第221話 九度山の秘仏
大阪府と奈良県との境界の近くに位置する和歌山県橋本市から紀ノ川沿いに5kmほど下ると、左岸に接して九度山町(くどやまちょう)という町がある。南側は高野山がそびえたち、いわば高野山の登山口にあたる。
高野山への参詣道は数本あるが、ここからの参詣道は空海が切り開き、その後も最もよく使われた道で、高野山町石道(こうやさん ちょういしみち)と呼ばれている。町石(ちょういし)とは、沿道に一町(約109m)ごとに建てられた高さ2mほどの道標で、花崗岩の四角柱頂部に五輪塔形を彫出した形をしている。町石には壇上伽藍からの距離(町数)のほか、密教の金剛界三十六尊および胎蔵界百八十尊の梵字、寄進者の名前、建立の年月日などが彫り込まれている。もとは木製の卒塔婆が建てられていたが、鎌倉時代に各層の寄進を募り、現在の町石になったという。合計220基の町石のうち179基については当時のものが遺り、一町ごとに礼拝を重ねながら山上を目指した参詣の様子を今に伝えている。いうまでもなく、この参詣道は平成16年(2004)「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録されたもののひとつである。
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日本の世界遺産リスト(2005年3月現在 12件) |
| 1 |
法隆寺地域の仏教建造物 |
奈良県 |
1993 |
文化遺産 |
| 2 |
姫路城 |
兵庫県 |
1993 |
文化遺産 |
| 3 |
白神山地 |
秋田県・青森県 |
1993 |
自然遺産 |
| 4 |
屋久島 |
鹿児島県 |
1993 |
自然遺産 |
| 5 |
古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市) |
京都府・滋賀県 |
1994 |
文化遺産 |
| 6 |
白川郷・五箇山の合掌造り集落 |
岐阜県・富山県 |
1995 |
文化遺産 |
| 7 |
広島平和記念碑(原爆ドーム) |
広島県 |
1996 |
文化遺産 |
| 8 |
厳島神社 |
広島県 |
1996 |
文化遺産 |
| 9 |
古都奈良の文化財 |
奈良県 |
1998 |
文化遺産 |
| 10 |
日光の社寺 |
栃木県 |
1999 |
文化遺産 |
| 11 |
琉球王国のグスクおよび関連遺産群 |
沖縄県 |
2000 |
文化遺産 |
| 12 |
紀伊山地の霊場と参詣道 |
三重県・奈良県・和歌山県 |
2004 |
文化遺産 |
話を九度山に戻そう。九度山町は人口6000人くらいの小さな町だけれど、ここにはこのように古い歴史と町民にとって大切な宝物がある。いや、町民というより日本国民にとってというべきだろう。
弘仁7年(816)、高野山を開いた弘法大師が、山上の地理や気象の難点を考え、高野参詣の表玄関に当たるこの九度山町に政所(まんどころ)を設置した。そこは僧侶が住し、高野山什宝(じゅうほう)や穀蔵(こくぞう)を管理するなどの庶務を司る、いわば金剛峰寺の出先機関であった。
伝えによると承和元年(834)、大師の母が「わが子の開いている山を一目見たい」との一念を抱き、香川県善通寺よりこの地に訪れた。大師は、自ら七里(約27.5km)四方を女人禁制としていたので、母は高野山には登らず、この政所を宿所として滞在した。九度山町の名は大師が月に九度は必ず高野山よりこの山道を下って母を尋ねたことに由来するという。しかし翌年大師の母は83歳でこの世を去ってしまう。大師は母を供養するために、この地に弥勒如来を本尊とする慈氏寺(慈氏は弥勒の異名)を建立した。その後この寺は大師の母の廟所(びょうしょ)として信仰を集め、慈尊院(じそんいん)と称するようになった。
この慈尊院に伝わるのが、大師が母のために制作したといわれる弥勒仏坐像である。この弥勒仏は慈尊院の本尊として弥勒堂に収められ、秘仏としてその扉が開かれることはなかった。そして、昭和36年(1961)年に正式な調査に至るまで、まさに幻の仏であったのだ。現在でも21年に一度の屋根葺替えの時に開扉されるのみで、最近公開されたのは平成5年(1993)である。そんな秘仏中の秘仏が「世界遺産登録」を記念して特別公開されるのである。(2005年3月3日〜3月9日) この機会を逃せば今度は9年後、その次は30年後ということになる。「よろず掲示板」にも多くの情報が寄せられた。(国宝探訪さん、仙人さん、たけぞうさん情報ありがとうございました。)
今回見逃したら、もう見られないかもしれない。
「日本国民の宝物は見られるうちにちゃんと見とかなきゃ!」と、そんな思いで、僕は慈尊院にやってきた。
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| 慈尊院表門 |
