第40章 春の菩薩


第201話 海龍王寺・十一面観音

春の晴天、僕は再び海龍王寺にやってきた。
第189話で紹介した通り、ここには国宝・五重小塔がある。でも、今日の目的は国宝を見るためではなく、国指定・重要文化財の十一面観音菩薩立像を拝観するためである。この菩薩像(本尊)は秘仏とされており、普段はお顔の部分に帳がかけられ首から下しか拝むことができないのだ。帳が上げられるのは春と秋の特別公開の時だけで、春は3月下旬から4月上旬にかけて、秋は10月下旬から11月上旬にかけてである。
国宝おたくの僕が何故?

そう、あくまで国宝中心主義の僕は、今まで重要文化財というのをサラッと流してきた。というのも、重要文化財ともなればその彫刻の数だけでも2,476件にものぼり(2004.4現在)、全てを拝観するなど僕のおよぶところではないのである。ところが、国宝建築を探訪する僕はいつの間にか国宝彫刻にも魅せられるようになり、それなりに彫刻を見る目が養われて、文化水準の高低を判定できるようになってきたのである。(と思いたいのだが) つまり、海龍王寺の十一面観音は、古く巧(たく)みで、気高く美しいのである。
いつか僕は国宝彫刻の要件を、
第1に、時代的に古いこと。
第2に、造りが繊細であること。
第3に、いいお顔をしてること。
第4に、制作における難易度が高いこと。

このうち、3つも満たしていれば恐らく国宝だ。

と書いたことがある。(僕の勝手な判断基準だけど、そんなに大きくは外れていないと思う。) そして、この十一面観音像は重要文化財ながら、それをほぼ満たしているのである。

山門から中門を臨む 築地塀

海龍王寺の表門である山門は車道に面している。門は相当に老朽し(室町時代:奈良市文化財指定)、壁も剥げ落ちている。車を気にしながら写真を1枚を撮って近づくと、門の脇に「海龍王寺縁起」という案内板が立てられている。

当寺の歴史は飛鳥時代まで遡るが海龍王寺と呼ばれるようになったのは天平時代になってからである。養老元年(717)遣唐使として渡唐した僧・玄ム(げんぼう)は在唐18年、智周大師について法相の教学を極めた。天平6年(734)、唐から帰国の途にあった玄ムは東シナ海で嵐に襲われたが、海龍王経を唱え九死に一生を得た。この時、玄ムの持ち帰った五千余巻の経論が我が国の仏教学に大きく貢献することになったのである。その功により僧正に任じられるとともに、住持に任じられた。
この事により、当寺において海龍王経を用い、聖武天皇、光明皇后が海龍王に四海安穏、仏法弘通を誓願されるとともに、渡海者の安全を祈願し寺号を海龍王寺とした。
後、弘法大師が渡唐するにあたり、当寺に千日参籠して心経千巻を書写し、海龍王および当寺に帰依することにより渡海の安全を祈願された。

と、こんな内容がしるされている。「海龍王」について僕は良く知らないが、おそらく海を司(つかさど)る神なのであろう。
山門から中門にかけての参道は、「鄙びた寺」と形容するにふさわしい趣がある。砂利道には草木が無造作に覆いかぶさり、脇の築地塀(ついじべい)は漆喰が剥げ落ち、土と積み瓦を露出している。この風景を見てこの寺を「荒れ寺」いう人があるらしいが、それは間違いだろう。草木を刈り込み、砂利を敷石にして、塀を白く塗り込めば確かに綺麗にはなるが、それでは古刹ではなく、どこにでもある寺になってしまう。整備することよりも、この古き良き味わいを維持するほうがよほど難しいことだと思う。

中門 ゆきやなぎ

境内への入り口になる中門は、これも古刹にふさわしい古びた門である。開門は9時なのに、少し早く着きすぎたようだ。門の前には、ゆきやなぎの花が春風に快く揺れている。春の特別公開の期間は本尊だけでなく、境内に咲き乱れるこの花とあわせ、楽しみ2倍なのである。この鄙びた寺ではこの季節が一年を通じて、数少ない華やいだ時なんだろうと思う。時間つぶしに、ゆきやなぎを何カットか撮っていると門が開いた。
じつは先日、海龍王寺のご住職から「国宝の力」にお便りをいただいた。第189話でこのお寺のことを書いたので、その感想と励ましをいただいたのだ。今日ここへ来ることになった十一面観音像の御開帳のことや、ゆきやなぎのことも教えていただいた。こんなサイトでも、3年も続けているいいこともあるものだ。お寺の方からのお便りは格別の嬉しさがある。中門をくぐったところで拝観受付をされていたご住職はがっしりとした体躯の、いかにもスポーツマンタイプの若いご住職だ。お便りのお礼を言い、
よろしくお願いします。

