第34章 我は湖の子
第171話 湖北の白眉
今日も、遠くまで来てしまった。
大阪からだと、名神から北陸道に乗り継いでおよそ2時間(ちょっと飛ばしすぎだぞ!)、琵琶湖北端に近い高月町は、高速であと20分も走れば日本海に到達するという位置にある。
湖北・高月町は伊香郡の南部に位置し、東に己高(こだかみ)山系、西に賤ヶ岳(しずがたけ)の山並が連なり、その間には高時川、余呉川両水系がもたらした肥沃(ひよく)な沖積平野が広がっている。高月町の歴史は古く、古墳文化からの文化財が多く存在する。なかでも向源寺(こうげんじ)の国宝・十一面観音をはじめとし、近隣に多く残る仏像は国内でも貴重な歴史文化財として知られている。
2003年8月2日(土)早朝、僕がこんなに遠くまで来た理由(わけ)のひとつは、その十一面観音立像を拝むためである。
向源寺(こうげんじ)は一般には渡岸寺観音堂(どうがんじかんのんどう)と呼ばれ、古い歴史を持つ。
その昔、聖武天皇の天平8年(736)、当時都に疱瘡(ほうそう)が大流行し死者が相次いだため、天皇は除災の祈祷を僧泰澄(たいちょう)に勅した。泰澄は勅を奉じ、祈願をこめて十一面観音を刻み、一宇を建立して息災延命・万民豊楽の祈請をこらしてその憂いを絶ったと伝えられる。以来、病い除けの霊験あらたかな観音像として仰ぎ仰せられ、恒武(かんむ)天皇の延暦20年(801)には、比叡山の僧最澄が勅を奉じて七堂伽藍を建立し、多くの仏像を安置して寺勢を高めた。
仁王門の前に立ち、時計を見ると時刻は9時を5分ほど回ったばかりである。門をくぐると、人影のない真っ直ぐにのびた石畳の先に本堂が建つ。
今日も開門一番乗りだ!と本堂の階段のところで靴を脱ごうとすると、女物の靴がひとつ揃えて置いてある。
先客がいるんだ・・・。
向源寺本堂
本堂に上がると、スーツ姿のおじさんが拝観受付をしている。お寺の人がスーツ姿というのは、教会の人が浴衣(ゆかた)で出てくるのに近いものがあって、ちょっと違和感だ。内陣中央に祀られる阿弥陀如来坐像に手をあわせ終えると、おじさんが「十一面観音様の拝観はあちらになります。」と案内してくれる。十一面観音立像は本堂ではなく、本堂の左隣に離れのように立つ収蔵庫に安置されているようだ。収蔵庫には「慈雲閣」と書かれた異形の木額が掛かっており、比較的新しい耐火構造の建物だ。「失礼します。」と戸を引くと、「おはようございます。」とこれまた、スーツ姿の別のおじさんが現れた。先客の女性に像の解説をしているところだった。20uほどの狭い空間の中に、「十一面観音像」は華麗に立っている。
彫刻史上、最高傑作の仏像だ。
十一面観音立像を観た多くの専門家はこのように表現する。僕も「中宮寺・如意輪観音像」や「薬師寺・薬師三尊像(のうち日光・月光菩薩)」と並んで、日本仏像の最高峰だと思う。菩薩様は女性の顔をしているので、美しい顔をしていると僕の中では評価がポンと跳ね上がってしまう。第120話にも書いたが、僕は仏像の価値は次の4点で決められると考えている。(国宝に指定されるという意味において)
第1に、時代的に古いこと。(歴史的価値が高いこと)
第2に、造りが繊細であること。
第3に、いいお顔をしてること。
第4に、制作における難易度が高いこと。
この中で1.の他にもうひとつ満たされれば「重要文化財」、もう2つ満たされれば「国宝」だと僕は勝手に思っている。(あながち外れてはいないだろう。)この基準から行くと満点で仏像の最高傑作ということになる。
