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1.地震を神の仕業と考える時代
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| A 地震を政治に対する神の怒りと捉えた時代 ( 599年から9世紀後半まで )
599年5月28日の大和の地震に付き、『七年夏四月乙未朔、辛酉、地動、舎屋悉破、則令四方、俾祭地震神』と日本書紀にあるのが記録の初め。「当時の人びとが地震を神のしわざと考えていたことだけは、はっきりとわかる。
「このように、地震は神の怒りによるとする思想のもとでは、大地震のたびに祈祷や修法がおこなわれた。また、ときには天皇みずから『御自責の詔』を下されたこともある。それは、中国伝来のいわゆる『天譴の思想』のあらわれであり、『天変地異が起こるのは、天子の政治が悪いからそれを天がとがめるのであって、すべて上一人の責任であり、庶民は何の罪も無いのに災厄をこうむったのは、まことに気の毒である。よろしく被災地に人を遣わして国史と相談し、租税の免除や必需品の補給をおこなうように』というような趣旨のものであった。
御自責の詔は、734年の畿内七道の大地震のときに下賜されたものをはじめとして、七例ほどが知られている。その最後のものは、869年陸奥国の地震に対して下された詔勅で、以後は見あたらない。つまり、御自責の詔が発せられていたのは、9世紀後半までの天皇親政の時代に限られるのである(「地震と火山の災害史」伊東和明著・同文書院から引用、以下「」内は同書からの引用です)」
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| B 地震を何かの前兆を示す現象として捉える時代。大震災があると「改元」がおこなわれ、「地震占い」が行われるようになった。( 9世紀後半から江戸時代 )
天皇親政の時代が終わり、藤原氏専制の時代、ついで武家政治の時代へと移り変わると、「為政者にしてみれば、天変地異のあるたびに、自分の政治が悪かったとあやまっていたのでは、せっかく獲得した権力の手前はなはだ具合が悪い。そこで、せめて年号を変えて世の中の気分を一新しようということになり、大震災とともにしばしば『改元』がおこなわれるようになった。
地震による改元の最初は、938年の京都地震で・・中略・・この地震のあと、年号が『承平』から『天慶』に改められている」
「当時中国から伝承した陰陽道の思想が、地震現象の理解に強い影響を与え、地震のたびに、将来の吉凶判断が地震占いとしておこなわれるようになった。その背景には、地震を天譴としていた時代から、地震が何かの前兆を示す現象であるとする地震観の変遷が見られる」
「地震占いをつかさどるのは、朝廷の『陰陽寮』であった。そこには、占いを担当する博士がいて、たとえば、地震後1年以内に国に大喪ががあるだろうとか、朝廷に乱臣があって兵を起こし、国土が荒廃するだろうとか、飢饉になって天下の民が飢えるだろうとか、陰陽道にもともとづいて予言をするのである。しかし、同じ地震について、陰陽師たちの占いの内容がくいちがうこともまれではなかったし、なかには、世の中が占いのとおりにならなかったという理由で島流しになった陰陽師もいる」
「地変の原因を神の怒りであるとする思想は、中国伝来の陰陽五行説にも支えられて、とうとう江戸時代にまで承継されてくる」
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| 2.ヨーロッパの科学の影響と陰陽五行説を結び付けた時代。17世紀中頃から |
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「家康が天下を統一して江戸に幕府を開く直後、つまり16世紀の末から17世紀初頭にかけては、日本列島の各地で、かなりの災害をともなう大地震があいついで起こった。・・中略・・わずか30年ほどのあいだに日本各地であいついだ地震災害は、おのずから識者の眼を地震の原因そのものに向けさせることになった。種子島への鉄砲伝来を契機に、ヨーロッパの科学が、おいおい日本に紹介されていたころでもあり、地震とはいったいどんな自然現象なのか、という問いかけが、人びとのあいだに芽生えてきたのである。」 |
