第36章 悠久の大和路へ その1
第181話 當麻寺〜綴織の曼茶羅(つづれおりのまんだら)
大阪府羽曳野市から聖徳太子ゆかりの太子町を経て、二上山(にじょうざん)を越えると奈良県に至る。この峠道は今は国道(R166)に姿を変えてしまっているが、古くは竹内街道と呼ばれ、難波(なにわ)と飛鳥を結ぶ交通の要所であった。日本書紀には「難波より京に至るまでに大道を置く」と記されており、日本最古の官道と考えられている。
大坂を吾(あ)が越えくれば二上(ふたがみ)に黄葉(もみじば)流るしぐれふりつつ (「万葉集」巻十)
(大坂越えをしてくると、二上山に時雨が降りそそいで、紅葉が山の上から流れ落ちるように見えます。)
昔の竹内越えは情緒があったようだ。
さらにこの二上山は奈良盆地をからだと、東の正位置・陽の昇る三輪山(みわやま)に対して、西の正位置・日の沈む山、死者の魂が赴(おもむ)く聖なる地として古くから人々にあがめられてきた。
うつそみの人なる吾(あれ)や明日よりは二上山(ふたがみやま)を弟背(いろせ)と吾(あ)が見む (「万葉集」巻二)
(この世に生き残った私は、明日からは弟の葬られた二上山を、弟だと思って眺めましょう。)
非業の死を遂げ、二上山に葬られた大津皇子(おおつのみこ)を悼んで、姉の大来皇女(おおくにのひめみこ)が詠んだ悲しい歌である。
この二上山の東麓に當麻町(たいまちょう)はある。古代豪族の當麻氏はこの二上山から採れる凝灰岩の供給に携わって勢力を拡大していった。力士の祖となる當麻蹶速(たいまのけはや)や、推古朝の征新羅将軍(せいしんらしょうぐん)となった當麻皇子(たいまのみこ)のことが日本書紀には記されている。この當麻氏の名がそのまま地名として残っているのである。「當麻」は「当麻」と書くこともあるが、旧字体の「當麻」が正式である。
この地に佇む當麻寺(たいまでら)は寺伝によると推古20年(612)、聖徳太子の教えによって、その弟、麻呂子(まろこ)親王が河内に万法蔵院(まんぽうぞういん)を建立した。その後、當麻氏の氏寺として、天武天皇10年(681)に當麻真人国見(たいまのまひとくにみ)によって現在の地に移されたとされる。金堂本尊の弥勒菩薩像(国宝)、四天王像(重文)、日本最古の梵鐘(国宝)や石灯籠(重文)など白鳳時代の文化財を多く伝える。また奈良時代になると東西両塔(国宝)が順次建築され、天平宝字7年(763)ごろには、本堂に當麻曼茶羅(国宝)がかけられた。このように白鳳時代や奈良時代の文化財を多く残すことができた理由は、9世紀を境として當麻氏の社会的地位が衰え、そのことがかえってこの寺が政変や戦乱の場とならなかったからだと考えられている。
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| 當麻寺仁王門 |
境内:正面 本堂
左 金堂 右 講堂 |
今日の僕の「国宝の旅」はひとりっきりだ。
でも、僕の今日のひとり旅は特別なのだ。
なぜなら、2年半もの長い間、僕と付き合ってくれた「いつクラ号(車です)」と昨日別れを告げ、今日は、その代わり新しく手に入れた全くの新車との初ドライブなのである。
「いつクラ号」は平成2年式とはいっても、とてもとてもよく燃料を食べては、よく走る元気者だった。(第7話参照) しかし最近はちょっと老衰が著しく、故障が多く修理代が10万を超えることもしばしばあったのだ。そこへもってきて、今度はエンジンからは妙な音が聞こえるようになってきた。そんなこんなで、僕の奥さんや二人の娘達からは「おじんくさい!」とか「恥ずかしい!」とか言われて、家族の中ではあまり存在感がなくなってしまったのだ。(僕はそんなことはないと思うのだが・・・。) 人生(いや、車生かな?)には潮時(しおどき)もあるだろう。僕はこの「いつクラ号」を手放すことを決意したのだ。
