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随想 青い闇 −8−
12 Apr 2001
今朝は霧。
桜の開花期は、早朝の公園にも散歩者がいましたが、葉ザクラ見たさにコースを逸
(そ)れ、公園の周囲を走りましたところ、広場にも池にも人影はなかったです。花び
らで覆われた水面に霧が立ち込め、休耕田の霧と重なって視野をふさぎ、曇りと思い
こんでいたのは誤りで、強烈な発光体が、白く淀んだ空気を正円にえぐっていました。
コジュケイは、慌ただしい逃げ足が聞こえるだけで姿を見せませんが、今朝の番い
は、足元から飛び立つほど混乱の体(てい)。ヤマドリは、こちらの姿を認めますと、
重そうな体に似あわず敏捷に走路を横切り、警戒の目を向けるのはオスの役目で、メ
スは離れた地面で鳴りを潜めていますが、今朝のオスはメス二羽を従え、枯れた畔を
離れませんでした。
コジュケイもヤマドリも、現われる場所が決まっています。出合いは一瞬ですが、
克明に記憶されます。
13 Apr 2001
今朝は快晴。
大風が、花びらも春霞も吹き飛ばしてしまい、地面は大掃除あとの爽やかさ。青い
闇がみるみる薄れ、東の地平が金色に輝き、顔を覗かせた太陽を見た瞬間、網膜がお
かしくなり、辺りは墨をこぼした斑(まだら)模様。
空気が乾いて澄んでいますと、東の地平の太陽は人の感覚を寄せつけません。灼熱
の語感には、色を連想できるだけ救いがあります。今朝の太陽は、敬虔や荘厳を含む
言葉一切を拒んでいました。
一重のあとは八重が際立っています。桃色でも白でも、大ぶりの枝を切り取って生
けると見事。あり合わせの器に、無造作に投げ込んで下さい。盛りの花は強靭です。
大風を装っても、一輪数十枚の花びらは、抜けません、破れません。植物の養成技術
は、古代の比ではありますまい。切り口に施す薬剤も市販されています。ですから満
開の八重桜は枝を切り取って、日常の生活に、誰もが無償で組み込めばよいのです。
嗚呼、誰もが切り取ったら、なくなってしまいます。
生活維持技術も、情報伝達技術も、仮想表現技術も飛躍的に進みました。ヒトの意
思疎通の、絶対的基礎であり、遍(あまね)く保障されている言葉を用いた表現も、伝
達技術の制約から解放されています。ですが今なお、文章表現の閲覧に、金銭を求め
る社会通念が理解できません。「文章表現の閲覧」を「自然樹形の鑑賞」に、「社会
通念」を「生活環境」に、置き換えてみてください。
16 Apr 2001
前項の花びらの数は、流しに落ちていた一輪をむしって見当をつけたのですから、
正確ではありません。岩絵の具で描いた牡丹二輪の花びらを、写生のときに数えたと
ころ、百七枚と百十三枚だったそうです。八重桜も品種を調べ、花びらを数えておけ
ばよかった。
風にそよぐ梢、太陽に照り映える葉、月光を浴びた林には、魔性(ましょう)に憑か
れてしまうほどの表現力があります。
枝に雪洞(ぼんぼり)を配置、幹に電線を渡した桜の名所もあります。桜は枝や幹も、
絵画の及ばない迫力がありますが、開花期の桜とは好対照に、駐車場は満車でも、入
園者の多くは関心がないのでしょう、緑の楓や葉桜は、樹木を描いた古今の名画と異
なり、世間の美意識から外れていました。
17 Apr 2001
旅行、特に海外に出かける準備期間に入りますと、寡占媒体に関心が薄れ、紙面や
画面の、内容はもとより、文字や音量そのものが煩わしく感じられます。描くときも、
著わすときも同じでしょう。子の誕生や子の進学や子の闘病の折も、壇上の演技や勝
利の拳は二の次になります。我が身にとって大切なもの、切実なもの、貴重なもの、
欠かしてはならないもの、もしそれがあるのでしたら、媒体に向かう関心、態度、時
間は、そうでない場合と比較して、随分、違ってくると思います。
18 Apr 2001
この匂い、なんでしょう。
腕はさておき、私の○チョンで撮った写真は、パソコンにとり込むとぼやけてしま