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A 向井玄松の『乾坤弁説』「これは、もともとポルトガルの天文書を、日本に帰化したポルトガル人沢野忠庵(クリスチャン・フェレイラ)が翻訳し、それに玄松が陰陽五行説による解説を加えたものである。」「『地震というのは、土の穴を通って地上の風が吹き込み、まず土の中にたまる。ところが、風は本来地上にあるべき存在なので、ふたたび土中から出ようとする。このとき、もし出口がないと、その上騰しようとする力が、大地をゆさぶって地震を起こすのだ』。これはアリストテレスの学説によって述べている原典の部分なのだが、この説の上に、玄松は陰陽説による考察を加えている。
『右の南蛮学士の説のうち、土中の風が地上へ出ようとして地体を震動させるというのは良いが、その風の根源は、土の穴から吹きこまれたものではなく、地中の陽気である。地中には、万物を出生しようとして上昇する陽気があるのに、地の陰気がそれをふさぐので、陽気が上昇できずに憤撃発開し、陰気を破却して大地を動揺させ、そのために地震が起こる』というのである。つまり、原説の風を地中の陽気に置きかえて論述したもので、陰陽五行説がまだ主流をしめていたことを思わせる。」
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B Aに続いて現れた『大極地震記(1662年)』「この書の著者は不明だが、地震に関する専門書としては、日本最初のものだろうといわれている。」
この説は『天地は地水火風の4つの原素からなりたっていて、ふだんは平衡を保っている。ところが、その平衡が破れて、地中の風がさかんになれば、その上の火もさかんになり、火がさかんになれば、火の上にある水も沸騰する。そして水の上の地を動かすことになる』とする。「この説も、陰陽五行にもとづいた説だが、地球内部の火や水の動きによって地震を説明しようとした点に新しさが感じられる」
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C 「 江戸幕府が開かれてから100年を経た18世紀の初頭、・・中略・・日本列島はまたも激動期を迎える。・・中略・・この激動の時代を体験した学者の一人に、西川如見がいる。彼は八代将軍吉宗に召されて天文暦術を講じたほどの学識者であり、20余種の著書をあらわしている。そのうち、『両儀集説(1712年)』・・中略・・のなかで地震の原因について述べているが、ともに地中の陽気あるいは風が上昇しようとするときに地震が起こるとしており、依然としてアリストテレス流の考えにもとづいていることがわかる。
しかし、如見は『両儀集説』のなかで、『日本南海の所々地震の時に非ずして洪濤忽に至って海辺没却せしむる事あり、是大海の南底に地震有って海水動揺し、洪波起って潮水漲湧し来たれる者也』と述べて、太平洋岸では、地震がなくても津波の来襲があることを指摘し、これは海底の地震によるものであると論じている。当時としては、まことにすぐれた見解といえよう。また彼は、古代から伝わる地震占いを迷信であるとして強く否定し、科学的な思考が卓抜した進歩派学者であったことをうかがわせる」
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D 1836 年に帆足万里の「窮理通」が完成。「地震に関する記事はその巻之8にあって、地中の硫化物などが水と接して火熱を生じるのが地熱の原因であり、そのような熱気が沸騰して地震を起こす、という新設も披瀝している。しかし、全体としては、地下の風または気の動きによって地震現象を説明しようとしている点、大きな変わりはない。このように、如見や・・万里など、当時を代表する学識者たちの地震観は、根本的には『地中に伏していた陽気あるいは熱気が、むりやり上昇しようとして地震を起こす』という概念に貫かれており、その根底には、依然としてアリストテレス流の考えが横たわっていた」
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| 3.地震の原因として電気や地下の高熱に着目し、予知論、防災論に発展した時代 |
