第23章  気まぐれ 秋の空

第116話 仁科神明宮

ちょっと仕事に追われ気味のこのごろなのだ。
だから、とんでもない早さで季節が変わっていく。いつの間にか季節が変わり、涼しい風にふと秋を感じる、そんな9月の休日に
おたくちゃん達の復活なのだ!

「ドライブがてらに大町まで行こうか!」仲間はいつもの「あきらくん」と「だいちゃん」だ。そんな軽いのりだけど、長野県大町市というところは東京から高速をぶっ飛ばしても、4時間はゆうにかかる。しかも今日は、昨日までの好天とうって変わり、朝から秋雨がしとしと降る非行楽日和なのである。僕らと同じで秋の空は気まぐれだ。
目的地は国宝・仁科神明宮(にしなしんめいぐう)である。長野県の北西部、松本市から白馬村の方に向かって北に30kmくらいのところに位置する大町市は、「北アルプス一番街」といわれ、その西部一帯に峻険(しゅんけん)な北アルプス山岳を連ねている。(はずだけど、もちろん今日は見えない。)この大町市から南にある穂高町にかけての一帯が「安曇野(あずみの)」と呼ばれ、北アルプスから湧き出る清水に恵まれ、育まれてきた土地である。
仁科神明宮には長野自動車道豊科ICから国道19号経由、県道大町明科線で30分ほどの距離である。この県道からすこし東に入ったところに仁科神明宮はあるという。
樹木が鬱蒼と繁った森はしっとりと雨に濡れ、霊的な雰囲気をさらに高める。森の前の広い駐車場に車を止め、神社入り口に立つ。

一、車馬ヲ乗リイレヌコト
一、魚鳥捕ラヌコト
一、材木を伐ラヌコト
一、清浄ヲ保ツコト


こんな文言が書かれた定板を右に見ながら参道にはいると、幹周5mを越え、樹齢700〜800年はあろうかという杉の巨木が2本、参拝客を迎えてくれる。この杉、もともとは美しい3本杉だったが昭和54年の突風で真ん中の1本を欠いてしまった。
しばらく進み参道を左に折れると、鳥居が立ち、砂利道が石畳に変わる。
しかし、なんて薄暗いんだろう。
これは雨のせいだけではなさそうだ。少し谷のようになった狭隘な地形の参道の両側から、巨木が覆いかぶさっている。

本殿に向かう参道 深い森に囲まれた
社殿

仁科神明宮は、かってこの地域一帯が伊勢神宮の御領としての「仁科御厨(みくりや:神社の神饌料を献納する領地)」であったことから、御厨鎮護のために祀られた社である。神社の創始の年代は明らかではないが、各地に設けられた伊勢神宮の神領には、神宮を勧請(かんじょう)して奉斎(ほうさい)することが古くから行われていた。建久3年(1192)編纂(へんさん)の古文書には、信濃における内宮の神領4ヶ所のひとつとして仁科御厨をあげており、当社も御厨創立まもない時期に創建されたと考えられている。
現在の社殿は寛永13年(1636)松本藩主・松平直政が造替したものだといわれている。が、これも明らかではなく、建築年代は謎に包まれている。神殿の形式は伊勢神宮と同じ神明造(しんめいづくり)であるが、現存する者の中で最も古い神明造りとして貴重な遺構である。
ちょっとここで、神社建築と神明造(しんめいづくり)のお勉強をしておきましょう。

神社建築は日本固有の建築である。その形式はいろいろあり、特定の神社や地域に特有なものも多いが、主には次の通りである。
日本古来の様式を最も伝え、住宅(宮殿)形式とも関係すると考えられる神明造・大社造や住吉造、一時的な神の住居と見られる春日造と流造(ながれぞう)、やや複雑な屋根や内部空間を持つ八幡造や日吉造、拝殿も一体になった石の間造(権現造)などがある。
神明造は伊勢神宮、大社造は出雲大社に代表される形式で、これらには共通点がある。

