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随想 青い闇 −9−
25 May 2001
好きな画題があります。耳を澄まし、目を凝らすと表われる人々の情景です。脳裏
に現われる故人の群像ではありません。私の作品は踏踊を表現したもの、光の技法を
使っています。
世間一般の作品とは違います。技量の習熟が必要な点は、表現のすべてに当て嵌ま
りま。しかしこの絵を描くには、人と人との関係が必要です。油絵や日本画は、打ち
込めば孤独を紛らわすことも可能でしょうが、この絵には、少なくとも筆を持つ本人
と被写体二人の、合わせて三人は要るのです。表現への集中を持続できれば、二人で
も足りますが、二人より三人、三人より四人と、表現者が纏う衣裳(黒衣)の濃さが
増せば増すほど、作品の完成度も高まります。
伴侶も知己もやがては逝きます。遺された側に深まるのが解放感や幸福感なら「今
までよく耐えて来ました、ご苦労さま」で済みますが、循環器に障るほどの寂寥感に
苛まれ、地に引き摺り込まれる孤独に囚われ、生きる意欲を失えば闘病の苦悶を約束
され、永らえれば屈(かが)んだ身幅をさらに狭める、そのような生活が高年者一般の
晩年であるとしますと、我々の社会は歩道や公園同様、宛行扶持の生活に甘んじてい
るのと変わりないように思えます。第二か第三かは知りませんが、高年の孤独を新し
い人間関係で(過去の延長から生まれた関係の再編ではなく----再編も状況の宛行扶
持----従来の生活基盤を清算した例えば再婚、例えば海外移住で)回避できたとしま
しても、それは伴侶や知己との別れの、一時的先送りに過ぎますまい。
30 May 2001
向かい合う相手が一人もいなくなった場合、なお在り続ける意欲はどこから湧いて
くるのでしょう。自身の一生が終わったと観念して、なお生き続ける意味合いを当事
者が見出せずに、高年社会の施策の適否を、判断できるとは思えません。自己の生き
ている意味がすべて止(や)んだと観念した後も、生きて来られた心持ちを、例えば一
人で涼風に向かう自由感を、例えば一人で夜明けを仰ぎ見る解放感を、失っても生か
されてしまう社会規範を(規範に結果した成り行きの通念を)「想う人々」は納得で
きているのでしょうか。個々内面の、思想というのであれば自由度が、道筋というの
であれば選択肢が足りません。社会に出る前は「ヒトはなぜ生きるのだろう」と自問
したこともありましたが、当時はあまりに生きた時間が短かったので、答えは白紙の
ままでよかったと思います。悔やまれるのは自問に費やした時間そのもの。無理もあ
りますまい。当時は(今も)十代が一人で旅する均等な機会がなかったのですから。
01 Jun 2001
向かう相手が一人もいなくなっても、矜持を示す相手が消えた訳ではありません。
科学を持ち出すまでもなく、恒常不変があり得ないであろうとは、自ずと浮かぶ想念
です。十億年後もヒトの技術は通用するのか、百億年後もヒトの認識は健在か、と自
問して対策を考えるヒトは、ヒト社会への執着心がよほど強いので、晩年になっても
ヒト社会の中心であり続けるでしょう。
ヒト社会の、存続を前提にしない考えには従いません。理由は簡単です。ヒト社会
には大切なものが(自意識が青い闇を纏うときに、対象から与えられる普遍的な歓び
が)無数にあるからです。大切なものを見出す生活に較べますと、ヒト抜きの世界は
あまりに暗くあまりに冷たい。
ヒト普遍の歓びもやがては消えます。ですからヒトは、相手に向き合うことができ
るのです、一個としてもヒトとしても。相手とは、ある認識を指しています。
06 Jun 2001
社会に広く?深く?浸透した今、インターネットの意義が少しわかってきたように
思います。インターネットは単に、観たり、買ったり、遊んだり、働いたり、話した
り、送受信したり、制御したり、決済する技術の一環に過ぎず、郵便や、電話や、写
真や、蓄音機や、ラジオや、テレビや、映画浸透時を越える画期性はないでしょう。
確かに、取引方法や勤務形態にも影響が現われるでしょうが、それとて、市場や、簿
記や、印刷機や、自動車の出現がもたらした以上の巨大な変化は生まれないと思いま
す。双方向通信の斬新性も、個人相互では、ヒトがもっと開化するまで生かされない
でしょうし、見ず知らずからの電話に対するのと同様、インターネットでの会話は警
戒して当然で、お喋りや、出会いや、雑談の掲示板や、歓談のMLへの期待も、世間
から急速に引いていくのではありますまいか。仕事でも生活でも、費用と時間と資源
で省ける部分は、片端からインターネットに換わられますが、それは浪費に明け暮れ
た前世紀の尻拭いに過ぎず、誇れる話ではありません。
客体化の鏡として、インターネットほど有効で、インターネットほど普遍性のある
媒体を知りません。比較級のもの言いは不正確です。過去、共有媒体(あるいは普遍
媒体)はなかったのですから。
