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2008年9月1日
出エジプト記20:4−5「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。」
岐阜加納教会の礼拝堂は、説教壇と聖餐卓と会衆席しかありません。説教壇の上には大きな朗読用の聖書が置かれているだけです。ご神体のようなものはありません。十字架もイエス像も、マリア像もステンドグラスもありません。旧約聖書で語られたモーセの十戒の第二戒に、「あなたはいかなる像も造ってはならない」「あなたはそれらに向かってひれ伏してはならない」と命じられているからです。この言葉は、新約聖書でも前提とされています。ですから、教会には神の像はありません。
しかしながら、教会の礼拝は神の前にひれ伏すというよりも、聖書の講義を聞くお勉強のような印象を抱かれるかも知れません。教会の礼拝では聖書が語られます。けれども、それは、主イエスが命じたことが教えられ(聖書が説教され)、洗礼(聖礼典)が行われるところに主イエスが世の終わりまで共にいてくださると約束をされたからです。 ですから、教会の礼拝では、神を像で表して拝むのではなく、聖書が説教され、洗礼と主の晩餐の礼典が行われています。そこに肉眼では見えませんが、主イエスが共にいてくださるからです。像や何か見えるものに表さなくても、聞いて、パンとぶどう酒に与ることで神を認識しているのです。
また、わたしたちは神をお手軽に持ち運び、役に立てば敬い、そうでなければ捨ててしまうようなものとしては扱うことはできません。神をお守りか何かのように持ち歩き、時には落としたり、無くしたりと、粗末に軽々しく扱うことはできません。
神は世界を造り、わたしたちを造られた御方ですから、像にすることはできません。像もご神体もない礼拝。それが岐阜加納教会の礼拝です。
2008年8月1日
出エジプト記20:3「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
聖書は、ただ一人の生ける神以外のものを神とは認めません。そのただ一人の神は新約聖書において、主イエスがわたしたちのもとに来られ、聖霊が弟子たちに降り、父と子(主イエス)と聖霊なる三位一体(さんみいったい)なる神として示されました。キリスト者は聖書に語られている神を生ける神と告白しています。
それでは神とは何者なのでしょう。日本には、神々が沢山います。八百万の神々と言うほど、様々な神々がいる多神教の世界です。それらの神々は、自分の役割があるようで、とても世界を造られた聖書の神とは異なります。恐らく古代より人々が何か畏敬を感ずる自然現象等の背後に、神的なものを感じたのではないかと思います。雷が雷神の仕業であったり、山などで有毒ガスで人が亡くなりますと山の神の祟りであるなどと考えたのかも知れません。鉄砲水で河川が溢れれば、川の神が暴れたと恐れたのでしょう。自然信仰や祖霊信仰は多くの文明の中にも何らかの形で残り続けているようです。
しかしながら、聖書は自然はあくまでも自然に過ぎず、人間も死ねば塵に返るものであることを記しています。自然が神秘的であるのは、この世界を神が造られたからです。生ける神はただ一人であり、死せる神々は人間がつくり出したものです。
わたしたちキリスト者はこの世界を造られた神だけを神として崇め賛美します。この神は、罪の奴隷とされて苦しむわたしたちを罪と死から救い出してくださいます。そのことを聖書を通じて知る時に、わたしたちはこの御方にのみ礼拝を献げ、感謝をします。ルターという人は「あなたの心のある所にあなたの神は居る」と語ったそうです。わたしたちの心は、金銭、貪欲、快楽、余暇、家族など様々なものに向いています。いつもわたしたちが心配し、いつもわたしたちが考えていることが、実際にはわたしたちを支配する神々となってしまうことがあります。そうではなくて、生ける神にのみ礼拝を献げ、愛し、仕えましょう。
2008年7月1日
洗礼を考えてみませんか。
マタイによる福音書28:19−20「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
岐阜加納教会では、毎週日曜日の午前10時30分〜12時、午後6時30分〜7時30分までの2回礼拝を行っています。礼拝に集い始めた方々と、信仰入門クラス、聖書の学びの会を午前の礼拝の後や週日に行っています。聖書をもう少し知りたいという希望に答えながら、共に聖書を読み、信仰について考え洗礼の準備を行います。主イエスが弟子たちにそのことを命じています。 洗礼を受けるためには何を自分が信じているか告白しなければなりません。聖書に証言されている神(父、子、聖霊なる三位一体の神)がどのような御方であられるか、そして自分自身がどのような存在か、自分の罪を自覚して、御子主イエスによる罪の赦しを悔い改めて受け入れ、キリストに従うことを告白します。そして聖霊なる神の助けに信頼して信仰の歩みを始めます。
洗礼というと、余程立派なキリスト者でなければ受けることができないと思うかも知れません。洗礼を受ける前に既に朝も夕も祈祷会もと礼拝に熱心に集わなければその資格がない、キリスト者にならなければ洗礼を受けられないと思われるかも知れません。確かに、いい加減な礼拝生活や信仰の歩みではお止めになった方がよいでしょう。しかしながら、洗礼はキリスト者の生活の最初にあるキリストの恵みを保証する聖礼典(キリスト教会の儀式)です。洗礼を受けた人が、キリスト者となります。キリスト者となって洗礼を受けるのではありません。洗礼からキリスト者としての歩みが始まります。教会に来て、共に礼拝に参加し、聖書朗読と説教を聞くことから始めましょう。
2008年6月1日
ルカによる福音書21:9 「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
地球温暖化による環境の変化が懸念されています。多くの生物が環境の変化により、また人間の開発によって絶滅の危機に瀕していると言われています。環境破壊がこれ以上進まないようにわたしたちの努力が必要です。環境の悪化が進めば、問題がより深刻になるでしょう。その時、世界はどうなるのでしょうか。
しかしながら、聖書にも世の終わりが来ることが語られています。もちろん聖書はこのことだけを強調しているのではありません。けれども、確かに世界の終わりについての主イエスの言葉があります。そこで主イエスが語られるのは、「世の終わりはすぐには来ない」ということでした。むしろ、世の終わりが近いと惑わす者たちが現れると預言しておられます。ですから、わたしたちは惑わされてはなりません。世の終わりの徴として上げられている戦争、地震飢饉、天体の諸現象は、主イエスが語られて以来、約2000年を経た今日まで、いつでも世界中で起こって来ました。これらの徴は何を意味するのでしょうか。これらの徴は、主イエスの言葉通り、世の終わりは必ず来ることを示す徴です。けれども、それらはその時を特定する徴ではありません。ですから、いつ世界の終わりが来てもよいように、わたしたちは備えていることが大切です。どのような備えが必要でしょうか。大地震であれば、水と食料が数日分必要です。世界の終わりのためには、キリストへの信仰とその信仰によって生きることが必要です。いつ終わりが来てもよいように、主イエスの教えを聞き、備えましょう。
2008年5月1日
ルカによる福音書19:10 「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
こどもの頃に迷子になったことのある方もあるのではないでしょうか。わたしも、かつて大阪で開かれた万博に親族と共に出掛けた時に、叔父や叔母を見失い迷子になりました。それでも、すぐに見つけることができたので、安心しました。ほんの僅かな時でしたが、不安でたまらなくなりました。大人になれば、迷子になることはありませんが、もっと広い意味で、自分がどこから来て今どこにいて、これからどこに行くのか分からなくなることはあり得ます。 もともと、わたしたちは、わたしたちの先祖であるアダムとエバが、罪のために、神と共に生きていた楽園から追放されて以来、祖国を喪失し、難民としてこの生涯を送る者となりました。もともと、わたしたちは生まれながら、神の怒りのもとで死と滅びに向かう深い虚無に捉えられています。それを聖書は堕落、原罪と言います。その深い虚無が、深くわたしたちを捉えていて時々、わたしたちをすっぽりと覆ってしまいます。その時にわたしたちは失われてしまうという恐怖と共に、死への強い誘惑に陥ってしまいます。思い出したように、そして忘れていた虚無がわたしたちを捉えようとする時は、特に危険です。わたしたちの人生はこの虚無との戦いです。しかし、わたしたちにはその力も武器もありません。ですから、主イエスがわたしたちのもとに来てくださいました。ここに掲げた聖書の言葉は、主イエスが、周囲の人々からは罪深い男として軽蔑されていた徴税人の頭ザアカイを発見され、彼の家の客となった時に語られた言葉です。その時に、主イエスは彼に、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言されました。ザアカイもまた失われていた人です。神からも、そして隣人からもです。神が助けてくださらなければ、彼は失われたままでした。主イエスは、虚無の中に失われようとしているザアカイを救い、同じように失われているわたしたちを捜し出して救うために来られました。主イエスは、あなたを捜し出して救ってくださいます。
