第四章-1 権力者が封印した?日本の風水学
中国や東南アジアや沖縄ほどあからさまではないが、日本にも風水学は確実に伝わり、日本の都市形成と歴史に深く影響を及ぼしています。藤原京・平城京・長岡京・平安京・東京(江戸)と風水を色濃く残す場所を風水的に読み明かして行きましょう。
その前に、私の風水研究のフィールドワークに時たま顔を出す「家相学」があります。(似て非なる物)とはまさしく「風水学」と「家相学」といえます。「権力者が封印した風水学」とは私の推論でありますが、家相で「凶」といわれる部分が風水では特に悪くなく、又「吉」である場合もあります。これは?何故?もしかしたら? 風水の恐るべき力を理解した時の権力者が、日本独自の「家相」というものを作り庶民に広め、簡単に真似が出来ないように風水の力を封印したのでは?情報操作をしたのではないか?と言う疑問がわきました。 例えば、「中庭」の場合、家相では大凶相と書いてあります。本当でしょうか?古い日本建築で神社仏閣には中庭形式を見る事が出来ます。弘法大師「空海」を祖とする真言宗の初期の建築は中庭が多いし、中国の住居やヨーロッパの住居にも中庭形式が多いのです。地球上で何故?日本だけが中庭はダメなのでしょうか?
こんな仮説が出来ます。「中国から伝わった風水学は遷都の手法から始まり、次第に風水建築へ進んでいった。その中でも風水を強く意識できる建物として中庭形式の建物が主流となり、神聖な神社仏閣で実践された。権力者や識者達は安泰と繁栄を導く要因として、建物の特に「中庭形式の効果(風水の力)」を認めたのではないのでしょうか?すると、この建築様式を模倣されると権力さえ奪われ兼ねないと考え、一般庶民や使用人に真似出来ない・されない様に、風水建築の実践で効果のあった手法は家相と言う名のもと、「凶・大凶」と指示し、忌み嫌わせ、差障りのない建物を作らせた。家相は迷信として進化し風水学は現代まで日が当たらなかった」と推測出きます。
今後、私達は、家相(鬼門)という言霊から逃れ、本当の風水を積極的に利用し、風水本来の目的である「居心地の良い・気持ちの良い空間」を作り出して行きたい。
21世紀は風水社会の到来です。それでは、歴史の中の風水学を見ていきましょう。
1-権力者が封印した?風水学と発展を遂げた家相学
第四章-2 日本の風水都市を調べる。(その1)
古来より中国では風水思想が都市計画に大きな影響を与えてきた。それは王都建築として発展し風水デザインを確立させた。風水の基本に「蔵風・得水(ぞうふう・とくすい)」(風をため、水を得る)があり、この思想を元に吉相の地を探すことから風水は始まる。特に「得水」は重要で、都市建設に於いて「水」の確保は最優先である。次に「蔵風」である、これは建設地周辺の地形から吉相を判断する事である。夏に起こる災い、台風(モンスーン)と冬に起こる災い極寒の北風(季節風)から都市を守る、そして外敵から都を守る為に蔵風は使われた。それは四方に四獣(四神)相応する土地(四獣とは四方にある山・丘を指す)である事。その様な土地は盆地形状が該当する。これは「偏西風」が吹く地域の古代都市は盆地状の土地に建設されている事共通する。西ヨーロッパ・中国・韓国など古い都市にその傾向は強い、寒い風から守るため盆地を選定している。中国風水はさらに、土地の選定に対し細かいノウハウを持ち、実践と経験をまとめたもの、それが「地理風水」といえる。風水吉祥の地、特に王都建設地は「坐北朝南」「負陰抱陽」(北を背に緩やかな傾斜に南面し座る)と言う場所が重要視される。陰と陽の気がうまく交じり合い「半陰半陽」バランスがとれている、恒久の発展・成長が望める地を探すことにある。そして四獣「北に玄武げんぶ(陰)・南に朱雀すざく(陽)・東に青龍せいりゅう(陽)・西に白虎びゃっこ(陰)がバランスよく配置されているかをみる。そして王都は明堂の中心に建設され、宮城は王都の北端に位置する。何故北かというと生気の流れ込む入口が北であり、「坐北朝南」「天子は南面す」事を吉とするから北に位置し南を見る事が重要となる。風水都市デザインの基本は「天心十字の法」で南北ライン・東西ラインを四神に合わせ対称軸をつくり軸の交差する点が王都の明堂である。
以上のことを踏まえ、日本の古代王都を風水にかなっているか確認してみよう。