と僕は本堂に歩を進めた。

ゆきやなぎと本堂 本堂

今日の目的の十一面観音菩薩立像は本堂の中に安置されている。この本堂は天平創建時の中金堂があった位置に、江戸時代再建されたものらしいが、古材が転用されていることから、再建当時まで中金堂が存在していたのではないかとも考えられている。
本堂に上がると中央の厨子の中に本尊の十一面観音菩薩像が安置されている。今日は帳も開かれ、全身を拝することができる。

やはり、国宝級だ!
眩いばかりの美しさだ。鎌倉時代、慶派の仏師により造られたとされる木造の菩薩像である。保存状態が極めて良く、精緻であるとともに、なによりお顔が美しいのである。やはり国宝になってもおかしくないと僕は思う。僕は文化庁の人間でもなく、ましてアマチュアなのでとやかくは言えないが、アマチュアだからこそ、お寺の大きさや力に左右されることなく、純粋に見比べることができるのだと思う。もし、この菩薩像が国宝になっていない理由があるとするならば、それはひとつに、まだ多くの人に知られていないこと。そしてもうひとつに、鎌倉時代の制作ということで対象仏のなかにおいては、時代的に後ろのほうになることくらいだろう。
そうこうしている間に、ご住職が本堂に戻って来られた。少しばかりお話をうかがうことにする。

美しいご本尊ですね。僕はこんなに保存状態のよい仏像は見たことがありません。

やはり昭和28年まで、秘仏でしたから損傷することがなかったのかもしれません。装飾や截金(きりかね)なども補修の手を加えていないんですよ。彩色もよく残っているでしょ。頂上仏は十一面で本面とあわせ十二面になります。頂上仏もみな本面と同じような穏やかで優しいお顔をされてます。
京都の花園にある法金剛院の十一面観音もよく似たお姿で、よく対比されますよ。蓮のきれいなお寺です。

いま僕たちが見ることができる殆どの国宝仏は長い年月に金箔や彩色が剥落し、色も黒ずんでいる。それはそれで美しいのだが、この菩薩は遠い過去から突如現れたような、そんなみずみずしさがある。頂上仏も穏やかな顔で、いわゆる仏頂面でないところも珍しい。それにこの菩薩によく似た像が京都にあるとは、これも行かねばならないゾ。

ただ、惜しむらくは裳(も)が一部欠損してるんです。そこの右下の裳が左に流れるところで欠損してるでしょ。

たしかに裳が右足元のところから左足にかけてカーブする途中で欠損しているようだ。もし教えられなかったら、僕は気が付かなかっただろう。

国宝の声はかかりませんか?

実はこの観音様のことを、皆さんあまりご存じじゃないんですよ。というのも帳を外して公開しだしたのが、3年か4年前なんです。ですから、皆さんに知っていただいて認知度や注目度が高まれば、もしかしたら指定が変わるかもしれませんね。文化庁ではそういうことも考慮に入れるらしいですよ。

美しいお顔だから、女性に注目されるかもしれませんね。

そうなんですよ。「BAIRA(バイラ)」とか「Domani(ドマーニ)」とかにも紹介されたんですよ。そうしたら、女性の方も多くおいでになられるようになりました。

そうなんですか。(当たり前だけど、どちらの女性誌も僕は知らない。)

でも、国宝に指定されれば嬉しいですが、それによってお寺の雰囲気が変わってしまうのも心境としては複雑ですね。

僕もそう思う。国宝だからといって、ガイドさんが旗を持って団体客を案内する光景など、このお寺にはそぐわない。
国宝という冠(かんむり)は欲しいけど、この鄙びた雰囲気は変わらないでほしいと思うのは、ちょっとわがままなファンだろうか?
いずれにしても、これだけ優れた仏像なのである。僕が騒がなくとも、いずれクチコミが、次にマスコミが、そして文化庁が動きだすだろう。その先は

海龍王寺・十一面観音菩薩立像 国宝指定!

