からの鑑賞ポイントをあれこれと教えてくれた。どうもありがとうございました。
そして、今度来るときまで、
おっちゃん、元気でな!
今度は秋の法起寺が見たいと思った。
第88話 三重塔の明と暗
法起寺の南側の道を西にまっすぐ、数百mのところに法輪寺がある。
斑鳩の里でも北方にあるこの法輪寺はその土地の名によって、三井寺とも呼ばれている。三井の地名は古く、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸を、この土地に移したことから起こったと伝えられている。創建は2つの説があり、聖徳太子の御子・山背大兄王がその子・由義王(ゆげおう)とともに太子の病気平癒を願い建立したと伝える説。もう一つは斑鳩寺が火災でなくなったのち、衆人は寺地を定めることができなかったので、百済の聞師、円明師、下氷君雑者3人がともに三井寺を造ったというのである。
昭和25年に石田茂作博士によって行われた発掘調査により、この寺が法隆寺式伽藍配置であること、現在の金堂、講堂は旧位置を踏襲していること、規模は法隆寺西伽藍の2/3であることなどが明らかになり、7世紀末頃には寺観が整っていたと考えられる。
小さな南門の前に立つと、門の向こうに木部が小豆色の美しい三重塔が見える。門をくぐって近くで見るとさらに美しく、新緑とは補色になるその小豆色とのコントラストが、なぜか塔をひきしめるイメージにしている。高さは24mくらいというから、法起寺の三重塔と同じくらいであるが、意匠的には(色を除けば)こちらのほうが法隆寺の塔によく似ていると感じる。
しかし、痛恨である!
江戸時代正保2年(1645)台風のために金堂、講堂、中門、回廊、食堂など諸宇はことごとく倒壊し、この三重塔も最上階を失い二重だけとなった。元文4年(1739)には三重塔の修理が行われ、宝暦11年(1761)には現金堂が再興されたが、この台風による被害により寺観もすっかり変わり、その後次第に寺運も衰えていったようである。
その後、明治になり古社寺保存法が施行されると三重塔は特別保護建造物(のちの国宝)に指定され、明治36年(1903)には解体修理を終えている。
しかし、この寺にとって、この三重塔にとってさらに不幸なことは、昭和19年7月21日の夕刻、落雷による火災によって、その塔のすべてが失われてしまったことである。
この法輪寺の三重塔は、法隆寺の五重塔、法起寺の三重塔ととあわせて、いわば飛鳥古塔の三羽烏であっただけに、焼失はまさに痛恨の極みであり、国家的損失でもあった。
その後、法輪寺住職の献身的な努力が実を結び、昭和50年にこの塔が再建された。31年ぶりに斑鳩の里に三塔の姿が揃ったのである。しかし、この時点で法起寺三重塔は日本最古の貴重な三重塔として脚光を浴びることになり、こちらの塔は昭和の再建という烙印を押されることになった。
しかし、僕はこの塔が焼失前のものを忠実に再建している(と思われる)だけに、
少しばかり矛盾を感じるのだ。
先の法起寺三重塔は9回もの大きな修理を経ているのである。ということは創建当時の部材はそのほとんどが(いや、全てかもしれない)新しいものに入れ代わっているのである。法隆寺五重塔だって実のところ、それをしなければ今は存在しなかっただろうと思う。4年前、平成10年、台風7号で半壊した室生寺五重塔だって、相当の部材が更新されているけれども、これらは「国宝」という冠(かんむり)があるのである。しかしこの法輪寺の塔には何の冠もない。
