第33章 播磨の国宝・四景プラス1
第166話 再び、一乗寺三重塔
2年の歳月は短いようで長い。
僕が「全国縦断国宝の旅!」を始めたのは、2001年の5月だった。このサイトによく立ち寄ってくださる、仙人さんの国宝探訪暦930件、タカちゃんの989件(ともに2003.7.7時点)、それから、国宝建造物を残すところ22件にまでしてしまったHIRO(2003.6.7時点)には遠く及ばないにしても、僕はこの2年ちょっとの間に国宝建造物99件、国宝彫刻などおよそ30件(実はちゃんと数えていません。)の国宝を見てきたことになる。(自分なりには凄いことをやっていると思う。)
これからもずっと続けますので、仙人さん、タカちゃん、HIRO、赤鬼さん、今後もアドバイスや情報をよろしくお願いします。
この2年の間に僕は多くの国宝探訪を繰り返し、知識や拝観のしかた、そして写真の撮り方など、まあまあ成長したと思う。(あくまで僕の中での感覚ですけど) そして、当たり前だけど、2年前、国宝探訪初期の頃の訪問記は「あまりにも拙いぞ!」と思う。とくに最初の頃に行った、観心寺や一乗寺は内容があまりないよね。
で、
もう一度、一乗寺に行ってみよう!
ということにした。2年前に訪れた時よりは、しっかりと国宝に臨むことができるだろうと思う。それに播磨の国(兵庫県南部)には国宝建造物が多いので、そちらの方も回ってみようと思う。一乗寺は第8話で紹介してるので、是非そちらのほうもご参照を!
加古川バイパスを加古川西ランプで降り、20分ほど田園地帯を北へ走ると、加西市の南部のなだらかな山間(やまあい)に入る。道はそんなに険しくはないが、曲がりくねってアップダウンが続く。早朝にはきっと霧が湧き出るだろうと想像がつく、そんな人里離れた山峡である。そして、谷になった少し開けた平地に一乗寺はある。風景は2年前と変わってはいない。
本堂は修理中で拝観できませんがよろしいですか?
拝観受付の女性が確認する。そういえば2年前も重要文化財の本堂は修理中だった。ここまで来て、「ああそうですか。」と引き返す参拝者もいないだろう。
ずいぶん修理、長いですね。いつまでですか?
あと、2年かかるんです。
お寺の人はもとより地域の信仰者達も、きっと首を長くして本堂の修理完了を心待ちにしているのだろう。「早くできるといいですね。」といいながら、拝観料の300円を支払い、境内に入った。
春は花 夏は橘 秋は菊 いつも妙なる 法の華山 (永延元年:987 花山法皇)
と御詠歌にうたわれた法華山一乗寺は、西国二十六番札所であるにもかかわらず、参拝者もさほど多くなく、僕の好きな神秘的な「閑寂の寺」なのだ。
一乗寺はインドから雲に乗って飛来したという、法道仙人(ほうどうせんにん)によって開山されたという伝承があり、白雉(はくち)元年(650)、孝徳天皇の寄進で金堂が完成したという、播磨きっての古刹(こさつ)である。
伽藍は急な山の斜面を大きく三段に造成し、建てられている。拝観受付のある一番下の平坦地から、石段を登ると一段目に常行堂(じょうぎょうどう)があり、今はここが仮本堂になっている。さらに石段を登ると二段目に国宝三重塔、三段目に修理中の本堂が配置されている。常行堂から二段目に向かう石段を登り始めると、上方の木々の間から三重塔の相輪が見えてくる。
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| 三重塔相輪 |
水煙(すいえん)が美しく、形のいい相輪である。昭和16〜18年の解体修理にで、この相輪の伏鉢(ふくばち)に承安(じょうあん)元年(1171)の銘、また瓦に承安4年(1174)の銘があることが判り、建立年代はこの頃とされている。年代が確定できる塔としては最古の遺構である。
三重塔が立つ2段目の平地は猫の額のように狭い。観光バス1台分の客が訪れたなら、ここはおそらく東京駅のプラットホームのように人で溢れかえってしまうだろう。それゆえに塔は見上げだけで、あまり面白いアングルとはいえない。
ほんとうは本堂に登る石段の中間あたりから振り返ってこの塔を見下ろすと、きっといいアングルで捉えることができるのだろう。
が、あいにく本堂工事中のため、鉄パイプの柵が設置されていて、ここから上には登れない。2年間待つしかないのか・・・。
いや、
今日の僕は悪い子だ!