で、新しい相棒の名前は
「夜明けのくろべえ」
なんか、訳のわからない名前だけど、よく走るよ! いずれ、詳しく紹介するからね。
さて、今回の話は当麻寺の本尊である當麻曼茶羅の話である。今回の話のタイトルの通り、綴織(つづれおり)の曼茶羅としてまことに有名なのである。この當麻曼陀羅がかけられたのは、前述のように天平宝字7年(763)ごろだから、寺ができてから80年ほど経ってからである。「続日本紀(しょくにほんぎ)」によると、天平宝字4年(760)7月26日、光明皇后の49日の法要に、東大寺や諸国の国分寺をはじめ、主な寺々に阿弥陀浄土の絵を描かせ、僧尼に称賛浄土経(しょうさんじょうどきょう)を書写させたという記事がある。称賛浄土経は他所には残っていないが、この當麻寺だけにはこのときのものが残っている。當麻曼陀羅もこのときのものであると考えられている。したがって、本堂にかかるこの曼陀羅と同じようなものが、奈良時代には少なくとも百ちかくはあったはずなのであるが、運良くこの寺のものだけが今日に残ったのである。
平安時代以降浄土曼陀羅は信仰を集め、この當麻曼陀羅も有名になり浄土信仰の対象となった。そして、これにいろいろな伝説が後になってついてきたのである。
まず始めに、これは蓮の糸で織ったものだといわれだした。蓮の茎の繊維で織ったものだというのである。しかしこれは常識的ではなく、近年の調査で蓮の繊維ではなく純絹糸(じゅんけんし)の綴織で、一部に彩色を加えたものだということが判った。仏教では蓮は浄土に咲く花とされているので、こう考えた方がありがたみがあるということなのだろう。
蓮糸で織られたという曼茶羅には時代と共に多くの伝説が生まれている。鎌倉初期の「建久御巡礼記(けんきゅうごじゅんれいき)」には、天平宝字7年(763)、麻呂子(まろこ)親王の夫人がひとりの不思議な化人(けにん)から蓮糸の変相図(當麻曼茶羅)を与えられたという伝説、同時に奈良時代、横佩大納言(よこはぎのだいなごん)の娘が浄土に往生を願っていたところ、ひとりの化人が現れて、蓮糸で曼陀羅を織って与え、どこともなく消えていったという二つの話がのせられている。
さらに時代は下がって鎌倉中期にできた「當麻曼陀羅縁起絵巻」には、もっと具体的な話が記されてある。横佩大納言の娘が天平宝字7年6月1日に尼となって、この世で生身の阿弥陀如来を拝みたいと7日間祈願をこめていたところ、その20日の夜、ひとりの不思議な尼が現れて、「阿弥陀をこの世で拝みたいなら、蓮の茎を100駄(馬100頭の荷)集めよ。」と言った。このことが淳仁天皇の耳にはいって、近江の国から蓮の茎を集めることになった。すると、この不思議な尼はこれを井戸に浸して、それから色糸を引き出した。そして21日の夜、娘を助けて1日中かかって長さ1丈5尺の曼陀羅を織り上げてしまった。これが當麻曼陀羅だというのである。そしてこの娘の名は、年代の少し下がった「一遍上人絵伝」には「中将妃(ちゅうじょうのきさき)」と記されている。
それがさらに「中将局(ちゅうじょうのつぼね)」になり、足利時代の世阿弥元清(ぜあみげんせい)の謡曲「當麻」になると、中将局を中将姫にし、その父は藤原豊成ということになってしまった。これは後に謡曲や歌舞伎になって悲話となって伝えられたのである。