2008年4月1日
ルカによる福音書18:6 「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」
この聖書の言葉は、先月の言葉の続きです。主イエスに発見されたザアカイは、急いで降りて来ました。どこから降りて来たかと言いますと、いちじく桑の木からです。ザアカイはエリコの町にやって来た主イエスがどんな人か見たいと思いましたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができませんでした。そこで、主イエスを見るために、走って先回りしていちじく桑の木に登って、下を通る主イエスをみようとしたのです。しかし、そのザアカイを主イエスが先に発見しました。木の下から声を掛けて、ザアカイ急いで降りてきなさいと言われたのです。この主イエスからの言葉を聞いて、ザアカイは急いで木から降りてきて、喜んで主イエスを迎えたのです。
ザアカイはなぜ喜んだのでしょうか。ザアカイの家の客になる人はいなかったのかも知れません。ザアカイは主イエスの噂を聞いていたと思います。そして、主イエスが面識のない自分の名前を知っており、しかも、自分の家の客になってくださると言われたことをザアカイは素直に喜びました。ザアカイにとって主イエスとの出会いは救いを意味したのです。ザアカイは徴税人の頭であり、当時の人々は彼を罪深い男と見なしていました(7節)。人々はザアカイは救われないと見ていたのです。ですから、救い主かもしれない主イエスが自分の家に来てくださるなら、自分も救われると思いました。そこで、自分の財産の半分を貧しい人に施し、不正を働いたら四倍にして返しますと宣言しました。ザアカイを見つけて受け入れたのは主イエスの方です。ザアカイは自分を発見してくださった主イエスを喜んで迎えました。主イエスは「今日、救いがこの家を訪れた」と語りました。主イエスがあなたを見つけてくださいます。あなたも主イエスを迎えましょう。
2008年3月1日
ルカによる福音書18:5 『イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」』
教会では何をしているのだろうかと思われる方もあるでしょう。初めての人でも入ってよいのだろうかと心配される方もあります。窓から覗いて見たいが曇硝子で中は見えません。岐阜加納教会で共に礼拝しておられるある方は「初めて来た時に、扉を開けたけれども、やっぱり不安になって閉めて帰ろうとしたら、中から人が出て来て、どうぞお入りくださいと言われたので今こうして礼拝している」と初めての思い出を語ってくださいました。誰でも最初は不安です。しかし、教会には興味がある。ザアカイも主イエスに興味がありました。主イエスの評判を聞いていたのでしょう。自分の町に主イエスが来られたと聞いて「イエスがどんな人か見ようと」思い、通りに出掛けて行きましたが、大勢の人が立ちふさがって見ることができませんでした。そこで、何としても見たいと思い、走って先回りして、木に登って高い所から眺めることにしました。すると、ザアカイが見る前に、なんと主イエスが木の上のザアカイを見つけて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。ザアカイはびっくりしました。どうして主イエスはわたしの名前をご存知なのだろう。見たいと思っていたザアカイが先に発見されました。主イエスはザアカイをご存知でした。しかも、ザアカイの家の客になってくださる。実は、ザアカイは徴税人の頭で、金持ちでした。当時、徴税人は嫌われていたのです。誰もザアカイに道を譲る者がいなかったことはその証拠でしょう。しかし、主イエスは彼を愛して見つけてくださいました。主イエスはわたしたち一人一人に目を留めて見つけ出してくださいます。教会は主イエスがわたしたちを見つけるために建てられています。教会の扉を開いて礼拝に行きましょう。主イエスがあなたを発見してくださいます。
2008年2月1日
ルカによる福音書18:38 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」
「わたしを憐れんでください。」追いはぎに襲われたのならともかく、わたしたちは人前で助けを求めて叫ぶことはほとんどないでしょう。それでは、密かに神に助けを求めて祈ることはあるでしょうか。同じくルカによる福音書の18:13には胸を打ちながら、『神様、罪人のわたしを憐れんでください』と祈る徴税人の姿がたとえとして語られていました。わたしたちは密かな自分一人の祈りならば、助けてください、憐れんでくださいと祈るかも知れません。しかしながら、助けや憐れみよりも、様々な自分勝手な願いを並べることの方が多いのではないかと思います。
わたしたちはもしかしたら、神の憐れみが無くても生きて行けると思っているのかも知れません。しかし、それは間違いであることを聖書は語っています。ここで神の憐れみを求めて祈り、叫んだ人は、徴税人であり、また物乞いをしていた盲人でした。わたしたちは徴税人でも盲人でもないので叫ばないのです。けれども、彼らは、神の憐れみを受けるわたしたち罪人の代表者です。そして神はその叫びを彼らが口にすることができるように、救い主を派遣してくださいました。わたしたちは諦めていないでしょうか。憐れみを求めることは恥だと思っていないでしょうか。わたしたちの置かれている状況は仕方がないことだと諦念にとらわれていないでしょうか。その直中に主イエスは来てくださったのです。あなたも叫ぶことができる。助けを求めることができる。「ダビデの子よ。わたしを憐れんでください」、「わたしの家族を憐れんでください」、「わたしの夫を、妻を憐れんでください」、「わたしの会社を憐れんでください」、「わたしの子供を憐れんでください」、「わたしの友人を憐れんでください」。主イエスは来てくださいました。主イエスがわたしたちの叫びを聞くためにです。主イエスの憐れみを求める者は主の憐れみを受けます。
2008年1月6日
出エジプト記12:2「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」。
旧約聖書では、神様が、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの人々を助け出された月を正月とするようにと語られています。出エジプト記12:1−2には「エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。」と語られています。そして、主の過越しが続けて語られていきます。過越しは、小羊の血を鴨居に塗ったイスラエルの家を主の霊が通り過ぎて行き、血を塗っていないエジプト人の初子は主に撃たれるという神の災いでした。この災いはエジプト人には災いでしたが血を塗っていたイスラエルの人々にとっては救いです。こうして、神の災いに恐れをなしたエジプト王は、イスラエルの人々が出て行くことを承諾したのです。
イスラエルの人々は、この神の救いの御業を記念して、この月を正月、新年として祝い、過越しの祭を行いました。新年は聖書の民にとっては救いを記念する時であったのです。こうして神の救いによる暦ができあがりました。暦は時を刻みますが、世の権力者たちはしばしば自分で暦を作り、自分が時の支配者として権勢を欲しいままにしました。しかしながら、今も生きて働かれる神が、時の創造者であられ、支配者であられます。
2008年は、わたしたちのもとに救い主キリストが来られた時を元年として換算する暦です。ですから、クリスマスは12月に祝いますが、新年は、やはりキリスト紀元2008年として、時の中心であるキリストの降誕を記念した暦です。やがてこの暦が終わる日が来ます。主イエスが再び来られる時に永遠の御国が始まるからです。それまでわたしたちは主イエスの誕生以後何年として年を刻みます。キリストを中心とした時を共に生きませんか。皆様にこの年も主の祝福をお祈りしています。
| 2007年12月1日 | 「クリスマス 何を祝うの?」 |
| 2007年11月1日 |
「神の国はいつ来るの?」 (ルカによる福音書17:20−21) |
| 2007年10月1日 |
「生ける神」 列王記上17:1 |
| 2007年9月2日 | 近くに居ながら心は離れ(ルカによる福音書15:25−32) |
| 2007年8月5日 |
あなたの帰りを待つ神 (ルカによる福音書15:11−24) |
| 2007年7月1日 |
「あなたをさがす神」(ルカによる福音書15:1−10) |
| 2007年6月1日 | 「あなたがたは地の塩である」(マタイによる福音書5:13) |
| 2007年5月1日 | 安息日 わたしたちも休みましょう。 |
