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※2000年12月23日(土)現在このページが長くなってしまったので「更新履歴」のようにするか、項目事にページを分けるか等検討。その結果可能ならばページの左側に項目を並べた部分を配置し、右側は今のまま年代順に並べてページ左側の項目名をつつけばそこを表示する事が出来るかどうか模索中です※←ページ左側に項目を並べるのは、確かに使いやすく、見やすいのですが「フレーム対応のブラウザ」で無いと見る事ができないそうなのでその方式はとりやめます。2000年12月29日(金)現在では個々にページ分けをする方法を具体的に検討中です。(なるべく多くのブラウザで見ていただきたいのです。もちろん日本語が見られない環境もありますし、(ページタイトルは日本語だと読めない事が多いようです)シフトJISの非共通文字、例えば音符とか”ダガー”とかを絶対に使用しないように気をつけています。))
※2000年12月23日(土)潰瘍性大腸炎関連と精神障害関連を明示して分けるかどうか検討中。とりあえず「○精・○内」などとしようという案が有力※
※トラウマ(心的外傷)・フラッシバック現象(交叉(差)逆耐性)が頻発したため小さい頃(中学生未満の記述は精神科の主治医の指示により当分の間書き込まない(思い出さない)事にします)
○ 幼少の頃
幼稚園に通っていた時の事だと思いますが、近所の公園で野良犬一頭に追いかけられた事がありました。今にして思えば向こうは私に親しみを込めていたのでしょうが私が怖がって離れるとまた、私のほうに寄ってくるのです。私は余計に怖くなり走って逃げ出しました。しかし犬もピッタリ後ろについてきて全く逃げられませんでした。私は自分の家のほうに行き当時公団の団地だったのである階段を上って逃げようとしました。しかし犬も階段を上って来ました。私は犬は階段を上れないと信じていたのでその時恐怖が大変大きなものになりました。その後どうやって助かったのか全く記憶がありません。それから私が最初の公園から逃げている間泣きながら周りに助けを求めていたのに誰も助けてくれませんでした。それ以来だと思うのですが後ろから誰か来ると必ず自分に向かってくると自然に考えるようになりました。
小学校低学年の事だと思いますが私は自転車に乗って帰宅中右に曲がろうとしたときに前から学生服を着た中学生か高校生が自転車で走って来ました。私は自分が右折なので彼が通過するのを待っていましたが、彼は私のすぐ横で突然停車し私の顔に「つば」を吐き私の顔を殴りました。彼はそのまま走り去りました。私はその時彼に向かって何か怒鳴った事を覚えていますが彼はそのまま行ってしまいました。泣きながら家に帰り親に話したらすぐに警察に連絡していたようでした。私を殴った奴は私が自転車ですれ違うときに「がんをとばされた」と勘違いしたのだと思います。それ以来前から来る人の顔をまっすぐ見る事は客観的に説明のつく事のない限りまっすぐに見る事が出来なくなりました。
○ 小学校のとき何回か学校から何も持たずに家に帰ってきた事がある(調査中)
○ ひきこもり・逃避(現実逃避)の時期
1982年04月大学入学。大学はとても開放的で今まで毎日「勉強勉強!」という生活をしていたのが嘘のようだった。(実際にはそう思っていただけで実際にはそんなに勉強してませんでした)実際に自分も開放的な気分になり講義をサボったりして2年に上がれず留年。もう一回1年生をする事になった。留年した事について特に罪悪感や嫌悪感などなく、開放的な気分は変わらなかった。次の年は無事?に2年に上がれたが相変わらず開放的な気分は抜けなかった。高校の終わり頃から当時「プログラム電卓」と呼ばれていたものにのめり込んでいました。大学に入ってからは実家でパソコン「初代PC-9801」という今から思えば骨董品いや、博物館もののバソコンを買ったのでそれにのめりこむようになりました。大学も在籍4年を過ぎてしまい卒業単位を取るのは自分では絶対に不可能だと思いました。しかし、親等は大学は絶対に卒業すべきだと言い、私は大学を辞めたくなりその間に挟まって「ひきこもり」と「逃避(現実逃避)」が本格化しました。夕方になると起き出してパソコンを朝までいじっていました。そして昼間寝ていました。たまに目が覚めて外を見ると深く青い空に白いはっきりした雲がゆっくり移動して行くのを何時間も見ている事も有りました。
