第29章 南京都の古寺


第146話 浄瑠璃寺本堂

堀辰雄氏が「浄瑠璃寺の春」のなかで、「何の構えもない見過ごしそうな小さな門」と表現したように、浄瑠璃寺の山門は小さくみすぼらしい。しかし門をくぐり、ほんの数十メートル進むとそこには浄土の世界を表した別世界が現れる。境内中央に宝池(たからいけ)、左に朱塗りの三重塔、右に本堂が向かい合うかたちで、緑に包まれた清らかな風景の中、その世界が今日に残されている。残念だけど僕はこれら堂塔を見ても、池を見ても、以前に訪れた記憶が蘇ってこない。
いったいどうなってるんだろ、僕の記憶力。

浄瑠璃寺山門 三重塔

浄瑠璃寺は、永承2年(1047)僧・義明(ぎみょう)によって開かれ、当初は西小田原寺(にしおだわらじ)と呼ばれていた。本尊は薬師像であったが、60年後の阿波公公海を願主として模様替えが始まり、嘉承(かじょう)2年(1107)本尊を西の堂に移して旧本堂を撤去し、年内に堂を造り、翌年仏像の開眼供養と総供養を行ったという。これが今の本堂にあたると考えられている。
この寺は九体寺(くたいじ)とも九品寺(くぼんじ)とも呼ばれてきた。九体寺とは西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来を意味し、現実に9体の阿弥陀如来像を安置することからそう呼ばれてきたのである。九体阿弥陀堂は院政時代に平安貴族によって京都を中心に30棟余り建てられたが、現存するのはこの浄瑠璃寺のみである。
9時を回った本堂の前では、団体客の記念撮影用か、プロのカメラマンが中型のカメラをセッティングしている最中である。

団体さんが来られるんですか?
ええ。
何人ほど来られるんですか?
50人ほど・・・。

まだ、肌寒いのに浄瑠璃寺の早春の良さを知って訪れる人達は多いのだ。さっさと見てまわらないと、境内がまたまた騒然としてしまう。この寺は先ず東の三重塔に祀ってある薬師仏に苦悩の救済を願い、その前で振り返って池越しに彼岸の阿弥陀仏に来迎を願うのが本来の礼拝の形であるという。ということは後で知った。

国宝・浄瑠璃寺本堂は正面十一間、側面四間の一重、寄棟造本瓦葺である。前述のように嘉承(かじょう)2年(1107)の建造とされている。本来の屋根は檜皮葺(ひわだぶき)であったが、寛文3年(1663)の破損時に瓦葺きに改められている。また正面の中央の向拝もそれ以降の江戸時代末期に後付けされたものである。
とにかく、横に長いお堂である。正面の長さが25.3mに対し、奥行きは9.08mである。このように細長いのは内陣に中尊とその左右に4体ずつ、計9体の阿弥陀如来像(国宝)を安置するための平面で「九体堂」と呼ばれる所以(ゆえん)である。九体阿弥陀像のうち中尊はとくに大きくつくってあるので、中央の一間だけは柱も太くし、柱間もほかの間と比べると2倍ほどの広さにとってある。中央の一間と脇の間の構造が著しく異なるので、一間の母屋に庇をめぐらした一間四面堂が原型で、母屋を左右に四間ずつ延長し、それに応じて庇も延長してできたものだと考えられた時期もあったらしい。が、調査の結果、その可能性は無いことが判明している。

浄瑠璃寺本堂 宝池越しの本堂 本堂向拝
本堂正面中央 正面右側 本堂側面(南面)

