第25章 師走の薬師


第126話 仲間たち

早いもんだ。いつの間にか12月が来て、今年も1年を振り返る時期が来てしまった。
数えてみると僕は今年、34件もの国宝建造物を見てきた。僕はそれら国宝について多くの知識を得て、もう素人の域を完全に脱したと思う。知識だけでなく、それを成し得た職人達の思いや、深く刻まれた歴史を読みとることも少しはできるようになったかもしれない。そして、数々の国宝の美しさは、しっかりと僕の脳裏に焼きつけてある。

年の初めから何回も、何ヶ月も通った斑鳩。
仲間たちと盛り上がった東北・福島の旅。
初夏の若葉に包まれた春日野も良かった。
七夕祭りで賑わっていた高岡の町。
讃岐、広島と瀬戸内の美しさを満喫した夏。
秋の信州や鎌倉にも感動があった。
そして、大分には美味しい国宝もあった。

多くの思い出が詰まった1年が過ぎた。それは僕の思い出であり、仲間たちとの思い出でもある。国宝倶楽部の仲間も今年は、女性ばかりが5名も加わった。これは残念ながら部長の僕の力ではなく、「国宝の力」なのだ。
今回はそんな仲間たちを紹介したいと思う。
部員NO. 名前 性別 入部 仲間紹介
01 2001.05 その土地の美味しそうなご馳走を前に、「乾杯!」
と、グラスを合わせるその瞬間がたまらない。そし
て、国宝について語り合う。みんなの笑顔や美しい
ものに出逢える歓びが、この活動のエネルギー源
だと思う。
02 あきらくん 2001.05 国宝倶楽部の活動は皆勤。古き良きものを理解す
る心は、たぶん部員の中では一番だろうと思う。彼
がいなければ、部活もここまで続かなかったかもし
れない。
03 だいちゃん 2001.05 今年の6月に部員「やしろちゃん」と結婚した。来年
2003年5月にはお父さんになる。最近、幸せ太りか
ボクシングの階級ならヘビー級になってしまった。
04 とむ 2001.05 とむも国宝倶楽部は皆勤だ。若くて理解力の高い
とむは知識吸収が早い。今後も倶楽部のブレインと
しての活躍が期待できる。
05 せいえいくん 2001.05 今年5月に結婚した。第1回国宝倶楽部に参加した
きり、活動していない。いずれ奥さんの「みえちゃん」
と一緒に復帰してもらいたいと思う。
06 あきただくん 2001.06 今年の5月に僕の勤める会社を退職してしまった。
いい奴だったのだけに、残念だと思う。思い通りにい
かない。まあ、人生とはこんなものかもしれない。
07 やしろちゃん 2002.02 だいちゃんと結婚して、今はお母さんになるための
準備期間。やしろちゃんのお父さんの実家は、なん
と出雲大社の門前にある。だから「やしろちゃん」の
名前は「大社」の「社(やしろ)」からだそうだ。何年
か後には国宝倶楽部で、子供の手を引いて出雲大
社に行きたいと思う。
08 さおりん 2002.02 やしろちゃんの友達で兵庫県在住。去年の「聖徳太
子展」や今年の2月「法隆寺・太子の日」に一緒に参
加しました。お元気ですか? また声をかけます。
09 あやちゃん 2002.04 今年4月に入部したあやちゃんは、旅行の達人。
大分の時は色々と活躍してくれた。女性では珍しく、
幕末・竜馬ファンだ。
10 まゆちゃん 2002.04 4月の「福島の旅」からご無沙汰です。バリバリ仕事
頑張ってるんだろうと思う。またの参加、お待ちして
ます。
11 なおちゃん 2002.10 まだ食ったことないが、鮨をにぎらせたら一級職人ら
しい。カメラの腕前も年々上がってきたぞ。国宝倶楽
部自慢のキャラクター商品です。
準部員 まみちゃん 2001.06 美味しい食いものがないと国宝倶楽部には参加しな
い。去年「三陸海岸の生ウニ」と、今年「別府の関サ
バ」には参加した。ある意味、徹底している。
候補生 さっちゃん   ♪さっちゃんはね、「さちこ」っていうんだ、ほんとは
ね。大阪在住のさっちゃんが、僕らの活動に興味を
示してくれた。こんどの国宝倶楽部には参加できれ
ばいいね。