1.屋根を切妻とし植物性の材で葺く。
2.板床を比較的高く設ける。
3.壁面は板壁とする。
4.柱を掘立式(ほったてしき)とする。
5.組物をもたない。
6.各部材が直線的で、かつ素木のものが多い。
などである。

神明造は桁行三間、梁間二間、切妻造、平入で、柱は掘立てとして頂に直接桁をのせ、妻側には棟持柱(むなもちばしら)が独立して立つ。妻には豕扠首(いのこさす)を組み、軒は一軒で反りがなく、破風板は直線で上部に鞭掛(むちかけ)がつき、破風板の先端は屋根を突き抜けて千木(ちぎ)となる。正面中央間を板扉とするほかは板壁で、四面に縁を回し、正面に木階を設ける。
(参考:濱島正士氏著「寺社建築の鑑賞基礎知識」)

さて当然のこと、この仁科神明宮は上記の通りの造りである。社殿の奥に、正面三間・側面二間の本殿、前方には四脚門形式の中門が立ち、この2棟の切り妻屋根を繋(つな)ぐ釣屋(つりや)がある。(写真@) この2棟と釣屋が国宝に指定されている。

@左奥から
本殿、釣屋、中門
A棟桁にのる
鰹魚木(かつおぎ)
B千木になる破風と
鞭掛(むちかけ)
C棟持柱(左)と高床 D檜皮葺の屋根 E高欄、木階

本殿の屋根は檜皮葺で6本の鰹魚木(かつおぎ)がのっている。(写真A) 破風板は伸びて千木になり(写真B)、妻側に壁面から離れて独立する棟持柱が立つなど(写真C)、伊勢神宮と同様な神明造の特色をよく示している。
破風から出る鞭掛(むちかけ)は粋な意匠だが、棟桁は後ろから見ると最近補修したような新しい木材が取り付けられている。(しかもあまり上等の木材じゃないのが気になった。写真B)

社殿の造営は創始以来、皇太神宮にならって20年ごとに式年造営(一定期年をおいて新殿に造り替えること)が行われてきたが、寛永13年(1636)以降は修理をもって造替にかえている。
しかし、この森は今日のように雨が降っていなくても、空気はひんやりと湿っているのだろうと思う。木造建築にとっては、ちょっと厳しいこんな環境のところに素木のまま600年以上立つ社殿を、これからも修理のみで維持していくのは、並大抵のことではないと思う。
僕のバイブル「講談社 国宝の旅」の写真を見る限り小さくて貧相な社殿かと思っていた。だから、あきらくんと、だいちゃんには「ショボかったらゴメン!」と言ってやって来たが、とんでもない!
確かに小さな社殿ではあるが、森厳な境内に立つ素朴な社殿は、国宝という名にふさわしく僕らにその力を与えてくれた。
古びた素木の建築は、
煌びやかな装飾がほどこされた、いかなる建築よりも美しい。


これが日本建築の本質的な美学であると思ったりもする。





第117話 気まぐれ鎌倉散策 その1


本日は晴天なり!

このあいだの雨の仁科神明宮とはうってかわって、今日は素晴らしい秋晴れになった。天気のいい休日の朝、僕は不思議と早く目が覚める。

そうだ、鎌倉に行こう!
鎌倉は大阪にいるときの京都や奈良のように、東京に住んでいるとどうしても気になる場所なのだ。、2002年10月・体育の日の連休、僕は第46話「円覚寺舎利殿」最後の文章の約束通り、鎌倉にやって来た。
鎌倉には国宝建造物は「円覚寺舎利殿」があるのみだけど、これは拝観できる日時が決まっている。(今年は11月2〜4日です。) いつ行っても見られる国宝としては、かの有名な「鎌倉の大仏さま」、そして「建長寺 梵鐘」と「円覚寺 梵鐘」がある。気まぐれかもしれないけど、このへんの国宝も今日はちゃんとおさえていきたいと思う。

