シュレーディンガーの猫

シールドされた箱に猫を閉じ込めます。この箱の中には次のような仕掛けがし てあります。ごく少量(一時間に原子一個が崩壊するかしないかくらい)の放 射性元素の入ったガイガー計数管があり、そのガイガー計数管が放射線を検出 するとリレーが働き、そのリレーを通してハンマーがフラスコを割ります。フ ラスコには青酸カリが入っており、洩れると猫を死に至らしめます。もし、放 射性元素が崩壊しなければフラスコはそのままで、猫も生きたままです。

量子力学によれば、放射性元素の状態は、観測されるまでは崩壊する前の状態 と崩壊した後の状態との重ね合わせになっています。したがって、この系全体 (放射性元素、ガイガー計数管、リレー、ハンマー、青酸カリ、猫、空気その 他もろもろを含めた系)に量子力学を適用すれば(すなわち、その系全体をハ ミルトニアンで記述し、シュレーディンガー方程式を解けば)、放射性元素の 各状態に対応して、生きたままの猫から死んでしまった猫までのさまざまな猫 の状態の重ね合わせ状態があらわれます。ところが、このような状態を見た人 はいませんから、観測者がこの箱を覗いた瞬間ある特定の一つの状態に変化し た(波束の収縮が起こった)ということになります。

しかし、そんなことが本当に有り得るでしょうか?観測者が箱を覗く前は本当 に猫は重ね合わせ状態(純粋状態)のままだったのでしょうか?猫の代わりに 我々人間がその箱に入ったらどんなことを経験するでしょうか?生きた状態と 死んだ状態の重ね合わせ状態というのはだれも経験したことがありません。し かし、量子力学によれば、もう一人の観測者が箱を覗くまでは我々の状態は確 定しておらず、その観測者が箱を覗いた瞬間に、いずれか一つの状態に確定す ることになります。

これは、「シュレーディンガーの猫」(1935年、シュレーディンガー)のパ ラドックスとして昔から知られている有名な問題ですが、今日でも物理学者の 間でときどき議論されます。


パリティ4月号(1997年)の記事に「シュレーディンガーの猫は実在する か?」という題の 解説記事があり、そこでこの著者(並木美喜雄)等の論文の紹介(宣伝?)があ りましたが、この著者は学部学生にでもわかるような致命的な勘違いをしており、 今日この論文を支持している物理学者はほとんどいません。(私はこの論文の著 者以外に支持している物理学者を知りませんが、論文になったのだからこの著者 以外にも、少なくともレフェリーになった人は支持していたのでしょう。そのレ フェリー(恐らく日本人)がどんな物理学者だったのかは知りませんが...)

量子力学によれば、測定器を含めた系全体の状態の時間発展はユニタリー変換で 記述され、純粋状態から混合状態へ移ることはありません。ところが、著者等の 計算によると純粋状態だったはずの密度行列がいつの間にか混合状態を示す密度 行列になっています。これは、密度行列の段階で(勝手に導入されたあるパラメ ータについて)平均操作を行うというトリック(量子力学に反する計算)による もので、要するに間違いです。この平均操作は人為的な行為であって、系のダイ ナミックスを記述しているわけではありません。現れて欲しくない干渉項を勝手 に手で消したというだけのことです。

観測過程を物理的な過程と考えるならば、測定装置も含めたマクロな系もシュレ ーディンガー方程式に従っているはずです。シュレーディンガーの猫は結局どう なったのでしょうか?

同解説記事で著者は、多世界解釈については信じる信じないの問題であるとして います。また、別の解説本「量子力学入門」(岩波新書)で、この著者は、多世 界解釈では世界が非物理的な過程として分裂すると勝手に解釈し、批判していま す。これはトンデモない勘違いです。多世界解釈における世界というのは特定の 観測者を通してみた世界のことであって、空想科学小説に出てくるような平行宇 宙が存在しているわけでありません。多世界解釈によると、系全体の状態の時間 発展はシュレーディンガー方程式に従い、いわゆる波束の収縮は起こりません。 にもかかわらず、特定の観測者を通してみると対象物の状態が特定の状態へ収縮 したように映り、矛盾の生じないことを示すことができます。シュレーディンガ ーの猫のパラドックスは(多世界解釈においては)このようにして解決されるの ですが、この著者は全く理解出来ていないようです。恐らく、この著者等の間違 った論文が正しい理解を妨げているのでしょう。

この様に、妙な先入観をもっている人には多世界解釈はなかなか理解してもら えないようです。この著者が多世界解釈を正しく理解することはもうないでしょう。

最後に、最近ホットな話題になっているメゾスコピックな量子現象について、観 測問題における重要な課題であるとし、著者等の理論がこれを先取りした新しい 観測理論であったとしていますが、そのように評価している論文は見たことがあ りません。メゾスコピックな量子現象は、従来の量子力学の枠組ですべて説明で きますし、実際、実験結果の解析などは従来の量子力学に基づいて議論されてい ます。メゾスコピックな量子現象を実現することが如何に難しいかということも、 従来の量子力学をメゾスコピックな系に素直に適用すれば自然にでてきます。新 しい観測理論なるものは必要ありません。

メゾスコピックな量子現象を実験的に実現することは、量子コンピュータを実現 する上でも重要な課題になっており、今後の発展が楽しみです。実験家には是非 頑張って欲しいと思います。


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© 1997-2005 Toshifumi Sakaguchi