それら国宝とこの法輪寺三重塔の違いは、歴史の一時期(しかも近年)において、その塔の全てが失われたか、そうでなかったかという単純なことでしかないのだ。別に修理された国宝を否定するわけではないが、この美しい三重塔の立場からひとこと言わせてもらうなら、そういうことになるのである。文化庁の方々もこの辺はちょっと辛いところだろうとお察し申し上げます。恐らくこの塔はあと200〜300年も経てば国宝に指定されるであろうと僕は思う。(日本の国が存在していればの話だけどね)
まさに国宝とそうでないものの、紙一重の「明と暗」である。
さて、境内の正面奥の講堂(収蔵庫)には多くの仏像が安置されており、拝観させていただくことができる。
本尊の薬師如来坐像(国重文)は一見するだけで、法隆寺金堂の釈迦三尊像とよく似ており、飛鳥時代の止利様式を思わせる。飛鳥時代の木彫の特徴である樟材(くすざい)を用いた七世紀後半の作とされる。
伝虚空蔵菩薩像(国重文)は左腕を鈍角に、右腕を鋭角に曲げ、両腕の向きがちょうど上下対称になるように曲げられ、左手には水瓶(すいびょう)をつまんでいる。ちょっと見た感じは法隆寺の百済観音像に似ているがその関係は明らかではないらしい。この像も七世紀後半の作とされている。
収蔵庫の中心に他を圧するように立つ十一面観音菩薩像(国重文)は、頭部から台座の蓮花までを杉の一材から彫りだした像高1丈(約3m)余に及ぶ大像である。10世紀前半頃の作と考えられているが、その伝来は不明である。
この他に、吉祥天立像、聖観音菩薩立像、地蔵菩薩立像などの国重文(いずれも10世紀の作)の彫刻が納められており、充分に古代を偲ばせていただける。
法輪寺は、あまりにも偉大な法隆寺という寺のすぐそばにあって、またそれとは違った意味で僕らを飛鳥の時代に連れて行ってくれる斑鳩の静かな良き寺だと思う。
夢殿のある法隆寺東院は、聖徳太子が本拠地とした斑鳩宮(いかるがのみや)の故地である。聖徳太子はここで、7世紀初めの日本の政治・文化に大きな役割を果たしたのである。しかし、推古30年(622)聖徳太子の死後、その息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)の代に蘇我入鹿軍勢に襲撃され、斑鳩宮は全て焼き払われてしまったのだ。その後、斑鳩宮跡は放置され、荒れるにまかされていたらしい。
東院の創設の経緯を記した「法隆寺東院縁起」は、僧・行信(ぎょうしん)が聖徳太子の住んだこの地が荒れ果てているのを嘆き、天平11年(739)に建立したと伝える。
創建当時は夢殿という呼び方はされていなかったようである。天平時代の「法隆寺資財帳」にはまだ八角仏殿と表現されており、最初に「夢殿」の名前が使われのは平安初期にできた太子の伝記においてである。太子が夢殿に入って瞑想にふけったということから、夢殿=瞑想堂という考え方ができあがったようだ。
多くの人がこの夢殿に愛着を持つのは、きっと旧1万円札に聖徳太子の肖像と、この夢殿の「すかし」が描かれていたからだろうと思う。(僕は小さい頃からずっと一万円札に愛着を持ち続けているのに、どうもむこうからは何も思われていないらしい。どうも片思いらしい。)
始めにこの夢殿に近づいた時に驚かされるのは宝珠の美しさである。
宝珠は金銅製で、下の部分の宝瓶(ほうびん)と上の部分の宝珠と放光からなる。宝瓶は舎利瓶を形どったものだといわれ、また放光は太陽の輝きを表している。まさに華やかな小太陽である。
夢殿は創建以来たびたびの修理を受けたが、鎌倉時代に大きく改造された。建久4年(1193)には内陣に天井が張られ、続いて寛喜(かんぎ)2年(1230)には傷んだ柱の部分を取り替え、側柱(がわばしら:いちばん外周の柱)と入側柱(いりがわばしら:内側の柱)の間の虹梁が2段とされ、また屋根の勾配を強くし、組物も一段増やされて少し軒が高くなっている。柱は見た目にはほとんど分からないが、内側に少し倒れているらしい。「内転び(うちころび)」という古代建築に見られる手法で、柱をしっかりと固定する技法が発達していなかった頃の、建築物を有効に安定させるための方法であったらしい。法隆寺では夢殿だけでなく、金堂、五重塔の裳階、東大門にも用いられている。