で、先ずは「国宝 鎌倉の大仏さま」である。正式には「阿弥陀如来坐像(鎌倉大仏)」という。「鎌倉の大仏さま」へ行くには、JR鎌倉駅から江ノ島電鉄(通称:えのでん)に乗って、3つ目の駅「長谷」で降りる。大仏さまのいる高徳院には、お土産屋さんやお洒落なお店が並ぶ道を北へ歩いて10分ほどで着く。
像高11.3mは、奈良東大寺の大仏さまに次いでの大きさである。室町時代明応7年(1498)の大地震と津波により堂舎は失われ、大仏さまは露座(ろざ)となった。

拝観料を払ったときもらったチケットの裏にはこのように書いてある。
この大仏は700余年前の造立で阿弥陀仏である。僧・浄光が民間に資金を勧進して造立された。最初は木造で暦仁元年(1238)に着工し、寛元元年(1243)に完成したが、宝治元年(1247)の大風で仏像も殿舎も破壊されたので、今度は青銅の大仏を鋳造せんとして、建長4年(1252)工を起こし仏像も殿舎も数年で完成した。鋳工として大野五郎右衛門の名が寺伝にあり、丹治久友(たんじひさとも)の名が他の記録に知られるのみで原型作者は不明である。

写真@像全体 写真A頭部 写真B定印
写真C像全体 側面 写真D背面 写真E胎内

大きなお顔は四角くつくられ、切れ長の目とふくらみの強い上瞼、肉どりゆたかな鼻梁と唇が印象的だ。胸板は厚く、上半身は量感が充実していて、大仏の風格をそなえている。両手は結跏趺坐(けっかふざ)した脚の上に定印(じょういん)をとっている。定印とは仏像の組み手の印相のひとつであり心の安らぎを助ける姿勢であるという。
鼻の下をはじめ身体に数段の横筋が見えるが、これは下から上にかけて鋳造したあとである。継ぎ目は巧妙な鋳(い)からくりという技法で接合している。
後ろ姿はちょっと猫背で、力強い正面とは逆に何か男の悲哀を感じないでもない。が、なぜか肩の下に窓が二つある。それから、どういう価格設定か判らないが20円を払えば、この大仏さまの胎内にはいることができる。しかしどうだろう?宗教的に胎内にはいること、あるいは学術的に製造過程を調査する目的で胎内にはいるのことは、意義のあることかもしれないが、何も判らない万人を胎内に入れるというのは、あまり意味のないことだと思うのですが・・・。ちなみに写真Dの下部の王冠のような形の部分は、写真Bの胸の下の部分であり、上部の穴は大仏さまの頭部である。
この鎌倉の大仏さまは常に奈良の大仏さまと比較されるが、奈良の大仏さまが、江戸時代に大幅な修理を受けているのに対し、ほぼ鎌倉時代造立当初の姿を保っているという点で非常に貴重な存在である。鎌倉の大仏さまはもう500年以上も屋根のないところで過ごしていることになるが、今もなお健在である。


駅までの戻り道、すこし西に入ったところにある長谷寺(はせでら)に寄ってみた。長谷観音と呼ばれ日本最大の木造観音を御本尊とするお寺である。こちらも大仏さまの高徳院に負けず劣らず、大勢の参拝客で賑わっている。
近年に再建されたと思われる鉄筋コンクリート造の本堂のなかには、鎌倉時代の作とされる9.18メートルの巨大な十一面観音像が立っている。長谷寺の観音さまは一般の十一面観音とは異なり右手に錫杖を持つ独自な姿で「長谷寺系」といわれ、地蔵菩薩による冥土の地獄救済と、観音菩薩による現世利益との両面を兼ね備えているらしい。


