2006年8月10日
例年なら、お盆の時期は仏さんがあるのでどこにも
出掛けないのだが、ここはJR鹿角花輪駅。
帰省するなら青森県だが、ここは秋田県である。

では、なぜこんな所に居るのだろうか?
女房の故郷は青森県上北郡野辺地町だが、先祖は
秋田県の出身であると聞いていた。
それだけではなく、具体的に十二所から出て土深井
辺りで呉服店をしていたという。

ある時、尾去沢鉱山跡(秋田県)からの帰りに見たと
いう同じ名字の呉服店が、その先祖と関係があるの
ではと兄弟の中でも話題にはなっていた。
で、なぜか我家にだけ騒ぐのはなぜなのだろう・・・。
まぁ、遊び人まがいの俺様ならやるまいかと暗に期待
したのかもしれないが。

で、ヤッパ馬鹿な俺だったワケで、その話を元に調べ
ると尾去沢鉱山跡と野辺地が繋がる事が判明。
更に土深井駅は、近代に入ると鉄道輸送の要として
発展したらしいことも判った。
結果から察すれば、単純だが鉱山とその輸送という歴史から、現在に至る事実はなんら不思議ではなさそうである。

9日の午後8時半ころに横浜を出たが、岩手山SAには翌午前6時には到着。
このまま田舎に行ってしまうと午前9時になりそうだが、農家なので行っても
誰もいないだろう。
Uターンラッシュの前なので、全くストレスない走りと早すぎたのである。

では寄り道とばかりに遊び人の血が騒ぐのであったが、向かったところは松尾
鉱山跡
だった。
戦後の復興期には標高1000m付近に15000人が生活し、暖房完備の
近代的建物と共に雲上の楽園と称されたが、海外からの硫黄の輸入に押され
昭和44年に事実上、閉山した。
今日は緑ヶ丘住宅跡を実際に歩こうと思ったのだが、霧のため視界が全くの
不良。
せめて証拠の写真と思ったら、デジカメのメモリーが抜けていてガッカリ・・・。
ご覧のように、携帯の画像となってしまったわけだ。
それにしても、時間が余り過ぎるのだがどうしようかとぉ。
そうだ、女房のルーツ探しでもしてみるかぁ、と、八戸自動車道ではなく東北自動車道を十和田I.Cへと向かうのだった。
まったくの軽い気持ちだったが、こうもとんとん拍子に事が進むとは思わなかったが・・・。

土深井の駅は国道103号から離れた所にあり、国道からも案内標識の無い駅だったので、行き過ぎてUターン。
全くのローカル駅で、草刈のおじさんが忙しそうにしていたが、ひとり車椅子にたたずむ老人に女房が声を掛けてみる。
80歳後半のおばあさんに呉服店の話をすると、ここには無いが花輪駅にあるという。
すべては、このおばあさんの一言が見えない糸を結んでくれたのだった。
そこでJR鹿角花輪駅で駅員に聞くと、すぐに所在が判明するのであったが、実はこの呉服店の話は女房の姉さんの「勘!」
だったと後でわかったが、これが本当の話!にナッチマッタのだから、なんという因縁なのだろう。

お姉さんの話は、尾去沢鉱山観光の道筋で同じ名字の店を見てピンと来たらしいが、この街にはもう一軒あるのだそうだ。
こちらは、現在は三代目だということで、歴史が浅いとして見送ったが、店の主人も詳しいことが判らないので90歳になるおばさ
んに連絡してくださったようだ。
聞けば、野辺地にお嫁に行った人がいることが判明、こちらの情報とも一致することもあり、すべてを書き留めて来た。
そもそも十二所にいたことに始まり、大きな蔵を構えるほど裕福だったが、次の代にすべてを失うがその後呉服店を開いたとい
う。

俺自身もこうも簡単に探し当てることが出来るとは夢にも思わなかったが
早速だが田舎の本家に出向いて情報の摺り合せをしてみる。
本家の主は、今から60年以上前に一度だけ当地を訪れたという。
この時は相続で同意が必要だったこともあり所在を調べた上での事だったよう
だ。
実は、その時の資料を現在でも大切にしていたのですべてが明らかになる。
これによれば、戸籍・除籍謄本が存在しており、なんと200年以上も遡れる
のであった。
だいたい、こんな古いものがあること自体知らなかったので驚きだ。

調べると、先方との証言もすべて名前と年代からも一致することから、ほぼ間違いなく先祖は同じことが解ったと言うことだ。

と、まぁ、役に立ったといいましょうか、何となく気になっていたモヤモヤがスッキリしたと言いましょうか、先祖は秋田にあったと
一件落着いたしました。
これは、母方の先祖をたどる旅であったが、父方はと言えば現在の東北自動車道の十和田I.Cの近くにあるという。
本家の主が訪れた時の年は19歳、昭和23年の話でこの時は父方の分家に泊まったということだったようだ。
したがって、これまで話には聞いていたようだが、この時には母方の方には行ってなかったため、この事実を改めて知らされる
ことになったようだ。
くしくも、お盆の時期にあってご先祖さんを思い出し、心から手を合わせることが出来たことは大変に嬉しい。

