「大地震サバイバル・マニュアル」(朝日新聞社編 朝日文庫)の紹介
 阪神淡路大震災に、どんなことが起こったのか、どんなものが役に立ち、どんな備えが必要だったのか?
 こういう関心を持ち色々の本を読みましたが、この本が一番良かったと感じました。さわりの部分を私なりに整理してご紹介いたします。ぜひ一度ご覧になるようお勧めいたします。
地震のときに起こったこと   -その1-
高速道路では
大阪の新御堂筋(大阪市内と北部を結ぶ)という高速道路を走っていた人の証言
 「突然、車が激しく上下に揺れ始め、とっさに車の故障かと思った。ブレーキを踏んでも揺れは収まらず、車を止めて付近を見ると、ビルが大きく揺れていた」
阪神高速道路神戸線を走っていた運転手たちの証言
 「路面が波打った」と口をそろえて証言。
阪西宮市内で目の前の高速道路が落下し、ヤジロベエのように宙ぶらりんになった観光バス(帝産観光バス京都支店)の福本運転手の証言
 「最初、前方の暗闇にフラッシュをたいたような小さな光が見えた。その直後、大きな横揺れに襲われた。とにかく車を止めるのが第一と思い、あわててブレーキを踏むと、今度は上下に波のような揺れが来て、宙に浮いた感じだった。ブレーキを踏んでも、道が上下に揺れているからバスもポンポン飛び上がる。ハンドルはとられる。座席も飛び跳ねている感じだった。やっとバスが止まったと思うと、ものすごい音がして、目の前の道路が崩れ落ちた。反対車線を走っていた乗用車が滑り落ちていくのが見えた。自分も落ちたと思った」。幸い、バスは落ちなかった。前輪部分を前に乗り出すようにしてとまった。乗客の女性3人が降りたのを確認してから、福本さんも降りた。高速道路上を歩いて1キロほどもどり、非常階段から地上に降りた。
高速道路の落下とともに、地上に滑り落ちた運転手たちの証言
 とっさの出来事で、どう対処していいかわからないまま、気がついたときは車が地上に止まっていた。「突然、道路が波打ったかと思うと、引き込まれるように地上に滑り落ちた」「まるで、滑り台を滑り落ちるようだった」
阪神高速道路の下を通る国道43号線を走行中、高速道路の落下を目の当たりにしたドライバーたちの証言
 「すさまじい揺れで運転どころではなくなった。高速道路の橋脚があめのようにグニャリと折れ曲がるのが見えた。」
高層ビルに住んでいた人の証言
 神戸港に浮かぶ人工島(ポートアイランド。神戸市が須磨ニュータウンを造成した際に出た土砂を利用して、436ヘクタールを埋め立てて造った。高層住宅やファッション関連産業などのオフィスビルが林立している)の様子
25階建てマンションの22階に住む会社員は
 「突然ドカーンという爆音がしたと同時に、下から突き上げられるような感じがして目が覚めた。次の瞬間、ユッサユッサと揺さぶられ、その揺れが止まらへん。生きた心地がせんかったわ」。室内は、食器棚が倒れてガラスや陶器類が粉々に砕け、本棚から200冊あまりの本が落下。大型冷蔵庫、箪笥が傾き、大型テレビや電子レンジは本当に吹っ飛んだ。しかし、マンション自体は倒壊しなかった。液状化現象により島全体が最高60センチも地盤沈下したが、この証言者の高層マンションはもちろん、ポートアイランドのほとんどの建物が倒壊を免れた。海底の硬い岩盤まで支柱を打ち込んでいたからだ。
 しかし、市街地とポートアイランドを結ぶ唯一の交通路である神戸大橋(319メートル)が北側に60センチもずれて橋の入り口部分が大きく壊れ、並行して走る新交通システム(ポートライナー)も運転不能になった。
 
橋は震災の翌日から片側交互通行で開通した。しかし地震から3週間経っても朝夕のラッシュ時には渡りきるのに2時間の渋滞が続いた。
 水道・ガスなどのライフラインは復旧せず、島に居た1万7千人の住民の半数近くが疎開した。
大阪都島区で36階の超高層マンションの32階に住んでいた自営業の人の証言
 「その場に立っておられへんねん。すごい揺れで、マンションがぽっきり折れるか、今にも目の前のベランダの扉が開いて、外へ放り出されるような気がしたわ。揺れが収まったら、船酔いしたような感じだった」
エレベーターに閉じ込められた
 阪神淡路大震災は発生が午前5時46分という早朝だったので、高層ビルのエレベーターに閉じ込められた人は少なかったが・・
 
