随想 青い闇 −1−
13 Jun 2000
昨年の夏に亡くなった父は、その後一年近く、私の前に現われることはありません
でした。毎日のように遺影を眺めていますが、懐かしさも悲しみも欠いたまま、形だ
け手を合わせても喜ぶ父ではなく、宿泊する三度に二度は、仏壇の扉も閉めてしまい、
空気を入れ替え夜具を上げ下ろしする以外、訪れる用もない茶室で深夜、天井の闇を
眺めていましても、父の気配はありません。
春のお彼岸は旅行と重なり、帰国後もお墓参りを忘れていましたところ、娘の枕元
に「おじいちゃんが現われた!」
念のため夢の中身を確かめますと、自宅で療養中の父が、娘の手を借り靴を履く姿
が見えたとか。あわてて日取りを決め、母と娘と、留守中に墓参りを済ませていた妻
との四人で谷中へ出かけ、手鞠状の白菊を買い、お寺さんからお線香を受け取り、真
新しいお墓に向き合いましたところ、納めた遺骨がよみがえり、ようやく涙が込み上
げてきました。
このお寺には母の両親のお墓もあります。その隣りはナオちゃんとウメちゃんのお
地蔵様。母の兄と姉です。母の叔母お時さんのお墓は代赭色。お花とお線香の数が足
りない----。
一年前の、父が退院した丁度その日に母が倒れました。その数日前、ファミリーレ
ストランで右によろめいたのが最初です。翌朝、事務所の入り口でも右によろめき、
その場で病院へ直行、当日外来の内科で受診、問診では異常なしでしたが、一人では
歩けないほどふらつくので、脳神経外科にまわされ検査と受診、診察が終わったのは
午後も四時、その間、ひたすら待ちましたので食事抜き。
五日ほど飲み続けたアレルギーの薬が、高年のため、排出されず蓄積されたのが原
因として疑われました。様子を見ることになり、調剤の処方もなくひとまず帰宅。安
心した数日後、家人の目の前で母は倒れ、頭を打ったとの電話に出勤を中止、あるお
医者さまのご紹介で耳鼻科を受診、お薬をいただき、一週間後、眼科の検査と診察、
耳鼻科で再診、その場で神経内科にまわされ診察とお薬。さらに一週間後、すいてい
る別の病院の検査を予約、検査翌日、結果の写しを持参して神経内科で再診。その間
「麻痺は中枢ではない、きわめて稀な偶然だが、末梢の変調が重なったもの」という
言葉にすがっていましたが、お薬の効き目でしょうか、ふらつきも麻痺もみるみる薄
れ、今朝は事務所に出勤できるまでに回復、しかしこの折、母の思慮は、生涯で八回
目の引越しを済ませていました。
16 Jun 2000
問診中に「怖い」と漏らした母の想いは、仕事と日本画にあります。ある科で受診
した折、母が「まだ働いているのです」と言いますと、中年の医師が説教じみた口調
で「お歳相応の生活があります」
十数年前に、面識も利害もなく、住む土地も違う相手から、シキルという陰口が出
たことを最近知らされ、その主婦がどのような経緯で母を知ったのか驚いています。
確かに政(まつりごと)や経営管理に、口を出し続ける高年者は問題にされますが、母
は生涯技術一筋、職人として働き続けるのであり、技術については、仕切ろうと仕切
りを外そうと、学習と創意と、熟練と感覚に裏打ちされた「自己主張」を抑えるとす
ればそのほうが不自然です。矜持(きょうじ)とは、気の持ちようで浮き沈みする脆弱
さとは無縁でしょう。
四半世紀間、二人だけで暮らしてきた母は父の死後、限られた選択肢から「これか
ら」を選ばなければなりません。その母と私の家庭は、日ごろ顔を合わせていまして
も三十年も別でしたので、仕事から離れた母の気持ちを見抜く訓練が欠けていました。
母は、マスコミで流される芸能の噂話も、我が身に対するのと同じ軌範で接していま