| 2007年4月1日 | ルカによる福音書13:24 「狭い戸口から入るように努めなさい」 |
| 2007年3月1日 | ルカによる福音書13:16 |
| 2007年2月4日 | イザヤ書43:1 |
| 2007年1月1日 |
ルカ福音書12:32「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」 |
2007年12月1日
「クリスマス 何を祝うの?」
11月も半ば頃から、商業施設や駅の構内にはクリスマスツリーや電飾が飾られ、バックミュージックなどもクリスマスソングが聞かれるようになりました。街はクリスマスの飾りでにぎやかなります。しかしながら、クリスマスはプレゼントを贈り合ったり、ケーキを食べたり、レストランで美味しいものを食べたりと、恋人たちや子供たちの楽しい祝いの時ではありません。
もちろん、わたしたちが友人や恋人と、また家族でその時を祝い楽しんでよいのですが、実はクリスマスはわたしたちが主人公ではないのです。クリスマスは、イエス・キリストの誕生日であり、主イエスの誕生を感謝して、主イエスを喜び祝う日です。
わたしたちもそれぞれ誕生日を記念して祝うことがあります。特に、子供たちの誕生日には、プレゼントを贈り、ケーキを作り、食卓を共にしてその子の誕生日を祝います。その日の主人公は誕生日を迎えた子であって、回りの人々ではありません。ですから、誕生日には、その誕生日を迎えた人を無視して、勝手に自分たちだけで祝うことはありません。
クリスマスも同じです。クリスマスこそ、キリストの誕生を祝う礼拝がふさわしいのです。全世界のキリスト教会は、キリストの誕生を記念し、感謝してクリスマスの礼拝をするのです。そして礼拝の恵みの中で、それぞれが家に帰っても、あるいは友人とも恋人とも、主イエスによる救いの恵みに感謝して、喜びを共にします。今年のクリスマスこそ、教会で、イエス・キリストの誕生日を祝い、わたしたちのもとに来てくださった主イエスに心を向けましょう。教会はいつでも皆さんをお待ちしています。初めての方もお越しください。
岐阜加納教会のクリスマスの集いは以下の通りです。
12月16日(日)午後1時30分〜3時 クリスマスチャペルコンサート
23日(日)午前10時30分〜12時 クリスマス礼拝
午後に昼食会を計画しています。
2007年11月1日
「神の国はいつ来るの?」 (ルカによる福音書17:20−21)
「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
21世紀はどのような時代になるのか期待していたわたしたちですが、既に7年を過ぎて、環境問題や、資源の問題、身近な所ではガソリン代の値上がりや物価の値上げの心配など多くの懸念があります。世界は相変わらず、あまり明るくありません。この時代はいつまで続くのか。やがて世界の終わる日が来るのか。世界は死の世界に向かっているのでしょうか。
しかしながら、主イエスはこの世界は死の世界で終わるのではないことをハッキリと語り、ご自身の復活によって死に対する勝利の力を示されました。しかも、主イエスは、その世界の終わりはすでに「あなたがたの間にある」と質問したユダヤ人たちに語っておられます。
世界の終わりには主イエスによる神の国が完成します。その神の国は主イエスと共に既にこの世界に始まりました。終わりが既に始まっているのです。それは、主イエスの言葉が語られ聞かれるところにです。「あなたがたの間」というのは、主イエスの言葉を聞いているユダヤ人たちのその直中にという意味でしょう。主イエスの言葉である福音が語られ聞かれる所とは、教会の礼拝です。礼拝は、世界の終わりの始まりが示されています。主イエスが、ご自身の到来によって始めてくださり、十字架によってわたしたちに罪の赦しを与え、復活によって死に対する勝利を示された神の国に、今もわたしたちは日曜日毎に招かれています。生ける神が、わたしたちを希望の国に招いておられるのです。
2007年10月1日
「生ける神」 列王記上17:1
「わたしの仕えるイスラエルの神、主は生きておられる」。この言葉は、旧約聖書の代表的な預言者の一人、エリヤが北イスラエルの王アハブに語った言葉です。この言葉は、今日、主イエス・キリストにおいて、神を信ずるすべてのキリスト者の言葉となりました。わたしたちの仕える主イエス・キリスト、父なる神、聖霊なる神は生きておられます。
わたしたち人間は、確かに多くの神々を造り出しました。それは五穀豊穣を祈願する神々であったり、先祖であったり、仏や仏像のような木で作られた彫刻であったりします。そしてそれらは単なる木や石ではなく、何らかの魂が吹き込まれていると考えて神秘的なものを感じるかも知れません。しかし、聖書は、木や石で作られた神々は死せる神々であり、決して語ることはないと記しています
主イエスの時代には富が人々を誘惑しました。神よりも富の方が大切だと考えてしまうのです。そうなると富も神々の一つになってしまいます。拝金主義という言葉がありますが、このような風潮は今日も同じようです。
神々はすべて人間が生み出したものです。しかし、その人間は神によって造られました。ですから、わたしたちは、わたしたちを創造してくださった神にこそ感謝と賛美を献げるべきです。それでは生ける神の存在を証明することはできるのでしょうか。神存在の証明は人間には不可能です。しかし、神はわたしたちに主イエスと聖書と聖霊を送ってくださり、ご自身を教えてくださいました。ですから、ただ聖書においてのみわたしたちは生ける神に出会うことができます。聖書の神は生ける神です。キリスト教の神は唯一の生ける神です。生ける神は、わたしたちを愛し、聖書において語りかけてくださる神です。生ける神が、あなたを救いに招いています。
2007年9月2日
近くに居ながら心は離れ(ルカによる福音書15:25−32)
「放蕩(ほうとう)息子」のたとえには二人の息子が登場します。一人は、分けて貰った財産を外国で使い果たした弟です。彼はわれに返り、悔い改めて父のもとに帰って来ました。父は、帰って来る息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻して迎えます。こうして弟の帰還を喜ぶ宴会が行われました。するとそこに、兄が帰って来ます。兄は、弟とは異なり、父に仕え、父のもとで農業に従事していました。汗と土にまみれて毎日勤勉に働いていたことでしょう。その兄は、弟のために父が肥えた子牛を調理して宴会を開いていることに憤りを覚えました。弟は、自分勝手に散財し、しかも、娼婦どもと遊び暮らして父の財産を浪費したのです。遊び尽くしてすいませんで済むかと兄は思ったでしょう。宴会とは何事か。使用人として働かせるべきだと思ったのではないでしょうか。兄は怒って家に入ろうとしませんでした。すると父は出て来て兄をなだめました。しかし兄の怒りはおさまりません。自分は誠実に父に仕えていたのに、友達と宴会をするために子山羊一匹すらくれなかったと父に訴えたのです。確かに、兄の気持ちはよく分かるのではないでしょうか。父は優しすぎます。優しすぎる父。この優しさに兄は躓きました。父は兄に言いました。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。弟は死んでいたのに、見つかった。喜ぶのは当たり前ではないか」と言うのです。父の優しさを理解できなかった兄は父と共にいながら、父の厳しさだけしか見えなかったのでしょう。弟も父から離れてしまいましたが、兄も近くにいながら、父に対して心を閉ざしていたのです。父の愛と優しさを彼もはじめて知りました。父は兄をもなだめに出て来て宴会に招きました。そして兄の文句も聞いてくださいました。弟のように不真面目でもわたしたちは神から離れ、兄のように真面目でも、わたしたちは神から離れてしまいます。しかし、そのような者たちを神は迎え入れてくださいます。神の優しさと愛の故に、わたしたちは救われるのです。
2007年8月5日
あなたの帰りを待つ神 (ルカによる福音書15:11−24)
「放蕩(ほうとう)息子」のたとえと呼ばれる主イエスの教えが、ルカによる福音書15:11−32に記されています。その前半は、財産を分けて貰った弟息子が、父のもとを出て遠い国に出掛けて、そこで放蕩の限りを尽くして財産を無駄使いして生活に困り、さらに追い打ちをかけるように飢饉に見舞われて食べるにも事欠いて、ついに、われに帰って悔い改めて父のもとに帰ることが記されています。自分勝手に家を飛び出して、破綻して帰って来るのは、あまりに身勝手です。
しかし、弟はわれに返って、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と告白しました。ここに悔い改める一人の罪人の姿があります。この悔い改める罪人を、父は待ち続けていました。そして父は帰って来る息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻して迎えたのです。その父の手の中で弟は、罪を告白しました。父にたとえられた神は、帰る者を迎え入れてくださいます。そして、父の家に帰るということは、わたしたちにとって、悔い改めて神に立ち帰ることを意味しています。一人の罪人が悔い改めれば、天に大きな喜びがあるのです。
