津波から身を守るための一冊

「三陸海岸大津波」(吉村 昭著 文春文庫 税込¥460)

日本海西部地震の津波や奥尻島の津波など、現代にも津波の経験はありますが、本当の恐ろしさを実感するのはなかなか難しい面があり、またその被害を予測しようとしてもどう考えればいいのかがわからないように思います。
この本は三陸海岸で起きた、明治29年の津波、昭和8年の津波、昭和35年のチリ地震津波の3つについて前兆現象、津波の原因となった地震の様子、津波が襲ってきたときの様子についてイメージ豊かに描いています。
ぜひ皆さんに読んでいただきたいと思います。そのために、重要だと思うところを引用して紹介させていただきます。「」内は本文からの引用です。ただし、年号などの数字については横書きに変えたため算用数字の書き方に変えさせていただきました。


前兆現象について

明治29年の津波
――三陸沿岸で著しい漁獲が見られるようになった。
本マグロの大群が、海岸近くに押し寄せた。「網は、マグロの魚体で泡立った。マグロは、出口をもとめて網の壁に沿って一方向に円をえがいて泳ぐ。その光景は、壮観さを超えたすさまじいものだった。漁船に乗った早野少年は、マグロの群れが網の内部をウナリをたてて素早い速度でまわっているのをみた。その勢いで、網の内部には大きな渦が生じ、中央部の水面は深くくぼんで擂鉢状にさえなっていたという」
「このような大豊漁は、むろん田野畑村だけではなく三陸海岸一帯に共通したものだった。漁は、マグロ以外にも鰯やカツオが処置に困惑するほどとれたという」
「その年の三月頃から三陸沿岸一帯に、鰻の姿が多くみられた。死骸の群が漂着して処置に困った漁村もあれば、磯に押し寄せた鰻をとらえて思わぬ漁獲に喜んだ漁村もあった」「この鰻の発生も、安政三年の津波襲来直前にみられた現象で、鰻の群れを不吉な前兆としておそれる老人もいた」

――その他の奇妙な現象
「青森県上北郡一川目村附近では、連日夜になると青白い怪しげな火が沖合いに出現した」
「潮流に乱れが起こっていたという事実もあるし、水温の急変があったとも伝えられている」
「岩手県北閉伊郡磯鶏村では、安政三年の津波襲来前に川菜と称する海草が濃い密度で磯をふちどるという奇現象があった。それ以後川菜は長い間絶えていたが、数ヶ月前から川菜が磯に生えはじめ、安政三年の津波を知っている古老たちは、津波の前ぶれではないかと合う人ごとに警告していた」
「沿岸一帯の漁村では、井戸水に異変が起こっていた。岩手県東閉伊郡宮古町に例をとると、6月14日から60メートルの深さを持つすべての井戸の水が、一つ残らず濁りはじめた。その色は白か赤に変色したもので、人々はその現象をいぶかしんでいた」


昭和8年の津波
――井戸水の減少、渇水または混濁があった。
――沿岸各地で、例年にない大豊漁
「ことに鰯の大群が群れをなして海岸近くに殺到、各漁村は大漁に沸いた。三陸沿岸の鰯漁は、十一月一杯で終りその後の漁獲量は急に少なくなるはずなのに、年を越してからもさらに漁獲は激増するという異例さだった」
「岩手県下閉伊郡田野畑村島ノ越では、津波以前に波打ち際に大量の鮑が打ち寄せられた。それは、海にいることに不安を感じて、磯に這い上がろうとしているようにもみえた。その他、鮑が大量に死んだり無数の海草類が海岸をうずめるほど漂着したり、海中に異変がひそかに起っていることをしめしていた」

――その他の現象
「明治29年の大津波の場合と同じように、津波襲来前に発光現象もみられた」「明治29年の折には、提灯のような怪火が津波発生時に各所でみられたが、昭和8年の場合には稲妻状の閃光が認められ、発生場所も一部にかぎられている」
「明治29年の折には、津波来襲前に沖合いからドーン、ドーンという大砲の砲撃音に似た音響がしたが、昭和8年の場合にも同様の現象が数多く観測されている」