す。人権や公正さの、今日的感覚とは溝がありますが、目に入り、耳で聞く日常のあ
れこれを直截(ちょくせつ)感受、怠惰や無為とは相容れない生活を送っています。そ
の母の気持ちがわからず、ぎこちない言葉に合わせ、あやすように話してしまった折
は、笑って聞き流してくれますが、あとで済まない気持ちになります。
22 Jun 2000
母が倒れてからは二人の城は廃墟そのもの、着替えだけかき集め、我が家に移った
その日のままに、埃が薄く積もってきました。来月は新盆ですので放っておく訳には
行きません。先週末、母と一緒に立ち寄った折、廊下に父が現われました。風呂場の
介護用椅子にも、裸で腰掛けている父の姿を目にしました。お盆に関係なく、父はこ
の家に住んでいました。母を別所に移すことは、父に対して申し訳が立ちません。し
かし、いつ倒れるかわからない今の母に、この地での一人暮らしは無理でしょう。今
時、住込みのお手伝いはおいそれとは見当たりません。住込み条件で、家事の手伝い
を「派遣」に頼めば、管理職の年俸ほどもかかってしまい、現実味はありません(立
ちあがり直後でも、公的仕組みに、役職上の特権を行使できる者、あるいは業界内で
当然の権利に通じた者から、自助で賄える負担までつけまわす事例や助言が聞こえて
来ました)。
老いた親を子に従えさせ、幸福でいられるでしょうか。平気でいられるとしまたし
ら、その子の資質や感度が仕合せなのであって、呼び寄せられる老父や、転居させら
れる老母は、簡単には満たされますまい。生身の子の手前勝手な情愛よりも、行き倒
れても、霊と一緒に住まう方が幸福ではありますまいか。追憶と一緒の孤独と、違和
と一緒の気兼ねのどちらがよいか。遺された伴侶とその子の家族が、気持ちが通じ合
う間柄であればあるほど、これからを考える場合、双方は重い選択を課せられます。
27 Jun 2000
位置の認識が欠かせません。
PHSの端末の、在り処(ありか)をFAXやInternetで検索できるのですね。誤差はあり
ますが、居場所を検索したり追跡するのに役立ちます。弊害もあるのでしょう。使い
方次第ですね---と、Windowsの練習を始めた義父に話しましたところ、徘徊する高年
者を介護したことのある義母も、モニターの地図に見入っていました。
樹木には年輪があります。しかし年輪を認識している中年者や若年者は多くはなさ
そうです。樹木をご覧になりますか。倒木や切り株ではなく、庭や街路に植わってい
る樹木のことです。その折、想念や思索に、年輪の一筋一筋が現われていますか。
半世紀で高木になる樹木もあり、一世紀経っても生長の遅い樹木もありますが、高
木も低木も年輪の数は同じです。年輪の境は見えなくても、経過した年月は、必ず幹
に刻まれています。位置とは、樹木の拠る平面や空間ではなく、樹木に刻まれている
経験や判断の座標、年齢の位相を指しています。この場合、検索の主客が入れ替わっ
ていることに、中年者や若年者は、気づいていないのではありますまいか。
01 Jul 2000
母の引越しは八回目、と書きましたが違っているようなので数えなおしてみます。
母は神田で生まれました。関東大震災に遭い、店が(祖父の問屋が)焼けた時は、
祖父の母の実家(埼玉県)で寝起き、暫くして神田の仮店舗に戻り、店を建てなおした
時は、祖母の実家(浅草)の親戚を間借り、それから本建築の店に戻っています。
父と結婚後、二人は、祖父の母の晩年の住まい(大森)で新婚生活、次いで市川市真
間に疎開、戦火が激しくなってからは、予約していた病院(築地)での出産(第二子)を
あきらめ、長子(一歳)を連れ、母は父の実家(静岡県)に引越しました。
