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東京・首都圏を中心に、身近な散歩情報を紹介します。

 

 粋でいなせ 深川・木場界隈

 

 

 

街のプロフィール

 

 深川は、慶長年間(一五九六〜一六一五)に、深川八郎右衛門・砂村新左衛門らによって開拓された土地である。明暦の大火後の、幕府の都市再開発計画により、深川築地十五万坪が埋め立てられ、「江戸の材木センター」、木場が創られ、都市部から社寺が移転し、新大橋、永代橋の架橋が元禄期に完成。以来、江戸の生活物資を集積する倉庫街と、木場の材木、富岡八幡宮周辺にあった岡場所で、深川は江戸の大都市として発展した。かつての深川は、イタリアのベニスに似た「水の街」であり、水運が盛んであった。また、あさりなどが取れる漁師町としての一面も持っていた。中でも深川の岡場所は「辰巳」と呼ばれ、富岡八幡とともに、江戸の観光地として栄えた。「辰巳」とは、江戸城の東南《辰巳》の方角に岡場所があったことから。この花街の最大の売りは「辰巳芸者」で、男勝りで、いなせな気風が特徴であった。別名「羽織芸者」、または「羽織」とも。天保の頃、まだ幼い子供芸者に羽織を着せて男装し、客の席に出したのが、その名の由来とか。豪商、紀伊国屋文左衛門のほか、俳人・松尾芭蕉が住んでいたことでも知られる。広重・北斎などの画家が、深川を描いた浮世絵・錦絵を数多く残しているほか、芝居、時代劇、時代小説などの舞台として、数多く取り上げられていることも、深川が、多くの人々に愛された、魅力ある街であったことを示しているといえよう。

 

見所・遊び所

 

富岡八幡宮 江東区富岡一の二十

 寛永元年(一六二四)創建。江戸時代には、二十万平方メートルの広大な土地を所有していたという。八月の「深川祭」は、神田祭、浅草・三社祭と並ぶ、東京を代表するお祭りとして有名。、境内には『横綱の碑』、江戸の力士、釈迦ヶ嶽の身長碑、『釈迦ヶ嶽の碑』(身長、二・二七メートル)、『大関力士の碑』など、相撲に関する石碑が多い。江戸時代、富岡八幡宮の境内では、相撲の興行が行われていた。その他、都の無形民族文化財に指定されている、深川の伝統芸能『木場の角乗り』、『深川の力持ち』の石碑などがある。

 

深川不動 江東区富岡一の十七

 元禄十六年(一七○三)、富岡八幡宮永代寺における成田山の出開帳が始まり。明治二年、吉祥院境内に成田山出張所が設けられ、後に成田山不動堂を建設、深川不動となる。現在の本堂は、昭和二十六年に再建されたもの。名優といわれた歌舞伎俳優、五代目尾上菊五郎の墓などがあり、芸能関係、花街関係の信者が多いという。 

 

永代寺 江東区富岡一の十五

 

 元禄五年(一六九二)六月建立。もとは永代寺の塔頭で、吉祥院と称した。明治二十九年三月、永代寺の名跡を継ぎ、永代寺と改称。歴代住職の墓がある。

 

冬木弁天堂 江東区冬木二十二

 茅場町にあった材木豪商・冬木家の屋敷に祀られていた弁才天。宝永二年(一七○五)に、冬木家が茅場町からこの地に移転した際に、弁財天も移転。一般の参詣が行われるようになったのは、明治時代から。「冬木」という地名は、冬木家の移転に由来する。句碑などがある。

 

霊巌寺 江東区白河一の三

 寛永元年(一六二四)建立。もともとは、現在の中央区、霊巌島にあったが、明暦三年(一六五七)の大火により焼失、万治元年(一六五八)、現在の地に移転した。江戸時代には五十石の寺領を受け、多くの学寮があった。寺の名は、建立した雄誉霊巌の名に由来、雄誉霊巌は、徳川家康・秀忠・家光の信頼を得ていたという。松平定信の墓、江戸六地蔵の一つである銅造地蔵像がある。江戸六地蔵は、ほかに品川の品川寺、新宿の太宗寺などに現存。深川には、永代寺にも六地蔵の一つがあったが、明治の神仏分離により、取り壊された。

 

洲崎弁天(洲崎神社) 江東区木場六の十三

 

 明暦の大火後、本所・深川の埋め立て工事が行われ、元禄十一年(一六九七)には、この付近までが埋め立てられた。後の元禄十三年(一七○○)、社が創建され、洲崎弁天と呼ばれた。この社の本尊である弁財天は、江戸城紅葉山にあったもので、桂昌院の守り本尊。弘法大師の作という。江戸時代には、観光名所として栄えた。明治の神仏分離で、洲崎神社となる。寛永三年(一七九一)九月の台風による大津波の後、幕府によって建立された『津波警告の碑』(津波警告の碑は、洲崎神社と、現在の江東区牡丹三の三十三、平久橋橋台地の二ヶ所に建立された)のほか、この社の建設にあたった、深津八郎右衛門の旧跡、釣り竿作りの名人「竿忠」の顕彰碑、『竿忠の碑』などがある。

