(C)Copyright 1999-2000 SHIMADA, Ichiro. All rights reserved.
複写、転載、引用はいずれもお断わりします.


随想 橡の木の葉 (六の二)

前頁より


          一六

  娘が小学校に入ってからは、私の家族は正月の挨拶以外、両親と集うことはありません
でした。子らが幼い頃は、三世代の家族十数人で、行事のたびに会食したり、海やスキー
へ出かけましたが、私が家業に加わってからは、会社で毎日顔を合わせ、意志を通わせて
いた事情もあって、実家を訪れる必要を感じませんでした。一方、妻側の両親や家族とは、
お盆とお正月の会食を欠かしたことはありません。

  当時は事業の先行きが厳しさを増し、家族を渦中から遠ざけたいという気持ちが働き、
両親を我が家に招く以外、私の家族は、両親や兄の家族と交流を断ったも同然でした。
昔は仲よく遊んでいた従兄弟同士ですから、突然交流が絶えたことを、家族はいぶかし
く思っていたでしょう。

  兄より先に結婚した私は、繊維問屋から巣立ちましたので、実家に住んだ経験がなく、
両親を介しての懐かしさは豊富ですが、両親が不在の折は、実家は他家に紛れこんだ印象
です。兄も結婚後は移りましたが、両親が家を建てる際は二階部分を自分で考え、独立後
も我が家同然に親しんでいます。しかし、生前の父は、我が家を自分の「城」と呼び、在宅
看護が必要になった折も、二人だけの生活をかたくなに譲りませんでした。

  在宅介護では、父の昼食と入浴は私が引き受け、派遣介護人との面談、訪問看護の立ち
会い、酸素吸入器の受け入れも私が請け負い二人の家に親しみましたが、出入りは自由で
あっても、二の足を踏んだ理由がもう一つありました。

  目の前に家業があれば、依存であれ協働であれ同調であれ反発であれ、子は必ず家業に
影響されます。社会に出てからも影響される「恐れ」があります。我が子にその轍は踏ませ
ません。ですから家業の場は実家であっても、家族の目から遠ざけたのです。因みに上の
子の就職活動の際、私は自分の職業を子に、説明する必要があったほどです。

  父の検査入院の折、家族の足が遠のいていたことを詫びますと、母は「なにもかもわか
っている」と言ってくれました。母だけでなく父も「よくわかっている」と知らされ思わ
ず頭が下がりました。私は両親を観察して「よくわかっている」つもりでしたが、二人も
私を観察して、なにもかもわかっていたのです。

          一七

  失業には我が子に対して、胸の張り裂けるような切なさがあります。事業の蹉跌には失
業のつらさに加え、返済の苦しみを家族まで巻きこんでしまう恐れがあります。ですから
事業に携わる個人は、常に破綻した場合を想定し、家族を巻きこむことのないように、個
人と会社を通算した貸借を把握、進退の境界を明らかにしておく必要があります。家業と
もなりますと、父の死でさえ「個人の事情」ではなくなります。

  私は自分だけでなく一族の、資産負債を直感で把握する習慣がこびりついていますので、
今回の父の死もただ悲しむだけで済んでいますが、そのような習慣のない関係者は母も含
め、貸借に不安を抱いているのではありますまいか。

  裸になる程度では済まされない厳しさが事業にはあります。私の将来の退職金?  支払
い余力にかかわりなく、営業に寄与しない損金は当事者である私が認めません。ですから
自己の「私的必要」は、事業とは別に、私個人が独力で捻出しました。私が裸一貫から起
業したのあれば、事情は違ったのかも知れません。しかし、家の歴史と取引の相互作用の
ため、身動きのとれない事業の場合は(中小企業の大半は、そのような状態ではあります
まいか)目前に迫る奈落を承知で、歩を進めなければならない場合もあるのです、と昔の
随想では弁解がましいことを書きましたが、なんのことはありません、叡智の極みとされ
た面々が主導する大規模事業も軒並み破綻、国の経済基盤まで脅かして自助を放棄、する
にもかかわらず退職金まで持ち去って行くのですから、一銭の施しも受けていない我々は、
自己の非力を恥じる必要もなくなりました。

  随想を書き始めた当時、生命保険の契約を増額したことがあります。近所の食料品店に、
興信所の調査員が訪れ、私についてあれこれ尋ねたそうです。その保険契約は、幸い損金
扱いで満期を迎えましたが、当時の私は、自分の死でさえ、選択肢の一つにすぎなかった
のです。

  切なさはあっても恐怖を抱えた経験がないと、私の両親の気持ちはわからないかも知れ
ません。その二人はある年から正月以外、私の家族と顔を合わす機会がなくなったのです
から、初孫の長男や、幼稚園の運動会を見に来てくれた二男の場合と異なり、下の娘の印
象は薄かったと思います。

