第31章 桜・2003 その2
第156話 醍醐寺清滝宮拝殿・醍醐寺薬師堂 五重塔からそのまま東に抜けると上醍醐への登山口に至る。醍醐寺は笠取山(かさとりやま)全体が寺域になっており、山上が「上醍醐」、山麓を「下醍醐」という。現在は醍醐寺といえば下醍醐のほうを指してしまうようだが、本来醍醐寺は上醍醐から始まったのであり、そこが醍醐寺の原点である。女人堂の前に立つ道しるべには「山頂・開山堂 徒歩60分」としるしてある。しかも頂上は標高450mあり、決して遊び半分で登れるような山ではないのだろう。
上醍醐登山口
坂道を登っていく参拝客は高齢者が結構多いようだ。それはこの上醍醐にある准胝堂(じゅんていどう)は西国三十三所観音霊場の第十一番札所であるからだ。西国巡礼の中では最大の難所とされている。
よし、登るぞ!
札所であろうが、難所であろうが関係なく僕は登らなければならない。山頂には2棟の国宝建築が待っているのだ。
ひとつは醍醐寺清滝宮拝殿(せいりょうぐうはいでん)、もうひとつは醍醐寺薬師堂である。
道しるべ通り、ちょうど1時間くらいで、先ずは清滝宮拝殿にたどり着く。とはいっても、「京都市街にこんな険しい山があったのか!」と思えるほどのものなので、信仰心のない人や、国宝に興味のない人には、ちょっとタフな行程かもしれない。
たぶん、僕がこれまでに行った山形の立石寺や香川の金比羅山よりその厳しさは上だと思う。
伝説によると貞観16年(874)、聖宝理源(しょうぼうりげん)大師が霊感を得て笠取山山上に登ると、そこに白髪の老翁が現れ岩角から湧き出る水を飲み干し、
「ああ、醍醐味なるかな」
と口を開いたという。老翁はじつはこの山の守護神で、聖宝理源は老翁のお告げに従って草庵を結び、これが醍醐寺の始まりとなったのである。だから、醍醐山や醍醐寺の寺名の由来はこの醍醐味の水からなのである。拝殿の前には、この有名な霊水醍醐水の屋形がある。そこには湧き出る水が用意されていて、その醍醐味を味わうことができる。登山でひと汗かき、渇いた喉には最高の味である。
清滝宮は文字通り神社であり、醍醐寺の守護神・清滝権現(せいりょうごんげん)をまつってある。清滝宮は下醍醐にもあり、そちらの方は重文、こちらの方は国宝というわけである。
清滝権現は、インドの沙羯羅(しゃがら)竜王の3女・善女(ぜんにょ)竜王のことである。善女竜王は中国に渡り、空海が学んだ唐の青龍寺(せいりょうじ)で密教を守護していたが、大同1年(806)空海が唐から帰朝するときに、海を渡って高尾山寺(神護寺)に来臨したという。その竜女は延喜(えんぎ)2年(902)にこの醍醐寺に飛来したらしいのだ。中国での名前を青竜だったが、海を渡って飛来したので、水(シ:さんずい)がついて清滝となったというおまけ話まであるのだ。
国宝醍醐寺清滝宮拝殿は北から南に下がる急な山の斜面に立っている。桁行(けたゆき)七間、梁間三間、一重入母屋造の長細く、全体の印象は簡素なものである。現在に残るこの清滝宮拝殿は寛治3年(1089)創建の建物が応永17年(1410)に全焼し、永享6年(1434)から5年の歳月をかけて本殿と共に再建している。しかし本殿のほうは、昭和14年(1939)に惜しくも焼失し、その後再建されたものである。
清滝宮拝殿東側正面 正面向拝 北東面 南面 本殿から見た北側
斜面が急なので南側は大きく張り出した懸造(かけづくり)となっている。本来は南面を正面とするのだろうけど、この懸造のため、東の妻側を出入り口として向拝をつけ、唐破風や透彫(すかしぼり)の爽やかな蟇股(かえるまた)で装飾している。建具は東妻の正面が両開きの板戸、北の本殿側は引違(ひきちがい)格子戸、南側は両端の柱間を引違格子戸として他は半蔀(はじとみ)の内側に明障子(あかりしょうじ)としている。
