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  随想 青い闇  −6−

 23 Jan 2001

 窯元や工房を実際に訪ね、食生活を中心に据えた工芸品市場の調査と、特注品開発
の商談を進めたことがあります。調査対象は家庭・業務両市場の、工芸家から大企業
まで様々でした。訪問先は国内および欧米の産地と専門店。モスクワ経由で訪れたコ
ペンハーゲンがはじめての欧州でした。

 移動する機内は一人でしたので心細く、飛行機から降りた瞬間、食い入るようにし
て案内標識を注視、旅行鞄を押しながら、入国審査と税関の窓口を探しましたが、気
づいたときはタクシー乗り場。当時の欧州は都市によっては、自動小銃を構えた兵士
が空港ビルの屋上から監視、あるいは暗くなりますと、幌つきトラックから降ろされ
た武装兵が、繁華街の要所要所を固めていましたので、件の飛行場の不用心さに呆れ
てしまいました。

 漆器、陶磁器、ガラス器、銅器、鉄器、ステンレス、錫、琺瑯、七宝、貴金属、木、
竹など大概の素材は工程まで立ち入って調査、面談できた相手には、由緒ある伝統工
芸家や有名な作家も少なくありません。調理器も対象でしたので、料理研究家の指導
も受け、さらに化学工業の研究所や宇宙産業の関係会社も訪問、磁器や鍋の素材が先
端技術と結びつき、琺瑯が地下鉄の構内を装うなど視野も広がり、弁解の通じない新
規事業でしたが不安は覚えず、入れ込んで働いたように記憶しています。

 自然、我が家の食卓を飾る食器も見事----と思われるかもしれませんが、いわゆる
セトモノを除きますと、当時も今も、食器棚には欧州土産の珈琲碗皿一客と、国内ガ
ラス会社が試作したクリスタル製「ぐい飲み」の二点だけ。前者は安い民芸品、後者
は縁の歪んだ不良品。

 24 Jan 2001

 書くのも憚れるヘマで(宿帳に記入の際、姓→名欄に名→姓と署名したため、国際
部と欧州事務所で失踪騒ぎが持ちあがっていたなど夢にも知らず)一日遅れで落ち合
った駐在員は梳毛の外套でしたが、夜には雪の舞う陽気に、合いの背広は芯から冷え
ましたので、コペンハーゲンでの最初の仕事はお手洗いを借りること。

 商談相手が、鍵持参で案内してくれた手洗いは、事務所ビルの一角で、内装も居心
地も素晴らしかったです。一方、石造りの建物は、さながら煤(すす)の染みこんだ埠
頭の倉庫。

 駐在員には本業があり、援助を頼めたのは一部の都市に限られ、孤独を十分に堪能
できた当時の記憶も、今や建物内外の装飾格差と、オープンサンドに集約されます。

 建物装飾の内外格差はお金の問題です。格差が大きければ大きいほど、経済社会は
成長の証。内外とも煤けた状態では困りますし、内外ともケバケバしい装いには、社
会性の未熟を感じます。

 オープンサンドは別です。内装と外装に違いの余地はありません。しかし、現実の
社会では歓びの機会に格差があります。演出の泡がオープンサンドの歓びを包んでし
まいました。オープンサンドの歓びは一つですが(普遍ですが)、演出の外装が一つ
の歓びを退け、外装の競い合いが全面に現われてしまいました。確かに自己耽溺には
好都合ですが、誰もが陶酔を要求しますと(しないではいられませんが)、再び頂点
欲の亡霊が顔を出します。自由な競争には歓びの機会も(個人の自助による均等な機
会作りも)欠かせません。

 食卓のオープンサンドは囲むだけで豊かになれます。豊かさに華美を被せる演出は、
一握りと普遍の格差は、寡占媒体を通じ強調され続けて来ましたが、未来から振り返
りますと、寡占媒体に象徴される表現の力学は、時代に固有する観念形態に見えてし
まう?