本堂の外部には縁をめぐらし、中九間には板扉が付けられ、その内側は障子戸になっている。9ヶ所の障子戸を開け放つと、それぞれに九体の阿弥陀仏が拝めるようになっている。この9つの扉を開け放ち、宝池から臨む本堂と阿弥陀仏はたぶん圧巻だろうと思う。両端の間は連子窓、側面は中二間が土壁、両端の間が板扉、背面は中央の間だけが板扉、他は土壁となっている。
中央の間以外では柱は細い。その柱は切目長押(きりめなげし)と内外の内法長押(うちのりなげし)で固められているので、頭貫の必要はなく、多くの柱は直接桁(けた)を受け、隅の柱だけが柱上に舟肘木をもつという簡素な構造である。
浄瑠璃寺本堂は、九体阿弥陀堂という稀少価値はあるが、この建築を見る限り決して派手さや存在感のあるものではないと思う。宝池を前面に控えた風景の中で、はじめてその美しさが引き立つように設計されているのだろうと思う。早春の馬酔木にはじまり、堀辰雄を案内した寺の娘が「初夏の菖蒲(あやめ)」、「夏の睡蓮(すいれん)」、「秋の7本の柿の木」と言ったようにその季節折々の美しさがあるのだろう。今もその美しさは残っているのだろうか? それは四季を通じてこの寺に訪れないと解らないことだとも思う。
そして、彼岸の中日、三重塔の薬師如来が開扉されるそうである。(僕は1週間ほど早く来すぎてしまった。)その日、太陽は真東から出て真西に沈む。つまり、塔の真うしろから朝日が昇り、阿弥陀堂の中央の中尊阿弥陀如来をめざして夕陽が沈むという。人々はその先に彼岸(西方浄土)があると信じ、この日に敬虔(けいけん)な祈りを捧げるのだという。

そうこうしているうちに、団体客が訪れたようだ。記念撮影をしている間に、先に本堂の内部を拝観させていただこうと思う。

早春、馬酔木の寺の朝は慌(あわ)ただしい。





第147話 浄瑠璃寺の国宝仏


本堂内部の拝観は本堂向かって右側から後ろ側の縁をぐるっと回り、左側の側面の入り口から入るようになっている。
お堂に入ると予想通り(いや、それ以上の)壮観である。金色に輝く9躯の阿弥陀仏は未熟な僕たちを理想の西方未来の楽土に迎えてくれるという。中尊が来迎印(らいごういん)、左右脇仏の8躯はすべて定印(じょういん)を結び、この横長で広いはずの本堂の中をところ狭しと並んでいる。この9躯は国宝仏である。
永承7年(1052)に末法(まっぽう)の世が到来すると信じられて、人々の間には阿弥陀如来の住む極楽浄土への往生を願う気持ちが高まっていた。九体阿弥陀は教典に九通りあると説かれた浄土往生を象徴するもので、寛仁(かんにん)4年(1020)藤原道長による法成寺無量寿院(ほうじょうじむりょうじゅいん)をはじめとして、11世紀から12世紀にかけて貴族たちはこぞって九体阿弥陀を造立したが、この像は平安朝当時に遡る唯一の遺例(いれい)である。
しかし、これら阿弥陀如来像は制作年代がいまだ確定されていない。推定ではあるが最初に本堂が建てられた永承2年(1047)の説と今の本堂が建てられた嘉承(かじょう)2年(1107)などの説がある。また中尊と脇仏、また脇仏間の作風の違いから同時期の制作ではないとの見方もあり、時期の特定はそんなに簡単ではないようである。
中尊像は檜(ひのき)材の寄木造(よせぎづくり)で、高さが2.24mもある。仏師・定朝(じょうちょう)が天喜(てんぎ)元年(1053)造像した宇治・平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像に非常によく似ている。が、こちらの像の方が顔や体つきが丸みを帯びており、その量感には力強さを感じる。他の8躯は半丈六像で像高は1.4m前後あり、定朝様を基調とするが複数の仏師の手になるため、それぞれの形式や作風に違いがある。しかし、北から安置順に1号像〜8号像と呼ばれているそれぞれの像を単独で見て言い当てるのは至難の業だと思う。
中尊に向かってすぐ左側には高さ1mほどの厨子が安置され、閉ざされたその扉の正面には雀が飛び交う絵が描かれている。この厨子の中には美しい吉祥天(きちじょうてん:鎌倉時代)が安置されているはずである。吉祥天立像は国の重要文化財に指定されており秘仏でもある。写真家の土門拳は「古寺巡礼」の中で、「厚化粧をした円ポチャの麗人といった面貌は、不気味さを感じさせるほどの美しさである。」と形容している。
また、中尊の右側には子安(こやす)地蔵菩薩立像(藤原時代)が安置されている。腹部に結んだ紐(ひも)を腹帯とみて、子安地蔵と呼ばれている。こちらも国の重文である。