07 Jun 2001
個人サイトはやがて二十億、あるいは三十億に達するかも知れません。そうなりま
すと、文筆で生計を立てている個人は、寡占の権益を脅かされますから、共有媒体の
浸透には複雑な気持ちを抱くでしょう。共有媒体に載せる情報の多寡も問題です。寡
占媒体に拠る文筆では、書き溜めた文章すべての公開は、費用や流通の制約から困難
でしたが、共有媒体では、限りなく蓄積した資料も悉く公開できますので、読者は、
化粧を施した書き物だけでなく、素顔の表現も読めるようになり、文書表現を享受す
る当然の条件として、化粧に至った過程の資料も、公立図書館の利用同様、表現者の
共有媒体資料館で閲覧できます。その資料館の文書が、先人や他人の著わした著作ば
かりですと、個人は研究機関や公立図書館には敵いませんから、個人の資料館を訪れ
る意味が薄れ、化粧された作品の独創性も霞んでしまいます。
実生活に軸足を置く表現の主体は生活者本人です。共有媒体に代筆者は要りません。
実生活は切り貼りできませんから、資料庫を公開するだけではとても足りず、打鍵が
可能な限り、著わし続ける必要もあります。共有媒体では、資料館の膨張と表現者の
誠意が絡み合っています。
鏡に姿を写して、ヒトは自分の多くを知ります。やがて化粧に長け、身のこなしも
優れてきます。絵は自ら描き、鑑賞者に観てもらうことで(あるいは無視されること
で)表現力を増します。化粧も絵も、公開し、評されることで成長できます。ではな
ぜ、ヒト一般は著わさずに理解でき、読んでもらわずに(あるいは無視されずに)納
得できるのでしょう。認識は悉く言葉に負っています。
08 Jun 2001
自然は大切です、後世に遺しましょう、とはよく耳にする言葉です。しかし大切と
いう判断は何処から生まれるのでしょう。ヒトには、自然を貴重視する生まれながら
の感覚と、暮らしの中で育んだ常識があったのです。ではなぜ遺す必要が生まれるの
か。大切なら、潰しはしない筈ですから。
言葉はヒトが創り出した最高の技術です。言葉の前では、現代の先端技術もみすぼ
らしい。機械技術の独創も、先人と他人が営々と築き上げ、連綿と改良してきた情報
なり技術なりにほんの少し、目新しさを加えただけではありますまいか。しかしヒト
一個は違います。不可避的に変わって行く環境下で、ヒト一個は、親や地域社会が織
り成す状況を独自に生きます。革新技術は精巧に写せますが、ヒトに同じ生涯はあり
ません。零から始まり零で終わる、その間の悉くがヒト一個には未知との遭遇、ヒト
一個は自己の生涯を独自に拓き、独自に築く極めて独創的な生き物です。
ヒト一個が結果した残滓、これが功績なり成果と称され、理工や人文の技術に組み
込まれるのですが、業績を排出するヒト一個は独自に起動し、独自に生涯を形成し、
ある者は孤独に苛まれ一人で逝き、ある者は安らぎの中で旅立ちます。
物質上、金銭上および権利上、利益になる権威は道具として利用しつつも、自己が
識り自己が著わす際は、借り物(権威)には疑義を挟む方が充実できます。運動好き
は観客席で観るだけでなく、自らも参加したいのではありますまいか。
私は旅に出るのが好きです。一人旅には特別な想いもあります。十代の一人旅は、
生涯の旅の歓びに欠かせません。身近な公園も好きです。自然に囲まれた通学路と自
転車道も是非欲しい。
学校からの帰路、寄り道した畑や林は、半世紀後の今も色褪せません。内外を自転
車で走りたいという想いも強烈です。その一方で、名所案内や自然百景のテレビ番組
には興味を失いました。今のテレビには、旅に出られない我が身の情けなさしか見当
りません。
大切なものを、皆さんも簡単には捨てない筈です。それなのに、潰してしまうのは
なぜでしょう。その答えと「独自」に創り出す方法が、自ら著わせば見つかると思い
ます。旅の歓びについては、前の随想で子らの旅に触れ、旅の機会均等については、
今回の随想で気ままに書き綴っています。
14 Jun 2001
公園巡りの開始直後は、向きになって撮っていた写真熱が冷めてきました。「折々
の写真」に載せる点数が増えたので、持ち前の性格が頭をもたげ、まあ、適当にして
置こうが最大の理由です。各所の公園には似た要素が多く、重ねて撮っても無意味と
感じる場面も増えてきました。写真の作品に、踏踊の扉が開かない個人的資質も枷に
なっています。一にも二にも、撮影技術の拙(つたな)さ故ですが、サイトに載せた画
像を見ますと、しきりにゴーストが「こんなの違う」と囁(ささや)くのです。
写真は現実を映すものと思っていました。しかし山の形も花の色も、写真を見ると
がっかりします。デジカメの画像は載せません。そのデジカメの画像も含め、撮影熱
が冷めています。日本画を描くスケッチ代わりに、代行して撮る景色や樹木や街並み
は後で眺めて、私までワクワクゾクゾクさせられ、嗚呼、描きたい!と嘆くのですが、
また公開など夢にも思わなかった旅行の写真や問屋の写真は、ピンぼけでもモノクロ