父は真間に残り、海軍に出入りする鉄鋼会社(銀座)に通っていましたので、母の出
産はずいぶん心細かったと思います。姉兄の多かった父の実家は手狭でしたので、出
産後、母は父の実家の遠縁の農家を間借り、そこで母と乳飲み子は栄養失調になり、
回復が危ぶまれましたが、二度の大空襲で、勤務先の事務所と、祖父の店が焼け落ち
たのを見届けた父が、真間を引き払い、母の住まいへ移ってからは、母も乳飲み子も、
飢えを凌ぐことができました。
敗戦後、一家は祖父の疎開先(市川市菅野)に引き上げ、親子四人は六畳一間。父は
その地から神田に通い、病床の祖父に代わり店を再興、神田の店に、祖父の一家(祖
父母と母の弟妹)を戻しました。
祖父の死後、大学を卒業した義弟と義母に、麹町の居宅と事業資金を提供するため、
父は菅野の住まいを売却、この時は、売ると決めた翌々日に引越しましたので、慌し
さのあまり、祖父の形見も二束三文で処分しています。
私の独立後、父は母に「二人の城」を建てました。その場所は母の父の母、私の曾
祖母の縁(ゆかり)の地です。
父が亡くなった今、母は「二人の城」から去ることに決め、回復後も我が家で寝起
き、我が家が狭くなりましたので、近くの、買い物に便利で、開発後二十年あまりの
マンション街に部屋を求め、二箇所の住まいを使い分ける予定です。
04 Jul 2000
草原に朝の食卓メーリングリストは現在、管理人がInternet上の広報を抜粋してご
紹介するだけで、参加者の声は忘れた頃にチラホラの状態ですが、久しぶりに発言が
行き交った折の、管理人の投稿を手直ししてご紹介します。
母は80歳、叔母は75歳、心臓と目を手術した叔父は81歳。
先日、母が神田の住まいを訪れましたところ、叔母は不在で、叔父が震える手で、
母の手を握ったまま放さなかったそうです。
叔母は、西に寡婦の一人暮らしがあればとんで行き、東にも一人暮らしがあれば
出かけて行き、老いて一人の、筆舌に尽くしがたい寂寥を慰め、というのは美談
ではなく、下町江戸っ子の、じっとしてはいられない性格は母も同じ。
やせ我慢なのでしょう、下町江戸っ子は高年になっても孤独同士、本音を交わし
ながら慰め合い。
すごいですよ、下町江戸っ子の生命力。例えば過年度、勤労者美術展で知事賞を
獲得した叔母さんの言葉がそれです。皆さんが抱いている75歳の印象と比べて下
さい。
姉さんはみんないいとこ、持ってったんだから、義兄(にい)さんが返ってくるで
なし、応募なさいよ、姉さんなら大丈夫! 私が手続き、済ませておくから。
えっ! 姉さん、移るの? 今の家、どうするの? 今度はどこ? 新しい部屋、
見せて!
紳士服の注文、今でもあるのよ。馴染みのお客さん、まだ来るの。
江戸っ子らしい会話の続き----
あのとき義兄(にい)さんはわたし(叔母)と一緒になり、
○チャン(私の兄)はかあさん(母の母)が引き取り、
△ちゃん(ハイハイしていた私)はわたしが育てることになってたのよ。
昔、母が危ぶまれたときの、枕元での祖母の会話を、父の49日の席で、母と私は
知らされました。
よく考えますとこの会話、相当深刻な内容です。幼いまま長男と長女に死なれて
しまった祖母は、重い症状を、すぐ死に結びつける傾向があり、また戦後の混乱
期、叔母はまだ一人でしたので、孫のこれからを考えた祖母の、あたりを憚らな
い即断でした。
神田の商家住まいは、窓を開ければ隣り窓で、生活の様子はお互い筒抜けのため、
世間を憚っては暮らせなかったのでしょう。
本音で生活!
見栄や世間体を気にするつきあいには、息が詰まってしまいます。あたり憚らず、
何でも言えるような生活の方が、介護にも、晩年の孤独にも便利かも?