この日は、一晩田舎にお世話になったが、翌11日の午後には故郷を離れた。
こちらも13日には迎え火があるのでトンボ帰りも仕方ないが、子供たちが可哀想なので寄ってみたのは八戸の蕪島。
ウミネコで有名な蕪島だが、ご覧のように柵に一直線に留まっておりましたが、この後は種差海岸辺りまでドライブして一路
横浜へ向かうのであった。
しかし、今回の帰省ラッシュは凄かったねぇ、栃木県内の那須高原辺りになると12日午前0時過ぎだというのに物凄い交通
量で、首都高に入っても渋滞が酷かった。

元々は、女房が切符の手配をモタモタしているからクルマで行くことになっちまったんだよなぁ、おまけに2日も休暇だから
お盆ダッチュウノに仕事デスゼ、マッタクゥ・・・。
ここ一年の間に2人も亡くしたりと田舎も大変だったが、5月に引き続きの青森への旅だ。
しかし、こちらは涼しいねぇ、日中でも24℃程度で湿度が例年ほどではないので正に快適なのだった。





2006年5月2日
5月連休をどう過ごすかと考えて居たところに、突然の訃報で女房の故郷へ向かうことに。
例年なら、青森市内では桜は散り加減になる時期だが、今年は桜はつぼみのままであった。
2日から5日まで滞在したが、3日からの暖かさに帰る時には一気に満開となっていた。
当方も久しぶりに桜と梅が満開になるのを見たが、今年の春はやっぱり遅いようで、書いている7日になって北海道にも桜前線
が到着したとラジオのニュースが伝えていた。

葬儀に関する進行の違いは聞いてはいたが、こちらは丁寧というかそれぞれに何か意味があるようで、もちろん宗派や地域性
にも影響するが、都会のものとは明確に違いがある。
田舎ということもあってか、生活の中に地域の協力や隣同士の助け合いが存在するので、寺との接点も都会生活と寺の関係
よりも密接であることは言うまでもないようだ。
なにせ、ひ孫が15人いる家族が全員集まるのだから、当方は知らない人ばかりが集まってくるのは当然、接待も大変だ。

少子化が叫ばれ、個人主義に傾く社会の日本の中にある人口15000人程度の街だが、実は豊かな人間関係を維持して
いる恵まれた環境にいるのかもしれないと感じる。
ただ、街が寂れていてはせっかく豊かな心もいずれバラバラになってしまうのではと心配するのだが。

上の画像は、時間の合間にJR大湊線の吹越駅近くの海岸線からの風景を紹介している。
ここまでは、八戸自動車道から百石道路が接続して第二みちのく道路で三沢、野辺地から下北道なる建設中の路線を
通ってきたが、八戸から338号を走るより1時間もの短縮となっていた。
下北道は、原燃関連の専用道路としての役割を担う路線らしく、一部開通の区間は冬季時の通行調査も兼ねてのものらしい。
この辺でも、縄文時代の物が掘ると発掘されるらしく、4年前に訪れた時には、大規模な調査で建設がストップしておりました。

いつもなら、とっくにウグイスがうるさくなる季節だが、まだ鳴きはじめといった感じ。
最近はフクロウをよく見かけるらしく環境は悪くは無いが、やはり録音となると範囲が広くなってしまうので自分の描くイメージ
とまではいかないところが残念。
この辺では、キツツキのドラミングを聞くと翌日は必ず雨になるというが、自然とともに生きているからこそ感じ取れるのだろう。
ようやく、春が来たという感じの三八上北辺りで過ごす数日間であった。




 
2006年1月7日

せっかく買った「青春18きっぷ」だが、あと2枚ある。
ならば思いっきりと、1月3日に実行をするつもりが寝坊して失敗? でも、行かなくて正解であったわけ。
それは、計画していた区間で豪雪の影響で列車が脱線したからだ。
計画では日本海側に出た後、上越線で返ってくるという前回と同様の一周の行程であるが、結果としてこの冬の実現は出来な
かった。

上の画像は東田子の浦付近を通過中に見えた富士山。
この普通は「特急東海」の車両であるが、夜明け前からモロ混み状態であった。
辛うじて座ることが出来たが、車内はさながら国鉄時代の大垣行きといった感じで、酔っ払いに旅人が混在している。
後ろでは大イビキにクセェ〜息の親父、更に後ろからは歯軋りする男、前席にはやたら話し好きな男など、さすがに床に新聞を
敷いて寝る奴や足を投げ出している奴はいないものの、何とも懐かしい雰囲気だったぜ。



この後は浜松・豊橋と進むのだが、ほとんどは名古屋以遠に向かうようだ。
乗換駅では、そのまま次の電車に乗り込むからホームが変わると皆、足早に階段を登る光景が展開されるが、皆どこへ向かう
のでしょうかねぇ。