○ 逃避(現実逃避)について
(※しばらく御待ちください※)
○ ひきこもり・逃避(現実逃避)の時期つづき
私は「建築工学科の構造系」だったのですが大学に行くとしても電機工学科の或る研究室に入り浸っていました。そこの研究室の研究生用のロッカーも自分専用のものを割り当ててもらっていたほどです。その研究室の先生は私に「君が悪いのではなくて、君の生まれてきた時代が悪かったんだ」と言われました。その時は現実逃避をしている私を慰める意味の言葉だとずっと思っていました。最近ホームページを書くことを決めた頃に別の意味も込められていると感じるようになりました。テレビで「ひきこもり」を取り上げた番組を見て、「私は或る意味で彼等(たまたま女性の人を取材していなかったので「彼」と書きます)とまったく同じ境遇である。もし私が潰瘍性大腸炎が治ってしまったら自分は社会復帰出来ずにひきこもりになるだろう」と非常に強く感じ、危機さえ覚えました。その時私は潰瘍性大腸炎が完治することに非常に恐怖を感じました。そのことについては別項目として詳しく取り上げます。つまり「私の生まれてきた時代が悪い」というのは自分が働いたりする事の出来る社会がないという意味だったのです。しかし、実際にはそうなりませんでした。
○ 働き始めてから
私は大学に在学中から大学の外で或るパソコン同好会に入っていました。私まだ大学を辞める前からその同好会で知り合った人のところでバイトをしていました。会社をはじめたばかりで社員はおろか社長とバイトの私二人しかいないとても小さな会社でした。仕事は主に「自動機」のソフトを作るというものでした。「自動機」の説明をしておきます。工場で部品や製品を作るための無人で動く機械の事です。実際の工場では材料を供給する人、機会のメンテをする人、出来あがった部品または製品を機械から取り出し梱包したりする人。が働いている事が多いです。さらに自動化が進んだ工場では材料は前工程の機械が供給し、部品または製品は次の工程へ別の機械が運んでいきます。それでもメンテする人は必要です。工場ではそう言う人達を「施設」とか「設備」とか呼んでいます。私は大学を中退する前からその小さな会社でかなり働いていて、大学を辞めた時も特に生活に変化があった訳ではありませんでした。私は「ひきこもり」にならず自分が生きていける社会にすでに入っていたのでした。
○ 会社は大きくなっていった、が倒産した
当時大企業の設備投資は多く、仕事はどんどん増え、私もバイトから社員に昇格しました。社員も増え行きました。いわゆるバブル経済の頃は会社はぼろ店舗(大家さん失礼)からJR駅前の新築のビルの1フロアに移り社員も社長を入れないで五人もいました。社会保険にも正式に入りました。しかし、景気は極端に衰退しおごれるものもひさしからずで会社も今で言うリストラをはじめました。私は1992年ごろには会社を辞めたいと意思を表明していました。ある日社長が社員を集めて「今辞めてくれればボーナスつけるよ」といったので私は迷わず手を上げました。しかし私を辞めさせたくないらしく、聞き入れられませんでした。他の社員2人が辞める事になりました。1994年の12月に私は退職しました。会社はその後とても交通の便の悪いところに引越し(全員が自動車通勤だったのであまり関係ないのだろうが)数年後に破産。社長も行方不明。私に口約束で払うといっていた退職金も持ち逃げされたことと同じ事になりました。最後まで残っていた社員は本当に気の毒でした。現在でも社長以外の人とは連絡が取れ、横のつながりは残っています。
○ その後