夢殿という名は、ここで瞑想にふけった生前の聖徳太子を思わせるが、実は八角円堂のこの建物は太子の死後に建てられたものである。発掘調査の結果、この地に昔の住居のあとは出てきたが、それは八角円堂ではなかった。太子を偲び、また祀るために建てられたもので、「夢殿」という呼び名は後世になってつけられたとはいえ、「ナイス、ネーミング!」
だと思う。
この写真は2月に訪れたとき、5時の閉門間近に夢殿と西の空を撮ったものだ。
東院夢殿は昼間より夕暮れ時に、ぐっと美しさを増す。
第90話 救世観音
「開けろといったら、開けるんだ!」
「いえいえ、とんでもございません。この中には推古天皇の時代に朝鮮より来た秘仏があるのです。もう、何百年もの昔から一度も開扉したことがないのです。」
「しかし、我々は学術調査のために、日本政府の許可を得てここにやって来たのだ。開けなければ力ずくでも入るぞ!」
このような類い希な宝物を、いかなる手段をしても見てみたいと私は開扉を強要した。
「もしこの扉を開け秘仏に触れたなら、雷が轟き天変地異が起きると言い伝えられております。」
「そんなもの、迷信だ! どうしても開けないと言うのなら、この錠前をたたき壊すぞ!」
「どうぞ、それだけはおやめ下さい。天罰が下ります!」
そんな議論をやっているうちに、鍵をガタつかせていた助手の岡倉天心が鍵をはずしてしまった。古くなって錆びてもろくなっていたようだ。あそこまで強く拒絶していた寺僧たちも扉が開くと、怖くなったのかどこかに逃げ去ったしまった。天心と私は扉を開け放ち、夢殿の中に押し入った。
堂の中は永年の埃が堆積し、異様な空気に包まれていた。鼠や蜘蛛がゴソゴソと逃げ出す音がする。
八角形の夢殿の中央に閉鎖している大厨子が置かれ、それは柱のごとく天に伸びているかのようにも見えた。厨子の中には木綿の白布で幾重にも巻かれた「それ」があった。その上にも埃が綿雲のように積もっていて、白布を取り除くのすら容易ではない。およそ500ヤードほどあっただろうか、やっとの思いで白布を取り除くと、こんどは経文を記した布が表れた。さらにその下は和紙で幾重にも包まれている。
「先生、仏像です!」
岡倉天心が叫んだ。彼の指先が震えている。
紙包みの間から、驚嘆すべき無二の彫像が我々の前に現れた。
それは等身よりやや背が高く、背面はくぼみ、硬い樟材の綿密な一本彫りである。金箔押しの像で、金箔はいまではくすんで銅のように黄褐色に変じている。頭部は素晴らしい金銅製透彫の宝冠で飾り、宝冠から瑠璃珠を交えた、同じく金銅製の垂飾が長く垂れ下がっている。
明治17年(1884)米国人アーネスト・フェノロサが助手の岡倉天心と共に法隆寺東院夢殿の秘仏・救世観音(くせかんのん)を発見したときの記録を僕がちょっと脚色してしまいました。
なんだかフェノロサは「水戸黄門」に出てくる善良な町民をいたぶる悪名代官のような気もしないでもないが、今日この救世観音を拝めるのも彼のおかげだと思うと、許せるような気もする。この像は、12世紀前半にはすでに秘仏としてそれ以降は長く人の目に触れることはなかったという。
法隆寺ではこの国宝・救世観音が安置されている夢殿の厨子の扉を、年に春と秋の2回開く。春は4月11日〜5月18日、秋は10月22日〜11月22日、救世観音を拝観させていただける。
しかし扉の金網越しに明かりの灯らない薄暗い夢殿の中の、しかも3〜4m離れたこの像を認識するのは至難の業である。現物を見るより、写真で見る方が細部がよく分かるというのはどうも素直には喜べないような気がする。