あの〜、吉祥天像はいつ開扉されるんですか?
僕は本堂内の北の出口で腰掛けるお寺の女性に尋ねてみた。

来週の3月21日からですよ。
50歳をすこし越えたかなと思えるその女性は優しく答えてくれた。吉祥天像の特別公開は1月1日〜15日、3月21日〜5月20日、10月1日〜11月30日の年3期間だそうだ。秘仏といいながら結構拝ませていただけることがわかった。でも、1週間違いで僕は外れてしまったことになる。気をとり直してもう一つ聞いてみた。

四天王が2体しかいないのは何故なんですか?
今、ここには持国天と増長天がいらっしゃいますが、あとの2体は外に出てるんですよ。
どちらに出ていらしゃるんですか?
多聞天は京都の国立博物館、広目天は東京の国立博物館に出ていらっしゃいます。
いつ帰ってこられるんですか?
いつなのか、私どもの方では分かりません。
帰ってこないんですか?
そうなのかもしれません。


4躯の四天王像は国宝仏である。
その人はあたかも自分の子供達が遠いところに旅立ち、いつ戻ってくるのか分からない、そんな寂しさを打ち明けるかのような口調で続けた。

馬頭観音像(ばとうかんのんぞう)は奈良の国立博物館、延命地蔵菩薩像は同じく東京国立博物館に出ています。
それぞれ鎌倉時代と藤原時代の仏像で共に重要文化財である。

僕は矛盾に思う。お寺や神社の宗教上や神聖なものだからという理由で、僕ら国民がお目にかかることすらできない国宝や文化財もあれば、このようにお寺に本来あるべき仏が、国民に公開すべく(お寺の人の意に反して?)博物館の管理下におかれることにどのような違いがあるのだろうか。公開のために外に出るのならそれはそれでいいことだとは思うけど、それはあくまで一時的なことであって、本当はあるべきところに安置するのが本来ではないのかと思う。そういえば去年の春、福島県の勝常寺でも住職の奥さんにそのようなことをうかがった。(第83話) お寺の人はきっと寂しい思いをされているのだろうと思う。ともあれ、浄瑠璃寺の国宝仏である四天王のうち多聞天と広目天の2躯はいつ戻るかわからない長い旅に出ているのだ。

昭和18年、この寺に訪れた堀辰雄氏は16、7歳の寺の娘さんに案内されてこの寺を拝観したと記している。それから60年経った今日、僕が会話した女性は年格好からするなら、その娘さんのお子さんか姪ごさんかもしれない。そんなことを思いながら再度、この素晴らしい仏像群を脳裏に納めた。

次は国宝・浄瑠璃寺三重塔だ!





第148話 浄瑠璃寺三重塔

本堂の正面から宝池の彼岸(向こう岸)を臨むと、小高い丘の上に三重塔がそびえる。

気品のある塔だ。

すらりとした美形で、木部の朱塗りと白壁のコントラストが気高さを醸しだしている。緩やかな屋根の勾配も美しい曲線を描いている。僕がこれまでに見た大法寺三重塔(長野)や金剛三昧院多宝塔(和歌山県)と同じような女性的な趣がある。それは、板縁をめぐらした初重がほかの重と比べて背が高いことが理由なのかもしれない。総高は16.0m、初重は一辺3.05mと国宝の三重塔、五重塔のなかでは最も低く小規模な塔で、京都府の中では唯一、平安時代の三重塔である。

三重塔全景

「浄瑠璃寺流紀事(じょうるりじるきのこと)」によると、平安末期の治承(じしょう)2年(1178)、京都一条大宮の三重塔を移して、この寺の蓮台房(れんだいぼう)の跡地に建てたとされている。したがってこの塔は治承以前の営造ということになるが、旧所在地の寺名はわかっていない。しかし、構造手法から平安末期から大きく遡ることはなく、12世紀の建築であると考えられている。正応(しょうおう)5年(1292)に相輪を改鋳して鉄製とし、近くは明治33年(1900)に解体修理を受けている。