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A 「19世紀になって、橋本曇斉が現れる。若い頃からエレキテルに興味を持ち、1811年に『エレキテル究理原』を完成している。・・中略・・その巻之下に、地震を電気現象としてとらえているのが注目される。もちろん、地震の原因論に電気なるものが登場するのは、これが最初である。それによれば、地熱によって地中に電流が起こり、それが空中に放電するときに地震が発生するのだ、という。当時としては、かなり思いきった地震原因論であった」
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B 「ヨーロッパでは、19世紀に入ってから地震に関する科学的な考察が進んだが、やがてその影響は、日本人の地震論にもはっきりと現れてくる。しかも、19世紀の中葉、日本列島はふたたび大ゆれの時代を迎えた。・・中略・・1856年に完成した広瀬元恭の『理学提要』は、ドイツの理科書を原本にしたものだが、その3之巻は『土』篇であり、火山、地震、山岳、動植物などについて述べている。地震の原因については、地中の硫黄や硝石、含火石などが爆発的に燃えるときに、『激震奮射大二地動ヲ起シ、而シテ火気外泄ノ途ヲ得ザレバ、則チ其ノ動、時ヲ経ルモ息マズ』と述べ、地下の高熱に地震の原因を求めている。また、その熱による力が、地下で働けば地震となり、地表に現れれば火山の噴火になるとして、地震と火山との関係を体系化しようとしているのが注目される」
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C 「1855年の江戸地震は、日本の中心都市、しかも将軍のおひざもとで起こった震災であっただけに、幕府はいきおい地震対策の強化を迫られることになった。ただでさえ、日本中に大地震があいついだときでもあり、・・中略・・しかもこの時代は、1853年にペリーが黒船を率いて浦賀に現れて以来、開国か、攘夷かで国内の議論が二分されていたころであり、幕府内の派閥争いもからんで、混乱は諸藩に波及していった。・・中略・・こうした不安な世相の中で、人心の動揺を恐れた幕府は、蘭学者宇田川興斉に命じてオランダの地震書を訳術させた。原本は1844年刊の『ネーデルランッセ・マガセイン』で、興斉により1856年に『地震予防説』として刊行されたものである。防災の立場から地震を論じた学術書は、おそらくこれが最初であろう」
「この書では、まず地震の原因論として、当時最も注目されていた『エレキテル』説をとっている。・・中略・・地震を地中の電気現象としてとらえている。だから、雷を防ぐのに避雷針をつけるのと同様に、地中にたまった電気を逃がすための装置を据えつければ、地震を避けることができる、と力説する」
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D 「小田東壑は1857年に発表した『防災策図解』の付録『地震劇風災害予防図説』のなかで、さまざまな予知法についての科学的根拠を疑い、また、異常が現れたとたんに大地震が起こるのでは、いくら予知できたとしても、地震の災厄からのがれることはできないではないか、と力説した。そして・・中略・・耐震建築など災害に備えることの必要性を強調している。
こうして、江戸時代後期の地震論は、震災論から予知論へ、そして防災論へと発展していった。しかし、そうした『論』の発展とはうらはらに、まずなされなければならない地震現象の科学的把握は、はなはだ実証性に乏しいものであった。やがて、明治の文明開化とともに、外国人科学者が続々と来日し、ジョン・ミルンやアルフレッド・ユーイングなどが、地震計による地震観測を日本にもたらして、ようやく近代地震学の黎明期が訪れるのである」
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| 4.日本地震学会の成立 1892年 |
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「1880年2月の横浜・東京地方の強震に刺激された在日御雇外人教師や技術者を中心に、日本人も参加して結成され、地震計の開発、地震活動の調査など、黎明期の地震学に大きく貢献。『日本地震学会詳報』16巻を刊行(「地震・火山の事典」東京堂出版より引用)」