救世観音は大きな山形の金銅透彫(こんどうすかしぼり)の宝冠をかぶり、胸の前には両手で宝珠を捧げて立つ。聖徳太子の等身大の像といわれており、179.9cmと長身である。7世紀前半の作とされるが、聖徳太子の在世中か、あるいは亡くなった直後か、推古時代に造られことは、ほぼ間違いないようであるが、どこで誰が造ったかは明らかではない。
像は台座の蓮肉を含め全体が樟(くす)の一材から刻みだされている。両手も、両側に垂れる天衣も共木から彫りだされているが、天衣の下の方は、樟の一木の幅では足りず別の樟材をつないでいる。このように一材から彫りだした像は表面にひび割れを起こしやすいので、背中に穴を開け中を刳り抜いてひび割れを防ぐのだが(内刳:うちぐり)、この像はそれをしておらず、古式の造り方といえる。
像が造られてから1400年くらい経っているというのに、部分的に金箔が剥がれ黒い漆地の見えるところがあるものの保存状態はきわめて良い。これも何世紀もの間、布に巻かれ秘仏とされいたからである。
でも、同じ時代の仏像とは異なり一種独特の雰囲気をもった仏像である。特に土門拳氏が撮ったこの仏像の写真は夜見ると、ちょっとひとりでは便所にはいけなくなるような怪異な形相に見える。
仮に伝承のとおりこの仏像が聖徳太子の肖像であるとするならば、この像は太子の超絶的な精力と、やるせない孤独感、そして険しい心を表現していると言えるかもしれない。
肉眼で見る救世観音は写真で見るほど不気味で怖い顔ではなく、慈愛に満ちた優しい顔をしている。
フェノロサはこの仏の表情を容姿を次のように表現している。
鼻は漢人のごとく高く、額は真っ直ぐで聡明である。唇は黒人のそれに似てむしろ厚く、静かで神秘的なほほえみを浮かべているのは、ダ・ヴィンチの描いたモナリザの微笑みを連想させる。古代エジプトの美術がその最盛期にあってもなおぎこちなさを残しているのに比べれば、この像はその彫法の鋭さと個性的な点で、いっそう優れた出来ばえを示している。それはスラリとしている点で、フランス北部のアミアン寺院のゴシック像に似ているが、いろいろな線を単一の体系にまとめている点ではるかに穏和であり、また統一的である。衣紋のあしらいは呉の金銅仏に基づいていると思われるが、スラリとした長身のプロポーションは、突如として予期しない美観を添える結果になっている。
夢殿の中にはこの救世観音の他、行信僧都坐像(ぎょうしんそうずざぞう)と道詮律師坐像(どうせんりっしざぞう)が安置されている。ともに国宝彫刻である。
行信は天平10年(738)に律師となり、そのころ夢殿を中心とする法隆寺東院伽藍を造ったことで有名な僧である。この像は唐招提寺の鑑真和上坐像(国宝)とならび、奈良時代の肖像彫刻の代表作である。これが僧か?!と思わせるような、つり上がった目の怒ったような悟ったような顔つきで、一度見たら忘れない個性的な像である。粘土で造った原型の上に麻布を漆で何枚も張り重ね、漆が乾燥してから内部の粘土をかき出して造る張子状の「脱活乾漆像(だつかつかんしつぞう)」と呼ばれるものである。8世紀後半の造立とされる。
道詮は平安時代に活躍した法隆寺の僧で、奈良時代に行信が建てた東院伽藍の荒廃を嘆いて、貞観(じょうがん)元年(859)ころからこれを修造した。こちらのほうは心木に粘土を盛り、塑形したのち表面を細かな土で仕上げた塑像である。行信像と道詮像は夢殿の本尊をはさんで右と左に置かれるが、その造法はもとより、印象も対照的である。行信像が凛とした厳しさに満ちているのに対し、道詮像は大きめの衣を無造作にまとって胸をはだけている。目元がなんともその辺のどこにでもいるような「じいちゃん」という感じで、親しみと安心感を持てる。9世紀後半の造立とされている。