
はじめに
この随想はインターネット上の「散歩者の夢想メーリングリスト」で、一九九九年七月
三〇日から同年一一月一九日の間に連載した投稿をまとめたものです。内容は八十二歳で
亡くなった父の晩年と母のこれから、および両親と筆者の家族の交流で、筆者の少年時代
を回想した創作「随想 繊維問屋にて」(一九九八年)、職業生活を回顧した創作「随想 中
町にて」(一九九九年)の続篇にあたります。調子のおかしな部分や仮名づかいは改めまし
たが、多くは投稿時の原文のままです。主な登場人物と出来事は
父と母 筆者の両親
妻と子 筆者の家族
娘または孫娘 筆者の子、両親の孫娘
祖父 母の父、筆者の祖父
九七年夏 娘の単身旅行
秋 両親二人だけの海外旅行
年末 家族旅行 (那須) 父八十一歳、母七十七歳
九八年一月〜二月 父の検査入院 (三週間)
二月〜四月 放射線照射治療 (七週間)
五月〜年末 家族旅行 (水上、裏磐梯、鬼怒川)
九九年一月〜三月 娘の受験と卒業展覧会
三月 家族旅行 (熱海)
五月 父の二回目の入院(一ヶ月)
六〜七月 在宅介護 (五十日間)
七月 父の三回目の入院(十日間) 父八十二歳、母七十九歳
この随想には医療に関する記述がありますが、医学を知らない筆者は、その折々、体感
した通りの文章表現を試みています。看護、介護、訪問、派遣、在宅等も、医療用語や社
会制度ではなく日常の言葉として用いています。また、先入主を交えず本文を直接読んで
欲しいと考え、目次や著者の略歴も省きました。
メーリングリストとは、参加者の発信した電子メールが会員全員に配信されるシステム
です。歓談や連絡に用います。「散歩者の夢想メーリングリスト」のホームページは次の
場所にあります。
URL: http://www02.so-net.ne.jp/~reverie/
URL: http://homepage2.nifty.com/reverie/
一連の随想に関連した「大正末から昭和三〇年代までの神田の商家の写真集」もホーム
ページに載せました。長唄やお茶など、日本の伝統文化が生活に溶けこんでいた時代に繊
維問屋に育ち、今も働いている筆者の母に焦点を合わせています。戦前の神田の商家の、
生活観や様式美を知る手立てとしてお役に立つと思います。
遠い昔の「舞台」写真
URL: http://www02.so-net.ne.jp/~reverie/nagauta1.html
URL: http://homepage2.nifty.com/reverie/nagauta1.html
忍耐強くお読みいただいたメーリングリストの皆様に、心からお礼を申し上げます。
一郎@散歩
一
容体悪化の連絡が携帯電話に入ったのは午前八時の少し前でした。訪問看護の折、もう
一段「変わる」と聞かされていたその変化がいよいよ始まったのです。あと一ヶ月でしょ
うか。長くはありますまい。不安な気持ちでパソコンの電源を落とし、通勤客の流れに逆
らって地下鉄の階段を駆け下りました。
ベッドの脇で主治医の助手から聞かされた「三日か五日」の、その日数が何を意味する
かは問いもせず、まだ三日は大丈夫、五日経ったらその時はその時のこと、新たな症状に
応じて看病すればよいのだと覚悟しますと楽になり、医師の呼びかけに右目の瞼をわずか
に開く、その瞳孔は光を向けても反応しなかったのですが、父は疲れています、少し休め
ば回復します、異変があれば呼びますからと、ひとまず医師と看護婦に引き取ってもらい、
母の到着を待ちました。
母が声をかけますと瞼を開いて声にならない声を発する、しかし聞きわけることができ
ません。母が「かゆいの?」と呼びかけますとかすかに動いて意思が通う、喜んだ母が再
び「かゆいの?」と呼びかけますと、今度はしっかりうなづいて父は母を認めました。
まだ四、五日はあるのです。しかし今の様子では、母は病室を離れるわけには行きませ
ん。今晩は泊まりましょう、入院相談の窓口に出むき、ホテルの予約を頼んで来ますと母