「日本の現在の地震学会(1993年4月 日本地震学会と改称)は1929年に発足した別の組織である(「地震・火山の事典」から引用)
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地震となまず
「伊豆松崎のある寺で、ふすまを張りかえたとき、下張に使われていた古い暦が発見された。それは12世紀の暦だったが、そこには『地震虫』という奇怪な生物が描かれていた。竜のような姿をした大虫が、諸国を取り巻いている絵である。地震と動物とを結びつける考えが、鎌倉時代にはすでに生まれていたともいえよう。つまり、『地震なまず』説の前に、『地震虫』説が存在したのである」
「では『地震なまず』の説は、いつごろ生まれたのであろうか。茨城県の鹿島神宮の境内に『要石』と呼ばれる大石がある。『常陸国誌』によれば、『大きな魚が日本を取り巻き、頭と尾とが鹿島の地で重なりあっている。その頭と尾とを鹿島神宮が釘で刺し貫いていて、魚が動けないようにしている。要石は、その釘にあたるものだ』と説明している。だが、この大魚についても、『なまず』とは書かれていない」
「『地震なまず』のことが、はっきりと書き記されている最も古い記録は、意外にも松尾芭蕉の俳諧のなかである。・・中略・・1678年に詠まれた江戸三吟のなかに、珍しくも次のような句が見出される。
『大地震つづいて竜やのぼるらん 似春』
『長十丈の鯰なりけり 桃青』
似春が、大地震にともなう地変を、昇竜にたとえて美化したのにたいして、芭蕉(桃青)は、竜をなまずに見立てて茶化したのである。この地震は1678年8月17日の地震だったとも思われる」
「1690年に日本を訪れたドイツの科学者ケンベルは、二年間の日本滞在を回想した著書のなかで、『地震は大きな鯨が地下を這い歩くために起こるのだと、日本人は言っている』と述べた。おそらく、地震を起こす怪物として見せられた大なまずの絵を、ケンべルは鯨と早合点したのだろう。このようなことから、『地震なまず』の伝説の起こりは、17世紀後半あたりと考えてもよさそうである」
「地震となまずとがまったく縁がないかといえば、あながちそうともいいきれない。『江戸地震』のもようがくわしく書き記されている『安政見聞録』のなかに、次のようなくだりがある。『10月2日の夜数珠子といへるものにて鰻をとらんと河筋所所をあさるに、功に鯰騒、鰻一つも得ず、唯鯰三尾を得て倩思うやら、鯰の騒ぐ時は必地震有といふに心付きて、漁を止、帰宅して庭上に筵を敷、家財道具を出して、異変の備をなせり、其妻は不審密に笑へ、しかるに其夜右地震なり、住居は悉く潰れけれ共、諸器物は更に損せず、偖亦同夜近辺の人、是も漁に行、鯰の騒たるを見ながら帰宅をせず、又獲物も少き上家居より家財道具を残なく揺崩し深く悔しが。・・(中略)・・是等は自然の道理にて、地に変動あらん時は、且鯰の騒事あらん、此国により地震を鯰なりと言もし、画にも書事ならん、何れ前条の現証を見て後世の鏡ともならんと爰にしるす』。これが実話ならば、地震の数時間前に川底のなまずがかなり敏感になり、活動的になっていたと想像される。『安政見聞録』は、いちおう信用できる文献であるから、まんざらでたらめを書いたとは思われない。1923年の『関東地震』のときにも、その前日に、向島のある池でさかんになまずが跳ねたり、神奈川県の鵠沼では、1尺ぐらいのなまずがバケツに3ばいもとれたという話がある」
東北帝国大学の畑井新喜司博士は「『東洋とくに日本においては、古来なまずの寝返りによって地震が起きると称せられていますが、これは普通の迷信とは趣を異にし、むしろ大震の起こる数時間または数日前に、何らかの刺激を感受し、平常泥中に棲息するなまずも水面近くに出現した場合が多くあるのを、多年の観察によって注意するに至り、その結果としてなまずと地震が関係づけられるようになったのではないかと考えられます。おそらくなまず以外にも、地震の前に敏感になる魚類はあるだろうと想像されますが、・・』と雑誌『改造』のなかで、博士はこう結んでいる」
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(2006年08月25日)
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