軒は二軒だが、地垂木は密に配する繁垂木であるのに対し、飛檐垂木(ひえんだるき)は地垂木3本に1本の疎垂木(まばらだるき)としている点はあまり例がない。
この簡素な造りの中で、正面向拝に大きく架かる縋破風(すがるはふ)と優美な唐破風、そして南面の豪快な懸造がこの国宝の見所だろう。
さて、二つ目の国宝建築・醍醐寺薬師堂は清滝宮拝殿からさらに東方に山を登ったところに位置する。聖宝理源(しょうぼうりげん)大師は延喜(えんぎ)7年(907)から醍醐天皇の御願として五大堂と薬師堂の仏像を造りはじめたが、半丈六の薬師像(こくほう)が完成し、薬師堂が落成したのはそれから6年ほど経った延喜(えんぎ)13年(913)、聖宝が没した後のことである。しかし200年あまりで堂が朽ち損じたので、当時の座主定海(じょうかい)が発願して保安2年(1121)に堂を再建し、旧本尊を還座した。その後、明治40年(1907)に解体修理を受け今日に至る。上醍醐に現存するものでは最も古い建築物である。
醍醐寺薬師堂は峰の先端のわずかな平坦地に立つ。乱石積(らんせきづみ)の基壇の上に立ち、正面三間、側面二間の身舎(もや)に一間通りの庇をめぐらし、五間×四間の平面をなす。醍醐寺の歴史や国宝ということを知らなければ、
とても古い建物だね。
で、済まされそうな、それくらい質素な建物である。一般に山岳寺院の建築は、基壇を石乱積にして屋根を檜皮葺にすることが多いとされる。しかしそれは主として僧侶の修行道場として建てられたものであるから、平地につくられた巨大寺院に比べると質素なのは当然である。
薬師堂正面 正面西端間 西妻
外周は正面の中三間と左右両側面・前一間、背面中央間を板扉とし、正面の両端の間を連子窓とする他は漆喰塗りの土壁である。壁の部分は地覆(じふく)と頭貫で柱を連絡するが、戸口はさらに地覆長押(じふくなげし)、半長押、内法長押(うちのりなげし)をめぐらし、窓のところは別に腰長押をつけている。組物は平三斗で、間斗束を伴ない、軒は二重繁垂木とする。
国宝薬師如来が安置されるこの薬師堂は、おそらく外観より内部の方が驚きがあるのだろうと思う。内部が見られないのは残念だが、実は2000年にこの薬師堂と薬師如来は特別公開されており、それもなんと36年ぶりの公開だったらしい。僕が国宝を始めたのは2001年なので諦めもつくが、今度は36年と言わず是非早い目に公開をお願いしたいものだ。でないと、こんな山奥まで老いぼれてからだと絶対に来ることはできない。
しかし、疲れた。
本当は、観光客のようにあれこれと多くを見て回るのではなく、醍醐寺に訪れるときはここひとつに絞るべきところなんだろう。優雅な下醍醐と峻険な立地に立つ上醍醐は1日かけて回るのにちょうどよい、そんな寺院である。こんどはしっかりと1日かけて訪れたいと思う。三宝院の国宝も見ないといけないしね。
第157話 牛に引かれて。。。
むかしむかし、信濃のお国の小諸というところに、それはそれはケチで無信心な婆さんが住んでおったそうな。ケチ婆さんは小銭を貯めることだけが楽しみで、村の人達と仲良く助け合って生きていくことなんかは、これっぽちも考えていませんでした。
ある晴れた春の日に近所のお爺さんやお婆さんがやって来て言いました。
「今日は天気もええし、善光寺さんにお参りに行こうでないかい、善光寺さんはありがたい仏さんだから、一生にいっぺんくらいはお参りしとかにゃ。」
「そうだよお婆さん、いっしょに参ろうよ。」
しかし、おケチ婆さんは言いました。
「善光寺なんか、あんな遠いところへ行ったって腹が減るだけじゃ。それに賽銭もいるし、なんの得にもならんでの。わしゃぁ行かん。」