津波の来襲

明治29年の津波
「その日の午後の干潮時には、各所で稀なほどの大干潮がみられ、井戸の水も著しく減少した。が、少数の老人をのぞいては、ほとんどの人々がその減少を別にいぶかしみもしなかった」
「宮古測候所では午後7時32分30秒に弱震を記録、それは5分間の長さにわたり、ついで同53分30秒にも弱震をとらえた。人々は振動のやむのを待って再び杯をとりあげたが(引用者注、津波のあった6月15日は、旧暦の端午の節句にあたっていた)、8時2分35秒にはまた大地がゆったりと揺れた。この弱震があってから20分ほど経過した頃、いつの間にか闇の海上では戦慄すべき大異変が起り始めていた」
「海水は、壮大な規模で乱れはじめ、海岸線から徐々に干きはじめ、やがてその速度は急激に増していた。それは、巨大な怪物が、黒々とした衣の裾をたぐり寄せるのに似た光景だった。湾内の岩はたちまち海水の中からぞくぞくと頭をもたげ、海底は白々と露出した。ある湾では1,000メートル以上もある港口まで海水がひいて干潟と化した。干いた海水は、闇の沖合いで異常にふくれ上がると、満を持したように壮大な水の壁となって海岸方向に動き出した」
「その頃、人々は、海の恐るべき姿にも気づかず酒食に興じていたが、突然沖合いから、『ドーン』『ドーン』という音響を耳にして、不審そうに顔を見合わせた」「また、その音響と前後して、海上に怪しげな火閃を目撃した者も多かった」
「津波の高さは平均10メートルとも15メートルともいわれている。が、私が田野畑村羅賀で会った一老人の話は、津波の高さを立証するものとして興味深かった。その老人は、中村丹蔵という明治19年生まれの85歳のひとである」「わたしは、田野畑村村長早野仙平氏の案内で、同村の一字である羅賀の村落に入った。車は、海岸線をつたわって羅賀の村落に入ると、急坂をのぼって坂の中途でとまった。中村氏の家は、そこからさらに石段をのぼった高所に建っていた。中村氏は、当時10歳の少年で端午の節句の夜、家で遊んでいた。小雨が降り、家の周囲には濃い霧がたちこめていた。突然、背後の山の中からゴーッという音が起こった。少年は、豪雨が山の頂きからやってきたのだな、と思った。と、山とは逆の海方向にある入口の戸が鋭い音を立てて押し破られ、海水が激しい勢いで流れこんできた。祖父が『ヨダ(津波)だ!』と、叫んだ。中村少年は、家人とともに裏手の窓からとび出すと、山の傾斜を夢中になって駆け上がった。翌日、海も穏やかになったので、おそるおそる家にもどってみると、家の中にはおびただしい泥水にまじって漂流物があふれていた」
「その話しをきいた早野村長は、驚きの声をあげた。田野畑村の津波をふせぐために設けられている防潮堤の高さは8メートルで、専門家もそれで十分だとしているが、『ここまで津波が来たとすると、あんな防潮堤ではどうにもならない』と不安そうに顔を曇らせた。中村氏の家は、かなり高い丘の中腹に建っている。そのあたりの地形は、当時とほとんど変りはないし、そこまで波が押し寄せてきたとは想像もできなかった。私は、村長と中村氏の家の庭先に立ってみた。海は、はるか下方に輝き、岩に白い波濤がくだけている。『40メートルぐらいはあるでしょうか』という私の問いに、村長は、『いや、50メートルは十分あるでしょう』と呆れたように答えた」


昭和8年の津波
「その日の午前2時32分14秒、中央気象台は強烈な地震をとらえた。それは、北は千島から北海道、東北地方、関東地方全域と中部地方、近畿地方にかけて人体にも知覚できるほどの大規模な地震であった。」「中央気象台では、震源がきわめて浅いことから三陸沿岸を中心にして津波襲来の恐れがあると判断し、仙台、石巻、宮古の各測候所と北海道、青森、岩手、宮城、福島、茨城等太平洋沿岸の各道県地方長官宛に警告を発した。
その予測通り地震後30分ほどして各地に津波が襲来、ことに三陸沿岸に点在する各村落はまたも壊滅的打撃を受けた。」

津波の被害

明治29年の津波

宮城県下の被害

死者3,452名

流失家屋3,121戸

青森県下

死者343名


岩手県下

死者22,565名

流失家屋6,156戸

うち気仙沼郡死者 6,748名(人口の21%)

   吉浜村     982名(人口は1,075名)

    上閉伊郡   6,969名(人口16,259名)

   釜石町   5,000名(人口は6,557名)

     下閉伊郡   7,554名(人口は35,482名)

九戸郡を加えた「4郡の人口103,772名の内22%が津波による死者となったのである。これら各郡の住民は、むろん海岸から遠くはなれた山間部に住む者も多く、かれらは津波の被害を受けていない。そうしたことから考えてみると、海岸に住む者のほとんどが、死亡または負傷したことになる。」