おじさんは僕のために解説を最初から始めてくれた。
十一面観音立像は頭上に十の小面を持つ変化観音で、十一体の観音のはたらきを一身に具現したものである。その十一面は前三面(本面相を含む)が菩薩の慈悲相、左三面が瞋怒相(しんぬそう)、右三面は牙上出相(げじょうしゅつそう)、そして背面の後頭部あたりの暴悪大笑相(ぼうあくだいしょうそう)、頂上にある如来相をいう。収蔵庫内は仏像の後ろ側に回りこむことができ、背面のこの暴悪大笑相もしっかりと観ることができる。像高は約1.9m、頂上面を除く宝髻(ほうけい)より蓮肉に至るまで檜(ひのき)材の一木造で、背面から上下二段に内刳(うちぐり)りし、それぞれ蓋板をあてる。
この仏像を美しく見せている要素のひとつは、眉から鼻にかけての流麗なラインだろう。細く円弧形に描く眉は今風でもあり、時代を超えた普遍美といえるだろう。固く結ばれた唇もエッジをきかせて彫られ、その豊かな顔容には崇高な森厳さが秘められている。かなり大きな頭部を受ける体部は重厚につくられており、しかも腰をひねり片膝をゆるめて立つ豊麗な姿は、官能的な量感さえ感じる。腰や手足のスタイルは薬師寺の薬師三尊像の月光菩薩に似ていると思う。下に垂らした右手はおそろしく長く、膝(ひざ)に届くほどである。像の一部には胡粉や漆箔が残っているが、これらは後補と思われ、本来彩色や漆箔が施されていたかどうかは不明である。
現在国宝の十一面観音は全部で7躯あるが(下表)、向源寺の像が他の十一面観音にみられない特徴として次のことがあげられる。
国宝・十一面観音像 滋賀県 向源寺 平安時代 京都府 観音寺 天平時代 京都府 六波羅蜜寺 平安時代 大阪府 道明寺 平安時代 奈良県 法華寺 平安時代 奈良県 聖林寺 天平時代 奈良県 室生寺 平安時代
1.左右の耳の後方に大型の瞋怒相(しんぬそう)、牙上出相(げじょうしゅつそう)が特に大きく配されていること。
2.本面の宝髻(ほうけい)と同様に全ての小面が宝髻が高々と表されていること。
3.頂上面は経典には仏面を表すとされ、通例の十一面観音像では如来面を示すが、本像では髻を結い上げて五智宝冠(ごちほうかん)を着ける菩薩面として表していること。
4.両耳朶(じだ:みみたぶのこと)に鼓胴式(こどうしき)といわれる太鼓型の耳飾りをつけていること。
このような特徴は印度や東南アジア・西域の風をよく伝えるものであり、新仏教の移入に積極的な時代の精神を反映している。像の制作は9世紀・平安初期とされる。
背広姿のおじさんは解説を続ける。
元亀(げんき)元年(1570)、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍による姉川(あねがわ)の戦により、渡岸寺はことごとく烏有(うゆう)に帰した。この兵乱に観音様を敬仰する住職・巧円をはじめ村人達は、兵火が堂宇を襲うや猛火を冒して、この十一面観音像や本尊の阿弥陀如来像、大日如来像などの仏像群を搬出した。しかしお守りする堂もなく、やむなく土中に埋没してその難を逃れたという。渡岸寺は廃絶したが、その後、巧円は向源寺を建て、村人とともに仏像を守ったのである。そしてその伝統は今も引き継がれ、諸尊は村人とともにあるらしい。
なるほど、納得!