といって、白い布を籠(かご)に入れて千曲川へ出かけていきました。川の水に布をさらしながらケチ婆さんは呟きました。
「あのバカどもめが!銭にならんことばかり言いおって。こうやって布を水にさらして綺麗にしたら、また高い値で売れるのに。わしゃ、仏などありがたいとは思わんわい。」
ケチ婆さんにはお金儲けのことしか頭になかったのです。
その時、突然このケチ婆さんの前に一頭の大きな黒い牛が現れました。ケチ婆さんが驚いてしりもちをつくと、そのすきに牛は干してあった白い布を角にひっかけて、とことこと逃げていくではありませんか。
「こらぁ、まてぇ!わしの大事な布をどこに持っていくのじゃ、このぬすっと牛!」
大切な白い布を盗まれたケチ婆さんは川の土手をはい上がり、必死の形相で牛を追いかけました。
野を越え山を越え、何里も牛を追ってケチ婆さんは走りました。そして、いつのまにか牛は街並みに入り、大きなお寺の門の中に入って行きました。
「よしよし、寺に入ればもう逃げられまい。やっと布を取り返せるわい。」
ケチ婆さんの思いもつかの間、牛はお寺の如来堂あたりで突然姿を消してしまいました。寺の中をあちこちと探し回ったけれど牛の姿は見えません。疲労と落胆でケチ婆さんは、へなへなと地べたにへたり込んでしまいました。
「いったいここはどこの寺なんじゃ?」
通りすがりの参拝人に聞いてみました。
「婆さんなにを言うとる、ここは有名な善光寺じゃぞ。」
なんと、ケチ婆さんは知らず知らずのうちに牛に引かれて善光寺まで来てしまっていたのです。
いつの間にか日も暮れ、ケチ婆さんはしかたなく如来堂で休むことにしました。
「あのわしの大切な白い布はいったい何処へいったんじゃ、あの布を返してくれんかったらえらいことになる。誰かなんとかしてくれぇ。わしを助けてくれぇ、お願いじゃ。」
今まで祈ったことなど一度もなかったお婆さんも、すがる思いで助けを求めたのです。しかし一日中牛を追って走り回って疲れ果てていたので、すぐに寝てしまいました。
眠りに落ちたケチ婆さんは夢を見ました。夢の中で目の前に牛がすーっと現れ、首に白い布を巻き、仏様の方に近づいていくのです。
慌てて目を覚まし、目をこすりながら仏様の方を眺めると、なんと白い布は仏様の首に巻かれているではありませんか。腰を抜かさんばかりに驚いたケチ婆さんは、思わずひざまずき仏様に手を合わせました。
ケチ婆さんはやっと気づいたのでした。
「仏様は空の上から、全てを見て追ったのじゃ。牛を化身し、無信心なこのわしを仏様の前に導いてくれたのじゃ。」
このことがあってから、ケチ婆さんは心を改め、仏様の偉大さとありがたさがわかるようになり、信心するようになり生涯その仏様にお仕えしたそうな。
『牛に引かれて善光寺参り』の昔話はいろいろとアレンジされて伝えられているみたいですけど、上の話(僕が大分脚色しましたけど)が原話に近いんじゃないかと思います。
祈る気持ちは大切だ。
つまり、仏様は悟りを開き下界の全ての事象を把握なさっている。信心しないといずれ罰が当たるという戒めを寓話にしたものなんでしょう。
というわけで4月20日(日)、今日の僕らは善光寺参りである。京都からいきなり信濃へ、国宝の旅は電光石火なのだ。
僕らというのは、「あきらくん」と「だいちゃん」と僕。久々の「おたくちゃん分科会」の復活なのである。(おたくちゃん分科会の成り立ちは第31話、第41話をどうぞ。)
しかし、
信濃は今日も雨だった。
長野県地方はあいにくの雨降りなのである。僕ら「おたくちゃん分科会」の長野県活動はどういうわけか雨降りが多い。長野県には国宝建造物が5件ある。「大法寺三重塔(第42話)」「安楽寺八角三重塔(第43話)」「仁科神明宮(第116話)」そして今日行く「善光寺本堂」と「松本城天守」だけど、信濃への僕らの国宝の旅は全てが雨降りになってしまった。