つまりこの當麻曼陀羅の作者は、麻呂子(まろこ)親王妃→横佩大納言(よこはぎのだいなごん)の娘→中将妃(ちゅうじょうのきさき)→中将局(ちゅうじょうのつぼね)→中将姫 と変転し最後には中将姫で固定したのである。伝説はあくまで作り話なのだろうけど、この曼陀羅を神秘化したいと願う人々の思いが、こんな伝説を生み出したのだろう。
この曼陀羅は国宝に指定されているが、損傷がはなはだしく公開はされていない。現在本堂の厨子(當麻曼茶羅厨子:国宝)の中に掛けてあるのは、室町時代文亀(ぶんき)3年(1503)の模写本(重文)である。本堂が暗い上に金網越しなので詳細はよくは見えないが、画面いっぱいに阿弥陀浄土が描かれている。かつて二上山の彼方に沈む夕日を見ながら、当時の人達が思い描いた極楽浄土というものを表したのがこの曼茶羅なのである。
當麻寺に一歩足を踏み入れると、そこには人々の願いが込められた歴史と伝説の當麻曼茶羅を中心に、白鳳・天平の世界が広がるのである。
近鉄当麻寺駅から続くレトロな面影の門前町のつきあたりには、當麻寺の東大門にあたる仁王門がある。その石段を上がって境内にはいると砂利敷きの広い参道が東西に通る。先ず正面に鐘楼が建ち、国宝の梵鐘が吊られている。これは7世紀後半に造られた日本最古の梵鐘だそうだ。その左手に、中将姫がここで剃髪(ていはつ)したという中之坊(なかのぼう)、そしてその奥には東塔がそびえている。
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| 鐘楼と国宝梵鐘 |
中之坊ごしに見る
東塔 |
さらに砂利道を進むと、左手に金堂、右手に講堂、そして石段を登って参道のつきあたりに本堂が建つ。金堂と講堂は南に面して建つが本堂は東面して建つ。そして金堂の南の東西線上の両脇に東塔と西塔が建っており、初めて来るものにとってはその伽藍配置に少し戸惑わされる。お寺の人の話によると、創建当時は金堂の南に中門、さらに南に南大門が配置されていたらしいと言う。今は東大門が入り口のようになっているが、本来は今は失われた南大門がお寺の玄関だったのだろう。
治承4年(1180)平氏の南部焼き討ちで、両塔と本堂を残して、多くの堂宇が焼失してしまったが、その後の復興により今日に至っている。各堂宇の建築年代は東塔が8世紀、西塔が少し遅れて8世紀末、本堂が永暦2年(1161)、金堂と講堂は本堂建築の後、鎌倉時代にかけてである。
さて、當麻曼陀羅を本尊とし、浄土信仰の中心の堂である国宝・當麻寺本堂は桁行(正面)七間、梁間(側面)六間の堂々たる仏堂である。當麻曼陀羅が祀られてあるので、曼陀羅堂とも呼ばれている。築造は外陣の天井上の棟木銘から永暦2年(1161)とされているが、内陣の天井には二重虹梁蟇股の架構など天平時代の様が見られるため、それより古いのではないかという指摘もあった。それが、昭和32年(1957)〜昭和35年(1960)の解体修理によって、奈良時代の簡素な掘立て柱の建物2棟分の部材を用いて、平安初期に曼陀羅を祀る堂を建て、さらに永暦2年の改修の際に旧堂を内陣とし、その前方に奥行き三間分の外陣を加えていたことが判った。つまり増改築を重ね、今の堂のかたちになった時期が永暦2年ということである。
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| 本堂正面全景 |
南東面 |
本堂から西塔を臨む |
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| 南面 |
組物 |
背面の閼伽棚 |