築地塀 |
表門にあたる北門を入ると右手に多宝塔、左手手前に弥勒堂、その奥に本堂が建つ。振り返ると風化の著しい築地塀(ついじべい)が、歴史の深さを語りかける。弥勒堂の前には、有吉佐和子の小説「紀ノ川」の一文が掲げられている。
「高野山にはのう、女は入れえへんがのう、この慈尊院までは上れるんやしてよし。そやよってに、ここは女人高野と云うんやして。花は知ってたわの」(中略)
廟の前の柱にぶら下がっている数々の乳房型に気がつくと、しばらく瞑目(めいもく)することを忘れていた。それは羽二重で丸く綿をくるみ、中央を乳首のように絞りあげたもので、大師の母公と弥勒菩薩を祀る霊廟に捧げて安産、授乳、育児を願う乳房の民間信仰であった。
その乳房型(ちちがた)も絵馬と一緒に並んで奉納されている。本堂横には仮設のテントが張られ、檀家の人たちだろうか、中高年の男女が緑色のはっぴを羽織り本尊拝観手続きをこなしている。
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| 奉納された乳房型 |
本堂(手前)と
弥勒堂(奥) |
12年ぶりなんですってね・・・。
僕は、参拝客がちょっと途切れて談話している檀家のおばちゃん達の輪の中に入った。何か面白い情報は、こんなところから聞き出せる・・・。これが僕の情報収得手法である。
ほんまは21年やけどな、今回は世界遺産登録とかいうことで特別や。
大勢、見えられましたか?
いやぁ、前みたいなことはないな。この前は3日間で2万人も来たゆうて、住職がゆうとった。今度は一週間やから、出足もぼちぼちや。
大阪から、すごく楽しみにやって来ました。この次も元気で見れるといいですね。次は何年後ですか?
え〜と12年後かいのう? その年は屋根の葺き替えもやるんや。
ん?ちょっと計算が合わないが、信仰と計算には多分相関関係はないだろう。
それからお兄ちゃん、写真はあかんで!
僕の重たそうな三脚を見ながら、おばちゃんは云う。
うん、わかってる。
と言いながら、僕は三脚を肩にかけて弥勒堂の方へ回り込んだ。
何人かが堂前で、ある人は身を乗り出すようにして、ある人は目に光が入らぬよう手で覆いながら、ある人は双眼鏡で秘仏を覗き込んでいる。
しかし、遠い。そして暗い・・・。
拝観の位置から弥勒堂の扉までは4〜5mはあるだろうか、さらに堂内に安置される本尊まで3mはある。僕も「仙人さん」に教えられて持ってきた双眼鏡をバッグから取り出した。
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| 弥勒堂前風景 |
特別開扉の
ポスター |
国宝・弥勒仏坐像はその大部分を檜の一材から彫りだした木造仏である。この像の裳先(もさき)は後補のものであることが判っているが、その裏に「寛平四年歳次任子(さいじみずのえね)五月十九日造佛事己了」との墨書銘がある。後世の筆であるが、古い記文を写したものであると推測され、仏身・光背・台座の特徴からみてもこの頃の作と考えられることから、寛平四年(892)の制作とされている。弘法大師の没年が承和2年(835)なので、大師がこの像そのものを制作したというのは、触れたくはないが伝説だろう。像は平安時代初期の代表的な彩色彫像で、同時代の他の作例とは異相の表現がされ、作者は会理仏師(えりぶっし:852〜935)と推測されている。会理の作としては、東寺(教王護国寺)食堂の千手観音立像や醍醐寺薬師堂(醍醐山上)の薬師三尊像などがある。
上の弥勒仏の写真は、門前に掲示されている「弥勒仏特別開扉」のポスターを撮ったものである。どうやら、この秘仏の写真はその名の通り、そんなに撮影されてないようである。
写真の弥勒仏は優しく微笑みかけるような顔をしている。やや垂れ目のまなざし、ふっくらと下ぶくれ気味の頬(ほお)、笑みを浮かべるようにやや上がった唇尻がその印象を与えるのだろう。が、僕の双眼鏡から見える弥勒仏の顔はむしろ凛々しい顔をしている。眼は細く、唇は引き締まり鋭く見える。違う角度や光の当たり具合によっては仏の表情は変わるのかもしれない。いずれにしても、表情といい、肩の張り、胸の厚さなどの表現は男性的な包み込むような大らかさが漂う。
暗いせいもあって、光背に描かれた円光やその周囲の火頭唐草文様、そして大阪・観心寺の如意輪観音坐像のそれに似ているといわれる極彩色の蓮華座は、ほとんど確認できない。でもそれはどうでもいいことのように思う。1,113年の気の遠くなるような長いい年月を越えてきた幻の仏を、こうやって何も遮るものなく同じ空間で拝むことができることが、僕にとって何と幸運なことだろうかと感じるからだ。