なのである。その日を楽しみに、僕はまた国宝の旅に出かけよう。
海龍王寺のご住職さん大変ありがとうございました。





第202話 葛井寺・千手観音坐像


4月18日は「河内三観音の日」なのだ!
そんな言葉があるのかどうか僕は知らないが、この日は大阪府内にある国宝観音像、つまり葛井寺(ふじいでら)の千手観音(毎月18日公開)、道明寺の十一面観音(毎月18日と25日公開)、そして観心寺の如意輪観音(毎年4月17日・18日のみ公開)の3体が一日で全部拝観できてしまうのである。しかも今年(2004年)はこの日が日曜日、僕みたいな「サラリーマン国宝愛好家」にとっては願ってもないラッキーデイなのだ。(このつぎに4月18日が土・日になるのは2009年です。)
というわけで、やってきました「葛井寺」。
葛井寺のある藤井寺市は大阪市中心部より南東へ約20km、近鉄南大阪線沿線にベットタウンとして栄える人口67,000人ほどの小都市である。プロ野球ファンには近鉄バッファローズのかつてのホームグラウンド「藤井寺球場」のある町、といった方が分かりやすいだろう。
4月18日、葛井寺の朝は慌ただしい。「春季大法会式 観音もちまき」の行事とやらで、境内にはやぐらが組まれ、職員の人達が準備に走り回っている。そんな喧騒をまるで人ごとかのように、優雅に咲く藤の花が境内に彩りを添える。

葛井寺南大門 境内の藤の花

葛井寺は、紫雲山三宝院剛琳寺と号し、剛琳寺ともいう。古代氏族葛井氏の氏寺として、7世紀後半の白鳳時代に建立された。永正7年(1510)の勧進帳によると、聖武天皇(在位724〜749)の勅願による2Km四方の七堂伽藍の建立で、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられている。 葛井寺の本堂には、東大寺法華堂の諸尊に比肩されるほどの天平の千手観音像が本尊として安置され、同寺の奈良時代の発展ぶりがうかがえる。その後、室町時代は奈良・興福寺の末寺として栄えるが、明応2年(1493)、兵火にあって、楼門、中門、三重塔、鎮守、奥院を焼失し、本堂と宝塔を残すのみとなる。残った建物も永正7年(1510)の地震で失うが、諸国に勧進して長い年月をかけて現在の寺観に整えられた。
今日は内陣の厨子の正面で本尊を拝観させていただける。開扉された厨子の中、八稜(はちりょう)形の框(かまち)に宝瓶(ほうびょう)を据えた五重蓮華座の上に国宝・千手観音が坐する。

これが、仏教美術の究極か!?
仏像というものを美術作品というべきでないことは重々分かっている。しかし、何という凄まじさだ! 本尊のお顔は、よく菩薩に見られる穏やかなお顔だが、その肩から合掌する本手にかけての背後から無数の手が伸びている。千手観音像だから当たり前なのかもしれないが、まるで生きていて千本の手が揺れ動かんばかりの躍動美をつくりだしているのである。

手の数、ほんとに千本あるんですか?
失礼ながら、僕は受付のおじさんのところに戻り、尋ねてみた。
そうじゃ。
といいながら写真集を開いて見せた。
このようにな小さい手と大きい手があるんじゃ。この小さい手が1001手、大きい手が前の手も含めると40手あるんじゃ。全部で1041手ですわ。
おじさんは背後から撮った写真も見せ、
こんなふうになっとるんですわ。
という。後ろからの写真を見ると、無数の小手を台座の上に立てた左右二本の支柱に植え付けた格好になっている。この脇手が本体背後に放射状に布置されて、正面から見るとまさに千本の手があるように見えるのである。
でも、ほんとに千本の手がある千手観音さまって、少ないんじゃないですか?
いや、ここだけですわ。奈良の唐招提寺の千手観音ものう、953手じゃ。その他は興福寺も広隆寺も三十三間堂の観音さまもみな42をもって千手観音としとるんじゃ。
そうだったんですか!

