大阪歴史懇談会 副会長 榧野 敏男
(1)
戦火の体験がない総理大臣、政府高官が閣議に並ぶ。国民の
大半が敗戦後に生まれた。惨事が語られなくなりつつある。
貴重な生き証人 激減
祖国の日本が、世界を相手に大東亜戦争の戦端を開いてから六五年、当時の成人は八五歳になった。男性の平均寿命をはるかに超えており、戦争の貴重な生き証人の激減が続く。
この戦いを世界は、戦場に名をとり、太平洋戦争と呼んでいる。一九四一(昭和一六)年一二月八日未明(日本時間)に、日本海軍はハワイの米軍基地を空襲し、政府は米英両国に宣戦布告、天皇陛下は詔書を放送した。
政府は、大東亜戦争と命名し、翌一七年の正月に閣議は、毎月八日を大詔奉戴日と決め、神社参りや学校での御眞影礼拝を奨励した。
日本軍の東アジア進出は満州事変、支那事変と続いており、これを合わせて一五年戦争とも呼ばれる。この間、戦死または戦病死した軍人、軍属は約二三〇万人。満州逃避行やシベリア抑留などでの死亡した元軍人、民間人が約三〇万人、内地の戦災死は約五〇万人に上っている。
戦争未亡人は今どこに
東京、横浜、名古屋、大阪、神戸など空襲で一〇〇〇万戸以上が焼野原になり、広島、長崎は原爆で壊滅、放射線病の後遺症を残した。各地の被災者は路頭に迷った。
徴兵により家庭から父、夫、子が引き離なされた。収入が減ったばかりではなく、白木の箱に名前だけとなった夫の帰宅によって、未亡人の涙が累々とあふれた。一〇〇万人とも一五〇万人ともいわれる。その余生は苦難を重ねた。
肉親の戦死、空襲によって戦争孤児が続出した。親類に引き取られなかった子供は、施設で飢えをしのいだ。戦後三〇年も経ると、離婚孤児が、その施設で生活するようになる。
(2)
返せ江戸時代の国土
六五年前の昭和二〇(一九四五)年八月一五日、大日本帝国は米英ソ三か国宣言を受けて、中・豪などを含む対戦中の連合国に降伏した。天皇陛下は詔書を放送したが、抗命して自爆する指揮官もいた。
ソ連軍は日本が江戸時代に開拓した歯舞群島、色丹、国後、択捉の島々に侵攻し、領土とした。昭和二六年九月に、五二か国が参加する対日講和会議がサンフランシスコで開かれたが、ソ連など四か国を除く四八か国が日本と結んだ平和条約は、翌年四月に発効した。
北方四島といわれる侵攻された島々は、安政二年二月七日、下田で調印した日露和親条約により、日本領と定まったもの。戦後、米軍が進駐していた沖縄諸島が返還され、国土として返って来ないのは、この四島だけである。毎年先月七日を「領土の日」と定め、国民運動が行われているが、ソ連の末裔・新ロシアは返す約束をしていない破廉恥さ。
昆布が名物、北方四島
京阪神奈の暮らしは、昆布抜きに営めないほどである。四島は昆布の特産地であるのに、日本人は収穫できない。日ソは昭和三一年十二月、「平和条約が結ばれた後に四島を引き渡す」と共同宣言して五〇年、関西人は『待ってやらん』と、大いに怒っている。
四島の広さは愛知県と同じ。一つの島としても沖縄本島より大きい。北海道海岸から一番遠くても一五〇キロだ。水夫から回船問屋になった兵庫の高田屋嘉兵衛と幕府は、ロシア皇帝と四〇年間交渉して、握手している。
シベリア抑留という名で、ソ連に拉致されて死傷した将兵と略奪、飢餓に襲われた邦人は数十万人。大東亜戦争は敗戦の前年夏、本土決戦という〈民族自殺〉国策を出した時に壊滅していたのだ。以後の人命、国富、文化、情愛を救えなかった天罰が、今日の世相荒廃となって当たって来ている。
(3)
戦争中断の好機、逃す
大東亜戦争に敗れる前年夏、軍部と政府は「本土決戦」を決めた。皇紀二六〇〇年の栄光ある国土に朝敵・連合軍を迎え、荒廃の中で干戈を交えることは、天皇陛下を空しくする大反逆ではないのか。御身の安泰を願い奉るのなら、赤子(国民)とスメラミコトが、緑茂り、清水したたる敷島で、敵味方共に、和平の握手をするべきでなかったか。
開戦の2か月後、一七年二月一五日にシンガポールを日本軍が陥落させた。山本五十六連合艦隊司令長官の予想より、約三か月早かった。笹川良一代議士は山本長官から「シンンガポールが陥落したら、米国と和平交渉を進めてくれ」と頼まれていた。
笹川氏は旧知の陸海軍要人を説得しようとした。杉山元(はじめ)参謀総長は、宙をにらんだまま無言だった。二日後も、口を聞かなかった。元帥になった杉山は、開戦の首相・東条英機陸軍大将が、連合軍総司令部に逮捕された二〇年九月一二日、拳銃自殺した。