上の発言をご紹介した理由は、個々の多様性と、個内部の多面性にあります。病院
でも部屋探しでも「親思い」とか「子育てがうまかった」の言葉に出合いますが、現
実の色彩は違っています。中一の時から自立するまで、我が家には世間並みの家庭は
ありませんでした。新卒の時、就職した私の気持ちは「転職」でした。その後、父の
発病までは、盆暮れの挨拶以外、私の家族と両親のつき合いはありませんでした。
父母に対する私の想いは、対象の認識は違っていても、戦友という言葉に尽きてい
ます。母は80歳になっても、なお戦い続けなければなりません。そこには、親を思う
心や、子育ての巧拙は立ち入れません。
叔母と母はこの秋、日本画の姉妹展を準備(昨年の師走、二人に持ちかけ、神田の
老舗の額縁店で、画廊を借りる手配済み)母が倒れなければ、予約した日程で開ける
筈でしたが、今は新作の進み具合を、はらはらしながら見守っています。
06 Jul 2000
多様性および多面性を認識するには「外側」を観察するのが手っ取り早いです。
母の職人生活はいつから始まったのでしょう。祖父の自伝を読み、私は曾祖母の重
みを知りました。曾祖母がいなかったら、曾祖父の足袋屋は食っては行けなかったで
しょう。基盤が固まる前の祖父の店でも、祖母(結婚前は日銀勤務)は身を粉にして
働いたそうです。
昭和三十年代中頃、父は縫製工場を建設、その資金を捻出した折、本縫いも二本針
も、ロックも環縫いも、穴かがりもハンドアイロンもプレス機も使いこなし、コツも
癖も会得した母がラインを組み、ミシン商(機械に精通していた個人)にミシンを発
注、地方から集めた中卒を一から教育、昭和26年新入社の裁断士(工場長)を手足に、
自分でデザインした衣料を、自分で起こした型紙で製品化、育て上げた班長や職長に
技術と工夫を提示、デザイナーという言葉は、名乗ったことも呼ばれたこともありま
せんが、素材や副資材を、大手や専門の商社相手に買い付ける日常でも、漬物の糠を、
お手伝い任せにはしませんでした。私の言う職人とは、このような仕事振りを指して
います。
母のデザインは重衣料の全分野におよび、最盛期は一シーズン、原型だけで数十マ
ークに達しています。以前は、二人の城に付随した鉄筋の建物を、占拠するほど原型
がありましたが、今は整理、基本中の基本だけが、母の手元に残っています。
当時は今よりも寒かったのでしょう、防寒のカジュアルコートがよく売れました。
ボア付やダッフルやPコートを、新宿の、紳士服専門店チェーンの仕入部長が、店三
階の倉庫に上がり込み、かき集めて行ったのを高校生の私も見ています。
我が国の少なからずの主婦と同じで、母もはじめは「外側」にありました。今もそ
うかも知れません。
養子の父が苦境に立った折、引き継いで欲しいと頼まれていた手編み教室を断念、
管理や事務の「奥様」ではなく、尖兵としてモノ作りに従事、する状況は異色でした
が、母はどのような時でも「外側」の機会を、無為に送ることはなかったと思います。
戦後のある日、祖母が佐次郎さんを追い返さなければ、母は長唄の世界で、職人とし
ての頭角を現わしていたでしょう。
07 Jul 2000
やはり昔、母は関西方面の紡績大手を訪問したことがあります。本社ビルに入りま
すと、担当営業と直属上司が応対、商談を済ませ、早く帰りたかった母に「お食事を
ご一緒に」の誘いが入り、出かけましたのは老舗の鰻重、を接待時に食べられるほど
母は健啖ではありませんが、驚かされたのは蒲焼の数ではなく、膨れ上がった随行員
の数。当時の「内側」では珍しくない接待でも、「外側」からは考えられない出来事
でした。
私は高卒時、卒業式の予行に、出席しないで帰ってしまったことがあります。店の
手伝いと結石を抱えていましたので、受験勉強に溶け込めず、英語など暗記の成績が
中学程度では、男女各一人の、クラス総代に選ばれたことが恥ずかしく、担任に「自
分には資格がない」と告げ、帰ってしまったのです。担任から長々と電話が入り、謝