そういえば、「42手の千手観音は胸の前で合掌する2本の手を除いた40本が1本ごとに25の救いをすると考えられており、40×25をもって千手観音とする」という話をどこかで聞いたことがある。それから、経典によれば、千の手と眼を持つ千手観音の由来は「観音菩薩が、あらゆる機会を逃さず衆生(しゅじょう)を救うために、千本の慈悲の手と智慧(ちえ)の眼をいただきたい」と如来に願い出、賜ったものという。そして観音は、すべての衆生が救われることなしに、仏にはならないと誓ったとされている。観音さまの穏やかなお顔からは想像しがたい強い信念なのである。
寺伝によると、この千手観音坐像は聖武天皇が春日仏師・稽文会(けいもんえ)、稽首勲(けいしゅくん)親子に命じてつくらせたものである。(8世紀半ばと推定されている) 像高131.3cmで、合掌する本手を含む本体部は脱活乾漆造(だつかつかんしつづくり)である。脱活乾漆造とは粘土で造った原型の上に麻布を漆で何枚も張り重ね、漆が乾燥してから内部の粘土をかき出して造る張子状の像のことで、国宝彫刻としては興福寺の阿修羅に代表される「八部衆立像(はちぶしゅうりゅうぞう)」や「十大弟子立像」、東大寺の「不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)立像」をはじめとする諸像、法隆寺の「行信僧都坐像(ぎょうしんそうずざぞう)」などがあり、奈良時代に流行した技法である。この技法による造像は金銅仏に比べると湿気や乾燥、火災に弱いとされているが、この千手観音はすこぶる保存状態がよい。
本体はよく均整がとれ、面相の体つきもやさしいつくりである。どちらかといえば写実的で、どこかで出逢ったことがあるような親しみのもてるお顔をしている。頭上面を持ち、お顔だけをとれば十一面観音像となる。
千手観音と呼ばれる所以の背後の大小手は、桐材を芯にした木心乾漆造という技法でつくられている。これらは本体とは別につくられ、まるで光背のように本体の背から放射状に伸びた格好でつけられている。これらの掌には墨で眼が描かれ、このうち38本ある大手にはそれぞれに持物を持っている。この持物は千手観音の功徳の象徴であり、すべてが意味をもつのである。
「千の手と眼がすべての衆生を救うためにある」とは、まこと荘厳な思想である。この思想が千手観音という魅力的な造形を生みだしたのだろう。そしてその魅力は、気の遠くなるような長い年月の間、無数の人々の心のよりどころとして、対座する者に何かを語りかけ、心を鎮めさせてくれたのだろう。

葛井寺の千手観音像は現存する日本最古の千手観音である。大阪という土地柄は、どちらかというと近世以降の庶民的な文化に象徴されがちだが、なんの、奈良や京都にも負けない、こんな貴重な遺構が残っているとは・・・。僕は僕の住む大阪の文化を少し見直すことにした。大阪に来られた際は、大阪城や通天閣だけではなく、こちらの千手観音像もどうぞお見逃しなく!






第203話 道明寺・十一面観音立像


道明寺(どうみょうじ)は葛井寺と同じ藤井寺市にあり、葛井寺の東方およそ2kmのところにある。この葛井寺から道明寺に至る一帯は、巨大な前方後円墳が集中して在り、これらは古市古墳群とよばれている。古墳群は、前方後円墳31基、方墳48基、円墳30基、墳形不明14基の合計123基という、驚くべき数が集中し、古代史においても意義の深い土地柄なのである。これらは4世紀後半から6世紀中頃にかけて造られたとされている。なかでも道明寺のすぐ南西に位置する前方後円墳の応神天皇陵(羽曳野市)は全長415mと、堺市にある仁徳天皇陵(全長486m)に次いで全国2番目の規模なのである。このような歴史的背景のもとに、この地域には土師氏(はじし)とよばれる人達が多く住んでいた。土師氏はもと埴輪(はにわ)や土器の製作、皇族の古墳造営に携わった氏族のことであり、当時は貴重な存在であったという。
道明寺は、旧国道170号線の「土師の里」という交差点から少し南に下がり、細い道を東に入ったところある。創建は聖徳太子の仏教興隆に協力した土師連八島(はじのむらじやしま)によるとされ、土師氏の氏寺として、当初は土師寺(はじでら)とよばれていたそうだ。もともとは現在の寺のすぐ東にある道明寺天満宮境内の南方の参道付近に位置したらしいが、明治5年の神仏分離令によって現在地に移転した。創建当時は東西320m、南北640mの広大な境内に、金堂・五重塔・中門が南北に一直線に並ぶ四天王寺式伽藍であったことが確認されている。
7世紀後半になると古墳造営は衰え、土師氏も律令官人へと転身し、奈良時代末には菅原氏、秋篠氏に改姓した。土師氏を祖先とする菅原道真は、しばしばこの寺を訪れたという。そして延喜元年(901)、道真が太宰府に左遷される途中、伯母の覚寿尼(かくじゅに)に別れを告げるために当時に立ち寄ったという。