南太平洋で連合軍の総反撃が始まり、サイパン島玉砕が迫った一九年春、岸信介・軍需相待遇次官は、閣議で戦争終結を強く主張した。東条首相は岸に辞任を迫り、七月に内閣は総辞職した。8か月後、東京大空襲。神戸に至る東海道の都市住民は無差別攻撃され、焦土と化した。降伏が半月早ければ、広島、長崎の原爆投下はなかった。
「生きて俘囚の辱めを受けず」
東条首相は全軍兵士に「生きて俘囚の辱めを受けず」という『戦陣訓』を強いた。敗戦の翌月一一日、米兵による逮捕の直前、拳銃自殺を図ったが生き延び、絞首刑になった。
開戦一年後から始まったアリューシャン列島から沖縄まで、海陸の玉砕作戦は、戦陣訓がさせた。将兵数十万の命は、母国の親兄弟を救えないままに、失われた。
敗戦の一年前、駐ソ日本大使は、ソ連外相に和平特使の派遣を申し出たが、断られる。ソ連が日本に宣戦布告したのは、敗戦の七日前。シベリアへの俘囚が策略されていた
(4)
学徒出陣、沖縄の波頭に散る
沖縄群島に米海軍、海兵隊主軸の連合国機動部隊が進攻したのは昭和二〇年三月。二六日、米軍は猛烈な艦砲射撃をして慶良間列島に上陸。四月一日には本島に殺到し、飛行場が二か所とも押さえられた。
二日の朝、陸軍が自慢していた双発爆撃機「屠龍」(どんりゅう)の編隊が本島に迫った。抱いた爆弾を、飛行場を奪った米軍に投下。日本の守備隊を援護し、強行着陸か、空母を急襲し、撃沈させようという特攻作戦である。戦艦大和も五日後、艦隊特攻として南下中に米軍に包囲され、途中で沈んだ。
大阪の学徒兵出身、吉村健正・陸軍航空少尉は、この屠龍の爆撃手として、南冥の海に散った。23歳。実家は二十日前、大阪大空襲にやられ、丸焼。遺族は食料難に襲われた。
「母の家、兄弟姉妹を不幸にしないため、国難に殉じるんだ」。青年の願いはかなわなかった。母は、生還した商学士の同期生が、日本の経済復興の担い手となり、活躍しているのを見て「健ちゃんの身代わりがソコに居る」と、皺だらけの手を位牌に合わせた。
学生は兵役、生徒は勤労 児童疎開
大学生が陸海の軍人になり、中学、女学生が軍需工場の工員になったのは十八年から十九年にかけて。児童の学校疎開も行われ、八月には阿倍野区の八校約三千人が和歌山県下へ、翌月に福島区の野田国民学校は広島県熊野村へ。三年生以上が終戦までいた。
徴兵は十九歳からになり、陸海軍の軍人は終戦の年に七百十九万人と開戦前年の4倍になった。前線に派遣され続けたが、輸送船が襲撃され、戦わない戦死者が続出した。内地でも学校は工場や兵舎になり、本格的な授業はほとんど行われなかった。
大東亜戦争は、東亜の諸国の共栄を図るとする目的で始めて三年で、全戦線が敗戦を重ねただけでなく、国内の生活が破綻した。
(5)
日本の花、靖国の華
♪貴様と俺とは同期の桜
離れ離れに散ろうとも
花の都の靖国神社
春の梢に咲いて会おう(五番)
ご存じ、海軍兵学校出身者を主題にした軍歌(昭和一三年の作詩曲)だが、その後は学徒兵や陸軍の将兵らにも歌われ、一九年に大流行した。同期は軍籍、部隊、学年が同じ事に通用され、特に特攻作戦参加の若者が愛唱した。
三番には「未だ還らぬ一番機」とある。特攻は当初、自爆作戦ではなかった。反復攻撃するためには、優れた指揮官・戦友に生還してもらわなければならないのに「なぜに死んだか散ったのか」。
東京・九段の靖国神社春の大祭は、毎年四月二二日。今年は総理大臣(国軍最高指揮官)が御供物された。外国政府の要人に「日本の首長は、かつての侵略軍人の祠に参拝するな」と言われると、日本の議員、官僚がびくつく。
一時、軍事政権が差配した神道の杜であっても、愛唱歌のように国民の心のよりどころであり、歴史的文化の象徴になっている。大東亜戦争当時、共栄圈内の各宗教施設も尊重し、祭礼を共にする心の崇高さを示すべきだった。遺憾なのはこの事であって、信仰について謝罪する国は、世界のどこにも無い。
慰霊の文化伝えよう
戦没学生の遺書はいう。「みんなで靖国神社に行こう」「靖国の神となった君よ、僕も国を護ってともに征く」と。
大阪大空襲で父を失い、重病の母に死なれた小学生の静恵ちゃんの兄は「時計と軍刀が形見です。売って、女学校に上がるときに使っ
て。静ちゃんの人生の方が大事です」と書き残して、沖縄洋上の敵艦隊に突入した。
大東亜戦争が終わって約四〇年後、一九七八年から三〇年間に、日本は旧大東亜共栄圈を含む発展途上三〇か国に合計四六七八億円を援助した。ところが使途報告もなく、不明額も多いと報道されている。外務省に責任を取る気配はない。国難に命を懸けた若者たちの子や孫の世代の納めた金が、無駄になろうとしている。慰霊の文化、つぶしてならぬ。
(6)
子供は大人の写し絵
「おまえ、チャンコロの子や」「遊んでやれへん」−−。大東亜戦争の始まる約一〇年前から終戦まで、大阪の子供たちが口にしていた、イジメ言葉である。