柵を乗り越えて、石段の中間あたりまで登ってしまったのだ。(ごめんなさい、2年間も待てませんでした。)
うん、やはり僕の思ったとおり、ここからの眺めが最高だ。下からだと見えなかった屋根の逓減や軒の出の深さによる安定感もよくわかる。(禁断のショット1) さらに少し上に登り三重の屋根を見ると、「照り起り(てりむくり)」と呼ばれる葺き方をしているのもよくわかる。(「照り」とは反っていること、「起り」とはふくらんでいることです。:禁断のショット2)
まあ、長い国宝探訪なんだから、こんな反則もたまにはお許し下さい。(よい子の皆さんは絶対真似しないでくださいね。)
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| 禁断のショット1 |
禁断のショット2 |
塔はどこから見てもずっしりとした安定感がある。それは柱間と屋根の逓減率の大きさゆえである。柱間は上重へいくにしたがって、狭く造られていて、その比率は
1:0.82:0.63 になる。とくに三重の逓減率がかなり大きい。塔身に比べ相輪は大きく、頂部に先程の美しい水煙を戴く。
壁面は各重とも同じような扱いで、切目縁(きりめえん)に沿わして切目長押(きりめなげし)を置き、左右脇間の盲連子(めくられんじ)の下に腰長押、盲連子と扉の上に内法長押を打ち、柱上には台輪を廻らせている。中央の柱間は幣軸(へいじく)をつけて、板扉とする。初重にはないが、二重・三重には跳高欄(はねこうらん)が付く。
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| 三重塔全景 |
正面 |
初重 |
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| 初重組物 |
初重蟇股 |
二重組物 |
組物は各重とも三手先で、三手先目の肘木は通肘木(とおしひじき)にしている。中備(なかぞなえ)には二材をつなぎ合わせた平安式の本蟇股(ほんかえるまた)を置く(初重、二重のみ)。軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)で軒支輪(のきしりん)が付く。よく見ると、尾垂木の跳ねの部分は別材を取り付けているのがわかる。
また、この塔は初重に心柱がなく、二重でとめられている。この例は同時期の塔としては、海住山寺五重塔(1214)、浄瑠璃寺三重塔(12世紀)に見られるが、年代が確定できる例としてはこの塔が最古であり、これ以降の三重塔の心柱は全て初重天井の梁の上から立っている。これは心柱が相輪を支持するもので、塔本体の構造には直接関係がないためである。飛鳥・奈良時代の塔には、心柱が心礎から立っており、仏舎利の安置が目的であったが、このように二重から立てるのは、初重内部を広くとり、仏像を安置するためである。
建築技法上この塔は、古代から伝承してきた和様の建築技術を知るための基準であり、古代から中世への技術転換を見るうえにおいても貴重な遺構である。
ともあれ、2年前には全然わからなかったこの塔のことが、かなり理解できるようになってしまった。少しは僕も成長したんだろう。
2年の歳月は短いようで長いのだ!
第167話 浄土寺の国宝仏
小野市には凄い仏像があるらしい。
鎌倉時代初期、東大寺を復興した重源(ちょうげん)が、巧匠・快慶に彫らせた、浄土寺にある阿弥陀三尊像だ。中尊は5mもあるいわゆる丈六像(1丈6尺の高さ)で、左右の観音・勢至両菩薩像も4m近い大きな像だという。快慶初期の名作巨像といわれ、まさに国宝中の国宝なのである。おまけにその仏像が安置される浄土堂も、数少ない大仏様の傑作として国宝に指定されている。
関西にいるとこんな遺品・遺構にも、ヒョイとドライブがてらに出逢えてしまう、これは素晴らしいことだと思う。甲子園球場に通うのだけが能じゃないですョ、阪神ファンさん!(しかし、今年の阪神の強さはいったいなんだろう?)注:僕は巨人ファンです。
先程の加西市にある一乗寺から西に20分くらい走ると小野市に入る。
小野市の中心部は平安時代末から室町時代にかけて、奈良東大寺の荘園大部荘(しょうえんおおべのしょう)に属していたため、経済的な拠点として重要な役割を果たしてきた。治承4年(1180)に平家の焼き討ちで東大寺は焼失、その再建にあたり勧進職として活躍した重源上人は、東大寺復興の財源として小野市浄谷町に浄土寺を建立した。
「浄谷町北」という信号で、国道175線・小野バイパスを西から東に横切ると、ほどなく浄土寺の前に着いた。県道のそばにあるお寺の駐車場に車を止めると、こんもりと小高い丘の上、築地塀の向こうに浄土寺浄土堂の宝形(ほうぎょう)の屋根が現れた。参道脇に咲く大輪の向日葵(ひまわり)が熱い太陽に顔を向けている。
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| 浄土寺浄土堂 |
参道脇の向日葵 |
案内板には拝観時間が、9時〜12時、13時〜17時と書いてある。時計を見ると、計ったわけでもないのに、なんと12時55分である。境内に登る石段の下まで来ると、「拝観される方は宝持院まで」と札が掛かっている。宝寺院は浄土寺の塔頭(たっちゅう)寺院である。
すみません、浄土堂の拝観お願いしたいんですけど!