弥勒仏を拝観し終わった後、本堂では団体客対象の住職の読経が始まったので、紛れ込んで末席に座らせていただいた。本堂の奥の扉は開け放たれており、その向こうに弥勒堂の正面が見えるようになっている。拝観者は本堂で掌を合わせれば、必然的に本堂の北に建つ弥勒堂の本尊を拝むことになる。「なるほど、このようになっていたのか。」と感心させられた。(当たり前のことだけど)
帰りに紀ノ川まで下りてみた。川沿いの桜並木のつぼみはまだ固いが、緩やかな流れに春の訪れを感じた。
今度は9年後ですね・・・。
僕は遙か先に思いを馳せながら帰途についた。
第222話 山城の十一面観音
京田辺市は京都府の南端に近い位置にある。奈良と京都を結ぶ街道沿いで、古くから交通の要衝として栄えた町である。ちょっと昔(綴喜郡田辺町時代)のこの町を知っている人にとっては、「東には木津川が悠々と流れ、西には生駒山系に連なる甘南備山が控える、豊かな自然に囲まれた町」というイメージだろう。ところが、近年この町の様相がすこし変わってきた。1986年に同志社大学・同志社女子大の田辺校開設を皮切りとした学研都市化により、大規模な宅地開発や交通網の整備が行われ人口も急増、新しいまちづくりが進んでいるのである。とはいえ、市街をすこし外れると、そこは昔のまんまの長閑な田園風景が心を癒してくれる。
真言宗智山派の観音寺は、そんな田園風景の中に建ち、古き文化を今に伝える古刹である。
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| 観音寺遠景 |
この寺は今から1300年あまり前、天武天皇(在位673-686)の勅願により義淵僧正(ぎえんそうじょう)が開基、次いで聖武天皇(在位724-749)の御願により天平16年(744)良弁僧正が伽藍を整えたと伝えられている。往時は諸堂13、僧坊20余を数え所領も近隣はもとより、河内交野にまで及んでいたという。しかしたび重なる火災や戦火により、今やそれを偲ぶものは失われてしまっている。わずかに残されたものは、地名として残る「普賢寺(ふげんじ)」という古い呼称、古塔の跡の僅か数個の礎石、そして本堂に密やかに安置される国宝・十一面観音立像である。
久しぶりに僕は国宝巡りに僕の奥さんを連れてきた。もう長年連れ添った夫婦が、古い寺を訪ね美しい仏像を観ることは、決して不似合いではないと思うのだ。参道脇の駐車場に車を入れ、庫裡の方に拝観をお願いする。住職の奥さんだろうか、高齢の女性が対応してくれ、本堂前で待つようにいわれる。どうやら参拝客は僕らだけのようである。誰もいない参道は砂利道を歩く僕らの足音と、時折野鳥のさえずりが聞こえるだけで、静かな佇まいの寺である。天平時代の逸品である国宝・十一面観音立像が安置されるという、ともすれば賑やかしくなりそうな空気はここには流れていない。
本堂前でしばらく待つと、住職がやってきた。高齢だが痩身でお元気そうな住職だ。住職は「ご遠方からですか?」とか「何か本を見て来たんですか?」と気さくに声をかけてくれながら、本堂に案内してくれた。本堂は正面はすべて腰高障子戸で、それほど厳重に鍵もかけていない様子である。
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| 観音寺本堂 |
住職は短い経を読んだあと、内陣の厨子の扉を開いてくれた。
ほぉ〜
間近に十一面観音が現れ、僕の口からは驚きの息がもれた。
美しい十一面観音像である。おおらかな表情としなやかな肢体、蓮華を挿す水瓶(すいびょう)を持つ左手と肘を伸ばした右手の指先の柔らかさは、これが天平の文化の象徴であるがごとく、僕の脳のメモリーに書き込まれる。観音菩薩は女体であることが多いが、精神は男であるといわれる。それは衆生済度(しゅじょうさいど)のため修行中の身で、完全に仏の境地に達していない、いわば人間と仏との中間に位置するところからくるのだろうか? この十一面観音の顔は女性的というよりむしろ中性的、包み込むような優しさの反面、凛としていて如来にも近い顔つきである。そして、いつか見た奈良・聖林寺の十一面観音像(186話)と似ていることも知識として知っている。よくこの二仏は比較されるが、どちらが美しいなどというのはナンセンスだろう。この寺のこの本堂にいるからこそ、最高の美しさを発するのだと僕は思う。
国宝十一面観音七体のうち、最も美しい仏像です。
本を調べて来たんなら知っとると思いますが、木心乾漆像(もくしんかんしつぞう)というつくりかたの仏様です。
漆(うるし)を塗る技法ですよね。
木心乾漆像というのは、像の大体の形を木でつくり、これを心にしてその上に木屎漆(こくそうるし)を塗り細部を造形する技法でつくられる。聖林寺の十一面観音像もこれと同じ技法である。ただ、金箔の剥落や像表面のひび割れの具合は二仏で異なる。聖林寺の観音は胸から上の金箔が残るが、全体にひび割れが多いように見受けられる。こちらの観音は後補の部分以外は殆ど金箔が落ち、漆が黒く光っている。
制作年は判っているんですか?