芦屋市の芦屋浜シーサイドタウン。52階の高層ビルが立ち並ぶ団地。この団地を配達区域にしている朝日新聞西宮販売芦屋浜営業所の配達員の主婦は新聞の束を抱え、エレベーターで最上階の52階へ向かった。その途中で地震に襲われた。エレベーターはその場で止まった。エレベーター会社の職員が駆けつけ、救出されたのは7時間後の昼過ぎだった。その間、同じ配達員で友人の主婦がインターホーンで励まし続けた。
 
このときの地震でエレベーターに閉じ込められたのは、新聞や牛乳の配達員、早朝に出勤しようとしていたサラリーマンにとどまった。
室内のガラス器具はどうなった?
 チェーンで吊り下げた照明や天井に固定する取り付け型の照明も余震の恐れがあるときにははずしておくのがいい。事務所などの長い蛍光管は差込が深いせいか簡単に落ちなかったところが多い。そのかわり、カバーが軒並み外れて落下した。
 
重いピアノも滑るように移動し、壁や家具にぶつかる。家具という家具が倒れ、食器棚の中身が床一面にぶちまけられてしまう。ガラスは割れ、食器は砕け散る。家そのものは無事だった被災者も、少し落ち着いてから、一歩家の中に足を踏み入れると肩を落とし、いつ終わるとも知れぬ片付けに追われた。
 
砕け散ったガラスの破片は二次災害の原因となる。ガラスの破片で怪我をした人は、統計に表れない軽い傷まで含めると、相当な数に上るのではないか?
阪神淡路大震災の犠牲者5,500人以上のうち、70歳以上が全体の3分の1。60歳以上が全体の半数。
 犠牲者の死因は9割以上が圧死。火災によるものは1割。その原因は?西宮や芦屋市内では重い屋根瓦二階建て木造住宅が多く倒壊した。二階がそのまま一階を押しつぶしてしまうことが多く、一階で寝ることの多いお年寄りが犠牲になった。
 
今回の地震では、木造二階建ての通称「文化住宅」とよばれている古いアパートで倒壊などの被害が目立つ。それらは、一階部分が完全にぺしゃんこになり、二階部分が辛うじて残っているという状態になっている。神戸市東灘区では、鉄筋コンクリートのマンションでさえ、傾いたり、ひび割れたりしているものが多かった。
なぜ地震の12時間半後に火災が発生したのか?
 地震から一夜明けても、神戸市内の火の勢いはまったく衰えなかった。地震から3日経っても火事は多発した。その原因は
1.
通電火災
 地震から12時間半後、垂水区の倒壊住宅でおきたボヤで、消火に当たった消防団員が家屋に引き込まれた電線から火が出ているのを目撃した。停電復旧後の通電火災であることがはっきりしたのだ。
 次から次と発生する地震後の火災の原因は放火だというデマが流布した。地震の2日後の19日朝の長田区で起きた火災でも、多くの住民が、「電気の復旧とともに火の手が上がった」と証言しており、通電火災だった可能性が大きい。
 地震で痛んだ屋内配線のショート、スイッチが入ったままだったコンロ・トースター・電気ストーブなどが過熱して火災につながったケース、天井の蛍光灯などの照明器具から出火したと見られるケースもあった。熱帯魚の水槽の水温調節用ヒーターが激しい揺れで水槽から投げ出され、その後通電によって火元になったと見られるものもある。
 通電火災と見られる火災は2月1日までに27件あり、台所など火気を使う場所からの出火がほとんどだった過去の地震とは大きく違っていた。
2.
石油ストーブによる火災
 石油ストーブの耐震消化装置が働いて自動的に消化されても、安心できないことがわかった。火が消えた石油ストーブの天板に高熱の余熱が残り、その熱がカーテンなどを出火させたケースがあった。約200人の焼死者を出した長田区でも、地震直後に出火した火災はこうした石油ストーブが原因と見られている。
 もし、地震の発生がお昼や夕方だったら、火を使っている家庭は比較にならないほど多く、火災の危険はそれだけ増すことになる。
風呂桶や洗濯機にためた水もこぼれてしまった
 風呂の湯をほぼ湯船いっぱいに残していたが、揺れが激しすぎて水は湯船からほとんどこぼれ、浴室から水があふれて隣の台所を水浸しにした。ベランダに置いた洗濯機も倒れたので、たとえ水槽に水を張っていてもやはりこぼれてしまっただろう。
交通状況
 大阪と神戸を結ぶ高速道路は倒壊して使用不能。その下を走る国道43号線も大渋滞や規制で利用できなかった。国道2号線が唯一のアクセスとなった。
 大阪―神戸間は普段でも渋滞が激しい。そこへ地震の影響で被災地から逃げ出す車、向かう車が殺到した。信号も故障し、どの車も亀の歩みとなった。
 