このおじさんや受付のおじさんは、お寺の人ではなく、この土地の人達だったんだ。だから背広を着てたんですね。仕事が休みの日には、こうやって仏像の解説を引き受けているんだろう。この人達にとって、仏像は自分の子供や孫達と変わらないくらい愛すべきものなのだろうと思う。
さて、十一面観音立像の左側には「大日如来」(重要文化財)と表示されるこれまた立派な像が坐する。
この像も国宝級ですよね。
本当に国宝だと言われてもおかしくないほどの像である。
そうなんですよ、昔は国宝でしたが昭和25年の新法(文化財保護法)により、いったん重要文化財となりました。
それじゃあ、その時国宝になれなかったんですか?
台座が失われていたこともあって・・・、そんなことも認定の条件になるらしいんですよ。
なるほど、像は金ピカの真新しい台座の上に乗っている。
大日如来は「胎蔵界(たいぞうかい)」と「金剛界」の二種類の大日如来があるのだが、こちらは珍しい方の胎蔵界らしい。
智拳印(ちけんいん)を結んでいないんですね。
初めて先客の女性が口を開いた。30歳を少し過ぎたくらいだろうか?色白で知的な感じがする今日二人目の「美人」である。
智拳印とは両手とも親指を拳の中に握り、左手の人差し指を立ててその第一関節までを右手の小指で握り、胸の前においた印相である。僕には胎蔵界だから智拳印を結んでいないのか、金剛界だから結ぶのか、などということは全く分からないので黙っていたが、これにはおじさんもまた黙っていた。確かに、この春に訪れた、同じ滋賀の石山寺・多宝塔の金剛界大日如来像は智拳印を結んでいたことを僕は覚えているが・・・。
いずれにしても次期国宝候補、平安時代後期12世紀の逸品である。
本堂のほうに戻って受付のおじさんといろいろ話をしていると、先程の女性も戻ってきた。
いい仏様でしたね。朝早く、大阪から来た甲斐がありましたよ。
と、話しかけると、
私は今朝4時半に起きて千葉からやってきました。
という。上には上があるもんだ。しかし、千葉からこの湖北にある向源寺の朝9時の開門に来られるのだろうか?まるで、松本清張の「点と線」なみの緻密さだ。ともかく、仏像を愛する人は早起きは苦にならないのだ。これから岐阜の方へ行くといって電車の時間を気にしていたので、「お気をつけて。」といって、僕は本堂を下りた。美人なのであまりお相手をしてはいけないことを僕は本能的に知っている。
しかし、
奈良や京都ならともかく、どうしてこんな湖北の田舎町に、このような素晴らしい仏像が存在し得たのだろう?
僕の疑問はつのる。
それは遥か天平の昔から村人達にずっと引き継がれてきた、仏に対する強烈な思いと力があったからなんだろう。そしてその遺伝子は、この像の秀麗な美しさと神秘的なまでの崇高さに支えられてきたのに違いない。そして、こちらの美人にはまたいつかきっと逢えるだろう。
向源寺・十一面観音立像は「湖北の白眉」である。
第172話 神を斎(いつ)く島
滋賀県はなんといっても琵琶湖である。その日本一大きな琵琶湖の面積は670kuで滋賀県の面積の1/6を占める。実は東京23区の面積が621kuなので、琵琶湖にはすっぽりと東京23区が入ってしまうのである。そんな巨大な水瓶(みずがめ)に恵まれた湖国・近江(滋賀県)は、古くから栄え、歴史的にも古代から中世にかけて比叡山延暦寺の影響下にあったため、天台宗を中心に多くの仏教が深く信仰された。それと相関するのか、国宝建造物も22件と、奈良県の62件、京都府の48件(2003年8月現在)に次いで3番目に多く、僕にとっては重要な土地なのである。その国宝22件のうち2件が、なんと琵琶湖の中にあるというのである。それは琵琶湖北部に浮かぶ竹生島にある都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)本殿と宝厳寺(ほうごんじ)唐門である。