天平16年(744)から祀られています。東大寺・興福寺で祀られても引けをとらない仏様です。1250年もの間、村人達に守られ信仰されてきました。
(専門家によると制作年代は聖林寺の像との前後関係を含め諸説あるようだ。)
何度も火災にあったせいだろうか、この像は後補の部分が多いという。頭上の十面中、瞋怒相(しんぬそう)2面、牙上出相(げじょうしゅつそう)1面は当初のものであるが、あとの7面は後補のものである。そのほか右耳朶(じだ)、右小指を除く両手の指、本体から遊離する天衣(てんね)、持物なども後補である。近世の粗悪な補修によって、形を損なっていたが、昭和の修理によって今の姿になったらしい。むろん、それによって菩薩の醸しだす慈悲や美しさが薄れるものではないだろう。
本堂を出ると、基壇の上に古い鬼瓦が並べてある。
屋根、いつやり替えたんですか?
もう、5年くらいになるかな。
これ、いつ頃の瓦なんですか?
300年前、江戸時代じゃな。瓦の横に年号書いとるよ。
覗き込むと確かに何か書いているが、僕には判別できない。300年前の瓦が当たり前のように並ぶありさまに、周りの環境の変化に動じない意志と、ゆるやかな時の流れを感じる。この寺は、この村人たちは、これから何百年も多くを変えることなく十一面観音像を守っていくことだろう。
僕らは次の目的地に向かって、普賢寺川に沿う街道を東に向かった。田の畦道には菜の花が揺れていた。
第223話 蟹(かに)の恩返し
むかしむかし、この村(現在の京都・山城町綺田)の農家に夫婦と娘の3人家族が住んでいました。
3人は家族そろって観音様を篤く信心し、善良で慈悲深い暮らしを営んでいました。
ある日のこと、村人が蟹(かに)をたくさん捕らえて食べようとしているのを哀れと思った娘は、その蟹を買い取って、草むらへ逃がしてやりました。
そして数日後、父が田を耕していると今にも蛙を呑もうとする蛇がいました。何とか蛙を助けてやりたい父は蛇に向かって言いました。
「おまえを娘の婿にするからその蛙を放してやってくれ!」
すると、不思議にも蛇は蛙を放しスルスルと何処へともなく姿を消したのでした。
突然のこととはいえ大変なことを言った父は、仕事も手につかず家に帰ると、このことを娘に話し、不本意を悔いたのでした。
するとその夜、蛇は衣冠をつけた男の姿に化け、門前に現れたのです。
男は「約束通り、娘をくれ!」と父に迫ってきたのです。
困りはてた父は嫁入りの支度を理由に、三日後に来るようにとその場をしのぎました。
しかし約束を守ることなどできるはずもなく、苦悩の3日間を過ごしました。
遂に約束の日となって、男は再び門前に現れました。
父は部屋の雨戸を堅く閉じて娘を守ろうとしました。
約束を裏切った父に腹を立てた男は大いに怒り、本性を現し大蛇の姿となって荒れ狂ったのです。
親子3人は恐ろしさのあまり縮こまってしまいましたが、ひたすら観音経普門品(ふもんぼん)をとなえ続けました。
その時、目の前に麗しく慈悲に満ちたお顔をした観音さまが現れたのです。
「決して恐れることはありません。あなたたちは慈悲の心深く、常に善良な行いをされています。私を信仰し、念ずるならばこの危機逃れることができるでしょう。」
と告げて姿を消したのです。
すると、どうしたことか突然雨戸を打つ音がやんでしまったのです。
不思議なこともあるものだと、なおも観音経をとなえ夜が明けるのを待ちました。
やがて夜が明け戸外に出てみると、そこにはいちめんに蟹の屍(しかばね)が散らばり、同時に蟹のハサミでずたずたに切られた大蛇の死骸が残されていました。
どうやらこのあいだ助けた蟹たちが大蛇を退治してくれたようなのです。
親子は観音さまの御守護に感謝し、そして娘の身代わりとなってくれた多くの蟹の霊と蛇の霊をあわせて供養するため、観音堂を建て聖観音菩薩を祀りました。