神戸のあるタクシー運転手は、地震の翌日朝10時、大阪・藤井寺の親戚宅へ疎開する被災者を乗せて新神戸を出発した。使えるのは国道2号しかない、到着したのは翌日の午後1時半だった。大阪から神戸までは40キロ、平均時速は2キロに満たず徒歩より遅かったことになる。もっとひどい例もある。あるトラック運転手は大阪から神戸まで丸2日かかったのである。
 
緊急物資を運ぶトラックは、パトカーに先導されても、大阪から神戸まで5時間あまりもかかった。地震から4日後、国道2号線の交通規制が実地されたが、今度はその影響で周辺道路の混雑がひどくなった。
 
大都市に大地震が起こった場合、スムーズに車で脱出することは困難だと考えるべきだ。
 
走行中なら、ハンドルを取られ、安定性を失ってしまう。落下物が直撃したり、ビルが倒れたり、橋が落ちたりと危険はいくつも予想される。道路に亀裂や段差が生じることもある。その上に渋滞は必ずといって良いほど予想される。そのため自動車の教本では「地震発生の場合、速やかに道路の端に車を止め、エンジンキーを付けたまま避難する」としている。今回の地震ではほとんどこのルールは守られなかった。
 地震発生後兵庫県警ではマスコミや定時放送を通じてマイカーの利用を控えるように呼びかけたが、その効果はあまりなかった。
 救援物資を運ぶ車には「緊急車両」のステッカーが貼られたが、どうみても一般市民が乗っているらしいワゴン車にもそれが貼ってあった。このステッカーは警察や消防が交付したが、いつの間にか大量にコピーされて出回っていたのだ。
ライフラインの状況
 復旧の早かったのは電気、一番遅れたのはガスだった。
 
炊事、風呂、洗濯、エアコンなどガスに頼るものが多い。電気ポットでお湯を沸かしておけばお茶、ラーメン、スープ、味噌汁といったインスタント食品を食べられる。熱湯に水を注いでぬるくすれば顔も洗える。
 
電気ポットとカセットコンロで繰り返しお湯を沸かし、バスタブにためて風呂に入った人がいる。熱帯魚の水槽用のヒーター三本を使い5時間かけてぬるいお湯につかった人もいた。
 被災した美容院の多くは、水道が復旧するとシャンプーの無料サービスを実地した。
たまる一方のゴミ
 どんな生活をしてもゴミはたまる。震災になると、道路が遮断されるからゴミ回収車は来られなくなる。指定の場所にゴミを出しても、ゴミの山が築かれるだけの地域が多かった。神戸市でゴミの回収をしていた運転手は、「普段なら数時間で終わるゴミの回収が、半日かけても終わらない。瓦礫が行く手を遮るし、家も崩れているから、細い路地へは入れない。全部回収するのはむりや」と話した。
 
ライフラインが止まったため、食事は弁当やおにぎり、パンなどの調理しなくても良いものがほとんどを占めた。すると、必ずビニール袋などのゴミが出る。
 
西宮市の会社員は、大阪市内の会社に出勤する際にいつもゴミ袋を持って家を出た。会社でゴミを捨てるためだ。彼は「いいことだとは思わないが、地元のゴミを少しでも減らせればと思った。会社もしかたないと認めてくれている」と語り、ゴミの回収が通常に戻るまで続けると話した。
 
最寄の駅や川や海に投棄していた人もあった。しかし、駅でも同じようにゴミの処理に困っていた。ホームのゴミ箱があふれ、そのまま放置された駅もあった。川や海への投棄は汚染につながるので、勧められない。
 
灘区の住宅街では、大阪ナンバーのトラックを見つけ、「行き先が大阪ならゴミを頼むわ」と声をかけると、たいていのトラックが簡単にOKしてくれたという話がある。被災しなかった人々の好意に頼り、負担にならない程度の量なら、処分を頼むのもひとつの手だ。他の都道府県から応援に来ていた自治体職員なども、自分たちで出したゴミを持って帰ったところがあった。
 
