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随想 青い闇 −4−
21 Dec 2000
この随想に副題を設けました。 「IT時代の終焉! 演出の泡がしぼむ時」
ホームページの見出しにはさらに「ようやく千年前に戻れます。」
※
折角訪れても、閉鎖されている個人サイトがあります。期待して訪れても、個人の
見えない個人サイトもあります。折角の「媒体」がもったいないです。
媒体が寡占から解き放たれたのですから、既存の権益を頼りに存続していた組織や
団体は死活問題でしょう。当然、試行錯誤や独創が飛び交い、媒体の新たな覇者も現
われます。しかし
過去の紙の随想を、電子化してモニターで読んでもらっても、私自身はあまり嬉し
くありません。年齢や境遇が変わったとき、改めて読んで欲しいと願い、拾い読み大
いに結構、音楽とのナガラ読みさらに歓迎と念じていた手前、皆さんの本棚で埃との
同居が正統と思い、自分の随想にモニターの介入は微苦笑。
パソコンなしでは書く気になれません。書くことから派生したウェッブ・サイトは
資料庫として欠かせません。ここまでは「大それた言葉」は要りませんでした。既成
媒体を無視して表現を告知するとき、はじめて、ITが必要になりました。
22 Dec 2000
蜘蛛の巣のように張り巡らされたのは、情報ではなく網であり、内容ではなく手段
です。私には媒体を経由して流される情報の、中身の革新性がわかりません。媒体の
担い手が個人まで達したのですから(個人も事業者と同じ次元で告知できますから)
モノにも情報にも、熾烈な販売競争が生まれます。技術者には千載一遇の好機ですが、
今までの媒体事業者は既得権益を脅かされ、経済的不遇に連なる場合も少なくないと
思います。激動の時代です。しかし、媒体の最大の利用客、つまり起業に無縁な一般
個人は、新たな媒体が整備された後も、電気料、水道料、ガス代等に加え、接続費用
やパソコン代を支払う以外、革新に値する果実は得られないのではありますまいか。
テレビ時代の幕開けに吸い寄せられたあの興趣を、IT時代の今日、味わっている個
人は何人いるのでしょう。
25 Dec 2000
都の、粗大ゴミの一つに出かけてきました。貸し切り状態も、今までは不相応程度
にしか思われず楽しんできましたが、駐車料金自動精算機の、駐車券挿入口のロック
には、解除忘れとはいえ時刻が時刻、呆れを通り越して悲哀さえ。
鑑賞中、広い空間を占拠していたある展示物に、近年、現代美術館で経験する感想
が再び頭をもたげました。陳列物が、エンジン搭載の単なる乗り物と想定されたこと、
試運転の説明文から、脳裏に轟音が響いたこと、程度では鈍感ですから何も感じませ
ん。問題は言葉にあります。この作品だけではありません。権威筋が先端と定義する
美術を観ていますと、言葉の世界に引き戻され、辟易させられる場合があるのです。
説明文がなかったとしましても、観照の歓びではなく、耳慣れてしまった筋書き(言
葉)や、聞き旧した概念(言葉)が浮かんでしまい、劇映画の新作や、先端技術の企
業広報館や、百貨店の陶磁器売り場や、専門店の店内装飾を、眺めていた方が楽しい
作品がありました。
企画展の入場料「千円」は安くはありません。刻一刻、その価値は高まります。数
ヶ月ためて、温泉に行くべきでした。
評価を後世に待つ現代美術も、作家所蔵ならITの時代、個人で告知、無料で公開、
その反応を以って、集金の是非を判断して欲しいです。大広間を要する実験作は、作
者一人ではなかなか公開できないでしょう。ならば一層、音も文字も色も、国や自治
体をアテにせず、後援者を募り、個人や企業の負担で公開して欲しいです。現代を標
榜できる表現者であれば、公の懐具合もご存知でしょう。