以前からの付き合いのあった会社数社から直接・間接に仕事をもらったりして自営の状態が続いていました。しかし1995、6年頃から朝起きたときに前の日に寝たときよりも疲れがひどくなる状態が毎日続き、最後にバイトしていたところも急に胃がひどく痛くなり治療をしましたがバイトに行こうとすると胃が痛くなるのでバイトを止めました。急に胃が痛くなるのもなくなりました。その後また昔の会社付き合いのあった会社の仕事をしていましたが疲れが日常的にひどく一月に100時間働くのがやっとでした。
○ 始めて精神科に行く
1997年1月 あまりにひどい疲れのため自分から精神科(いわゆる精神病院)へ行く。普通の人が自ら精神科へ行く事はとてもまれらしく普通は他の病院の紹介とか家族が無理やり連れてくるらしい。私はそのことで病院側にとても特異に見られたようだ。初診なので面接・尿検査・血液検査を行い心理テストの予約をする。淋病・梅毒の検査をされる。なぜかと聞いたら「淋病・梅毒の人は鬱(うつ)病であることが多い」といっていたが、まるで私が性犯罪者の疑いをかけられているようでいやだった。心理テストは「ロールシャッハテスト」だった。私はほとんどの模様が目や顔に見えた。絵ににらまれているとさえ感じた。検査やテストの結果通院とカウンセリングを受けることになった。心理テストの結果を聞くと、「自分の攻撃性が制御出来ない。人から受ける攻撃性に対して対応できない」というような説明をされたと思う。とりあえず抗うつ剤のミラドールとデパス、睡眠薬としてレンドルミンをもらった睡眠薬のおかげで朝起きたときに寝る前より疲れていた今までより疲れがとれるようになった。
○ 腎臓結石
1997年12月07日(日)腎臓結石になりました。とてもいたかったです(涙)結石は米粒大でちょうどCTで撮影する日の朝尿をしたときにいきなり「プチッ」という感じで出てきました。私は小さいとき大学病院の検査で尿道から膀胱まで管を入れられて検査を受けた事があるのです。その時とてもいたくて何回も泣きました。検査の結果は何でもなかったのですか゛悲劇はその後襲ってきました。尿をするときに死ぬほどいたいのです。我慢すると膀胱が破裂するし尿をすれば痛いし。これはいじめとちゃうかと思ったほどです。何日かしてやっと痛くなくなりましたがその時から尿道が太くなったような気がするのです。今にして思えば確かに小中学校等で尿をすると他の友達より終わるのがすごく早かったのです。量が少ないわけではない事も解かっていますので尿道が太いのは本当らしいです。それで米粒大の大きな結石がいとも簡単に体外に出たのでした。私の大学時代の友人が腎臓結石になってさらにその後膀胱から出るのに今度は尿道結石になってものすごく痛かったそうです。
○ 潰瘍性大腸炎発症まで
1997年暮れ後よりひどい風邪をひく。ほとんど水のよう下痢はワイン色ではなかったのでインフルエンザではないと判断したが正月前後から水様性下痢が一日20回以上続く
1998年初頭〜6月位風邪は治ったがひどい下痢が毎日続く(一日10回以上)
1998年6月〜7月下痢便に鮮血が混じり始める。さすがに内科に行ったら「外科か肛門科にいきなさい」といわれたので私は野性的な勘で大きな病院の外科を受診する。外科の初診の医師は私が症状を口頭で述べただけで潰瘍性大腸炎だとわかったらしい。後で解かった事だがその病院ではすでに数十人の潰瘍性大腸炎の患者さんがおられるようです。私は外科の指示ですぐに内科に行き大腸ファイバー検査をして腸の組織を検査した結果、潰瘍性大腸炎であることが判明した。内科の主治医はすぐに保健所の特定疾患受給者の申請をするように指示したので保健所に行き手続をした。
1998年09月01日(火)より正式に「特定疾患受給者票」を受ける
○ 潰瘍性大腸炎発症から 〜闘病記〜
1998年09月07日(月)から内科的治療がはじまる。投薬はサラゾピリン 6錠 ラックビー(整腸剤)であった。詳しくは→投薬履歴を見る
血便はいつのまにか止まっていたように思う。記憶がまったくない。