自宅の前に一人がゴミ袋を捨てると、次々に右に習う人が増え、あっという間にゴミの山が築かれたところもあった。
住居については
 Mさん達が住む尼崎市の賃貸マンションは築25年以上の鉄骨建てで、地震により外壁や階段にいくつもの亀裂が入った。入居している12世帯の多くが「余震が来れば倒壊するのでは・・・」という不安から、夜だけ近くの中学校や実家へ避難していた。そんなマンションの1階に、1枚の通知が張り出された。「このマンションは現在危険ですので早急に転出をお願いします。余震が来ればあぶないので家主としては責任を持つことが出来ません」、つまり早急に出て行けというのだ。この時期、尼崎市内の、ほとんどの不動産業者の店頭には「賃貸物件はありません」と書かれた紙が貼られていた。
電話が通じない
ケース 1.
回線が使えない。NTTによると阪神大震災による電話回線の被害は約19万3千回線。このうち10万回線が地震の揺れによる直接的被害を受けた。これは1月中に復旧した。残り9万3千回線は家屋の倒壊や火災により街そのものの機能が失われたことによる。これらの地域では復旧が遅れた。
ケース 2.
 電話機が機能しなくなるもの。電話機自体が壊れた場合もあるが、停電で電話機の機能が働かなくなった場合もある。
 コードレス電話:親機に電気が供給されていないと使えなくなる。
 
多機能電話 :バックアップ電池が内臓されているものもあるが、電池が消耗していると、停電と同時に記録したものが消える。
ケース 3.
 回線も電話機も無事だがかかりにくくなる。
 地震発生から3日間以上、関西一円で電話がかかりにくい状況が続いた。豊中市のある人の話では、普通に通じたのは発生直後の5分間だけ、その後かかりにくくなり、午後になり被害状況が明らかになるにつれ、ますます使えなくなった。電話がかかりにくい状況には2つある。
着信しにくい場合:
 相手の番号を押した後「ただいま回線が込み合っています」というメッセージが聞こえる。相手局の交換機に通話制限がかかっていて、着信しにくい場合だ。安否を気遣い他の地域から関西に電話した人の多くが経験した。
発信しにくい場合:
 受話器を上げても「ツー」という音がしないで、いきなり「回線が込み合っています」というメッセージが聞こえる。相手の電話番号を押しても無駄、発信側の交換機に通話制限がかかっている。通話制限の段階には50%から95%だという。最悪の場合、20回に1回の確率でしかつながらない。仮に、発信側と着信側の両方に95%の制限がかかれば、400回に1回しかつながらないことになる。かかりにくいとリダイヤル機能などを使って何度もトライしたくなるが、やればやるほど交換機の手前でコンピューターが通話制限を強化することになる。
 地震直後、揺れで受話器が外れたまま避難した家庭では、回線がつながった状態が続いた。慌てるのはやむを得ないが、気に留めておきたい。
重い怪我を負っても病院へ行けない。行っても診てもらえない。
 電話がパンクするので119番で救急車は呼べないと思った方が良い。もし通じてもすぐに来てくれる確率はきわめて低い。119番で「努力しますが、助けにいけないかもしれません」と言われた被災者もたくさん居た。
 家族や近所の人に運ばれたり、足を骨折しているのに倒壊した自宅の残骸を松葉杖にして歩いてきた人もあった。
 しかし、病院へ着く頃には既に負傷者があふれていると覚悟した方が良い。西宮市のある総合病院には、地震発生後15分で患者があふれ始めた。しかも、おとなしく順番を待っている雰囲気ではない。「こっちは死に掛けてるんや、先にみてんか」、「わしの方が先に着いたんやで」・・どの病院でもこんな修羅場が繰り広げられた。
 ようやく自分の番になったとして、擦り傷や、打撲、軽い骨折程度ならとりあえず一安心できる。
 手術が必要な負傷や、「クラッシュ症候群(圧迫された筋肉から毒素が出て、心不全や腎不全で死ぬこともある)だったら、目の前の医師がただちに命を救ってくれるとは期待できない。被災地の病院は断水している可能性が高いし、停電ということもある。神戸市内のある公立病院では麻酔用のガス配管施設が壊れ、ほとんどの病院には薬品の備蓄がわずかしかなかったことを考えると、手術や複雑な治療どころではないのだ。
 となると、手術可能な近隣の病院へ転送してもらわなければならない。これもまた難しい。今度の地震では被災地から脱出しようとする人の車で、大阪方面に向かう国道は大渋滞になり、大阪まで数時間もかかるケースが続出した。倒壊家屋の下敷きになり内臓が破裂した患者は、大阪へ向かう救急車の中で失血死してしまった。一方、ヘリコプターで大阪へ運ばれ命拾いした人も数十人いたが、これは幸運なケースだ。
 厚生省を通じてヘリコプター輸送の申し出があったのに、被災地の自治体が十分対応しきれず、せっかくの機会を逃した例もある。
阪神ではこんなデマが流れた
 地震発生の翌18日、数百人の避難する神戸市灘区の成徳小学校の講堂に、1人の男性が飛び込んできた。「おーい、みんな、靴を履け、余震が来てこの講堂がつぶれるぞ?」
 