雨降りだけど善光寺は朝から大変な賑わいである。
なぜなら、今年は善光寺・前立本尊(まえだちほんぞん)の7年ぶりの御開帳の年なのである。でも、前立本尊は本当の本尊ではない。本当の本尊は全くの秘仏で公開されることはなく、その代わりに本尊の前に立つ本尊の分身の前立本尊が、丑(うし)年と未(ひつじ)年の4月〜5月の約50日間にわたって公開されるのである。
秘仏の本尊の姿を写したとされる前立本尊は一光三尊像(ひとつの光背に3体の仏)で、中央が阿弥陀如来、向かって右が観音菩薩、左が勢至菩薩、鎌倉時代の作で重要文化財である。中尊が42.4cm、両脇侍が30cmほどの本堂の巨大さとはうらはらに小さい三尊像である。この前立本尊はまことに本尊に似せて造られているらしいのだが、本尊の方は戦国時代に40年余りの流転の歴史を持っているという。上杉謙信、武田信玄の「川中島の合戦」のときに、善光寺の仏像・仏具の一部は上杉氏のもとに、また、本尊をはじめ諸仏具は武田氏が善光寺の堂主栗田氏と僧侶と共に甲府(甲斐善光寺)に移された。武田氏滅亡後は、織田氏、徳川氏、豊臣氏の手に次々と移り、豊臣秀吉が死ぬ直前になってようやく善光寺に戻ってきたのである。
善光寺三門前
雨の善光寺は、それでもこの本尊のレプリカを拝もうと多くの人が集まっている。聞くところによると年間参拝客は700万人あるという。東京ディズニーランド・ディズニーシーの2,200万人、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの1,100万人(共に2001年度)からしても、恐ろしい数字なのである。
善光寺はまさに、国民的一大霊地なのである。
第158話 善光寺本堂
善光寺は生身(しょうじん)の阿弥陀如来の霊場として、また秘仏の本尊は日本最古の仏と信じられ、多くの人々の信仰を集めてきた。このように信仰を高めたのは、善光寺如来にまつわる歴史などを集めた「善光寺縁起」によるとされている。
「善光寺縁起」によれば、欽明13年(552)百済の聖明王(せいめいおう)から送られた我が国最初の仏像は、蘇我氏と物部(もののべ)氏の争いにより、難波の堀江に投げ込まれてしまった。推古天皇10年(602)、仏のお告げにより、その仏像を堀江から引き上げ、信濃に背負って持ち帰ったのが信濃の住人・本田善光(ほんだよしみつ)である。この本田善光が草庵を建て仏を祀ったのにはじまり、皇極元年(642)、息子の善佐(よしすけ)が現在地に善光寺を建立し、この本尊を移したといわれている。。
古代末期から中世前期には「善光寺の仏様を拝めば、現世と来世の安楽が得られる」という阿弥陀信仰が広まり、善光寺はその中心的霊場となった。鎌倉時代には源頼朝や北条氏の外護(げご)で伽藍が整い、親鸞や一遍らも参詣している。
だけど、
善光寺の歴史は焼失と再建の歴史である。
古い時代の記録は定かではないが、大同4年(809)に炎上してから、近世においても元和元年(1615)、寛永19年(1642)年、元禄13年(1700)の焼失まで十数回の火災を繰り返しているのだ。その都度再建を行い、現在の本堂は宝永4年(1707)に再建されたものである。
国宝・善光寺本堂はとてつもなく巨大である。正面五間(23.85m)、側面14間(53.65m)で身舎(もや)の平面積は1,280uは東日本一の大堂なのである。(ちなみに世界最大の木造建築・東大寺金堂は57.0m×50.5mで2,880uある。)間口に対して奥行きが2.25倍もあり、礼拝空間が著しく縦に広い仏堂である。
南正面 南西面 北面 正面妻飾り
