銭湯 自伝抄録・祖父の肖像より抜粋 文中の「私」は祖父を指します 【小学校】 近くの誓願寺境内には、僧侶の経営で、俗に坊主学校と呼ばれ、百 人足らずの昔の寺子屋のような私立の学校で、市立の代用という意 味の代用小学校があった。七歳のとき、私もこの代用小学校に入学。 入学祝いは、伯母さんからの鼻緒に模様の入った下駄だった。通っ たのは誓願寺学校、岡田学校、育英学校、川勝学校。転校理由は引 越し、本人が嫌った、月謝が高い、教え方が悪いなど。 小学校時代の嬉しい思い出は、運動会の時、メリヤス製、藍色太い 段々染の運動シャツを買ってもらったこと。当時は学校で式がある と、四年生以上に祝詞を読ませたが、四年になって、天長節の祝詞 を読まされたときも嬉しかった。 小学校時代の弁当箱は父の使い古しで、漆塗り三つ組の二つを持参 した。子ども用の小さな三つ組は買ってもらえなかった。祭りは、 揃いの浴衣に揃いの鉢巻だったが、鉢巻用の手拭いは、あり合わせ だったので身が引けた。通学帽は安物で引け目を感じ、被らないこ とが多かった。尋常四年で卒業。 【貧乏】 私の父は人にすすめられ花見酒を売った。荷車に菰冠りを三つ並べ、 内二つは空樽で、水で割った酒を売っても、売り方次第で酔客相手 によく売れたが、父の売り方は芳しくなく、家運挽回に苦慮するも 資金が尽き食い詰めた。 両親は、質入れの話や質物の持ち出しなど、生活苦を私の目から隠 そうとしたが、昨日着ていた父親の半天が、今朝は白い飯に変わっ ていたのを私は知っていた。家賃二円の、家の食い潰しは私一人だ けで、父は好きな酒も滅多に飲まず、一ヶ月の生活費は高々十七、 八円だったが、それさえも我が家には稼げなかったが、 南京米の等分に混ざったお米を、二十五銭ほど買って帰る途中、新 堀の橋の際に出ていた煮込み屋で、豚の臓物の、串刺しを味噌で煮 た一銭四本の「牛煮込み」を買い、片手にお米の風呂敷、片手に煮 込みを下げて帰る楽しさ。 真冬の夜など、両親がランプの下で懸命に仕事中、命じられ、買っ てきた焼き芋の風呂敷を広げ、湯気の立つのを親子で囲んで食べる 美味さ。 貧しくとも、生きていれば楽しみがあった。 隣人の鞄屋が、儲けて浅草老松町へ店を開いたが、その鞄屋を、両 親はとてもよい商売と考え、十三歳の春、私を奉公に遣ることに決 め、赤飯と尾頭つきで祝ってくれた。 膳に向かった私は、胸が一杯で祝いが喉を通らなかった。しかし奉 公ともなると親の膝下とは辛さが違い、半年あまりで鞄屋から逃げ 帰ったのが「はじまり」で、----、親も呆れ果て、奉公に出すのを 諦め、手伝わせることに決めた親の言葉は、足袋屋でも、俺のよう に貧乏人ばかりでなく長者議員になった人も。 親子三人で働いたが、残るものは何もなかった。 【日露戦争】 三年の歳月が経ち二十歳のとき 私の父は健康がすぐれず寝ている日々で、仕事は干し場が狭く能率 が上がらず、引越しを望んでも金がなく、我が家は窮乏の極にあっ た。雨の日、父が襤褸布団で寝ている枕元で母と二人、足袋を甲縫 いしている腑甲斐なさを悟り、明治三十六年ニ月、両国郵便局の集 配人を志願した。 試用初日は、草鞋の履き方を教えられ、鞄を抱えポストから郵便物 を集める仕事で、両国郵便局の収集区六区を、一日五、六回、一回 につき五十分、十七から二十五のポストをまわり、遅れると厳罰だ った。 本務がはじまって六日目に、私の脚は大根のように腫れ、下駄を履 いても感覚がなくなり、歩くと足の甲が下駄で踏みつけられたよう に痛んだ。 