古い門構えの中に入って、左手の庫裏らしき建物の玄関で大きな声を上げると、
石段上がって、境内で待ってて下さい。
と、奥から男の人の声がする。
僕は、こんな形で「国宝中の国宝」に出逢うとは思ってもみなかった。もっと、わんさかと参拝者が訪れ、いつものように人のざわめき中で、国宝仏を眺めている自分を想像していたからだ。ちょっと寂しいような、でも嬉しいような、これは行列に並ぶのが好きな日本人ならではの感覚だろう。
石段を登ると、すぐ目の前に浄土堂は立つ。ピラミッドを低くしたような直線的な四角錐の屋根の下に、丹塗りの剥げ落ちた壁や扉が装飾性乏しく現れるのだ。組物には特徴があるが、それ以外は見た目に平凡だ。
これって、国宝???
そんな思いで、浄土堂の縁に腰かけ待っていると、お寺の若奥さんらしき女性が、40〜50cmくらいあるだろうか、先の曲がった細い鉄の棒を手に持って石段を登ってきた。若奥さんはその鉄の棒を扉の穴から突っこむと、カチャカチャと扉の内側につく閂(かんぬき)を上手に外した。
写真はダメですか?
拝観料500円を払いながら、念のために聞いた僕の問いに、若奥さんは微笑みながら首を横に振った。僕はカメラと三脚を入り口のところに置かせてもらい、お堂の中へと進んだ。
外観とはうって変わって、堂内にはこれまでに見たこともないような幾何学的な架構が、しかも色鮮やかに僕の眼の中に飛び込んできた。架構だけではない!巨大な仏像3体が、天井を張らない屋根裏に、今にも触れんかのごとく立っているのである。
その壮大さは僕の予想をはるかに上回った。中尊は5.3mの巨像である。奈良・東大寺の大仏や鎌倉の大仏は別格として、坐像の多い丈六像において、この阿弥陀如来立像は最大級の国宝仏である。そして中尊の両側で小さく見える両脇侍の観音・勢至二菩薩像も、3.7mもあり単独ならばこれまた立派な巨像である。もちろん大きさだけではなく、その荘厳さは比類がない。
仏像本体は、それぞれ頭部、体部を通じて巨大な4本の檜材(ひのきざい)を矧(は)ぎあわせてつくられ、中尊像はこの幹部材に両肩の外側に裾(すそ)まで、外側材が取り付けられている。また、これら幹部材は足元の台座・須弥壇を貫通し、床下の礎石に達し、その下端は三尊を渡る貫によって堅固に固定されている。表面の仕上げは金箔を漆(うるし)で張った漆箔(しっぱく)仕上げとしている。
中尊は衲衣(のうえ)に袈裟をかけ、左手は胸の前で指を曲げて掌を仰ぎ、右手は垂下して指を伸ばし掌を前に向ける。下方に雲座をおく蓮花座の上に直立し、背後には大型の二重円相を負う。両目を幅ひろく見開いた面相は、慈悲に満ちあふれ、どの位置から拝んでも、ちゃんと僕の目を見つめてくれる。腰下に重なる衣褶(いしゅう)は快慶らしさを現し、左手には袈裟の末が柔らかにかかっている。そして、
女性的な、美しく長い爪をしている。(鑑賞ポイントです。)
これは宋の仏像の影響を受けているらしい。