1998年12月03日(木)大腸ファイバー検査の結果サラゾピリン 8錠 に増える。炎症があまりおさまらかったらしい。血便はとっくに止まっていました
1998年12月24日(木)プレドニゾロンの投与始まる。 朝食後3錠、昼食後1錠 計20mgである。一般に一日の投与が20mgを超えると副作用が出やすいらしい。注意が必要である。
1999年01月07日(木)プレドニゾロンの量が増える。 朝食後6錠、昼食後2錠 計40mgである。副作用に注意である。
1999年01月28日(木)プレドニゾロンの量が少し減る。 朝食後4錠、昼食後2錠 計30mgである。副作用に注意である。
1999年2月〜3月初頭 ちょうど在宅の大きな仕事があり容体・疲労がみるみる改善された。
1999年3月中旬 現場に入ったので疲労やストレスが極端に悪化。内科主治医は投薬をペンタサ9錠に変更。プレドニゾロンは30mg変わらず。
ペンタサに変えてから昼間眠く、朝も早く起きられなくなった。
1999年04月08日(木) プレドニゾロンの量を1日20mGに減らした
1999年04月09日(金)昼間眠く、朝起きられなくなったので睡眠薬をレンドルミンより短期型のハルシオンになる。
1999年05月06日(木) プレドニゾロンの量を1日5mGに減らした
1999年07月08日(木) プレドニゾロンを停止した
1999年07月16日(金)睡眠薬をハルシオンに変えたのだがそれでも朝起きられないのでアモバンに変わる。アモバンは超短期型だが味覚障害が起きるとされ、私の場合「炒った」ものの味が極端に強調され麦茶がブラックコーヒーくらい苦く感じた。あと、燻製品やかつおダシの炒った味が強調された。なぜか牛乳だけが苦かった。他の食品は味は全然変わらなかった。
1999年09月上旬 仕事で現場に出無理をしてしまい急性胃腸炎になる。内科医師はこのことをとても恐れていたようだ。投薬が追加になる
○ 生活保護の準備を始める
2000年05月位に主治医から生活保護が受けられると初めて教えてもらった。以前自分の母が福祉事務所で私が生活保護を受けられないかと聞いたときには当時自分が精神的に障害があることがわからなかったので潰瘍性大腸炎だけで説明したのだが「実家の年金等で養えるでしょ」と門前払いをくった事もあって自分が生活保護を受けられるなんてとても考えられなかった。後から思えばもっと早く申請できていたはずなのだがどうしてその時の主治医はもっと早く教えてくれなかったんだろう。親に大変な迷惑を掛けてしまった。(一月辺り十数万円以上差額が発生しているのである)とにかく、福祉事務所へ出向き準備を始める。→生活保護について
○ 生活保護の申請をする
2000年07月10日(月)正式に生活保護の申請をする。生活保護は申請日から有効である。→生活保護について
2000年07月14日(金)月頭より睡眠が浅くなり朝起きたときに寝る前より疲れるようになった。生活保護の準備といろいろな不安が多かったためだとおもわれる。朝起きなれなくなり起きる夢を何10回以上も見るようになった。
朝起きる事が困難になっていたので睡眠薬にドラールが追加になる
2000年07月21日(金)生活保護が決定となる
2000年08月04日(金) 朝起きる前に夢を見て非常に疲れる。レム睡眠(夢)を押さえるため四環系抗鬱(うつ)剤のテトラミドが追加になる
2000年08月18日(金) テトラミドがあまり効かなかったのでレム睡眠(夢)を押さえるため三環系抗鬱(うつ)剤のトフラニールが追加になる
○ 突然キレるようになる