日本における、最初の本格的な都として694年(持統8年)に完成したのが、奈良県橿原(かしはら)市にある藤原京です。藤原京は持統・文武・元明天皇の三代で16年間、宮都として栄えた、都が平城京に移転すると共に衰退し現在は土壇(大宮土壇)が残っているだけである。造営のモデルとなったのは中国の洛陽である。特徴は碁盤の目状に道が配置された都市デザインである。中でも天皇の政務を行う大極殿は幅45m奥行き20m高さ25m(現在のビルの8階建にあたる)で当時は日本最大の建築物であった。又この大極殿跡から周囲の地形を見てみると北に耳成(みみなし)山140m、東に天香具(あまのかぐ)山152m、西に畝傍(うねび)山199mが見え、南は飛鳥川が流れている場所で軸線が意識出来る事がわかる。風水的に見ると耳成山は玄武、天香具山は青龍、飛鳥川を水朱雀さらに南に吉野山地で山朱雀、畝傍山を白虎とみたて四神相応の地と呼ぶ事が出来る。風水を利用した事は間違いないであろう、又これら三山は人工的に作られたと言う説や墓であると言う説があると聞いた事がある。人口造山であれば、藤原京は確実に風水都市であったと証明できる。ただし地理風水を正しく実行できたかは疑問である。それは遷都の期間がたったの16年間しかない、これは風水の効果が無かったのではと考えられる。検証して見よう。四神については、確かにポジションとしてはいいが、欠点が多い。@玄武は高い山や山並みそして主山の存在が確認されなければいけないが、耳成山では貧弱すぎるし北側からの気流入が期待できない、主山が確定できない。A仮に耳成山を玄武と見たときに香具山と畝傍山が大き過ぎて本来の「砂」の役目を果たせない。B朱雀が高く存在し玄武の弱さを強調している。以上の様に、理想的な風水吉祥地に思えた藤原京は風水の仮面を被っていただけあり、強さを誇示できずに衰退したと考えられる。
ケース1-藤原京(694年)
冊子『よみがえる藤原宮と京 〜創都1300年にむけて』より
藤原京風水地図
藤原京跡
ケース2-平城京(710年)



次は平城京を検証してみよう。平城京は710年から784年までの奈良時代の都である。風水に関する人達の中には絶好の風水地形と呼んでいる人もいるが本当の所どうであろうか?四神相応と天心十字を利用して、みてみよう。地図でもよくわかるが、平城宮から玄武(北)の方角に山が無い!玄武とは高い山を意味するのだが、ある本には高山か?と書いてあるが小さすぎるし変だ、青龍(東)は若草山(342m)又は一体山(595m)で白虎(西)に生駒山(642m)がある、朱雀(南)は平野が広がる。ここも藤原京同様に玄武が弱い、強い気の流れを呼ぶ事が出来ない。藤原京に続き同じ失敗をするのか?風水は伝わっていなかったのか?他に違う風水手法があるのか?と考えてしまう。しかし風水は確実に伝わっている。古墳造営(前方後円墳)は風水の隠宅風水理論である、高松塚古墳やキトラ古墳の四神等藤原京は中国・洛陽のコピーである。この時代に都市を作れる人達は風水を知っていたはずである、もしも中国の王都のデザインが正しく伝われば、もっと吉祥地を探し出すはずであるが?何故?この地を選定したのか?卜占した者の風水知識はどの程度だったのか考えてしまう。逆に深い策略があったのか?興味は尽きない。ただ、ここでわかる事は、遷都の地が平安京方向に近づいている事だ!!王都の決定への「表と裏」まさに陰陽世界、やはりサイレントバトルはあるようだ。
平城京を詳しく見ていよう、まず「続日本書紀」に元明天皇が和銅元年(708年)2月15日に発した「遷都の詔(みことのり)」によると風水によって、土地の選定と都市計画が出来た事が書いてある。第1文「往古(いにしえ)より己降(このかた)、近き代(よ)に至るまでに、日を揆(はか)り星を瞻(み)て、皇室の基を起こし、世を卜(うらな)ひ土を相(み)て、皇帝の邑(さと)を建つ。」第2文「平城の地、四禽図(しきんと)に叶ひ、三山鎮(しず)めを作(な)し」、亀筮(きぜい)並びに従ふ。都邑(とゆう)を建つべし」これらの文に風水の極意が記されている。「四禽図」「三山鎮(しず)めを作(な)し」である。四禽図は勿論四神相応の事であり、神様と言うよりは獣である。北に「玄武げんぶ」東に「青龍せいりゅう」南に「朱雀すざく」東に「白虎びゃっこ」と四神相応と言う風水の教えである。三山鎮めは、前述の藤原京が畝傍・耳成・香具山の大和三山に囲まれている姿と同じ姿を平城京にも見ることが出来る。それは北に「市庭(いちば)古墳」東に三蓋山(みかさやま)西に垂仁(すいにん)天皇陵と見る事が出来る、以上の事より風水デザインの都市である事は確実である。ただ残念な事は玄武の存在が希薄な事である、強い気を呼び込めない地形であった事である。それは、74年間と短期間の遷都であったことだ。その後、都は迷走するように転々とし、恭仁(くに)京から長岡京、そして平安京へと移っていく。 ただ風水空間の強さ、三山の守りは平城京の空間保存の効果は強いようだ、2回にわたる開発を逃れ、世界遺産として存在する事実は風水の力を信じずにはいられない。
