一冊の本


 
緑雨がポツリポツリと雫を落としていた或る日のこと。
                                     


いつも職場で会うときとは面持ちが違うような彼女の表情から、何かあるなっ、と感じ取った僕。
彼女はサクランボジャムを紅茶に入れスプーンでそっと混ぜながら、少し考えている様子だった。
傍らのシートに置いてあった紙袋から一冊の本を取り出して、ゆっくり話し始めた。

                                       


この本、読んでみて。うちの本棚にあったのよ。おばあちゃんが大切にしていた本でね。読みやすくて、全部仮名がふってあるから、ぜひ読んでみてねっ。

それだけを告げると、せっかくのサクランボティーも飲まずに、サッと席を立って行ってしまった。
残された僕は、彼女が食べなかったケーキまでも食べる羽目となった。
それはともかくとして、テーブルに置かれた本を手に取ってみると、とても年期が入っていて、ところどころ擦り切れてはいたが、とても大切に保存されていたであろうことがうかがえた。

古書 樋口一葉全集 だった。


索引を辿ると、国語の授業で暗記させられたタイトルが並んでいて、頁を繰ると本当に全てにカナがふられていた。
けれど、僕の錆びついた頭脳はギクシャクと軋んだ音を響かせた。
明治の言い回しをすんなりとは受け入れられず、活字を追う眼は微かに逸れつつも、何とか理解しよういう意欲が不思議と湧いてきた。
次第に、樋口一葉の人となりも今更にして追ってみたくなり、近くの図書館で軽く調べることにした。


明治の生んだ天才  24歳没  
つつましく見え、ときに大胆。 心根は優しく、ときに辛辣。 


インターネットが普及している現代は、なんと便利なことだろう♪


        


数日して、彼女からメールが届いた。


「どう?読み応えあるでしょ? 僕ちゃんには、ちょっと手強かったかな?」

「むむっ、いやいや、なんのなんの!!」 と僕はスグに返信した。

正直なところ、古書はかなり手強かったが、それにも増して彼女がなぜ、僕にこの本を読ませたかったのかが分らなかった。
彼女は何を僕に伝えたいのだろう。。単に、本棚に眠る思い出の古書を、職場の同僚に読ませてみたくなったのだろうか?


僕はありったけの想いをめぐらし考えた。
妙な期待感が頭をもたげ一人ニヤニヤしたかと思いきや  万が一、笑い飛ばされたら一生の不覚だよなぁ〜と勝手に谷底へ落ちていくような気分になったり、そんなことを交互に繰り返し味わっていた。


       


人は、自分の大切なものを、特定の人に渡すとき。。何かのメッセージを込めることが多い。
大切な物は、手作りの品物だったり、自分の心を映す石であったり、綺麗な貝殻であったり・・さまざまで、彼女の場合は「古書」だったんだ。

でも、彼女のメッセージが霞に煙るようで、僕は自分の心に自信が持てない。

じゃぁ、僕は・・・僕の大切なものは・・特定の人に渡したい大切なものは何だろう?・・・
それは、共に時を刻みたいから時計かな。
そうだ!休み明けに出社したら、互いの大切なものについて話すのも「楽しい時」を過ごせるはずだ!


こんなふうに、自問自答したあげくに、独りよがりな一つの答えを出し納得した。


       


長い休みが明けて職場に戻ると、彼女の机が綺麗に片付いていた。

あれ・・彼女は? 

傍らにいた女子に聞くと・・・・ 急な話らしいけど、故郷へ帰るみたいよ。と言う。


僕の心の振子時計は、大きく振り始めた!

あの日、緑雨の降ったあの日、彼女は自分のことを理解してほしい、と言いたかったのかもしれない。
そういえば、彼女は樋口一葉さんにちょっと似ている部分がある!!

つつましく見え、ときに大胆。 心根は優しく、ときに辛辣。

そう、そーなんだ!!
静かな風情もあるけど、大胆な発言もするし、人の気持ちを汲み取れる優しさも持っているけど、すごく生意気なトコもある。  でも、、、彼女がいるとイイ

僕は「共に時を刻みたい人」が、彼女だったことに、やっと気づいた!



古書を手渡された謎も解け、幸せが遠くへ行ってしまわぬうちに、共に時が刻めるように「時計」を持って彼女を追いかけることにしよう♪ そう、僕の時が続く限り・・・・・♪



                          2009.5.6(水) ぷちろーど あき