          一八

  孫娘は両親の身近に二人もいますから、美術を志望しなかったら、私の娘は、隔たった
土地で生活する祖父母と孫のように、疎遠のままで終わったでしょう。ですが娘は美術を
選び、母は日本画に打ちこんでいました。娘が美術志望を決め、私がその気持ちを母に伝
えた瞬間、六十年の歳の差が消え、母は女学生のように目を輝かせました。

  母は父親の意向で、府立へ行かずに私立の女学校へ進学、絵と書道に習熟しました。

  母はお茶とお花の師範です。また長唄の師は杵屋佐吉さんの一番弟子「佐次郎」さんで
す。佐次郎さんは血縁ではたった一人のお子で、祖父の一家も出征を見送ったご子息を戦
争で亡くされています。

  母の三味線歴は二十年ほどで、四年に一度のオオザライ(大浚い)では、一門のお師匠
さん(本職の、佐吉さん直属の高弟たち)が、それぞれ抱えている優秀なお弟子(名取り
クラス)を競わせるのですが、その折、長唄の歴史に残る鬼才、四世杵屋佐吉さん、歌舞
伎長唄界の唄方第一人者、七世芳村伊十郎さん、長唄囃子方の名門、九世望月太左衛門さ
んと一緒に、母が三味線を弾いている舞台写真が残っています。佐吉さんの米国旅行の帰
国時に、名取りや半玉が歌舞伎座で歓迎の演奏会を開いた、その「立て三味線」は十五歳
の母でした。

  お師匠さんがそろそろ名取りをと促したのですが「ケチッているのではない、本職にな
ると役者と駆け落ちして嫁に行かなくなる」ことを心配した祖父の反対で、許してもらえ
なかったそうです。三味線はつけ焼刃が効かないので弾き手が足りず、佐吉さん亡きあと
の、戦後最初の一門の会で、母は佐次郎さんと唄方二人で「三曲糸の調」を演奏しました。
しかし、引き続き母が出演を頼まれた時は、繊維問屋の「内紛」に阻まれてしまいました。

  今でも、母はたった一人で、「三曲糸の調」を弾くことがあります。

  戦後、母は手編みセーターの国際展日本予選で上位三作品に選ばれ、その作品を日本橋
の百貨店に展示された経験があります。また手編みの雑誌には、私と近所の子がお揃いで
着ている母のセーターが載っています。この雑誌には、手編みの先生の連載がありました
が、読者からの技術的な問い合わせは、先生に代わって母が受け答えしていました。やは
り母の編んだセーターを着て、雑誌に載っている先生のお子は、日本画家として大成、幼
い頃に母が与えた根付けを、今も大切に飾ってあるそうです。

  手編み教室の先生が関西に引き上げるとき、裕福な奥様を中心に、八十人ものお弟子を
抱えた教室を、引き継いで欲しいと頼まれましたが、夫の繊維問屋を助けるため教室も断
念、婦人向け月刊誌にも載ったことのある手編みから、母は完全に身を引きました。

  その後、型紙は青山の先生の指導を受け、アパレルの、縫製技術、型紙製作、デザイン
いずれにも熟達した職人一筋、父の死後も現役に戻ろうとしていますが、父の看病中に食
事の摂取量が極端に減ってしまい、栄養失調になったのでしょうか、なかなか体力が戻り
ません。

  DCブランドはその言葉さえなかった時代、若者向け週刊誌Fの裏表紙に全面広告を繰
り返し、問屋ではなく、下請けでもなく、消費者に直接訴求、母の感覚と技術を売り出そ
うとする試みも、私の就職と同時に宙に浮いてしまいました。

  父も母も「名」には恬淡(てんたん)としています。果樹園を営んでいた祖父(父の父親)
は池坊の師範でしたが、それを私が知ったのも父が倒れてからのことです。母は疎開当時、
父が何も言わなかったので祖父の前で花を生け、恥ずかしい思いをしたという母の昔語り
そのままに、父は何も話さずに逝きました。

  母が喜んだのは、孫娘の姿に、昔の「父と娘」が蘇ったからではありますまいか。

          一九

  祖父(母の父親)は商売上手で、神田の繊維問屋を一代で成功させ、富を築き、祖母は
月々四、五百円も散財、やがて買うものがなくなってしまい、白木屋の外商員相手に無駄
話で時間を潰したそうです。母は当時の金銭感覚の目安として「銀行員の給与が七十円の
時代」と表現しています。

  祖父同様、祖母も働き者でしたが、裕福になるにつれ贅沢になじむのは自然の理、住ま
いは地味でも、母が育った問屋の金銭感覚は普通ではなかったです。その象徴が着物です。
今では、いくらお金を積んでも作れないような婚礼衣裳が、母の手元に残っています。