竹生島は滋賀県東浅井郡びわ町に属し、びわ町の湖岸から西に約6kmに浮かぶ、周囲2kmの小さな島である。
竹生島は笙(しょう)の如し・・・。
湖面から塔状に浮かび立ち、狭い土地に樹木の多い島の形が、つぼの上に竹管を立てた笙(長短17本の竹の管を立てならべた管楽器)に似ていることからそう言い伝えられたそうである。そして平家物語の「竹生嶋詣」や謡曲「竹生島」にも神秘的な美しさを秘めた島と詠われ、人々の厚い信仰と不思議な魅力により人々の心を惹きつけ、「神を斎(いつ)く島」とも呼ばれている。また、竹生島は琵琶湖八景のひとつに数えられている。琵琶湖八景とは、昭和25年に琵琶湖が国定公園に指定されたのを機に選定されたもので、「夕陽・瀬田・石山の清流」、「煙雨・比叡の樹林」、「涼風・雄松崎の百汀」、「暁霧・海津大崎の岩礁」、「新雪・賤ケ岳の大観」、「月明・彦根の古城」、「春色・安土八幡の水郷」、「新緑・竹生島の沈影」の八景である。
竹生島は湖に浮かんでいるので、当然ながら船でないと渡れない。船は彦根港、今津港、飯浦(はんのうら)港などから出航するが、今日の僕は向源寺からほど近い飯浦港からである。
あの小さく見えてるのが竹生島ですよね?
港にあるドライブインでラーメンを注文しながら、おばさんに聞いてみた。
そうですよ。岬の近くに見えますが、近くまで行くと結構離れてるんですよ。
遥か岬の先に竹生島が霞(かす)んで見えている。
岬の先、
霞む竹生島船着き場 渡し船「第8わかあゆ」
島に渡る船は座席が60席ほどの小さな船で、舳先(へさき)には「第8わかあや」とある。飯浦港は都市圏からだと交通の便が悪いためか、土曜日のいい時間帯だというのに乗客は10名ほどしかいない。竹生島までの所要時間は約40分、琵琶湖の水の色は海のそれよりグレーが強く、少し憂鬱な色だ。それでも船は爽やかに湖上を滑り、島に近づく頃には船内には加藤登紀子さんが唄う、この曲が流れる。
我は湖の子放浪の
旅にしあればしみじみと
昇るさ霧やさざなみの
志賀の都よいざさらば松は緑に砂白き
雄松が里の処女子は
赤い椿の森陰に
はかない恋に泣くとかや波のまにまに漂えば
赤い泊火懐かしみ
行方定めぬ波枕
今日は今津か長浜か瑠璃の花園珊瑚の宮
古い伝えの竹生島
仏のみ手に抱かれて
眠れ処女子安らけく〈琵琶湖周航の歌〉
ところが!である。
島に近づくにつれ、奇妙な光景が目に入ってくる。島の北側にあたる部分は多くの樹木が失われ、半ば禿(は)げかけているのだ。そして、恐ろしい数の黒い鳥が島の周囲に群がっている。数は少ないけど真っ白な鳥もなかに混ざっている。
あれはいったい何なんだろう?
明らかに尋常ではない異様な状況ではあるが、船は間もなく都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)を右手に見ながら竹生島に着船した。
島に群がる鳥 都久夫須麻神社
(つくぶすまじんじゃ)
あの鳥は何なんですか?
僕は船長のところに行って、尋ねてみた。
ありゃー、川鵜(かわう)じゃ。最近、増えてしもてなぁ、島の裏手あたりは木が大分やられてしもうた。白いのは白鷺(しらさぎ)じゃけどな。
へぇ〜あの鳥、葉っぱ食べるんですか?
ちがう、ちがう!糞害じゃ、鳥の糞(ふん)の害!
じゃあ、鳥の糞で、木が枯れてしまったんですか?
そぅや、何万羽もおるからのぅ。
そうですか、何万羽もいるんですか。で、何食べてるんですか?