に告げ、枕元を離れようとしますと、毛布がかすかに持ち上がり、私が病室を出るときの
いつもの挨拶、手を振っての別れの仕種に、父は私も認めていたと、思わず父の手を握り
しめました。
父は危機を脱しました。疲れていただけです。明日はまた蒲焼きなら小匙一口、刺し身
なら中トロ一切れを口にします。午後は私がつき添うことにして、母は宿泊準備のため、
待たせてあった車で帰りました。
二
午後は手持ち無沙汰です。枕元の椅子に腰掛け、テレビのスイッチを入れますと、お昼
のワイドショーに辟易して電源を切る。
父の右肺は腫瘍で塞がれ、気管と血管も、勢いを盛り返した腫瘍に圧迫され、左肺の下
葉にも水がたまりました。腹筋は失われ、胸郭も隔膜も動かないほど衰えてしまい、口だ
けの呼吸ですから、炭酸ガスを吐き出せず意識が混濁、舌も気道を塞ぎがち。そこで看護
婦さんが、父を心持ち横に寝かせ、窒息の危惧を除いてくれましたので、半開きの口の舌
の様子も気にならず、私は椅子で寝こんでしまいました。
医師が呼びかけましたが反応がありません。汗がひどい! 寝間着もびっしょり。額に
も髪の生え際にも、汗の水滴が、拭っても拭い切れないほど吹いてきます。再び心配にな
り、医師に容体を尋ねますと----
酸素を増やせば自力での呼吸をやめ、酸素を減らせば酸素不足で呼吸がとまる、心臓ま
で管を挿しこんでの点滴も、このまま続けると浮腫が頭まで達してしまい、量を減らせば
衰弱が増すという難しい匙加減。
父の新たな平衡は始まったばかりです。肺ガンがわかったのは昨年の二月、右肺上葉の、
気管に達した腫瘍の摘出は無理でした。目に見えて拡大する影に怯え、一刻も早く治療を
と願ったその照射が威力を発揮、副作用の徴候さえ知らずに回復した父ですから、今回の
病変も必ず乗り切れると、穏やかな気持ちでつき添っていました。
三
父の手足は数日前までぬくもりがあって、冷たい手の看護婦さんに触られるのを嫌がっ
ていましたが、今日はぬくもりがありません。点滴の、栄養剤や薬液が漏れてしまうほど
むくみが進み、十分な血液が流れていません。一昨日、採血しようとして、看護婦さん三
人が試みても、血液は流れて来なかったのですから、父の手足が冷たいのは無理ないと一
人で合点、その折、三人は針を刺した腕をさすって、父に詫びていましたが、ここの看護
婦さんは礼儀正しく、実によく訓練されていると思います。在宅介護の関係者も、この病
院の名前を聞くと、看護婦さんのよさを口を揃えて誉めていました。
呼吸は規則正しく、手足の冷たさは気になりません。気をもんだのは母が戻る時刻です。
ホテルにチェックインを六時と告げた、その時刻が迫っています。電話しますと、まだ家
を出られないと言う、その理由はあとでわかったのですが、ホテルには前金を納めなけれ
ばなりません。長三角形の病棟は、どの病室も、中央に位置する看護士詰め所に面してい
ます。その詰め所に声をかけておけばよかったので「三十分ほど外出します、父をよろし
く」と頼み、隣りのビルに出かけました。
ホテルから戻ったのは六時すぎでした。再び詰め所に声をかけ、病室に入りますと、父
の姿勢が仰向けに変わっています。呼吸に乱れを感じ、枕元のボタンで看護婦さんを呼び
ました。
いつもは患者に声をかける看護婦さんですが、駆けつけた二人は父を一瞥後、すぐに病
室を出ましたので、無駄足をさせたと申し訳なく思った矢先、今の二人が器械を持ちこみ、
ケーブルを父に接続、若い医師が心電図と脈拍を注視しながら力をこめて呼吸を介助、同
時に「ご家族を呼んで下さい」----。その折も私の気持ちは穏やかそのもので、脈拍がな
くなり心電図の凹凸が消えても、人工呼吸の衝撃で脈拍が蘇る、その表示盤を感心しなが
ら眺めていました。
婦長さんも訪問看護士も駆けつけてくれました。病室は父と看護婦四人と、医師と私の
七人になりました。さらに前回の退院時、在宅介護の要点を書いてくれた看護婦さんが、