啼(な)けばこそ別れも憂けれ鶏の音の 鳴からむ里の暁もかな

そのときに道真が詠んだ歌で、「鶏が鳴き朝を告げれば、別れの時が来る」ことを嘆き表したものである。この歌が伝わった道明寺村ではその後、鶏を飼わなくなったという逸話が残っている。道真没後の天慶(てんぎょう)4年(941)、道真を祀り、寺名も道真の号「道明」をとって道明寺とした。蓮土山(れんどざん)道明寺と号し、真言宗御室(おむろ)派に属する道真公ゆかりの尼寺である。

僕が門前に着くと、そこの狭い駐車場には「でん!」と大型観光バスが停まっていて、ちょうど団体の観光客が降りてくるところである。おそらく「河内三観音」のツアー客なんだろう。普段ならこんかことはあり得ないのだろうが、4月18日は何といっても国宝三観音が見られるとあってツアーまで企画されてしまう、やはり国宝の力なのである。
山門をくぐった境内はさほど広くはなく、団体客が入ればちょっと尻込みしてしまいそうな賑わいになる。これがおさまるまで、すこし時間つぶしをさせてもらおうと、僕は本堂の向かいにあるお堂の縁に腰掛けた。そばで今年少し早めに咲いた八重桜が花を落としはじめている。よく見ると、どうやら八重桜という花は花びらがひらひらと落ちるのではなく、花ごと「ぼとん」と落ちるようである。境内には梅の木も多くあり、すでに眩しいばかり新緑をつけている。もう少し早い時期に訪れれば梅の香りも楽しめるのだろう。
道明寺は本来は静かで気品のあるお寺なんだろうと思う。団体客が本堂内に吸い込まれると尼寺特有の清楚な空気が漂ってきた。
道明寺本堂

さて、寺内が落ち着いたようである。僕は拝観受付を済ませ本堂に上がった。
須弥壇の中央、開帳された厨子の中に国宝・十一面観音立像が安置される。像高98cm、髻(もとどり)の上の頂上面を含め、像身から台座の蓮肉までを榧(かや)の一木(いちぼく)から彫りだしている。寺伝によると菅原道真公が元慶4年(880)に刻み、伯母の覚寿尼(かくじゅに)に寄進したと伝えられている。道真公が自ら刻んだというのは恐らく、道真公とこの像との関係を伝説化しようとしたものであろう。制作時期については9世紀初めから10世紀と多説ある。
瞳には黒い石をはめ、髻や唇などわずかな部分に彩色が見られるが、それ以外は素地の木肌のままで緻密に仕上げられている。白檀(びゃくだん)のような香木を用い、彩色や漆箔を施さないこの技法は檀像(だんぞう)とよばれ、インドの白檀仏に始まり、中国・日本では白檀以外の木彫仏としても発展している。この檀像彫刻として有名な国宝彫刻は、このほかに法隆寺の観音菩薩立像(九面観音:第94話)がある。素地の木肌ではあるが、その色は永年燻(くす)べた香の煙により金銅仏のような色合いに変わっている。黒に赤と青を混ぜたような微妙に重く光沢のある色である。

お顔は正面から見るとまん丸でまことふくよかである。しかし、すこし斜めから見るとこのふくよかな曲面が、まるで計算されたかのような美しい輪郭を描く。人間の女性がこの輪郭をもっていたなら、間違いなく美人だろうと思う。切れ長の目と彫りの強い眉は、慈悲深さと共に聡明な印象を与える。さらにこの像で特徴的なのは、頭上にいただく十一面のうち頂上面が特に大きいことである。頂上面は上半身まで表現されており、しかもよく見られがちな粗雑感はなく、丁寧に仕上げられている。幅広の吹き返しをつけた冠や、そこから両肩にかけて垂れ、肩で結び目をつくって二条に分かれ腕に懸かる垂紐(たれひも)には、意匠レベルの高さが表れている。体部はほどよい肉付きで、腰を少しひねったさまは官能的でもある。そして身体に懸かる天衣(てんね)が多くの襞(ひだ)をつくって複雑に重なり合う緻密さは、まさに美の極致であろう。
十一面観音のスタイルには定形がある。「左手に紅蓮華(こうれんげ)を挿した水瓶(すいびょう)を持ち、右肘は伸ばして数珠をかけ、施無畏印(せむいいん)を結ぶ」というのである。一般的に頭部が大きく、手が長いためにアンバランスな像もよく見受けられるが、この像はその定形が見事なまでにバランスよく表現され、しかも全体がしなやかなのである。この完璧なまでの造形は、日本檀像の中でも最も優れたものだろう。
道明寺・十一面観音立像は、尼寺の本尊にふさわしい優しさと気品がある像だった。僕が本堂を下りる頃には団体客も去り、境内は普段の落ち着きを取り戻していた。時間からすると観光バスはきっと次の目的地、「観心寺」に行ったのだろう。
僕もそのバスを追って、観心寺に向かおうと思う。
渋滞の中に突入する、そんな心境だ。