2007年7月1日
「あなたをさがす神」(ルカによる福音書15:1−10)
さがし物をしている時にいつも昔はやったフォークソングを思い起こします。大切なものが見つからない時、わたしたちは必死になって探します。子供のワクチン接種の時に母子手帳を探したり、海外に出掛ける時にパスポートを探します。
ルカによる福音書15:1−10には、主イエスが、わたしたちを必死に探しておられることが二つのたとえで語られています。ここには見失った羊を見つかるまで探す羊飼いと1枚の銀貨を見つけるまで探す女性の姿が描かれています。実に、神が、わたしたちを探しておられるというのです。それは、わたしたちが神にとって大切な友であり、大切な子であり、大切な存在だからにほかなりません。
羊は帰る道を見失いました。銀貨は落ちてしまいました。羊も銀貨も自力では持ち主のもとに帰ることができません。持ち主が探してくださらなければ、それは失われたままです。わたしたちは、一体誰の持ち物でしょうか。わたしたちは物ではないし、誰かの奴隷でもありません。しかし、神を見失っている人間は、皆、本来帰るべき家を失い、何か他のものに支配されてしまっています。孤独に支配されたり、絶望に支配されたり、快楽や欲望に支配されてしまうこともあるかも知れません。そのように本当の主人を見失ったわたしたちを主イエスが探してくださいます。見つかるまで探してくださるのです。そして発見された者は、主イエスに担がれて、主イエスの囲いの中に連れられて来るのです。主イエスに発見された時に、わたしたちには悔い改めが与えられます。その時、「大きな喜びが天にある」のです。
2007年6月1日
「あなたがたは地の塩である」(マタイによる福音書5:13)
主イエスは、ご自身に従う弟子たちに「あなたがたは地の塩である」と言われました。塩は、わたしたちが生きていくために必要なものですし腐敗を防止する働きがあります。また、古代の世界では塩が賃金の代わりに支給されました。サラリーの語源はサルト(塩)だとも言われています。そのように主イエスの弟子とされたものは、とても大切な存在になります。またユダヤ人たちは、塩を神への犠牲の礼拝にも用いました。土壌改良や堆肥の発酵抑制のためにも用いられていたそうです。ですから、塩は人が生きるために、そして生活のために、また神礼拝のためにもとても大切なものです。主イエスの弟子として主イエスに従う時に、わたしたちは塩のような存在になるのです。一体わたしたちのどこにそのような力があるのかと思います。しかし、主イエスの福音がわたしたちを塩にするのです。ここでは、とても興味深いことに「あなたがたは塩になりなさい」、または「あなたがたは塩にならなければならない」と命じられているのではありません。つまり、「あなたがたは、世の腐敗を防ぐ、腐敗防止の働きをせよ」とか、味付けに不可欠な塩のように人々や社会に役立つ存在になりなさいと言われているのでもないのです。「あなたがたは地の塩である」。取るに足りない、小さな存在であるわたしたちが、主イエスによって地の塩であると言われています。それほどの存在へと主イエスはわたしたちを作り替えてくださるのです。主イエスにおいて、わたしたちは価値ある存在とされるのです
2007年5月1日
安息日 わたしたちも休みましょう。
聖書は、一週間に一日を安息日として定めて、仕事を休むことを命じています。この聖書の暦から、今日のわたしたちのカレンダーが生まれました。もともとは、週の最後の日、土曜日が安息日でした。旧約聖書の創世記には、神が世界を六日かけて造られて、七日目に休まれたと記されています。創世記2:1−3「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」この安息日を聖別して守ることを出エジプト記20:8は十戒の第四戒として「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と語っています。神が六日の間に天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたからです。その旧約聖書は申命記でも、十戒を記していますが、申命記5:12−15では、安息日には、奴隷も休ませることが強調されています。それはかつて、イスラエルの人々がエジプトで奴隷とされて酷使されていましたが、神が彼らを助け出されたからです。ここでは安息日は、神による出エジプトの救いを想起して、自分も奴隷も休むことが命じられています。
この安息日は、主イエスが復活されるまでは土曜日でした。神が土曜日を安息日とされたからです。ところが、主イエスは日曜日に復活されました。主イエスは確かに明確には日曜日を安息日にしなさいとは命じていませんが、新約聖書によると日曜日毎に弟子たちに現れ、パンを割いて食卓を共にされました。そのパンを割く聖餐の食卓を主イエスはわたしの記念として行いなさいと命じています。そこで弟子たちは、主イエスの命令に従い日曜日毎に安息日の礼拝を行い、聖餐を祝いました。こうして、旧約聖書の安息日は土曜日から日曜日になり、今もわたしたちキリスト教会は日曜日毎に、神の創造と主イエスによる救いを喜び感謝して礼拝をしています。この神礼拝こそが、わたしたちの最大の休息です。仕事を離れ、家事を離れ、勉強を離れ、それぞれの生活を離れ神と仲間と共に過ごします。わたしたちの精神も体も、礼拝に集中します。こうして、わたしたちは週に一日を神のために取り分けて過ごすのです。普段、わたしたちは自分のため、家族のため、仕事のためと多くのことのために奴隷のように使役させられています。休む暇もありません。しかし、神はわたしたちに休むようにと招いてくださるのです。週の最初の日に休むこと、わたしたちは休息から時をはじめて行くのです。
2007年4月1日
ルカによる福音書13:24 「狭い戸口から入るように努めなさい」
主イエスがエルサレムに向かう途上で、語られた言葉です。この後、主イエスはエルサレムで十字架におかかりになります。そのご自身の苦難を見据えての旅路の中で、「主よ救われる者は少ないのでしょうか」との質問に答えて語られた言葉が、「狭い戸口から入るように努めなさい」という言葉でした。家の戸口はどの家の玄関もそれほど大きな玄関ではないでしょう。戸口は人が数人並んで通れるかどうかの広さであったと思います。しかし、建物によっては、広い玄関もあります。大きなビルや、劇場やショッピングモールなどは1階の玄関一杯に入口を設けています。大勢の人が出入りしやすいように造ってあるからです。けれども、救いの戸口は広くはありません。いや、その戸口は一つしかないのです。それは主イエスです。使徒言行録4:12には「わたしたちが救われるべき名は天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と記されています。この名について「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」(使徒言行録4:10)と記されています。
世界にキリスト以外に救いの戸口はないという意味で、この戸口はただ一つであり、狭い戸口です。けれども、全世界にこの戸口は宣べ伝えられ、全世界に対して、誰にでも開かれているという意味で、広い戸口です。この戸口から入るということは、主イエスを救い主として信じて、主イエスに従い、その信仰の生涯を全うするということです。信仰の生涯を全うするように努めなさいと主イエスはわたしたちを励ましてくださいます。
わたしたちは日々、家族や友人や仕事や社会生活の中で、忙しく暮らしています。そして、それなりに、生き甲斐を感じて生活しています。救いの戸口と言われても、あまりピンとこないかも知れません。それらのわたしたちの生活はすべて神の支えと恵みのゆえに成り立っています。それにただ気づかないだけなのです。そのような者のために主イエスは救いの戸口を開いてくださいました。神と共にわたしたちが生きることができるため、神と自分自身と隣人を愛して生きるためです。そのために主イエスは十字架への道を歩んでくださるのです。
2007年3月1日
ルカによる福音書13:16
「この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日で あっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。
旧約聖書の伝統に生きるユダヤ人にとって、安息日厳守は大切な戒めの一つでした。その日には労働をしてはならず、歩く距離も決められていたようです。しかし、主イエスは安息日は本来、安息日という戒めのためにあるのではなく、文字通り安息と救済のためにあることを明らかにされ、安息日に病める者を癒されました。主イエスが安息日に癒しの業を行われたのは、安息日の本当の意味と目的を見失っている者たちの目を覚ますためであったでしょう。
わたしたちは一体いつ休んでいるでしょうか。夜、床についても仕事のこと、人間関係のこと、将来のことなどあれもこれもいろいろと考えて寝つけないこともしばしばです。また休日は昼まで寝ているかも知れません。休みを休みらしくどのように過ごせばよいでしょうか。