 

長専院 江東区三好一の六 

 

 霊巌寺の塔頭別院。寛永元年、霊巌島に建立、万治二年(一六五八)現在地に移る。豪商、紀伊国屋文左衛門の碑と、紀伊国屋文左衛門の墓がある。紀州・和歌山出身の彼は、江戸に出て材木商となり、時の大老、柳沢吉保、勘定奉行、萩原重秀とのパイプにより建設事業も引き受けた彼は、一代で巨万の富を得る。だが、柳沢吉保の失脚により事業が傾き、門前仲町一の鳥居付近でのわび住まいの後、享保三年(一七一八)、五十四歳で亡くなる。この碑の向かって左側に、紀伊国屋文左衛門の墓がある。

 

法乗院(深川えんま堂) 江東区深川二の十六

 

 寛永六年(一六二九)建立。宝暦十年(一七六○)に、閻魔堂に閻魔が安置され、「深川のえんま様」として知られるようになる。関東大震災後、閻魔堂が再建、掛軸の閻魔が安置されるが、戦災で焼失。昭和五十一年に復旧した。ハイテク仕様のえんま様が名物。『曾我五郎の足跡石』、『初代・市川八百蔵の墓』などがある。

 

清澄庭園 江東区清澄三の二 TEL03−3641−5892   

 元禄年間(一六八八〜一七○四)の頃、この土地の一部に豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷があったという。明治十一年(一八七八)に、岩崎弥太郎が公園として造園、イギリス人コンドル設計の洋館、和風建築の『涼亭』なとが建てられ、「深川親睦園」となった。関東大震災で涼亭以外の建物が焼失。後に東京都(当時の東京市)に寄贈された。回遊式庭園の園内には、たくさんの巨岩・奇岩や、芭蕉の句碑などの史跡多数。時間 九時〜十六時半。入園料、百五十円。

 

深川芭蕉庵跡(芭蕉稲荷神社) 江東区常磐一の三    

 松尾芭蕉が、延宝八年(一六八○)から元禄二年(一六八九)の、『奥の細道』の旅立ちまで、ここに住んでいたとされる。門人で援助者の杉山(鯉屋)杉風の別荘を借りて住んでいたといわれている(所在地については諸説あり)。大正十一年(一九一七)の大津波の際、芭蕉愛好の石造りの蛙が発見されたのがきっかけで、芭蕉稲荷が建立された。社には、石造りの蛙が奉納されている。

 

芭蕉記念館 江東区常磐一の六の三 TEL03−3631−1448

 江東区の施設で、昭和五十六年の開館。芭蕉自筆の句や短冊、資料などを展示しているほか、芭蕉庵から移された「古池や」の句碑がある。時間 十時〜十七時。料金、百円。月曜(祝日の場合は開館)、第二・第四月曜日、年末年始休館。

 

食べる

 

深川宿 江東区三好一の六 TEL03−3642−7878

 かつて深川は、あさり、しじみ、はまぐりなどの貝類が多く取れた漁師町であった。その深川を代表する料理が、あさりと野菜を煮込んだものを、ご飯の上にかけた「深川めし」。このお店の深川めしは、もと深川の漁師さんが食べていたものを参考にしたオリジナル料理。味噌仕立てで、こくがあるのに塩辛くないのが特徴。汁かけ、炊き込み風、玉子とじ風、千八百円。BGMなど、細部に「江戸」を感じさせる店内の演出が、とても粋。時間 十一時〜二十一時(日・祝は十八時まで)。月曜定休。深川江戸資料館(江東区白河一の三 TEL03−3600−8625)向かい。

 

買う

 

みなとや 江東区門前仲町二の四の九 TEL03−3641−1970 

 永代通りにある、せんべいのお店。気楽に立ち寄れる、下町的雰囲気がいい。ぬれせんや、唐辛子味の発狂せんべい(五枚入り五百円)など。特に発狂せんべいは、名前のとおりの超激辛。辛いもの好きの方は、ぜひともご賞味を。あられタイプも。時間 九時〜十九時半。水曜定休。

 

 

 

※深川散歩 関連サイト※

深川散歩 http://www.asahi-net.or.jp/~QR2M-SKMT/

タウン誌 深川 http://www.jade.dti.ne.jp/~clio/menu.html

江東区の歴史と文化財 http://www.city.koto.tokyo.jp/~bunkazai/koutourekisi.htm

 

 

 

交通アクセス

 

営団地下鉄東西線・門前仲町駅、都営地下鉄大江戸線・門前仲町駅、都営地下鉄新宿線・森下駅下車。 

 

 

 

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