来年もまた仲間が増えることを期待して、活動を続けていきたいと思う。

活動のネタはまだまだ尽きないのだ。

そして、2002年の終わりに(ひとりだけど)、奈良の薬師寺を巡ろうと思う。薬師寺には最も洗練された仏の姿とされる薬師三尊像と、アメリカの美術研究家・フェノロサから「凍れる音楽」と形容された薬師寺東塔がある。もちろんどちらも国宝だ。





第127話 西の京・薬師寺


師走12月15日(日)、しばらく寒い日が続いた天候も少し和らぎ、近畿地方は朝から青空が広がった。
第2阪奈道を下り、秋篠川を渡ったところを南に折れると、そこは「西ノ京」と呼ばれる町である。かつて朱雀大路によって、西と東に分けられた平城京の西半分を指すことから呼ばれるようになった地名である。市街地化が進んだとはいえ、今なお強く古都の雰囲気を残している地域だ。そんな地にある薬師寺は西の京を代表する、いにしえの寺である。
秋篠川あたりから薬師寺を眺めると右に古い東塔、左に新しい西塔が少し距離をおいて立つ。その奥には金堂の大屋根がひかえる。

屋根の形が違うぞ!?
どういう訳か東塔と西塔の屋根の勾配が違うのだ。東塔はなだらかに屋根が下るのに対し、西塔の屋根は突っ張った感じがする。何故なんだろう? まあいいか、あとでお寺の人に聞いてみよう。
西に見える生駒山は朝靄(あさもや)でまだ青白く見え、畦道には犬を散歩させる人の姿も見える。薬師寺の南側にある広い駐車場には、まだ1台しか車が入っていない。僕の朝は今日も早いのだ。

秋篠川から 南門へ
薬師寺は天武9年(680)に天武天皇の勅願により皇后の病気平癒を祈願し建立が始まった。当初はこの地ではなく、ここから20kmほど南の藤原京(現在の橿原市)に建てられたのがこの寺の始まりである。しかし、こと半ばにして天武天皇が亡くなり、続いて即位した皇后(第41代・持統天皇)が亡夫の遺志を受け、文武(もんむ)2年(698)頃に完成されたとされる。その後平城遷都にともない、養老2年(718)にこの地に移された。藤原京の薬師寺はその後も本薬師寺(もとやくしじ)と呼ばれ存続したが、平安時代中頃に廃寺となった。金堂や東塔の礎石が今も残されているそうだ。
薬師寺はその後幾度かの衰退を繰り返したが、天禄(てんろく)4年(973)の大火で寺の歴史上最大の被害を被り、伽藍の大半を失った。さらに享禄元年(1528)兵火により金堂・講堂・中門・西塔などが灰燼(かいじん)に帰した。幸いにも東塔だけが焼失を免れ、また金堂の薬師如来及び両脇侍像は火災から救い出され、今に伝わっている。
近年になって、金堂・西塔・中門が復興され、現在は大講堂が再建中である。
中門をくぐると、鮮やかな朱塗りの中門と回廊、背後に金堂と西塔。右には古色で、回りの伽藍とは違和感を感じさせながらも、ひときわ存在感が強い国宝・東塔が立つ。しかし、よくぞここまで復元したものだ。復元費用は写経行者の勧進によって集まったという。この寺を信仰し、また愛する思いが成し遂げた偉業だろうと思う。

西塔 中門 東塔 東塔・回廊・西塔

残念ながら、拝観受付の横には「三脚禁止」の表示がある。
どうしてなの?

三脚を持って寺に入る人は、真剣に写真を撮ろうとする人しかいない。それを振り回して、建造物を傷つけるようなことはあり得ないと思うのだが。それとも混雑時のトラブル防止策なのだろうか?僕は背中に背負った三脚が少し重たく感じてきた。まあいい、今日は天気もいいし三脚が無くてもいい写真は撮れるだろう。

なぜ、屋根の勾配が違うんですか?

回廊の中に入るなり、僕は係員のおじさんをつかまえて、先程疑問に思ったことを確かめてみた。
初老のおじさんは、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに説明を始めたのだ。(まだ参拝客がいないので暇なのかもしれない。)

西塔は昭和56年(1981)に落慶しました。今に残る東塔と形が少し異なるのは、西塔は寺に残る史料により、創建時の形を忠実に再建したのです。それに対し東塔は、8世紀から今日に至るまで幾度となく改修が繰り返され、創建時の形とは異なってきているのです。東塔の屋根の形も最初は西塔の形だったんですよ。(標準語で喋っていますけど、本当は関西弁でした。)

へえ〜、そうだったんですか。じゃあ窓のあるなしも、そのせいなんですか?
(西塔には各層の左右に連子窓が付いているが、東塔にはそれがないのだ。)