両脇侍は、うず高い宝髻(ほうけい)に垂髪を両肩に垂れ、面をやや下に向け、腰を少しひねって、立つ姿に動きをもたせている。向かって右の観音菩薩は胸の前に上げた左手の第2指と第3指で水瓶(すいびょう)を挟んで持ち、左の勢至菩薩(せいしぼさつ)は上下にした両手で蓮華を持つ。この両脇侍の理知的で張りのある面相は、快慶初期の作風であることが認められている。
堂は一般的な外陣・内陣といった隔たりがないので、三尊像の後ろ側まで廻って拝観することができる。めぐって拝すると三尊が少し前かがみに立っているのがわかる。これも鑑賞ポイントのひとつだろう。そして、三尊の後ろ側の床には、発泡スチロールの白い板が敷きつめられている。これは恐らく、蔀戸から夕日がさし込んだ時、三尊像が背後から眩しい光輝を発し、あたかも宙に浮いているような情景をさらに演出するための仕掛けなんだろう。
近年の調査で中尊像の像内にある銘文により、建久6年(1195)の制作が確認されている。このような巨大な仏像が火災などの被害に遭わず、制作から800年余りも経つ今日まで残されたことを、ある意味、僕は奇跡だと思う。(火災にあっても運び出せないものね。)
それはこの像を造った重源(ちょうげん)と快慶の熱い思い、そして仏の力によるものなんだろう。
噂どおり、
播磨の国宝仏は、恐るべき威光を放ち続けている!
そして、堂内は外観の簡素さから想像もつかない内部空間が広がる。
方三間、各柱間が6.06mもあり木造建築としては異例の広いスパンをとっている。軒反りをまったくもたず、天井を張らず、化粧屋根裏と太い虹梁と束による構架法の豪快さは、重源(ちょうげん)がもたらした大仏様ならではのものである。
阿弥陀三尊像の背面、堂西面は3間とも蔀戸(しとみど)となり、開け放てるようになっている。このような平面の阿弥陀堂はまったく他には見られない。各地を行脚(あんぎゃ)して庶民の救いに努めていた重源は、東大寺の荘園大部荘(しょうえんおおべのしょう)にこの浄土寺を建て、庶民の浄土への往生を願ったのだろう。藤原時代の優美で装飾的な阿弥陀堂を捨てて、簡素で力強い阿弥陀堂を造り、西を開け放すことによって、入り日を背景とした来迎(らいごう)の弥陀の姿をここにあらわそうとしたのである。
阿弥陀三尊像を安置する中央の円形須弥壇(しゅみだん)の周囲には、4本の四天柱(してんばしら)が屋根の上部まで高く延び、その柱から外側三方に放射状に三段の円形の繋虹梁(つなぎこうりょう)が架かる。虹梁の上には大瓶束(たいへいづか)が置かれ、各柱間中央には遊離尾垂木(ゆうりおだるき:斗きょうから離れた位置に独立してつくられた尾垂木)が挿入されている。
そして、この繋虹梁を支える四天柱の組物が何とも見事である。組物は三手先の挿肘木(さしひじき)で、斗(ます)には皿斗(さらと)がつく。この組物と、それから延びる繋虹梁には、何か動物的な躍動感を僕は感じた。架構は鮮やかな朱で塗られるが、繋虹梁の下端は溝が彫られ、その部分だけが白く塗られている。
あの、白く塗ってるところ、何ていうんですか?
僕は虹梁を指さしながら、若奥さんに聞いてみた。
あ、あれは「しゃくじょう彫り」って言うんですよ。
えっ、しゃくじょう彫り? どんな字、書くんですか?