豊橋からは飯田線に乗り換えるのだが、岡谷までは6時間の乗車、豊橋行きは4両程度の編成だが、こちらは2両と寂しい。
上の画像は天竜峡駅でのものだが、途中には飯田線ならではの名所がある。
左の画像は城西−向市場間の水窪第六橋梁で、この地域を中央構造線
が走ためにトンネルが掘れない。
そこで、川を渡るようで渡らないS字の橋があったり、小和田という駅には
道路がなく降りたらどこにも行くことが出来ない駅もある。
この小和田駅は、雅子さま御成婚の際にも話題になった駅だ。
などなどと、左右に展開する風景を眺めながら飯田駅に到着、乗り換えだ。

飯田から先は岡谷までは約2時間30分の行程だが、七久保辺りになると
雪に覆われた木曽駒が岳が見え隠れしてくる。
車窓からも雄大な眺めが展開するが、線路脇には思ったほどの雪はな
い。
飯田線を日中に通過するような計画なのだが、さすがに俺自身も退屈してきた。
しかし、駒ヶ根を過ぎると徐々に車両のスピードも上がってきたようである。
道中、車内を見渡してみると、必ず同じ事をしている連中に会うものだ。
この飯田線にも当然ながら現れるのは、語るまでもない事だろう。



岡谷まで来ると日没の時間が近い。
ここからは、車窓の風景もなくなるので眠くなったら寝ていくことになる。
大月からは東京駅行きに乗るのだが、こいつが寒くて乗っていられない。
特急のすれ違いもドアは開放されたままだし、何たって走行中の隙間風が身に凍みるのであるから眠気一転、寒さに耐えること
に。

と、まぁ、東京駅に着いたときはホッとしたが、今日は最後にもハプニングあり。
川崎を過ぎると車内放送で「只今、茅ヶ崎−平塚間の踏み切りで人身事故があった為・・・・」と案内があった。
横浜で降りればそれまでだったが、戸塚までは持つだろうと乗り続けると、戸塚の手前で10分間だったが赤信号で停車。
疲れているだけにイライラしてきたが、今日は簡単にはいかなかったようでございました。

旅の時間・・・18時間20分  乗車距離・・・721.3Km(JR線)





2006年1月1日
正月も早々からこんな所で何しているんでしょうか。
今日は子供を2人連れて、青春18きっぷで乗りつぶしの旅である。

行程は、戸塚07:23発の湘南新宿ラインで宇都宮−黒磯−郡山−いわき−勝田−上野−戸塚と一周する。
画像は黒磯駅での様子で、待ち合わせ時間の少ない行程を組んでみた。
これまでにも、こういう旅を色々と楽しんできたが、久しぶりの一日乗りっぱなしの旅をする。
程度は中級といった簡単な行程であるが、小学校の2人には初めての経験であるので一応の対応を考慮しておく。

初めて乗る湘南新宿ラインだったが、本当に便利になったものだ。
この時間でも当日中に青森に行けるのだから、近郊からの通勤者には確かに朗報だろう。
元旦を選ぶのにも理由があり、やはり空いているメリットを使いたいのだな。
子供に立たせて宇都宮まで持たないだろうから、今日が最善だろう。
結果も全工程で座っての旅ができたというわけ。

しかし、宇都宮から先はシートが灼熱状態でケツが燃え上がりそうだった。
郡山駅では、磐越西線の車両が雪を積んだまま待機していたが、こちらの方は雪もなく晴れの良い天気。
かえって西日が厳しかったが、これくらいの方が寒いよりましというものだろう。

いわきからは更にガラガラとなり、左に映える海岸線を見ながら進む。
大津港からは海岸線を離れてゆくが、駅と駅の距離が長いのでここまで退屈
はなかったが、水戸からは日没の時間もあって退屈な時間となった。
さすがに、我孫子を過ぎると疲れも出たか子供らもじっとしていられなくなって
来たようだ。

仕方ないので、沿線のクイズなんてのを考えた。
まず「東北本線の終点は青森ですが、始発駅は?」と言うと、答えは上野駅と自信満々だが、ブブゥー!答えは東京駅でした。
つづいて「常磐線の始発駅は?」などと言うと、今度はとばかりに上野駅!と答えたが、これもブブゥー!日暮里駅でした。
これには拍子抜けしたのか、不満げだが事実なので仕方ないでしょうと、お父さんの一人勝ちにスッカリ眠気も覚めてしまった
ようだ。
東京発の東海道線もガラガラ状態と、普段では考えられない状態でしたな。
今回は、待ち合わせが10分から25分前後と短く、あらかじめ食事を用意してのことであったのでこれと言った話題がなかった
が、これもいい思い出になったかもしれない。

と、言うことで14時間と30分という一周の旅を、見事完走いたしましたと報告いたしましょう。
ところで本日の走行距離は、JR線で610.2Kmとまあまあ。
しかし、まだ2枚残ってますぞ。



                                  
気ままな旅の風景から
         2006年度版
音の風景
小さな旅