  祖父が商いだけでなく蓄財にこだわったなら、戦後の母の苦労も軽減され、父と母は穏
やかな人生を送れたのかも知れません。しかし祖父は不動産投資に関心が薄く、財産の粗
方を現金化、戦後に解体されたY銀行に預金していましたので、新円切り替えの際、預金
封鎖の解除が他行より遅れ、その時間差によって、物資や不動産への買い替えを阻まれ、
財産が一夜にして「紙屑」に変わったそうです。しかし、戦中も戦争直後も、闇商売をか
たくなに拒んでいた祖父ですから、新円切り替え時の蓄財にも、伝手(つて)を承知で加わ
らなかったのでしょう。

  祖父は、肺炎や伝染病のため、幼い長男と幼い長女を失っていますから、第三子(二女、
私の母)に強い愛情を注いだとしても不思議はありません。特に絵筆を愛し、書を好んだ
祖父にとって、学業にも遊芸にも優れた娘は、何にも代え難い宝だったのです。

  男だったら!  が二女に対する祖父の口癖でした。二女に次いで三女(二女と五歳違い)
が生まれ、さらに店を継ぐはずの二男(三女と四歳違い)も生れたのですが、祖父は二女
に養子を迎え、二女とその伴侶に、事業を継いで欲しいと望んでいました。

  祖父は戦後ほどなく病死、その遺志を継いで事業を興したのは、私の父とそれを支えた
母だったことは 「随想  繊維問屋にて」に触れましたが、祖母はもちろん、祖母のお気に
入りの二男にとっても、祖父の遺志が愉快であるはずはなく、小遣いは有り余るほど与え
られていましても、事業のことも財産のことも知らされていなかった祖母と二男は、戦後
無一物で立ち上げた父の苦労を理解できずに、骨肉相食む争いが生れました。父はのれん
分けの際、二男が新規出店する費用を全額捻出、さらに先方の要求通り麹町に一軒家を買
い与え、ために資金に窮し、我々家族が住んでいた市川の家を売却、一家は繊維問屋に引
っ越しました。

  母は半世紀近く祖父の法事に加わっていません。実母の死も知らされず、葬儀にも出ら
れなかった母の頼りは父一人、母の戦争が厳しさを増せば増すほど、夫婦間も険しさを増
したのですが、どのような修羅場にあっても母の支えは父一人でした。その掛け替えのな
い伴侶を亡くした母が、再びお墓の必要によって過去と向き合いましたが、夫の遺影と娘
時代の思い出が、母の傷口を癒してくれます。

          二〇

  浅草は祖父と祖母のゆかりの土地です。祖母は士族の家系(実家の姓はK)。短命だった
祖母の父親は地元の警察署長。それ以前は青山というお家の右筆の出。祖母の母親は名の
あるお武家の末裔で京からお駕籠でお輿入れ。幼い頃、大水に遭い、まる一日、水に漬か
っていたので両足が萎えてしまい、立って歩くことができなくなり、母が訪れる時は、い
つも座布団に坐って出迎えてくれた優しい人です。

  祖母は袴を履き、浅草から徒歩で日本銀行(娘時代の勤め先)へ通ったそうです。その
折、目にした繊維問屋界隈は沼のような湿地でしたが、祖父は有り金をはたいて借家(借
地権)を買い取った、その読みがあたり、やがて有力な問屋街の目抜きになりました(現
在は殺伐としたオフィス街)。

  底地権者は目黒の大地主で、決して土地を手放さなかったのですが、地代の集金のつど、
祖父の店に上がりこんで茶飲み話。地主には実子がなかったので、相続したのが地主の遠
縁の某。

  祖父の先祖は下総国高木村の庄屋です。維新後、浅草に移って足袋屋を開業、鳴かず飛
ばずを、その子(祖父)が立て直したそうです。因みに母の芸事の師匠は祖父の足袋屋時
代の関係者です。

  祖父は勢いに乗り、神田に繊維問屋を開店、仕立てを吟味した作業衣を商い、巨富を築
き、上野駅で祖父の屋号を告げると知らない車夫がいなかったとは、祖父の死の折、店を
訪れた商工会役員の手向けの言葉。[注]この連載終了時に入手した祖父の自伝に拠りま
すと、祖父についての私の記述には誤りが少なくありません。自伝の抄録を、この随想の
「はじめに」でご紹介したホームページに載せましたので、興味のある方はご参照下さい。