 25 Jan 2001

 知りませんでした、名所もオープンサンドも。お花ではなく食べ物らしい。お菓子
ではなく惣菜らしい。小さなお店の平台に、隙間なく並べられた海老や卵やお野菜が、
パンを隠していましたので、昼食用のお数であろうと想像、しかし、陶磁器や調理器
を単身で調べていた私には、買い食いする場所がわかりませんでした。

 オープンサンドを食べなかったことを、残念には思いません。今でもご馳走に食指
が動かないのは、幼時の栄養失調の名残でしょうか。高校時代、九州出身の友人宅に
招かれた折、出された揚げ物の多さに肝を潰した、悪いとは思いましたが、手をつけ
る前に小皿に分けてもらい、その時はじめて、食べ盛りの意味を理解しました。

 近年、私にも健啖で勝てる分野があります。相手がふつうの会社員や主婦であれば、
朝の食欲は先ず負けません。珍味も贅沢も要りません。平凡でよいのです。

 食べなかったのに忘れられない理由は「平台」にあります。多分、食べたのでしょ
う。食に通じた駐在員が放っておく筈はなかったです。四半世紀を経過した今、デン
マークでもドイツでも、注文した料理の記憶はほんの僅か。オープンサンドの「平台」
を、春の盛りのお花畑に喩えますと、会社や社用や義務の学校の食卓は、淀んだ淵の
時雨のようです。

 食べに出かける楽しみよりも、はじめて知る歓びの方が大切です。お金なんて大嘘
です。少なくとも国内では、均等な機会は理念一つで組織できます。子であれば知る
当事者として、大人であれば感謝と信頼の受け手として。どちらの側も報酬は、晩年
まで色褪せない旅する歓び。

 31 Jan 2001

 一月が終わります。忙(せわ)しい日々、安らぎはどこに?

 インターネットの契約が「第一号かつ未だに最後尾」の公司がサイトを開く、その
所在する人口三万の郷長様と人口数千の村長様が来客を引き連れ公司を訪問、お客に
モニターを見せ村長様曰く「これがインターネット!」

 郷長様もお客様も信じられなかったそうです、画像が電話線一本で届くその訳が。
同様に公司事務所で執務する大卒全員も、インターネットのテレビ電話に現われる日
本人の、電話線一本で届く説明が信じられない!

 電話線は、引っ張れば千切れてしまうほど弱く見えます----試したところ、腕力で
は切れませんでした。日々無数にやり取りしている電子メールの添付ファイルも、作
業している村側の若者は実感として信じられない、その疑問がとても新鮮。

 会社案内や製品の写真は見飽きました。ほどほどにして、あとは村の紹介に徹しま
しょう。鈍感で無作法な我々はどうでもよく、村長や村人や果樹園や学校を載せ、村
人を事務所に招いて見てもらいます。きっと声を上げ、歓んでくれますよ。

 03 Feb 2001

 このウェッブ・サイトの表紙(ホームページ)が膨れてしまいましたので、草原に
朝の食卓MLの掲示板紹介に加筆したかった文を(掲示板への私の書き込みを編集し
た文を)ここに割り込ませます。

 ----「実はこのMLでもオフ会を! と管理人だけが勝手に考えておりますが、今
一つ気乗りしません。お酒を飲まないせいか『歓談』だけでは?マーク、なので『切
り口』を探しております。

 十日ほど前、ある掲示板に書きこんだ話題の反応がまったくゼロ、いえ、一件だけ
ありましたが「善意」とは思えず、掲示板の管理者に話題ごと削除をお願いしました
ところ、二時間後に了解した旨ご連絡がありました。そこで、皆さんの徒然のご発言
やホームページのご宣伝に加え、この掲示板で、ご先祖さまの降る里や古頃の古里も
探してみたいと思います。