婦長さんの「今は担当外ですが、つき添わせて下さい」という口添えでベッドの脇に立ち、
しきりに父の手をさすりながら、私にも「お父さんの手をさすってあげて下さい」----。
母が着くまで手を冷やしてはならなかったのです。さすりはじめましたが、その間も手
が冷たいとは思いませんでした。心を衝かれたのは涙です。
泣いていたのです、看護婦さんが----。
四
母は一目で父の死を知りました。医師から告げられますと、語りかけるように、慈しむ
ように父の顔に見入っていました。死はまたたく間に、死者の顔と死者の手から去って行
きます。浮腫はなくなり、黒ずんだ皺も消え、かゆみの苦痛は跡形もなく、母にもようや
く静寂と安息が訪れました。
厳粛な顔の家族が集まった頃、泣き顔の娘と泣き顔の妻が到着したので弱りました。娘
は電車の中でも泣き通しで、十九なのに、なお泣きじゃくる顔はぐしゃぐしゃで見てられ
ません。娘は夏風邪が長引いて見舞いを遠慮していたのですが、一昨日、たまたま高校の
先生の個展があって、その画廊への往路、道に迷い、地下鉄三駅分を歩き通し、携帯電話
も通じず、休日の病棟を歩きまわって、ようやく病室に辿り着けたのです。その折は母と
私と妻がつき添っていましたが、偶然に訪れた娘のこの時の見舞いが、母にとっても我々
にとっても、父からの最期の贈り物になりました。
母の到着が遅れたのは、父の着替えを探していたからです。二回目の入院は外来診察室
のその場から、三回目の入院は救急車で駆けつけたのですから、着替えを多数必要とする
容体でも、寝間着を持ちこむ余裕はなく、病院の売店でM寸のパジャマを買ったのですが、
パジャマの身幅は小柄な父でも窮屈にすぎ、母は見かねて、昔の浴衣を探していたのです。
父は着替えられる状態ではありませんでした。母は最期の衣裳の必要を、悟っていたのだ
と思います。
父の手を母に預け、父の顔をもう一度両手で包んで、私の介護も終わりました。母は浴
衣を婦長さんに委ね、看護婦さんが父の体を清める間、家族は全員、この階の休憩室に引
き上げました。ここの病棟はホテルと錯覚するほど落ち着けますので、孫たちも(従兄弟
同士も)懐かしげに挨拶、たちまち死を遠ざけました。
五
父の顔は穏やかな表情のお人形でした。在宅訪問の歯科医に作ってもらい、父が昼食時
にはめていた入れ歯が口を開き加減にさせていました。微笑んでいる遺影の口も、わずか
に開いていますので、口腔に合わない入れ歯でも、父は満足していたのです。
上顎の入れ歯は合っていました。しかし下顎の入れ歯は、長年、合わないまま放ってお
いたので狂いが生じ、型を取り直す必要があったのですが、それは衰弱が治った時の話、
当面は在宅の枕元で噛み合わせを確かめながら、今までの入れ歯から型をとり、翌日、直
した入れ歯と仕上がった新旧二セットを寝室で削り直し、わずか二日で使えるようになり
ました。
歯科がないこの病院は、隣りのビルの開業医と連携、入院患者の歯も在宅患者の歯も、
その歯科医に診療を委ねていました。在宅の場合は訪問料と交通費がかかりますが、それ
も距離次第で基本は保険、病院の訪問看護科が治療前に患者を観察、歯科医に容体を知ら
せた上での治療でした。
入れ歯は新旧同じ仕上がりなので、慣れている今までの入れ歯を渡しますと、怪訝な顔
で新しい入れ歯の所在を尋ね、半透明の新しい歯に替えましたところ、たどたどしい言葉
でお礼の仕種、死の床にあっても、歓びには感謝で応じる父----。
今回の入院では、骨の形がわかるほど痩せていましたが、父は流動食を受けつけず、お
粥を口に運んでも無駄でした。流動食を父に食べさせるのは、医師でもできない相談でし
た。看護婦さんが「朝夕、食べさせてあげましょう」と申し出てくれた果物やプリンも、
食べられなくなっていました。
食事はお昼だけ、それもおかずは小匙一口、ご飯は小匙半分まで、デザートは数センチ
角の西瓜一かけらに番茶少々、欠かしたことのなかった牛乳も飲みません。