殺人、傷害、自殺を伴う最近のイジメに、世間はもっと怒り、学校園の先生たちと関係する公職者は、職を賭けても過激なイジメを止めさせなければならない。心ある両親や大人が叱ると子供は過激なイジメをしなくなる。
昭和六年九月、国民党政府の中国・満州は柳条湖に近い南満州鉄道が爆破された。駐在していた日本の関東軍が出動、主要都市を制圧。満州事変と呼ばれる。日本の着火説が濃厚である
六年後の七月、北京の蘆溝橋で日中軍が衝突。支那事変に拡大する。国民政府軍と内戦状態にあった紅(共産)軍の発砲と伝えられている。
チャンコロとは清国末期、迷走する支那に日本人がつけた別名である。日清戦争に敗れた中国は国情安定せず、明治末期の辛亥革命に追われた皇帝・溥儀(満州族出身)は大正三年、日本公使館に亡命する。以後、日本の大人は中国や満州の人たちをいとい、イジメさえした。
五族共和の繁栄願ったが
大東亜戦争には、東南アジアを列強の植民地から解放する「聖戦目的があった」とする状況だったのは事実である。しかし、その背景のなかに、諸国への軽視と、列強に代って日本が間接に差配しようする意図もあった。だから、日本が中国を含む列強と戦った時期を、世界から十五年戦争とも呼ばれるようになった。
柳条橋事件の翌年、満州は執政に溥儀を迎えて建国する。満州民族、漢民族、蒙古民族、朝鮮民族、日本民族の五族共和繁栄を願った。だが「日本の傀儡政権である」という列強は、国際連盟の調査団を派遣。報告書は「侵略とは断定しかねる」としたが、日本軍の満州撤退を四十二票対一で可決。日本は天皇の詔書を以て連盟を脱退してしまう。
大東亜共栄圏構想は昭和十四年七月、米国の対日通商条約廃棄による、経済制裁の国際網に対抗するために、浮かび上がったのだ。
(7)
七参院選に東條さん登場
平成19年夏の参院選で、野党の民主が過半数を制し、自民は逆転負けをした。注目されることはもう一つ。大東亜戦争当時の東條英機首相の孫娘、由布子(ゆうこ)さんが東京選挙区から無所属で立候補、五万九六〇七票を得たこと
で、二〇人中一二位だった。
公約は「日本の名誉と誇りを回復する」。国として、戦没者の遺骨収拾を続けるさせる、と訴えて回った。国政選挙で、国の誇りと名誉回復を公約に掲げた例は、皆無と言ってよい。水漬く屍、草蒸す屍二〇〇万人余は戦後六二年にして、大きな味方を得た。しかも熟年女性の。
東條由布子さんは、次代をになう子供たちに日本の歴史、伝統、文化を語り継がなければならないと、出馬の決意を語っていた。
大東亜戦争が裁かれる
日本降伏後、連合国は東京裁判を行った。満州・支那事変、大東亜戦争、日独伊三国同盟の戦争計画と、交戦国での戦争遂行、宣戦布告前の攻撃による殺人、捕虜・一般人の殺害、戦争犯罪と人道に対する罪で、戦争をはじめた軍人
と官僚を絞首刑、懲役、禁固刑にした。
しかし、勝者が敗者に復讐する行動である、との声が連合国側からもあがり、占領軍最高司令官だったマッカーサー元帥も米国議会で「日本の自衛戦だった」と述懐するに至っている。
その後、英米、フランス、オランダの植民地だった東南アジア各地では、独立運動が起こって、民族国家が成立、国連に加盟していく。今のAPEC主要国である。
昭和一八年秋、連合軍の列島包囲網が出来つつあるとき、東京で大東亜会議が開かれた。列強植民地から、独立派の要人が集まり、中国の汪兆銘国民政府行政委員長、満州国の張景恵総理もいた。世界史として、注目されるはずなのだ
が、日本では前年秋に大東亜省をつくり、二元外交のそしりを免れなかったように、アジアの未来への展望を欠いた自讃の「会議」でもあった。(8)
大阪生まれの首相2人
大東亜戦争が二〇(一九四五)年八月一四日に終わって六二年目の今年、戦没者のお盆供養を出来ないまま亡くなる親たちの無念が、川面に炎をあげた。還らぬ父の顔を知らない子供の一番若い人が六三歳。孫を入れて三代、父母の世代を含め四代にわたる肉親の悲しみが、列島を覆った。
この戦争の後始末をしたのが、終戦四か月前に総理大臣になった鈴木貫太郎(77)。泉州の大鳥・伏尾新田(下総関宿藩の飛び地)の生まれで、海軍大将から侍従長を歴任。東絛英機の開戦総理がサイパン玉砕後に総辞職し、あとの小磯国昭(陸軍大将)内閣も、沖縄全滅により二〇年四月五日、総辞職する。この日ソ連は、日ソ中立条約を延長しないと通告してきた。
鈴木内閣が二日後に発足。八月六日、広島に原爆。八日、ソ連が対日宣戦布告。九日、長崎に原爆。ポツダム宣言受諾が十四日。鈴木内閣は十七日に総辞職。後を東久邇宮稔彦(皇族)内閣が引き継いだが、占領軍総司令部が内務大臣の罷免を指令するなどして瓦解し、天皇は幣原喜重郎(73)に組閣を命じる。