  祖父は、私の両親の結婚式を、神田明神で挙げさせましたが、披露宴は浅草の行きつけ
の料亭の一軒でした。

  父の遺品を整理していた母が、二十三日付「婚儀披露宴御席表」を見つけました。紙面
は褪色、折り目も避けていましたが、席次のお名前は今も鮮明です。

  媒酌人は新郎側二人と新婦側二人の四人になっています。媒酌人の両脇に新郎知己と新
婦恩師、つまり新郎新婦の席には八人が並んだ訳です。そのお一人、新婦媒酌人恩師のお
名が苗字だけの武藤様、は少し妙なので素性を聞きますと、この武藤様が四世の杵屋佐吉
さんでした。新婚旅行は佐吉さんの、三部屋しかなかった旅館を兼ねた湯河原の別荘「芙
蓉荘」です。この別荘の名前は「長唄芙蓉会」に因んだものと思われます。

  寡黙な父と、人前では極端に口数が少なかった母との取り合わせですから、会話が成り
立たず、心配した祖父が、草加煎餅を託して、佐次郎さんに様子見をお願いしたとかで、
新婚夫婦が芙蓉荘に宿泊した翌朝、二人が障子を開けたところ、庭を隔てた向かいの部屋
に、佐吉さんと佐次郎さんの心配そうな顔があったそうです。

  披露宴の日付が父の命日と同じであれば、法要の会食も、浅草のK亭以外は考えられま
せん。

  墓所は祖父の菩提寺です。先代が申し送りしていたのでしょう、ご住職が我が家の事情
に通じており、祖父のお墓近くの、南向きの墓地を用意してくれました。

  母は葬儀の折、業者が頼んでくれたお坊さんがよかったとかで、その所属する他県のお
寺を考えていました。母は当初、谷中のA寺は口にしませんでした。断わられた時の苦し
みを避けたかったのです。A寺が駄目なら、谷中とは無縁の、見ず知らずの土地を選んだ
と思います。母の喜びは一入(ひとしお)です。

          二一

  娘の進路がはっきり美術に変わったのは、中三の夏休み直前だったと思います。推薦を
得るために、娘は中学から直接、講習の受講をすすめられていたのですが、娘の場合、中
学が保護者に配る「お知らせ」は事後でも届けばよい方でしたから、やはりその例に漏れ
ず、締切日の翌日に、申込の必要を知らされましたが、この調子はほんの手はじめで、以
後、幾度となく、娘の美術にはきりきり舞いさせられました。

  結局、中学側が電話で高校側の了解を取りつけ、参加できることになりましたが、デッ
サンと油彩を仕上げる講習は三日限りの、中一日が剣道の県大会と重なってしまい、娘が
担任に相談しましたところ、県大会優先が答えでしたから、担任も、娘の志望を本気にし
ていたとは思えません。またわずか三日の講習の一日を反故にしては、高校側も快く思う
はずがありません。まだ娘にとって、美術は漫画を描く方便にすぎなかったのです。

  一方、手編みも日本画も、母の技巧は驚くほど精細です。型紙づくりも極度に集中、そ
の集中を一日中持続させ、体調が崩れるまで、来る日も来る日も没頭しています。しかも
父の身のまわりの世話を焼きながらです。父も家政婦を置かなくなってからの十年余りは、
食事の片づけからゴミの始末、食料品の買い出し、風呂の準備、庭の手入れ、家の修理、
旅行の手配、さらに二人が必要とする金銭すべての面倒を見ていました。

  母は小さな体ですが、その気力と体力は、故障の多かった私には驚きの連続です。母の
仕事振りにくらべますと、娘の美術はまったくのお遊びで、笊(ざる)に水を注ぐような有
り様ですが、母は手放しで娘の決断を喜んだ、その根拠は、以前、見せたことのある水彩
画の構図にありました。

  母には厳しい一面があります。人前では控え目で、言ってはまずいことは決して口にし
ませんが、信頼している相手には饒舌になり、自分の感想をそのまま話してしまいます。
特に服飾の、有名であっても凡庸な作品や、お得意様であっても技術の劣った見本には、
母は遠慮なく断を下します。

          二二

  母は孫娘(私の娘)の小学校時代の水彩画で、菱形に配した校舎の構図を一目で気に入
りました。孫娘は母に、意識して選び出した構図であることを告げました。小学校までの
子らの絵は、どれも我が家に貼っていた妻も、その絵の構図はよいと話していました。

  絵は、日常の親子の会話や、祖母と孫との会話では期待できない「感性の交流」を可能
にさせます。「よくできました、二重マル----」とは違います。

  上の子も中の子も下の子同様、生命保険会社や地方新聞社が主催する展覧会に入選、私
も親バカから、それだけのよさがあると思いこんでいましたが、よく描けたと信じたその
よさとは、展覧会に、一人でも多く入選できるようにと配慮された援助の賜物----の要素
を捨て切れません。しかし、菱形の水彩画の構図は、教師が手を加えられないほど歪めて
ありました。