お昼前、事務所から百貨店を経由して、二食分のお弁当を持ちこみますと、形だけ体を
起こして入れ歯を要求、お弁当の一つは、在宅介護で疲れきってしまった母が椅子に腰掛
け一人で食べ、私はもう一つを父に食べさせてから、ほぼ手つかずの残りを立ったまま食
べました。持ちこんだお弁当を見ることと、小匙のおかずを新しい入れ歯で味わうことが、
テレビも観なくなった父の、生きている証でした。
六
遺体は、入院ベッドから金属製の台車に移し替えられ、看護婦数名がつき添い、業務用
エレベーターホールを抜け、来客用エレベーターホールを脇に見て、入院棟の出入り口と
休憩所の境にある扉から、病室裏手の廊下最奥部、奥行の深い大型のエレベーターに移さ
れ、家族も全員乗りこんで、エレベーター前の看護婦さんに別れを告げてから、地下一階
の霊安室に向いました。
金曜の朝に急変し、その半日後に亡くなったのですから、遺体の引き取りも葬儀の手配
もわかりません。しかし、病院には「サービス部門」が完備しており、霊安室からの遺体
の運搬も、専属業者が電話一本で引き受けてくれます。ひとまず霊安室に安置、その場で
病院出入りの葬儀屋さんと打ち合わせ、通夜は日曜、告別式は月曜と決めましたが、その
間、遺体をどうするか。
業者が「冷蔵庫を見てきます」と言う。解剖待ちの遺体や事故死の遺体で、冷蔵庫が塞
がっていることがあるそうですが、日曜午後の引き取りまで、冷蔵保存は大丈夫となり、
父の遺体は、冷蔵室へ移されました。
もう病院に留まる必要はありません。先ず母と兄をホテルに送り、兄の子らも家へ向か
い、最後に私の家族も地下鉄で郊外の最寄り駅へ。
着いたのは深夜です。最寄駅の、月極駐車場の私の車で、ファミリーレストランに立ち
寄り遅い夕食。
父が同席している雰囲気でした。家族揃って外食するのも久し振りです。娘の顔にも明
るさが戻り、大学を卒業後、社会に出た男の子二人も無邪気な表情。
みんな、ご苦労さまでした。一番感謝しているのは親父さんだ。お袋もぐっすり眠れる
よ----。
七
葬儀屋さんとの打ち合わせの折、通夜の日は、誰か一人が、遺体の搬送につき添うよう
にと告げられ「母の代わりに私が行きます」。
炎暑に限らず病院を喪服で訪れるのは非常識ですから、喪服は畳んで脇に携え、半袖白
のYシャツに綿パン姿で、病院の休日専用出入口から一階に入り、さて、どこで着替えま
しょうか。
病名は一年半前の検査入院時に知らされていました。勘の鋭い父は、病名を聞くまでも
なくレントゲン写真から、自分の病気を悟っていたと思います。この病院は告知の方針で
すが、我々兄弟は主治医と相談、両親には「腫瘍は放って置くと難しくなります」と話し
てもらいましたが、母も病名を知っていたのですから、この言葉選びは効き目が薄かった
と思います。
父は手術できないほど進行した肺ガンでした。しかし医師からは死期の宣告がありませ
んでしたので、昨年二月の、検査入院時は夏まで持たないのかと怯え、居ても立ってもい
られないほど悲しく、毎朝の出勤時、経済新聞とスポーツ新聞持参で見舞いに出かけ、お
昼には事務所から、地下鉄でお弁当を持ちこみ、休日には郊外から、車で妻や子と一緒に
見舞っていました。因みに平日の私は六時半に家を出ますので、病院に寄ってから出勤し
ても、会社員一般の出勤時刻より早く事務所に着けました。
二度目の入院と三度目の入院は、慣れと疲れで感覚が麻痺、加えて高三だった娘の表現
によれば「人生で最高に充実した一時期」を父も母も見守っていましたので、検査入院時
のような衝撃は影をひそめ、朝の見舞いは中止、お昼のお弁当便と、休日の見舞いだけに
なりましたが、誰でも連日立ち寄れば、見舞い客で混雑する院内レストランの、献立はあ
らかた食べ尽くしてしまいます。
喪服に着替える場所は、予め地下一階の、手洗いに決めておきました。
八
休日の地下は、駐車場に出入りする訪問客も限られ、誰にも見られませんでしたが、霊
安室は内部も通路も明かりがなく、スイッチを探すのに手間どりました。