え〜と、「すずのつえ」と書くと思いますけど。
「錫の杖」と書いて、錫杖彫(しゃくじょうぼり)、白い彫りは錫の杖を表しているのだ。そういえば、去年の秋に行った鎌倉・長谷寺の巨大な十一面観世音菩薩が長い錫杖を持っていたのを思い出した。(117話) この錫杖彫は、この堂内空間を引き締める大きなアクセントとなっていると思う。
鎌倉時代の初頭は、浄土宗、浄土真宗、禅宗などの新宗派が次々に起こり、宗教界に清新の気風を注入した時代ですが、それと同時に仏寺建築においても、唐様、大仏様(天竺様)、が伝えられはなはだ多彩となった時代です。中でも大仏様(天竺様)建築は、構造力学的な原理に即した合理性を尊重し、それに徹しようとするものであったため、建築の美を実用に求め、真の建築美を構造の合理性に発見しようとする近代建築観とは、最も符合するものといえます。浄土寺の国宝、浄土堂は奈良の東大寺南大門と並んで、大仏様建築を代表する最も大切な建物であす。
この浄土堂は、桁行三間、梁間三間、単層、屋根宝形造、本瓦葺の堂々とした建物で、柱間の隔りは20尺という広いものです。
鎌倉時代の初め、東大寺の再建工事が始められた際、大勧進職となった俊乗房重源上人は、領所として与えられた大部荘に壮大な寺院を興しましたが、そのときのままに残っているのがこの浄土堂です。創建の建久3年(1192)から、昭和32年まで約770年の風雪に耐え、一度も解体されずに持ちこたえてきただけでも偉大です。つくり方が大仏様という特異な様式で、東大寺の南大門とともに全国にただ二つしかない点も重要です。
雄大な円柱から何本も突き出ている挿肘木、木鼻とこの挿肘木とを結ぶボリュームに富んだ虹梁、天井を張らずに化粧屋根裏を高いところまで見せている雄大さ、重源上人の雄渾(ゆうこん)な気魄(きはく)と、大陸風のおおまかな雰囲気に、見る者は圧倒されてしまうほどです。柱にエンタシスを持っていること、斗の下に皿を付けていること、垂木の配りかたが四隅だけ扇垂木としていること、垂木鼻に鼻隠板(はなかくしいた)をうちつけていることなど、純粋な大仏様の建築手法は、この浄土堂の研究に俟(ま)たねば、到底解明されません。(浄土寺パンフレットより)
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| 浄土堂南東面 |
東正面 |
西面の蔀戸 |
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| 隅組物と屋根 |
組物 |
本堂(薬師堂) |
堂の外に出た。浄土堂の外観は前述のように、内部に比べずいぶんあっさりしている。低い軸部の上に、軒の深い直線的な大きな宝形屋根が乗る。周囲には装飾的な部材が少なく、大仏様の建築としては簡素で、不思議な落ち着きをもっている。正面三間に桟唐戸(さんからど)を入れるが、中央の桟唐戸は成を高くして中心性を高めている。背面は三面を蔀戸とし、上部2/3ほどを吊り上げられるようになっている。柱上部には三手先の挿肘木よって構成され、大斗の上に肘木をのせ、斗をのせるという和様の手法を捨てている。
内部の三尊像を夕日の中で浮かび上がるように見ようとするなら、夕刻に訪れるのがよいが、軒の深い東向きの浄土堂をうまく写真に収めようとするなら、朝早く訪れるのがよいだろう。まあ、
一日で二度おいしい浄土堂である。
境内には浄土堂と相対して東側に薬師堂(本堂)が建つ。浄土堂とほぼ同型同大の建物で、もともと重源上人によって建立され、天竺様の堂々とした姿を示していたが、室町時代の中頃に焼失し、その後、永年14年(1517)に再建された。大仏様の建て方をしているが、浄土堂ほどの純粋性がなく、和様や禅宗様の手法が混在するのが惜しまれる。
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| 浄土堂と薬師堂 |
ぐるりと境内を回ったあと再び浄土堂に戻ると、若奥さんは、お堂からお子さんを連れて出てきた。小学低学年くらいの男の子と、まだだっこされてる幼女だ。
「こんな素晴らしい仏様に見守られながら育つ子供達は、きっと真っ直ぐに優しく成長するのだろう。」 そんなことを思いながら、背景に薬師堂を入れ、浄土堂にカメラを向けた。
背中から一時、清澄(せいちょう)な風が吹き抜けた。
うわ〜っ!
突然、僕の「いつクラ号(僕の愛車のこと)」の前を、黒くて長い物体が横切った。ブレーキを踏む間もなく、
べち!
嫌な音とともに、鈍い感触が僕の体に伝わった。何か轢(ひ)いてしまったぞ!
反射的にバックミラーに目をやると、「やっぱり、蛇だ。」
蛇、踏んじゃった!