その大声に講堂内は騒然となった。大慌てで出口を目指す被災者の中には、突き飛ばされて転んだお年より、恐怖のあまり、泣きながら逃げ出す母親もいたほどだ。そんな中で、家族3人で避難していた会社員のHさんは、いかに老朽化しているとはいえ、鉄筋の建物が簡単に倒壊するはずがないと思い、その男に問いただした。
 
「おい、それ、本当か?」「さっき、ラジオで言うとった」「どの局や?」「それは、わからん」「こんなときに、いい加減なことを言うもんじゃない」「大きな余震がくると言うとったんや」
 
どうやら、この男は「今後、マグニチュード6クラスの余震が起こる可能性がある」という学者の予測を聴き、「震度6の余震がすぐにも来る」と思い込んだらしい。神戸では、再び大地震が起きるというウワサは地震発生当初からささやかれていた。余震への不安が、そんな流言にますます尾ひれをつけていった。

 1月23日、京都府内で、「今回の地震に匹敵する大地震が起きる」というデマが流れ、正午頃から京都地方気象台に100件を超える問い合わせがあった。ちょうどこの日、関西を中心とする強い余震が2回もあったことから、このデマがより現実味を帯びて一気に広がったようだ。気象庁では報道機関にデマ打消しの協力を要請、各新聞社は翌日の朝刊で、「この種のデマに惑わされないように」と訴えた。

 一方、住居を失った不安から、仮設住宅についてのデマも多かった。「神戸市で仮設住宅の建設が始まった」というニュースが流れた1月20日、神戸市災害対策本部や、同市住宅局に「仮設住宅の入居手続きが始まった」と早合点した被災者たちから問い合わせの電話が殺到した。しかも、「先着順だ」という尾ひれまでついたため、職員はこの日、500件以上の電話の対応に追われることになった。この他にも、「避難所を出ると仮設住宅に入居できない」、「自動車免許があれば入居できる」というまったく根拠のないデマも乱れ飛んだ。こうしたデマは、情報不足、不安感、それに願望などが絡み合って生み出されたと言えよう。

 阪神大震災を取材した韓国の新聞記者は、「関東大震災のような悲劇は起こらなかった」と報道した。確かに、冷静さを失った人々によって、多くの在日韓国人・朝鮮人が虐殺された歴史は繰り返されなかった。しかし、ひとつ間違えば・・・というデマもあった。

 神戸市灘区では震災泥棒が相次ぎ、これに外国人が集団で関わっているといううわさが流れた。幸い大事には至らなかった。

 悪質ないたずらから生まれたデマも少なくない。「給水作業をしている男性がエイズに感染しており、水を紙コップで回し飲みした市民が感染した」というひどいものまであった。神戸市中央保健所では1月29日、そんなデマに惑わされないように呼びかけるポスター100枚をつくり、中央区内の各避難所に配布した。神戸市長田区の避難所では、「自衛隊員が火事場泥棒で捕まった」というウワサが流れた。このデマの出所をたどっていくと、自衛隊員にからんで叱責された酔っぱらいが、腹いせに言い出したことがわかった。

過去の地震の際のデマ
@  1923年の関東大震災のときの「朝鮮人デマ」による虐殺は、不安と恐怖に駆り立てられると、人は普段考えられないような残虐な行動をとることがあることを示した。
 警視庁の記録では、最初のデマは震災の約3時間後に発生した。「火薬庫が襲撃される」とか、「井戸に毒薬が投げ込まれた」などと極端に傾いていた。
 25の警察署、254の派出所が全焼し警察力は極度に低下、代わって市部、郡部合わせて1,000を越す自警団が組織された。町や村の要所に非常線を張り、朝鮮人と見ると集団でリンチを加え、死傷させた。 今日殺された朝鮮人は4千とも7千とも言われる。
 