 故ありまして、祖父母の浅草出身を知りましたのは父の晩年、つまりつい昨日今日
だったのですが、急に昔を知りたくなりました。近年入手した祖父の自伝の『下総國
高木村』や『川中島のお武家』のことも、さらには私の小学校時代の『菅野の三角公
園』の消息も是非知りたい。

 まあ、誰が見ているかわからない掲示板ですから、現住所に関する降る里や古里は
取り上げない方がよいのかも。

 皆さんもご先祖さまやご幼少の砌(みぎり)の探し物を探し出し、キーワードなどを
ご投稿されてはいかがです。

 加えて、その思い出なりを調べたり書き込んだりしますと、返事を得られず一人相
撲に終わりましても、ご本人には思わぬ収穫が得られるかも?

 私の場合『家』は関係ないです。大切なのは思い出だけ。例えばホンセキ。なんだ
ろう、アレ! よくわからないので、私は引越しのたびに住民票と一緒に移していま
す。家業も家、住まいも家、どうも家は不便です。

 一方、思い出は軽くて持ち運び便利、どこぞの国の作家は、お菓子一つで思い出の
金山を掘り当てました。膨大な文章で、とても読み通す自信はありませんが、中に私
の好きな絵を、あるいは自分の昔の影を、見ているような描写があります。

 浅草や御徒町の裏に入ってみますと、時に、これ以上つまらない場所がないと思え
るほど殺風景な路地を目にします。ですが祖父が遊び、祖父が子時代に働いていた場
所と知った一昨年から明治にワープ? その路地に、祖父の幻が見えるようになりま
した。

 私は祖父を、死の床にあった一度しか見た記憶がありません。養子で、寡黙だった
父はもとより、母も、父が死ぬまで祖父の話はしませんでした。ところが祖父の自伝
がきっかけで、二人にとっていかに祖父が大切だったかを知らされました。今では母
よりも詳しい『想い出』も生まれています。家? 関係ないです。

 古里探しは孫の歓び、それには先ず調べ、想い、描いてみること。」----

 均等な機会の組織作りも中国東北地方の村民紹介もご先祖さまの降る里や古頃の古
里探しも同じ次元、同じ気持ち、同じ感性、同じ選択、と言ったら呆れますでしょう。

 08 Feb 2001

 一週間、連載が途切れてしまいました。頭脳が古び、書いたことを思い出せません。

 連載は休日や早朝に粗書きしたものを、珈琲時間に投稿するのですが、百回要する
推敲の時間が生まれません。配信された文章に顔を赤らめ、転載するサイト版を直ち
に書き換え、翌朝、再度改め、一塊の文章が安定するのに数日はかかります。全文の
整合性と全文のリズムは、連載が終わるまで直せませんが、終わる頃には、推敲する
気持ちも萎えています。

 日々の想念の互いの齟齬と、整合性の崩れない一冊の書物では、どちらがより現実
的でしょうか。真は真、謬は謬なりに矛盾のない文章が溢れています。躓きの日常か
ら獲(え)られる束の間の歓びと、無矛盾を誇る偶像への帰依では、どちらがより野心
的でしょうか。

 走るのに気概や覚悟は要りません。繰り返しになりますが、都心を走るつもりはあ
りません。郊外でも、お昼や晩は走りません。

 定刻に目覚めます。住所が定まらないので狂いが生じる、その折は走る距離を削り
ます。起きられない朝は布団に逗留。普段の朝は脚が起床を催促。防寒衣料に着替え、
冷水で顔を洗い、丁寧に体をほぐしますと、暖房なしでも温(ぬく)もってきます。

 厳冬の闇を走り続る、その折は想念の世界で遊びます。曇った朝は体が軽い、その
折は風に乗って宙を翔(か)けます。

 偶像を求めず、自分を恃(たの)み、天下の土俵で、野心を育んで欲しいのです。こ
の意味、おわかりですか? 個人が感受する生活の場での願いです。

 09 Feb 2001

 新卒の頃、配属された部署で最上位の上司が、風呂敷包みを抱え、私を伴い、通行
人を威圧する看板の掛かった建物に入り、私なら十年出入りしても迷ってしまう部屋
に直行、ドアを押し開け、挨拶を傍聴した記憶があります。