幣原は明治5年、門真市内(現在)の豪農に生まれ、三高−東大を経て外交官になった。駐米大使のあと加藤高明、若槻礼次郎、浜口雄幸と三内閣の外相を務める。占領が始まって二か月後、総理となって「天皇の人間宣言」を起草したり、戦後の国内体制を維持した。
戦前、中国をめぐって列強との妥協を図り、ロンドン海軍条約(軍縮)を成立させた<幣原外交>の主役が救援役に回ったわけ。戦後の総選挙により誕生した吉田茂政権で国務大臣になり、衆院議長の任期中に世を去った。昭和26年、79歳。大阪の風土では、物事の激突を避け、成るようにする意識を生む。この時期、2首相は天の配剤だったのか。
戦争の後始末は遠い
大東亜戦争は16年夏、陸軍の仏印進駐、暮れに海軍のハワイ攻撃から始まったのではなく、日本が国策として進めた昭和6年の満州国建国で着火された、と内外の歴史家は指摘する。近代国家日本は、列強諸国との不平等解消から始まった。富国強兵の努力は、日清、日露両戦争の勝利、一次世界大戦の基地提供として実った。
直後、幕末−新政府当時の国難に再び襲われる。中国権益と石油の国際的な争奪戦である。一次世界大戦により、戦場は国民に、国土全体へと広がった。兵器、兵員は国の生産力に支えられるようになり、和平は諸国との事前協調によってのみ、実現することになった。
大東亜戦争は、これらのルールに反して勝者、敗者ともに瓦解した。日本は貴重な人命と有史以来の文化をおびただしく、失った。鈴木内閣は、戦争の後始末に登場したとされているが、戦後半世紀を経ても、肝心なものは、何一つ後始末されていない。
戦没者の遺骨は旧戦場に残り、古来の領土は占拠されたまま。国民が私財を投じた国富は、戻って来ない。無念が晴れない日本の高齢者は、列強旧植民地の国々の若者が、世界陸上などのスポーツ大会で、当時の支配国の若者と肩を並べて活躍する英姿と、抱き合う笑顔に、慰められている。(9)
九月、安倍晋三・内閣総理大臣が辞職、自民党新総裁に福田康夫氏が選ばれ、新内閣が発足した。外相に高村正彦氏、防衛相には石波茂氏。早くも靖国神社年賀参拝に対する中国、韓国、北朝鮮の出方がうわさされている。
参拝の有無にかかわらず、在住中国人の犯罪が増え、北朝鮮の核兵器があり、拉致被害者がおり、米国議会と韓国の偏狭な日本非難は止まないだろう。一国内の宗教、祭礼を、他国との国交手段にしない国際世論を、新内閣は起こすべきである。
同じ月、大本営のソ連抑留参謀・瀬島龍三氏が永眠した。○歳。大東亜戦争の証人がまた一人消えた。11年後に帰国して、戦後の賠償、航空機商戦に活躍し、行政改革、電電公社、国鉄民営化を推進する。戦中の罪滅ぼしだったと、言われた。
日露講和は2年内
日露戦争が始まった翌年、日英同盟が更新された。米国は日本の対外借款を認め、和平工作に出た。開戦1年9か月後、日ロ講和条約に至る。ロシア革命が天機だった。軍・政府、上官・上司、兵卒、雇人に至るまで職務に懸命だった。
大東亜戦争は、大東亜共栄圏をつくる聖戦として始めたが、実は10年前から共栄圏構想に反する動きが、国内に連発していたのである。昭和7年の5・15事件(海軍将校の襲撃)頃から、テロリズムによる暗殺が相次いだ。実業家、首相まで犠牲になった。
日本は軍の満州撤退を勧告した国際連盟を翌年、脱退する。昭和11年2月26日、陸軍将校が反乱。内大臣、蔵相を殺害する。翌年夏、日本軍は政府声明を得て、華北に侵攻、日中戦争が始まった。戦費調達に困った政府は、臨時軍事費特別会計をつくるが、国際的借款は、国際連盟を脱退しているため、絶望である。
同年、中国内で国民党政府と共産軍政府が割拠協定をして内戦を中断。国民党政府は米国に援助を求める。14年7月、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告してきた。2か月後、ドイツ軍はポーランドに進撃し、英、仏が対独宣戦、第二次大戦となる。15年9月に日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結ぶ。産油国でない日本が世界を相手に戦うと、宣言してしまった。
満州民族、漢民族とは利害が反した。朝鮮民族には日本化を急いで、軍属などに徴用した。五族共和は、大東亜戦争開始の前年に破綻していたのである。アメリカ、イギリス、シナ、オランダの産油国は日本制裁を始める。頭文字をとってABCD包囲陣の禁輸であった。(この項、つづく)
(10)