デマの出所については「自然発生」説、警察・軍部説などがあるが、正確なところはわかっていない。しかし、当時、朝鮮人を蔑視し、迫害していた日本人には、デマを受け入れる不安と恐怖感が共通してあったと見られる。
A  64年の新潟地震のとき、「原子爆弾が落ちた」「高さ5メートルの津波が来る」などのデマが飛び交った。
 心理学者たちを中心とする調査団が被災者の面接調査をしたら、デマを聞いた人は40%、そのうち「すっかり信用した」が52%で、いくらなりとも信じた人も加えると85%に達した。
B  81年10月の夜、神奈川県平塚市で、市内45箇所の広報スピーカーから突然、「市民の皆さん、私は市長です。先ほど、内閣総理大臣から大規模地震の警戒宣言が発令されました」という放送が誤って流れた。平塚市は東海地震対策の強化地域に指定されており、一部の市民が慌てて飛び出すなどしたが、30分後、訂正の放送を流し、全市的な混乱には陥らなかった。
 
しかし、その後の調査によると、このときパニックに結びつきかねない危険なデマが流れていた。回答者の6%が「ロシアが上陸してくる」「誤報は上層部の仕業だ」などのデマを聞いており、半分が「信じた」か「半信半疑」だった。デマではないが、「自衛隊がクーデターを起こした」「過激派が市役所を乗っ取った」などと思い込んだ市民もいた。
C
 73年暮れ、愛知県の人口2万人足らずの町の信用金庫で取り付け騒ぎが起きた。早朝から、行列が出来、500人以上が総額8億円を引き出した。預金者たちの間で、「行内に使い込みをした者がいるらしい」「5億円持ち逃げした行員がいて、経営がおかしくなった」「理事長は不況を苦に首をくくった」と、デマは具体的に極端に成長していった。
 愛知県警は信金に悪意を持つものが故意に広めた疑いがあると見て捜査したが、デマの火元は、意外にも女子高生の一言の冗談だった。登校途中、信金に就職が決まっている女子高生に別の女子高生が、「信用金庫なんてあぶないわよ」と言った。言われた生徒は親類に相談し、親類は別の親類に問い合わせたが、このとき「信用金庫」が「○○信金」という固有名詞に変わった。さらにウワサが流れていく中で、ある男性が電話で「○○信金ですぐ120万円下ろしてきてくれ」と話しているのを、商店主の妻が偶然聞いた。男性は必要があって預金を引き下ろしただけだったが、妻は「うわさは本当だった」と思い込み、夫に伝えた。夫は友人のアマチュア無線家たちに連絡し、デマはあっという間に広まった。
 信金側はデマを打ち消そうと「経営に不信のある方は二階へ」と張り紙を出したら、「倒産整理の説明会を開いていると聞いたが・・・」と電話が入り、引き出しを迅速にしようと受付を万単位にしたら、「1万円以下は切り捨てられる」と受け取られた。時間のかかる利子の計算を後回しにしてとりあえず元金を返すと「利子を払えないのは経営が破綻した証拠だ」と詰め寄られた。
 騒動が落ち着いてからも、デマを飛ばしたのは朝鮮人だという第二次のデマが飛んだ。
都市ガスとプロパンガス
 阪神淡路大震災では「三菱液化ガス神戸輸入基地」で、LPG(液化石油ガス)のタンク3基のうち、1基の配管に亀裂が生じ、周辺住民に避難勧告が発令され、約8万人が実際に非難した。しかし、一時、地表を覆ったガスは強い風に押し流され、海岸線に拡散して事なきを得た。タンク本体は、法律で材質や構造基準が定められているが、バルブや配管については耐震基準がない。
 ガス災害と二次災害を防ぐために、二重三重の防災体制が敷かれている。
 供給区域を一定のブロック(約50万世帯)に分割し、大きな被害が発生した地域のみガスの供給をストップする。