2000年10月初頭から風邪をひく。血圧が上も下も20くらい上がってしまった。心拍数も高くなり横になっていても以前の60回/分から120回/分と倍くらいになってしまった。風邪はほぼ一月で直ったようだが血圧・心拍数は下がらなくなっている。そのせいかどうかはわからないがキレるようになってきた。家の前を不法改造車がやかましくして人に迷惑をかけながら走っているのに腹を立てものすごい大声でどなってまった。数週間後に別の不法改造車が通ったときにも同じ事をしてしまい、11月07日に精神科の受付をしたときに喫煙所出ないところで(目の前で)タバコを吸っていた患者にものすごい大声で「ここでタバコすってんじゃねー、喫煙所ですえよ」と怒鳴りつけてしまった。病院の受付と薬局の人は私が怒鳴ったところを見たことが無かったのでとても驚いていた。他の患者や付き添いの人は特に驚いていなかった。ここは「精神病院」だなと改めて認識した。でも、スタッフの人が驚いているのには私は意外だった。私は「おとなしい明るい患者」だと思い込まれていたようだ。
2000年11月01日(水) ペンタサ6錠に変更。昼間眠くなるのが大幅に減少し朝起きられるようになる。
○ 心身症だとわかる
2000年11月07日 精神科で自分の病名が心身症であるとわかった。それとは別に最近「無遊」の症状が現われているというので急きょCTで脳の断層写真をとる。30才台後半で無遊を発症することはありえないそうなので脳に変化がある疑いがかけられたためである。睡眠薬と併用していたトラフニールは中止となる。
○ 脳はとりあえず異常無し。
2000年11月10日 断層写真の結果では異常無しだそうです。一安心ですが「無遊病には気をつけてください。2階に住んでいますか?1階なら落ちる心配は無いですね」と言われました。でも、自分でどうやって気をつけるのでしょうか。家の中に「鳴子」やトラップを仕掛けろっていうのでしょうか。またビデオでも撮ればいいのかな?
○ 夢遊病が発症しているようだ。
2000年11月中旬 最近寝ているとき夜中に突然大声で叫んだり、突然上半身を起こして何かを拒絶したりしているようです。叫んだとき朝になって何か叫んだ記憶がなんとなくあるだけで他は全く思い出せませんでした。何かを拒絶したときは次の日にたまたま見ていた人に指摘されましたが全く記憶がありません。精神科の主治医は夢遊病が発症していると言いました。10歳台後半位に何かあったのかも知れないと言われました。自分が高校生の頃は特に何もなかったような気がするのですが、大学に入ってから1年生を留年して2回やり、引きこもりになり結局中退してしまいました。引きこもりのときものすごい現実逃避(自分は単に「逃避」といいます)と鬱(うつ)状態が有りました。それが主治医のいう原因なのかも知れませんが、結論を急ぐべきではないと思います。(自分では疑わしいとおもいますが。)
○ 以降経過
2000年12月01日(金) イライラしてキレてしまうことが多くなったのでレキソタンが頓服として追加。効果は大きくイライラしていたのが嘘のように落ち着く。ただし、突然キレたり以前受けた心的外傷の様なものを思い出すとその時の状態になってしまいレキソタンを飲んでいてもどうする事もできない。
2000年12月06日(水) 空腹時の胃痛が比較的良くなったためセルベックスの服用が中止になる。
内科の投薬が減って大分嬉しい。潰瘍性大腸炎自体は見かけ上よくなっていると思える。
○ 精神安定剤が常時投与となる
2000年12月22日(金) 12月01日(金)の話と最近寝入り後約1時間後に夢を見たりしてびっくりして突然叫んだり何か大声で言葉をしゃべる(夢の中の会話が現実に声を出してしまう)を精神科の主治医と話し合った。はじめは「睡眠薬飲まなくても寝てしまうときがあるから(ペンタサを減らしたからです)睡眠薬減らしてくれ」といったが結局睡眠薬は変更なし。その代わり頓服のレキソタンが多く出され、なおかつ一日3回食後にレキソタンを飲まなければならなくなった。理由として当初からのカウンセリングの先生が11月21(火)から新しい先生に変わって精神が一時的に大変不安定になっていることもあると思う。主治医もそれを否定する事は出来なかった。詳しくは→投薬履歴を見る
○ 泌尿器科で頻尿用の薬をもらう
2000年12月27日(水)内科と泌尿器科に行き、泌尿器科では以前の腎臓結石の事後検査と現在の状況を報告した。その中で自分が頻尿であること等がわかりその対策としてアポラキートを服用することになる。
