松坂 定徳
1.はじめに
古代の東北・阿弖流為(あてるい)等について解り易く説明して欲しい。と事務局・会報担当の橋本さんから原稿要請がありましたので、今回から皆さんとともに東北地方の古代の勉強をしてみたいと思います。
私が小学生の頃には軍国主義一辺倒で天皇陛下のためならいつでも死ぬ覚悟がある。という考えが一般的な時代でした。年表の数え方も西暦ではなく日本国の成立から数える皇紀で表示され、小学一年生になった翌年の正月は、昭和十五年で、“紀元二千六百年”という国民挙って祝う祝賀の年でありました。翌年の暮れには、「昭和十六年十二月八日」という「大日本帝国軍人」には歯止めの利かない時代になり、日本軍はマレー半島に上陸・ハワイの真珠湾を急襲し米・英の対して宣戦布告しました。止むことの出来ない大東亜戦争に突入するのが当たり前という世情でした。
従って天皇陛下は現人神であり、皇居を遙拝し天皇崇拝主義を中心にした歴史教育の時代でした。遠い古代の出来事であっても天皇に逆らった東北・蝦夷の人達は極悪人と映し出されていました。私達の岩手県地方には住民を苦しめた「えぞ」が住んでいて、これを開放するために、天皇が坂上田村麻呂に命じて蝦夷征伐(えぞせいばつ)を行い東北の人々を救出した。と教えたのであります。教えた先生方は、父と同世代の明治生まれの人達でありました。教えた先生達もさぞかし心が痛んだことでありましょう。
私達は、蝦夷(えぞ)の文字を(えみし)と読むことも教えて貰う機会がなかった。ただ子供ながらも自分達の住んでいるところが蝦夷地であり、自分が自分を軽蔑しているのを薄々感じるものがあり、何か割り切れない気持ちになっていたことを思い出すのである。
次回から「蝦夷・エミシ」について考えてみたい。
2.蝦夷・えみし
古代の東北地方全体を陸奥国(みちのくのくに)と言い、奈良時代の和銅五年(七一二)に陸奥国と越後国を割いて出羽国が誕生した。奥羽山脈を境にして東側を陸奥国に西側を出羽国としました。この地域に住む人を「えみし」と呼び、蝦夷の文字を当てました。「えみし」という言葉は、神武天皇記にもあり、大和を平定した時の歌に「えみしは一人で百人にも相当する勇者と人はいうが、手向かいもしなかった」とある。このときは、表音文字で「愛瀰詩」と記され、飛鳥・奈良時代の人名に曽我毛人(そがのえみし)小野毛人(おののえみし)佐伯今毛人(さえきのいまえみし)など毛人をエミシと読みました。
「えみし」の語源論争は絶えません。喜田貞吉や金田一京助などは、エミシをアイヌ人の先祖と考えた。喜田は松浦武四郎の天塩日記に「此蝦夷にてアイノをカイナーと呼びしが、老人の曰うにカイとは此の国に産まれし者の事」とあるのを引用し、金田一はエミシまたはエビスは人という意味のアイヌ語から出たという。さらに東北地方殊に青森・秋田・岩手を中心にアイヌ語から出たとの地名「たとえば、ベツ・ベチ・ナイなどを含むもの、トマベチ・ケマナイなど」が多数残っていることを挙げ、東北地方にかつてアイヌ人の先祖が居住していたことは明白である。とした。これに対し、長谷部言人は形質人類学の立場から、日本人の先祖とアイヌ人の先祖とは石器時代から津軽海峡を境にして居住区域を異にしていた。と論じ、田名網宏は毛人という文字は、アイヌ人の身体的特徴を表現した多毛人の意味でなく、蛮民の意味で用いられたと述べ、平安中期以降に北海道のアイヌと接触するようになり、これを「エゾ」と呼んで「蝦夷」の文字を当てたにすぎないから、エミシをアイヌとするのは理論的に誤りがある。文献資料の解釈もエミシがアイヌであるとの決定的な証拠はないと結論した。
3.蝦夷・えみし
「エミシ」や「エゾ」等という言葉は、東北地方に住む人を指し、それは東北に住む人々を差別し、侮蔑した用語に他ならない。
表音文字で表記した頃の「恵瀰詩・えみし」の意味は、天皇や大和政権に従属しない人々を指していたのでありました。それがアイヌ民族と混同した言葉になり、遣隋使や遣唐使が唐の中華思想の一つとして、長安の都から遠く離れた僻地の文化をレベルの低いものと差別して、地方の民を軽蔑して「東夷・南蛮・西戎・北狄」と呼んでいた言葉を移入して、陸奥国に住む人々を「蝦夷」の文字を当て(えみし)と呼び、また(えぞ)とも呼んでいました。出羽国の人を、夷狄(いてき)と呼び、越後の帰順しない人々を越蝦夷(こしのえみし)と呼ぶようになりました。
従って東北地方の蝦夷(えみし)という言葉は、元来民族・人種に関係なく、政治的概念であり、大和王権に従わない東北地方に住む人々全般を指した言葉であり、蔑視した言葉ではありませんでした。
大和王権の記録では、蝦夷の人々は野蛮な人々で、非常に恐ろしい人々だと信じられていたようである。日本書紀・景行天皇四十年七月十六日条に「朕(われ)聞く、其(か)の夷(ひな)は、識性(たましひ)暴(あら)び強(こわ)し。凌(しのぎ)犯を(おかす)こと宗とす。村(ふれ)に長(ひとごのかみ)無く、邑に首勿(おびとな)し。各封(おのおの)堺(さかひ)を貪りて、並に相盗略(あいかすむ)む。亦山に邪(あし)き神有り。郊(のら)に姦(かだま)しき鬼有り。ちまたに遮(さえぎ)り徑(みち)を塞ぐ。多(さは)に人を苦びしむ。其の東の夷(ひな)の中(うち)に、蝦夷(えみし)は是(これ)尤(はなは)だ強し。男(おのこ)女(めのこ)交り居りて、父子(かぞこ)別(わき)だめ無し。冬は穴に宿(ね)、夏は樔(す)に住む。毛を衣(し)き血を飲みて、昆(このかみ)弟(おとと)相疑ふ。山に登ること飛ぶ禽(とり)の如く、草を行(はしる)こと走(に)ぐる獣(けもの)の如し。」などと記している。4.えみし・蝦夷
前号の「えみし」で述べたことは、蝦夷の人々の生活習慣を記した文献を見てきたのであるが、景行天皇四十年の頃には、蝦夷は蛮民とされ、その人々の生活は貧困そのもののように書かれているが、大王支配下にあった下部の民とそれほど大きな格差があったとは思えないのだが、そこに書かれている文を現代語に要約すると次のようになります。
「えみし‖蝦夷」の人達は、「性格が荒くてとても恐ろしい人達である。部族の間では境界もなく、互いに責め合い、奪い合う。争いが多いが統率者もいない」「冬には穴に寝て、夏は樔(木の上の小屋)に住む」「動物の皮を着て獣の血を飲み、山に登る時は飛ぶ鳥の様に早く、平地を走る時は獣の様に素早く走る。矢は頭髪に隠し、刀は衣の中に忍ばせている。」
また日本書紀巻二十六・斉明天皇五年七月の条によると、唐(もろこし)の天子に陸奥の蝦夷男女二人を見せるため、使者二人に引率させた。とある。その時の会話を記録したものとして次のように記されている。
「唐の天子が問う。これら蝦夷の住む国はどこに有るのか。使者は謹んで答える。その国は東北(うしとらのかた)にあります。
蝦夷の種は幾種あるのか。種類は三種あります。最も遠い地方の者を都加留(つかる)と言い、次を麁蝦夷(あらえみし)と言い、近くの者を熟蝦夷(にきえみし)と言います。この熟蝦夷は年々倭王に仕える者が多くなってきています。