一月ほどで三等集配人を命じられ、日給三十銭の辞令。当時の物価 は理髪十ニ銭、湯銭三銭、花王石鹸六銭、安うどん二銭、草鞋三銭、 襤褸で作った草鞋六銭。集配は襤褸で作った草鞋を使い、晴天なら 十日ほど持った。 翌明治三十七年二月六日、宣戦の大詔を拝した。その前夜、宿直だ った私は仕事を済ませ、午前一時頃、布団を被りまどろんだところ、 全員、動員令の電報の配達を指示され、相手は世界一の強国、しっ かりしないと負けると言い合い、一晩中、駆け回った。 日露戦争の日本海海戦は、明治三十八年五月二十七日だが、大本営 からバルチック艦隊全滅の報があったのは二十九日の夕方で、新聞 全紙大の号外を手にして私は狂喜。その折の嬉しさ……有難さ……。 この号外は、惜しくも震災のときに焼いてしまった。 【銭湯】 私の幼い頃は、泣き虫、湯嫌い、気難し屋、蕎麦好き。 湯屋の敷居を跨ぐと泣き出し、湯上りの着物を着て外へ出るまで泣 き通すので、母は湯嫌いを治す呪禁だとして、浴槽のザクロ口へお 供えを上げた。 § § § 裏長屋に住んでいた頃の、私の楽しみは週に一度、夜業の後に、近 くの蛇骨湯で入浴することであった。場所柄、蛇骨湯の終業は遅く、 夜の一時頃、番頭が砂で流しを洗う時刻に入浴することもあった。 湯の帰りに夜店をうろつき、絵葉書を見るのも楽しみだった。日露 戦争当時、絵葉書が熱狂的に流行ったが、戦争記念絵葉書は発行直 後、右から左へプレミアム付きで売買され、絵葉書屋の夜店が至る 所に現われ、様々な絵葉書を白い封筒に入れ、福袋と称し、一袋一、 二銭で売っていた。大勢の人が押合いながら封筒を燈火に透かす、 なかに優秀品が入っている袋があったので、私もそれを当てようと、 湯の帰りに福袋を買い、封筒を破る一瞬が無上の楽しみであった。 § § § 商売をしていた頃の私は、起床後まもなく裁断屋へ出勤、裁断の手 筈を決め、工場と職方への割当を考え、朝食を済ませ、店に坐って 商いを監視しながら、絶えず仕入れと職方に応対、釦の数を計算、 製品を収納、工料と仕入れ代金を支払い、毎月発行する商報の帯封 を書き、それを三百六十五日繰り返していたが、夜業だけはやらぬ 事にしていた。 毎日、昏方になるのを待ちかねて、銭湯に出かけ、その湯に浸かっ ている間こそ開放される時であった。湯の帰り、大きな月が昇った 時なぞ、うっとり眺め、歌を考え、危うく自動車に挽かれそうにな ったり、立ち話なぞして遅く帰ると、留守に新製品が仕上がってい て、客が買いたいと願っても売り値がわからず、私の帰りを待ちわ びていたりして、湯に行ったとて道草も出来ず、始終商売に監禁さ れているようで、時にはしみじみ、商売が嫌になったこともあった。 商売をやめて二年余りになるが、長年の習慣が染み込んでいて、今 でも朝起きたときなど、重要なことを忘れているのではないかと案 じてしまい、落ち着いて習い事でもと思っても、なかなかそれが出 来なかった。 父の歌いでしよと我か枕辺に 新聞をもて子の己れを起す 斯う志て私はいまでは其の日其の日の時間を消すことに苦しんでいる。 いまの無聊の苦しさに比べると往時の寸暇も無くて苦しかつた事なぞ 何でも無い。否それはいま憶えば苦しみではなくつてそれは大きな楽みで あつたのだ楽みも大き過ぎると一寸苦しみと間違い易いそれを苦みと 思つたのは私の思ちがいであつたと今となつて悟つた。 |