この話は「蟹満多寺(かにまたじ)縁起」で、のちに「今昔物語」巻16-16話や「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」巻28 にも受け継がれているものとされる。どうも日本では昔から蛇を魔性のものとし、懲悪の対象とする傾向が強いようで、本当は嘘をついていない蛇が被害者で、軽はずみな発言をしたお父さんの方が罪深いような気もしないではない。きっと蛇も一目惚れするほど美しい娘だったのだろう。蛇が可哀想だとは思うが、まあそのへんは深く追求しないことにしよう。
この「蟹満多寺(かにまたでら)」というのは、現在の「蟹満寺(かにまんじ)」のことである。蟹満寺は京都府相楽郡山城町、東をおだやかな山に包まれ、そこから流れ出る天神川が木津川に流れ込むあたりの綺田(かばた)という集落の中にある。「蟹満寺(かにまんじ)」という呼び名は、音訓を混ぜた不自然な名であるが、古い時代には紙幡寺(かむはたじ・かばたじ)、加波多寺(かばたじ)と呼ばれていたこともあり、この古い寺名と「蟹の恩返し伝説」がくっついて、「紙幡寺」・「加波多寺」→「蟹満多寺」→「蟹満寺」と変わったのではないかと推定される。
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| 蟹満寺境内 |
蟹の扁額 |
さて、僕と僕の奥さんはその蟹満寺の門前に立った。とはいっても門はなく、周辺の集落にとけ込むような清楚な佇まいである。 普門山と号し、前話の観音寺と同じく真言宗智山派の古刹である。創建は奈良朝以前からこの地に多くすんでいた朝鮮からの渡来人の秦(はた)氏の一族によるものと考えられているが、今なお不明な点も多い。
正面奥に本堂、右手前に観音堂が立つ。本堂には本尊である国宝・釈迦如来坐像が祀られ、観音堂には聖観世音菩薩坐像が祀られる。その軒下にはこの寺の縁起を象徴する蟹と蛇を彫った扁額が掲げられている。ちゃんと蟹が大蛇の首根っこをハサミで挟んで頑張っているリアルな彫刻である。縁起によると聖観世音菩薩が本尊のはずであるが、釈迦如来の方が本尊であるということは、やはり「蟹の恩返し」は後に付加された可能性が高い。また本尊も昭和期までは、近在する橘諸兄(たちばなのもろえ)がはじめたという光明山寺の本尊を移したとか、聖武天皇の恭仁京(くにきょう)にあった山背国分寺の本尊を移したという説が一般的であった。さらには蟹満寺そのものも、もともとここには建っていなかったという説まであったのだ。しかし、平成2年からの境内発掘調査により、現在の本堂より相当大きい白鳳時代の基壇や伽藍を取り囲む広大な回廊跡が発見された。本堂の規模は奈良・薬師寺の金堂に匹敵するものであった。これにより7世紀末に創建された大寺院であったことが判明し、本尊移転説は覆されつつあるようだ。これはお寺側も胸がすくような発見だったろうと思う。蟹満寺はこのように結構謎の多い寺なのである。
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| 蟹満寺本堂 |
本堂横の庫裡にある窓口で「ごめんください。」と声をかけると、奥から高校生くらいと中学生くらいの二人の娘さんが現れた。姉妹だろう、二人とも縁起の伝説のような美人になりそうな、可愛く利発そうな顔をしている。てきぱきと拝観受付を済ませてくれ、本堂の側面の扉から中にはいるように案内される。
堂内には所狭し、天井に頭が届かんばかりに釈迦如来坐像が安置されている。丈六坐像で像高が240cm、8世紀初めの制作とされ、巨像の少ないこの時期においては金銅像の大作としてまことに価値が高いといわれる。