るのに困った話を、父の死後に知らされました。
二人の子を抱えながら、大阪にも四国にも出かけた母が、「内側」の生産性に疑問
を感じない筈はありませんが、母の言葉には往々「あきれた」などの結語がなく、本
意を理解するのに迷います。
母の意を汲んで、サイトで公開した随想の、紙での出版を手配した折、全国の書店
流通を前提に、ある編集者から「------筆致にはたしかに『文学』の匂いを読者は感
じると思うんですよ。つまり『影の主人公』はこの語り手自身だということがわかり
ます。私がこの原稿に惹かれたのもそこです。こんなことを言うと面食らわれるかも
しれませんが、-----「私小説」作家としての資質を感じます-----」というメールを
いただき「私小説とはこのようなものか」と勉強させられました。私は「誤字の訂正
も、無知の隠蔽も、見出しの挿入も、書いた本人以外、原稿に手を加えるのはまかり
ならぬ」方針ですので、商業出版はあきらめましたが、人生は殺風景ではないらしい、
ではどこまで多彩か、もっと過去を押し出してみようと思っています。粉飾や歪曲は
施しますが、私に私小説は書けません。
5月22日から始まった母の診察は、1つの科から2つへと進み、3と4の科を交互
に受診、その間、すぐには予約がとれないため、提携病院で二回検査、ようやく一昨
日、3、4科の診療が終わり、再び2つ目の科を予約しました。
大量に患者を呼び入れるため、忙しすぎるのでしょう、科によっては受付の応対が
よくありません。患者の弱みに対し、「内側」の横柄が顔を覗かせています。近年、
私が利用するお役所は、窓口の応対がよくなりましたが、好対照に、科によってはこ
の病院、年老いた患者の心労が嵩みます。
先の水曜の話です。午前に一つの科を受診、午後に一時間の検査、ついでもう一つ
の科を受診、五時近く、先生から「私の科の診療は終わりました。2つ目の科の窓口
で予約をとって下さい」
外来患者は消え、出入りの営業も帰ってしまった窓口で、受付は
「新しい予約は、下で予約票をもらって下さい」
階下に降りますと
「予約票の受付は終わりました。会計で発行してもらえます」
会計を済ませますと
「その科は直接窓口に行かないと予約票はもらえません」
再びその科に行きますと、我々の姿を認めた受付は奥に入ってしまいました。
待っても現われませんので声をかけますと
「予約は二ヶ月先まで一杯です」と応じ、畳みかけて
「担当の先生は誰ですか。名前がわからなければ予約できません」
「階下では、受診した科と先生のお名前を調べてくれました。
こちらでもお分かりでしょう」
「名前は調べられません。予約が必要なら前の科から連絡がある筈です。
連絡はありませんでした」
「前の科に問い合わせて下さい」と頼みますと
「この時間ですから、受付はいないと思います」
揉め事を察知したのでしょう、看護婦さんが二人、来てくれましたが、口を出しか
ねていましたので、少し強い調子で「済みませんが、前の科に電話して下さい」
暫く電話でやり合っていました。その内容はどちらも「相手が手続きする」という
押し問答に、母の気持ちを思い、今日は帰って、改めて出直そうとしましたところ、
別の電話に出た看護婦さんが、前の科の先生から電話が入ったと告げ、受付同士の電
話は中断、先生の電話に対し、この科の受付は「すみません、すぐに予約票を発行し
ます」と謝って、コンピュータの画面を引き出しますと、今月下旬に、まだ空き時間
が数ヶ所ありました。
「では会計に予約票を受け取りに行きます」には
「ここで予約票を発行します」
この受付には、不親切だけでなく嘘もありました。先生と看護婦さんには、心から
感謝していますが、入り口の敷居には、強い疑問を感じています(父の発病時、ML
内でこの病院のよさをご紹介しましたので、今回のことは、書かないで済ますことは
できません)。
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