います。デジカメはハシリの頃、嵩ばるだけが取り柄で、すぐに電池が切れてしまう
特価品をまとめ買い、中国にも持たせてやりましたが、なぜか紛失、残っているのは
手元の一台だけで、それも使わずに放ってあります。
私の写真は家族本位、撮られるのは極力遠慮、近年は日本画のスケッチ代わりに撮
影を代行していますが、折角「折々の写真」を撮るのですから、少しはマシな道具を
と思った瞬間、父の写真機が浮かびました。
フラッシュは電池の液もれ、露出計は電池に錆、日付表示用にと、差し換えてあっ
た裏蓋にも電池がこびりつき、レンズまわりは汚れ、箱の中では埃が舞って、最初は
後込みしましたが、付属品と説明書が揃っていましたので、電車内で拾い読んだ結果、
私でも写せそう----
と、昨日の出来事を反芻(はんすう)しながら走っていますと、ほのかな匂いが視神
経を呼び覚まし、走路の灌木(かんぼく)に目を向けますと、馬酔木(あせび)の花が続
いていました。
地球の自転の速度が、今の半分だったらよかったです。夜明けが延び、十キロ余計
に走れます。
国や自治体は、個人の主体性を、観客化させないで欲しいです。主体の充実や表現
の燃焼に関しまして、理念も、限りある予算も、舞台構築に向けてしまいますと、主
体踏踊の、状況および環境整備が、ますます遠退いてしまいます。美意識は職業生活
に干渉します。しかし食って行くのに綺麗事は通じません。美意識の醸成、および個
体の主体的燃焼には、二重生活が必要です。舞台の構築、および壇上の演出は、私企
業の採算に委ね、国や自治体は、「個人の誰もが、自ら、最高に燃焼できる土壌」の
整備を、請け負って欲しいのです。
26 Apr 2001
今秋の日本画展の課題を「肖像画、または肖像に準じる人物画」に定めましたとこ
ろ、出展者が集まりません。不満気なご感想まで耳にしました。花鳥なら、静物なら、
風景なら自信のある方も、肖像画ですと気乗りしないのでしょう、その気持は事前に
わかっていました。
もし開催が可能でしたら、三回目の日本画展は「自画像、または本人を含んだ人物
画」に定めます。身を削って描いたような作品は、あるいは顎や頬の線描だけに、ひ
と月もふた月もかかってしまった作品は、仕掛りでも展示します。塗り直しを重ね、
色が濁り、紙が剥けてしまった作品も展示します。
手元には麻紙(まし)一枚、絵筆一本ありませんが、私も描くことがあります。人物
画です。薄塗りはしません。厚く、厚く、厚く塗ります。やがて色が重なり合い、顔
貌(かたち)が判らなくなります。ただ、油絵や水彩画や日本画と違い、折々の筆の色
は混ざり合うことがありませんので、後日、色を層として認識できます。汗と、髪の
毛と、油煙の染み込んだ衣裳は洗い晒して下着に直し、垢と、獣脂と、排泄物のこび
りついた下着は切り裂いて襁褓(むつき)となす、その移り変わる姿が重なった色の層
を、私の描く絵は一枚一枚剥がせるのです。色を拭い去った段階で、肖像の個性も特
定できます。
07 May 2001
公園巡りで気づいたことがあります。桜祭りやツツジ祭りでは自動車が溢れ、樹木
が肩身の狭い様子なのです。四月十六日の項で雪洞(ボンボリ)に触れた時、さらに
滅入るので書かなかったことがあります。ある桜の名所での出来事です。私はその地
では、満開の桜を見たことがありません。その地へ出かけるのは開花前まで、または
桜が散ってからです。我が家からは遠いのですが、二ヶ月に一度は訪れ、無人に等し
い広場と、爽やかな風を楽しんでいます。樹形が見事。その一つ、桜樹が連なる芝生
に、運動会で馴染んだ白い粉がベッタリでした。付近には博物館の駐車場と、公園の
駐車場があるのですが、満開の休日は渋滞の列、駐車場が足りないのでしょう。
公園巡りは母のリハビリも兼ねていますので、連休最終日も出かけましたが、予定
の公園は、河川敷まで自動車が溢れ一目で断念、狭く地味でしたが、行く先を静かな
緑地に変えました。
大人には知恵があります。連休で賑わう公園も、半径に二十分も費やせば、事業者