そして本堂の屋根は珍しい形状をしている。仏寺建築では珍しい「妻入り」で妻側が正面になっている。しかし正面(南面)は妻側になっているが、側面(北面)に回り込むとそこには妻はなく、いわゆる桁行きのような屋根が現れるのである。これは撞木造(しゅもくづくり)という建てかたで、空から見ると棟の稜線(りょうせん)がT字型になっているからである。撞木とは鐘などを叩くT字型の棒のことである。このような屋根の形式は、始めに奥の横棟の仏堂が建てられ、その後に前面に縦棟の礼堂が付き、さらにその礼堂が発達してできた形式ではないかと考えられている。
本堂に上がる木階段の前に立つ向拝柱はほとんどがねじれており、特に東向拝の南の一本が目立つ。これは弘化4年(1847)の善光寺地震によるものといわれ、「地震柱」の名がある。善光寺地震は直下型のマグニチュード7.4(阪神淡路大震災はマグニチュード7.3)の大地震で8,000人を超える死者が出たという。そんな強烈な地震にも耐えたということは阿弥陀如来の御加護であると信じられ、善光寺信仰がさらに高まったという。でも柱のねじれの本当のところは、本堂の再建が急がれるなか、構造材に用いる木材を充分に乾燥することができず、生木が年月を経てねじれることを予測し、となりの柱と互い違いにねじれるように配置し、ズレを打ち消すように建てられたということらしい。まあ、いずれにしてもスケールの大きな話である。
内部は前方2列目の柱から11列目の柱まで広い外陣とし、前半を板敷き、後半を畳敷きとしている。板敷きの部分に楽を奏する台を置いている。ついで14列目までを中陣とし畳を敷き、それより奥を内陣としている。
長い時間行列に並んで僕らは前立観音を拝むことができた。前立本尊は中央に安置され、内陣中央より少し左に本尊が安されているらしい。右手には創設者の本田善光夫妻と長子の善佐(よしすけ)の像を祀っている。少し遠いのと暗いのではっきりと見ることはできないけど、これ以上は望むべきではない、ありがたいことである。
内陣と中陣の境の部分は、床下が回れるようになっており、戒壇めぐりができるようになっている。本尊の真下あたりにあるカギを触れば極楽行きが約束されるらしいが、今日のこの混み具合では時間がかかりそうなのでやめにした。僕は高校の修学旅行と、6年前に両親を連れて来たときの2度、このカギに触れているので極楽には2度行けることになっているはずなのだ。
本堂から外に出ると雨はまだ降り続いている。ますます参拝者は増え、境内にはたくさんの傘の花が咲く。本堂の北側に咲き乱れる桜の花も今日の雨と風でだいぶ散ってしまうのだろう。
善光寺の今年の桜は今日が見納めだ。
第159話 信玄と謙信
川中島に行ってみようか。
と、あきらくんが言いだした。
川中島といえば合戦の地である。歴史好きのだいちゃんも「いく、いく!」と大喜び。松本城に行く前にちょっと寄り道していくことにした。
川中島合戦場は善光寺から車で南へ15分くらいのところ、いまは八幡原史跡公園となっている。
武田信玄と上杉謙信は、戦国武将の中でもひときわ花形的存在である。時代の上では関東の北条早雲や中国の毛利元就より遅く、本州中部の織田信長や豊臣秀吉より早い時期に活躍している。
戦国武将の先駆者の早雲や元就がそれぞれ、関八州や山陽・山陰両道の攻略を念願として、それ以上の野望をいだかなかったのに対し、信玄と謙信は共に京都に向け旗を立て、天下に号令することを望んだ。しかし、いずれも病に倒れて、宿願を果たすことができずに、後の信長や秀吉に功をゆずることになる。