○ フラッシュバック等を引き起こす可能性のある書きこみを一時控えます
2001年01月05日(金)精神科の主治医より、小さい頃の怖い思い出をホームページに書き込んでために「フラッシュバック」を始めいろいろな悪影響が出ていると指摘されました。確かに最近とても精神がもろく感じます。主治医は怖かった事等を書くべき出来ではないとしたので、当分の間影響のありそうな書きこみを完全に控えます。潰瘍性大腸炎自体の経過に付いては従来通に書きこみを行います。
○ 尿失禁になる
2001年01月05日(金)精神科の診察の結果投薬が増えました。コントミンという薬です(詳しくは→投薬表を見る)。精神分裂疾患用の薬ですが私は精神分裂ではないとはっきり言われました。ただ、幻覚や妄想はあります(幻聴はありません)。そしてコントミンを飲んだ次の日の朝、尻のあたりが妙に冷たいので始めは潰瘍性大腸炎の出血かと思い焦りましたが、良く調べて見ると尿を漏らしていたのでもっと焦りました。(コントミンの副作用です)すぐに布団を乾かし、風呂に入りました。風呂に入った後もう一回寝てしまったのでまた漏らしてしまいました(涙)。また、布団を乾かし、風呂に入りました。主治医に電話をして聞いて見ると今日は薬を飲んで尿失禁になったら薬を一時停止してくださいとの事でした。今日はシーツの下に黒いビニール(旧ごみ袋)を敷き、ブリーフの古いのを2枚履き、子供用オムツを使用して万全を期します。とにかく、意識が無い間は常に漏れつづけているようです。(徹夜して寝ないと言う方法もありますが結局後で死ぬので諦めるしかないです)
○ 尿失禁は何とか止まりました
2001年01月27日(土)コントミンが増えた時も一旦止まった尿失禁がまた復活しました(また泣いて帰りました)が、数日で出なくなりました。要するに慣れなんでしょうか。とにかくコントミンはものすごく眠くなります。睡眠薬より良く眠れます(汗)
○ コントミンの量を調整できるようになった
2001年01月30日(火)コントミンの服用量を自分の判断で12.5mgか25mgかを選べる様になりました。25mgを飲んでものすごく眠くなったり、歩行困難を起こしては困るときには12.5mgを服用します。
○ 自分の精神科の病名について
2001年02月06日(火)精神科の主治医の見解によれば自分は「心身症」「神経症」「自律神経失調症」といえるそうです。きろろの意思として主に「心身症」ということにしましょう。表紙(トップページ)の見だしの飾りを【『潰瘍性大腸炎』と『心身症』と『神経症』と『自律神経失調症』のきろろのページ】に変えるのもどうかと思います。
○ コントミンの副作用に悩まされる
2001年02月09日(金)最近特にコントミンの副作用と思われる症状が出ます。繰り返しになりますが食後に横になるといつのまにか何時間も寝てしまったり、(次の日になっている事もあります)尿失禁が出たり、二番目に困るのは歩行困難です、最近出た症状は腰痛・背痛です。朝起きたときと、コントミンを飲んでうっかり寝てしまった後で腰と背中が腰痛又は神経痛の様にものすごくいたみます。痛くて起き上がる事はおろか寝返りもうてません。さらに左足の膝の裏からアキレスけんに掛けてつります。ものすごく痛いのですが身動きが取れずどうしようもありません。痛くて昼間でも身体を後ろに反らせません。一番困るのは歩行困難です。例えば腰が抜けたように歩くときに足の筋肉に力が入りません。少しは歩けますが長時間座らないで居るのは不可能です自分の家は幸いにもバス停に大変近く本数も多いので何とかなりますが、電車の駅から病院までがとてもきついです。腰痛・背痛は日毎に徐々にひどくなるので今度主治医に何とかしてもらいます。
○ コントミンからニューレプチルに変わったが…その一