や自治体は駐車場用地を借りられます。加えて、臨時駐車場と公園を結ぶバスを用意
すれば、ただでさえ不細工な自動車を公園から一掃でき、もっと多くの人が満開の桜
を楽しめます。小学生でもできる工夫を、花見客も、自治体も、事業者も、渋滞に置
き換えてしまうのはなぜでしょう。
歓びを増す道具としての人生観が、手段としての生きる軌範が、芽生え、育まれる
生活ではないのです。就職活動で、面接官が学生に問う言葉「あなたは何をやりたい
のです」を、そっくりそのまま面接官に、つまり大人に返してやりたい。あなたの晩
年に予定されている歓びは、膨らませたい「我が道」は何ですか。
08 May 2001
この項も投稿をためらっていたお話です。昨秋、個展の準備で草土舎を訪ねたとこ
ろ、先客に、額を誂(あつら)えに来た中年のご婦人がいましたので、二階に上がっ
て売り物の絵を一通り見学、そろそろと思い、階段を下りはじめましたが、まだご婦
人はご自分の作品を広げたままで、営業の担当者に話し掛けていました。
額を誂えるために持ち込まれた作品には、初見の驚き(の商習慣?)と、笑顔と、
額が完成した折の賞賛(額への賞賛?)の各一度限りを除き、草土舎の係は優劣好悪
を口にしませんので、粘っても無駄と思うのですが。
商談机の作品は、階段の途中の私に向けられ、ご婦人は声高になりましたが、売り
物を見てきたばかりの脳裏には、色とりどりの花と花瓶が、ただただ煌(きら)びやか
に映っただけです。
華麗な絵画に、練達した作品に、鑑賞者はなぜ作家を意識しなければならないので
しょう。作家ともども評されたいのであれば、自信作一つでは足りません。
作家の得意まで展示する必要はありますまい。大家にも凡作を表わす自由がありま
す。権威にも誤謬に塗れる時節があります。装飾や投資や後援に絵画をあてる理由は、
美的愉悦や、畏敬の刺激や、蓄財の興趣や、援助する充実など、いずれも作品の送り
手ではなく、先ずは作品の受け手が利益を得るため、ではありますまいか。
有形無形を問わず、作品を表わすか否かの違いは無限に大きいです。「表現し続け
る自我、続ける努力を重ねている自我、続けられなくなってなお表現を突き詰めてい
る自我」と、「表現から退いてしまった自我、鑑賞本位の自我」との間には、比較で
きないほどの得失が生まれています。ここでの表現とは、「製作者本人にとり、相対
的に情報量の多い絵画や文章」としておきます。当然、評価の基準は、観客化市場の
それとは違ってきます。
09 May 2001
いくら額縁店で粘っても、奥様、あなたの絵は私には「関係ない」です。上には上
があります。仮に素人相手の展覧会で特賞を授けられた作品でも、線描技術や彩色技
術や効果や規模の点で、本職の作品には先ず及びますまい。世評の定着した傑作とは、
比較することさえ憚れます。観客化市場で覇を競う限り、私が奥様の作品を注視する
のは、社交でなければ同情にすぎません。一流を観る機会が豊富にあれば、会社員や
主婦や芸能人の作品は鑑賞したいとは思いません。古今の傑作が身近にあれば、観客
化市場のほとんどの作品は、現役作家の美術館収蔵の新作でさえ、観に行く必要を感
じません。まして本職もどきの自己耽溺に、お追従(ついしょう)を述べるなど真っ平
です。
表現の、情報の中身は「踏踊」とご理解下さい。お稽古から始まって、受賞の階梯
を昇りつめても、表現に辿りつくのは難しいと思います。凡作が傑作に伍する唯一の
方法を、本職は食うために、素人は本職願望や自己陶酔から、製作者自らが潰してし
まうのですから、晩年まで打ち込みましても、観客化市場の素人や本職は、成り行き
任せで(鉤を欠いた感性で)表現者に転ずるのは困難です。
家族でさえ介入できない私的な営為「描画と著述」が表現に値するには、踏踊の条
件および足跡と歩を一にする必要があるのです。表現文化が観客化市場と決定的に異
なるのは、表現は、一人では絶対に描けない点です。製作補助者の員数を指すのでは