  母が、孫ではなく、孫の「感性」に対した最初がこの水彩画です。狭い我が家で、嫁の
手料理を味わいながら孫の顔を見るより、父は自分の城で寛ぎ、休日はゴルフに出かけた
方がよいでしょうし、休みも型紙に追われていた母は、空き時間は、美術展に応募する日
本画を完成させた方が楽しかったと思います。演出された三世代の団欒はどこか窮屈で、
どこかに自己満足の香りが漂いますが、その後もしばらくは、行事としての三世代交流が
続きました。

          二三

  娘が中三になった時、上の二人は進学が済んでいました。残る一人はオンナノコです。
漫画?  成功するのは例外でしょうが、関連領域も視野に入れれば、食うだけは何とかな
ると推量。文系の大学?  塾勉で青春を消耗し、さらに四年も遊び、巣立ちを先送りされ
るよりも、専門学校で技術を身につけた方がどれほどよいか。

  子育てが終わったなら、歯を食いしばって働く必要もなくなります。子育て後は、邸宅
や仕事はあってもよし、なくてもよし。あるならある中で、ないならない中で、死ぬまで
生きるだけだと観念しています。社会や他者と相対すれば、葛藤や軋轢(あつれき)は生ま
れない方が奇妙です。では、矛盾を調伏するまで戦いますか?  

  子が巣立つまでは子育てのために、我々夫婦も葛藤と相克の中に身を置きましたが、子
が巣立ったあとは、死と鉢合わせするまでただ生きるだけです。ところが下の子の巣立ち
が本人の志望によって、文系の大学一般の例とは異なり、六〜七年も早く方向づけできた
のですから、食いしばる顎の力が少し緩んで、我々夫婦も、土曜の昼はラーメンを食べに
でかけ、日曜は美術館を冷やかすようになりましたが、偶然に立ち寄った美術館で楽しん
だのが、有名な漫画家の特別展であれば、帰宅後、娘が残念がったのは当然なので、今度
は事前に調べ、別の漫画家の特別展に足を運び、親子で楽しいひと時をすごしました。そ
の頃は、ゴルフと海外旅行を楽しみにしていた父同様、我々の美術も「消費」でしたので、
父との接点はなく、母とも住んでいる世界が違いました。

          二四

  娘が進学した最初の連休に、美術館見学の宿題が出ました。

  私の住んでいる県ですと、美術科の高校に心あたりはなく、そもそも美術科の存在さえ
知りませんでしたので、娘が探してきた隣県の高校が有力となり、しかも中学の推薦が効
くとなれば、併願も許されないたった一つの縁(よすが)として、何が何でも合格を祈願し
た、その「普通科美術科」の真価を理解するには、傍観者の我々はもとより当事者の娘で
さえ、卒業したはずの高校へ、さらに三週間も通う必要がありました。

  娘の入った高校では、美術科の教室は一学年に一つだけ、その一年次三十人の、一人は
病死、二人は進路を変え、卒業時二十七人の教室では、デッサンや平面構成、彫刻など課
題ごとに先生が異なり、講師を中心に美術の先生が十三人もいましたので、詰めこみの塾
勉とは対極の意味で、つまり技術修得の場でありながら、技術抜きの、自由とか主体性を
学ぶ意味で、よい勉強になったと思います。先生の多彩な顔触れも、母が喜んでくれた一
つです。

  美術館見学の宿題には、先生が一人一ヶ所、おすすめの企画展を紹介したチラシが配ら
れました。しかし、入学直後の五月では、同行する級友に心あたりがなく、一人で都心へ
出かけるのも心細く、我々と一緒となりますと、渋滞と駐車場難の美術館には及び腰で、
候補の美術館は、私が住む土地のさらに「奥地」に限られましたが、そこで出会った現代
作家の夫婦展が、娘と我々夫婦の、次いで母と、さらに父との、新たな交流の鉤(かぎ)に
なったのです。

          二五

  娘が高校に進学する以前の美術館では、私は好きな音楽を一人で聴くような鑑賞が続き、
子離れが進むにつれ、手近な行楽として、妻と一緒に「珈琲と西洋菓子」を楽しんでいま
したが、運転手として出かける美術館は、五月の宿題がはじめてでした。

  子の宿題を親が助けるのも何ですから、入館後は今まで以上に同行者と距離を置き、惹
かれた作品だけを駆け足で観てしまい、あとは長椅子で寛いでいたのですが、いつまで待
っても同行者は現われず、しびれを切らして順路をさかのぼりますと、妻に続いて娘を発
見、二人の挙動を観察して、気づいたことがありました。

  関心のある作品が、妻と娘と私では違うという当然のことを、改めて認識したのです。
妻だから同じ作品に惹かれるであろう、娘だから好みは一緒であろう、と思いこんでいた
節が、確かに私にはありました。