観音堂

寺の伝説によると、当寺の本尊は、奈良の長谷寺と同木同作と伝えられる。養老5年(721)徳上(とくじょう)上人が一本の楠(くす)から二体の十一面観音を彫った。木の本(もと)で造った尊像を奈良の長谷寺にお祀りし、木の末(すえ)で造った尊像は縁のある地に出現し、人々を救って下さいと祈って海に流された。その16年後、天平8年(736)6月18日夜、相模国三浦の長井に流れ着き、海上に光明を放っていたという。その後尊像は御本尊として鎌倉のこの地に移され、徳上上人を招いて寺を開いたのが、ここ長谷寺の始まりといわれている。
また、康永(こうえい)元年(1342)に足利尊氏が金箔を施し、明徳3年(1392)には足利義満が光背を造って納めたといわれる。現存する古資料からは、鎌倉時代にはすでに長谷寺が栄えていたことが判っている。

地蔵堂 弁天窟 フジバカマの花?

千体地蔵と呼ばれ、小さな地蔵様が無数に供えられた地蔵堂や洞窟の壁面に弁財天とそこに司る16童子が刻まれている弁天窟(べんてんくつ)は見所だと思う。また、経典が入った輪蔵(りんぞう)と呼ばれる回転式書架がある経蔵も面白い。
そして多くの人が訪れるもう一つの理由は、境内に植えられた四季折々の花木の美しさにあると思う。この季節には、萩や桔梗、秋明菊・十月桜・ほととぎす等が楽しめる。





第118話 気まぐれ鎌倉散策 その2


鎌倉は南の一方のみを海に開き、他の三方は山に囲まれている。源頼朝はこの要害(ようがい)の地を幕府という軍事政権の中枢とした。周囲の山々の標高は100mに満たない低いものだが、馬に乗って戦うこの時代の武士の攻撃を防ぐには十分であり、鎌倉七口と呼ばれる切通道(きりどおしみち)や、外に向かって深く切り下げた断崖状の大切岸(おおぎりぎし)によって、厳しく外部から防衛されていた。源頼朝の幕府創立以来、鎌倉は政治都市として急速に成長し、鎌倉時代後期には人口10万以上との見方もあるくらい、その人口密度は高かったようである。
その鎌倉の町を南北に走る軸がある。南は由比ヶ浜から、北は鎌倉中央部の丘の中腹に立つ鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)までつながる若宮大路である。
寿永元年(1182)、源頼朝が妻・北条政子の安産を祈願し、家臣総出で造らせたという段葛(だんかずら)。道路より一段高く土を盛った風情のある参道だ。
段葛はこんな風に
道路と隔てられる
段葛の桜並木
二の鳥居と三の鳥居の間、約450mにわたって続くこの参道は、鶴岡八幡宮に向かうに従い道幅が狭くなっている。目の錯覚を利用して、距離を長く見せる工夫をしているそうだ。(たしかに僕の歩幅で測ると、二の鳥居では7歩あったのに、三の鳥居の手前では4歩しかなかった。) 春には桜とツツジで彩られるのだろう。

鶴岡八幡宮は大分県の宇佐神宮、京都府の石清水八幡宮とともに八幡宮を代表する社である。源頼義(みなもとのよりよし)が奥州平定を成し遂げたあとに京都の石清水八幡宮を材木座に勧進し、源氏の守神としたのが始まりとされている。その後、源頼朝が現在の場所に遷宮し、鶴岡若宮と称し八幡宮の礎を築いたのだ。社殿はその後二度ほど火災で焼失してしまったが、文政11年(1828)に再々建されたものが今日に残る。国の重要文化財に指定されている本宮と静御前が義経を思い、舞ったという下拝殿(舞殿)は建築的にも優れた逸品だと思う。

下拝殿(舞殿) 本宮@ 本宮A 本宮B

とにかく今日は好天なので、すごい人出である。これほど人々に愛され、また歴史的にも意義深いこの八幡宮は

いずれ国宝に指定されるだろう。
但し、いま順番的には江戸時代・17世紀の建造物が指定されているので、もう少し先になるかもしれないが・・・。

さて、次は北鎌倉の建長寺だ。しかし、ここ鶴岡八幡宮から建長寺へ行くには、その手段が難しい。JRで北鎌倉へ行くには鎌倉駅まで反対方向に歩く上に、北鎌倉駅で降りては行き過ぎてしまうし、どういうわけか北鎌倉行きのバスは30分に1本しか来ない。休日なので道が混んでいるため、流しのタクシーも来ないのだ。

よし、歩いていこう!