連子窓のある
西塔
連子窓のない
東塔

そのとおりです。東塔も最初は窓があったんですよ。
それから、二つの塔の基壇の高さを比べてみてください。西塔の方がずいぶんと基壇が高いでしょ。東塔は長い年月の間に地盤が沈下して、基壇が低くなってしまったんですよ。だから今は西塔の方が背丈も少し高いんです。ちなみに10年で1cmくらい地盤沈下するといわれていますから、何百年か経てば同じ高さになると言われています。


なるほど、よく解ったぞ! ということは、
創建時の形を知るなら西塔、
創建時からの古さを知るなら東塔


を見ればよいということになる。結果的に、見る者にとってとても解りやすく、便利にできているのだ。
しかし、東塔と西塔の総高の違いは80cmもあるという。現代の建築技術をもって突き固められた地盤の上に、強固に建てられたこの西塔が、本当に何百年か後に東塔と同じ高さになるのだろうか?

僕は少し心配だ...。





第128話 薬師寺・薬師三尊像


先ずは、薬師三尊像を見よう!
小学校の時か中学校の時か忘れたけど、教科書類には必ずこの寺の三重塔と薬師三尊像の写真が載せられていたと思う。塔の各重の屋根と裳階のリズミカルな造形と、日光・月光菩薩の腰をひねったしなやかな曲線美は、記憶の中では、日本でいちばん美しい塔であり、いちばん美しい仏像だったはずだ。
そんな思いを持った薬師寺なのに、僕は初めてこの寺に来た(と思う)。大阪から高速に乗れば1時間足らず、いつでも行けるという安心感は、かえって足を遠のかせてしまうのだ。
目の前、回廊内の中央には壮麗な姿の金堂が立つ。薬師三尊を祀るにふさわしいお堂にしたいという願いから、平安時代の古文書「薬師寺縁起」、そして発掘調査、さらには東塔の造りを参考に9年の歳月をかけ、昭和51年(1976)に完全に近い形で創建時の金堂が蘇(よみがえ)ったのだ。「竜宮のような」という形容にふさわしく、不思議な求心力を持ったお堂に、僕は吸い込まれるように入った。

薬師寺金堂
いきなりである!
恐る恐る入った金堂には、長い間写真でしか見たことがなかった憧れの三尊像が、目の前に突然現れる。胸を突かれるようなショックを身体に感じる瞬間だ。しばし、くぎ付けにされたように三尊と対面することになる。今までに見てきた仏像と何か違う感じがする。像はギリシャ・ローマの彫刻のような写実的な表現をしながらも、仏の持つ尊厳を失っていない。たいていの仏像が「ここの部分はちょっと稚拙(ちせつ)だね」という部分があるのに、この三尊にはそれが見あたらない。

完璧だ!と思う。

国宝・薬師如来及び両脇侍像、まさに国宝中の国宝だ。尊厳さ、雄大さ、崇高な美しさ、技術の高さ、どの形容詞を持ってきても最高と表現できる超一流の芸術品である。
白大理石の仏壇の上、どっしりと宣字座(せんじざ)の上に坐る中尊・薬師如来坐像に対し、両脇侍の日光・月光菩薩像は共に首を軽く内側に向け、腰を内側にひねり内側の手を前方に掌(たなごころ)を前にする。外側の手は自然に垂れて、手首を柔らかに曲げている。三尊一具、見事な構成美、均衡美である。

三尊とも蝋型(ろうがた)による鋳銅(ちゅうどう)製で、粘土で像の中型(なかご)を造り、その上に蜜蜂の巣から採取した蝋で細部まで塑形し、さらにその上を粘土で覆って外型(そとご)とし、それを焼いて蝋の流れ出た空隙に溶銅を流し込んで造られたものと考えられている。もともと表面は鍍金(ときん)により黄金色に仕上げられていたが、ほとんどが剥落し、今は御身拭(おみぬぐ)いなどによって、黒光りしている。1年前に見た中宮寺の国宝・如意輪観音像と同じように、仏としてはこのほうが重みがあると僕は思う。キンキラの成金趣味は好きでない。
制作年代については二説あり、藤原京の薬師寺に祀られていたとする7世紀末とする説と、平城京に移転に伴う新鋳で8世紀初頭とする説がある。