  名札や題名は見ないで、作品だけを一瞥後、気に入った作品を改めて見直すのが私の鑑
賞態度です。私は万人が認める傑作を前にしても、退屈してしまうことが珍しくなく、反
射的に、気に入った作品だけを鑑賞した方が楽しめるからです。しかし娘と妻と母は、私
が無視した作品も感受できる、その資質の違いはどうしようもありませんが、私は「よく
知った他者」の、作品に対する反応や感想の言葉によって、自分以外の感性を発見する歓
びを知りました。特に現代の作品の、色彩、構図、表現力に対する娘の感想を聞くたびに、
当人の感性が自由に、創造的に発揮されている様子が伝わって、最近は「他者」の言辞お
よび挙措から啓発される発見が、原作を見る以上の喜びになっています。実際に日本画を
描いている母にとっては、その発見がより直截的に、構図や彩色への刺激になっています。

  父が亡くなってから二週間後、母を慰めるため美術館に出かけました。この八月は日曜
のつど、四箇所の美術館を訪れましたが、お寺に出かけた一日を除き三回は母と一緒、そ
の最初の美術館で、燐光を塗(まぶ)した黒い背景にハイヒールを描いた作品を観ながら、
展示室中央の椅子で寛いでいた我々四人を「理解」できなかったのでしょう。六十年配の
二人連れのご主人が、我々に大きな声で「これ、わかります?」

  ケバケバケしい作品が我々にとって何であるかは、私がどのように説明してもわかって
もらえなかったと思います。娘は作品の技法を注視、私はその絵の「奥に見える」娘の単
身旅行を回想、母は配色を調べ、妻は構図に感心したと話せば「理解」は得られたかも知
れませんが、それはこじつけにすぎません。

  言葉で説明しないとわからないような鑑賞は煩わしいです。

  来年にB市の、ただ美術だけを観たさに、つまり、我々がそれぞれの感性で夢中になっ
ている作家を二人も生み出した「その土壌」を知りたくて、海外旅行に出かける予定です。
この海外旅行には、父の遺志も働いています。

  はじめは来年の夏を考えていましたが、調べ出しますと観たい気持ちが嵩じてしまい、
春休みに早めようかと思っています。上の子二人は社会に出ていますので、参加者は四人
です。誰もわざわざ、美術品の前で腕組みするために、海外へ出ようなんて思ってません。
身震いするような喜びが湧いてこないのでしたら、夫婦も親子も祖母も孫も、古今の傑作
の前で立ちどまる必要などないのです。

          二六

  五月の宿題以前の、まだ入学式も済ませていない三月下旬に、高校の卒展が市の文化会
館で開催されることを知り、元気だった父を誘って出かけたことがあります。しかし、卒
展の会場をあとにして喫茶店で休んだ折は、見てきたばかりの卒展に誰も触れようとはし
ませんでした。会場が半地下で暗く、しかも段差があり、展覧会の雰囲気が壊れてしまっ
たこと、会場の広さに見合う作品数がなく、閑散として文化祭一般と変わりなかったこと、
迫力のある作品が少なかったことがその理由です。高校美術科の卒業制作には、制約があ
ることなど知らなかったのです。しかし美術の作品に弁解は通じません。制作事情を知っ
た所で、心の隅に湧いた不安が薄れる訳でもありません。この時の印象は、娘の美大受験
のときも、本人の卒業制作時も、執拗にまとわりついて離れませんでした。

  娘の美術科では例年、生徒の約三の二は進学や就職など進路が決まり、残りが進路未定
になります。現役の美大(美短大含む)進学者は三分の一程度でしたから、経済事情が許
しても、全員が美大へ進学できる訳ではありません。なお、この美術科では、二年進級時
に本人の選択によって「美術」とデザインに専攻が分かれます。美大の受験は、科によっ
てはデザインの競争倍率が「美術」より高くなり、十倍を超す例もありますので、デザイ
ンに進む場合は一層、狭い門を覚悟しなければなりません。絵画志望であっても、多彩な
技法に魅力を感じ、デザインを専攻する生徒もいます。

  文科系の大学を志望する場合は、塾や予備校で詰めこめば偏差値が上がり、浪人しても
入学の可能性は高まりますが、美術(デザイン含む)志望では、いくら詰めこんでも感覚
や素質には努力の及ばない面があり、また、制作した素描や平面構成を一年次から比較さ
れ、講評され採点され順位づけられてしまいますと、中学までの自負心も色褪せてしまい、
一般の大学受験に倣って浪人を繰り返しても、進学できなくなる恐れもあります。

  娘が進級するにつれ、次第に明らかになった右の事情は、昼休みの事務所で父と母に細
かく報告、すでに卒展を見たときから不安を汲み取っていたのでしょう、二人は孫娘の進
路に塞がる壁を、すぐに理解してくれました。----父の症状が悪化して入院した折、ある
いはホスピスは希望者が多くて入れず、経過が「相対的に良好」だった父が「自宅での終
末介護」を選ばされ、その介護の重荷を母が真正面から受けとめていた折、八十二歳の父
と七十八歳の母に対し、幼児をあやし、小児を諭(さと)すような振る舞いを見かけました
が、高年者は子どもではありません。高年者を子のように扱う壮年者や若年者、また介護
人や家政婦は、感性において、高年者より老化しているのではありますまいか----。