外部には高欄つきの縁が、亀腹の外側に立つ高い縁束によって支えられている。円柱の上には三斗を組み、中備(なかぞなえ)は間斗束(けんとづか)を立てる。正面は中五間に板壁を吊り、両端の間は引違格子戸で上部に連子窓をはめる。側面は引違格子戸、蔀戸、連子窓、土壁などが不規則に並んでいる。これは左右の庇が小部屋に仕切られ、参籠などの用にあてられたためだと考えられる。背面には中央の間に板扉を吊り、北三間には文永5年(1268)ごろ造られたと考えられる閼伽棚(あかだな)が付属する。この閼伽棚というのは仏に供える水を入れた桶を収納する小型の工作物のことであるが、ひとつの建造物といえるくらい通常より規模が大きい。木瓦葺(こがわらぶき:木で瓦葺きに見せる葺き方)で、面取り角柱に出三斗をのせ、足の長い鎌倉時代特有の蟇股を入れる。この蟇股は本堂の建築にちょっとそぐわない気もするが、築造年代の建築文化をしっかりと取り込んでいるところは立派であると思う。現代、この閼伽棚を増築するとするならば、きっと本堂の様式に倣(なら)ったものしか造れないだろうと思う。
本堂に上がると、そこで初めて拝観料を払うようになっていて(境内は自由参拝)、この本堂と金堂、講堂の内部を拝観させていただける。堂内は奥行き六間の前三間が外陣(礼堂)、奥三間が内陣に区分され、引違格子戸と欄間を入れて内外陣の境としている。外陣の身舎は大虹梁を渡し小組格天井をはり、内陣の身舎では二重虹梁、蟇股を組み化粧屋根裏とする。
内陣中央には框(かまち)や束・階(きざはし)に螺鈿(らでん)の装飾をほどこした須弥壇の上に當麻曼茶羅厨子(国宝)が乗せられている。本尊の當麻曼陀羅を懸ける木造黒漆塗り六角宮殿(ぐうでん)形、現存する最古最大の厨子である。厨子の細部はよく見えないが、須弥壇の螺鈿細工はしっかりと見ることができ、これは一見の価値があると思う。この須弥壇を右手に回り込んだところには、中将姫の清楚な像も安置されており、こちらも必見だろう。
今日も僕は朝早くから来ているので、内部拝観はひとりでゆっくりと回らせていただいた。ところが、僕が堂を出る頃には境内にはどんどん参拝客が増えてきた。数十人の団体客もいるようだ。中将姫の伝説が本当だとするならば、彼女の熱い思いは1250年も経った今でも、多くの人達の心の中に受け継がれているのである。
伝説は悠久の信仰のもとに、真実に変わるものなのかもしれない。
「創建時の東塔と西塔がそろって残るのは、この當麻寺だけなんですよ。」
「いつ頃の塔なんですか?」
「東塔は白鳳時代、西塔は天平時代です。少しずつ造り方が違うので、よくご覧になって下さいね。」
本堂の納経所にいる女性は丁寧に教えてくれた。
僕たちが日本の歴史を習うときの時代区分は「縄文→弥生→飛鳥(592−709)→奈良(710−793)→平安(794−1191)」であるが、飛鳥時代と奈良時代は文化・芸術区分で白鳳時代と天平時代が重なってくる。白鳳時代は大化の改新(645)から平城京遷都(710)まで、天平時代は平城京遷都(710)から長岡京遷都(784)までというふうに一般的にはいわれている。(専門家によっては多少異なる区分を唱える方もいらっしゃいます。)
本来、塔というものは仏舎利を収めるための機能を持つ建築であり、飛鳥・奈良時代の前期は塔が金堂とともに、寺院の中心的な存在であった。塔を中心として、左右後ろに金堂があった飛鳥寺、金堂の前に塔が立つ四天王寺、また、金堂と塔が左右に並ぶ法隆寺や法起寺はそのことを物語っている。しかし奈良時代後期から現れる双塔形式は塔というものを二義的なものにしていった。金堂の前方に双塔が立つ薬師寺やこの當麻寺、そして二つの塔が金堂からさらに離れて回廊の外に出てしまう東大寺や大安寺などは、明らかに寺院の中における塔の地位の低下を示している。しかし、それでも二つの塔は人々をお寺に招き入れ、金堂へ導く役割は担っていたのだ。同じ双塔形式の伽藍配置の東大寺は両塔とも塔跡の土壇を残すだけであり、薬師寺のそれは西塔が失われた。(1981再建) お寺の女性が言うように、古代の寺院の双塔が現在まで残っている例は他になく、その意味で當麻寺の両塔はまことに貴重な遺構なのである。