 参謀の性格は同じでしたが、配属された部署には三通りの仕事が雑居、内一つの仕
事にこの折、私は失格したのだと思います。その後三通りの仕事は三部署に分かれ、
私の兼務していた二通りの仕事も一つは遠方に移転、どちらの規模も入社時とは比較
にならないど大きくなりましたが、最上位の上司の新たな部署は相変わらずでした。
因みに、新卒時に配属された部署の担当役員は、名目上、当時の全社の二番手でした
が、私が命じられた米国の研修旅行は、この役員の名代としてです。披露宴にお招き
できる相手ではありませんでしたが、結婚祝いは、ご出身を偲ばせる煙草盆でした。

 配属されて間もなく部内の会話から、最上位の上司の走る趣味を知りました。○さ
ん----と直属の上司も先輩も女性社員もサン付けで呼んでいましたが、○さんは走っ
ている。

 先輩と一緒にお宅に招かれた折も、○さんの身体(からだ)へのこだわりが過ぎたの
でしょう、会話にズレを感じましたが、走る話題でおかしかったのは我々の側です。
当時部内で流行っていた三種の遊戯、麻雀、競馬、コントラクト・プリッジは空気同
然でしたのに、走る趣味は、確かに傍観者の私にも奇矯に思えたのです。

 小学時代か中学時代のお正月に、一度は泊まりで一度は日帰りで、箱根に出かけた
記憶もあります。その折、海岸や山中で対向車線を走っている選手を見ましたが、私
が駅伝を認識したのは成人してから、テレビでマラソンや駅伝を観るようになったの
は結婚してからです。

 スキーは下手でも同一線上にあり、私も挑戦を夢見たことがあります。しかし不惑
の頃から始めた私の走りはマラソンや駅伝とは別物です。今は轍が違うことを知って
います。

 10 Feb 2001

 授業か行事かは忘れましたが、中学時代に千鳥ヶ淵を巡るランニングがありました。
短距離はマシですが、距離が延びますと心臓が口から飛び出すように苦しくなり、終
盤には後に続く生徒が見えなかったです。その時から、自分は決して長距離は走れな
いと思い込み、走り始めた不惑の頃は四百か八百を予定、立ち上がりは我が家東隣り
の児童公園一周から。人に見られるのが恥ずかしく早朝密かに。

 広くもない団地を一周するのに数年もかかりました。膝の痛みがひどく駅の階段を
上がれなかったり、足の甲が痛んで冷や汗を流したことも珍しくありません。そのつ
ど走れなくなるのを恐れました。

 今は二十キロは走れるでしょう。少しでも苦痛があるなら(膝や甲の痛みではなく
心臓が口から飛び出すような苦痛があるなら)一キロでも走るのはお断わりです。走
る場に苦痛を持ち込む「調練」を、小五までの屈辱の音楽同様、義務教育に持ち込む
のはやめて欲しいです。教育は、大人の苛虐趣味を満たす場でも、大人の欲求不満の
吐け口でも、大人の得意の玩具でもありません。一直線上の運動や一直線上の音楽は、
資質に優れ意欲ある頂点志向が自己の選択で挑戦すればよいのです。人との関係を除
いて、最高の歓びの二つまでが、義務教育の場で屈辱や苦痛だったことが残念でなり
ません。音楽の歓びは、中学の一教師が授業中に教えてくれました。走る歓びは、十
年以上費やして自分で学びました。

 歓びの方法を学べる授業が、理念として小学校や中学校にあるのでしょうか。義務
教育の週に一度でもよいですから、二、三の学科が、生涯の「最高」に導く助走にな
れるとよいですね。高校では? さあ----。