中尊は、面相も体つきも充実した張りがある。粗衣をまとい、左手は掌を上に向け膝の上におき、右手は立てて親指と人差し指美を相念(あいねん)じ、結跏趺坐(けっかふざ)する。左手に薬壺(やっこ)を持っていた形跡はないらしい。(薬師如来が薬壺を持つようになったのは平安時代以降だとか。)
日光・月光両菩薩は豊かな髪をすき上げ、高く結(ゆ)っている。この髪の部分を除き顔だけをみると、中尊とよく似た顔つきである。腰は引き締まり、豊満な下半身の造形は明らかに女性を表現したものだろうと思う。日光・月光像は左右対称であることを除けば、ちょっと区別が付かない。僕は何度も左右に移動し両菩薩を見比べたが、全く同じ顔に見え、区別ができなかった。ただし、月光菩薩は結い上げた髪の前面と左面の大型の宝玉を一部欠いているのと、首の回りに修理の痕が残る。
ちょっと話が逸れてしまうけど、この首の修理の痕は50年前に一世を風靡した「月光菩薩・首切り事件」のときのものである。
昭和27年(1952)の7月に発生した吉野地震で、月光菩薩の首の回りにひび割れができてしまった。被害調査に来た文化財保護委の技官が、そのままにしておくのは危険だと判断し、委員会の許可を受けずに独断で首を切りおろしてしまったのだ。当時は文化財に対する認識も低く、切り取られた月光菩薩の頭部は当時の金堂(仮金堂)の床上に置かれるという、今では考えられないこともあったようだ。国会でも問題となったが、結局ステンレスの芯を入れ、接着剤で元どおりにくっつけケリがついたという。月光様もひどい目にあったものだ。
しかしこの事件の後、月光様はマスコミや拝観者から注目されるようになり、逆に日光様は影が薄くなったという。現代の人間様はリストラで首を切られることが多い。この場合は注目されることもなく、首を切られた方が影が薄くなってしまう。これが仏様と人間様の大きな違いである。(なんちゃって、ちょっと話が逸れすぎました。)

宣字座北面 宣字座西面

さて、薬師如来像が坐する台座には、奈良時代のおける世界の文様が集約されている。金堂では中尊の懸裳(かけも)などでよく見えないが、東僧坊にレプリカが展示してある。(ここでは写真OK)
台座は宣字座といわれ形が「宣」の字に似ていることからそう呼ばれる。上部の框(かまち)には、ギリシャの葡萄唐草文様、各面の腰部にはインドから伝わったと言われる半裸形の鬼神の浮彫がある。さらに下框には中国の四方四神(東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武)の彫刻がなされている。この四神は、天、すなわち薬師如来のいる広大な世界を表すとともに、この尊の守護神として取り入れたものとされている。耳をすませば、遥か彼方の世界からの囁きが聞こえてきそうな気がする。

僕はもう、1時間近くもこの三尊の前に立っていることになる。いくら見ても、見飽きることがない。改めて言う。
薬師三尊は「完璧の美」なのだ。

7世紀末・古代日本の美の極致がここにある。この輝かしく豊かな美しさは、日本人が潜在的に持つ美意識の原点かもしれない。今でも日本人に、この美を生み出すDNAが残っているのだろうか? もし残っていないのなら、それはいつ断ち切られ、どこにいってしまったんだろうと思う。





第129話 薬師寺東塔


「薬師寺東塔は、日本の塔の中で、最も奇抜な、変化に富んだ、剛柔繁簡かねそなわった、見れども飽かぬ美しい塔である。」写真家・土門拳氏は塔をこのように表現した。
また、米国人美術研究家のアーネスト・フェノロサは「凍れる音楽」と形容した。優れた音楽を聴いたときと同じような感動をこの音を発しない塔から受けたということだろうか。それとも、音楽の旋律をこの変化に富んだ形状に感じたのだろうか。
国宝・薬師寺東塔は、見る者を感嘆させることを意識したデザイン設計がなされていると僕は思う。いや、どちらかというとデザイン優先であると感じる。建築年は天平2年(730)と推定されているので、法隆寺の五重塔や法起寺の三重塔などは既に建っていたわけで、建築者はそれらの塔と意匠的に差別化を図りたかったのかもしれない。(これは僕の想像です。) なぜならばこの東塔のデザインの奇抜さは各重の屋根の下に付く裳階(もこし)にある。裳階は柱の途中に取り付けられた庇(ひさし)のような役割を果たすもので、本来は雨よけ、日よけを目的につけられる。しかし、この塔の裳階は、すぐ上の屋根よりずいぶん小さくて、本来の目的を果たしていないではないか。だから機能ではなくデザインを重視していると考えるのだ。まあ、そんな理屈はどうでもいいことで、とにかく土門氏の言うように日本一美しい塔だと僕も思う。