道明寺・十一面観音立像の写真は朝日新聞社「日本の国宝35号」より転写させていただきました。





第204話 再び観心寺 金堂


河内長野市から国道310号線に入ると道はすぐに山間(やまあい)となる。この辺りは金剛山の西麓(せいろく)で、古くは真言宗発祥の高野山と京都での布教の拠点であった東寺(教王護国寺)を結ぶ道中であったこともあり、密教文化が栄えた土地である。また鎌倉末期には千早赤阪城に立て籠もって幕府の大群と渡り合い、ついには倒幕に導いた武将・楠木正成活躍の地でもある。
観心寺はそんな歴史を辿ってきた金剛山西方の山裾に広大な寺域を構えている。

3年ぶりの観心寺だ・・・。
僕にとって観心寺は特別の意味を持つお寺である。それはちょうど3年前、僕が「国宝の旅」を始めた時に最初に訪れた「国宝建築」であるからだ。(第6話) 古建築のことなんか何にも知らなかった僕が、この寺の国宝(金堂)と遭遇したときの魅惑、不思議な吸引力は今も忘れていない。そして国宝の魅惑を求める旅がここから始まり、100件を超える国宝建築の旅を経験した。僕の知識は驚くべき進歩を遂げ、古建築の構造や施工技法など、眼で見えるものはずいぶん理解できるようになった。(というより、もう専門家なみだと自負している)
しかし3年の時が過ぎても、100件を超える国宝建築を訪ねても、いまだその「魅惑」の正体が何なのかよく分からない。僕の網膜に写った映像だけでは量れない、そしてことばでも形容しにくい、「その背後にある力」なのだ。それを僕は「国宝の力」として、これからも追い求めていくことになるのだろう。半ばを過ぎた僕の旅、もういちど原点に戻るということで

ただいま帰りました! 観心寺さん。

観心寺山門 金堂に至る参道

今日の観心寺は爽やかだ。青空のもと、眼に鮮やかな新緑が薫風に揺れている。自然と共生するようなこの寺は、やはりこの季節、この天候がベストだろう。思った通り、境内横の駐車場にはすでに観光バスが数台、乗用車も溢れんばかりである。今日は1年に2日しかない秘仏公開の二日目なのだ。次々に参拝客が山門の中に吸い込まれていく。お寺の規模からすると少し小さいめの山門で、これをくぐると参道には石段が続き、その先の金堂までは一直線である。観心寺は寺域が広いので四季折々の花木が楽しめるようである。春は梅、桜、ツツジ、夏はスイレンや百日紅(さるすべり)、秋には寺内と背後の山が紅葉に染まるという。

観心寺は空海の弟子・道興大師実恵(じちえ)が天長4年(827)に創立した寺で、その弟子の真紹(しんじょう)が仏塔や仏像を整備したと伝えられる。国宝・観心寺金堂は建てられた年代が正確には分かっていないが、天授4年(1378)の「観心寺参詣諸堂巡礼記」に、「近年造立」と記されているので、その頃(正平年間:1346〜1370)の建立だろうと考えられている。正面七間、側面七間の一重入母屋造、本瓦葺きの大規模な密教仏堂である。正面には三間の向拝が付く。近年改修されたため、丹塗りの木部と漆喰壁の白が色鮮やかで、今日のように快晴の日にはとても青空映えする国宝建築である。

参道から見上げる金堂 金堂全景 金堂東側面

建築様式は和様を基本に、大仏様(天竺様)と禅宗様(唐様)の要素を採り入れた折衷様(せっちゅうよう)である。軸部は和様である長押(なげし)が切目長押(きりめなげし:縁上の長押)で用いられ、それ以外の柱固めには鎌倉時代の初めに中国から移入された禅宗様・大仏様の貫(ぬき)が足固貫(あしがためぬき:切り目長押の上)、飛貫、頭貫などで用いられている。出入り口の扉は禅宗様の桟唐戸が付けられ、正面両端の柱間には緑色に塗られた和様の連子窓が嵌(はま)っている。組物は出組(でぐみ:一手先)で中備(なかぞなえ)は大仏様の双斗(ふたつど)としているなど随所に様式の混合が見られる。向拝は面取角柱、三斗組で組物の手挟(たばさみ:斗と垂木の間の化粧板)の意匠が特徴的である。