でも冷める写真はありませんが、公園巡りで撮った写真は(サイトに載せるつもりで
被写体を選んだ写真は)何かが違っていたのです。
15 Jun 2001
ところでゴーストって何でしょう? あまりに漠とした存在なので説明が難しいで
す。いい意味ではありませんでしたが、届けられた呼称を拝借して「韜晦(とうかい)
の叙事詩人」ではいかがでしょう。感覚だけでものを言い、支離滅裂で、居るか居な
いかわからない存在、では足りずに、ML開設当初のご批判では「かたくな」も加わ
り、最近は別の処で閑人(ひまじん)の称号も授かりました。
ゴーストの過去の随想を克明に読まれた暇人同士であれば、文章に組み込んだその
折々の状態がおわかりいただけたと思います。脂汗で動きが取れない程度の淵に立ち
ませんと、ゴーストといえども書き続けるのは困難です。
因みに過去十冊の随想で、著者が校正に要した時間は、会社帰りに、ゲラをSさん
の印刷会社に取りに出かけ、辞典片手に電車の中で校正を開始、徹夜明けには校正を
終え、ゲラをAさんの出版会社のポストに投函してから歩いて出社、一日は二十四時
間に限られ、当時は一日三ヶ所の事務所に出向いていたのですから、空き時間もこの
程度が限度でした。
ゴーストは幽霊(同義反復)ですので、住居(?)には書斎はおろか専用の机もなく、
パソコンも床に直置きです。ようやく近年、校正が複数回になり、一回の校正にも二
晩はかけられる・・・そうか! ゴーストはヒマになったのです。
私は中学の頃から中年になるまで、散発する痛みに悩まされてきました。痛みを分
かつなどできません。措置が手詰まりならば、痛む側とその家族の苦しみが増すだけ
です。それでも耐えなければなりません。その苦痛を気持ちの上で和らげる方法を、
握っているのは痛まない側です。
MLのサイトに「折々の写真」を載せた経緯(いきさつ)を振り返ってみます。戦前
の神田の写真と「鉄塔の聳える村」を宣伝するため、写真中心の検索サイトに登録し
た際、ある処で「写真は少ないですが敢えて」と言われたのがきっかけでした。その
時点で、掲載写真は数百点に達していましたが、やはりその言葉は気になります。
撮った写真の仕上りが、撮影者本人の観た(あるいは撮りたかった)印象と似て非
ですと、その功は、写真機の性能やフィルムの感度や現像技術に帰することになりま
す。それでも撮影者が自足できるのであれば問題はないのですが、ゴーストは違って
いました。
「折々の写真」以前の外出は、写真機を持ち歩く方が稀でした。写真機を携行しても
あまり撮らず、同行者に促され「ハイ! 記念撮影」 それが今は写すために出かけ
る有り様。
以前は偶然に出合った景色を撮り、偶然に見出した写真に見惚れ、黄ばんだ写真に
歓び、色褪せた写真に衝撃を受け、写真の背後に広がる自由な世界を楽しんでいまし
たが、掲載を意図して撮った画像は違和と異邦、デジカメの鮮明な画像は別世界で、
撮ったゴーストには関係ないです。
絵を描きたくなる写真に憧れています。それには、現実の世界により深く親しむ必
要があります。裸眼と、皮膚と、耳と、嗅覚で被写体を捉え、言葉で表わせる限界ま
で脳裏を耕し、筆で描ける限界まで脳裏に描き、その補いの媒体として写真機を持ち
出す筈が、自分から自由を手放すなんて愚かでした。これからは「ゴーストに意味の
ある写真」だけを載せようと思います。
昨年の個展の際、芸術写真を展示させて欲しいという話が舞い込んできました。考
えもしなかった申し出に、考えもしないでお断わりしましたが、写真なら簡単に壁面
を埋められる、展示する作品が不足する時はその手もあるな。
今は芸術写真は芸術写真だけで展示するものと考えています。もし絵画展に写真を
添える場合は、絵画の作品や絵画の作家についての、説明写真や思い出の深い写真だ
けを展示することになるでしょう。
21 Jun 2001
三週間も脇に逸れてしまいました。青い闇、いいえ、旅と自然に戻りましょう。と
ころで私にとっての自然とは、逃げ場でも癒しの場でも保護の対象でもありません。
自然と呼ばれている概念や区域の一部が単に好き! ただ単に最高に好き! だけな
のです。その中には(好きな対象の自然には)遠方の、遺産に定められた自然や、海
外の、壮麗な自然は含まれません。くだらないです、他人の歓びを、指をくわえて眺
めているのは。もっとくだらないです、子らに、他人の旅や他人の自然を、指をくわ
えて眺めさせている生活は。足元は、その地に住まう者が表わせばよい、それが鉤だ
と思っています。
29 Jun 2001
棄負加の分離? 親が失業した子の気持ちと、失業した親の我が子を想う気持ちは
どんなでしょう。仕組みのための想念? 想念のための仕組み? 本末が転倒してい
るように思えてなりません。過剰な機会は必要ないでしょう、これからの千年は。
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