戦国武将に勝利をもたらすのは、その器量や力量もさることながら、最も大きな要素は「時運と地の利」なのだろう。早雲や元就の器量が信玄や謙信に劣ると言えないように、信長や秀吉の力量が、あながち信玄や謙信に勝っていたからだとも言い切れない。しかし、この戦国時代をドラマとするならば制覇を遂げ上様と仰がれた信長、秀吉より、中道で挫折した信玄、謙信のほうが一層劇的であったのかもしれない。とくに竜虎にたとえられるこの両雄が、一騎打ちをした川中島の合戦は戦国史上、いや日本史上でも例を見ない規模ものであった。
信玄の甲州軍と謙信の越後軍とは、犀川と千曲川の流れに挟まれた川中島を中心に幾度か対峙したが、永禄四年(1561)9月10日の朝6時、深い川霧の晴れ間をぬって開始された。謙信は密かに千曲川を渡って、川中島の中央八幡原、信玄が十二段の陣を構えている背後にでた。信玄の軍は夜が明けるまでこれに気づかなかった。信玄軍にしてみれば、朝日が山のはに昇るころ突然の敵の出現であった。それに驚き慌てて陣容をたてなおす間もなく、謙信軍が怒濤のように攻め込んできて混戦となったのである。両軍の兵力は総勢30,000に近く、死者は7,000人とも8,000人ともいわれる壮絶な戦いであった。
三太刀七太刀
この乱闘のうちに信玄の弟武田信繁や隊将・諸隅豊後守(もろずみぶんごのかみ)、初鹿野伝五郎など信玄軍は4,000人を超える戦死者を出し、信玄と嫡男(ちゃくなん:正妻の子)の太郎義信も傷を負った。信玄軍がまさに総崩れになろうとしたとき、高坂弾正(こうさかだんじょう)以下12,000の兵が妻女山から救援にはせつけたのだ。
謙信軍3,000余人に及ぶ戦死者の大半は、引き上げの際にこの信玄軍の追撃により、犀川の急流におちいって、溺死したものである。
両軍ともこれほどの大損害をだしたにもかかわらず、勝敗は引き分けの形に終わってしまい、共にほとんど得るところがなかったのである。しかし、計算を度外視した戦にこそ両将の面目がうかがわれ、この一戦が高く戦史に抜きんでて語られる所以である。
史跡公園には「三太刀七太刀」の両将一騎打ちの像がある。上杉謙信は、愛刀の「小豆長光(あずきながみつ)」を振りかざし武田本陣に、ただ一騎斬り込んでゆく。不意をつかれた信玄は謙信の太刀を軍配で受けたのだった。この時、謙信は信玄に三度斬り込んだが軍配には七箇所の傷が付いていたという。これが、三太刀七太刀の名の由来である。
八幡原史跡公園満開の桜 信州蕎麦
この戦から440年あまりの歳月が流れ、今の川中島八幡原は桜の花が咲き乱れる平和な地に変わっている。
一時、雨が上がり青い空がのぞいてきた。公園では家族連れが花見を楽しみ、土産や地域の農作物を売る店も立ち並ぶ。
僕らはその売店のいちばん端っこにある蕎麦屋さんでお昼の腹ごしらえをすることにした。
やっぱり信州は蕎麦が旨い。
だいちゃんは3玉はあろうかと思われる「大盛り」をぺろりとたいらげた。
第160話 松本城天守 いったんあがっていた雨が再び降りだした。風も強くなってきた。
今日の松本城は満開の桜に包まれながらも、雨と風の悪条件である。お堀の水面には風にちぎれた桜の花びらが、まるで絨毯を敷きつめたように溜まっている。昨日買ったばかりの僕の「最新型65センチ級ジャンプ式ビニール傘」は強風にあおられ、早々と骨が折れてしまった。やっぱり、
お城には青空が似合う。
と、思うのだけど、今日に限ってはいたしかたない。満開の桜に青空を望むのはちょっと贅沢かもしれない。
松本城は平城(ひらじろ)である。平城というのは大阪城のように平地に建てられた城のことで、山城(やましろ)、平山城(ひらやまじろ)より後の時代に主流となった城のつくりかたである。(第55話参照) そして、国宝、重要文化財に指定されている城郭のうち平城はこの松本城だけである。