 地区ごとに設置してあるSIセンサーが建物や埋没管の被害を測定し、中ブロックの(3万?10万)のガスの供給をストップする。
 各家庭の配管に備え付けてあるマイコンメーターが、震度5以上の地震が起きると自動的に働き、ガスを流れなくする。
 本社からの遠隔操作で工場の緊急遮断弁を作動させ、ガスの製造は中止され、パイプ内に残ったガスは上空に放散する。
 こうした安全策が震災後は、復旧を遅らせるように働いた。震災後2週間で電気と電話はほぼ元通り、水道は67%復旧したが、ガスの復旧率は7%あまり、しばらくの間80万世帯にガスが届かなかった。ガスの供給を停止した地域のガス管の総延長は5,000キロ以上もある。この全てのガス管の点検・補修が復旧のためには必要だったのだ。
 一方プロパンガスは安全だった。今度の地震でプロパンによる火災は皆無だった(東京都プロパンガス教会の話)。大半の消費者が地震後にバルブを占めたこと、プロパン業者の対応もすばやかった。火災の熱でボンベが爆発するのではないかと思っている方が多いようですが、容器自体はとても丈夫に出来ている。ガス管が短い分だけガス漏れの心配も少ない。仮にボンベが倒れてガス漏れしても、屋外なので風で拡散されると同協会は話している。プロパンガスの復旧率は震災二週間目に98%に達した。神戸市内の商店でも、復旧しない都市ガスに見切りをつけプロパンに代えて営業したところも少なくない。
ガソリンスタンドが一軒も焼けなかった
 神戸市長田区は焼け野原と化した。しかし、そんな激しい火災にもかかわらず、この地区のガソリンスタンドは焼けず、倒壊もしなかった。兵庫県石油協同組合の調べでも、今回の地震で、火災が発生したり、延焼したガソリンスタンドはひとつもない。
日本はもともと地震国であるため、他国に比べ、消防法の基準が特に厳しい。
 ガソリンなどを貯蔵するために地下に埋めてあるタンクは、外部に防水・防腐にすぐれたFRPという強化プラスチックを使い、その内部に鋼製タンクを納めるという二重構造になっている。
 このタンクを動かないようにするため、底に枕木を渡し、両サイドを鉄のバンドで固定している。
 さらに、さびを防ぐ良質の山砂でタンクを埋めている。
 それでも何か異常が発生した場合は、タンク内に設置された24時間態勢の自動センサーが作動する。このタンクは「SFタンク」と呼ばれ、ガソリンスタンド業界では高い技術を誇り、全国的にかなり普及している。
 日本石油の広報に聞くと、「ガソリンスタンドが爆発したらと心配するかもしれないが私たちの安全対策の発想は逆で、外からの類焼をどうやって防ぐかが念頭にある。もちろんたくさんの消火器が設置されているし、法律でもスタンド内には危険物取り扱いの資格を持った人間を常駐させなければならないことになっている」。ガソリンスタンドには周りを囲む壁があるが、この壁は外から入り込もうとする火を防ぐ役目も果たすという。
震災泥棒
 「火事場泥棒という言葉は、今の日本でもまだあったんやな」、神戸市兵庫区の商店主は天を仰いだ。大震災で自宅兼店舗が火災に遭い、避難先に移っていた5日ほどの間に泥棒に入られたのだ。現金だけはなくなったのがわかっているが、そのほかは何がとられたのか、店内がめちゃくちゃになっているのでわからないという。
 この店主は被害届を出さなかった。警察も地震の対処で繁忙を極めている。届けを出してもすぐには操作してくれそうにないと考えたからだ。店主自身も店舗の後片付けと避難所生活で手一杯だったのだ。
 神戸では白昼堂々とトラックで乗りつけ、「親戚のものです」と言って、家財道具を運び出す手口の「窃盗団」あった。