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| 當麻寺東塔 |
當麻寺東塔は金堂の東南の小高い丘の上に立つ。回りは樹木に覆われているので、すぐ近くまで寄らないと全景をうかがうことは難しい。石段を登ったところの平地に低い切石積(きりいしづみ)基壇を設け、その上に立つ東塔は、一目見て奈良時代のそれだと判る。装飾性は乏しいがその分、重厚な印象の塔である。高さは24.3mと三重塔としては平均的な高さである。但し、当初は三重の勾配が緩く、後に改めているので今よりは少し低かったようだ。鎌倉時代以降の塔によく見られる華麗さや、女性的なイメージは感じられない。どちらかと言えば無骨な造形である。そして、他の塔と少し違うのは二重三重を二間とするところである。斑鳩の法起寺(第87話)も3重が二間であるが、二重・三重とも二間というのは、他に例がない。
建築年代は、お寺では白鳳時代と公表しているが、専門家筋では8世紀後半、奈良時代末頃とされるから、白鳳時代ではなく天平時代である。初重は地長押(じなげし)と内法長押(うちのりなげし)をめぐらし、中の間にはさらに上下に半長押を加えて戸口とし、脇の間には腰貫を入れて盲連子(めくられんじ)をはめこんでいる。柱の上部は頭貫を通し台輪を乗せ、三手先の組物を組む。斗も肘木も形が良く整っており、隅では鬼斗(おにと:斗の上と下で45°に食い違った肘木を受ける特殊な刳りのある斗)を用いる。また尾垂木と尾垂木受けの通肘木(とおりひじき)をともに受ける一手先位置の斗も付き、完備した三手先組物となっている。これは奈良時代の中でも最も新しい技法とされる。
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| 東塔全景 |
東面 |
初重 |
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| 初重組物 |
初重の鬼斗
(写真中央) |
二重 |
初重の平面の大きさは5.32mでこれは天平尺(てんぴょうじゃく)の18尺にあたる。中の間と脇の間を4:3(7尺2寸:5尺4寸=2.12m:1.60m)とし、二重では初重の中の間と同大の7尺2寸の二間であるが、三重は鎌倉時代はじめに大きく改築されており法則性がないが、当初は初重の脇の間の五尺四寸を一間としていたと考えられている。二重三重とも柱間が二間なので戸口をつくらずみな連子窓とし、縁には高欄をめぐらしている。
相輪は宝輪が八輪(通常は九輪)と珍しく、その先に付く水煙(すいえん)も当初のものではないが、魚の骨のような形をしており特徴がある。
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| 東塔の相輪 |
僕はしばらくこの塔の前に佇んでいたが、誰ひとり参拝客が現れない。本堂前にはたくさんの人が集まっていたのに、どうやら人気の中心は、當麻曼陀羅であり、中将姫であるようだ。南北の動線が東西の動線に変わった今、この塔はお寺の良き脇役になってしまったのだろうか?