松本城は平城としては初期に属するもので、天正18年(1590)小田原の戦の後、松本に入部した石川数正(いしかわかずまさ)が豊臣秀吉の東国史配の拠点として工を起こした。しかし、数正は文禄2年(1593)に没したため、そのあとを息子の石川康長(いしかわやすなが)が継いで完成した。城郭は本丸・二の丸・三の丸と規格正しい縄張りで、外周には城下町と社寺地帯を配している。
松本城全景
天守は大天守を本丸西南隅におき、北に乾小天守(いぬいこてんしゅ)を渡櫓(わたりやぐら)で連結し、東南に辰巳附櫓(たつみつけやぐら)と月見櫓(つきみやぐら)を複合した特殊な形式を持っている。これら五棟が連立し、全てが築城当時のまま残っていることの遺産的価値はまことに大きい。
天守築造の年代については明かでないが、文禄3年(1594)頃から着手し、慶長2年(1597)頃に竣工したとする説が有力である。当初は5層6階の大天守と3層4階の乾小天守を渡櫓で結ぶ連結式構成であったが、のちの寛永年間(1624〜1644)に松平直政が辰巳附櫓と月見櫓を複合させている。
大天守と乾小天守 大天守と
辰巳附櫓・月見櫓(左)
乾小天守(右)大天守
その後、数度の修理を経てきたが、明治維新の廃城令(明治6年)により天守以外は解体して失い、天守も235両で売却の憂き目にあった。しかし、地元の熱意で保存・修理がなされ、昭和30年(1955)の大規模な解体修理を経て現在に至っている。
外観の特徴は野面石(にづらいし)による空積みの石垣、白漆喰の大壁に黒漆(くろうるし)を塗った腰羽目板(こしはめいた)、狭間(さま:天守の壁などに設置された弓射たりや鉄砲を打つ小窓)、石落としなどが目立つ。また、破風が少ないこともこの城の特徴である。大天守の破風は3層の南に千鳥破風が1つ、4層の東西に千鳥破風が2つと南北に唐破風が2つ、そして5層南北の入母屋破風が2つ、合計7つの破風しか付けない。(乾天守には全くない。)ちなみに同じ国宝の彦根城は18箇所、姫路城は多すぎて数えたくないくらい付いている。そして全体のイメージは、野面積みの石垣と黒の腰羽目板が無骨さをあらわし、すらりとした背の高さとその均整が、優雅で華麗な様をあらわしている。このあたりが「黒の名城」といわれる所以だろうと思う。
また慶長年間に建てられた松本城は、城郭建築の歴史において、住宅風の望楼型(ぼうろうがた)天守から、関ヶ原の合戦以後の戦闘を意識した層塔型(そうとうがた)への変化、そして山城や平山城から平城へ変化する過渡期の城であるといわれている。したがって松本城はこのふたつの資質を備えているのである。
まず、望楼型天守の要素として、
@石垣が古い野面積みであること。(後には打込みはぎ、切込みはぎが主流となる。)
A石垣の傾斜が直線的できわめてゆるいこと。
B屋根の軒数と内部の階数が一致しないこと。(5層6階)
C初重平面が菱形で不整形であること。
D壁の腰を黒漆塗りの腰羽目板としたこと。
E屋根の勾配が各重異なっていること。
F内部使用柱の大半が手斧(ちょうな)削り仕上げであること。
などがあげられる。
一方、層塔型天守の要素として。
@天守が大屋根の上に望楼を載せた構造形式ではなく、腰屋根や寄せ棟屋根など簡易な技法で納めていること。
A屋根の逓減率が少ないこと。
B破風が少なく、あっても構造上のものではなく、装飾的な扱いであること。
C内部に住宅的な要素がなく、純軍事的なつくりであること。
D最上層に回高欄(まわりこうらん)が付かないこと。
などがあげられる。
僕はこれで、国宝の4城(松本城、犬山城、彦根城、姫路城)を制覇した。どの城も素晴らしく当然のことながら甲乙などはつけられない。そして国宝城郭探訪の醍醐味は、どの城も天守に登らせていただけ、その歴史の深みを五感で堪能できることにあると思う。僕はこの厳しい風雨の中の松本城を忘れない。でも、
いつかきっと青空の松本城を見に来たい。
とも思った。