 東灘区の本山南小学校周辺では、自身3日後から4?5人で自警団を作り、夜回りを始めた。リーダーの会社員は「一番の財産である家を失って、その上残りの家財道具までとられたらどうなるんですか?みんなに呼びかけて、賛同者を募った。普段は付き合いがなくても、2人、3人と集まってくれた」と話す。ここでは、夜7時頃から朝6時頃まで3?4人一組で回った。それぞれ懐中電灯のほかゴルフクラブやバット、竹刀などを手にし、緊急の場合に備え避難所にはいつも自警団の仲間3人が待機していた。

 「初日だけで5人の不審者が見つかった。一軒ずつ家を覗き込むようにして通り過ぎていく者、『岡山から来て知人を探している』と言いながら、その知人の住所を聞くとデタラメな者、ドライバーと小さなハンマーを手にしている者もいた。歩いている人のほとんどに『自警団ですけど』と声をかけてパトロールした。犬に吠えられて、ビルの壁を登っていた不審者が逃げて行ったという話も聞きました」
 この周辺では、電気が復旧し自警団が夜回りを始めてから窃盗のうわさは消えた。

在日外国人の被災者は
 阪神地区には約10万人の外国人が住み、被災した。地震のとき、真っ先にほしいのは地震に関する情報だ。だが、日本の自治体の外国人への対応はふだんから極めて遅れており、国際都市と言われる神戸でさえ、広報活動はもっぱら日本語だった。結局、その間隙を埋めたのは、外国人ボランティア団体が集まって組織した「外国人地震情報センター」だった。
 ボランティア団体「ワラボラ」が震災の翌日にタイ人への電話相談をはじめ、1月23日には「外国人地震情報センター」が出来た。その後、ヒンディー語やビルマ語なども含めて14ヶ国語の言葉で対応している。
 最も多かったのは、当座の生活費をどうやって確保したら言いかという相談だった。
  これには、外国人でも義捐金がもらえることを説明した。
 次に多いのが、勤め先の工場が倒壊してなくなったが、未払いの賃金はどうやったらもらえるかという法律相談。
  これには、弁護士グループの電話相談などを紹介した。
 イスラム系の避難民からは、配られる食料が、宗教上食べられない豚肉などで困っているという相談もあった。
 不法滞在の問題もある。オーバーステイの人は普段の生活で行政を避けているので、相談にいけない。そこで、兵庫県警は今度の地震で、外国人からの問い合わせに、在留資格や、ビザの有無を問わない方針を打ち出した。
 しかし、外国人のアフターケアーは、依然ボランティアに頼る部分が多い。韓国基督教教会などの呼びかけで、ボランティア22団体が集まって、「外国人被災者支援連絡協議会」が2月10日に発足した。
 事務局長の李清一さんは「まず、亡くなった方や行方不明の方の身元確認が急がれます」と言う。外国人で亡くなった人は200人だが、身元不明の人もいるという。だから知人・仕事仲間で亡くなった人はいないか、尋ね歩くような作業が必要だという。
 一方、オーバースティの人の中には地方に移ったり、帰国した人もあると見られ。確認作業は困難を極めている。
 外国人への義捐金の問題も、行政は前向きになってきているが、罹災照明が難しいという。弔慰金についても問題になるだろう。
1.
 パスポート、運転免許証など自分を証明するものが要る。
2.
 罹災証明書の獲得のためには、自分がその地域に住んでいたことを照明することも必要。オーバーステイの人の罹災証明書の問題でも、借りていた家の契約書があれば発行される。
便乗値上げ

 地震発生の日の午前10時20分頃、震源地に近いコンビニエンスストアの前で、怒声が飛び交った。食料や水を調達しようとする人たちが「早く売ってくれ!」、「金はいくらでも出す!」とさけんだのである。
 店主はこう言った。「缶詰は1個1,000円。ペットボトルの水も1本1,000円。食パンは1袋2,000円」。被災者の足元を見たのである。
 赤ちゃんを抱いて泣き出さんばかりの女性、20分ほど歩きやっと開いている店を見つけたというお年寄りなど30人あまりが猛烈に抗議した。しかし、店主も「店のガラスや備品が壊れた。正札で売っていたら商売にならん」と譲らない。結局、店主は団結した市民には勝てず、一人が購入できる商品数を限定して通常の価格で販売した。

 しかし、別のコンビにでは1本2,000円の値を付けたペットボトルの水がすぐに売れてしまった。その場にいた人は「皆、水を買うことしか頭にないようで、値段には誰も抗議しなかった」という。

被災した高級住宅街を車で流して、ペットボトルの水1本3,000円、米10キロに50,000円の値段をつけた連中がいた。
 倒壊した家屋の解体やシート掛け、修理に通常の10倍以上もふっかけてくる業者もいた。神戸に近い被災しなかった地域では、マンションの家賃や保証金が高騰した。

西宮市の主婦は、業者から約40坪の自宅の解体と修理を「2,000万円でどうか。直ぐにでも作業を始められます」と持ちかけられた。貯金を引き出し、少し借金すればなんとかなる「よし」と思って知人に相談したら、「相場の5倍近い値段だよ」と教えてくれた。主婦は、解体費用を自治体などが負担してくれることも知らなかった。結局、この主婦は近所の2世帯と共同して、標準的な価格を提示した大手の業者に修理の依頼をした。

 大地震の2週間後、被災者と同じ防寒着姿で取材していたライターは、長田区北部の避難所近くで焼き芋屋を見つけた。値段を聞くと1本800円だという。「おっちゃん、これ高いがな」と文句を付けると、芋屋は「和歌山から來てるんや。時間もガソリン代もかかるんや。いらんかったら、食べんでもええ。買い手はいっぱいおる」と応えた。その後、焼き芋は1本1,500円に跳ね上がった。

 どさくさまぎれの便乗値上げには、客同士が抜け駆けの争いをするのでなく、連帯して対抗することが一番有効だ。強気になった店長達も数の力で「正気」に戻るのだ。出来るだけ大勢で講義するのが良い。

 はっきり言って、被災後暫くは役所の監視の目も届かない。神戸にも物価110番というセクションがあったが、電話の前に職員が座っているだけのようだったという。今回の震災で、不当に高い価格で食料を売りさばいた連中は、しきりに車の場所を変えて摘発を逃れていた。

(2007年05月01日)
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