僕がまだ子供の頃、僕らが遊んでいた河原や山には蛇がいっぱいいたので、僕にとって蛇はあまり恐い生き物ではない。何処にでもいた「シマヘビ」や、捕まえるのにはちょっと勇気のいった「アオダイショウ」、毒を持つ「マムシ」や「ヤマカカシ」は子供ながらに、ちゃんと見分けて、近寄ってはいけないことを知っていた。簡単に捕まえられる「シマヘビ」なんかは、子供の目から見ても怪しげな「蛇屋」に持っていくと、60cmくらいまでなら1匹5円、それ以上の大型なら1匹10円で買い取ってくれた。その蛇がどのように使われるのかはよく知らなかったが、その頃はどうやら蛇を乾燥して粉にして、薬として売るという商売があるのを年長の子供から教えてもらっていた。僕ら、子供達は蛇の代償に貰った5円や10円で、アイスキャンデーを買って食うことを、男の子ならではの遊びにしていた時代があったのだ。
ともあれ、蛇を邪険にしていた頃の子供ではなく、もう、とっくに大人になってしまった僕が、蛇くんを轢き殺してしまったことは申し訳ないと思う。
「蛇くん、すいません、成仏してください。」
これから行く朝光寺でしっかりとお祈りしておこうと思う。
国宝・朝光寺本堂はそんな長閑(のどか)な「兵庫県加東郡社町畑」というところにひっそりと在る。加古川の河口から30kmほど遡(さかのぼ)ったところの山中に位置する真言宗の寺である。鎌倉時代末から室町にかけて栄えた寺で、京都の三十三間堂から一体いただいてお迎えしたという千手観音を本尊とする。一乗寺を開いた法道仙人(ほうどうせんにん)が白雉(はくち)2年(651)に創建したと伝えられるが、資料に乏しく、寺の歴史は明かではないようだ。
車道脇の駐車場に車を止め、雑木が覆い繁る谷川沿いの道を入っていくと、右手に「つくばねの滝」という案内板、左手には境内に登る石段がある。
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| つくばねの滝 |
右手の坂道を下り、滝の流れ落ちる岸辺に立ってみた。滝のそばは、いま流行りのマイナスイオンが多いというだけあって、エネルギーがチャージされるような清涼感がする。(ちょっと蚊が多いけど...。)
「つくばね」というのはビャクダン科の植物で、果実の形が羽子板で突く羽根に似ていることから名付けられたらしい。朝光寺の周辺にはこの「つくばね」が多く自生していることから、この滝の名前がつけられている。「つくばね」は社町の天然記念物に指定され、保護・珍重されている植物だ。
境内への石段を登り、仁王門をくぐると、突然空がひらけ国宝の本堂が現れる。
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| 石段の上の仁王門 |
仁王門から
本堂を臨む |
これまた、大きな本堂だ!
「これまた」と表現したのは、僕は先日、愛媛の太山寺で巨大な密教本堂を見たばかりだったからだ。(第164話) 太山寺の正面7間、側面9間(16.38m×20.91m)に比べ、こちらは方7間だが、その平面は19.57m×19.57mと正面がひと回り大きい。国宝の価値をその大きさで計るべきでないことは重々承知のうえだが、しかし大きいことは迫力が違う。寄棟造、向拝三間、本瓦葺の堂々たる密教本堂である。
今の本堂の建立年代を知る資料としては、厨子(ずし)裏の旧嵌板(はめいた)がある。それによると、応永20年(1413)に仏壇を建立し、本尊を移したことや、正長(しょうちょう)元年(1428)、屋根の上葺きが終わったことが記せられている。したがって、本堂の建立年代は応永20年で、屋根葺きだけが正長元年に及んだと見られている。ただし、向拝は文政12年(1829)に造りなおされている。
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| 本堂全景 |
側面(多宝塔から) |
向拝 |
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| 向拝と海老虹梁 |
組物 |
内外陣境の
格子戸と欄間 |
外陣内部組物 |
本堂は完全な正方形平面で、円柱と貫で軸部を構成している。組物は出組、中備(なかぞなえ)には禅宗様の双斗(ふたつと)が使われている。外部の建具は正面中央五間と側面第二、第三間に桟唐戸(さんからど)を吊り、正面両端間と側面前端間に連子窓を入れる。