この塔がいちばん美しく見えるとき、それは秋晴れの日、太陽が西に傾きかけたその時刻だ。

この塔を心から愛し、長い間撮り続けた写真家・入江泰吉(いりえたいきち)のことばである。確かにこの塔は、意匠がどうの、構造がどうのという議論より、如何に美しく見るかということを語ったほうが、はるかに価値があり素敵だと思う。


僕は最近web上でとてもパワフルに国宝建築を巡る若者と知り合うことができた。彼は僕と同じく国宝建築全件踏破を目標に日本の美を追いかけているのだ。(お互い頑張ろう!) その彼が偶然にも僕と1日違いで薬師寺を訪れ、足で撮ってきた七条大池と秋篠川からの美しい風景は、この塔の美しさを語れる素敵な題材だと思う。(彼:HIROのサイトはこちら

総高は文献により異なるが、34mほどあり、国宝三重塔の中では最も背が高い。
この塔の美しさの原点は、やはり各重の屋根と裳階が織りなす旋律的な変化だろう。塔は六重塔に見えるが実際は三重塔である。通常多重塔は上重にいくほど屋根と軸部が小さくなっていくのだが、この塔は大小の屋根と大小の軸部が交互に重なりながら、上にいくほど小さくなっている。つまり主屋根部は軒の出が大きく平面が小さいのに対し、裳階部は軒の出が小さく平面は大きくなっている。この変化の美が万人を唸らせるのだろう。
主屋根の下の組物は三手先(みてさき)で、組物と組物の間には間斗束(けんとづか)を入れている。二段に重ねた三斗組(みつどぐみ)から持ち出した肘木(ひじき)で、斜め方向に突きだした尾垂木(おだるき)を受けている。さらにその尾垂木の先に三斗を置いて、軒桁を支える。軒桁の上には、円形の地垂木(じだるき)、角形の飛檐垂木(ひえんだるき)の二軒(ふたのき)が重なるという複雑な組物である。見た目は全然違うが、法隆寺や法起寺の塔の組物を踏襲しつつ、技術の洗練が感じられる。これに対し裳階の下の組物は柱上にある三斗組が軒を支えるきわめて簡略なものである。軒裏には天井もなく、垂木も一段である。これら六重の屋根の大きさと、組物の強弱の階調が、塔の躍動感を一層高めているのだ。

初重屋根の組物 東塔(手前)と
西塔(中央)
東塔初重内部

塔の正面の扉は開かれ、入ることはできないが初層内部が見られるようになっている。太い柱がところ狭しと立て込んであるので、中がどうなっているのかよく分からないが、心柱の前には小さな比較的新しいと思われる薬師如来が祀ってある。心柱を取り巻くように、その後ろには四天王像が立っている。お寺のパンフレットにはガリガリに痩せた「苦行釈迦像」を祀った写真が載ってるのですが、苦行釈迦さまはどこに行かれたのでしょうか?

上方、高く舞い上がる相輪には尊い塔が火災にあわないようにとの願いが、水煙(すいえん)という形で祀られている。水煙は相輪の中でも最も意匠を凝らす部分で、薬師寺東塔の水煙には飛天像が用いられている。わが国の多くの塔では、水煙に唐草文様と火焔(かえん)状の文様を組み合わせた形のものが用いられることから、飛天像はこの塔ならではの特徴となっている。浮彫(すかしぼり)にされた24人の飛天は笛を奏で、花をまき、衣を翻し祈りを捧げる自由な姿で、晴れわたった大空にみ仏を讃えている。ただし、この水煙を見ようとするなら双眼鏡が必要だ。肉眼ではちょっと見えないよ。寺に行くなら双眼鏡と懐中電灯は必携だ。(これは法隆寺で学習した。)