          二七

  高一の夏休みに、娘は外泊を経験しました。中学でも友人同士、互いの家に泊りこむこ
とはありましたが、中学の友人は学区内でしたから、何があってもすぐに対処できました。
しかし高校へは、学校に届け出た通学路を利用しますと、片道二時間もかかります。そこ
に級友の通学時間が加わりますから、娘を一人旅に出すような気持ちになり、高一最初の
外泊は、本人が帰宅するまで気をもみました。

  稲作地帯の友人宅には、級友五〜六名が泊まったそうです。課題はワイワイ騒ぐことと、
ブロック塀に一人二間幅の絵を描くこと。どちらもやり遂げ得意だったことが、休み明け
に持ち帰った写真でわかります。特にブロック塀のペンキ絵は、誰の絵も舌を巻くほどよ
く描けていましたので、卒展で抱いた不安も消えたと思ったほどです。

  安心したのは妻も同じです。高校時代、美術部に属していた妻は、美術を学ぶ娘の欠点
がよくわかり、いろいろ注意するのですが相手は反抗期です、とても素直に聞き入れず心
労気味でのペンキ絵は、妻も本人も十分に満足できたはずですが、その夏から、娘は、自
分が仕上げる作品を、醒めた目で見るようになりました。

          二八

  ペンキ絵の写真を見た美術の先生は、通行人(鑑賞者)への配慮を欠き、住まいとも調和
せず、主題の統一さえ見あたらないと酷評しました。それから三年を経過した今、浪人し
た仲間の合格後に、ブロック塀を描き直す話があるそうです。 

          二九

  夏がすぎ、秋から新春までは平穏無事でした。、お正月は家族全員で父と母にご挨拶。

  暮れになりますと、両親は日本橋の百貨店から「お節」を届けてくれるのが常でしたが、
いつも事務所で顔を合わせていた私は、中元も歳暮も届けたことがなく、二人の誕生日に
お花や雑貨を、また年に数度、美術本を贈る以外、家族的な交流はありませんでした。

  当時、我が家には仕事用に、AX規格のラップトップが数台と、ウィンドウズ対応の初
心者用PCが一台ありましたので、私は子らに打鍵の練習を強要、するまでもなく上の二
人は率先、浮かれたい盛りの娘も渋々練習、子らは大学や高校の入学時から、打ち慣れて
いる私より速く、打鍵できるようになりました。もっとも上の二人は、私の口出しを厭が
って大学のパソコンを使用、また娘は、生活にパソコンが入ってくるのを好まず(私は芸
術表現では、パソコンは厭なら使わないでよいと考えています)電子メールだけを使って
いましたが、当時の我が家では一時期、一台のパソコンを四人で使うことになり、それが
娘の思わぬ利益になりました。

  高年者は、私の思う以上にパソコンに惹かれているのではありますまいか。母は子らの
打鍵を喜び、また羨みもしています。父はどうだったでしょう。二十年ほど前に合理化に
着手した折、父はコンピュータに拒否反応を示しましたが、孫のパソコンには、嬉しくな
いはずはありますまい。

  娘が実際に電子メールを使い始めたのは、通信相手が現われた高二からです。ニューヨ
ークへ引っ越した中学時代の友人と、のんびり航空便で文通していた、その相手が翌春か
ら、最初は親のアドレスで、やがては本人のアドレスで電子メールを開始、一方、娘は最
初から自分のアドレスでしたが、パソコンが共用という理由でメールソフトは私が管理、
子らにはパスワードを「申告」させ、各自専用のアドレスでも、当時、我が家には通信の
秘密はありませんでした。

  他者の通信内容を知りたいとは思いません。盗み見ることもありません。その方が気持
ちよく生活できるからです。しかし娘の通信が始まった二ヶ月後からは、行き違いを避け
るため、表向きは当人同士でやり取りさせながら、実際には双方の親が了解できるように、
私も娘のメールを読んだり娘の名前でメールを発信、あるいは娘のメールに追記するなど、
パソコンを共用する便利さを十分に確かめました。

          三〇

  ニューヨークに泊まりに行く!  という話の、ほぼ合意ができていたのが五月の中旬で
した。美術科に進学が決まった折、できるだけ早い時期に海外へ、特にニューヨークの美
術館に出かけ、現代美術を見られたらいいねと話したことはありますが、見て来いと命じ
た覚えはなく、また、我が家では海外旅行など夢の夢、子が大学に進み、友人同士で旅行
するまで、子らの海外旅行は不可能と思いこんでいた矢先ですから、突然の申し出に、そ
の場では何も答られなかったです。