鶴岡八幡宮の西側の鎌倉街道を北にだらだらと続く長い坂道を登り、峠のトンネルを抜けると建長寺総門前にたどり着く。鎌倉幕府五代執権北条時頼によって創建され、鎌倉五山の第一位として栄えた禅刹(ぜんさつ)である。
鎌倉五山位に列した諸寺は、時期によって多少の異同はあるようだが、一般的にいわれる順位は、室町時代三代将軍足利義満の至徳3年(1386)の制度によるもので、第一建長寺、第二円覚寺、第三寿福寺、第四浄智寺、第五浄妙寺である。
建長5年(1253)北条時頼によって、わが国最初の禅宗専用道場として建立されたこの寺は、三門・仏殿・法堂の主要伽藍が一直線に並ぶ宋の禅林伽藍を模した伽藍配置になっている。創建当時建ち並んだという49もの伽藍や塔頭(たっちゅう)も、その後いくたびもの地震や火災により多くが失われたが、近世に入り徳川幕府によってかなりの部分が復興されている。
総門をくぐると、「建長興國禅寺」と黒地に金文字で書かれたひときわ鮮やかな扁額が掛かる三門が現れる。この文字は後深草天皇(1246〜1259)筆と伝えられている。建立は建長5年(1253)頃とされているが、のちに火災で焼け落ち、安永4年(1775)に再建されている。

建長寺三門 国宝 建長寺梵鐘

この三門右手にある鐘楼に国宝建長寺梵鐘(ぼんしょう)が吊されている。建長寺創建2年後の建長7年(1255)に、中世の関東地方で活躍した鋳物師(いもじ)物部重光(もののべしげみつ)によって鋳造された銅鐘で、建長寺創建当時の貴重な遺品のひとつである。総高(208.8cm)に対して口径(124.3cm)がやや大きく、末広がりで堂々とした梵鐘だ。陽鋳(ようちゅう)という技法で繊細に浮きだし文字で書かれた銘文は、建長寺創建の気概と鋳鐘(ちゅうしょう)の意義が述べられている。(らしいが難しすぎて僕にはちょっと読みとれない。)


建長寺仏殿 仏殿組物 建長寺法堂妻側

三門の延長には開山の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が手植えしたと伝えられるビャクシン(ヒノキ科でカイヅカイブキによく似ている)を前に、仏殿が建つ。おなじみの禅宗様建築で、なんといっても軒下で幾何学的に連なる組物が絶妙であると思う。仏殿の背後には今年解体修理のなった法堂(はっとう)が建ち、側面から回り込むと巧みに装飾された妻飾りが美しい。
しかし、僕は朝から歩きっぱなしだ。
いったい、どのくらい歩いただろう?

恐らく、10km近くは歩いていると思う。僕はちょっと疲れてきたのだ。
法堂の左手にある東屋で煙草を一服していると、山手の方からぞろぞろと下りて来た人たちがここで休息をとりだした。
この先に何があるんですか?

僕は若いカップルに聞いてみた。
半僧房と展望台があります。

という。さらに、展望台へはここから30分近くかかるという。身体は疲れているが、「展望台」という響きが僕の気持ちを奮い立たせた。「よし、行ってみよう!」  きっと素晴らしい眺望が今日一日の疲れを癒してくれるだろう。


半僧房 展望台

半僧房、展望台へはこれだけで充分体力を使い果たすような、ちょっとタフなコースだ。一気に登りつめた僕はこの展望台でしばし意識が朦朧(もうろう)とした。空と眼下の風景は、少し霞(かすみ)がかかってきた。しかし、相模湾と、建長寺の伽藍(がらん)群を一望できるこの景観は、汗をかいただけの価値はあると思う。