相輪

塔の北側で、ふと足元に目をやると佐々木信綱の歌碑が立っている。

ゆく秋の やまとの国の 薬師寺の
塔のうえなる ひとひらの雲

冬の日の今日の薬師寺は朝靄(あさもや)も消え、雲ひとつない青空が広がった。
薬師寺東塔は晴れた日がよく似合うと思う。





第130話 薬師寺東院堂

東塔から回廊をはさんで東側、国宝・薬師寺東院堂は正面を西に向け立っている。
創立の沿革は信頼できる資料がないが、護国寺本「諸寺縁起集に、養老年間(717〜724)に吉備内親王(きびのないしんおう)が元明天皇の冥福を祈り建立したと流記にあることが、記されている。奈良時代は現在地の東側に建てられていたが、元禄4年(973)の火災で焼失してしまう。現在の建物は弘安8年(1285)に南向きに再建されたが、享保18年(1733)に西向きに変更された。はじめは東禅院とよばれ、正堂のほかに、細殿や僧坊が付属していたらしい。
正面7間、側面4間の一重、入母屋造、本瓦葺きで禅宗様の桟唐戸(さんからど)や大仏様の頭貫木鼻(かしらぬききばな)などが見られるが、全体的には和様でどちらかというと保守的で落ち着きのある建築である。

東院堂南西面 東院堂正面 入母屋と鬼瓦
組物 妻飾り 内部

比較的高い基壇の上に立ち、金堂のように土間床とせず板床を貼り、縁を廻らせている。組物は出組で中備(なかぞな)えを間斗束(けんとづか)としている。
堂内に上がらせていただくと、ところどころ補修の跡が見える床がギシギシと鳴き、古寺ならではの感触が足の裏から伝わってくる。整然と並ぶ丸柱の上の小壁には横連子(よこれんじ)が入り、天井は小組格天井(こぐみごうてんじょう)となっている。内部の空間構成は奈良・霊山寺(りょうせんじ)本堂(国宝)と同じなのに、外に扉を用いているのは、鎌倉時代の手法を用いながら、奈良時代の創建堂を再建したためだと考えられている。
今は所在が不明だが、現本堂の由緒を伝える棟札(むなふだ)があったそうだ。それには「弘安八年乙酉三月廿一日建立之 大工 未清 国重 権大工宗蔵」とあったという。未清、国重とも姓がないので確定はできないが、名からみて興福寺系の工匠と考えられているようだ。内部を全部すべて小組格天井にするという手法は興福寺を通じて入ってきた京都の作風らしい。
そして、堂内中央の疑宝珠高欄(ぎぼしこうらん)を廻らした比較的低い仏壇の上、黒漆塗りの厨子の中に国宝・観音菩薩立像が安置されている。東院堂の本尊で通称「聖観音像(しょうかんのんぞう」と呼ばれている美しい金銅像である。

手の構えは金堂の月光菩薩像と共通するが、腰のひねりの艶(なま)めかしさがないぶん、金堂の菩薩様の方が一般には脚光を浴びているようである。しかし、この聖観音像だけを単独で見たならば、我が国の古代金銅仏屈指の名品なのだ。
身体は均整のとれた姿をしており、体部にも充実した肉付きが与えられ、写実的で端正なうえに何ともすがすがしさを感じる仏像である。左手を屈臂(くっぴ)し、右手は垂下して、両手の各二指を念じ、蓮華座に足を揃え直立している。頭頂には高い髻(もとどり)を結い、身体には天衣(てんね)など美しい衣をまとう。装飾具も金堂三尊像以上に、装飾性を増し先進的な表現がされている。
制作時期は金堂の三尊像と同じく、7世紀末から8世紀初頭というのが大筋で認められている。そして三尊像と共に、

古代金銅仏の最高傑作だ!

ということは万人が認める事実だろう。


薬師寺をひととおり見終えたので、足を伸ばして唐招提寺まで歩いてみることにした。唐招提寺南大門へは薬師寺の北門から北へ800mのところにある。現在は金堂が解体修理中ということらしいので、ちょっと様子を見ておこうと思う。
薬師寺南大門から境内を覗くと、なるほど、金堂は大きな仮屋で覆われている。まるで寺の中に倉庫があるみたいだ。門の正面には解体修理を告知する貼り紙がある。それによると、金堂は平成12年から9年間かけて修理されているようである。完成は平成21年6月だから、まだ6年半もかかってしまうわけなのだ。

修理中の薬師寺金堂

本尊の盧舎那仏(るしゃなぶつ)も千手観音も(ともに国宝)修理中だと書いてある。拝観受付のおじさんに聞いてみると、仏像は同じく平成12年から3年間の予定で修理しているらしい。もうすぐ修理が終わる頃だけど、拝観できるようになるのがいつなのかは、まだ発表されていないそうだ。(平成14年12月現在)
というわけなので、今度この唐招提寺に来るのは金堂が完成する7年くらい先になりそうだ。
あと7年間というのは僕にとっては気が遠くなるほど長いけど、1200年余りの寺の歴史からすると、ほんの「点」にあたる時間なのかもしれない。





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