大東亜戦争開始の一年前、昭和十五年十一月に米英はくず鉄の対日輸出を禁止。国内は支那事変による物資欠乏が相次ぎ、経済統制(砂糖、木炭など配給制)が強まる。政府は大東亜共栄圏構想を、紀元二千六百年祝典をきっかけとして、全国に広める。アジア経済を興して、日本の活路を見い出そうとした。
日本の石油備蓄、半年分
米・英・中・オランダの石油禁輸により、日本海軍の備蓄は半年分のみとなった。陸軍が開戦の年にオランダ、フランス領インドシナに進駐したのも、真珠湾攻撃のあと、イギリス東洋艦隊を攻撃したのも、石油ほしさである。陸軍航空隊、戦車隊も海軍同様に油がなければ動けない。
御前会議では十六年九月、開戦準備を決める。攻撃中止の望みを、最後の対米交渉にかけた。しかし、十一月二十六日に強硬策のハル・ノートが出る。@中国、インドシナから日本軍即時撤退A日独伊三国同盟の無効B中国では重慶政府以外を否認する−−だった。
日本の連合艦隊(山本五十六司令長官)は、遂に錨を上げる。政府は断交通知書を送るため、開戦前日の7日(日本時間)午前中に、野村駐米大使へ「重要文書の予告」電報を打った。しかし、大使館は当直を置いていなかった。8日(同)朝、日本語電文の英訳が始まったが、午後一時の手交時刻に間に合わない。
宣戦布告は攻撃後だった
その時、真珠湾を奇襲した雷撃機が魚雷を連発、戦艦群は火柱を上げていた。電文はその25分後に届いた。ルーズベルト大統領はさっそく「日本はダマシウチをする卑怯な国」とラジオで演説し、世界中が聞き耳を立てた。
チョンマゲカタナの日本が、粉骨砕身して半世紀。近代国家・日本は、列強と肩を並べた途端、初めて世界から笑い物になった。官僚の大失敗が国難を招いた。世界で二、三を争う軍備、常時徴兵制の慢心が、国民の生命財産を列強の壊滅戦隊にさらした。
昭和二十年二月、連合国はソ連の参戦、日本の降伏日程をヤルタで協議した。それより六か月前、日本で密かに終戦対策が海軍側で始まった。陸軍側にも国会議員から働きかけがあったが、無視された。幹部軍人の間で「和平派はテロの的」とささやかれた。
二十年六月、天皇が終戦について発言された、と伝えられ、政府はソ連に大使級交渉を打診している間に、放射能の閃光が二つ、日本国民を犠牲にした。(11)
大東亜戦争の開戦を世界に明らかにした十二月八日、今年は六十六回目がやってきた。その前の二十八日、改正中国残留邦人支援法が成立した。敗戦によって旧満州(中国東北部)に置き去りにされた日本人は三十万人以上。ソ連軍に追われて南へ必死の逃避行をしたが、四千人以上の女性、三千人以上の子供が取り残された、といわれている。
母と子、落とされた地獄
母に死に別れ、現地の人に拾われた子、「もらって生かせてください」と母が預けた子がおり、飢餓のこわさに、現地の男性にすがった女性がいた。日中復交より九年後の一九八一年から帰国できた孤児は約二千四百人、女性は約三千七百人である。その本人と家族に老齢年金額(約七万円)と生活支援金を来春から渡す。
大阪、京都など全国の訴訟原告団は、ほっと安堵したが「国の謝罪がない」と怒っている人も少なくない。中国人夫婦ら現地の人たちは、食べ物も着る物もなく、途方にくれたが日本の女子供をよくぞ、面倒みてくださった。大東亜共栄圏をめざすといいながら、自国民を戦地に放置し、現地の人の「共栄」の情けにすがるとは、日本政府は狂気の沙汰だ。現地の皆さんにひたすら感謝するほかはない、と今の日本国民は痛感する。
十二月八日、宣戦布告前に、ルーズベルト米大統領は、戦争を回避する内容の書簡を天皇に送っていた。しかし「譲れない」と政府と陸海軍首脳が判断したのか、御前会議で協議した形跡はない。協議しないのが御前会議のあり方だったのか。
情報戦争にも負ける
昭和十七年末から翌年夏にかけ、太平洋で日本軍の戦線は縮小し、十九年末にドイツ敗退の見通しとなった。二十年二月、連合国首脳は会談し、戦争終結の準備を始める。五月、ドイツが壊滅すると、ソ連を引き込んでポツダム会談を開き、日本への総攻撃を密約する。中国残留日本人の悲劇は、ここから始まった。
ソ連に対する欧米側の見込み違いが生じて、首脳たちは国際情勢について誤算を大きくする。日本はその情報を関知できず、本土決戦準備を止めなかった。二十年春、米軍は東京大空襲を始め、日本の都市を無差別攻撃にかかる。ナチスドイツのユダヤ人大虐殺と並ぶ、民間人の皆殺し作戦となり、二発の原爆に至る。環境破壊の極みである。
ソ連も満州、樺太の日本民間人に対し略奪、婦女暴行、強盗、殺人を繰り返し、日本軍将兵を集団拉致した。捕虜を死なせるような強制労働を強いる。関東軍は日本人を守らなかった。その関東軍将兵は、邦人を連れて現地を脱出する作戦も行わなかった。