蝦夷の国には五穀は有るのか。有りません。肉を食って生活しています。
蝦夷に屋舎はあるのか。有りません。山奥に住み、木の根元に住んでいます。」と答えたと記されている。蝦夷の人々は、原始の生活そのままに生きている種族としている。
次回は、蝦夷が住んでいたと言う土地「日高見国」について考えてみたい。
5.えみしの国・日高見国
日本書紀巻第七 景行天皇二十七年二月、武内宿禰が東国に遠征した時の報告である。「東の夷(ひな)の中に、日高見国(ひたかみのくに)有り。其の国の人、男女(おのこめのこ)並に椎結(かみをわ)け身を文(もどろ)けて、為人勇(ひととなりいさ)み悍(こわ)し。是を総(す)べて蝦夷(えみし)と曰(い)ふ。亦土地沃壌(またくにこ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取りつべし」とまうす。「東国(東北)の田舎に、日高見国と言う所があります。そこに住む人々は、男女ともに髪を椎(つち)のように結っていて、大人になると体に刺青を入れます。その人々は勇猛果敢に戦うので、とても恐ろしい人達であります。この人達は皆蝦夷であります。此の土地は広大であり、肥沃な土地でありますから、攻撃して占領する値打ちのある処であります。」と報告し占領すべきだと進言した。
それでは、海外ではどのように見ていたのでしょうか、[宋史日本伝]には次のようにあります。「国の東境は海島に接し、夷人の居る所なり。身面皆毛有り。東奥州には黄金を産し、西別島には白銀出以って貢賦と為す。」「エミシの住んでいる国の東は海岸であり、体には全体に毛が生えています。その国の東奥州からは、.黄金を産出し、西別島(対馬)からは白銀が産出します。これらは貢物とされています。」とあります。
宿禰の文面では、大和朝廷即ち為政者として一方的に制圧を前提とした文面であり、冬や夏の生活、或は風俗習慣、身体的特徴、民族的性格など、どう猛な動物を想像させるかのような記述である。
反面、中国の記述では、蝦夷の所在地や産物を紹介している。この頃の黄金とは、砂金採取であろうけれども、地下資源を活用するには、熟練した技術集団が存在しなければならない。
6.えみしの国・日高見国
古代の東北に日高見ひたかみ国という国があって、そこにエミシの人達が棲んでいたと書紀では述べているが本当だろうか。その元を辿ると、はっきりした証拠があるわけでも無い。
故に昔から様々な学者が色々な説を述べている。
常陸国風土記の 信太郡の条に、「此の地は、本、日高見の国なり」とあり、かつて日高見国は、常陸国にあったとされている。
学者の中でも一般的な説は、本居宣長の説とされ、日高見国とは、「山が遠く、空がひらけ、平野が開けた」所といい、また「日高見国とは、山遠くして打ちはれて、平に広き地をいふ也」(大祓詞後釈)また「農地として開発し、その後に租税を徴収すべき地」即ち、「征服してヤマトの属領とすべき地」(景行二十七年紀)或いはまた、「その為に近年属領化しえた地」(大倭日高見之国{六月晦大祓詞})となり、それが次第に東北地方に進み、倭名抄では、陸奥国の桃生郡(宮城県)に日高見神社があるように、日高見国も東北に移動し、やがて胆沢郡(岩手県水沢)に日高神社「日高見名見堂」が建てられ、大和政権に組み入れられていく運命にあったと考えられている。
胆沢地方即ち日高見国を流れる大河を日高見川といい、現在の北上川がこれである。
えみし社会の形成は、旧石器文化から始まると言われている。そしてこの地方は、他民族に一度も征服されることなく継承されてきたと言う。
東北各地には、アイヌ語と同一の地名が各地に存在する。だから「えみし」イコール「アイヌ」との説も根強くあるが、大方の学説では、「えみし」と「アイヌ」とは全く別の種族であるとされている。東北の地名に詳しい岩手の学者、金田一京助が、アイヌ語の地名を紹介し、アイヌ説を唱えているから紛らわしい。
7.えみしの社会
古代の胆沢地方の蝦夷社会について、アテルイ研究の第一人者及川洵先生(アテルイを顕彰する会会長=古代史)の遺跡調査で明らかになった点を教えて頂くことにしよう。
胆沢地方の古墳・奈良時代の住居は、ほぼ竪穴住居である。竪穴住居は床になる部分を掘り窪めて柱を立て、屋根を葺く構造である。どのような形の建物になるのかは、平面形と壁の高さ、「カマド」や柱穴の位置によって異なる。この地方では、平面形は縄文時代から弥生時代にかけても出てくるが円形が多く長楕円形のものもある。
縄文前期後葉(約五三〇〇年前)の胆沢町大清水上遺跡では、長楕円形の竪穴住居が放射状に配置されているのが見られ、極めて特殊な集落である。
竪穴住居の特徴は、夏は涼しく冬は保温に富み暖かである。冬季に寒さの厳しい岩手県北では、一戸町御所野遺跡(縄文中期)のように、床面を深く掘り下げ、屋根の垂木を地面の穴に据え付け(屋根の地上葺き下ろし型)入口や煙出し部分を除き、他の部分を土で覆う形式もある。
欠点としては、床を掘り窪めてあるために水が染み込み易く、湿潤になりやすいことである。床の周囲に溝(周溝)を掘ったり、葺き下ろした屋根の地面に接した部分を土手で覆ったりして、水の流入を防いでいる。
特に平野地の場合は水の侵入対応が必要になるが、それでも湿潤から逃れられない。
平面プランは、古墳時代以降隅丸方形、隅丸長方形が多い。住居の大きさにもよるが主柱の本数は二本から七本以上のもある。一般的な竪穴住居の場合は四本から六本である。柱の太さは十五|二十センチメートルである。(多くの場合柱根は残っていないが、底径部を注意して調査すれば分かる)
8.えみしの社会
古墳時代の竪穴住居はやや太めの垂木を使い、主柱の負担を減らす。やがて垂木組だけで上屋を作り、主柱のない住居も出現する。
住居内で最も重要な施設は、「カマド」である。縄文・弥生時代にはカマドはなく、地床炉じしょうろ(床面で直接、或いは浅く掘り窪めて火を焚く)又は石囲い炉・埋め甕炉・複式炉などがある。
「カマド」のことを地方によって「クド」「ヘッツイ」とも呼ぶ。「カマド」は釜をかける所、「クド」は火所ひどころ、「ヘッツイ」はヘ・ツ・ヒで家の火所の意味を持つ。こうしたことから「カマド」はしだいに家を指す言葉となり、財産家を「大カマド」、破産することを「カマドをかえす」、分家することを「カマドを分ける」などという。
岩手県内の古墳時代以降平安時代にかけて竪穴住居跡から発見される「カマド」のは、屋内の壁際に設置され、排煙するための煙道部・煙出部があり、煮炊きに必要な燃焼部・器設部を備えている。「カマド」が普及してくると縄文・弥生時代に使用されていた地床炉や石囲い炉・複式炉、関東方面から伝えられたとされる埋め甕炉は、地床炉を除いて姿を消す。