鮎を食べとる。この時期は鮎が湖面に上がってくるから、それを狙うんじゃ。奴ら、生きてる鮎しか食わんからのぅ。大きな奴は腹を割くと、2kgくらいの鮎を食っとる奴もおるんじゃ。
そういえば、長良川の鵜飼いも鮎をとっているよね。(長良川では海鵜を使っているらしいけど、川鵜と海鵜は違うのだろうか?)この川鵜の異常繁殖は結構問題になっているらしく、川鵜の営巣を防ぐ対策が実施されているみたいである。どこかで生態系のバランスが崩れてしまったのだろう。とにかく、もう少し川鵜さんに減ってもらわないと、「神を斎(いつ)く島」が、「川鵜が居着く島」になってしまうかもしれない。と思いながら僕は竹生島に上陸した。
夏の強い日差しは、竹生島に容赦なく降りそそいでいる。
第173話 宝厳寺唐門
宝厳寺(ほうごんじ)参道の入り口には10店ほどの土産物屋が並んでいる。とりあえずは水分補給だ。
缶ポカリ下さい!
店の奥からおばさんが出てきた。
はい、170円!
なぬ!既に50円のプレミアがついているのだ。船で運ぶのだから、まあ仕方ないだろう。
やけに、黒い鳥が多いですね。
僕はさっき仕入れたばかりのネタをさっそく出してみた。
10年ほど前にはこんなことはなかったんやけど、えらい増えてしもうた。何とかせんとな。
おばさんは眉間に皺を寄せて、本当に困った顔をしてみせた。せっかくの神秘的な島が、このままじゃあまりにも観光の「ふれこみ」と異なってしまうと、僕も思う。
島に住んでいられるのですか?
いえいえ、島に住んでる人はいませんよ。お寺の人が交代で泊まってる見たいだけどね。
そうなんですか、何万羽の鳥と一緒に寝ると思うと、ちょっと恐いですね。
僕はそんな多数の鳥と一緒に寝るのは、まっぴらごめんだ。
土産物屋を抜け、165段の急な「祈りの石段」を上ると宝厳寺弁財天堂(本堂)の前に出る。宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう。」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりと伝えられている。行基は、弁才天像を彫刻し、ご本尊として本堂に安置。翌年には、観音堂を建立し、千手観音像を安置した。本尊の大弁財天は、江ノ島・宮島と並ぶ「日本三弁財天」のひとつに数えられるが、その中でも最も古いものである。それ以来、天皇の行幸が続き、また伝教大師、弘法大師なども来島、修業されたと伝えられている。
宝厳寺弁財天堂 宝厳寺三重塔
本堂は昭和17年に再建されたものである。さらに本堂の東の一段上がったところには平成12年に再建されたばかりのまばゆい色彩の三重塔が立つ。これはもともと文明16年(1484)前後に建てられ、江戸初期に焼失したものである。
この本堂・三重塔から東回りの石段の下に観音堂立ち、その西妻側に国宝の唐門(からもん)がつく。琵琶湖を背景に見下ろす雄大な風景自体がまさに国宝なんだろう。
宝厳寺唐門
国宝・宝厳寺唐門は一間一戸(いっけんいっこ)の向唐門(むかいからもん)である。向唐門とは四脚門と同じ架構を持ち、正面に唐破風の妻の面が向いている門のことをいう。これに対し、側面に唐破風のある門のことを平唐門(ひらからもん)という。
宝厳寺は豊臣秀吉との関係も深く、多くの書状や宝物が寄贈されているが、この唐門は太閤の遺命により建てられた京都東山の豊国廟(ほうこくびょう)より、慶長7〜8年(1602〜1603年)に観音堂と共に秀頼が移築したもので、桃山時代の建築の特色をよく表した絢爛豪華な唐門である。