軍人は、公務員である。民間人を守れない軍人が指導した大東亜戦争。その敗戦の教訓が、背広が制服を統率する、という制度を生んだ。ところが背広組と政商が組んで、制服が使う道具(兵器)の利ざやを抜いた事件が発覚した、開戦六六年目の冬。日本列島の重大な危機を、痛感しなければならない。
(12)
大東亜戦争に敗れてより、六三回目の正月を迎えた。敗戦後に生まれた子は、今秋六四歳になる。軍歴最年少者さえ傘寿である。北は旧ソ連のシベリアから南はガダルカナル島、西はスマトラ島、東はハワイ諸島の広大な範囲に、今も日本軍将兵、居留民の遺骨が放置されている。沖縄、硫黄島を含む戦没者が約二四〇万人、帰らぬ遺骨は一一五万柱といわれる。収集は子より孫の世代にゆだねられるようになった。
三歳で死別の子が遺骨拾い
今年の夏、玉砕の島・インドネシアのピアク島を訪ねた日本政府の派遣団は、一〇〇柱を超す遺骨を集めた。その中に、三歳で父親が戦死した還暦過ぎの東北出身男性がいた。
「父親の最期の土地へ」と半世紀かけた行脚である。
大阪府下に住むシベリア抑留の士官学徒は、傘寿過ぎの老骨にかまわず、遺骨収集団に何度も加わってきた。戦死者の遺骨が放置されているのは、人権問題だとして、救済申し立てをする九州の団体もある。
日本政府の〇七年度予算のうち、収集費は約二億円。米国国防総省にある「戦争捕虜行方不明者捜索司令部」の年間予算は五五億円。未帰還軍人約八万八〇〇〇人の行方を捜している。
護った国の道義すたれる
戦没学徒兵の遺書。「父母住むふるさとを敵から護るため、一身を撃つ」「弟よ妹よ、親孝行、勉強して、家を大切に」と、端正な字で。昨年の日本列島に渦巻いたのは、老舗のうそつき食料品売り、会社の欠陥商品製造、国と地方役人の汚職、職務怠慢だった。
命がけで護った国土、日本人の心のはずだったのに、五〇年も経たないうちに、妻子を残して戦った兵士たちの後輩や孫たちは、心を失ったのだ。なぜか、遺骨を弔わず、故郷の地に戻さないからである。迷っているのは、亡霊だけではない。生きている不誠実者、忘恩の偽者たちではないのか。
この状況は、日清日露戦争勝利後に訪れ、第一次
世界大戦時まで続く好景気の最中、国家の基盤(生産技術)整備と、社会成熟を怠った当時と似ている。「勝った、勝った」の国民的傲(ごう)慢さがつのり、欧米側と戦後平和への協調を軽んじた。
軍人と官僚の「おごり症候群」は、中国の政府と共産勢力の合従連衡、それを取り巻く欧米列強の思惑の変化を見逃した。戦争技術は非戦闘員、相手国民全体を虐殺しかねないところまで進んでいた。
日本陸海軍の意地の張り合いによる不和が、国内のテロリストたちを増長させる。開戦前、中国派兵縮小のアメリカ案に対し、「支那事変派兵の戦死者に申し訳が立たない」と陸軍が反対。にわかに入閣した嶋田繁太郎海相が同調した。石油確保の手練手管よりも面子論が勝ち、一一五万柱の帰らぬ遺骨に至るのである。
(13)
先月、最新鋭のイージス艦「あたご」が房総沖で漁船と衝突。父子二人が絶命した。海上自衛隊の現役下士官は『見張りが見落としたか、艦として連絡が不十分だったに違いない』という。さらに彼は、遠洋航海で各国の港を歴訪したとき、軍艦側も、商船や漁船側も「軍艦は真っ直ぐ進むもの」というのが、軍と港町の常識だったと、話す。だから混雑海域ではレーダー、見張り員を駆使するのはもちろん、伴走舟艇を出したりする。ともあれ、護衛艦が、漁民を護衛できなくてどうする。
護れなくなった時
大東亜戦争は、日本がアジアの石油資源を確保し、欧米の植民地支配から住民を解放するのが、動機であり、目的だった。昭和一七年一一月、大東亜会議が東京で開かれ、フィリピン、ビルマ、自由インド、タイ、満州、中国・汪兆銘政権の代表が集まった。
この時期、米英ソはモスクワで外相会議、カイロで米英中の首脳会談を開き、スターリンは対日参戦を表明。満州・台湾を中国に返し、朝鮮を独立させると、申し合わせた。夏にはミッドウェー海戦で大敗、冬にガダルカナル島撤退が始まる。日本は運命の岐路に立った。
これから、邦人居留地への攻撃、内地への無差別 爆撃が行われる。日本軍は国民を護りきれなくなってくる。下士官以上は専業公務員でもあり、政府には外交特権がある。しかし、国民を護る意識は出なかった。狂気が列島を覆っており、和平の時期を逸した。
開戦の一年以上も前から、戦端の開き方を宮中・陸海軍は検討した。しかし、和平の条件(閉戦)が抜けていた。兵・国民の悲惨死、国富と精神文化の無限の忘失を招く。
戦争遂行の能力は?