2001年02月13日(火)主治医にコントミンはどうも副作用が強いので何か他のは無いかと主張したらニューレプチルというのに換えてもらいました。効き目等はほぼ同じ、系統や分類も同じようなところに属している薬の様です。しかし、13日の昼の分を飲んだ後例によって寝てしまい夜09時過ぎに目が覚めたときはとても背通と腰痛がひどく痛みました。それから夕食を摂りまた、寝てしまいました。午前04時に目が覚めて見ると背痛と腰痛はさらにひどくなっていました。が、睡眠薬と2錠目のニューレプチルを飲んで寝たら14日(水)の14時頃まで起きられませんでした。時々目が覚めますが午前04時位から喋れなくなっていたのとものすごい背痛・腰痛で身動きが取れませんでした。実家に連絡して福祉事務所にどこか整形外科か整体が無いか聞いてもらったら、逆に実家から主治医にまず症状を言いなさいといわれたので主治医に連絡して結局コントミンとニューレプチルはしばらく服用停止になりました。
○ コントミンからニューレプチルに変わったが…そのニ
2001年02月14日(水)とにかく背痛・腰痛がひどいし、尿失禁(涙)もあったのでので風呂に入りました。背痛・腰痛はかなり緩和させましたがまだかなり痛かったです。夕方たんが絡んだが吐き出せず3回胃の中のものを吐いてしまいました(泣き)らちがあかないのでもう一回お風呂に入りました。鼻は何とか通るようになりたんも出せる様になりました。腰痛・背痛もさらに緩和されやっと普通に生活できる様になってきました。しかし、悲劇はこの後、夕食後に起こるのです。
夕食後に横になっていたら急に鼻で呼吸が出来なくなってしまいました。鼻が詰まっているわけではなく、何かの筋肉が気道を止めているのです。しかたが無口息をしましたがその時に限ってあごの筋肉が不随意に動いてつりそうになるのです。呼吸はしなければいけないし、あごは言う事は効かないし、一時はどうなる事かと思いました。やっとの思いで実家に連絡し内科でいきつけの大病院へ搬送してもらい、大事にはいたりませんでした。寝ているときだったら窒息の恐れがあったからです。
○ コントミンとニューレプチルの服用をやめたら
2001年02月15日(木)以降背痛・腰痛が全くなくなりあごの不随意運動による歯痛を治療中です。とにかくとても元気になりました
○ 精神の病気の起源(原因)
2001年02月20日(火)精神科で主治医と話し合った結果きろろがいつ病気(精神障害)になったのか結論が出ませんでした。現在から過去へさかのぼって見ると大学の時にはひきこもり、小学校の時は学校から逃亡したり先生や他の生徒とのコミュニケーションがうまく行かなかった事がわかっています。さらに幼稚園になかなか行きたがらなかったそうです。(自分でも記憶があります)要するに生まれつきか幼い頃に何か恐ろしい目に遭い(記憶が全くありません)現在の精神障害の原因がその頃からあったとするのが事実に最も一致します。だから自分がおかしいと気付くのに大分(何十年)もかかったのだと思います。今でも自分の性格は病気や障害ではなく「個性」だと信じています。しかし、実際にはこのままでは「社会に出て会社で働く事は絶対に不可能」なのだそうです。自分は潰瘍性大腸炎でありながらもとても元気で性格も明るく身体もピンピンしているのに生活保護がいとも簡単に受けられたのはそういう理由だったのです。その時は私に精神的ショックを与えないために関係者が「絶対に働けない」とか「心身症」であるとかいうことを気を使ってわざといわなかったのだと推測しています。現在はそんなにショックではないし、仕事がないのに元気だという理由で生活保護が受けられなくなくなってしまう恐れが全くなくなりかえって確実な安心感になり、精神的にも不安要素が減ってかえって良かったと思います。原因が全くわからないので治療には何年かかるかわからないそうです。潰瘍性大腸炎の方が先に治ってしまいそうです。
○ 潰瘍性大腸炎はより緩解している様です
2001年02月21日内科の投薬に変化がありました。胃の薬がザンタックからセルペックスに変わりました。内科の主治医の言うには潰瘍性大腸炎がより緩解している様なのです。
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