この唐門の移築に関しては、豊国社の社僧だった神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)が書いた「舜旧記(しゅんきゅうき)」の慶長7年6月11日の条に「今日ヨリ豊国極楽門内府ヨリ竹生島ヘ依寄進壊始」という記載があり、また渡廊の飾金具に「豊国大明神御唐門下長押」という銘があるので、その前身は豊臣秀吉のために営まれた豊国廟の唐門であったことが明らかになっている。左右の軒の出に比べ、やや立ち(高さ)が低いのや、破風に兎毛通(うのけどおし:唐破風の懸魚のこと)や桁隠し(破風の流れの中間にある懸魚のこと)が付いていないのは移築の時に改められたからではないかと考えられている。
屋根は檜皮葺で観音堂の妻屋根に取り付き、箱棟(はこむね)の上に瓦を載せる。柱は本柱、背面に付く控柱(ひかえばしら)ともに円柱で、その上に架ける虹梁上には大きな蟇股(かえるまた)を入れ、輪垂木(わだるき)を支える。この輪垂木は下端に茨(いばら)が付くもので、詳しくは茨垂木(いばらだるき)という。木部は全体が黒漆で塗られているが今は少し剥げ落ちてしまっている。
唐門と観音堂(奥) 唐門正面 箱棟・獅子口・唐破風 唐破風と蟇股 内部から見た蟇股 茨垂木と七宝繋文様
蟇股の中には牡丹、その回りには尾長鶏(おながどり)に松と桜、虹梁の下には兎や牡丹など、絢爛たる透彫(すかしぼり)で埋めつくされ、両開きの桟唐戸には牡丹唐草(ぼたんからくさ)が彫られている。また破風板や大虹梁などには緻密な細工の飾り金具が付く。内部の天井を見上げると、茨垂木の裏板には七宝繋文様(しっぽうつなぎもんよう)がこれもまた美しい彩りで描かれている。
この小さな空間で、凝縮された桃山建築の心髄を見るのも良し、少し上から、琵琶湖の雄大な風景に溶け込む400年の歴史を感じるのも良し、国宝の楽しみ方は様々である。
第174話 都久夫須麻神社本殿
宝厳寺唐門をくぐり、千手観音を祀る観音堂から懸造(かけづくり)の舟廊下(ともに重要文化財)を渡ると都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)本殿に至る。お寺と神社が仲良く渡廊(とろう)でつながっているというのは、今となっては珍しい配置ではあるが、これは神社本殿がもともと宝厳寺の弁天堂だったからである。神仏習合の時代は神と仏は融合していたが、明治維新の神仏分離令により、弁財天社は宝厳寺から切り離されて都久夫須麻神社と改称され、祀られていた弁財天像は宝厳寺に移された。
神社は「延喜式(えんぎしき)」神名帳に載る古社で、浅井(あざい)郡内十四社のうちの一社に数えられていた。創立の年代は明かではないが、浅井姫命(あざいひめのみこと)を祭神とし、「竹生島縁起」によると、天平勝宝3年(751)に社地を島の北西から南東に移し、貞観(じょうがん)2年(860)、仁和3年(887)、延長元年(923)に神殿が修理されたことが記されている。しかし、平安末期に水に関係の深い弁財天が浅井姫命の本地仏(ほんじぶつ)とされたのにともない、弁財天信仰が盛んになり、竹生島は宝厳寺を中心とした仏教の霊場としての色が濃くなり、神社は衰微した。神仏分離まで竹生島には神職は存在せず、神体もなかったため、宝厳寺の宝物中より2品を選び神体としたそうである。
都久夫須麻神社本殿
本殿は桁行(正面)三間、梁間(側面)三間の身舎(もや)の周囲に一間の庇をめぐらし、正面に一間の向拝、側面と背面に一間の霧除(きりよ)けを付けている。屋根は入母屋造、檜皮葺で正面と背面に軒唐破風を付ける。