日本の航空戦力は、開戦時に陸海合わせ約七千機あり、以後約六万五千機を製造したが、約七万七千機を失った。アメリカは日本の一〇倍以上を製造。長距離爆撃機を含めると戦力は数十倍とされる。海軍艦艇、陸軍兵器も同様に、連合軍は開戦時の百倍の規模に達した、戦史は書く。補給合戦では、一年前に大差がついていた。
銃器にも大問題があった。昭和一四年に制定した九九式小銃(口径七・七ミリ)と明治三八年制定の三八式歩兵銃(六・五ミリ)を併用していた。九二式重機関銃は九九式小銃と口径が同じだったが、薬莢が大きく、機銃弾を小銃に使えなかった。米軍は七・七ミリライフルに統一していた。
米軍の重機関銃(一二・七ミリ)も戦車、装甲車、小型艦船、航空機に使え、海兵隊も利用した。日本は陸海軍の間でも銃器弾薬の口径が違い、補給が後手後手に回った。航空機部品も陸海軍で型式が異なっていたが、米軍は陸海空軍と海兵隊の兵器サイズが同一。米軍の火器が七種に対し、日本は陸軍だけでも二〇種を超した。
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今から五六年前の昭和二七年四月、対日講和条約が発効して、大東亜戦争に一応の決着がついた。この平和条約は、日米安全保障条約とセットだったし、当時、朝鮮半島では南北の戦争休戦会談が開かれようとしていた。
戦争は、銃火が止んだだけでは終わらない。日本側の軍人・閣僚を処刑した極東国際軍事裁判への批判は世界的に巻き起こっている。ソ連が日本人捕虜をシベリアに抑留したことに対し、日本政府が早期帰国させる義務を怠ったとして、元兵士たちの集団訴訟が行われている。戦没者遺骨収集の不徹底はもちろん、大東亜戦争はまだ終わっていない。
日本は棄兵、棄民した
京都地裁で三月一八日に開かれたシベリア抑留訴訟の口頭弁論。原告は三年間の悲痛な体験を語り「六〇万人の地獄の苦しみを放置して、国民を棄てた」と主張した。この日、七九?八六歳の八人が追加提訴した。寿命との競争だ。
敗戦により、日中事変から一五年間、軍事政権同様の政府が瓦解して、官僚政権が取って代わった。しかし、連合国に占領され、生産停滞、食料難のなか、国難に立ち向かう気概まで喪失した。堕落である。
この敗戦病症候群は北方領土、日本海・東シナ海の諸島、拉致、毒ギョウザ事件において、日本の利益を主張しない、弱腰外交を生んでいる。敗戦ショックは、半世紀経っても治っていないのである。ドイツが堂々と外交戦略を展開しているのと、対照的だ。
勝った連合国が押しつけた東京裁判。批判してきたのは、パール判事(インド)だけでなく、一四か国の法律家、政府高官、著名人ら一〇〇人を超す。裁判は国際法違反でもあり、アメリカ空軍の日本都市空襲は、虐殺である、と指摘する。もちろん原爆も。
農地改革の忘れ物
占領軍の民政は、軍国主義を後押しした、小作の窮乏化対策として、農地を地主から小作に解放するよう、奨励した。農地改革である。昭和初期からあった自作農育成政策に便乗したこともあり、約一九〇万町歩(小作面積の八割)が、全農家の七割を占める四七五万戸の小作・自作に安く渡した。小作のみの農家は五一万戸に減った。
農村は潤った。これが経済の高度成長を促す。しかし、土地は換金されやすい。都市近郊では、田畑売却成り金が出現する。産業構造が一次、二次の生産から、三次のサービス部門に移る。
農林の村落共同体、町の隣近所がやせる。人心がすさみ、学校が荒れる。公務員が高給化する。農地改革の忘れ物、それは勤労感謝の生活だった。失われた一〇年間の経済不況は、農地改革の光であった、見せかけの富を吹っ飛ばした。空虚が残った。
農耕文化、それを育てた人材が減りつつある。歴史は連綿とつながり、結び合ってこそ次代に果実をもたらす。今こそ大東亜戦争の歴史を、皆でしっかりとたどりたい。それなくして、英霊を真に弔う道はないからである。
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日本が皇国史観に基づく「皇紀二六〇〇年」の祝典を迎えた翌年に、世界を相手に戦端を開き、3年8か月後に敗れる。国土は荒廃し、市街地は焦土と化した。国史で初めて、世界大戦に加わり、国史始まって以来、降伏の惨事を被った。天孫・臣下の断腸の念、同胞の悲涙いかばかりか。
国体の瓦解、再建の誤算
本編「語り継ぐ」前号で、占領下の日本が行った農地改革の忘れ物、を指摘し、農地の分散所有が日本の産業構造の大変化を促しながら、土地・水利の『人心を育む力』を弱めた弊害を強調したい。