金堂前面 組物 向拝の懸魚と手挟

金堂内部は前面二間通りの外陣とその奥の四間×七間の内陣、背面一間通りの後陣からなっている。いずれも板敷床で、外陣は虹梁6本を架け渡し、中6本は中央に板蟇股(いたかえるまた)を置き組み入れ天井を支えるが、両端の虹梁では蟇股の代わりにきわめて短い大瓶束(たいへいづか)を立て、そこから側面側柱上の組物に向かって海老虹梁を渡している。外陣と内陣の境は格子戸と菱欄間で区画され、内陣の後方中央には須弥壇が設けられ、厨子の中には秘仏の本尊・如意輪観音坐像が安置される。
観心寺金堂はある意味、平安時代に完成された和様建築の伝統を踏襲しながらも、大仏様、禅宗様の技法を巧みに取り入れた折衷様建築の代表として、また真言密教本堂の特徴をよく示す遺構として、貴重な建築である。そして、その姿は荘厳であり、華麗でもある。

金堂の東側には建掛(たてかけ)の塔がある。一間宝形(ほうぎょう)の仏堂のように見えるが、屋根が簡素な茅葺きであるのに対し、軒の組物は本格的な三手先(みてさき)である。これは楠木正成が三重塔の建立を発願したが、延元元年(1336)、神戸の湊川の合戦で戦死したため建築が中断されたものと伝えられる。楠木正成があと何年か生きていたなら、ここに三重塔を見ることができたのにと思うと少し残念である。重要文化財に指定されているので、三層そろえばたぶん国宝になっていたことだろう。

建掛の塔と金堂(奥)

さて、次は今日の本命・如意輪観音像の拝観である。相変わらず金堂の回りは拝観客で騒然としているが、きっとこの寺にふさわしいおおらかで、心安らぐ仏様なんだろう。僕は楠木正成の無念を脳裏に収めて、再び金堂に向かった。





第205話 観心寺 如意輪観音坐像


金堂の中は参拝客で溢れんばかりである。中ではご住職が如意輪観音像の説明をマイクでされている。いつもなら仕切られている内陣と外陣の境の格子戸も外され、内陣に一間入ったところで拝観させていただけるようだ。が、この人の数、ご本尊がよく見える位置でお話をうかがうにはちょっと時間がかかりそうだ。ご住職のおよそ20分ほどで終わるのを待って、今度は運良く最前列のご本尊の正面に座らせていただけた。目の前に、僅かにライトアップされたご本尊が幻想的に浮かび上がる。

(なま)めかしく、官能的な仏さまだ。
6本の腕(六臂:ろっぴ)のうち、右第一手を頬にあて頭を少し右に傾けて思惟(しゆい)のポーズをとる。その他の手には宝珠、数珠、蓮華、輪宝(りんぽう)を持っている。6本も腕があると異様な感じがするのが普通だが、この像はそれが感じられず極めて自然体に見える。右足は立てて左足裏の上に載せる、いわゆる思惟像の基本形である。この像が「官能的」と見られるのは、豊満な体つき、柔軟な肌を思わせるその色合いと質感、そして瞑想にふけるかのごとく遥か遠くを見つめる神秘的な眼差しだろう。その艶めかしく官能的な表情は、ともすれば「けだるさ」にも通じるほどの、女性の美しさを表現しているのだ。
国宝・如意輪観音菩薩坐像は平安初期・承和3〜7年(836〜840)の作、像高108.8cm、台座106.6cmの彩色像である。木心乾漆像で榧(かや)材を心材とし全面に乾漆を施しており、その上に彩色されている。
長年秘仏として尊ばれてきたために、保存状態が極めて良く、豊麗な雰囲気と艶やかな彩色を1200年近く伝える平安彫刻の傑作である。

