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あ
- アーチボルト
- → ダグラス伯アーチボルト
う
- ウェスモランド伯
Earl of Westmoreland
- [ヘンリー4世第1部]
国王ヘンリー4世に忠実に仕える重臣の一人。冒頭で、王にモーティマー伯がウェールズで敗戦して捕虜となったという悪い知らせを告げる役を果たしている。
パーシー家ら反乱軍とのシュルーズベリーでの合戦の際にも、自ら出陣した王の側近くに仕えており、負傷した皇太子ハルの世話を頼まれるなど、王からの信頼の篤いことが
見て取れる。
[ヘンリー4世第2部]
ヨーク大司教らの反乱軍鎮圧のために、王子ジョン・オブ・ランカスターの総指揮の下、補佐官として参戦。ゴールトリーの森で大司教らに王子の言葉を伝え、和議を結ぶために会談の場を持とうと説得する。この会談で、互いに兵を解散させ和睦を結ぼうという王子の申し出に、大司教らは兵を解散させるが、ウェスモランドは王子の真意を汲んで軍をそのまま待機させ、丸腰になった反乱軍を一網打尽に捕らえた。ウェストミンスターにいる国王に、反乱を鎮圧し首謀者らを処刑した旨告げる役割も、ウェスモランドが果たした。
[ヘンリー5世]
国王ヘンリー5世に付き従ってフランスまで共に出兵、アジンコートの戦いを前に、多勢に無勢を嘆いて王に諌められる。戦いに臨む勇気の無い者は去れと布告を出すように王から直接命じられているところからも、父王の時代と変らず側近格にあるらしい。
【歴史上】
レイフ・ネヴィル
Ralph Neville, Earl of Westmoreland
1364-1425
初代ウェスモランド伯。1397年にリチャード2世により序爵。3代ネヴィル卿ジョン・ネヴィルと、モード・パーシーの長男。
ネヴィル家は、パーシー家と並ぶ北イングランドの有力貴族であり、勢力争いを続けるとともに幾度も縁組を重ねている。ウェスモランド伯の父は[リチャード2世]で活躍したノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーの妻(ホットスパーの母)の兄に当たり、また、母は、ノーサンバランド伯の伯母である。
2度結婚しており、2度目の妻は、ヘンリー4世の異母妹に当たるジョアン・ボーフォートである。16人(18人?)の子の父親となっており。[ヘンリー6世第2部]のソールズベリー伯は息子、[ヘンリー6世第3部]のウェスモランド伯は孫になる。また、[第2部][第3部]にて活躍するウォリック伯も、孫にあたる。
ノーサンバランド伯ら同様に、帰国したボリングブルックに味方し王位に付く手助けをした。その後、叛旗を翻すことはなく、生涯ランカスター王家に仕えた。
尚、アジンコートの戦いには、実際には参戦していない。この時期にはスコットランドの国境を守っており、フランスには行かなかった。
- ウェールズ部隊の隊長
Captain of a band of Welshmen
- [リチャード2世]
ヘンリー・ボリングブルックの反乱に際して、リチャード2世に味方する予定であったが、王の到着の遅れと死の噂に、部隊を解散して去る。その後ソールズベリー伯からリチャード王に、逆にボリングブルック側に付いたと報告されている。
シェイクスピアはオーウェン・グレンダワーとして描いたという説もあるらしい。
- ウォリック伯
Earl of Warwick
- [ヘンリー4世第2部]
国王ヘンリー4世の側近の一人で、サリー伯とともに王の相談役的な立場にいる。内乱を憂い嘆く王の恨み言を聞き、何も心配はないときっぱりと言い切り、慰める。また、病床に伏せていた父王の枕元から王子ハルが王冠を持ち去った時には、激怒する王をなだめ、王子の行為は悪意でないとかばう。
もっとも、ハル寄りな立場なわけではなく、ヘンリー4世が逝去しハルが即位する際には、法院長に愚痴をこぼし、新王の気質を信用していないことを明らかにしてしまっている。とはいえ、その法院長のように表立って対立していたわけでもなく、新王自身の目の前ではそつなくふるまう。
[ヘンリー5世]
国王ヘンリー5世の側に仕え、フランスまで共に出兵、アジンコートの戦いにも参戦している。ただし、劇中では台詞が一言のみ、しかもなにがあったのか問い掛ける台詞だけという端役であり王との関係や戦功などは一切不明。
[ヘンリー6世第1部]
国王がヘンリー6世に代替わりしても、変らず宮廷に仕える。
ロンドンテンプル法学院の庭でリチャード・プランタジネット=ヨーク家と、サマセット公=ランカスター家が言い争いの末、各々白バラと紅バラを手折り、その場の者達にも与する側のバラを摘んで党派を明かにするよう促す。その時に、選択を請われて真っ先に白バラを手にする。その誓い通り、幼き国王ヘンリー6世に奏上し、プランタジネットがその伯父の爵位を継いでヨーク公の座に復権する手助けをする。