しかし、最も古くからこの當麻寺の変遷を眺めてきたのは、まぎれもなくこの東塔である。
東塔から石段を西向きに降りようとすると、正面には西塔がうかがえる。東塔と同じように小高い丘の上に立ち、樹木に覆われながらその雄姿を部分的に現しているが、遠目には東塔とよく似たシルエットをしている。西塔に至るには、金堂の正面から左に折れ、いったん本堂の方に戻り、その裏側から南に向かって石段を登るかっこうになる。
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東塔から見た
西塔 |
日本最古の
石燈籠 |
その金堂の前には、日本最古の石燈籠(重要文化財)が立っている。白鳳時代に當麻寺背後の二上山から産した松香石(しょうこうせき:凝灰岩)で造られたという。通常石燈籠は下から、基壇、基礎、竿、中台、火袋、笠、宝珠からなるが、基壇は近年の修復によるもので、基礎も大部分がモルタルで補足されている。竿の部分は上方と下方が中央部に較べてやや細く胴張りがある。火袋のところは失われ、現在は木製の仮のものとなっている。火袋の東面は太陽を表すように丸く刳り抜かれ、西面は月を表すように三日月型に刳り抜かれているのが興味深い。笠は風化して覆鉢状になっているが当初は中台部と同じように八角形だったと考えられる。誰が鑑定したかは分からないが、日本最古の石燈籠ということで一見の価値はあると思う。
さて、西塔である。総高は24.8mとも25.2mともいわれているが、いずれにしても24.3mの東塔よりは少し高い。しかし、塔の大きな構成要素である「高さ」というものが(しかも国宝であるのに)どうして、こんなにしばしば異なって表されるのか、僕は不思議に思う。今の技術をもってすれば数時間で正確な高さが計測できるだろうに、と思う。こちらは東塔と異なり各重とも三間で、初重の一辺は5.23mと東塔より僅かに小さい。(東塔は5.32m)
しかし、何とも写真を撮りにくい塔である。
短い石段の上の狭い平地の上に立つ塔は、僕が知る限りの多重塔の中では最も全景がつかみにくい塔である。全景を撮るには石段の途中まで下りて、かなり上向きに撮らざるをえないのだ。柵の正面には「食事禁止」という札がかかり、少し無粋なのが残念だ。しかし、たしかにこの石段に腰掛け、国宝塔をバックにお弁当をひろげれば、さぞかし快いことだろうと思う。
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| 西塔全景 |
初重下部 |
初重 |
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| 初重組物 |
二・三重 |
相輪 |
完成の時期はお寺の公表の天平時代より下り、8世紀末、平安初期ではないかとされている。同じ長さずつ上重を減じる奈良時代の塔の通則に反して3重の減じ方が少ないので、そのイメージは東塔よりやや重たい感じがする。初重は中の間と脇の間の比率を5:4とするが、二重・三重ではほとんど等間に近い。
各重とも中の間を戸口、脇の間を土壁とする。初重の横材の構成は東塔と同じで地長押、半長押(板扉上下)、内法長押、頭貫、台輪となっているが、長押や戸口は後世の改修であるらしい。台輪の上に三手先の組物を乗せる。この組物が奈良時代でも最も進んだ手法を示す東塔よりもさらに進んだ構成で、建築年代が新しいことを示し、それは天暦5年(951)の醍醐寺五重塔に近いといわれている。
斗の高さが幅に比べて著しく高いのは、平安時代の特色である。また東塔ではなかったが、こちらでは間斗束(けんとづか)を初重にのみ付ける。隅は東塔と同様に鬼斗(おにと)を付けるが、軒天井の外の桁を東塔のように留めずに交差させて延ばし、それを受ける組物も長く延ばしている。
大正初年に修理が行われ、心柱の頂部のくぼみから建保(けんぽう)7年(1219)に奉納し、明和4年(1767)再納したという舎利と金銀容器、文書などが発見されており、この二度の時期にも修理が行われていることが判っている。三重は建保の修理の時に中世風に改造されていたが、大正の修理で二重にあわせて復元されている。