その時こそ、日曜日に礼拝に来て休むのです。そんなゆとりもないのが実情かもしれません。しかし、その時こそ、礼拝に来てみましょう。そして聖書朗読と説教を聞き、大きな声で賛美歌を共に歌いましょう。わたしたちは、知らない間に縛られています。わたしたちを縛っているものが、わたしたちの心までも縛りつけています。主イエスは、わたしたちを縛りつけている罪の縄目を解いてくださいます。この主イエスの力を信頼して、礼拝に集いましょう。神は、わたしたちが気持ちよく休むことができるようにとわざわざ週に一日を安息日としてくださいました。その日は今は主イエスのご復活を記念する日曜日です。日曜日は、神を礼拝して休む日です。人が人として生きる本当の姿は神を礼拝する生きかたにあります。ぜひ、礼拝者としての生きかたを回復してください。そこにこそ、真実の安息、平安があるのです。
2007年2月4日
イザヤ書43:1「ヤコブよ、あなたを創造された主は
イスラエルよ、あなたを造られた主は
今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。」
旧約聖書のイザヤ書の一節を上に記しました。イザヤというのは預言者の名前です。旧約聖書の時代に、イザヤは神に召されて預言者となりました。神の言葉を当時のイスラエルの人々に伝える働きを担いました。しかし、イスラエルの人々は神の助けを忘れ、他の神々に心を奪われて神を捨ててしまいます。生ける神は人々に繰り返し悔い改めて立ち返るようにと預言者たちを遣わしますが、人々は悔い改めません。ついに、神は裁きをくだし、バビロンという国を用いてユダ王国を滅亡させました。神殿も破壊され、人々の多くは戦争のために命を落とし、国土は荒廃します。そして生き残った者たちは捕虜としてバビロンに連れていかれました。その捕囚とされた者たちに、神は再び、祖国復帰、再建の恵みを示されます。このイザヤの言葉は、国を失い、望みを失っているイスラエルの人々に語られたと言われています。「恐れるな、わたしはあなたを贖う」と神は救いの言葉を語りました。「あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」と言われます。神との関係が失われた者たちを捜し出し、神は「あなたはわたしのもの」として救い出してくださいます。
この神との関係を失い、途方に暮れている者を贖い、救い出すために御子主イエス・キリストは遣わされました。神は今も生きておられ、キリストを通して、「あなたはわたしのもの」と呼びかけてくださいます。わたしたちは自分のものを大切にします。神もご自身のものを大切にされます。そしてわたしたちが神のものとされるならば、わたしたちは神に大切にされるのです。神は御子主イエスの十字架のゆえに、わたしたちを愛し大切にしてくださるのです。主イエスを信ずるならば、わたしたちは神のものとされます。そこに、死ぬ時も生きる時もただ一つの慰めがあるのです。
2007年1月1日
ルカ福音書12:32「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」
2007年がはじまりました。新しい年もこのホームページをご覧くださった皆様の上に神様の豊かな祝福をお祈りいたします。新しい年、今年は一体どんな年になるでしょうか。楽しみでもあり、また不安もあるかもしれません。
上に記しました聖書の言葉は、主イエスが弟子たちに語られた言葉です。主イエスの時代、弟子たちはわずか12名、その背後に大勢の群衆がおりましたが、好意的な者たちもおれば、必ずしもそうではなく、むしろ、主イエスに敵意を抱いていた者たちもありました。そのような敵意にさらされる弟子たちは、実際に小さな群れに過ぎませんでした。わたしたちも、それぞれ大きな企業や学校に属しているかも知れませんが、一人一人はまことに小さな者に過ぎません。わたしたちの家族もまた小さな家族です。血縁による大きな集団に属しているわけでもないでしょう。小さい者には不安がつきまといます。ですからわたしたちは少しでも安定し平安な場所を探すのです。
主イエスはそのようなわたしたちに、最も平安で慰めに満ちた場所、それが主イエスの弟子として生きる所だと言われます。そこには恐れはありません。わたしたちはただ一人の方、神だけを恐れていればよいのです。それ以外のものはすべて神の前に相対化されます。わたしたちは人を恐れる必要もないし、将来を恐れる必要もないし、病を恐れる必要もありません。ただ神だけを恐れていればよいのです。しかも、その神は、わたしたちに喜んで神の国をくださいます。神の国、それは神と共にわたしたちが生きる所です。神はわたしたちを愛し、わたしたちのために喜んで御子主イエスをクリスマスに与え、そして御子主イエスの十字架によってわたしたちの罪を赦し、わたしたちを主イエスの名において神の子たちにしてくださいました。主イエスによってわたしたちは神の保護のもとに置かれます。神が、わたしたちを保護してくださる。これが教会でのみ語られ、教会でのみ与えられる力強い慰めです。新しい年、あなたもこの力強い慰めのもとに歩みませんか。お待ちしています。
| 2006年12月1日 | クリスマスを祝う |
| 2006年11月1日 | 「重荷からの開放」 マタイによる福音書11:28−30 |
| 2006年10月1日 | あなたの願いは何ですか 列王記上3:5 |
| 2006年9月1日 | まして天の父は・・・・ ルカによる福音書11:13 |
| 2006年8月1日 | 父よ ルカによる福音書11:1−4 |
| 2006年7月2日 | 礼拝の秘密 エフェソの信徒への手紙1:4−6 |
| 2006年6月4日 | 国籍は天に フィリピの信徒への手紙3:20 |
| 2006年5月1日 |
「主イエスのご復活 ・・・」 ルカによる福音書24:36−49 |
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2006年4月1日 |
「最も小さい者こそ、最も偉い者である」 ルカ福音書9:48 |
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2006年3月1日 |
主イエスについて行くこと ルカによる福音書9:23 |
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2006年2月1日 |
変わりたい? ルカによる福音書9:29 |
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2006年1月8日 |
信仰の道 |
2006年12月1日
クリスマスを祝う
早いもので、今年ももう残す所1ヵ月となりました。この時期は古くから主イエスのご降誕を覚える時として、クリスマスの1ヵ月程前から教会ではアドヴェント(待降節)として過ごします。これは必ずしも、最初から行われていたわけではなく、4世紀頃に当時のローマ帝国の祭を聖書の教えに従って再解釈して始まった祝いと言われています。
けれども、主イエスがこの世界に来てくださったことを心から喜び祝うことは聖書にハッキリと記されています。ただ聖書だけではそれが何時であったかは必ずしも明らかではありません。クリスマスという言葉は、キリストのミサという意味の言葉で、キリストを礼拝する礼拝という意味合いでしょう。キリストは神のひとり子として、処女マリアとヨセフ夫妻の間に、聖霊によって宿られてこの世界にお生まれになりました。ですから、教会では天から降られて誕生されたと理解して降誕と申します。
最初のクリスマスは、誰も知らず、また、マリアとヨセフには主イエスを出産する場所もないほど、人々から無視され、排除された形で実現しました。ヨセフがローマ皇帝による住民登録の勅令のために故郷のベツレヘムに戻った時に主イエスはお生まれになりました。家畜小屋しかあてがわれなかったということは、親戚や知人たちもマリアの妊娠に不信の念を抱いていた様子を感じさせます。しかし、だからこそ、最初にこの誕生を天使に伝えられた羊飼いたちは幼子イエスを飼い葉桶に見いだし、神を崇めました。貧しく、排除されていた者たちを救うために神は、低き所に立ってくださったのです。この神の低さこそが、「地には平和」と歌わされた天使の賛歌の根拠です。クリスマスは、低き所に立つ神を思う時です。
2006年11月1日
「重荷からの解放」