その他、やはり御前で激しく言い争う王の叔父グロスター公ハンフリーと、同じく大叔父ウィンチェスター公をなだめ、無理矢理和解させる。もっとも、それは形だけの和議であり、本当に両者が仲直りしたと信じているのは国王だけである。
【歴史上】
ウォリック伯リチャード・ビーチャム
Richard Beauchamp, Earl of Warwick
1381-1439
第13代ウォリック伯。12代ウォリック伯トマス・ビーチャムとその妻マーガレット・フェラーズの間の唯一子。1401年に伯位を継ぐ。1419年にオーマール伯に序爵。
有能な軍人として知られ、グレンダワー率いるウェールズ軍相手に勝利したこともある。パーシーらの反乱軍を相手にしたシュルーズベリーの戦いにも、国王ヘンリー4世に同行し活躍した。
1415年、国王ヘンリー5世のフランス進攻軍にも参加するが、一旦捕虜を連れてイングランドに帰っており、アジンコートの戦いには参戦していない。その後、フランスに戻って休戦の準備に関わり、ルーアンで死を迎えるまで殆どの時を大陸で過した。
ヘンリー5世亡き後、摂政議会の一員となり、幼王ヘンリー6世の教育係に任命されている。
再開されたフランスとの戦いにおいてもやはり武将として活躍した。
長男ヘンリーの妻は、「ヘンリー6世第2部」のソールズベリー伯リチャード・ネヴィルの2女セシル。4女アンの夫はソールズベリー伯の長男リチャード・ネヴィル、即ち「ヘンリー6世第2部、第3部」で活躍する"King maker"ことウォリック伯。
「ヘンリー4世第2部」で、ヘンリー4世王に“ネヴィル”と呼びかけられているが、これはシェイクスピアが混同したものと思われる。
また、「ヘンリー6世第2部」でも、ソールズベリー伯の息子のウォリック伯、即ちリチャード・ネヴィルがアンジューとメーヌをかつて勝ち取ったと自分の戦歴を述べる場面があるが、この戦歴はリチャード・ビーチャムのものであり、ここでも作家が2者を同一視しているようである。
- ウスター伯トマス・パーシー
Thomas Percy, Earl of Worcester
- [リチャード2世]
ノーサンバランド伯の弟、ホットスパーの叔父。
直接は登場していないが、グリーンとホットスパーの口から動向が語られる。兄がボリングブルックとともに反乱軍を旗揚げしたかどで逆賊と宣告されたことを受け、自らも宮内卿の職を辞して、ボリングブルックの側についた。
[ヘンリー4世第1部]
パーシー家の力で王位に付けたという自負から、ヘンリー4世の感謝が足りないと不服に思っている。ホットスパーが王の不興を買ったのをきっかけに、甥と兄を巻き込んで反乱を実行に移す。
シュルーズベリでの合戦を前に王との交渉に出向く。しかし、そこで提示された、戦闘を回避しハル王子とホットスパーの一騎討で勝負を付けようという申し出を、それでも首謀者の自分は処罰されるに違いないという思いから仲間達に隠し、全面対決に突入させる。
その戦闘で甥は戦死。自らは捕えられ処刑を申し渡される。
捕えられた際、申し出を伝えなかったことを王に見抜かれ責められるが、自己保身のためにやむをえなかったと堂々とうそぶいている。
【歴史上】
1344?-1403
3代アニック男爵パーシー卿ヘンリーと妻メアリ・プランタジネットの次男。
1397年ウスター伯に序爵される。
元来軍人で、エドワード3世治世下から何度もフランス、フランドル等に従軍。1386年にはジョン・オブ・ゴーントのカスティル・レオン遠征に従っている。帰国後宮中に職を得、順調に出世して、1397年には王に最も近い臣下の1人となっていた。
生涯独身であり、ウスター伯位がパーシー家にあったのは彼一代限りとなった。
え
- エドマンド・オブ・ラングリー
- → ヨーク公 エドマンド・オブ・ラングリー
- エドマンド・モーティマー
- → マーチ伯エドマンド・モーティマー
お
- オーウェン・グレンダワー
Owen Glendower
- [リチャード2世]
ヘンリー・ボリングブルックの口から、これから戦うべきウェールズ軍の指揮官として名前が語られる。また、二幕四場のウェールズ部隊の隊長も、グレンダワーのことと見做す場合がある。
[ヘンリー4世第1部]
ウェールズ軍を率いて、イングランドの軍勢と戦い、勝ってマーチ伯モーティマーを捕虜とし、後に彼を見込んで娘婿にする。モーティマーの義兄ホットスパーらの起した反乱に協力する約束をするが、シュルーズベリでの決戦には、二週間たたないと兵を集められないと言って参加しなかった。
イングランドの宮廷で育ったため、ウェールズ語だけでなく流暢な英語を話す。ウェールズの伝統通り詩と音楽を愛し、また迷信深く予言を信じる。そのため、実務一辺倒のホットスパーに疎まれている。
[ヘンリー4世第2部]
ウォリック伯から王に死が伝えられる。死因は明らかにされていない。
【歴史上】
1354?-1416?