像は頭部がアンバランスなほど大きいが、それがむしろ堂々とした造形美を醸しだしている。肉髻相(にっけいそう:まげを結ったように頭頂の肉が盛り上がったもの)で、螺髪(らほつ)は失われている。豊満な顔には細い眉が大きな弧を描き、目は伏せ加減の半眼である。左肩から流れ腹部や脚にかかる流暢な衣紋は、薬師寺の本尊・薬師如来坐像とよく似ている。右手は「施無畏(せむい)」という印相で我々の畏れや不安ごとを取り除いてくれる意味を持ち、左手は膝の上に置き「与願(よがん)」という印相で願い事を叶えてくれる意味を持つ。そして両方で釈迦の教えの慈悲の心を表している。また、指と指の間には鳥の水かきのような縵網相(まんもうそう)で、すべてのものを悟りの世界へすくい上げてくれるという。全体的には量感に富み、眉や唇のひきしまりから厳しい表情を感じとることができる。
この像の制作年代は古くから議論があり、白鳳期なのか天平期なのか解決を見ていない。美術史では平城京遷都の和銅3年(710)までを白鳳時代、それ以降を天平時代と呼ぶが、どうやら専門家の間ではこの「どちらなのか」というのがとても重要らしい。このとき比較の対象となるのが、興福寺の仏頭(国宝)と薬師寺の薬師三尊像(国宝)である。制作技術において蟹満寺の釈迦如来は顔の中央をはじめ、何ヶ所か鋳造時に銅がゆきわたらなかったための補鋳を行っている。ほぼ完璧な薬師三尊像の技術と比べると、やや稚拙なのである。とはいうものの、興福寺の仏頭よりは進歩していることがうかがえる。つまり年代的には「興福寺仏頭→蟹満寺釈迦如来→薬師寺薬師三尊」という説が有力になる。しかし、薬師寺薬師三尊の制作年代については二説あり、藤原京の薬師寺に祀られていたとする7世紀末とする説と、平城京に移転に伴う新鋳で8世紀初頭とする説があり、ともにあい譲らない様相なのである。逆に蟹満寺の釈迦如来の厳しい表情は天平盛期の作風に近いともいわれ、その年代を定めれば、薬師三尊の制作年代にも大きな影響を与えるといわれているのである。専門家達にはちょっと悩ましい問題である。
まあ、セミプロの僕としては技術が拙くても先に造られたものとは限らないし、作風が似ているからといって同時代に造られたものとは限らないということで、この釈迦如来像は8世紀の前半の作ということにしておこうと思う。
本堂の裏手にある水子供養の地蔵様に手を合わせてきた僕の奥さんに、「いい仏様を見せてもらったね。」と、僕は思いきり満足顔をしてみせた。
今日はもう1件国宝を見に行きたいのだが、付きあってくれるだろうか、少し心配に思いながら蟹満寺をあとにした。
第224話 智拳の結び
山城の国宝仏を2躯観たけれども、今日は早起きしたのでまだお昼前、時間はたっぷりある。
円成寺(えんじょうじ)って知ってるかい?
ううん、知らない。
国宝仏と国宝建築があるんだって。
ふう〜ん、どこにあるの?
柳生に行く途中だって。ちょっと行ってみようか?
ふう〜ん、そんなの聞いてない! 今日は2件だけだって言ってたじゃない。
まあ、せっかくここまで来たんだし、時間もほら、まだ早いし、帰りにおいしいものでも食べようよ。
まあ、こんな具合に、僕は僕の奥さんと国宝を見に行くとき、どうもいい訳がましく、子供じみた駆け引きになってしまう。
奈良市街の東北、般若寺のある奈良坂から国道を柳生方面にとる。新緑のまだ淡さが目立つ山間の樹林を左右に見ながら10分ほど走れば、静寂で優雅な佇まいの寺が現れる。これが忍辱山(にんにくせん)円成寺(えんじょうじ)である。
国道端に車を止め、寺の方に下りていくとすぐ目前に緩やかな水を湛えた浄土式庭園が広がる。苑池の向こうには形のよい楼門が最高のロケーションで建っている。
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| 庭園越しの楼門 |
この庭園は平安末期に寛遍僧正(かんべんそうじょう)が真言密教の教義であるバン字を基調として築造されたと伝えられ、また藤原時代の阿弥陀堂の前につくられる浄土式庭園を基盤としたものである。平安時代から鎌倉時代にかけて、流行した寝殿造系庭園の配置を備えた全国でも有数の名園のひとつであるらしい。
と、庭園を眺めていると、周回の小径の茶店から甘辛い香ばしいにおいが漂ってきた。どうやら、みたらし団子とかぜんざいとかを食べさせてくれるらしい。
何か、食べようか?
うん!