主イエスはマタイ福音書11:28−30で「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われました。 わたしたちは生きていくために多くの責任を担っています。仕事、家庭、近所付き合いにも果たさなければならない多くの責任がありますし、自分自身の将来に対しても責任があります。その責任は時に重くのしかかることもないわけでは有りません。主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました。わたしたちには休みが必要です。けれども、わたしたちは休んでばかりもいられません。家族のため、生活のため、自分のために働き学ばなければなりません。その時こそ、主イエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われます。主イエスの教えを聞き続けなさいというのです。そして、その時に主イエスは「わたしの軛を負いなさい」「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われました。軛というのは、ロバや牛の首につけて荷物を運ばせる道具です。当時の軛は実は二頭立てであったそうです。二頭のロバに繋ぐ、二頭で一つの軛が農業等で用いられていたと言われています。 主イエスの軛も二頭立てです。それは主イエスとわたしで担うのです。だから、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われるのです。主イエスが全部担ってくだいます。ですから、実際の首に掛かる負担はすべて主イエスが負ってくださる。そして主イエスがわたしたちの人生を引っ張ってくださいます。わたしたちは自分に課せられた責任をそれぞれが果して行かなければなりません。生活のため、家族のため、仕事のために多くの重荷と責任を負わされています。それらの責任を主イエスの軛を負うことで安らぎを得ながら担うことができるようにされるのです。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。主イエスがあなたを招いておられます。
2006年10月1日
あなたの願いは何ですか。
「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」(旧約聖書 列王記上3:5)
この言葉は、聖書に記されている言葉です。魔法のランプから出てきた魔神の言葉ではありません。この言葉は、ダビデ王の後継者として王位を継いだ若きソロモン王に語られた神の言葉です。この時、ソロモンは王となって最初の正式な礼拝を捧げたようです。その夜、ソロモンの夢枕に立たれた神が、この言葉を語られました。この問い掛けにどう答えるか。わたしなら、そして皆さんならどうお答えになるでしょうか。いろいろな個人的な願いがあるかも知れません。あるいは家族の願いや、友人のために何かを願う方もあるかもしれません。いずれにしても、わたしたちは自分に関係することをあれこれ思いつくままに考えることでしょう。
ソロモンは何を願ったのでしょうか。確かにソロモンの願いも、ソロモン自身に無関係ではありませんでした。ソロモンは「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願いました。これはソロモンが王として神に喜ばれる働きをするための資質でした。仕事のための必要を求めると言えば、言えないこともありません。けれども、それで金持ちになるとか、名誉を得るという性質の願いではありませんでした。金も名誉もソロモンには有り余る程あったからです。ただ委ねられた仕事を誠実に果たしたい。そのために自分は神に選ばれて王とされたとの思いです。ですから、神はソロモンのこの願いを喜ばれました。そして神は「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしは、あなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と語りました。さらに、ソロモンが求めなかった富と栄光も与えると約束してくださったのです。ソロモンは神に喜ばれる働きをするための賜物、資質を求めました。それは自己中心な願いではなく、神中心の願いです。わたしたちは一人一人皆、理由があってこの地上に生まれてきました。それは神に喜ばれる人生を送るためです。しかし、罪のために神を見失い、自分の願いも見失っています。神に立ち返り、神に喜ばれる願いを考えて見ませんか。
2006年9月1日
「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ福音書11:13)
「父よ」と祈り求めるわたしたちに天の父なる神は聖霊を与えてくださると主イエスは約束してくださいました。この言葉は、ルカ福音書の11章1節以下に、弟子たちの求めに答えて主イエスが主の祈りを教えた段落の最後の言葉です。祈る時には、主の祈りを祈ればよい。その内容は、前半は神のご栄光のため、後半はわたしたち自身の生活のための祈りです。そのように祈り求める時に、天の父なる神は聖霊を与えてくださいます。聖霊は、神の霊であり、神ご自身です。聖霊が与えられることによって、わたしたちは主イエスを通して父なる神に結ばれます。聖霊はわたしたちと神とを結ぶ絆です。この絆によって、わたしたちは祈り、祈ることでますます豊かに聖霊を注がれます。
しかし、聖霊を注がれ、与えられるということは、何か神秘的な体験をするということではありません。ルカ福音書12:11−12には「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」と記されています。聖霊はわたしたちに主イエスを証言する言葉を教えてくださいます。聖霊を与えられた者は、主イエスを証言します。父なる神を証言します。聖霊がわたしたちに聖書を通して主イエスと父なる神を教えてくださり、理解し、信頼させてくださいます。ですから主イエスは、主の祈りを祈り続けなさいと弟子たちに命じました。祈る時に、聖霊は注がれます。この主の祈りの教えも、実は聖霊の深いお働きの中でわたしたちに伝えられています。主イエスを知らなかったわたしたちに祈りを教え、主の祈りを口ずさみ、祈るようにと促してくださいます。そして父なる神は祈る者にさらに豊かに聖霊を注ぎ、主イエスを信じ、証言する者としてくださるのです。あなたにも聖霊は与えられます。
2006年8月1日
父よ
主イエスは、「わたしたちにも祈りを教えてください」と願う弟子たちに、「祈る時にはこう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。・・』」と主の祈りを教えました(ルカ福音書11:1−4)。幼子や、赤ちゃんがパパ、と言うように「父よ」と神を呼ぶようにと言われたのです。この言い方は、原文ではまさしく、幼子が実際に当時、パパと呼ぶときの言葉が用いられています。
父と子と言えば、仲の良い信頼関係の確かな親子もあれば、父親に圧迫されて気詰まりな感じを抱いている家庭もあるかも知れません。父に対する不満で放火殺人事件を起こしたり、逆に親が子供を殺したりと親子もまた罪のために苦しんでいます。
しかし、そのような人間の親子の幸いや悲しみを越えて、神がわたしたちの父となってくださると主イエスは言われるのです。そして祈る時には、「父よ」と呼ぶようにとわたしたちを招いてくださいました。わたしたちは何かを願う時、最後は自分以外には頼るものがないと思われるかも知れません。しかし、実際にはいろいろなものに頼りながら生きています。会社、地縁、血縁、学歴、財力、自分自身の経験、あるいは占いやまじないに心引かれる方もあるかも知れません。そうではなくて、主イエスは「父」を呼ぶようにとわたしたちに教えてくださいました。主イエス・キリストの父なる御神とわたしたちは呼び、祈ることができるのです。世界を造られ、統べ治めておられる神が、わたしの「父」となってくださいます。父は主イエスによって、わたしたちを「子」としてくださいます新しい親子関係として、祈る時に、わたしたちは子となり、神は父となる。それが主の祈りに示されています。あなたも教会で共に、「主の祈り」を祈りましょう。
2006年7月2日
礼拝の秘密
エフェソの信徒への手紙 1:4−6 「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」
ここには、わたしたちが神をたたえるために、天地創造の前から選ばれ、この地上の人生を与えられたと記されています。「たたえる」ということは、神の恵みを感謝し、神を礼拝すると言い換えることができるでしょう。そうしますと、わたしたちは神を礼拝するために生まれてきた存在なのです。もし今、わたしたちが神に感謝せず、礼拝しないで生活しているとしたら、それはわたしたちが、この人生の大切な目的を喪失していることになるのです。わたしたちは造られた目的に従って生きる時に、最も幸いな、本来の生きかたをします。造られたものが造られた目的とは違う用途に用いられる時には、本来の力を発揮できません。役に立たず無駄なものになってしまうでしょう。野球のバットでゴルフはできませんし、ゴルフのクラブで野球もできません。それと同じように、わたしたちがもし礼拝をしないならば、わたしたちの人生は生かされないのです。礼拝は、神がわたしたちに与えた人生の目的であり、わたしたちの存在の使命です。その礼拝において、わたしたちは神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する者へと造り変えられます。わたしたちは堕落したために、礼拝(神との生きた交わり)から追放されてしまいました。そのわたしたちを礼拝(神との生きた交わり)へと回復してくださるために、主イエスが来られたのです。主イエスを信ずる信仰によって、わたしたちは再び礼拝の恵みに生きることができます。そしてその姿が、本来のわたしたちの姿です。ここに礼拝の秘密、わたしたちの生命の秘密、人生の秘密があります。