初重 初重組物 二重 相輪

塔は亀腹(かめばら)の上に立ち、初重には切目縁(長さ方向に対して直角に板を張った縁)をめぐらし、二、三重には縁高欄を備えている。初重は三間のうち中央の間を扉口、脇の間は連子窓(れんじまど)で、切目長押(きりめなげし)、腰長押(こしなげし)、内法長押(うちのりなげし)、台輪(だいわ)を廻らす。(これらの部材用語を詳しく知りたい方は第140話をどうぞ) 組物は三手先で尾垂木を備え、繊細につくられている。組物間を繋ぐ長い通肘木(とおりひじき)も見られ、初重と二重の中の間には間斗束(けんとづか)が入る。軒は二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)で地垂木(じだるき:内側の垂木)の出に対し、飛檐垂木(ひえんだるき:軒側の垂木)の出が比較的大きいこと、垂木の空きが垂木のせいに等しい本繁垂木(ほんしげだるき)となっていることは中世的特徴である。
初重では戸口の外側にだけ幣軸(へいじく)を構えて外開きの板をつるが、上重では幣軸を用いず内開きの板戸にしている。また初重では外側の腰長押を内側のものより高い位置に取付け、連子窓があまり縦長にならないようにし、上層の連子窓に調子を合わせる工夫がされている。
塔の内部には三重塔の本尊として薬師如来坐像(重文)が安置されてある。仏教では東西南北にそれぞれの浄土(仏国土)を治める教主がいると考える。西の阿弥陀如来に対して東の浄瑠璃世界の教主が薬師如来である。薬師如来の正確な名前は、浄瑠璃世界に住むということから、薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)という。もともとこの寺が創建されたときの本尊は「浄瑠璃寺」の寺名が示すとおり、この薬師如来坐像であった。この像は秘仏であり、特別開扉は正月三が日と毎月8日、そして春秋の彼岸の中日だが、好天の日に限られている。(ここでも僕は1週間早すぎた。)

塔が小規模なため、初重内部は心柱も四天柱もないひと部屋の空間となっている。内法長押の上に繊細な二重折上小組格天井(にじゅうおりあげこぐみごうてんじょう)を構えて、仏堂風にしてある。床を除く板壁、扉、柱、天井、長押などには彩画(さいが)や文様が施されている。扉内側には釈迦八相、板壁には腰長押の上下に十六羅漢、柱には八方天像と七宝宝樹図(しっぽうほうじゅず)、花鳥図、長押・支輪板・格天井には宝相華(ほうそうげ)や草花文様が描かれている。
まあ、中は見られなかったけど、これだけの知識を得たのだから、今度来るときは是非開扉日に合わせてこようと思う。

この寺は四季折々の風景が楽しめ、美しい建築や仏像にも出逢える。池の端に佇みしばらくの時間、頭の中を清めるのもよいかもしれない。浄瑠璃世界の浄土は清浄で透明であるという。そんな浄土を見てみたいと思う心があれば、浄瑠璃寺はそれを実現してくれるかもしれない。

つぎに来るときは、どんな発見があるんだろう?

そんな思いが「また来てみよう」と感じさせる、魅惑的なお寺だった。





第149話 24年後の岩船寺


浄瑠璃寺を訪れてから1週間が経った。
仕事の都合で今週も大阪に帰っていたので、週末ドライブがてらに僕の奥さんを誘って再び南山城にやって来た。(僕は完全に忘れてしまっていたけれど)24年前にふたりで行ったという岩船寺(がんせんじ)に行こうと思う。(ふたりで行ったら記憶が蘇るかもしれない。)それから浄瑠璃寺の馬酔木の花の美しさも僕の奥さんに見せてあげたい。(僕はとても優しいのだ)。さらには岩船寺から車で20分くらいのところにある海住山寺(かいじゅうせんじ)には国宝の五重塔もある。