ありません。耽美や装飾として優れた花鳥画や風景画も、表現文化に踏み込んだ途端、
貧困の極みになっても不思議はないのです。書き物も事情は同じ。因みに、経験を語
ることと歩を一にすることは、必ずしも一致しません。
10 May 2001
風に吹かれながら青い闇を眺めていますと、枕草子の、筆者の晩年の想いが浮かん
できます。資料を欠いても、必要な情報は千年前と交信して得られますから、扉の鍵
は草子一冊で十分でした。
公募展でもグループ展でも、勝利の拳にこだわり、お墓まで勝った負けたを持ち込
むヒト族。表現の、均等な機会づくりを怠り、すでに衆知の、権威やら功労やら業績
やらの、色褪せた結果に屋上屋を架し自惚れ(うぬぼれ)に栄誉を注ぐヒト族。
若者は、老人(私もその一人)の表現を、軽々(けいけい)に解かったとは言わぬこ
とです。老人は、若者の表現の選者を辞し、世代間の断層を、より深く、より鋭利に
刻むことです。
青い闇から降り注ぐ情報を解読しますと、幼い子らの、歓ぶ声が聞こえてきますよ。
15 May 2001
私の場合、最近の随想と以前の随想では足場が違っています。過去の随想は、出版
社のAさんと印刷会社のSさん以外で、筆者を見知っていた人はいない筈です。父も
私の随想を知らずに逝きました。母にも十冊の随想は渡していません。以前の手持ち
は、資料と一緒に仕舞い込んでありますが、梱包を解いて渡しても、まず読めないと
思います。理解力の不足ではありません。仕掛りの、下絵を感受する習慣がないから
です。知性や感性に関係なく我々の社会では、仕掛りの「作品」を、羞じたり伏せた
りする観念がはびこっています。しかし仕掛りの「作品」には、完成品では拭われて
しまう情報が生きています。その情報を、作品として読み取るには表現力が必要です。
仕掛りの「作品」は鑑賞する受け手にも、過程の野心と、分野は問いませんが、送り
手の表現力に応じた足掻(あが)きを要求します。仕掛りも作品として感受できる社会
では、鑑賞する側も傍観者ではいられません。
私は「存在の不条理」と書くことがあります。言葉の綾ではありません。わずかな
言葉で説明できます。しかし「この絵は花瓶に生けたヒマワリです」とか「この絵は
子どもの肖像画です」と記してどんな意味があるのでしょう。絵画は色と形が語って
くれます。文章は結論に至る過程に理解を委ねています。
巨匠の作品に対した場合、越えられない(近寄れない)懸隔があります。鑑賞者も
晩年まで表現を尽くせば、容易に読み取れる懸隔です。沈黙を強いられます。名声に
擦り寄って、あるいは作品に陶酔して、自己を飾り、自己を高めるなどできるもので
はありますまい。表現を突き詰めれば突き詰めるほど、先達の完璧な筆遣いに挫折感
を強いられますが、表現は巨匠一個においても、傑作だけで成り立つことはあり得ま
せん。分野を問わず、表現者個々の作品を時代順に鑑賞しますと、個々の資質と技量
の透明度が増し、もう一つの懸隔が見えてきます(この懸隔を読み取れない表現者に
は、各自の主題への、観察力と洞察力の不足を感じます)。
16 May 2001
伴侶に先立たれ、あるいは一人で高年を迎えましても、否応なく生きていかなけれ
ばなりません。過去折々の出来事が、現在の喜怒哀楽を司るとも思えませんので、晩
年は、孤独と寂寥感に苛まれるのが定めと考えても、あながち偏見とは言えますまい。
老いて背負う重荷はつらいと思います。その重荷が、他者の期待や他者が描く理想
像ですと、老いる前に潰れてしまいます。それでも世の中には、自分と他者しかいな
いのですから、自分で担えない晩年の孤独や、自分の力の及ばない晩年の絶望は、ど
うしても他者に委ねざるを得ないのです。他者に凭(もた)れかかって在り続けるのは
心苦しい。もっと自由に生きて欲しいが私の願いですから、老いた今、思い出を胸に
秘め、眠るように逝きたいです。
未来の子らに遺す言葉がこのようですと、幼さゆえ彼らは一顧だにしないでしょう
が、私にとっても歓びにはなれません。野心と矜持を、必要とする所以(ゆえん)です。