炉の目的は、暖房・炊事・照明が主で、複式炉では大量に灰を作り出す施設でもあったとみられている。炉の機能は近年まで農家の囲炉裏へ受け継がれ、暖房・炊事・照明に加え、囲炉裏の上に竹組をした棚を作り、衣類を乾燥し、食料の保存などに利用した。また、囲炉裏から発生する煙は、茅葺き屋根の除虫や腐敗予防の効果もあった。 「カマド」の起源は、大陸文化の伝播とされるもの、炉から発達したであろうとする説の二種があるという。日本での「カマド」の初現例は、弥生時代後期で兵庫県に二例、滋賀県に一例という。
9.えみしの社会
「カマド」の使用例は、古墳時代前期の頃になると九州地方から関東地方に普及し始めた頃とされているが、この時点ではまだ、
東北地方に、利用されていた形跡は認められていない。
古墳時代の中期から後期にかけて急速に普及されてきて、特に九州地方では多くのカマドが発見されている。後期には関東地方でも多く見られ、東北地方にも伝播してきたことを知ることができる。
従って中国大陸や朝鮮半島の文化が、福岡地方に上陸し、九州地方から順次関西・関東・東北へと伝播されてきたのだろう。
東北地方の「カマド」の進化は、在地型炉から発展したとの説もあり、大陸文化の渡来型なのか、東北地方独自のものなのかは判別することはできないが、関東地方に普及してきたカマド文化が、順次東北地方にも普及したと見る方が自然のようである。
「カマド」に限らず火を扱う所は、住居の中でも最も神聖な場所とされている。使用されている「カマド」は、常に清潔にして「火の神様」が存在するところと崇められ、粗末に扱えば「神」は怒り、全てを焼き尽くすと信じられていた。だから使用されなくなった「カマド」の場合でも、災いが起こらないようにと厄忌払いの祭祀を行うのである。或いは「カマド」を閉鎖する時に碗を伏せて「カマドの機能を停止」させる祭祀を行うのである。今でも新しく溶鉱炉を新設した場合や古くなり閉鎖する場合は祭祀を行っている。
また、「カマド」の進化と共に、竪穴住居の構造を大きく変化させた。日常生活に用いる容器や食器にも影響を与えている。
この頃に使用されていた土器は、上師器が主流であるが、地床炉で煮炊きしていた場合と「カマド」を利用して煮炊きする場合とでは、容器の形式にも変化してくるのである。
10.えみしの社会
「地床炉」を使用していた場合の食器は、高坏の使用が多いが「カマド」の普及と共に高坏の使用は一時姿を消すことになる。
東北での「カマド」の普及は、近畿や関東よりも遅れて導入されたとされている。
地床炉を中心とした生活では、火を燃やす所に家族が集まり、家族の中心的存在となり、煮たり焼いたり、食事を採り、団欒する場所でもある。また、火を囲んで高坏を周りに立てて炊事を暖めたり、汁物を熱したり、或は盛付けにも使用されたと考えられている。
「カマド」の出現により、部屋の中央部に設置されていた「地床炉」から、「カマド」を設置した壁際に移され、住居空間としては広く利用されたであろうが、火を燃やす効果には煮炊き以外に、照明用と暖房用がある。
「カマド」は煮炊き専用の火所であり、家の隅で調理された食事は、坏や碗に盛られて家族の所に運ばれたと考えられている。
「カマド」の活用は、炊事用具にも変化が見られ、直接炎を当てて炊事することにより、水の漏らない器物、火に架けても割れない用具が必要となる。
「地床炉」だけで生活していた頃の炊事には、大量の燃料を必要としたが、照明用にも、暖房用にも利用されていた。しかし「カマド」を使用することになり、炊事効率がよくなったが、夜の明かり取りや暖房用の火所が別に必要となった。原始的な「地床炉」の機能を失うことができなかった。
夜の照明は野獣を追い払い、暖を採ることは体力を維持することであった。
基本的な人間の生活様式は、古代も文明開化の後でも同じである。
当時の人々が使用したツキやワンの文字は、素材によって文字が異なり、土製品の場合は、坏・●と書き、木製品の場合は、杯・椀と書いている。金属製品ではツキの文字はないが、ワンの文字は鋺と書くそうである。
※●は、土偏に宛
11.えみしの社会
昨年から引き続き「えみしの社会」を学ぶことにしたいと思います。
「古代の東北」も文献は総て「正史」に現れている部分の生活面を抜粋したものであります。次回からアテルイの故地、岩手県の古墳の特徴を見た後に、なぜ大和朝廷が「蝦夷征伐」を決定したのか、「アテルイ」が大阪府枚方市で処刑されたのかを考え、この項を終わりたいと思います。
(二〇〇四年十二月号の続き)
中国では、高坏形(たかつきかた)をした木製品を「豆(とう)」と呼び、竹製品を「●(へん)」と呼んでいました。
「魏志倭人伝」によりますと、倭人は「食飲するに●豆を用いて手食す」とありますので、これらは食事をする際の台、即ち、果物や食物を入れた食器を乗せる台として使用したと考えられています。これが現在でも使用されている「膳」の原型であろうと言われています。
現在では、「お膳」を使用して食事する家庭は見掛けなくなりましたが、戦前の田舎ではどこの家庭でも、一人ずつ自分のお膳で食事していました。文化的な家では丸テーブルを使用している家もありましたが、お正月な
どは、大抵の家ではお膳の前に正座して朝食を戴いたものでした。一般家庭でも家族分と来客分は揃えて置くことは常識とされていました。裕福な家では、穀物倉の他に家財倉があり、人寄せ用(冠婚葬祭用)として五十膳、百膳を用意していたものでした。
これに合わせた必需品の飯茶碗、汁碗、蒸椀、煮物椀、お皿の大・中・小、小鉢、湯呑、箸、箸置き、座布団、二の膳用、三の膳用までも用意していたものでした。
冠婚葬祭の準備、接待は地元のお母さん・お姉さんが自主的に参加し、担当を決め、材料の手配から煮炊き、味付け、盛り付け、夜昼なしで準備し、後片付けまでお手伝いしてくれたものでした。
今ではホテルの宴会場で見られる風景くらいになりました。
※●は、竹冠に邊
12.えみしの社会
アテルイの里にある角塚古墳は、五世紀後半に造られた前方後円墳である。これを除いた多くの古墳は、七世紀中葉から八世紀中葉に造られている。1基や2基の単独古墳もあるが、多くは数基から数十基の群をなした古
墳であり、一八カ所の古墳群が確認されている。古墳の規模は、墳丘が削平されているものもあるが、高さは一から二メートル程度である。多くの古墳は、周濠を持ち、径は約十メートル前後である。濠は一周しているもの
と、一カ所が切れている馬蹄形のものがある。墳丘の中央には主体部と呼ばれる埋葬施設がある。主体部は土壙型・礫榔型・河原石積石
室型などがある。いずれも竪穴式で埋葬は上部から行われた。主体部の前面には前方後円墳を模し、前方部状の張出しを持ち、墳丘の括れに造り出しを付けている古墳もある。
副葬品としては、
装身具(鉄釧・銅釧・錫釧・金環・銀環・耳環・ガラス小玉・勾玉・切小玉・菅玉・算盤玉・みかん玉・琥珀玉・金箔ガラス玉・練玉・土玉)
●1帯金具(●1具・丸鞆・巡方・鉈尾=帯金具)
武器・武具(衝角付胄・直刀・方頭太刀・方頭横刀・蕨手刀・立鼓刀・小刀・
刀子・鉄鏃)
馬 具(轡・杏葉・壺鐙・辻金具・留金具.)