内部は前方の三間が外陣、さらに桁行き中央五間×奥行き三間が内陣、その両脇が脇陣、後方の一間が後陣となっている。内外陣の境は上部を菱格子欄間(ひしごうしらんま)、下部に格子戸を入れる。外陣は側一間通りを化粧屋根裏とし、中央部は禅宗様の虹梁を架けて、その上に三斗で鏡天井を受ける。内陣は虹梁をあらわさず、太い格縁(ごうぶち)を荒く配して鏡天井にしている。
内陣には須弥壇を置き、壇上に厨子を置き本尊を安置している。この厨子はもともと三間のものを四間に改められているが、禅宗様の組物や軒回りなどはよく残っている。
このように、この本堂は室町時代初期における密教本堂の典型であり、和様を基調としながらも、外陣の架構や組物などに禅宗様の技法や意匠を巧みに取り入れる折衷様(せっちゅうよう)建築である。この折衷様建築は14世紀に全盛をむかえるが、長くは続かず15世紀後半には突然姿を消してしまうのである。その意味で晩期の折衷様仏殿として、この朝光寺本堂は貴重な遺構といえる。
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| 重文・鐘楼 |
境内には本堂の他に鎌倉時代の鐘楼(重要文化財)や、江戸時代の多宝塔や鎮守社などが建ち、こちらも重文に見応えはある。このような山里にぽつんと残された仏堂を見ると、地方津々浦々まで日本の宗教が強く浸透していたことがうかがえる。
僕は本堂の裏で、今日2匹目の蛇(シマヘビ)を発見した。近づいて観察しようとしたが、あっさりと床下に置かれる古い材木の陰に逃げ込まれてしまった。蛇は我々が思うほど邪険な生き物ではなく、本当は臆病な生き物なのだ。
朝光寺は、多くの自然が残された環境の中に、ひっそりと佇む古き良き寺である。
さて次は、播磨最後の国宝建造物・太山寺(たいさんじ)本堂だ。愛媛県の太山寺本堂も同じ呼び名の国宝だが、これらは全く違うお寺である。
播磨の太山寺は神戸市西区伊川谷町というところにあり、神戸市内では唯一の国宝建造物である。神戸市西区というのは、昭和57年に垂水区から西神地区を分区し新しく誕生した街だ。当時僕は、仕事でこの辺りをよくまわっていたが、そのころは「神戸研究学研都市計画」がスタートしたばかりで、土地の造成や建築工事のためダンプや生コン車が頻繁に行き来し、あちこちで野山を削り、山肌を露出した哀れな風景は、今日からはとても想像もできないものであったと記憶している。北に六甲山がひかえる神戸市は、開発地を、海を埋め立てるか、西のこの地区に求めるしかなかったのである。そして、今では周辺にニュータウンも完成し、自然と都会が共生する素晴らしい環境の街に生まれ変わった。太山寺は、この神戸研究学研都市のすぐ北側に位置し、そんな新しい街を見守るようなかたちで建っている。
県道のバス停「太山寺」のすぐ横に、重要文化財の仁王門が建つ。三間一戸の八脚門(やつあしもん)だ。この仁王門は鎌倉時代末に他所で建造された楼門を室町時代後期に現在の場所に移築したものである。その時に上層部を撤去し、軒回りも縮小していることが昭和28年の解体修理工事で明らかになっている。左側仁王像の後ろの脇間に、修理の際に発見された古材を基に、当初の三手先の組物と軒まわりを復元している。仁王門をくぐると長い長い石畳がお寺へと導いてくれる。
こりゃ、相当のお寺だぞ!
参道の左右には塔頭(たっちゅう)が並び、歴史のあるお寺であることを感じさせる。
太山寺は山号(さんごう)を三身山(さんしんざん)という天台宗の名刹で、藤原宇合(ふじわらのうまかい)により霊亀(れいき)2年(716)に創建されたと伝えられている。かつては41の小寺院(塔頭)に囲まれ、七堂伽藍を配した壮大な寺院だったらしい。現在は本堂を中心に、阿弥陀堂、三重塔、護摩堂、羅漢堂、釈迦堂、鐘楼、観音堂、仁王門を配し、周囲には安養院、歓喜院、成就院、龍象院の4つの塔頭がある。
長い参道の最後を左に折れると、石段の上に中門が現れる。中門の向こうには、国宝としては珍しい色合いの銅板葺きの屋根が僕を手招いている。
中門の前に立っている案内板には、
「本堂の建築様式は折衷様式で、和様の技法を主としながら唐様の木鼻をつけ、肘木の曲線は東半分が和様、西半分が唐様を用いています。」
と記述してある。
へえ〜、東と西で様式が違うんだ・・・。
受付のところで拝観料を払っていると、拝観を終えた初老の男性が本堂から下りてきた。
「東と西で様式が違うと書いてあるんですが、よく判りませんでしたよ。どこがどう違うんですかね?」
と、受付の女性に聞いている。
「僅かなことなので、なかなか専門家の方じゃないと判らないんですよ。」
と言われると、
「私も多少、建築かじってるんですがね。」
などと、ぶつぶつ言っている。
これは、なかなか面白そうだ。
なぜなら、僕は専門家だからだ!