よしよし、意見が一致した。先ずは花より団子、腹が減っていてはハートもま〜るくはならないのだ。僕と僕の奥さんは店内に腰掛け、よもぎ餅をほおばった。(ほんとは僕は甘いもの苦手なんだけど・・・。)
円成寺(えんじょうじ)には多くの文化財が残る。国宝仏の大日如来坐像、国宝建築の春日堂・白山(はくさん)堂、重要文化財の本堂、本尊の阿弥陀如来、四天王、楼門、宇賀神本殿などである。しかし、その歴史は平坦なものではなかったようだ。
円成寺の開創は天平勝宝8年(756)聖武・孝謙両天皇の勅願により、鑑真和上の弟子・唐僧虚滝(ころう)和尚の開山であるとも、延喜年間(901〜923)とも伝えられるが、史実的には平安中期の万寿3年(1026)命禅(みょうぜん)上人の開基とする見方が正しいようである。阿弥陀仏を本尊として祀るようになったのは12世紀初期のことらしく、ついで仁平3年(1153)入山した寛遍僧正が真言密教の一派忍辱山流を始めるに及んで、伽藍や庭園を整備したと伝えられている。
平安末期から鎌倉時代には仏像や堂塔が数多く造られ、国宝指定の2件やはこの頃のものである。しかし、文正元年(1466)兵火にかかり、伽藍の大半を失ってしまう。その後、応仁の乱の影響もあって寺観を復したのは16世紀前半になってからである。このとき再建された本堂と楼門(ともに重要文化財)が現存している。
江戸時代に入って、将軍の殊遇を受け寺領235石寺中23寺を持つ一大霊場となるほど栄えた。ところが幕末の動乱と明治の廃仏毀釈以降は衰退の一途をたどり、明治10年(1877)には本堂・楼門・護摩堂・観音堂・鎮守三社を残すのみとなった。戦後宇賀神本殿の解体修理をはじめ主要建物のほとんどが改修・整備され今日に至る。
境内にはいると、紫陽花やシャクナゲの花に囲まれて、多宝塔が建つ。この多宝塔は平成2年(1990)に落慶した3代目の塔である。初代の塔は文正元年(1466)に焼失し、2代目は大正9年(1920)鎌倉に譲渡されという。まだ朱塗りの鮮やかなこの塔の中に国宝・大日如来坐像が安置される。
大日如来坐像は多宝塔の本尊、密教最高最尊の根本仏である。ガラス越しの暗い塔内を覗き込むと、目が慣れるにしたがい極彩色の仏画を背景に優美で尊厳な姿が浮かび上がってくる。
写実と偶像をみごとに融合した造形だ。
頭上には髻を結い、宝冠を乗せる。顔は優雅な曲面で構成され、眼にはに玉眼を入れる。いかにも生を宿したかのように引き締まった表情がこの像の最大の美点だろう。眉と対称的に弧を描く切れ長の目、女性的な鼻梁と唇が理知的に写る。胸元で結ぶ智拳印(ちけんいん)は、まるで母性のような柔らかさと暖かさがある。全体的に均整のとれた、写実美溢れる像である。かといって、写実だけにとどまらず目には見えない尊い力を全身から醸し出しているのである。作者はより人間の姿に近づけながらも、尊厳さを逸しない仏を表したかったのだろう。たしか、大日如来像で国宝に指定されている仏はこの一躯のみであったと思うが、その冠に違わず、また数ある国宝仏の中においても比類なきものであると思う。
像は像高98.8cm、木造・檜の寄木造で漆箔仕上げである。国宝の指定は平成5年(1993)と比較的新しい。僕はこの像が見た目に損をしている部分があると思う。それは顔の金箔の剥落ぐあいである。仏像の文化的価値は、その顔の美しさに負うところが大きい(と思う)。左眼周囲と右頬に残る金箔が、拝する者にとって像の表情を分かりにくいものにしているのは残念に思う。もっとも、目鼻立ちのくっきりとした表情だから、その部分を無視してみれば、像の本当の美しさに近づけるはずだ。
大日如来が結ぶ智拳印は両手とも親指を拳の中ににぎり、左手の人差し指を立ててその第一関節までを右手の小指でにぎり、胸の前におく。密教の教主である大日如来の智慧をあらわしたもので、深い思索から行動にうつる一瞬をとらえたものだといわれている。また右手は仏を左手は衆生(人間)を表わし、両手をあわせることで仏と衆生が一体になるという。
大正10年の(1921)の修理の時、台座の蓮肉頂板裏の銘文は発見され、造立は日本を代表する仏師の一人運慶であることが分かっている。造立時期は安元2年(1176)、運慶がまだ二十歳代、彼の作品としては最も初期のものである。
平安後期の仏像に多く見られる穏やかさをとどめながら、細部に至るまでの写実的表現は、その後、彼自身の創り上げた鎌倉彫刻文化に受け継がれ、そして現代に日本の彫刻文化として残された。
やはり、運慶は天才彫刻家なのである。
| 運慶の主な作品 |
| 奈良 |
東大寺 |
南大門 |
金剛力士立像 |