観念的哲学的思想的先端美術、というものがあるとしましても私には定義できませ
んが、その種の作品は音楽と違い人気先行は難しい? ならば公的美術館はもう一種
の現代美術、例えば先端表裏の漫画、例えば商業デザイン技法の歴史、例えば世界中
のクリスマス装飾を、その制作過程まで踏みこんで展示してもらえば、休日お昼のレ
ストランが、最初は茶蕎麦の我々だけ、ついで若い男女は焼肉ランチ、鞄を抱えた役
員風はビール中瓶にハンバーグ・ライスで他は空席の惨状も、一時凌ぎですが、回避
できると思います。
この美術館、当事者が自腹で維持するのであれば即刻----。
先端美術は、今世紀の惰性も、追い越して欲しいです。
26 Dec 2000
集金の商用車で平塚に出かけ、新興の小売屋さんを仰ぎ見たのは四十数年前、中学
生の頃でした。この小売屋さんのチェーンは、バブル経済の絶頂期、すでにうら荒れ
た印象でしたが、やはり新世紀まで持ちませんでした。結婚直後は懐かしさから、食
品売り場を利用しましたが、半世紀前には視野から消えた、その唯一の理由は、魅力
を感じなかったからです。
石油危機でも「失速」は想定できませんでした。新入社から数年間は、予算編成期
になりますと需要予測を担当、関連市場を日々克明に点検、経済指標も仕事として掌
握、戦後から当時までの統計も承知、その経験から、社会に何が起きても、名目だけ
は上昇に復帰すると観念、バブル経済崩壊後も、我が身の不安とは関係なく、社会は
必ず成長に転じ、取り残された私も年金生活に入り、うらぶれたまま消えていくと読
んでいたその確信が崩れています。
経済の「棄負加の分離」と賭博化は、今世紀末も是正の萌芽さえ見えません。複写
労働が結果する配分の歪みも、再配分は、必要の認識さえ失われました。
お正月は、新聞受が壊れないことを願っています。膨大な印刷物を、目も通さずに
捨てるのは罪悪感を伴いますが、新聞社に忠義立てして読む気にもなれません。新年
に、資源ゴミに出すのは購読者の勤めでしたが、省資源の負担が心持ち軽くなります
ので、来世紀、購読はやめようと思っています。新聞の購読料は安くはないので、私
一人なら今すぐやめます。ITがITでなくなる日、若者の職種がまた一つ、危うく
なります。
物心つく頃から、公園の自然美を欲してきました。しかし公園の面積の論調に、報
道は、首尾一貫した役割を担っていたとは思えません。通学路の安全についても同じ
です。
中学時代、住まい(繊維問屋)の近くに古着商が残っていました。和服は古着が市
場を成していました。現在、私の周囲でも、お洒落に古着が欠かせません。古着が市
場として復活しました。古着は安いですが、今、流通している古着は駄物とは一致し
ません。駄物は古着になる前に朽ちてしまうか、駄物は新古品でも、再販に耐えない
のでしょう。
民放の番組を駄物と思っている視聴者は多くはありますまい。しかし無償と思って
いる視聴者は少なくないと思います。そのような視聴者でも、番組の制作と放映に要
する費用は広告主が負担、商品価格に含め回収している、程度の観念はあると思いま
す。広告抜きでは商いになりますまい。その広告の媒体に、寡占の拘束が外れ、しか
も最安値は無償、最高値でも訴求効果を測定できる方法で出稿可能な場合、質は高低
さまざまですが、古着とは一味違った「安直な市場」が現われます。
今世紀までは、媒体の権威が視聴者を画一的に引き寄せましたが、新世紀は、情報
の中身の優劣と特質が、無償で、細分化された視聴者を引き寄せ広告主を獲得できま
す。媒体に載せる情報の制作過程で、激しい競争が生まれます。
媒体の受け手から見れば、この競争は「無償の市場」の誕生に映ります。本職と素
人の別なく表現欲は万人に共通しますから、氾濫する作品を前にして切り売りすれば、