農耕具(鋤先・鎌、鉄斧・鑷子・●2)
須恵器(坏・提瓶・平瓶・甕・壺)
土師器(坏・長甕・丸甕・小甕・長頚瓶・高坏・●3・甑)
等が出土しており、注目すべき遺物は、交易により齎された品々である。 つづく
※●1‥金偏に夸 (か)
●2‥施の偏を金に (やりかんな)
●3‥土偏に宛 (わん)13.えみしの社会
古墳に副葬された装身具を見ると、釧(くしろ=腕輪)が多い。材料は鉄・銅・錫などがあるが、特に錫は常温では変色しないので、銀白色の光沢を保ち、延性や展性に優れている。錫と銅を合金すると青銅となり、銅剣・銅戈・銅矛青銅武器になり、祭祀用具の銅鐸や鏡などの宝器にもなる。
前号で述べた蕨手刀は、東北特有の刀である。蕨手刀とは、山野に生える蕨が生長する段階で、握り拳のような姿で成長するが、その形が蕨のようであり、刀の柄が蕨に似ているところから、蕨手刀と言うのだそうだ。
蕨手刀は、何処で作られたのか定説にはなっていないが、出土した刀は、東北地方で一三二刀・北海道二九刀・関東・中部地方が一二刀・九州地方が二刀、近畿・四国・四国地方が一刀ずつ出土している。
東北地方から出土した刀の内、岩手県から六四刀・宮城県から三二刀・山形県から一七刀であり、圧倒的多数を占めているのが岩手県である。
蕨手刀は、初めて反りのある刀であることから、日本刀の原型だといわれている。
生産地の候補としては、北上産地南端部には鉄の原料となる砂鉄鉱が豊富に採れるし、「鍛冶妻」という地名を残している一関市舞草地区が候補地として注目されている。
また、北上川流域で蝦夷軍団として活躍した胆澤郡・江刺郡の騎馬軍団が実用の武器として活用し、短く利用し易い蕨手刀が普及していて、大量に押し寄せる大和朝廷の軍団にも負けることなく乗馬によるゲリラ戦法が功を奏したのも、蕨手刀の威力だといわれている。
然し、岩手・宮城県内でも集中して出土する地域以外では、武器として利用されるよりも、むしろ、地域社会の族長が権威として誇示し、邑の長としての象徴として所持したのではないか、又は、邑の祭祀用として貴重な所持品ではなかったのではないか、と考えられている。
14.えみしの社会
蕨手刀は、どの時代に何処の鉄で作られたのか、まだ、正確な判断はなされていないが、古墳の中や古墳の跡と推定される所から多く出土していることから、七世紀後半頃から作られていたと推定されている。
文武四年(七〇〇)六月の条に、「東辺北辺に鉄冶を禁ず」と、律令にあるから、東北地区で鉄の溶解、或いは、鉄の加工が盛んに行われていたと考えられる。
大和政権では、東北地方で鉄が大量に生産されることが、相当に怖い存在として映っていたのであろう。蝦夷(えみし)が鉄を加工することは、「北朝鮮が核」を所有している位に、危険視していたのであろう。
それでも、陸奥の蝦夷や越後の蝦狄(いてき)達は、朝廷に対して和平の心、態度で示し、地域の産物を献上して恭順を示している。
和銅元年(七〇八)一月武蔵国秩父郡から天然の純銅が出て改元。この年の五月初めて銀銭を、八月銅銭を鋳る。和同開珎という。
和銅二年(七〇九)三月陸奥・越後の蝦夷は、野蛮な心があり馴れず、良民に危害を加えるので兵を派遣して征討する。とした。
兵士は近江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中等から徴発し、陸奥鎮東将軍には、巨勢朝臣麻呂(こせのあそんまろ)、征越後蝦夷将軍には、佐伯宿禰石湯(さえきのすくねいわゆ)を任じ、副将軍には、紀朝臣諸人
(きのあそんもろひと)を任じ、将軍には節刀と軍令を与えた。
七月には上毛野朝臣安麻呂(かみつけのあそんやすまろ)を陸奥守に任じ、諸国に命じて、出羽柵(でわのき)に兵器を集結させ、又、越前・越中・越後・佐渡の船、百艘を集め蝦夷を征討する前線に配備した。
八月二十五日、佐伯石湯将軍と紀諸人副将軍が京に帰還し、元明天皇に招かれ恩寵(おんちょう)を受けた。この征夷により、蝦夷の人々は、大和政権に帰順し、和銅三年の朝賀に参列している。
15.えみしの社会
和銅三年(七一〇)正月一日、元明天皇が大極殿にお出ましになり朝賀を受けられた。左将軍・大伴宿禰旅人、副将軍・穂積朝臣老、右将軍・佐伯宿禰石湯、副将軍・小野朝臣馬養等が騎馬を先頭に朱雀大路を進み隼人(は
やと)や蝦夷(えみし)を率いて更新した。
十六日には文武百官を招いて、新年の宴を開き雅楽を演奏し、従五位以上の官人には衣を、隼人や蝦夷にも位や禄を賜った。
右記によると、「蝦夷にも位や禄を賜った」とあるから、東北に住む「蝦夷=えみし」ではない。この場合の蝦夷は「俘囚=ふしゅう」
のことかも知れない。
俘囚とは、大和政権側に捕虜となって従属した者か、若しくは投降して大和政権側に順応している者である。
大和政権としては、陸奥国を政策的に支配するため官位や禄を給して従属させ、これらの待遇を得た者を俘囚と呼んだ。 蝦夷とは、古代東北に住む住民であり、大和政権側の支配に従属しない者。即ち、「まつろわぬ」人々を指した者を蔑視した言葉である。
また「夷俘=いふ」と言う呼び方もある。夷俘とは蝦夷の別名であり、エミシと同義語に使用されていたが、その意味合いが徐々に
変化し、蝦夷の人々大和政権側に逮捕され、又は、政権側の領地に居住しても朝廷側に従属せず、或いは従属しても従属度合が低く、官位を与えられない低い層に位置づけられた。場合に依り禄や官位を得ても俘囚よりも帰順
の度合が浅く、俘囚よりも下位層に位置づけられた人々である。蝦夷と俘囚の中間点に位置づけされた。
「えみし」には、以上の三つの層に差別されたとされているが、厳密な区別は難しい。大和政権に「まつろわぬ人々」=蝦夷、「蝦夷の反発心を残す人々」=夷俘、「政権側に従属した人々」=俘囚とされた。
16.えみしの社会
和銅五年(七一二)九月二十三日、越後国出羽郡を割いて出羽国を建国した。
十月一日、陸奥国の最上・置賜の両郡を出羽国に編入した。
養老四年(七二〇)九月二十八日、「蝦夷が反乱を起こし、按察使(あぜちし)・正五位上の上毛野(かみつけの)朝臣広人が殺されました」と陸奥国から奏上があった。これを受けて、二十九日、播磨の按察使・正四位下の多治比眞人県守(たじひのまひとあがたもり)を持節征夷大将軍に任命し、左京亮・従五位下の下毛
野朝臣石代を副将軍に、軍監(ぐんげん)三人、軍曹二人を配属した。また、従五位上の阿倍朝臣駿河を持節鎮狄将軍に任じて、その日の内に節刀を与えた。