円覚寺三門 国宝 円覚寺梵鐘

次は(まだあるぞ!)、去年の11月以来の円覚寺だ。円覚寺には国宝・舎利殿があるが、詳しいことは第46話で。
三門から少し右に逸れて、山を登ったところに弁天堂と国宝・円覚寺梵鐘がある。
総高(259.0cm)、口径(142cm)は建長寺のそれよりひとまわり大きい。優れた技法で雄大に造られたこの梵鐘は鎌倉時代の卓越した作品で、その風格は数ある同類の中でもずばぬけている。鋳造は正安三年(1301)で、9代執権・北条貞時の時代のものである。父時宗が壮大な円覚寺を創建してから19年後、天子・国家の長久と、将軍・北条家など重臣の永遠の繁栄を願って鋳造されたという。作者は物部国光(もののべくにみつ)で、建長寺の梵鐘を鋳造した初代重光(しげみつ)から数えて3代目である。国光は物部氏のなかでも、最も多くの鐘を造った鎌倉時代を代表する鋳物師(いもじ)である。彼が造った作品中、円覚寺梵鐘は最大のものであり、鎌倉でも最も大きなものである。

ふぅ〜。
ちょっと欲張りな鎌倉散策だった。普通ならなかなかへこたれない僕だけど、さすがに今日は疲れた。
円覚寺入口の北条家々紋入りの提灯に明かりが点って、僕は今日の有意義な1日を終えた。





第119話 孝恩寺観音堂

大阪は朝からあいにくの雨である。
観光旅行なら雨よりも晴れた方がいいに決まっているが、こと国宝建築を観るということなら、最近僕は雨の日もまたチャンスであると思うようになってきた。国宝建築の背景が灰色の雨雲というのは構図上あまりよろしくないが、晴れた日のように光と陰のコントラストがなく、写真はきれいに撮れる。(手ぶれさえ気をつければね。) そして雨にしっとりと濡れた瓦は、乾いているときよりはるかに表情豊かである。
というわけで、今日はあまり遠出はせず、近場で「瓦屋根」をの国宝建築を探してみた。そんな都合よく国宝建築があるかい!と言われそうだが、いえいえここは畿内、僕んちの近くにちゃんとあったのだ。大阪府貝塚市、孝恩寺(こうおんじ)観音堂だ。
大阪・住之江区の僕んちからだと貝塚市へは阪神高速で30分で行けてしまう。こんな近くにある国宝建築を今まで放っておいたなんて、申し訳ないと思う。貝塚市はあの「だんじり祭り」で有名な岸和田市と関空のある泉佐野市にはさまれた町である。孝恩寺は貝塚市街からすこし山手に入った和泉葛城山(いずみかつらぎさん)の麓にある。
刈り取り前の黄金色の稲穂、甘そうに熟した実をつけるみかんの木、色づき始めた柿の実、最近ではあまり見かけなくなったセイタカアワダチソウがあちこちに群生する。

風景は黄色だ。

孝恩寺観音堂は「木積(こつみ)の釘無堂(くぎなしどう)」と一般的には呼ばれている。木積というのはこの辺りの地名で、奈良東大寺の大仏の勧進を務めた行基(ぎょうき:668〜749)が畿内に建てた四十九院建築(しじゅうくいんけんちく)用材の集積地との伝承からそう呼ばれているらしい。また釘無堂という呼称はお堂建築にあたって、仕口(しぐち)や継手(つぎて)に釘を使わずに組み上げていることからということらしいが、古建築を少しだけ知っている僕にとってはちょっと常識的ではないと思う。