視聴者に相手にされなくなると思います。現在は、個人サイトの成功が、寡占媒体に
採用される手段に留まっていますが、ITの二文字が色あせる頃には、栄枯盛衰は世
の習い、既存の寡占媒体は、その機能の優位に特化、採算性の低下により、権威も低
下すると思います。
駄物は「安直な市場」でも相手にされません。同時にアクセスの多少を以って、劇
画表現サイトと歴史学研サイトの優劣を評することもできません。
世代間の配分格差が、深刻にならねばよいと願っています。子育てが終わった段階
で、年金の支給額が減額されても、子の子育てや、孫の子育てがよくなるなら仕方な
いと思っています。大して楽ではありませんが、子らの、子としての生活に対して、
魅力を感じてしまうからです。
税負担が増すため、二十万円の購買力が十五万円に下がったとしても、色や音や文
字の値段が、二十万円相当額を引き摺るようなら、世代間の経済的公正は保てません。
色や文や音を表現するとは、極めて個人的な営みですが、媒体を(社会を)経由しな
ければ、表現を感受することもできません。ITは媒体も表現者の懐に委ねています。
表現者の自助と競争が厳しさを増せば、「安直な市場」の形成も進むでしょう。
27 Dec 2000
ふぅ〜、西洋菓子を食べるのに疲れました。「予約制だからクリスマス・ケーキは
余らないよ」と本人が自己負担で購入、する前に家人の友人の息子さんが、勤務先飲
食店チェーンの親会社から割り当てられたアイスクリーム・ケーキを購入、するさら
に前、この団地に入居以来、子らもご近所同士のお付き合いで、夜分は灯台代わりの
食品店で予約したクリスマス・ケーキが正統派、ようやく食べ尽くし、ホッと一息の
夕食後、バイトから戻った娘の手にクリスマス・ケーキの化粧箱。「賞味期限が切れ
るので、今夜、食べてしまって下さい」
28 Dec 2000
ふたたび昔の話です。新規事業の準備段階で、通信販売の効率を調べたことがあり
ます。当時は実務情報に不自由せず、新聞折込、郵便、雑誌広告、新聞広告、テレビ
広告など、媒体社や代理店の制作場面まで立ち入って資料を集めましたところ、無論、
数十年も昔の話ですから、今は事情が違って当然ですが、中間を排除した直販は、安
くなるのではなく高くなることがある、という逆説が結論でした。
広告の効率如何、と言ってしまえばそれまでですが、その効率を高めるための「撒
き餌」の費用が嵩みすぎて、浮かせた中間費用を食いつぶしても、当該商品の広告費
に脚が出てしまい、あるいは、一般に素材や製造枠は先押さえの必要上、受注発注は
通販主体の綺麗ごとで、納入業者を泣かせてしまい、やがては通販の事業そのものが
危うくなる----。
夢のような話ですが、ヒットが続かないと、通販も「謳い文句」通りには行かない
ことに気づき、その頃から新規の標的を販売技術からモノへと変えた、その柔軟性に
随いて行くのは、最高決定者を除きますと、保身の必要な上級管理職や、受け身の中
高年雇用者には難しいと思います。
通販の決め手の一つは「自社専用の良質な顧客名簿」です。しかしその顧客名簿を
集め、質を高める費用と方法が簡単には行きません。通販広告を、顧客名簿構築の先
行投資と割り切れる会社は多くはありますまい。この辺りから、IT時代の商いとも
無縁ではなくなります。引きつける、押し出す、に次いで、受け手の検索に耐える網
と、受け手の能動性に応える制作が必要になります。
特に、専業主婦や学生の皆さんにお願いしたいことがあります。消費生活も「分業
と協働の賜物」という認識を忘れないで欲しいのです。その程度のことはあたり前と
思われるかも知れませんが----
途上国の、低年齢労働に依存する貿易の報道が記憶にあります。非人間的労働に基
づく生産を知った場合、その商品を気持ちよく購入するのは難しいです。自由競争以