神亀元年(七二四)二月四日、元正天皇が譲位され首(おびと)皇太子が即位し、聖武天皇となられた。三月二十五日、陸奥国からの次のような言上があった。海道(太平洋沿岸)の蝦夷が反乱を起こし、大掾(だいじょう・地方長官)従六位上・佐伯宿禰児屋麻呂を殺害した。四月七日、式部卿・正四位上の藤原朝臣宇合(うまかい)を持節大将軍に任じ、宮内大輔従五位上の高橋朝臣安麻呂を副将軍に任じ、判官八人・主典八人を任じた。海道の蝦夷を征討するためである。
この年、多賀城が築かれている。
「多賀城碑」によると、
京を去ること 一千五百里
蝦夷国界を去ること 一百二十里
常陸国界を去ること 四百十二里
下野国界を去ること 二百七十四里
靺鞨国(中国)を去ること 三千里
この城は、神亀元年甲子の歳、按察使兼鎮守将軍従四位上勲四等、大野朝臣東人が築いた。天平宝字六年壬寅の歳、参議東海・東山節度使従四位上、仁部省卿兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝●(あさかり)が修造したものである。
天平宝字六年十二月一日
●は、けもの偏に葛
17.えみしの社会
天平勝宝元年(七四九)二月二十二日、「陸奥国より始めて黄金を貢ぐ」と続日本紀にある。この記述のために、歴史書に記載された年号は区々である。 正確な年号は、天平二十一年(七四九)二月二十二日である。これが日本での「産金事始め」と言われている。この産金を祝し四月十四日、天平感宝と改元された。
更にこの年、聖武天皇が譲位し孝謙天皇が即位されたことで、七月二日に「天平勝宝」と改元されたのである。
景行天皇二十七年紀で「日高見国(岩手県水沢地方)は、土地は肥沃で広大である。討ち取るべし。」と武内宿禰が進言したことにより、陸奥国は豊かな穀倉地帯であり魅力を知り、蝦夷平定に乗り出した。今回それに加えて、陸奥国から黄金を産出したことにより、益々奥州地方の制圧を増幅させ、蝦夷征伐に拍車を加えることになった。
黄金を献上したのは、多賀城に赴任していた陸奥の国主の百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)(大阪府枚方市に百済寺跡に百済王神社がある)である。産金場所は、小田郡から産金したと九百両を献納したのである。然し、小田郡は今はないが、宮城県遠田郡涌谷町だと言う。
聖武天皇は、廬舎那佛を造営されたが、国内は凶作のため資金不足となり、黄金を輸入する手立てが無く悩んでいた。そのような時に陸奥国多賀城からの朗報であった。
天皇は大いに喜び、畿内七道の諸社に報告され、廬舎那佛像の前殿にお出ましになられ、皇后・皇太子も近侍された。群臣・百寮・一般の民臣も後方に配列して祝賀の席に並んだ。
この産金を祝し、大伴家持が献歌した。
天皇(すめろぎ)の 御代栄えむと 東(あずま) なる
みちのく山に 黄金(くがね)花咲く
天平感宝元年五月十二日 越中国主館にて
大伴宿禰家持之を作る。
18.えみしの社会
前号で天平二十一年(七四九)、日本での「産金事始め」である、と述べた。 黄金を聖武天皇に献上したのが陸奥の多賀城に赴任していた従五位上の百済王敬福である。産金は最大の祝辞とされ、敬福は従三位に昇叙され、廷臣や陸奥の官人はみな位を進めた。金を獲った上総の丈部大麻呂は従五位下、同じく左京の人で朱牟須売には従五位下を、金を冶た(精錬)左京の人・戸浄山は大初位上を、金山の神主・日下部深淵は少初位下を授けられた。この記述から見ると冶金の戸浄山は、既に陸奥に派遣されて居たと考えられ、金山の守り神は既に祀られている。また、神主の日下部氏は既にこの地に居住していた、と考えられる。
従って、小葉田淳先生の著書「日本鉱山史の研究」に依れば、「わが国始めての黄金産出」記録は、天平時代より前の、大宝元年(七〇一)三月には、追大肆凡海宿禰麁鎌(おおしのあますくねあらか)を陸奥に派遣して金を冶せしめた。との記述がある。と指摘している。(続日本紀)
陸前高田市(旧気仙郡)竹駒町玉山金山の守護神である竹駒神社の縁起によれば、次のように記されている。「天平六年(七三四)山城国伏見より稲荷神社を勧請し、金山守護神として竹駒神社に祀られた。」とある。
また、この地方の伝承として、奈良・東大寺・大仏の鍍金の黄金は、此処の金を運んだと言う伝承があるから小田郡という特定の地域からの産金ではないのであろう。
伝承物語「炭焼き藤太」を紹介する。
昔、夫を選ぶのに迷った京の姫君が、観音様に願をかけ、お告げを待つことにした。満願の夜、観音様が姫の枕もとに現れ「姫の夫となる人は、奥州気仙の藤太という人である。ゆめ疑うこと勿れ」と告げられた。姫は初め吃驚したが、親族達が猛反対するのを押し切り、母から砂金袋をもらい、道の奥といわれた奥州路を女の一人旅、難儀の末に、やっとのことで藤太の家に辿り着いた。19.えみしの社会
前号からの続き(炭焼き藤太)。京都生まれの姫君が観音様のお告げにより、奥州気仙の炭焼き藤太を訪ねて気仙の竹駒邑にやって来た。やっとのことで、探し当てた藤太をみて姫は驚いた。無骨で山猿のような藤太であったが、観音様のお告げであることを藤太に伝え、山の炭焼き小屋で夫婦の契りを結んだ。
ある朝、藤太が町へ買い物に行くというので、姫は京から持参した砂金を少し紙に包んで藤太に持たせてやった。暫くすると藤太は鴨をぶら下げて帰ってきた。「池に鴨がいたので、あの紙包みを投げたら見事に当たって死んだ」というのだ。姫はあきれて「あの紙包み一つあれば、鴨は山ほど買えるのに」と砂金の値打ちを話した。
今度は藤太の方が驚いた。「こんなものなら後の山に幾らでもある」と言った。
二人が裏山に行って見ると、そこには藤太が話した通りの砂金が沢山あった。それまで砂金の値打ちを知らなかった藤太は、一念発起して炭焼きの仕事から砂金掘りに専念して大金持ちになった。というお話である。
これは「みちのく山に黄金花咲く」と謳われた気仙地方の伝承物語です。
以上は、「陸前高田ものがたり」第七集 村上余一氏「昔噺」より転載。
気仙郡内には、金山跡地・砂金掘り跡地を含めると五〇ヶ所以上の産金跡地がある。
その中でも大きい金山を四つ挙げて「気仙の四大金山」という。第一に挙げるのが竹駒村の玉山金山・次に矢作村の雪澤金山・越喜来村の今出山金山・日頃市村の坂本澤金山である。玉山金山や雪澤金山が繁盛した、全盛時代の様子を表現した言葉に、「雪澤千軒、玉千軒」と謳われた。多くの人達が鉱山内で生活し、日常生活をするのに不自由が無かったようであり、肴町、紺屋町、木町等の市場名も残り、不動院、竹駒神社、西光寺、荘厳寺等の寺院跡もある。生活基盤が金山敷地内で 賄われていた時代でもあった。