汗が噴き出すほど暑かったせいか、無人の霊安室でも霊への恐れは感じられず、ついま
どろんでしまった刹那、鉄の扉が開いて、業者二人と運転手が現われ、もう来ていたので
すかと驚いた様子、先方は遺体を祭壇に安置してから遺族を迎えたかったのです。
業者は看護士詰め所に連絡、看護婦さんの了解を得て、空の棺とドライアイスを冷蔵室
へ運び入れ、しばらく待っていますと、父の眠っている棺が霊安室に戻って来ました。
父は穏やかに寝入っている子どもの表情でした。温度差の悪戯で、口の周囲には「汗」ま
で光っていました。晩年の父の体は痩せる余地のないほどやつれてしまい、見舞った子ら
も目を背けるほどでしたが、今の顔には愛らしさがありました。
棺の到着後、しばらく業者も遠慮、霊安室でただ一人、合掌も忘れ、父の顔に見入って
いました。
業者に礼を言い、私も手伝って棺を車に運び入れ、改めて運転手に挨拶、その時ようや
く、遺族は二人つき添えることに気づいたのですが、真夏の炎天下を母が病院に出むくの
は無理ですから、私一人でよかったと思います。
父は我が家へ帰れます。父は最期まで退院を願っていました。退院できると信じていま
した。だからこそ死の前日まで、一口しか食べられなくても、お昼のお弁当を欠かさなか
ったのです。
九
救急車での入院は、父の衰弱を心配した母が明日にでも医師に相談、再入院の手続きを
お願いしようと話していた矢先でした。昼食は西瓜一かけらの日々でしたので、その日は
お弁当の持ちこみを休んでも大丈夫と考え、家政婦さんもいましたので、滞っていた仕事
を片づけてしまおうと事務所で仕事中の出来事でした。
在宅での父は、母の介添えで車椅子に移り、母が手伝いながら用を足していたのですが、
その朝、母は、便座で意識を失った父を家政婦さんと抱き起こし、ベッドに寝かせ、やっ
との思いで救急車を呼んだのです。訪問看護士が「変化なし」と告げたわずか翌々日でし
たので、いかにありがたくても、訪問看護とは何のためにあるのだろうかと、疑問を感じ
たのも事実です。
父は在宅介護に耐えなくなっていました。しかし入院できたとしましても、展望は開け
なかったのではありますまいか。
医師も看護士も尽くしてくれましたが、我々が経験した在宅介護は、あまりにも変哲の
ない内容に思われるだけに、二度と繰り返したいとは思いません。医師や看護士の「職業
意識に依存する介護」を望まないのではありません。居場所や生き甲斐を求める人の「親
身が入りこんでしまう在宅介護」を、繰り返したいとは思わないのです。
死の十日前まで、在宅で頑張っていた父の訴えは、かゆいの一語に尽きます。それ以外
の、不安や、恐怖や、悲哀や、絶望の言葉は耳にしたことがありません。
私は父の考えや気持ちを、理解できない領域や感知できない側面があることも含め、知
り尽くしていると思います。ですから病気の告知から臨終までの一年半、病気についての
父の気持ちを、感受できなかったことが気になります。父の晩年を私は知りたい----。い
や、知っていたのだと思います。
衰弱とは無縁だった検査入院時と、衰弱で倒れてしまった二回目の入院時は、お見舞い
には一日の長さを紛らわす力はなかったのですから、眠られない夜の不安は尋常ではなか
ったでしょう。
携帯電話に連絡が入り、病院へ駆けつけましたが救急車はまだでした。あと七、八分と
見当をつけ、その通りの時刻にサイレンが聞こえ、父は寝たまま救急車から診察室に移さ
れ、我々家族も休日診療の待合室で待機、ようやく入院を告げられ「安心」しました。父
と母を衰弱死させてしまうと恐れたほど、在宅介護は重荷だったのです。
とりあえず身のまわりの品々を地下の売店で購入、完全看護でも、おむつや寝間着や洗
剤やティシューは家族が用意しなければなりません。予め準備してあった「入院用の身の
まわり品一式」は翌日持ちこみました。
一〇
主治医は肺ガンの専門ですが、劇的に回復すると聞かされた外科の手術が、父の場合は