阪和自動車道貝塚ICの北にある木積下という信号を東に入って少し行くと、小さな橋の手前に「釘無堂前」という古びたバス停のポストだけがぽつんと立っている。そこを左に折れ、坂道を登ったところに孝恩寺はある。
孝恩寺は行基の開創と伝えられるが、観音堂の建設年や寺の変遷を知る史料は極めて少ない。建築様式から、14世紀初め、鎌倉時代末期の建築であると推定されている。また大永7年(1527)銘の屋根瓦が使われており、室町時代の末期に修理が行われていることが知られている。当時は根来寺の支配下であったため、豊臣秀吉の根来寺征伐で兵火にかかり、観音堂のみが残ったという。その後、江戸時代には深谷山観音寺(ふかやさんかんのんじ)と称されていたが荒廃が著しく、明治時代には廃寺となってこの観音堂だけが残っていた。大正3年(1914)に孝恩寺に合併され今日に至っている。

雨が小降りになってきた。
僕の思った通りだ。

瓦屋根が美しい。しっとりと雨に濡れることによって、瓦1枚1枚の色彩の違いが浮かび上がる。そして、いつも国宝建築で見る本瓦葺(ほんがわらぶき)とはすこし違ったテクスチュアである。「行基葺(ぎょうきぶき)」という葺き方で、上の方の丸瓦に、尻を細くした丸瓦を下から差し込んで重ねていくという珍しい技法である。この行基葺の数少ない例としては、奈良・元興寺極楽坊本堂や大分・富貴寺大堂(ともに国宝建造物)があるくらいである。

孝恩寺観音堂 行基葺の屋根

孝恩寺は小さな寺である。僕がこの国宝の旅でこれまでに訪れた寺院の中ではもっとも小さな寺なのだ。国宝観音堂は南に面して建ち、そのすぐ北側には最近再建されたと思われる収蔵庫や庫裏が通路を1本はさんで建っている。その通路は少し生活の匂いがするが、むしろそのほうが大きな境内に大伽藍を構える観光のためのような寺院とは違った、地域に根ざした寺院本来の姿に映る。境内の南西に位置する小さな四脚門をくぐると、すぐ目の前に国宝・孝恩寺観音堂が現れる。雨のせいか、境内には誰一人いない。
観音堂は方5間(12.72m×12.72m)で寄棟造、前述の行基葺である。正面中央3間と背面中央は禅宗様の桟唐戸(さんからど)を吊り、正面両端と側面前よりの3間は縦桟をはめた和様の連子窓(れんじまど)としている。正面の桟唐戸が開いているが、なぜかそこにはガラス戸が入っている。

四脚門 観音堂全景 正面中央
正面左側 軒と組物 観音堂側面

力強い行基葺、向拝はつけない点、丸柱を使う素朴な意匠は、奈良系の和様建築そのものである。けっこう節が目立つ太めの丸柱は、足固貫(あしかためぬき)、内法貫(うちのりぬき)、頭貫(かしらぬき)の横材で固められている。軒は垂木を2段とした二軒で、正面柱間には透彫(すかしぼり)の本蟇股(ほんかえるまた)、側面柱間には間斗束(けんとづか)がつく。
考恩寺には重要文化財に指定された仏像が18件19体もあり、収蔵庫に安置されている。9〜12世紀のほとんどが一木造りの等身以上の仏像で、これらを除いて和泉(いずみ)の仏像は語れないとまでいわれている。が、拝観には事前申請が必要だ。

朝から降り続いた雨がようやく上がった。空が明るくなってくると屋根がさらに微妙な色彩を放ち出す。

雨の日、孝恩寺の甍(いらか)は美しい。





第120話 東京の普賢菩薩(ふげんぼさつ)


今度は東京だ!