本殿はしばしば火災にあったが、永禄元年(1558)に焼失後、同10年(1567)に桁行五間、梁間三間、向拝一間に再建された。さらに慶長7年(1602)に、豊臣秀頼が他より移築した建物を巧みに取り入れて、現在のかたちに改造したとされている。本殿のうち、中心部が移築された部分で、方三間の小さな建物である。したがって、身舎と庇の建築年代は異なり、
先に庇がありき、後から身舎が建つ
という、あまり例のない建て方なのである。そのため、身舎が角柱なのに庇は円柱であったり、身舎と庇の柱筋(はしらすじ)が一致せず、両者を繋ぐ正面の海老虹梁(えびこうりょう)は著しく振れて取り付くなど、少しちぐはぐした面も見られる。移築元の建物は京都・伏見城の日暮御殿(ひぐらしごてん)か、あるいは宝厳寺唐門と同じく、豊国廟(ほうこくびょう)の遺構であったとされている。
本殿平面図 本殿断面図
本殿の外観は正面からは全景が臨めるが、側面からはちょっと難しい。背面も見れないことはないが、霜よけの板壁が付いているので、見るべき箇所は庇の柱上の組物くらいしかない。したがって、建物を見に来た僕みたいな人にはストレスが残るだろう。庇部の木部は素木(しらき)で円柱の上に三斗組物を載せ、手挟(てばさみ)を入れて側桁(がわげた)を受けている。正面の組物間は牡丹唐草や花鳥の彫刻がはめこまれるが、これは慶長7年の改造の時に新たに補ったもので、切りはぎがはなはだしい。背面は中備(なかぞなえ)には蟇股(かえるまた)を置いているのみである。この背面の庇の木部は節の多い木材で、表側に比べると少し見劣りがするし、蟇股(かえるまた)などの彫刻が欠損しているのが残念だと思う。
しかし向拝から覗き込んだ本殿内部は京都の名建築を移築しただけあって、絢爛豪華、相当の優れもののようである。身舎正面の桟唐戸と板壁には、菊や牡丹、鳳凰などの極彩色彫刻をはめこみ、黒漆塗りされた柱や長押(なげし)には金蒔絵(きんまきえ)で草花を描き、飾り金具を打ち付けている。精緻で、且つ桃山風の雄健な手法をかいま見ることができる。
正面軒唐破風 箱棟・獅子口 庇・側柱 背面霜除けと庇の組物
向拝のところに「祈とう料1000円」の表示があったので、1000円を払えば向拝から庇の内部までは入らせていただけるようだが、本殿内部まで拝観させてくれるかどうかは不明である。僕は帰りの船の時間が気になったので、祈とうの申し出はしなかったが、写真を見る限り、襖絵や折上格天井(おりあげごうてんじょう)の金地著色画(きんじちゃくしょくが)は圧巻であろうと思われる。
本殿の下には懸造(かけづくり)の拝殿がある。僕らの参拝は先に本殿のすぐ横から詣で、その後で石段を下り拝殿に至るという逆さまの順路になってしまうのだ。拝殿は南側が開け放たれていて、琵琶湖が一望できるようになっている。すぐ下の岩鼻には鳥居が立っているので、湖から詣でるのが本来の姿なのだろう。
琵琶湖北端の小さな島に座する神は、湖を護るかのようにその全体が見渡せる位置から長い間琵琶湖を鎮(しず)めてきたのだろう。
湖(うみ)の神は、しばし僕らを湖(うみ)の子にしてくれる。
第175話 国宝・古建築講座
その6 〜蟇股(かえるまた)〜
宝厳寺唐門では素晴らしい蟇股(かえるまた)を見せていただいたので、今回はその蟇股について少しお勉強したいと思う。
蟇股はその形状があたかも蟇(蛙)が股を広げてふんばった姿に似ているところからこの名前がある。本来は二つの横木の間で、上の横木を受けるようなかたちで設ける構造材である。その機能を持つ部材は奈良時代からあったが、蟇股という呼称はそう古いものではない。なぜなら、名の示す通りの蛙に見えるのは、本蟇股(ほんかえるまた)と呼ばれるものからであり、それが現れるのは平安時代後期以降であるからだ。