前の問題として、高度産業化の恵みは、なにも消費者だけでなく、生産と流通の全段
階で、公正に享受できるのが道理です。報道をにぎわす特定の企業、特定の財貨、特
定の販売技術も、その成功が、製造や流通に過度の負担を強いるなら、経済的には称
えられましても、人間的には疑問を呈して当然でしょう。過去の随想で触れたその種
の不満も今は昔、巨大小売業の破綻によって、大量の失業者が出ないことを願うだけ
ですが、随想を書き始めた当座は、配分の内訳も原材料同様、表示を義務化されれば、
生産から消費の全段階で、経済的公正が実現できると思っていました。情報の、技術
が開示と結びついて、なにか不都合はあるのでしょうか。
自分に関心のない個人や事業者の、売り込みの電子メールは迷惑です。では、新聞
に折り込まれるチラシは? 郵便や宅配便で届く売り込みの印刷物は? 省資源では、
電子メールより印刷物の方が問題です。売り込みの印刷物には、ないとつまらない、
届かないと寂しい、などのほかに、知ることができる、楽しい、勉強になる、などの
効用もありますが、それは「待ち」から「検索」へと、演出の受け手から表現の送り
手へと、生活の軸足を移すことで代替できます。同時に、やはりいくつかの職種には
痛手になります。
29 Dec 2000
藤娘は、お稽古をはじめた娘たちが最初の舞台で踊っていましたから、このお顔も
幼いですね。演じ始めの景から採った振りと衣裳でしょう。
浅草橋にはクリスマスやお正月の飾り、包装紙、造花のほかに文具も安く買えるお
店があります。馬喰町や横山町では、今も業者専門のお店が少なくありませんが、浅
草橋では遠慮は無用? 扱っているのが再販用の品ではなく、店舗用の装飾品や店舗
用の消耗品なので、誰が買ってもよいのでしょう。
お人形のお値段はわかりません。初節句のお人形や初正月の羽子板はお祝いですか
ら、安値を探しまわるのは憚られます。私は、お顔の気に入っている老舗に決めてい
ます。贈る場合は日を選びます。
雛人形も羽子板も、お母さまや奥さまやご自身のために揃えてはいかがですか。母
は戦争で店が焼けてから半世紀以上、どちらにも無縁でしたので、昨春と今年の師走
に、形だけですが、それぞれ飾れるようにしました。
30 Dec 2000
餅は餅屋ですから、問屋街が古里の一つであれば特典もありました。上代の守られ
ている銘柄で、普段は必要のない持ち物を、立場は素人でしたが、知らん顔して買い
ましたところ、確かな品物の割には安すぎました。新古品の疑問が湧き、最寄りの百
貨店で調べた結果、最新版と判り、土産代に余裕が生まれた----。
珍しく路面店チェーンで買った背広の衿が擦り切れ、大して着てないのに生地が柔
だったと損した気分。とはいえ着たきり雀、風邪ッ引きに間(あい)の背広はこたえま
すので早速買いに。
私を設計事務所の人間と思い込み「先生、先生」と呼んでいたご主人に、イトヘン
ですよと訂正しますと、応接革張りの椅子をすすめられ長話の準備完了、されては困
りますので早々に引き上げましたが、数年前に買ったジャケットの生地は流行りの素
材で英国製、のお値段一万五千円が、今も一万円で吊るしてありましたので、衝動で
柄違いをもう一点、に加え本命はお義理にも満足とは言えませんが、純毛のスーツ一
着が四桁のお値段でしたので、贅沢にはご遠慮願って裾直しをお願いしました。裾も
袖も、今や直しも背広商自らのお仕事で、なかには重衣料の営業見本も、手際よく縫
製できるご主人もおりますが、当地この種のご商売は少なからずが、小売店への掛売
り代金を回収できずに廃業もままならない----と見て外れはありますまい。
一芸をご披露しましょう。生地と仕立ては先ず先ずでした。問題は背広に触れた指
の感触です。うん! 七年もの! む! 十年もの! あっ! 十五年もの!