長野から鎌倉、そして大阪から東京、つくづく僕の行動範囲は広いと思う。そして今日の東京は晴天だ。秋から冬にかけては都内でも驚くほど青い空が広がる日が多い。
営団地下鉄銀座線・虎ノ門駅から10分ほど歩いたところに、ホテルオークラと併設して大倉集古館(おおくらしゅうこかん)がある。都会のビル群の中にあって、緑青銅板の屋根と石貼りの壁はひときわ存在感がある。

大倉集古館

大倉集古館は大倉喜八郎(1837〜1928)が創立した美術館である。氏は明治維新以来、日本の産業の振興・貿易の発展に尽力し、育英、慈善事業にも功績が多かった。一方、文化財の海外流出を嘆いてその保護とわが国の文化の向上に努めた上、50余年にわたって蒐集(しゅうしゅう)した多数の文化財、土地、建物及び基金を挙げて寄付し、大正6年(1917)8月に財団法人・大倉集古館が誕生した。わが国では最初の私立美術館である。所蔵品は絵画、彫刻、書跡、工芸など広範にわたり国宝3点、重要文化財12点をはじめ、美術品2000点に35000余册の漢籍を所蔵している。
僕がこの大倉集古館に行く目的はただひとつ、東京に唯一ある国宝彫刻・普賢菩薩騎象像(ふげんぼさつきぞうぞう)を見るためだけなのだ。それ以外の美術品は今の僕には解らないし、申し訳ないけど興味もない。東日本においても、これ以外の国宝彫刻は「福島県勝常寺の薬師如来坐像及び両脇侍象」と「鎌倉の大仏さま」しかないのだ。
普賢菩薩像を見るためだけに入館料1000円を払うのは、ちと痛いと思うが、僕には「国宝倶楽部」部長としての使命がある。

今日、普賢菩薩さま観れますか?
一応、受付の女性に聞いてみた。国宝は展示会などで、たまに出張することがあるのを僕は知っている。もし観られないのなら、僕にとってこの1000円は捨てるようなものだ。


国宝普賢菩薩騎象像は集古館の1階、南奥にひっそりと安置されている。

繊細な仏像だ!
普賢菩薩は仏の徳と悟りを求める心を表す。女性的な優しく、ふくよかな顔立ちと、目を細め夢想するような繊細な表情である。

僕は最近、なぜ国宝仏なのか(なぜ国宝に指定されているのか)?分かるような気がしてきた。その基準は、
第1に、時代的に古いこと。(といっても、室町時代以降は仏像彫刻は衰えてしまい、国宝に指定されている彫刻はない。)
第2に、造りが繊細であること。
第3に、いいお顔をしてること。
第4に、制作における難易度が高いこと。


ものすごく簡潔に表現したが、このうち、3つも満たしていれば恐らく国宝だ。たぶん、文化庁さんの判断基準もこれと大きくは変わらないだろうと思うのだが。
そして、この普賢菩薩はこの(僕の)基準をすべてクリアしているのだ。

「観普賢経(かんふげんきょう)」によると、普賢菩薩は東方・浄妙国土(じょうみょうこくど)から、六牙(ろくげ)の白象(びゃくぞう)に乗ってこの世に現れると説く。象の背には七宝荘厳(しっぽうしょうごん)の鞍(くら)を置き、その上に蓮華台を載せ、そこに普賢菩薩は結跏趺坐(けつかふざ)し、法華経の行者(ぎょうじゃ)を見て歓喜し、敬礼(きょうらい)するという。この像はまさにそのありさまを立体化したものである。
高さ87cmの小さな像は檜(ひのき)から彫りだされている。その柔らかな材質をいかして入念に刻まれた髪の毛は、頭頂で二段に結わえられ優美な髪型となって典雅な趣をたたえている。ゆったりと流麗に流れる衣のひだ、なで肩の体つき、胸をひいて背をやや丸める姿勢は平安後期の作風とされる。
剥落のため多くの色彩は失われているが、鞍(くら)の左側、菩薩の背面部分にその色彩の豊かさをうかがうことができる。特に腰の部分に残る細い金箔を貼り付けた「截金(きりかね)」という文様は精緻の至り、息をのむ繊細さである。
伝来は不明であるが12世紀前半、京の都で造られたものと推定され、平安時代まで遡る普賢菩薩像としては稀少な一例であり、類品中随一の名品と称される。





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