20.えみしの社会
炭焼き藤太のように黄金が身近にありながら黄金の存在について意識は薄く、貴重な資源のあるのに気付いていない。
大和の文化に接触しておらず、人的交流も無い時代では黄金の活用が、どのように使用されるのか、黄金の知識がなければ、貴重なものとの意識はない。寧ろ、鉄の方が実用品として貴重であり利用された。即ち、農耕用の鋤・鍬・鎌に加工され、部族の長として権威の象徴とされたものか、或は、祭祀用に利
用されたものかは定かでないが、日本刀の原型と考えられている蕨手刀がこの地方で作られている。
蕨手刀は、主に古墳から出土するが岩手県南部と宮城県北部に集中して出土する特徴がある。鉄は生活上での生産活動に密着した、実用品であり必需品であったが、「えみし」の社会では装飾品としての黄金や信教的な面での荘厳さを求める黄金文化はまだ存在しない。もしも、鉄を加工する技術集団が存在し
たならば、渡来人が「えみし」社会に溶け込み、技術指導者として存在していたに違いない。
日高見の国は広大で土地が肥えているから、攻撃して大和政権の支配に収めたいと考えたに違いないが、寧ろ、大和政権下では、絶対に確保できない黄金確保を目的とした侵略をしたのではなかったか。
黄金を発見したのは天平二十一年(七四九)二月であるが、この時には、すでに渡来人が住み、砂金を溶融し練金として献上している
から、溶融技術を持った冶金をする人、戸浄山、戸氏は百済の渡来人とされる。採金に功労があった朱牟須売、朱氏は唐の文化人とされている。いずれも、唐や百済から帰化人の末裔が朝鮮半島で身につけた技術で 日本の資源開発に貢献しているのである。
21.えみしの社会
桓武天皇は、大和政権に従わない蝦夷の平定を何としても成し遂げるため、有力部門の人材を活用して征討に全力を傾けてきた。
機会ある毎に多くの兵力を傾注し、派遣する時期も考慮して対処してきたが、満足できる成果を挙げることができなかった。
延暦七年(七八八)七月六日、桓武天皇は過去の汚名を返上するため、紀古佐美を征東大使に任命した。十二月七日には殿上に招かれ節刀を遣わされた。来るべき蝦夷征伐に対しては、従前の派遣とは異なり、規模においても兵糧・兵器などあらゆる装備にも十分な準備期間をおき、万全を期して臨むことに決意していた。
延暦八年(七八九)三月九日には東海・東山・板東諸国の兵・騎兵、五満二千八百人を多賀城に集結させ進軍の準備を整えた。
三月二八日には、北上川の西を北上して衣川を渡った所で、一隊二千名の精鋭を三隊に分けて侵攻することにして、軍営を敷いて進軍の機会を窺っていたが、侵攻の機会に恵まれていなかった。
この侵攻状況の報告を受けた桓武天皇は、五月十二日、紀古佐美に対し兵の行動は「拙速を貴ぶ」ものであり、余りにも遅い。六月、七月になると酷暑の季節になり、我が軍の進行には条件が悪くなり、季節的にも今が好機である。何故滞留しなければならないのか、将軍の適切な判断を示して機会を見て攻撃せ
よ。また、敵の行動も逐一報告せよ。と指示した。
五月下旬、征討軍は行動を開始した。前軍・中軍・後軍の三隊に分けて、力を合わせて行動することを申し合わせ、北上川を西岸から東岸に渡ることにした。中軍と後軍の優れた二千人、計四千人が川を渡ることに成功し、賊帥阿弖流為の居所を襲った。そのとき三百人の賊軍が現れて戦闘を交えたが、強力な我が軍の前に賊徒は簡単に退散した。
22.えみしの社会
朝廷軍は、さらに進撃を続けて村々を焼き払い、巣伏村まで進撃してきた。この巣伏村で前軍二千名と合流する作戦だったが、前軍は賊軍(アテルイ軍)に阻まれて北上川を渡ることは出来なかった。
その時(延暦八年・巣伏せの戦い)賊軍八百人が現れたので防戦に努めたが、賊の抵抗が殊のほか激しく、逆に攻撃を受け、その攻撃力は頗る強力で、一旦後退して態勢を立て直そうとすると、賊軍は追撃の手を緩めず、直ぐ手前の東山から加勢が現れて、我軍は退路を塞がれて、前後から攻撃を受けることになり、我が官軍は総崩れとなり、北上川に追い落とされる結果となりました。
別将の丈部善理(はせつかべのぜんり)、進士の高田道成(たかたのみちなり)、会津の壮麻呂(たけまろ)、安宿戸吉足(あすかへのよしたり、大伴五百継(おおとものいおつぐ)らが戦死しました。
官軍の成果としては十四の村々と八百軒の民家を焼き払いました。また、若干の器械や雑物を獲得しました。
我が軍の損害は戦死者が二十五名で、負傷者が二四五名、溺死者が千三十六名でした。また、裸で岸に泳ぎ帰った者は千二百五十七名でした。
別将の出雲諸上(いずものもろかみ)・道嶋御楯(みちしまのみたて)らは残りの兵を引き連れて帰って参りました。と六月三日の奏上で天皇に報告した。
この奏上を見た桓武天皇は激しく叱責した。胆沢の賊が川の東に集結していたならば、そこで攻撃してから、さらに奥の賊に対しては軍監以上の者が兵を率いて威風堂々と、隊列を厚くして大挙して進軍すべき所、渡河した者四千と渡河しない者二千だけが進軍したに過ぎない。また、これを指揮した者も別将以
下の地位の低いものに任せていては、敗北するのも当然である。これは、副将達の計略の誤りである。と六月九日付で厳しく追及した。
23.えみしの社会
延暦八年(七八九)六月、「巣伏せの戦い」では朝廷軍の大敗であり、逆にアテルイ軍にとっては大勝利であった。
胆沢の蝦夷軍に惨敗した朝廷軍は、汚名返上に向けて更なる強力な攻撃を加えるべく、大規模な動員準備を始めた。
延暦九年から十年にかけて準備を進め、東海道と東山道の諸国には、革の鎧二千領を造らせ、また、軍粮の糒(ほしいい)十四万斛(ごく)を備えるように指示し、百済王俊哲と坂上田村麻呂を東海道に、藤原真鷲を東山道に派遣して兵員や武具、食糧の調達状況を把握している。
また、右大臣以下で五位以上の者には、甲(よろい)を造るように命じ、富裕な者には二十領、次の者には十領と負担割当てを決めている。また、他の諸国に対しても新式の鉄の甲三千領を用意させ、征矢三万四千五百余を造らせている。板東の諸国に対しても糒十二万余斛を確保させている。
延暦十年(七九一)七月には、征夷大使に従四位下の大伴宿禰弟麻呂(おおとものすくねおとまろ)を、征夷副大使に正五位上の百済王俊哲(くだらのこきにししゅんてつ)、従五位上の多治比真人浜成(たじひのまひとはまなり)、従五位下の坂上大宿禰田村麻呂(さかのうえおおすくねたむらまろ)、従五位下の巨勢朝臣野足(こせあそんのたり)の四名を任命した。