1203 |
国宝 |
| 俊乗堂 |
俊乗上人坐像(※) |
13世紀前半 |
国宝 |
| 興福寺 |
北円堂 |
弥勒仏坐像 |
1212 |
国宝 |
| 無著菩薩・世親菩薩立像 |
1212頃 |
国宝 |
| 和歌山 |
金剛峰寺 |
八大童子立像(※) |
1197 |
国宝 |
| (※)は運慶作と推定あるいは伝承されるもの |
円成寺本堂の東側の一段高い石垣の上に春日造の社殿が二社祀られている。春日大明神・白山大権現を奉祀する円成寺の鎮守社、春日堂と白山堂である。本来は神社社殿であったが、神仏分離令により明治以降「社殿」を「堂」と改称したものである。
この2つの堂は鎌倉初期の安貞2年(1228)奈良春日大社造営の際、当時の大社宮司・藤原時貞が旧社殿を拝領して、子院として移築したものと伝えられる。したがって建立は安貞2年より少し遡るものと考えられる。身舎の一辺が1.1m、軒の高さが僕の頭位置くらいの、まるでミニチュアのような大きさである。
2つの堂は同規模同形式のもので、堂間は袖板壁(そでいたかべ)で繋がれている。正面向かって左側が春日堂、右側が白山堂で、国内最古の春日造社殿である。
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| 春日堂と白山堂 |
春日造は春日大社に始められた形式で、大社造や神明造と比べるとずいぶん規模が小さい。その特徴としては、桁行一間・梁間一間、切妻造・妻入の身舎正面に方柱の庇をつける。また柱が井桁に組んだ土台上に立つのが他形式と異なる点である。これはこの形式の本殿が元来は固定された建築ではなく、必要に応じて移動できる建築であったことを示唆するもので、神が一時的に臨降されたときに備える建築であったと考えられている。このほかに屋根の破風板に反りがあること、木部が素木ではなく赤色に塗られていることなどが特徴としてあげられる。
春日大社では身舎、庇とも柱上に舟肘木をおき、軒は身舎を繁垂木(しげだるき)、庇を疎垂木(まばらだるき)としているが、この春日堂・白山堂は少し違っている。ここでは庇の組物が(舟肘木ではなく)三斗で中備(なかぞなえ)に蟇股(かえるまた)が置かれ、庇の軒も繁垂木になっている。また身舎柱だけ土台にのる春日大社と異なり庇柱も井桁状に組んだ土台の上に立つ。
屋根は切妻であるが正面は庇があるので入母屋風になっている。檜皮葺で棟には両端に千木と三本の鰹木がのるが、明治時代には神社社殿ではない証として取り外されていたらしい。
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| 白山堂正面 |
庇の三斗と蟇股 |
(背面)井桁の土台、
切目長押、内法長押 |
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| 舟肘木 |
豕扠首、化粧棟木
破風、猪目懸魚 |
高欄 |
身舎柱は円柱で切目長押と内法長押(うちのりなげし)で固められる。正面には板扉を吊り、背面と側面は板壁とする。縁は正面のみに設け、木階(もっかい)をつけ高欄を廻らす。柱上には舟肘木と桁をおき、これに直行して虹梁を組む。通常なら舟肘木と桁は別材を用いるが、ここでは一材でそれを造っている。小建築であるがゆえにできる技であり、この方が強度的には有利である。そして、虹梁の上に束を立て斜材を入れた豕扠首(いのこさす)で、舟肘木造り出しの化粧棟木(けしょうむなぎ)を受ける。ちょっと確認しづらいが桁、化粧棟木ともに両端に反りと、成(せい)の増し(高さを増すこと)があり、その上に架けた化粧だるきの反りも大きい。
春日堂と白山堂は小さな建築で、多くの国宝建築の持つ壮大さはないが、小振りなりに小気味よく、明快な主張をしているような印象を受ける。
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| 本堂 |
楼門 |
おなか空いたね。
時間はお昼をとっくに過ぎてしまった。朝ご飯が早かったもので、よもぎ餅ひとつだけでは余計に空腹感を増幅させてしまったみたいだ。これくらいにしておかないと、いくらできてる僕の奥さんでもそろそろしびれを切らす頃だ。
僕は、春日造風で妻入の珍しい形の本堂と、豪快なシルエットの楼門(ともに重要文化財)に少し心を惹かれながらも、円成寺をあとにした。
今日はたくさん国宝が見られて、よかったよね。
・・・・・・・。
お昼ごはん、お鮨でも食べようか?
うん!
またしても意見は一致した。
もちろん僕の得意とするところは、回るほうの鮨である。