腫瘍の部位が微妙で結論が出ず、当初は父も期待した手術に、私は言い知れぬ恐怖を抱い
ていました。同時に目に見えて大きくなる腫瘍の影に、手術であれ照射であれ、なぜ早く
処置しないのかと焦りました。今も素人の想像ですが、父の肺ガンは骨や頭への転位が見
られず、措置を決めるのに余裕があったのでしょう。
手術に懐疑的だったのは、父の年齢と病状を考えた場合、劇的な回復を言葉通りには信
じられなかったからです。
ひと言も不平を言わずに耐えるでしょうが、父は半年は愚か三ヶ月でも、寝たきりで入
院するなど我慢ならないであろうことは、お粥を食べない以上に明らかでした。年齢が高
く、腫瘍も大きく、右肺上葉の切除に成功したとしても、簡単に退院できるとは思えませ
ん。上葉にある腫瘍が気管の分岐にかかっていた場合は、切除は無理と告げられていまし
たが、肺と気管と腫瘍の位置関係が微妙で、最終の結論は開いてみないとわからないと言
う、その判定の手術でさえ、寝たきりになる恐れが十分あって、仮に切除に成功しても、
延命の日数は定かでなく、当時八十一歳の父を、寝たきりになる危険を冒してまで手術す
る意味が理解できなかったのです。
検査入院時の医師と看護士の注意はただ一つ「ベッドから起きて下さい、今回の入院は
治療ではなく検査ですから、足腰が衰えないように普通の生活を続けて下さい」でしたが、
気落ちがひどく、手洗いに立つ以外は寝たきりで、髪も髭も伸び放題になり、あれほど好
きだった入浴も望まず、シャワーも浴びようとはしませんでした。前年の秋は久しぶりに
夫婦で海外へ出かけ、昨年末は私の家族と温泉旅行を楽しんだのですから、体力は十分に
あったはずです。病気に対する衝撃が、想像を超えた力で父を打ちのめしていたのでしょ
う。その後二回の入院ではあれほど望んだ退院を、検査入院時は望む気力さえ失っていま
した。
一一
いよいよ決断する日です。家族四人で診察室を訪れました。この医師の診察室では、親
族を交えながら診断を仰ぐことが珍しくなく、待合室の次の患者が、つらくなるほど時間
をかけて話し合っていましたので、告知されなくても、患者は自分の病気がわかってしま
ったと思います。
幼い日に戻ったような懐かしさを感じました。家族が一つになって父の運命を決めるの
です。父は当初から「手術の選択は家族にまかせる」と決めていました。母も同じ考えな
ので、選択は我々兄弟に委ねられました。一方、私は両親との交流は深かったのですが、
両親の物質上の家には距離を置き、両親の権利上の家には関わらない方針でしたので、意
見が割れた場合(心の中では割れていました)正解を得られそうもない選択でもめるのは
両親を苦しめるだけだと思い、また母とは機会あるごとに話し合ってもいましたので、同
席は必要ないでしょうと伝えましたところ、母は強い調子で同席を求め、外科医の診察室
でほんの一瞬、昔の家族が蘇りました。
レントゲン写真を前にした医師の話は、従来の説明の繰り返しでした。腫瘍の影はさら
に膨れ、このまま時間をかけて大丈夫ですかと、思った通りを尋ねますと、医師は眼鏡を
外し、顔を拭い、しばらく呼吸を置いて下した結論が手術の回避。
完治は信じられず、延命の年数も知らされないまま手術を選んだ場合、父も母も、手術
が終わるまで不安に苦しめられ、手術後も、退院を告げられるまで容体の急変に怯え、高
年ゆえに寝たきりのまま死んでいくのであれば、気持ちが放射線照射に傾くのは自然でし
ょう。
選択の余地はなかったのです。父は退院します。再び孫娘と出かけられます。垂れこめ
ていた暗雲が晴れました。誰よりもほっとしたのは母でした。父は急変を恐れ半信半疑で
したが、退院できると聞いて力づき、寝たままになる杞憂を吹き飛ばしてくれました。
一二
主治医があれほど迷ったのは、やはり手術には劇的な回復を期待できたからだと思いま
す。父がもっと若ければ、寝たきりになったとしても手術を選び、その選択を悔やむこと
もなかったでしょう。