この時百済王俊哲は下野守であったが、九月には陸奥鎮守将軍を兼務している。
来るべき征夷戦に備えて朝廷軍は、万全を期して、十万の兵と完璧な武具・兵糧を準備しての発進であった。
延暦一三年正月一日、征夷大将軍大伴弟麻呂に節刀を授け、蝦夷征伐に向かわせた。
桓武天皇は山階・田原の山陵と伊勢神宮に参拝し、蝦夷征伐の誓いを祈願している。
この山陵は、桓武の曾祖父、祖父、父の陵に征夷の決意を誓ったものであった。
24.えみしの社会
延暦十三年(七九四)の記録は断片的にしか伝えていないが、第三次征討は、最大規模の戦いであり十万の兵員を揃えた。戦闘は四月頃から激しく繰り
広げられたと見られている。
六月十三日には、「副将軍坂上田村麻呂以下蝦夷を征す。」とあるから、数ヶ月で、ほぼ大勢が決した模様である。また、十月二十八日の条には蝦夷軍
の損害を左記の通り記載している。「斬首四五七級、捕虜一五〇人、獲馬八五疋、焼落七五処」となっている。
朝廷軍十万の攻撃にしては、戦果は少ないが、攻められた蝦夷軍にして見れば、凄まじい戦いであったと思われる。
この頃の胆沢・江刺地区の人口は、老若男女合わせても七三〇〇人。戦闘人口は一一〇〇人と推定されているから、アテルイ軍一人で九十人を相手に戦
ったことになる蝦夷軍の損失は五五%にも及ぶが、それでも主力部隊は殲滅していないから驚きである。
朝廷軍の戦死者は記載されていないので不明であるが、軍を離脱した逃亡兵が三四〇人と記しているから、戦死者も相当数に達した激しい戦闘が展開さ
れたと想像される。
焼落七五処と言うから住民の住居も無い程の打撃を受けたであろう。
右記のように副将軍田村麻呂の作戦が功を奏し活躍と成果を誉め称えている。
本来なら征夷大将軍大伴弟麻呂の名前で戦勝の報告を行い、労いの言葉が記録されて当然であるが、記載されてないところに、桓武天皇の不満が示され
ており、朝廷軍の大勝と言えないことの表れであろう。
延暦十四年正月二十九日、征夷大将軍大伴弟麻呂は天皇に拝謁し節刀を返上しているが、その後も戦闘の派遣が続くのである。
鎮守将軍百済王俊哲が任地陸奥国で死亡したので、その跡を請けて坂上田村麻呂が延暦十五年十月二十七日、鎮守将軍を兼務することになり、次いで延暦
十六年(七九七)、征夷大将軍となるのである。
25.えみしの社会
延暦十六年、坂上田村麻呂は征夷大将軍となり、陸奥・出羽の按察使、陸奥守を兼職する。陸奥・出羽国を指揮する最高権力者となり、蝦夷攻略を指示する権限を与えられた。
延暦十三年の第三次征討でも完全な勝利を確信できなかったことを反省し、胆沢の攻略策を綿密に練り、アテルイ軍を降伏に導く方策を立
て、兵力では屈服できないことを自覚したのであろう。
田村麻呂は、観音信仰に深く帰依し、「えみし」達の窮状を知り、また、心情を察して、救済の手を差伸べる一方で、更に奥地の和我・志波方面に進撃する構えも示唆した。
延暦二十年(八〇一)二月十四日、天皇は征夷大将軍坂上田村麻呂に節刀を与え、四万の大軍を与えて進軍させた。第四次の蝦夷征伐である。
第四次の戦果、損失、戦闘情況も、記録されたものはないが、九月二十七日には、田村麻呂は夷賊攻略を中止して帰還し、節刀を返上している。四万の兵を率いて敵地に進攻して、戦わずして引き揚げたとも考えにくいが、武力を背
景に、外交作戦に徹したのではあるまいか。
十一月七日、天皇は陸奥国を平定した恩賞として、従四位上の坂上田村麻呂を従三位を授け、その他の者にも授位が行われた。
延暦二十一年(八〇二)正月九日、坂上田村麻呂に胆沢城(いさわのき)を築造させるため胆沢に派遣した。十一日、天皇は駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の各国から浪人四千人を集め、胆沢城を築く
要員として動員を命じた。
四月十五日、胆沢城使として赴任していた坂上田村麻呂の下に「夷大墓公阿弖流為(えみしたのものきみあてるい)、盤具公母禮(ばんくのきみもれ) 等、種類五百余人を率いて降る」とある。田村麻呂の呼掛けに応じて投降したものであろう。賊長のアテルイやモレが田村麻呂の人柄を信じ、地域住民の和平を託しての投降であろう。
26.えみしの社会
延暦二十一年(八〇二)四月十五日、胆沢城使途従三位・坂上田村麻呂の下に族長の阿弖流為と母禮が兵五百人と共に投降してきた。
同年七月十日、田村麻呂はアテルイとモレの二人を従えて京都に入り、二人の助命を嘆願し、蝦夷地の平定に任用したい、と請願し
たが許されず、八月十三日、公卿の結論として、蝦夷は「野生獣心反覆定まりなし。たまたま朝威によって、この梟帥(きょうすい)(二人)を獲たものを、申し出により奥地に返すことは虎を養いて患(わざわい)を遺(のこ)すものなり。即ち両虜を捉えて、河内国杜山にて斬る。」とある。二人は河内国杜山で処刑された。
延暦二十二年(八〇三)にも坂上田村麻呂を派遣して志波城(しわのき)を築造させ、奥地の「えみし」を牽制した。
弘仁二年(八一一)には爾薩体(にさたい)・幣伊(へい)に反乱が起こり、征夷大将軍文屋綿麻呂(ぶんやのわたまろ)が二万六千の兵を率いて鎮圧に当たったが、綿麻呂の報告では、「いま官軍が一挙に侵攻し、武力で鎮圧にても、民心を治めることは難しい。それには、永い時間が必要である。」と。
桓武天皇の威信をかけた陸奥での戦争は、宝亀五年から弘仁二年まで三十八年間の長い戦争であった。
天皇の指揮した朝廷軍に徹底抗戦したのが江刺・胆沢の長・阿弖流為や母禮であった。
日本の正史では、アテルイもモレも逆賊であり、悪者の代表・悪路王として扱われてきた。胆江地区の人たちの目線で考えるならば、「アテルイやモレは、命を掛けて戦ってくれた恩人であり、尊敬すべき英雄である。」と
考えられる自由な時代になったのである。
27.阿弖流為・母禮の顕彰
昭和六十二年、関西に住む胆沢・江刺郡の出身者で結成した関西胆江同郷会(会長・高橋敏男氏)と言うのがあった。
高橋会長は、アテルイが処刑された枚方市牧野地区の伝承「アテルイの首塚」を見て顕彰を思い立った。この塚には、自然石一つを置いてあるが、何の印も無い。せめてアテルイの由来を記し、アテルイが処刑された場所であることを明らかにしたい。と考えた。
日本の正史である「日本紀略」には、「両虜を河内国杜山に斬る」とあるが、原本は失われ、別の写本には「河内国椙山・植山」とあり、どれが真実を伝えているか、不明とされている。昔から処刑地を巡り研究されている。