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| 本堂全景 |
本堂正面 |
本堂側面 |
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| 妻(西)側 |
組物 |
本堂と三重塔 |
このお寺の勧進帳によれば、弘安8年(1285)の2月に本堂、鐘楼、丈六堂などが火災により焼失したという。本堂の再建年代については明かでないが、この火災のあとほどなく完成されたと考えられ、1300年ころの再建とされている。高い石積みの基壇の上に建てられた、桁行七間、梁間六間、20.8m×17.7mの大堂で、梁間六間を二等分し、前を外陣、後ろの五間二間を内陣、その周囲を脇陣と後陣とする。
外観はその規模に比べて、きわめて装飾的な要素が少ない。正面は七間全てに蔀戸(しとみど)を吊り、単調ながらも連続した清楚な美しさを醸しだしている。側面は外陣部が前から板扉、蔀、引違い戸で、外陣の三方全てを開け放てるようにしている。後ろ三間には中央に低い成の引違い戸が付き、背面は中央の間に板扉が付くのみである。軸組は、円柱に縁上の切目長押(きりめなげし)、その上に戸口下の半長押(はんなげし)、そして内法長押(うちのりなげし)の上に頭貫がつき、和様でよく見られる技法で組まれている。入母屋の妻は猪子扠首(いのこさす)が組まれ、猪の目懸魚(いのめげぎょ)が付く。組物は出三斗(でみつど)で、中備(なかぞなえ)には蟇股(かえるまた)は用いず、間斗束(けんとづか)とする。頭貫の木鼻(きばな)には絵様繰形(えようくりがた)がつき、この部分は唐様(からよう)である。
外陣内部は外回りから一間入った位置に独立した入側柱を立てるだけで、広々とした空間を造っているのは多くの参拝者を迎えるためだろう。内外陣の境は一般の密教本堂の通例にならい、菱格子欄間(ひしごうしらんま)と引違い格子戸である。入側の天井は垂木を見せた化粧屋根裏、身舎(もや)側は二手先の折上支輪(おりあげしりん)つきで組入天井(くみいれ)天井を張る。
さて、東半分と西半分で様式が違う点は、この二手先の組物を見比べればよく判る。(上の写真)肘木の下端に面を取っている東側が和様、面を取らずに円としているのが唐様である。このように東西で様式を変えている例は他に例がなく、これは当時の制作者が「陰と陽」、あるいは「月と日」というような対比を意識したものではないか、と考えられているそうだ。ともあれ、この本堂の大きな特徴といえるだろう。太山寺本堂は仏教の大衆化に伴う新しい仏殿の形式が成立した初期の例として極めて重要な遺構である。
境内には国宝本堂の他に、阿弥陀堂(1688)、護摩堂(17世紀後半)、三重塔(1688)、釈迦堂(江戸後期)、羅漢堂(江戸後期)と多くの遺構を残している。中でも三重塔はちょっとずんぐりとした塔で興味深い。また、阿弥陀堂の中には丈六の阿弥陀如来坐像(重要文化財)が安置され、向拝から拝ませていただける。800年の時を刻んできたとは思えぬほど黄金色に輝く煌びやかな巨像である。
太山寺は見るべきものが多くあり、ゆっくりと半日くらいかけて探訪するお寺といえる。僕みたいに国宝だけに力を入れるのは、少しもったいないかもしれないと思う。
カメラをリュックに収め、中門のところで再度振り返ると、本堂背後の青空に入道雲がわき起こった。
いよいよ、夏本番だ。
夏に強い僕の国宝の旅は、さらに続くのだ。