Owain Glyndwr、又は、Owain Ap Gruffudd(ウェールズ語)
プリンス・オブ・ウェールズを自称し、イングランドのウェールズ支配に抵抗する事実上最後の戦いを率いたリーダー。今日ではウェールズの国民的英雄である。
北ウェールズの豪族の家柄出身。
青年時代にはロンドンで法学を学び、王家に仕えた。ウェールズ帰国後、イングランドによる祖国の抑圧に気付き、独立運動を開始。ウェールズをひとつにまとめあげ、独立政府をつくりあげる。また、祖国解放のために、1403年にはパーシー一族らイングランド国王に対する反乱軍と、さらに1405年にはイングランドの宿敵フランスと同盟を結んでいる。何度もイングランドと戦い敗北を繰り返す中次第に力を失い、1412年頃以降の消息ははっきりしない。
- 王妃(リチャード2世の)
- → リチャード2世の王妃
- オーマール公
Duke of Aumerle
- [リチャード2世]
ヨーク公エドマンドの嫡子。国王リチャード2世、ヘンリー4世には従弟にあたる。
リチャード2世の側近で、アイルランド遠征にも同行。帰国後、ボリングブルックにより捕えられる際も共にいた。
リチャードからの王位剥奪に先立つ議会で、バゴットとフィッツウォーター卿によりグロスター公暗殺犯として告発される。この件については真相が究明されないままうやむやにされた。
ヘンリー4世即位後、リチャードに従った罪でオーマール公位を剥奪される。その後も、同じくリチャード派のカーライル司教らの謀反に連座するが、今やヘンリー王に忠誠を尽くす父に知られ、保身のためヘンリー王に仲間を売る。母ヨーク公爵夫人のとりなしもあり謀反の罪には問われなかった。
[ヘンリー5世]
ヨーク公として登場。アジンコートの戦いで国王ヘンリー5世のため前衛を率いて戦い、激戦の末討死にする。
【歴史上】
エドワード・オブ・ノリッジ
Edward of Norwich
1373頃-1415
初代ヨーク公と1人目の妻イザベル・オブ・カスティルの間の長男。
1390年にラットランド伯、1394年にコーク伯に序爵。オーマール公(本来はAlbmarleと綴る)には、1397年、オーマール公でもあったグロスター公の死後直ぐにリチャード2世より序爵され、1399年にヘンリー4世に剥奪されている。また、グロスター公の死に際しては、王により、その遺した領地、公職の多くを授与された。
父の死により、1402年に2代目ヨーク公となる。
アイルランド遠征まではリチャード2世と行動を共にしているが、劇中とは違い、ボリングブルックの反乱軍の優勢を見て裏切った。ヘンリー4世即位後すぐの謀反には、元から二重スパイとして加わっていたとも、荷担していないとも言われている。
1405年、謀反に荷担したと妹コンスタンスに訴えられ、一旦ロンドン塔に幽閉されたが、すぐに釈放されている。
なお、劇中と同じくアジンコートの戦いの戦場で死を迎えたが、戦死ではなく、心臓発作、あるいは窒息死と伝えられている。
子供を残さなかったため、公位は弟ケンブリッジ伯の長男、リチャード・プランタジネットに渡った。
→系図(『「系図の迷宮」〜西洋王族家系図の世界〜』内)
- オールドカスル,ジョン
- → ジョン・オールドカスル
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