河内国に杜山の地名は無く、椙山は、杉村が存在するが椙山に通じるものは無い。只、「植山」だけは、文字の違う「上山村」があり、有力視されてきた。
文禄三年の検地表に、「河州牧之郷上山村」とあり、元和二年に宇山村となった経緯がある。現在の枚方市宇山町である。
この宇山には、昔怖い侍が殺された所との伝承もあり、薮の中に塚もあった。塚に入ったり、塚のことを話したりすると孫子の代まで祟りがある。と怖れられて来た。と言う。近くの牧之公園には、アテルイやモレの首を納めた、との伝承もある。これが伝承「アテルイの首塚」である。
現在、首塚には無印の石が一つ置いてあるが、昭和四十年代までは二個の石が置いてあったそうだ。
高橋会長は、枚方市史から見ても、此処が「アテルイ・モレの最期の地」であろうから、この塚の由来を記した立札を建てようと、枚方市に設置許可の申請をした。地元の識者や伝承を知る人は許可があるものと信じていた。
ところが、枚方市は、アテルイと関係がない。と不許可の回答であった。
28.阿弖流為・母禮の顕彰
枚方市教育委員会は、昔の市史編纂者よりも、処刑地に対し拒絶反応を示した。
地元の人達もまた、昔からの伝承を、積極的に語ることに躊躇していたし、枚方市教育委員会も積極的に伝承を聴取し、調査する努力なしに放棄し、処刑地確認の研究を怠ってきた。故に、牧野地区に伝わる伝承に、脚光を浴びることがなかった。
けだし、この牧野地区を除いてアテルイ・モレの処刑地として有力な候補地を見出すことは困難である。
関西胆江同郷会の高橋会長は、枚方市に断られ、他の顕彰地を求めて京都の清水寺に打診することにした。
清水寺は坂上田村麻呂が建立した寺である。言わば、敵将の屋敷の飛び込んだようなものである。
ところが「案ずるより生むが易し。」である。仲介役の人にも恵まれ、また、清水寺には岩手県との縁のある、勧学長の福岡精道師が居られ、強力な理解者になられ、執事長の大西眞興師も好意的に対応下され、貫主の森清範師にあっては、この話が千二百年を経て舞い込むことは、観音様のお導きであり、田
村麻呂公もアテルイやモレと友情を交わした縁があり、「アテルイ・モレの顕彰碑」を歓迎するだろうから、境内の好きな場所に建てて下さい。と快く承諾された。
ただ、条件があると伝えられた。 一、建築費は、無理のない範囲で計画して
欲しい。二、浄財は、少額にしてできるだけ多くの方の浄財で建設されることが望ましい。三、建立時期は、平安建都千二百年祭の平成六年を目標にして頂きたい。四、建立後の維持管理は清水寺が行う。
誠に有り難い申し入れであった。
建立許可の内諾を得たのは、平成二年十月二十二日、礎石の選定、基金の募集など、手探りの計画で、紆余曲折があったが、平成六年十一月六日(土)二百人の出席者を迎えて、除幕式が挙行された。
29.阿弖流為・母禮の顕彰
平成六年十一月六日(土)、清水寺南苑での「阿弖流為・母禮の碑」建立の除幕式は、朝から冷たい雨が降った。
参列者は参道の泥濘に足を取られ、僧侶の衣は濡れ、水沢市民が心から祝いを表現した郷土芸能「鹿踊」や「アテルイ踊り」を奉納した後、大講堂の円通殿で祝賀会を開催した。
参加者から、祝いの挨拶があり、祝宴となり懇談中の話で今日の雨は、アテルイ・モレの嬉し涙。と誰言うこともなく聞こえてきた。
わが「大阪歴史懇談会」からも、役員七名が雨の中の除幕式を見守った。
第百回例会で高橋会長から「アテルイ」の講演を戴いた御礼と会長の人柄に親近感を持っての出席であり、また「アテルイ・モレの顕彰碑」は、古代史の一ページを飾るに相応しい歴史的瞬間でもあった。
この日を境に「アテルイ・モレ」は、事実上の岩手県を代表する英雄となった。現在では、中学校社会科の教科書にも「清水寺」と「アテルイ・モレの碑」が紹介されている。
平成十六年十一月六日(土)には、「阿弖流為・母禮の碑」建立十周年の記念法要を行った。水沢市の胆江日日新聞社の協力を得て、市長、議長、アテルイを顕彰する会、延暦八年の会など歴史に関係する方など、法要参加団として四十二名が出席された。
その際にも、水沢市の郷土芸能・無形文化財の「鹿踊」を奉納して頂いた。
同日、枚方市牧野公園の「アテルイの首塚」にも鹿踊を奉納して頂き、隣接している「片埜神社」岡田一郎宮司父子による「アテルイ首塚」御霊分けの祭祀を戴き、郷土・水沢市に千二百三年振りに帰省して頂くことができた。
アテルイ・モレの御霊は、故郷・胆江地区の人々に温かく迎えられ、水沢市羽黒山にある出羽神社境内に、「首塚」から分詞した御霊を納めて「阿弖流為・母禮の慰霊碑」が建立された。
30.阿弖流為・母禮の顕彰
水沢市羽黒山での除幕式は、平成十七年九月七日に行われた。日本紀略では、延暦二十一年八月十三日に処刑されたとあるが、この日を新暦に直すと九月七日に該当すると、水沢市の「アテルイを顕彰する会」では言い、この日を「アテルイの日」と定めている。
除幕式は、建立に尽力された関係者や建立を祝う市民による鹿踊・神楽・鋳物太鼓などの奉納があり、賑やかで、且つ、厳かな神式で挙行された。
この羽黒山の中腹には、延暦八年の「巣伏の戦い」の際に、アテルイ軍が指揮所として陣営を築いた跡が発掘されている。
慰霊碑は、山頂の一段と小高い場所に建てられた。碑文の揮毫は清水寺の森清範貫主である。白い布で覆われた碑石を、森貫主や関係者で除幕の綱を引くと、二メートルもある大きな黒御影石に大書した「阿弖流為・母禮之慰霊碑」の文字が現れた。 「坂上田村麻呂が、清水寺の田村堂から抜け出してきて、阿弖流為よ!母禮よ!お帰り。皆に迎えられて善かったな!」と歓迎してい
るように思えた。 「関西胆江同卿会」のメンバーは高齢となり、会員の範囲を拡げて岩手県人会、奥州市民、歴史愛好家などを交えて、「関西アテルイ・モレの会」と平易な名称とし、高橋会長に依頼され筆者が事務局長として世話役を引
受けて久しいが、今後も清水寺で法要を十一月に実施することにしている。
今年二月二十日、水沢市は、旧胆沢郡と江刺郡の市町村が合併し、奥州市となった。
従って水沢市は閉市することになり、二月七日、閉市式を行った。水沢市に貢献した方方に感謝状を贈ることになり、私共の会も「市民教育文化功労者」として表彰された。
奇しくもこの当日に、アテルイの首塚の伝承を語り継がれてきたお一人で、会としてお世話になった枚方市牧野阪の「片埜神社・岡田一郎宮司」の葬儀が行われた。
歴史は語り継ぎ、記録しなければ消えて行く運命にあることを思うのである。
(終)