  先方のご家庭は、海外住まいも海外旅行も経験豊富で、渡航手続きや渡航条件も組織の
後ろ楯があり、さらに先方の住宅事情は、日本国内とは比較にならないほど恵まれていま
した。

  一方、当方は私の性格から、会社と個人には厳格に線を引き、旅行も、車も、住まいも、
飲み食いも、スポーツも、個人の入り用に会社は介入させませんので、もし娘が一人でニ
ューヨークへ出かけるとなりますと、手続き一切を我が家でやらなければなりません。お
まけに娘は飛行機に乗った経験がないのです。

  高校生の一人旅は、航空会社も特別扱いしません。また、個人的な滞在では、帰路の変
更の効かない航空券は不安です。団体の海外旅行にくらぺ、個人客の航空運賃は高すぎま
すが、病気や事故など、機内や滞在先で何かあった場合を考えますと、外国の航空会社や
割安な航空券は心配です。観光であれば団体旅行を利用して、安く、手続きも人まかせで
実現できますが、娘の件はどのように考えても諾という返事が見えません。憂鬱でした。

          三一

  遊びに行くのなら身分不相応です。許さないことに決めました。航空運賃は我が家にと
っては大金です。勉強(美術館巡りと街の雰囲気を肌で知る)が主でなければなりますま
い。その覚悟は?  はじめての飛行機で、それも一人でニューヨークへ出かけるというの
ですから、いい加減な気持ちではないでしょう。では高二のこの時期、個人で出かける理
由は?  

  それは私の感性に拠っています。国内であれ海外であれ、高校生は個人で自由に旅行を
楽しんで欲しい、その移動には自転車を!  宿泊にはホームステイを!  が私の夢です。
海外に出かける際は、航空機利用の援助の仕組みも作りたいとは思いませんか?

  娘のニューヨーク旅行には「夢」に通じる何かがあったのです。しかし六月下旬になっ
て、先方がサマースクールに出かける期限が迫り、返事を催促されるまで、私からは何も
言わず、娘も触れようとはしませんでした。

          三二

  勇んでも時間が経てば、あれこれ思案が膨れ心配になり、計画倒れになる例は珍しくあ
りません。修学旅行でも飛行機に怯え、不参加を表明する子もいますから、単身での海外
旅行は自然消滅と踏んでいた六月末、先方にはっきり告げなさいと命じ、断わるのだねと
つけ加えますと、反発をこめた「行く!」の応えに「わかった」の一語で親子の会話は終
わりです。

  娘は行くと決めていました。さっそく私の挨拶文を付記した電子メールを発信させ日程
を調整。ほどなく先方はサマースクールに出かけましたが、ウェッブ・サイトから送受す
るアドレスを使っていますので、滞在先でも電子メールのやり取りが続き、双方、年頃で
すから緩みっぱなしの、二人の喜びが伝わってきました。

  娘は海外旅行を、最寄り駅で切符を買い、通勤電車を乗り継いで、渋谷へ出かける程度
にしか考えていなかったのです。いくら待っても娘の気持ちが変わらなかったはずです。

  夏休みは迫っていました。すぐに飛行機の便を決め座席を確保、旅券を申請、出入国手
続きの書類を入手、予算を立て、旅行者小切手を手配、飛行機の乗り方を教えたのですが、
娘の耳には右から左で、持参する衣類や化粧品に気を取られ、飛行機に乗る間際まで一人
旅の重圧には気づいていませんでした。往きの機内の、日本人団体客とは離れた座席に坐
った途端、緊張に捕縛され、機内ではまどろむこともできず、着いたときは目が真っ赤だ
ったとは、ニューヨークからの第一報。

  お邪魔させていただきますと伝えさせた数日後、先方から「お願い」の電子メールが届
きました。娘の帰路に同行させて欲しいとの申し入れです。ご両親が、一時帰国する日程
がずれてしまい、本人だけ先に帰国したいが、一人住まいは不安なので、両親が帰るまで
我が家に泊めて欲しいという申し出に妻も了解、返事が遅れてはかわいそうなので、直ち
に歓迎する旨、電子メール。

  我が家には来客用の個室がありません。仮にあったところで、我が家は音が筒抜けで、
泊まる方、招く方、ともに気詰まりは避けられません。一泊程度の来客としてもてなす場
合は悩む必要もありませんが、家庭的に受け入れるとなりますと、歓迎の気持ちとは裏腹
に、経験がなく、要領もわからず、娘は兎も角、まずは上の子二人の協力を取りつけまし
たが、我々の住宅事情では、滞在日数が長引きますと、皆が窮屈になってしまいます。


次頁へ続く
前頁へ戻る

散歩者の夢想メーリングリストの表紙へ