ファッション音痴の私には、デザインを見ても流行った時代を言い当てることがで
きません。ところが、棚卸資産はおいそれとクリーニングには出せませんので埃が溜
まる、その感触から、瓶に詰められた年月がわかるのです。紛れもない新品ですが、
当地で探り当てる私の衣服は、商品代、裾上げ代、消費税に加え、着る前からクリー
ニング代が必要です。
01 Jan 2001
椅子に腰掛けたまま転(うた)た寝している姿を目にしますと、演出の必要は少しも
感じません。色も音も文字も、鏡に見入りながら表わすことは困難でしょう。受け手
にも、表現者の姿は障碍に過ぎないのです。
世紀越えの風邪を経験しました。微熱は存在の証(あかし)です。
年賀状に、定年、および閑職の言葉を見出しました。改めて我が身の年齢を認識で
きます。同時に、何歳まで働けばよいのであろうかという、素朴な疑問が湧きました。
年齢を事由に職を解き、年齢を事由に断わる採用の、未だに合法とされる社会が不思
議でなりません。年金受給の齢までは働けて当然でしょう。解職の打撃は即座に現わ
れます。新世紀になりましても、状況変化への即応力は、前世紀にどっぷり浸かって
います。
雨らしい雨が降りません。乾燥が過ぎますと、山茶花の、咲き遅れた蕾が立ち枯れ
てしまいます。
02 Jan 2001
今年の元旦は珍しく家族が揃いましたが、会話は二の次で、窓に向って並んだ親子
の、カタカタカタカタ、軽機銃さながら打鍵している光景を、二十年前の私が見たら
胆を潰す。
場所がないので、一人はスツールに腰掛け、その脇で私が胡座をかき、さらに右に
一人となりますと、パソコンは上下に住み分け、配線は蛸足の混乱も、偏に通信回線
の展望の欠如。
私のノートパソコンは、備えつけの液晶が故障後、一度だけ修理、二度目の故障で
業を煮やし、液晶そのものに別れを告げ、電源を入れた後は蓋を閉じてしまい、普段
立ち寄る先々で、デスクトップ用のキーボードと、マウスと、CRTディスプレイを
拝借して使っていますが、やはり困るのは通信回線です。
パソコンは、無論、経済的制約は見過ごせませんが、家庭でも一人一台は是非欲し
いです。IBMでもコンパックでもNECでも富士通でも何でもいいです。ウィンド
ウズもマックも関係ありません。肝腎なのは
ノートのように持ち運び便利な高性能の本体(は昔に比較しますと安くなりました
が、もっと大幅に安く!)および、立ち寄る先々で拝借できる三点セット(キーボー
ドとマウスと、目の健康に配慮された格安のCRTディスプレイ)に加え、家庭でも
各部屋隈なく、高速の通信回線が配備されている世の中を望んでいます。本体もキー
ボードも通信回線も、より自由に生きるのに、欠かせない武器だからです。
確か「随想 中町にて」で触れた「大振りの手帳に記した徒労」の中に、テレビ番
組制作の、会社代表者と面談した記憶があります。寡占媒体への進出を企て、投資し
た結果が思わしくなく、今はこの会社も在りませんが、当時、教えてもらった営業活
動の、イトヘンの量販店商売との共通性が印象的でした。
03 Jan 2001
定番と売出枠を、前者は季節の変わり目に、後者は折々の行事に向け、どちらも下
請けが競い合う、定番の契約にしくじれば安定を欠き、売出枠の成約は売上増に繋が
りました。
業者は限られた枠を奪い合うのですから、品質本位は二の次で、過去に報道された
中でも、見せかけの二重価格、混率低位の素材訴求は日常茶飯事、それも「本部」主
導で文言を指図、発売前に値下げシールを有料支給、消費者本位も宣伝文句にすぎま
せんでした。
憶測ですが、業界通の報道人も消費者も、その「多く」は認めていたのかも知れま
せん。我々の社会では「少なからず」が要領よく生きている、という想いが当時から
あったのは、私自身、方便としてではなく、商売の工夫として随っていたからです。
一心同体だった訳ではありません。良心? いえ、その種の仕組みは疾うに家禽の
餌、清流の河床のように、染みの痕跡さえ見当たりません。表現欲が、仮想の現実感
に浸(ひた)るのを妨げたのです。
観る番組がない、というお正月の方もいらっしゃるでしょう。可能なら、海外旅行
に勇んで出かけました。描けるのでしたら、年中行事の煩わしさより日常の落着きの
中で、夢中になって描きます。紙面には、画面には、舞台には、現実と仮想の仕切り
が厳として存在します。上辺をいくら装っても、素肌と化粧の違いは感触や風合いが
教えてくれます。自らを仮想に誘(いざな)い、自適するのも結構ですが、それでは年
越しを百回重ねても、現実を歩く充実を引き寄せるのは難しい。
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