23 May 2001
今年八十一歳になる母は、アレルギー性疾患を除き過去数十年、風邪一つひきませ
んでしたが、父が亡くなってからは、六つの科を受診する必要が生じていました。
最も精密な検査の結果、ミリ単位の疾患も見つかっています。その病気には、観察
を含む三通りの措置がありました。患者が若ければ、将来的にも、他の器官への影響
を拭える治療が優先されます。高年の場合は、定期的に検査を続け、患部に変化がな
い限り、損なわれた感覚は復せませんが、静観するのが最良と判断されます。
激しい腰痛から再び衰弱、その診察で、母は骨の老化も知らされました。栄養と運
動に気遣い、食事にも家事にも手抜きはなかった筈ですが、父の看病時の衰弱が響い
たのでしょう、頚骨や脊椎のレントゲン写真は、医師の説明が要らないほど疾患が明
らかでした。骨の健康には日光も必要です。しかし居室の暗さが語る通り、日常の買
い物以外で、母は自分から日光を浴びようとはしませんでした。お医者さまの勧めに
従い公園巡りを開始、その効き目は予想以上で、肌の艶も回復、先週の診察では「こ
こも痛くないのですか」と先生も驚いた表情。
登山や山歩きに対比させ、公園の散策を、老い、あるいは幼児で線引く態度が見え
隠れします。頑強なときは山歩き、公園は子育てか老後のため、と考えるのでしたら
あまりに無欲。
公園に触れたのは第一冊目の随想からです。その頃は、両親と私の生活に接点はな
く、公園を二人の視点で考えたこともなかったです。現在、母を案内している公園も、
以前、家族を連れて出かけた公園がほとんどです。
十分に走りこんでいる私には、軽い登山やハイキング程度で、息が切れたり足に響
くことはないのですが、公園巡りと山歩きを「択一」するつもりもありません。その
公園の、横並びが気になります。森林や自然を冠した公園には、折々、別種の不満も
湧きましたが(歩道や自転車専用路や公園など、日々の充実、日々の歓びに最も大切
な「機会」が、宛行扶持で足りてしまう、あるいは我慢できてしまう程度の自負には
寂しさも覚えますが)市街地や郊外の公園には、高く太い樹木がまったく不足、敷地
は広いのに、唯一の日除けのクスの並木を、刈り込んでしまった公園さえあり、高木
(こうぼく)が高木として成長できない樹間も珍しくはなかったです。因みに四、五月
にご紹介した公園は、三県とも過去に訪れた公園緑地の半分以下、また案内書で紹介
されながら、訪問を避けた観光施設や、撮った写真を載せなかった緑地は、筑波山麓
だけで五ヶ所もあります。
五月の炎天下に鑑賞する花一杯は観光行事、麗しさも爽やかさも感じられません。
クスの巨木が連なる公園の、草花は、木漏れ日や、水辺や芝生や東屋の周囲に咲いて
いれば十分に楽しめます。なんと個性がないのだろう、と言える程度には巡ったつも
りですが、樹木と、清流湖沼と、奥行と、温かさと爽やかさと神秘さで、これは!と
思った公園は稀でした。
公園巡りでは昔ながらのカメラを使っています。写真を撮る趣味はありませんでし
た。デジカメは、あまりの鮮明さにたじろいでしまいます。近年、視力が衰え、近視
に乱視に老眼が同時発生、幸い、昨日今日は眼鏡がない方がよく見えますが、過去の
鮮明さが、二度と蘇られないことはよく承知しています。衰えた目に、デジカメで撮
った画像は鮮明に過ぎます。被写体を前に、裸眼が無意識に選り好む、その回避した
要素まで突きつけられますと、デジカメの画像は、実際に観た草花や実際に眺めた景
色とは思えません。あまりに鋭い発色が、被写体個々の質感を均一にさせ、茫漠とし
た画像との調和が難しく、サイトであれ画廊であれ、デジカメの画像はデジカメだけ
で統一した方が、当面は無難と思っています。
大樹を欠き、夏の陽を直接浴びた花壇は眩しすぎます。病気を告げられた高年者だ
けでなく、私まで立ちすくんでしまいます。
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