相輪は受花(うけばな)から下は明和の改鋳であるが、8枚の宝輪と忍冬文(にんどうもん:「すいかずら」を忍冬といい、それを表したギリシャのパルメット由来する文様)を透かした水煙は、共に創建時のもので薬師寺のそれに次いで古いものである。
遠目には東塔と同じように見えた西塔もこのように近くで見ると、サイズこそ似てはいるが、まるっきり別の塔である。お寺の女性は「少しずつ造り方が違うので、よくご覧になって下さいね。」と言ったが、それは素人さん向けの言葉だろう。本堂・閼伽棚(あかだな)のところでも感じた、この二つの塔はそれぞれ建てた時代の気風を感じ取ることができる。
いわば、二卵性双生児である。
そして、他に遺例のないこの双塔は、今は玄関ではなく當麻寺の背景として、山や森の自然の中にとけ込みながらも自身を主張しているかのように見える。
第185話 国宝・弥勒仏
東塔と西塔を結ぶ線の中点の垂直線上に當麻寺金堂と講堂が並んでいる。ともに重要文化財である。治承4年(1180)平氏の南部焼き討ちで両堂とも失われたが、金堂はその後まもなく(1184説と13世紀後半説がある)、講堂は鎌倉末期(1303)に再建されている。
金堂は正面五間、側面四間の比較的小さなものである。現在は寺域の西方に東面して立つ本堂(曼陀羅堂)が中心になっているが、かつてはこの金堂が中心宇堂であったことは間違いないし、白鳳期の豪族の氏寺としてはふさわしい規模なんだろう。入母屋造で本瓦を葺き、戸口は正背面の中三間と側面中央の二間に設けられ、その他の間は土壁とする簡潔な造りとなっている。
この金堂内には白鳳の塑像としては日本最古の弥勒仏(みろくぶつ)が安置されている。そして国宝仏である。少なくとも當麻曼陀羅が本堂に掛けられた天平宝字7年(763)ごろまでは、當麻寺の本尊として崇められていたのであろう。
「日本最古の塑像仏」ということだが、當麻寺には「日本最古の石燈籠」「日本最古の梵鐘」と、日本最古が多いのである。
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| 金堂 |
講堂 |
話はちょっと逸れますが、「塑像としては日本最古」という言葉がでてきたので、日本の国宝仏の古さの順位を調べてみた。
「国宝仏・古さのベストテン」である。
ただし、仏像によっては制作の年代の推定範囲が1世紀にも及ぶものもあるし、専門家によっては違った主張をされている方もいらっしゃいますので順位をつけるなどというのは容易ではなく、あくまで参考ということで・・・、間違いがあったらご指摘下さい。
| 国宝仏像・古さのベストテン |
| 所在地 |
所蔵 |
彫刻名 |
造材 |
制作年代 |
| 奈良県 |
法隆寺 |
釈迦三尊像 (金堂) |
銅造 |
623年 |
| 京都府 |
広隆寺 |
弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒) |
木造 |
7世紀前半 |
| 奈良県 |
法隆寺 |
救世観音像 |
木造 |
7世紀前半 |
| 奈良県 |
中宮寺 |
弥勒菩薩半跏像 |
木造 |
7世紀 |
| 奈良県 |
法隆寺 |
百済観音像 |
木造 |
7世紀中頃 |
| 奈良県 |
法隆寺 |
四天王立像 |
木造 |
7世紀中頃 |
| 奈良県 |
当麻寺 |
弥勒仏坐像 |
塑像 |
681年 |
| 奈良県 |
興福寺 |
仏頭 |
木造 |
685年 |
| 奈良県 |
法隆寺 |
薬師如来坐像(金堂) |
銅造 |
7世紀後半 |
| 京都府 |
広隆寺 |
弥勒菩薩半跏像(泣き弥勒) |
木造 |
7世紀末〜8世紀初 |
| 奈良県 |
薬師寺 |
観音菩薩立像 |
銅造 |
7世紀末〜8世紀初 |
| 奈良県 |
薬師寺 |
薬師三尊像 |