昭和8年の津波
「被害は、明治29年の津波襲来時と同じように岩手県が最大で、宮城県、青森県がそれについだ。3県の被害を合計すると、死者2,995名、負傷者1,096名、計4,091名に達し、また家屋も流失4,885戸、倒壊2,256戸、浸水4,147と、焼失249戸、計11,537戸、また漁船も岩手県の5,860艘をはじめとして計7,122艘が流失するという大惨事となった。」


チリ地震津波
「昭和35年(1960年)5月21日、気象庁は、南米チリの大地震をとらえ、つづいて23日午前4時15分、4度目の地震がきわめて激しい地震であることも観測した。さらにその地震によって起こった津波が、太平洋上にひろがり、23日午後8時50分頃にはハワイの海岸に襲来、60名の死者を出したことを承知していた。
しかし、気象庁では、チリ地震による津波が日本の太平洋沿岸に来襲することは考えず、津波警報も発令しなかった。」
「この津波は、明治29年、昭和8年の大津波とは根本的に異なった奇妙な津波だった。同日午前3時ころ、ハモ漁の漁師と同じように陸地でも潮の異常を眼にした人は多かった。が、かれらは、単なる高潮異常と判断し恐るべき津波とは想像もしなかった。その理由は、簡単である。地震がなかったからである。」
「さらに、津波にありがちな前兆ともいうべき諸現象もみられなかった。津波襲来前の大漁、井戸水の減・渇水、さらに必ずといっていいほどきこえる遠雷或は大砲の砲撃音のような音響もきこえない。つまり潮は異常な速度で干きはじめていたが、津波にともなう必須の条件と考えられているものが皆無だったのだ。」
「午前4時20分ころ、海は本格的に異様な様相をみせはじめた。海水が、思いがけぬ干き方をしめすようになった。無気味な 引き潮は急速に増して、海底が露出、海面下にあった岩石がつぎつぎと黒い岩肌をみせた。そして、湾はたちまちのうちに広い干潟と化していった。ようやく海水の動きに恐怖を感じた市民は消防団にその旨を報告し、各地で津波襲来を告げるサイレンが鳴りひびいた。」
「引き潮があってから10分後の午前4時30分頃、海水は上げ潮となり、本格的な津波が押し寄せた。しかし、その津波の寄せ方も明治29年、昭和8年の津波と全くことなっていた。沿岸で夜明けの海面をみつめていた或る漁師は、『大変な引き潮のあと、水面がモクモクと盛り上がって寄せてきた』と言い、他の漁師は『海水がふくれ上がって、のっこ、のっことやって来た』ともいった。つまり、津波は、過去の津波のように高々とそびえ立って突き進んでくるものではなく、海面がふくれ上がってゆっくりと襲来したものであったのだ。」
「津波に対する防潮堤等の施設のために人命の損失は、明治29年、昭和8年の津波を下廻ったが、それでも大きな被害を各地にあたえた。岩手県下だけでも死者61名、罹災世帯6,832(35,279名)に達し、流失家屋472戸、全壊411戸、半壊1,100戸、浸水4,656戸にも及んだのである。」

チリ地震津波は特別の珍しい津波かというと、そうではないことも以下のように述べています。
「これに力を得た二宮氏は、過去380年間に起こった大小43例の三陸沿岸を襲った津波を調べた結果、9例の津波がチリ津波と同じように南米に起こった地震津波の余波であることを探り当てた」

引用は以上です。その他に、津波についてのさまざまなエピソードや津波を体験した人々の体験記などをのせています。津波を高くしやすいリアス式海岸という三陸地方の立地を考えても参考になる記録だと思います。ぜひ以前からご紹介している「関東大震災」(吉村 昭著 文春文庫)とともに、ご一読いただきたいと思っています。私は、親しい人、大事な人にはこの2冊を勧めています。これを読むだけで助かる割合がかなり上がるように感じているからです。

ただ、この本がとり上げた3つの津波はいずれも、まづ海水が引いてから来襲する形のものですが、津波には引くことなしにいきなり来襲するものもあるので、この点は注意していただきたいと思います。

また、前兆現象として上げているものも、地震の前兆と考えるべきもので、津波自体の前兆ではないのだろうと思います。チリ津波に前兆現象が無かったことはそれを示しているように思います。チリ周辺ではきっと前兆現象があったのでしょうが、地球の反対側の日本では感じられなかったのでしょう。

                            2004.8.31 田村 岱 (会社員)



  



Copyright (C) 2001-2003 Nippon Jishin Jyohou kenkyukai. All Right Reserved