病状の繰り返しになりますが、手術が困難な理由は、年齢のほかに腫瘍の部位にもあり
ました。医学的知識はありませんので、主治医の説明を私が理解した通りに書きますと、
気管の右肺部分は、先に肺の上葉部下位につながっている管がさらに枝分かれ、右肺の下
葉部上位にもつながっていますので、気管まで侵している上葉の腫瘍を摘出しますと、右
肺の下葉の機能も損なわれてしまいます。しかも父の腫瘍は、気管のつけ根にかかってい
るどうかの診断も困難でした。
高年者が片肺で生活できるでしょうか? わかりません。しかし父が寝たきり同然にな
った在宅最後の五十日は、母も苦しみの連続でしたので、仮に手術に成功しても、在宅で
の回復が半年や一年に及ぶのであれば、手術は回避できてよかったと思います。
父の死後、肺や胸郭は動き続ける部位なので回復が遅く、急速に衰えたり感染症に冒さ
れる危険が高いことや、手術した部位の痛みがひどく、鎮痛剤投与による衰弱死も懸念さ
れるなど、高年者の肺ガンは手術が難しい現実を知らされました。検査入院時に説明され
た「劇的な回復」は、額面通りには信じられなかったのです。しかし八十五歳の肺ガン患
者も手術する例があり、患者と家族の生活は、一般論や世間通念はもとより、現実さえも
忌避してよい場合があると思います。
一三
手術できない場合の治療が放射線照射であることは、検査時に申し渡された記憶はない
のですが、日常会話で身につけていた思いこみから、放射線による治療を当然のように考
えていました。一方、抗ガン剤は、副作用についての日常の思いこみから、避けて欲しい
と願っていたのですが、抗ガン剤という言葉は、父の最期まで耳にしませんでしたので、
手術回避後の治療に対する心配は、放射線照射による副作用だけとなり、寝たきりを恐れ
る気持ちは遠のき、一刻も早く照射を始めて欲しいと願うと同時に、放射線による治療が
始まった場合、副作用のため、普通の生活には戻れないであろうと、暗い気持ちになりま
した。
肺ガンを知らされた当初は、根拠はないのですが、主治医の説明を聞けは聞くほど父の
余命を数ヶ月と思いこみ、放射線照射は、有効な治療法を閉ざされた患者に対する最終の
手続きであって、やはり数年前、従業員Sさんの奥様が、両親が紹介したこの病院で放射
性を照射後、数ヶ月ほど自宅療養を続け再入院、三週間後には亡くなられた経過を思い浮
かべ、副作用が強いのであれば照射も中止、食物を食べてうまいと感じられる状態で晩年
をと、願い続けていたのです。
父の死後に知った主治医の今一つの迷いは、高年者の肺ガンは、放射線を照射しても、
副作用で死期が早まる懸念があったからです。主治医は手術にも放射線照射にも起こりう
る衰弱死の危険を考慮した上で、より長く生きられるにはどちらにすべきか迷っていまし
た。一方、私は、父のような重い肺ガンは、手術に対する信頼は強まりましたが、手術以
外の治療法はわずかな延命の見返りに、副作用に苦しむ生活が死ぬまで続くと思いこみ、
副作用で死期が早まる危険など夢にも考えなかった反面、放射線照射による治療効果にも、
気休め程度の期待しか抱いてはいませんでした。
私は来るものが来るのであれば普通の生活を続けさせ、できるだけ苦しまずに晩年を送
れるようにと願うだけで、こみ上げてくる悲しみを繰り返し味わっていても、少しでも長
く生きる意味には、その大切さと切実さには、微塵も思い至らなかったのです。
一四
手術による衰弱の懸念を回避できたことで、照射の副作用には気がまわらなかった私は
気分が楽になって、退院後、放射線照射が始まるまでの数日は、二人に事務所で珈琲を楽
しんでもらい、子らの春休みを利用した家族旅行を考えましたが、いかに温泉が楽しみで
も、ガンの恐怖や照射の不安が簡単にやわらぐはずもなく、父のそれからの一ヶ月半、母
につき添われての通院は、薄氷を踏む思いだったのでしょう。
私同様、放射線照射の副作用を心配の外へ置いてしまった母は、手術を回避できたこと
