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藤崎とは誰なんだということで、少し前の話になりますが、広報とみさと2006年3月号(富里市HPを見ればまだあるかも・・・)に掲載されてます)と、スポルティーバ2006年4月号(集英社600円。バックナンバーは難しいかも・・・)に記事が載ってます。興味ある方はご覧下さい。下記の内容は2006年の内容とは変わりありません。ちなみに現在、知的障害者施設の管理者やってます。体重は80kgをはるかに超え、立派はメタボです。競歩に関することでは日本で2番目と勝手に自負しています。
氏名 藤嵜 明(fujisaki akira)
昭和34年2月のバレンタインという聖なる日の翌日の全く普通の日の15日、しかも雨の日に助産婦さんによりこの世に出現。千葉県印旛郡富里村七栄が生誕の地。富里村立小学校、中学校を留年することなく無事卒業。この頃神童と自分で思ってた。でも神童の意味は知らなかった。千葉県立佐倉高校にまぐれで進学。富里中学校の小川先生(当時)はすごい選手がいるぞと高校の先生をだまして才能もないのに陸上部に入部する。そのときの先生はあの小出義雄先生。まさか、後に有森裕子や高橋尚子の監督になるとはそのとき夢にも思わなかったし、思えなかった。当時の小出先生はとてつもない酒豪。でも、必ず朝練してた。酒臭かったが。高校時代は才能に見合い、全く鳴かず飛ばず。目立つのは陸上じゃなくて成績ばかり。それも悪すぎていつも呼び出されてた。なのに小出先生の勧めで何故か明治大学に進学。当時は箱根駅伝を夢見てた。確かに夢だった。箱根は予選会しか知らない。8位が最高(当時は6位まで)。大学1年の終わりに、関東IC1部昇格のチャンスだからお前は競歩をやれ!と当時の明大競走部の伊藤主将に厳命される。終わり次第競歩に戻っていいという条件で。ところが、10000mW2部校で準優勝。1部2部全体でも5位と言う成績に、皆やめるな!の大合唱。師匠の森川さんは競歩をやってれば外国にもいけるし、女にももてるといわれて信じた。外国には確かに行けたが、女にはもてなかった。騙されたと思いつつも結局そのあと13年も続けることに。競歩の成績は大学4年の時、斉藤和夫さん以来17年ぶりに50km競歩学生チャンピオンになっちゃった。1982年には第9回アジア大会50km競歩3位。20km競歩5位に入賞。銅メダル獲得は日本競歩の危機を救ったとも言われた・・・らしい。その後もしつこく続け、国体や日本選手権で上位入賞するも大飛躍はなく、なんとか世界陸上東京大会出場を花道にと思っていたが、その前年の暮に体調を崩し、力尽きて引退。以後指導者として現在に至る。
指導は明治大学、成田高校、富里高校など。指導した選手はたくさん。それなりに強くなった人もいるが皆指導者に似て、そのほとんどはいまいちだったりして・・・。ただ、酒だけは皆強くなってる。そこだけは指導者に似ていないな。
そして知的障害者の陸上の指導もやった。当時の知的障害者のフルマラソンの世界記録保持者を育てた。自分が現役で一緒に走ってた(走れてた)時は記録更新は3度で誰にも抜かれなかった。誰も褒めてくれないし、誰も覚えてないので自分で自分を褒めておくことにする。もっとも褒められたくて走ったわけではなく、楽しいからやってただけで、むしろ遊んでもらったと言った方が正解。鈴木博巳さんありがとう。
----画像は1982年インドでのアジア大会20kmW 先頭は優勝した中国王選手、2番目は藤崎、3番目は小坂選手、4番目はマレーシア、スブラマニアム選手----
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