焦土を復興させようとする熱意、朝鮮戦争による経済特需により、都市近郊の土地価格が上昇。経済を高度成長させた幸運は、逆に零細農林業の青少年を、都会へ送り出し、故郷の山河を忘れさせた。
農林の村落共同体、町の隣近所がやせる。新興住宅地の人心がすさみ、学校が荒れる。公務員の給料は高く、能力が低下した。農地改革の忘れ物、それは勤労感謝の生活だった。
高度成長経済が止まり、政府も経済界も、見せかけの余剰資金に酔った。金利は暴落、バブルが消え、失われた一〇年間の経済不況は、農地改革の光であった、ちいさな富を吹っ飛ばした。戦友、肉親を失って頑張る戦中世代の命金が激減、空虚だけが残った。
国益を何度も貫け
天智年間(7世紀)に倭の日本は対島、高安、屋島に城を築き、唐の脅威という国難から国益を護ろうとする。文永の役、弘安の役(13世紀)には、蒙古、元の大軍を波打ち際で撃退。武士階層を総動員、国益を全うできた。
日露戦争にも、幸いに勝利できた。「勝った、勝った」と浮かれる国民に、国民新聞の徳富蘇峰は「わが軍の弾薬は尽きようとしている。講和を結ぶべし」と勧めた。国益を重んじようとした孤塁奮闘に、国民は「攻めるのが正義」と反発、熱狂した。
欧米列強の助け舟、ロシア革命も影響して、終戦となった。そのあと、欧米列強と中国をめぐって不仲になり、自国から宣戦布告。ついに国益も、歴史的栄誉も、失った。今日の復興・繁栄は国民の勤勉、人品のおかげである。それは農林漁労文化の深さである。
それを育てた人材が減りつつある。歴史は連綿とつながり、結び合ってこそ次代に果実 をもたらす。今こそ大東亜戦争の歴史を、皆でしっかりとたどりたい。それなくして、霊を真に弔う道はないからである。
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63回目の終戦記念日、8月15日が間もなくやって来る。日本列島をはじめ、アジアを中心に世界に散らばる同胞人は、国の瓦解と肉親離別との、二重の悲惨にさいなまれる。この日は永久に忘れられることはない。民族の最後の一人が、地上から消えるまで。
とくに西日本にとって、涙が枯れるほどに悔しいのは、20年1月に開かれた最高戦争指導の御前会議で、戦争続行を決めたこと。3月に大阪・神戸大空襲、沖縄群島米軍上陸。6月には中小都市空襲。22日、天皇はやっと終戦の意思表明したが、履行が遅い。7月に内閣がポツダム宣言を黙殺。8月、広島と長崎に原爆投下、ソ連が対日宣戦布告。
3、6月に世界に向かって「発砲の相互停止」を提案しておれば、沖縄戦は中断され、以後、国民の命は失われなかった。制服、背広組ともに公務員は亡国の危機を救えなかったのだ。一億が狂気の渦中にあった。
大東亜共栄圏の自壊
制空・制海権を奪われ、日本占領地のアジア石油は滞貨。血の一滴は、前線へ届かなかった。日本は食料の現地調達をはじめた。ベトナム農民は供出を強いられ、44年秋から翌年にかけて、餓死者が続出した、と現地政府はいう。日本内地も7月に主食配給を1割減とする。インドネシア・ジャワの炭鉱でも、島民2万3000人を動員したが、炭質がふるわず、食料難にも直面して、月産700トン足らずだった。
20年6月、御前会議では戦争目的を変更する。「大東亜の新建設、自存自衛」から「戦争を貫徹、国体を維持し、皇土を保つ」へ。会議では「使用船腹量は皆無に等しき状態」と報告された。東京空襲が繰り返され、皇居に炎煙が迫り陸海軍、政府ともに茫然自失。渦中、特攻機に乗った若者らは「父母よ、弟妹よ安かれ」と念じ、米軍の弾幕に消えた。
日本民族は再生する
戦場となった沖縄。生死の境に直面しなくてすんだ325人は、ブラジルで仲間を迎えたり、子孫を増やす。島出身は16万9000人を超し、日系人の約1割を占める。今年、移民100年の成果である。2世3世らは、政界、法曹界、産業・文化業界、医学界に活躍し、日本民族の優秀さを、世界に示している。南米移民の中からは、国際石油会社経営
の逸材も出た。沖縄の地勢学的優位に着目、本社を設けて、10兆円の年商を目指す。
この8月、ブラジルとアルゼンチンで沖縄県民移民100周年記念式典が開かれる。日本民族は、自国社会の束縛を受けない環境にある場合、格別の創意が発揮され、経済や世界文化に貢献出来る、好例になろう。
2000年を越えて繁栄した「国体」は、20世紀半ばに瓦解した。しかし日本民族の優秀さは、世界に拡散して、再生を遂げている。日露戦争の戦利品・笠戸丸(ロシア艦隊病院船)が運んだ移民日本人。大日本帝国の束縛の外にあってこそ、21世紀に羽ばたけた。
これを、人類愛の心の共栄圏を世界に築こうとする、希望の星としたい。
(おわり)