都合がいいわね、やっぱり国宝じゃない!
という非難の声は聞かなかったことにしよう。

岩船寺は浄瑠璃寺の北東2kmくらいのところにあり、第144話で書いたこの辺りに多く分布する花崗岩を用いた石造美術や境内を彩る四季の花の寺として知られている。とくに初夏咲く紫陽花は有名で、その時期には多くの参拝客を迎える。
ところが同じ土地にあって、お隣の浄瑠璃寺と大きく違うことは、つい近年まで寺勢が衰えてしまっていたことである。600年前に建てられた三重塔も、幕末に建てられた本堂や庫裏も、戦後しばらくの間は今にも朽ち果てる寸前まで放置されていたようである。ともに江戸時代末までは興福寺一条院に属し、維新で一条院が廃されると西大寺末になった浄瑠璃寺と岩船寺。なぜこの寺だけが衰退したのだろうか・・・? それは創建の歴史が違うからではないのかと考えられている。
浄瑠璃寺は永承2年(1047)、在地の豪族・阿知山太夫重頼(あちやまだいぶしげより)が庄園内の貯水池を蓮池に見立てて、そのそば郷村における信仰道場として建てた寺である。それに対して岩船寺は、もっと古く、少なくとも天慶(てんぎょう)9年(946:本尊阿弥陀如来の胎内銘による)には存在していた。だが、僧・行基(ぎょうき)が奈良時代に建てた阿弥陀堂がもとであるとか、大同元年(806)弘法大師の姉の子である知泉(ちせん)が建てた灌頂堂(かんちょうどう)、報恩院がもとだとかいう伝説があるように、在地の郷民信仰とあまり結びついていなかったらしい。そのため衰弱を早めたという説がある。
寺名の岩船寺は、もともとお寺にあった岩船(いわふね)にあったという。門前の駐車場に車を止め、そこのおばあちゃんに200円を支払い、尋ねてみた。
岩の船、どこに置いてあるんですか?

ああ、あそこの石段の手前、自動販売機の向こう側じゃ。

一般に寺院において岩船(石漕)は僧が身体を冷やし、煩悩を消除するための水浴用のものであったと推定されている。確かに岩船といわれるだけあって前方と思われる部分が船のように丸くなっている。僕んちのお風呂よりずいぶん大きいのだ。水浴であれ、お風呂であれこんな浴槽に浸かればさぞかし心地よいだろうと思う。今ここに置かれてある岩船は承久(じょうきゅう)3年(1221)の兵火の後に造られた2代目で、鎌倉時代のものである。

門前の岩船(いわふね)

石段を登り小さな山門をくぐると朱塗り鮮やかな三重塔が正面に現れる。
24年前に訪れたときにはこんな鮮やかな塔ではなかったはずだ。(昔の塔の写真は第145話をどうぞ) 本堂の中にいたお坊さんに尋ねると、この塔は昨年建築の修理が終わり、今は内部の壁画を修復中で、今年の夏には落慶法要があるという。綺麗になったけど、ちょっと浮いた感じがする。この風景になじんで美しくなるには少し時間がかかるだろう。僕は24年前に僕の奥さんのバックに写る古びた塔のほうが好きだ。嘉吉(かきつ)2年(1442)の建立で、国の重要文化財である。

岩船寺三重塔

ぐるりと塔を回って正面に戻ると、そこに佇んでいた僕の奥さんは言った。
あなた、三椏(みつまた)の花が咲いているわよ。

三椏とは和紙の原料になるあの「コウゾ、ミツマタ」のミツマタである。
お前そんなことよく知っているなぁ。
僕が驚いて言うと、
ううん、そこの札に「三椏」と書いてあるもの。
そうか、何てことはない。

三椏の花

「ミツマタ」というだけあって、枝が全部3つに分かれている。えらいもんだ、ひとつ勉強になった。

新しく生まれ変わった鮮やかな三重塔に比べると少し地味だけど、境内には十三重石塔、石室不動明王立像(ともに重文)、厄除け地蔵などの石造美術が目を楽しませてくれる。

十三重石塔 石室不動明王立像 厄除け地蔵

山門出ると門前には、季節の野菜や作物を吊した無人販売のスタンドが多くある。そばにぶら下げてある代金入れの缶に料金を入れる田舎道でよく見かける風景だ。僕の奥さんはあれこれとぶら下がっている野菜を見ていたが、結局何も買わずに、代わりに有人の出店で「エビ餅」を僕に買ってくれた。なぜ、こんな山の中で「エビ餅」なのかよく分からないけど、僕はエビ餅が大好物なのだ。東京でのひとり暮らし、しばらくはこのエビ餅が朝ごはんになるだろう。