構造的には上記の通りであるが、同時に装飾的な面もあって時代が下がるにつれ、意匠的にも工夫がこらされている。もともと中国から伝えられたものであるが、日本において独自に多彩な発展を遂げたようである。したがって、その変遷にはそのまま時代の変遷が表れており、建築の時代判定の決め手となるのである。
蟇股の原型は、法隆寺の金堂や中門の高欄に見られる割束(わりつか)写真@である。これは、「人」字形の割束(わりつか)で扠首形(さすがた)蟇股あるいは原始蟇股、撥(ばち)蟇股とも呼ばれている。確かに装飾を兼ねて上の荷重を支えるという点では蟇股と共通しており、下の刳(く)りぬきをなくすれば、そのまま後で述べる板蟇股(いたかえるまた)になる。ここに蟇股の源流を見ることはできるが、だからといってこれを蟇股と呼ぶのは、後人の勝手な解釈であり、やはりこれは扠首(さす)または束(つか)に属するものとするべきである。
写真@
法隆寺中門の割束
奈良時代
(7世紀末〜8世紀初)
蟇股は荷重を受けるという力学上のこともあって山形になっている。そしてこの山形が板のように全部つまっているものと、なかが透けているものがある。前者を板蟇股写真A、後者を本蟇股写真Bという。板蟇股は奈良後期、本蟇股は平安後期から現れる。
写真A
板蟇股
仁科神明宮写真B
本蟇股
厳島神社
本蟇股はさらに2つの分類ができる。ひとつは二材を組み合わせたもので「透かし蟇股」、もうひとつは一つの木片から刳り抜いた「刳抜蟇股(くりぬきかえるまた)」である。左右が別々の斜材で造られる透かし蟇股は、中尊寺金色堂(1124)や一乗寺三重塔(1171)写真Cなどに見られる。そして鎌倉時代になると金剛三昧院多宝塔写真Dなどの刳抜蟇股が多く現れ、内部に簡単な彫刻を施したものも現れてくる。鎌倉時代中期頃までは新薬師寺地蔵堂(重文)写真Eなどに見られるように、内部の彫刻は左右から蔓(つる)状のものが出て、中央で合し蕾(つぼみ)状になる簡単なものであった。
写真C
一乗寺三重塔
平安後期(1171)写真D
金剛三昧院多宝塔
鎌倉前期(1223)写真E
新薬師寺地蔵堂
鎌倉中期(1266)
鎌倉中期から後期になると内部の彫刻が少し複雑になり、図案的な傾向をみせてくる。(写真F〜写真I)この頃になるといわゆる眼玉(めだま:斗がのるところの巻き込んだ部分で蛙の目にあたるところ)が発達し、円のみならず猪の目や曲玉なども見られるようになる。そして彫刻は植物が主で、図柄は左右対称である。
室町時代になると更に内部の彫刻は華やかになり(写真J)、左右対称であった図柄も非対称のものが現れる。題材も動物文や輪宝・宝珠などの仏具文も加わってくる。彫刻も薄い透彫(すかしぼり)であったものが次第に厚みを増し、室町後期には浮彫状のものとなる。
写真F
長弓寺本堂
鎌倉中期(1279)写真G
金剛峯寺不動堂
鎌倉後期写真H
長保寺多宝塔
鎌倉後期(1318)
写真I
石手寺仁王門
鎌倉後期写真J
醍醐寺清滝宮拝殿
室町中期(1434)写真K
日光東照宮東回廊
江戸時代(1636)写真L
輪王寺大猷院霊廟
江戸時代(1653)写真M
瑞龍寺法堂
江戸時代(1655)
近世になると、これがさらに助長され建築というより芸術色の方が色濃くなってしまう。(写真K〜写真M)また、人物を配した説話的なものも多く見られるようになり、江戸後期になると雲・波・竜などの彫刻だけで輪郭のないものも用いられている。
(第175話参考図書:濱島正士氏著「社寺建築の鑑賞基礎知識」、前久夫氏著「古建築のみかた図典」)