2006年6月4日
国籍は天に
フィリピの信徒への手紙3:20
日本で生まれ育った多くの日本人に取って、国籍は空気のようなものかも知れません。けれども、海外旅行をしたり、他の国々を訪問すると改めて自分が日本人であることを自覚し、意識します。しかし、地上の国籍は永遠ではありません。国境線が変われば、あるいは国が変われば、国籍も変わってしまいます。20世紀の後半から世界の地図は変わりました。今も世界は流動的です。わたしたちの国も将来どうなるかは誰も分かりません。 地上の国境よりも宇宙からの視点で考えるとわたしたちは地球人でもありますが、それも未来永劫不変ではありません。なぜなら、形あるものはいずれ無くなるからです。そのように変化するわたしたちに、変わることのないパスポートが与えられます。
それが天の国、神の国の国籍です。使徒パウロはフィリピの信徒への手紙3:20で「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」と語りました。主イエスを信じて、罪を悔い改めて救われ、主イエスに従う者たちは、洗礼を受けて教会員になります。その時に、わたしたちの名前は天の教会の名簿にも記載されるのです。地上を歩く天上の国民です。海外旅行をする時には必ず、パスポート(旅券)が必要です。旅券は日本国の国民であることを保証します。わたしたちは天の国のパスポートを実際に持っているわけではありませんが、地上では日本の国民でありつつ、同時に天の国の民とされるのです。天の国の民は、本国政府の保護と配慮のもとに置かれています。天の国の責任者は主イエス・キリストの父なる神です。ですから、わたしたちはいつでも、どこにいても、神の配慮と保護のもとに置かれます。主イエスに従って生きる時に、わたしたちは旅人として生きる生活を始めますが、それはやがて本国に帰るための旅路です。そしてその道は、わたしたちの死でも、墓でも終わりません。一度しかない人生ですが、この人生の間に、天に名が書き記される道を歩みましょう。わたしたちはやがては朽ちて消えていきます。やがては忘れられていくでしょう。しかし、主イエスが、わたしたちの名を天にしるしてくださるのです。ただ主イエスを信じ、告白し、悔い改めて主イエスに従うだけでその恵みが与えられるのです。
2006年5月1日
「主イエスのご復活 喜びのあまり、まだ信じられず」
ルカ福音書24:36−49
キリストが復活されなかったら、世界はどの様な姿であったでしょうか。イギリス人の学者であり、作家でもあったC.S.ルイスはナルニア国物語の1巻「ライオンと魔女」(岩波書店)の中で、キリストの復活がない世界を魔女が支配する冬の世界として描きました。その世界の中にまぎれこんだ4人の兄弟姉妹たち(彼らはアダムの子孫の人たちと呼ばれます)の冒険が語られます。そして、魔女を打ち破るライオンアスランの犠牲の死と復活によって、ナルニアには春がやって来るのです。 春が来ない世界、それは死の世界です。わたしたちの回りでは、戦争、争い、事故、犯罪、病と様々な形で死の力が猛威を振るっています。誰もこの力に抵抗することはできません。しかし、キリストだけが、この死の力に勝利されました それがキリストの復活です。主イエスの復活を最初に体験した弟子たちは、「恐れおののき、亡霊を見ているのだ」(ルカ24:37)と思いました。信じられなかったからです。そこで主イエスは弟子たちに手と足を見せ、魚を食べて見せて、幽霊ではなく、肉体をもって復活されたことを示されたのです。弟子たちは「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がって」(ルカ24:41)いました。復活は不思議な出来事です。けれども、復活がなければ、わたしたちは死の支配、死の奴隷のままです。主イエスは復活によって死の支配を打ち破り、その縄目を断ち切ってくださいました。そして、弟子たちに「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」くださり、主イエスの復活を認識させてくださったのです。聖書に親しみ、聖書を読み、教会で聖書の説教を聞く時に、主イエスは今も生きて働かれてわたしたちの心の目を開いてくださいます。そして、主イエスのご復活の命にわたしたちを結び合わせてくださるのです。
2006年4月1日
「最も小さい者こそ、最も偉い者である」。
ルカ福音書9:48「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」
主イエスに従っている弟子たちの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いかという議論が起こりました。ずいぶんあからさまな議論とも思えます。わたしたちの生活の中では、年功序列、入社年次、成績順位等様々な序列があります。会社等では、地位によって権限と責任が明確にされますので、偉いか否かは別にしても、誰がより大きな責任を担っているのかは明らかです。けれども、自分の方が先輩であるのに、地位は後輩より低いということは起こり得ることです。そこに明確な理由があれば、納得もできますが、必ずしも得心がいかないと言うときには、自尊心が傷つくかも知れません。なぜ、自分が評価されないのか。しかも、その評価が収入と結びついている場合にはなおのこと腑に落ちないという思いを抱くでしょう。主イエスの弟子たちの間には、序列はありませんでした。それだけに、誰が一番偉いかと議論をしだしたわけです。
その思いを見抜かれた主イエスは、近くにいる子供の手を取り、ご自身のそばに立たせて「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われました。少子化の進むわたしたちの社会では子供は貴重な存在ですが、主イエスの時代には、子供は価値なき者でした。そのように小さい者を配慮し、価値のない者のために生きる者を主イエスは評価されます。損得で言えば、得にもならないことでしょう。けれども、主イエスの故に、損得で生きるのではなく、小さい者と共に生きる者が、神の国では最も偉い者です。わたしたちはこの損得勘定からなかなか抜け出せません。そして自分の名誉と自尊心を大切にしています。主イエスに従うことにおいて、一番大切なことは自分や、自分の地位や名誉や損得ではなく、最も小さい者であり、小さい者と同伴する者であることは驚きです。それは自分自身からも解放されて生きる姿です。どうしたらそのように生きることができるのでしょうか。最も小さい者とは実は自分の姿であり、その最も小さい自分を主イエスが受け入れてくださり、主イエスが同伴してくださることを知ることから、新しい生きかたは始まります。主イエスがわたしたちをご自分のそばへと招いておられるのです。その招きは教会から聞こえて来ます。あなたもぜひ教会にお越しください。
2006年3月1日
主イエスについて行くこと
ルカによる福音書9:23「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」。
誰かの後ろについて行くよりも、先頭を歩きたいと思われる方もあるでしょう。あるいは、人の前に立つよりは、二番手三番手の方が自分には合っていると思っておられる方もあると思います。リーダーになるか、あるいはさらに別の役を担うか。または一人で自分の道を行くか。わたしは学生時代に山登りのサークルに入り、登山を楽しみました。グループで行く時は、経験のある方がリーダーとして登山を導きます。穏やかな天候の時は問題はありませんが、天候の急変や思いも寄らない事故に巻き込まれた時には経験のあるリーダーは頼りになります。
わたしたちの人生にはリーダーが必要です。自分の人生は自分が決めると考えていてもいざとなると不安になります。先のことは誰も分からないからです。しかし、そのわたしたちに主イエスは「わたしに従いなさい」と語ってくださいます。主イエスをリーダーとするようにと招いてくださるのです。わたしたちはその後について行けば道を誤ることはありません。けれども、その時に、主イエスは自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさいと言われました。自分が自分のリーダーだと思うことをまず止めることです。十字架を背負う者は、処刑場に引かれていく者を意味しています。つまり、既に死刑判決を受けている者として、自分は処刑される者として主イエスに従うのです。自分に死んで、主イエスに生きる。そこまで自分を無にして主イエスに従うことができるでしょうか。主イエスの招きに従う時に、主イエスがわたしたちをそのように変えてくださいます。ですから、心配しないで主イエスについて行きましょう。その道は、教会に開かれています。ぜひ礼拝にお越しください。
2006年2月1日
変わりたい?