しばらくすると、先程のご住職に代わって今度は若い僧が解説を始めてくれた。

本尊の如意輪観音様は4月の17日と18日だけがご開帳の日です。年に2日で、少ないとおっしゃる方も多いのですが、戦前は33年に一度しか扉を開けることができなかったようです。戦後、文化財保護法によって新国宝が制定されるようになって観音様の縁日である4月18日とその前日にだけ扉を開けております。平安時代の作で、今から1200年ほど前の仏様で、完成された当初から秘仏であったようです。ですから保存のために開扉しないということではなく、密教の信仰上の理由により秘仏になっているのです。
この如意輪観音様ですが、正式なお名前を「七星(しちしょう)如意輪観世音菩薩」といいます。あたまにつく七星が意味するものは、北斗七星です。弘法大師・空海さんが高野山に登れれる前に、よくこのお寺に立ち寄られていたのですが、最初に来られたとき御歳42歳で、ここで厄除けをされました。その時座られていた場所が、今でも残っていますが、金堂前の畳一畳くらいの石の上です。そこで中国から持ち帰った北斗七星を拝む方法、すなわち星の力を地上に込められたのです。そして、その星を込められた場所が1200年経った今でも星塚(ほしづか)として残っているのです。金堂を取り囲むように7つの星塚がありますが、その星塚を回ってきて、ここでお参りすると厄除けができるという古くからの伝えがあります。そしてその星塚の中心にこの七星如意輪観世音菩薩様をお祀りしてあるのです。
如意輪観音様は材質は木造で榧(かや)の木から彫られており、その上から漆を塗って仕上げています。当時はもっと色が白かったようですが、長い年月の間に人肌に近い色に変化なさってきました。お姿で特徴的なことは手が6本ということです。この6本の手が意味するものは「六道」です。仏教では、この世は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間界・天上界の6つの世界、すなわち六道から成るといわれています。私たちは自覚はないのですが、この六道の世界に生きています。その証拠に「嫌ですけど歳をとります」「嫌ですけど病気もします」「嫌ですけど最後は死んでしまいます」。そういう寿命の鎖に繋がれた苦しい世界を六道というのです。しかし、仏の世界はこの世とは反対で「歳をとらない」「病気をしない」「死ぬこともない」という世界です。私たちが嫌だと思うことが全くない世界が極楽の世界、つまり仏の世界なのです。そこに行くための教えが仏になるための教え、仏教ということです。そしてこの六道の苦しい世界から、極楽の仏の世界に導くのが仏の姿ということです。
この六道を当てはめているのが如意輪観音様の6本の手です。向かって左、仏様の右の最初の手ですが、頬杖をついて、首も少しかしげておられます。これは、思惟の相、つまり考えているポーズです。苦しんでいる人をどのように助けようかと考えておられます。これは六道に当てはめると「地獄」にあたります。
右手の2番目の手は珠を持っておられます。これを如意宝珠といいまして、意のままの宝を授けてくれる力を持った仏の姿を表しています。六道に当てはめますと「餓鬼」にあたります。物がなくて苦しんでいる、そういう人を救います。
右手の3番目の手は下に垂れて数珠をお持ちです。数珠・念珠というのは智慧(ちえ)を表します。これは六道では「畜生」に当てはまり、畜生道に落ちた者に智慧を授け苦しみから救います。
左の最初の手は下にたれ掌を地に向けています。これは「修羅」の怒りを抑える手です。修羅というのは常に争いを好みますが、そのような争いの心を鎮める姿を表しています。
左の2番目の手は蓮の花をお持ちです。これは「人間界」を表します。蓮の花というのは綺麗な花畑ではなく、泥の中から花を咲かせます。汚れた泥の中からでも清らかの心を持っていれば、美しい花を咲かせることができるという教えです。
左の3番目の人差し指の上には輪宝(りんぽう)という車輪のようなものを載せておられます。これは六道では「天上界」を表します。今の状態に満足するのではなく、さらに精進しなさいという教えです。車の車輪が回り続けるように仏の教えを聞き行動し、楽になりなさいということを表しています。
このような働きをされるのが如意輪観音様です。厳しくなく、優しく慈悲深いお姿で導いてくださるので、女性のふくよかなお顔をされています。


と解説は続く。とても分かりやすくありがたいお話だ。お話を聞いているうちに、この若い僧はご住職のご子息だなと思った。ご住職の顔をそのまま若くしたように、とてもよく似ておられるのだ。ご住職と交代でこうやって説明をされているんだろうが、2日間続けるのはさぞかし大変だろうと思う。
解説の最後で、「仏様は目で見るのではなく、心で観て拝んでください。目では見えない様々な教えが仏様の背後にあるのです。」と言われた。観心寺の如意輪観音は、文字通り心の目で観るべき仏様なのである。

境内の牡丹

境内の中央参道を霊宝館のほうに逸れると、道には牡丹の花が咲き始めている。ちょうど3年前に訪れたときもそうだったように。
秘仏の公開を待っていたかのように咲き始めるこの花もまた、華麗で艶やかである。

観心寺如意輪観音菩薩坐像の写真は小学館「古寺を行く48号」および朝日新聞社「日本の国宝36号」より転写させていただきました。





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