銅造 |
7世紀末〜8世紀初 |
| 奈良県 |
法隆寺 |
夢違観音像 |
銅造 |
7世紀末〜8世紀初 |
| 奈良県 |
法隆寺 |
橘夫人念持仏 |
銅造 |
7世紀末〜8世紀初 |
と、まあこんな具合だが、やはり法隆寺の「古さ」には改めて驚かざるを得ない。
當麻寺の弥勒仏は白鳳期に導入された塑像(粘土で造形する)という技法の先駆であり、それは仏像の複雑な造形や豊かな表情をを可能にし、のちの仏像制作に大きな影響を与えたもののひとつであろう。
さて、金堂内部は正面中央の三間と側面中央の二間を内陣とし、その外周一間通りを外陣としている。内陣いっぱいに低い漆喰仏壇が築かれており、その中央に国宝・弥勒仏坐像が安置されている。本体と台座は一体をなして塑形されており、その高さは丈六坐像の標準である八尺近くあるそうである。右手をあげて掌を前に向け、左手は膝の上で掌を上にして座する。すべてが大ぶりで、頭部も大きく、肩や胸も厚いが、胴部は適度にしめるため力強さを感じる像である。頭部のもと塑製であった螺髪(らほつ)はすべて脱落し、現在わずかに残るものも木製の後補であるらしい。その肉髻(にっけい)部は球体のように豊かで張りがある。
面相はふくよかで、仏の大らかさを最大限表現しているようだ。眉は弧を大きく描き、上瞼は直線に近く下瞼は弧を描き、目尻は細く長い。この作風は興福寺(旧山田寺)の仏頭(国宝)と共通性があるといわれ、白鳳仏の典型的な表情である。
しかし、疑問に思うことがある。
天武天皇10年(681)に造られたこの像が、当初から旧金堂に収められていたのは事実だろうが、その金堂が治承4年(1180)の兵火にもかかわらず、焼けずに残っているということである。台座と一体になっていること、その大きさと材質からして、金堂から運び出すことはまず不可能だろう。それじゃぁ、なぜ?・・・。
恐らくこの弥勒仏も相当の被害を受け、損傷したのだろう。ただ、金堂が全焼ではなく、半焼程度であったこと(推測です)、そしてこの像が木造ではなく塑造であったことが不幸中の幸いで、被害を最小限にとどめたのかもしれない。手の部分は木製の後補であるので、その部分や表層などは兵火後に補修されてのであろう。また、もとは左右に脇侍菩薩を配する三尊形式であったが、両脇侍はこの時に失われたのかもしれない。
現在、弥勒仏の回りには四天王(重要文化財)と不動明王(藤原時代)が立つ。四天王のうち多聞天は鎌倉時代作の木造であるが、持国天、増長天、広目天は白鳳時代の作で、脱活乾漆(だつかんしつ)造である。(脱活乾漆造は第90話の「行信僧都坐像」で解説しています。)この四天王は東大寺・戒壇堂の四天王(天平時代)ほど憤怒の形相でなく、どちらかというと法隆寺金堂の四天王(白鳳初期)の落ち着きのある表情の延長上にあると思われる。
金堂の北側の講堂は正面七間、側面四間で、金堂よりひとまわり大きい。本堂と同じく高い乱石積の基壇上に建ち、南北に石段をつける。寄棟造で軒下には簡素な平三斗を置き間斗束を立てる。正面中五間、両側面の前一間、背面中央に板扉を吊り、他の間はすべて土壁である。
内部には講堂本尊の阿弥陀如来坐像(重要文化財)を中心に、七躯の仏像が安置されている。(講堂内部写真左から不動明王、妙幢菩薩、多聞天、阿弥陀如来、本尊阿弥陀如来、地蔵菩薩、千手観音) 本尊は平安時代・12世紀末頃とされ、保存状態も良く美しく気品のある仏像である。たぶん近いうちに国宝候補になるだろうと思う。
7世紀に創建したこの古き寺には謎も多い。本来の正門であるべき南大門の位置、東西両塔の地盤の高低差、西塔露盤の舎利奉安、そして塑造の金堂本尊に対する脱活乾漆造の四天王などである。恐らくこれらが解明されるのは、ずーっと先か、それとも謎のままなのかもしれない。
しかし、白鳳の遥か悠久の彼方を偲びたい気持ちがあれば、この寺は大らかに僕らを迎えてくれるだろう。
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