ルカによる福音書9:29「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」
今の自分を変えたい、あるいは変われたらという思いを抱かれる方もあるかも知れません。あの人のようになりたいという憧れを抱くこともあるでしょう。過去と性格は変わらないとも言われますが、実際、自分自身変わりたいけれども、なかなか変われないために生きにくさを経験することもないわけではありません。
冒頭に記した聖書の箇所は、主イエスのお姿が山の上で変わられたことを記しています。人としてわたしたちの世界に来られた主イエスが、三人の弟子たちの前で栄光のお姿に変わられました。光輝くお姿は主イエスが神としての本質を持っておられることを示しています。しかし、主イエスはその栄光の姿から、わたしたちと同じ人間の姿を取られて、わたしたちの世界に来てくださいました。よりよくなるために変わりたいと願うわたしたちとは反対に、神でありながらご自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じものになられました(フィリピ2:6−7)。それは、変わりたくても変われないわたしたちを救い出すためでした。主イエスに救われるために、わたしたちは変わる必要はありません。ただ、自分の貧しさ、限界、神を知らずにいる傲慢さを認めて、悔い改めて主イエスを信ずるだけでよいのです。よりよい自分にならないと救われないというのではありません。自分の力では自分は何も変わらないという、今の自分を認め、主イエスにより頼むだけでよいのです。主イエスを信頼するならば、主イエスによって徐々に主イエスに似て行くように変えられます。主イエスを愛し、主イエスの言葉に従って生きはじめるからです。そして、聖書と教会を知らなかった生活から、礼拝を大切にする生活へと変えられていきます。主イエスの輝きを、わたしたちも内に秘めて生きる者とされるのです。衣装や服装、化粧や髪形を変えて気分転換することもよいでしょう。しかし、主イエスに似ていく者に変えられていくならば、やがて内も外も変わって行きます。わたしはそのことを信じています。もちろん時間も掛かります。あなたも信じませんか。
2006年1月8日
信仰の道
主イエスは、ご自身を救い主と信ずる者たちに、主イエスに従うようにと求めておられます。信仰の歩みは、主イエスを心で信じて口で告白して明確になります。教会で信仰を告白して洗礼を受けられますと、教会員としての具体的な生活が始まります。キリスト者の生活は生涯続きます。学校には卒業があり、仕事には定年がありますが、教会には卒業も定年もありません。人生の終わりまで、わたしたちはキリスト者として神と教会と隣人に仕えて生きるのです。
しかし、時に、洗礼を受けて教会員となったものの、途中で信仰生活が続かなくなる方もないわけではありません。主イエスは種まきのたとえで、種がまかれてもすべての種が芽を出し花を咲かせて実を実らせるわけではないことを語っておられます。世の誘惑、人生の思い煩い、富や快楽によって主イエスのもとから離れてしまうのです。
そのように脱落しないで信仰の歩みを全うするために、神はわたしたちに恵みを与える筋道を用意してくださっています。それは、御言葉、特に説教、礼典(洗礼と聖餐)、祈りです。これらは主の日の礼拝に集中しています。ですから、主の日(日曜日)の教会の礼拝を休まないことが信仰の歩みにとって決定的に重要です。けれども、ただ礼拝に行けばよいというものでもないでしょう。礼拝でなされる聖書朗読を聴き、説教を聴き、家庭や職場でも時間をとって祈りの時(聖書を読み、祈ること)を持つことが有益です。日々主イエスに従うことは、日々主イエスに祈ることを意味しています。そして何よりもわたしたちの力となるのは、聖霊なる神ご自身の執り成しです。わたしたちがたとえ様々な状況の中で祈りの生活を持つことができず、礼拝にも集い得ないような時でも、神ご自身がわたしたちのために執り成してくださり、教会も休まれた方たちのために日々祈っています。ですから、わたしたちはまた少し休むことがあっても、悔い改めを与えられてまた主イエスのもとに立ち返り、信仰の歩みを継続することができるのです。今、元気に信仰生活を送っておられる方は、信仰の仲間たちのために祈りましょう。そして今、教会から離れている方があるなら、神と教会はあなたのために祈っています。もう一度、主イエスに顔を向けて礼拝に集いましょう。主イエスは喜んで迎えてくださいます。主イエスと信仰の仲間たちと共に終わりまで、礼拝を続けましょう。
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2005年12月8日 |
献金 |
| 2005年11月4日 | 祈り:祈ってみましょう。 マタイによる福音書6:9−13 |
| 2005年10月6日 | 洗礼 マタイによる福音書28:19−20 |
| 2005年9月4日 | 信仰 ヘブライ人への手紙11:1 |
| 2005年8月7日 |
罪の赦し ルカによる福音書7:36−50 |
| 2005年7月3日 | 罪とは? ローマの信徒への手紙7章19節 |
| 2005年6月5日 | 関係性の喪失と回復 創世記1:7、2:18 |
| 2005年5月1日 | 聖霊降臨 使徒言行録1:3−11 |
| 2005年3月27日 | 主イエスのご復活 ルカによる福音書24:41、45 |
| 2005年3月13日 | 神を知ることの幸い 申命記6:4 |
| 2005年2月11日 | 聖書を読もう テモテへの手紙II 3:15−16 |
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2005年1月9日 |
教会について マタイによる福音書18章20節 |
| 2004年11月24日 | 「待降節 アドベント」 ルカ21:27、ヨハネ黙示録22:20 |
| 2004年10月11日 | 「主イエスによる新しさ」 ルカによる福音書5章33節−39節 |
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