で、全快を期待するようになりました。母は検査入院時のレントゲン写真も、救急車で運
ばれた最後の入院時も、父の病気の診断を疑問視していた節があります。その気持ちが最
も強まったのは、放射線照射による治療の折です。
父の場合、照射の副作用は兆候さえありませんでした。外観だけでなく食欲も、検査入
院時の食欲不振が嘘のように回復、発病前のように食べ、単身で出かけ、文字通り普通の
生活を始め、私の頭からも肺ガンが薄れてしまったほどですから、母があれほど感謝して
いた主治医の、父に対する診断だけは「診立て違い」と考え、なお医師に対する信頼が損
なわれなかったのも、不思議ではありますまい。
母の思考力と判断力は今も年齢を感じさせません。ですが母は、父の病気は肺ガンでは
なく、若い頃に患った結核性胸膜炎の影と、本気で信じていた節があります。放射線照射
の結果、父のレントゲン写真から肺ガンの白い塊が、モヤモヤした影に変わってしまった
のですから、医師の診立てが間違っていたと、もし信じられるのなら私も信じたと思いま
す。母が診立て違いと話す折、父は母の説明を、穏やかな表情で聴いていました。
腫瘍の部位や性質にもよるのでしょうが、放射線照射の腫瘍に的を絞った治療技術は、
素人目にはガンを治せると信じられるほど進歩していました。またガンの部位や発見の時
期によってはそうなのかも知れません。
照射による治療が終わった段階で、我々兄弟は主治医から経過を教えられ、満足できる
成果があったと知らされましたが、同時に腫瘍の芯は残っており、やがては動き出すであ
ろうことも告げられました。その折、両親には今後、不安材料は伏せて欲しいとお願いし、
主治医の了解を得ておきました。このお願いは翌年の五月以降、例えば容体を母に告げら
れないなど、在宅介護の枷になることもありましたが、基本的にはそれでよかったと思い
ます。
一五
父が再び元気になったのは、放射線照射の治療が終わり、主治医に「旅行もゴルフもよ
いすでよ」と告げられてからです。次第にひどくなった痰に、血が混じったことから肺ガ
ンが見つかったのですが、両親と我々家族の外出は、それ以前から始まっていましたので、
私もさっそく旅行準備に入りました。
私の子らは、中学に入った段階で各自の都合を優先させ、家族一緒の外出は途切れてし
まい、教育費にも追われていましたが、娘の美術志望をきっかけに、再び共通項が生れて
いました。
我が家には原画はなく、複製画や美術本も転がっている程度ですので、家族は誰も、私
が美術好きだとは知らなかったと思います。一方、私も、妻の美術部所属(高校時代)を
知ったのは結婚後であり、最初の赤ん坊を一気呵成に描いた油彩を除き、妻の絵は見たこ
ともないのですから、それまでの我が家は「美術のある生活」にはほど遠く、家族一緒の
美術館通いも、娘の美術志望がなかったら、生れなかったかも知れません。
娘の美術志望には、疑問視する声もありました。しかし、私は本人の意志を確認後、手
に職の必要を唱え、不安意見を抑えてしまいました。
無理なかったのです、周囲の不安は----。娘の希望する美術とは、漫画を指していたの
ですから。
それは私も知っていました。しかし漫画と言いますと、進路指導の中学も志望する高校
も本気にしてはくれません。漫画はマの字も伏せてしまい、先ずは美術を!の忠告に従い
推薦を獲得、高校の普通科美術科へ進学が決まった折は、誰よりも喜んでくれたのは母で
した。因みに美術の進路事情は娘の受け売り、普通科の課業に美術科の授業が加わるとい
う進学先も、娘が勝手に見つけて来ました。その頃の父は、高年ゆえに迷惑になるのを恐
れ、海外旅行から遠ざかってしまい、平日は事務所で記帳を続け、休日はスコアが崩れて
しまったゴルフを楽しみ、巨人軍の勝敗に一喜一憂の日々でしたので、孫娘の美術志望に
は、ぴんと来なかったのではありますまいか。
次頁へ続く
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