 11 Feb 2001

 お正月は仲間と一緒に、青山の公営住宅の級友宅で寝泊りする楽しみが高校から大
学まで続きました。その一日、近くの競技場に出かけ観戦した試合が、ラグビー好き
になったきっかけです。ボールが左右に蹴り込まれますと、観客の我々も左右に移動
して観戦するほど芝生席は空いていました。今はラグビーを観戦する気持ちが湧きま
せん。ラグビーに限らず運動種目の多くで、寡占媒体や主催者の演出が過ぎるように
思われます。一直線上の得意と熱狂を仰ぎ見るのに疲れてしまいました。

 旅を傍観するだけで満足できる人は仕合せです。お仕着せの旅で、人との関係に自
足できる人も幸運です。私は傍観だけで終わってしまう自分の生涯を悔やんでいます。
私と同じ気持ちの「子ら」が、同じ悔いを繰り返してしまう「機会のなさ」を、今の
生活様式をもっと悔やんでいます。未明の闇の静寂にも、演技する勝利者や熱狂する
傍観者には得られない歓びがあるのです。高校生の、あるいは同じ世代の、傍観の枷
は無用でしょう。

 22 Feb 2001

 母が起きられなくなりました。みるみる衰え私も傷悴、その折、解(と)けない縺れ
が杞憂だったことを知りました。母親は父親より身近な存在、それが一般的な親子で
はありますまいか。一方、私の母は、職業があったとはいえ在宅で、私が家業に戻っ
てからはお互い「空気」の筈が、食生活一つでさえ違っていましたので(父の死後、
違いに気づきました)再び母が倒れる先週までは、母の居場所に(母の深層の想いに)
確信が持てませんでした。母自身、状況や観念から自らに封じていながら、今では唯
一の解決である「空気」の流れに、棹さした理由がなくもなかった。

 家族関係を新たにするには、家族と家族に、幾重にも取り巻いている障碍を除かね
ばなりません。意図してできるかと問われますと否と答えます。ところが、最近まで
あり得なかった「空気」の流れが目の前にあったのです。もう棹は要りません。言葉
が要る間は、互いに「空気」にはなれないのです。

 今月初旬に体調が崩れ、持ち直しましたが次第に消耗、痛みが発症、不安から意気
を阻喪、心配から病院を先延ばし、起きられなくなったのが先週の水曜です。それで
も病院行きを拒んだのは、診断を仰ぐと「帰れなくなる」という恐怖から。

 昨年の発作時は私も怖れましたが、今は病院が安心の特効薬です。加えて今回、母
は、晩年になってからの自分の居場所も確信しました。

 木曜の午後七時、病院に電話で問い合わせ、着替えを揃え、翌朝、初めての科で受
診、診察と検査の終わった午後一時、痛みの治まった母と病院のレストランで昼食、
そこで別れ、母は私の家へ。

 長引きますが怖れる必要はありません。昨年に倒れたときは、父の一周忌前と初め
ての同居が重なり、関係する誰にも懸案が山積みでしたが、今は言葉は要りません。

 26 Feb 2001

 話を長期計画に進めます。予測と計画の違いは問題になりません。原料手当や設備
投資とも関係ありません。十年? 少なくとも百年は必要でしょう。

 ごくごく自然な生き方に長期計画が認められますと、自他ともに御しやすい、ある
いは御され易い。

 歯がゆいことがいくつかあります。その一つが文書の遣り取り。若い頃から会議が
苦手でしたが、こらえ性がなくなった今は一対一の遣り取りも苦痛、文書は文書だけ
で済ませたいです。

 電子メールの、本文はあってもなくてもどうでもよく、随喜の涙を流したのは「添
付ファイル」と、暗号化ソフトを試して知った「個人相互でも認証可能」に対して。
半世紀も我慢してきた「対面や郵送による文書の遣り取り」が一瞬で陳腐化したので
すから、その解放感は言葉では表わせません。

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