長閑(のど)かな山村にある岩船寺は、きっと24年前もこんな感じだったんだろう。
ここでは時間がゆっくりと流れている。

そんなことを考えながら歩いたが、僕の記憶喪失はいっこうに治らない。
でも、僕の奥さんとは少し仲なおりできたような気がする。





第150話 海住山寺五重塔

岩船寺から山道をJR加茂駅の方に下り、木津川にかかる恭仁大橋(くにおおはし)を渡ると、天平12年(740)聖武天皇が平城京から遷都したという恭仁京跡がある。その北側にある海住山の中腹に海住山寺(かいじゅうせんじ)はある。そんなに標高の高い山ではないけれど、無造作にコンクリートを流し込んだだけの急で狭隘な坂道で、歩いて登るにはちょっと力がいるだろう。
そんな坂道を登って、平らになった道に忽然(こつぜん)と山門に続く石段が現れる。石段を登り、門をくぐるとそこは山を切った少し広い台地になっており、正面に本堂、その左側に国宝・海住山寺五重塔が立っている。

山門への石段 海住山寺境内

海住山寺は奈良時代大仏造営工事の平安を祈る聖武天皇の勅願によって良弁僧正(ろうべんそうじょう)が開祖したと伝えられるがそれは明確ではない。はじめは藤尾山観音寺と呼ばれていたが、これは保延(ほうえん)3年(1137)焼失してしまった。その後、承元(じょうげん)2年(1208)、京都・笠置寺(かさぎでら)の解脱上人・貞慶(じょうけい)によって再興され、補陀洛山海住山寺と名付けられたという。五重塔は貞慶の弟子覚真(かくしん)師の一周忌、建保2年(1214)に建立したものである。
コンパクトだけど流線型である。

ミニスポーツカーといった感じか。
総高17.7mという高さは現存する五重塔としては室生寺の五重塔(16.1m)に次いで小さい。けれども層間を縮め、絶妙な逓減をとりながら流麗に屋根が重なっている。何処にもない個性的な造形美だと思う。

海住山寺五重塔 初重・裳階
二重・三重 二重組物 相輪

海住山寺五重塔は鎌倉時代初期の五重塔としては京都府唯一のものである。古くは心礎(しんそ)の上に立てられていた心柱(しんばしら)は、この塔では初重の天井から立っている。五重塔で下まで心柱がないのはこの塔が最初である。僕は国宝建築を始めた頃、中心に柱が無くて大丈夫なの?と不思議に思ったことがあるが、五重塔は構造的にお椀(わん)を伏せて5つ重ねたようなものらしい。(と何かで読んだことがある。) だから柱がなくても大丈夫なのである。(と思うようにしている。)川向こうの浄瑠璃寺の三重塔も初重に心柱はない。たしかにこの方が御本尊を祀りやすいのである。
そして初重に吹放(ふきはな)しの裳階(もこし)をつけている。五重塔に裳階をつけたものは、古くは法隆寺にあるが(現存するものとしては)他になく珍しいものである。しかしこの裳階は意匠的にはいただけない、と失礼ながら僕は思うのである。縁の上に立つ細い角柱がどうも目障りである。
五重塔の組物はその殆どが三手先であるのに、ここでは二手先である。初重主屋の総柱間が2.7mという小さなものであるため、簡略化されたという見方もできる。初重の隅には鬼斗(おにと)を使っているが、二重以上は隅行の肘木とその上の斗を一木でつくり、鬼斗状にしていない。これは興福寺三重塔(国宝)にも見られるが、大変珍しいものであるらしい。
内部は見ることができなかったが、四天柱間に扉を入れ、厨子のようにしているらしい。これは舎利を本尊としてここに納めたためと考えられる。そのこともあり、平生閉ざされているので内部に描かれた尊像や彩色文様は、保存状態が比較的よいらしい。

僕がこの塔を前から後ろから眺めている間に、僕の奥さんは早々と本堂の方も拝観し終え、塔の横のベンチで本をひろげだした。
最近は僕が待たせてばかりいる。

僕は見るだけでなく、じっくり時間をかけて写真を撮るから、お寺での滞在時間が長いのだ。でも僕の奥さんはいつも僕が国宝を見終わるまで待っていてくれる。(僕よりだいぶ大人なのだ。)
今日は吹く風も柔らかで、ベンチで読書するには快適な日和である。

南京都に、いつの間にか春が訪れた。





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