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随想 橡の木の葉 (六の三)
前頁より
三三
娘が中学へ上がった頃、もう一人の子が当地の親族の家から、一駅離れた別の住まいへ
移りました。その後も学区は違いましたが、小学時代の仲間とお喋りしたり、娘の部屋で
漫画を読む姿を目にしています。この子がある夏の夕暮れ、ふらっと自転車でやってきて、
娘に泊めて欲しいと頼んだことがあります。娘から頼まれた妻は、心配するといけないの
で、お宅にはウチに泊まると電話するけどいいね?とだけ確かめて、さっそくカレーライ
スを作り、娘の部屋で二人一緒の静かな夕餉。
翌日はお墓参りのため、家族全員で妻の実家へ出かける手筈。休みは昼近くまで寝てい
る子らも、早く起きて食事をしなければなりません。その子も娘と一緒に朝食を済ませ、
一人、自転車をこぎながら帰る姿が、洗車中の私の目に焼きついて離れません。
その子は高校卒業後、都心で働き始めていますが、今も折々、娘と携帯電話で連絡をと
り合い、仕事を終えた十時とか十一時に、ファミリーレストランで落ち合っています。娘
はその子と約束ができると、我が家での夕食を中止、深夜の正餐を楽しんで来ます。
ニューヨークの子は逞しい。しかし国内よりも海外での生活が長く、それなりに苦労も
多いのでしょう、傷つき易い一面を、特に対日本人との人間関係に、溶けこめない難しさ
を、親御さんは心配されていました。
もう一人の子も、自立心が強く前向きで意欲的です。ニューヨークの子が親しくしてい
る理由がわかります。母も父も、この子らを泊めてから、二人のファンになりました。
三四
ニューヨークの子から申し出があったとき、もう一人の子にも、今度は心置きなく泊ま
ってもらおうと考えました。
その子は再び当地に移っていたのですが、私の提案に対し、保護者の拒絶が妻の不安で
あり、その子は運動部のマネージャーでしたので、部活の予定が娘の気がかりでした。し
かし運動部は夏のお休み、保護者からも快諾を得られ、晴れて三人の寝泊まりが実現しま
した。
気分転換にと、広く静かで、空き部屋にも困らない父母の家での二泊三日も、孫娘の旅
行を喜んでくれた二人は二つ返事。娘が出発後、私も準備のため両親の住まいへ。
玄関に涼風が吹き抜け、陽射しに建物が揺らぎ、寄り添いながら現われた二人の笑顔は、
幻のように懐かしかった。
群青色の絨毯を踏んで食堂に入りますと、部屋の四隅に黴臭(びしゅう)が漂い、応接間
の習作は埃(ほこり)にまみれ、几帳面な母でしたが、仕事の減量が年齢に追いつかず、父
の掃除も細部に目が届かず、代わりに私が掃除、黴(カビ)と埃を拭いましたが、二人をた
だ老いたとばかり思っていた私は、痰まじりの咳が続いていたにもかかわらず、父の体に
は、露ほども思い至らなかったのです。
食器の片づけは父の分担でしたが、ある日、体を引きずるようにして流しに立った父は、
母さん、すまないねえ、体が動かないのだよと詫びました。母はその折、尋常でない何か
を感じましたが、ほどなく父は検査のために入院、肺の腫瘍を告げられました。
私にはあの日の笑顔が、二人からの別れのように思えてなりません。乾いた陽射しを浴
びますと、二人の寄り添う姿が懐かしくいとおしく、子を泊めてもらった夏の日が目の前
に現われます。
夏休み最後の想い出は、外苑の花火と決めていました。入場券発売の初日に内野席を三
枚購入、浴衣は母に品定めを頼み、娘の出発前日、母と妻と娘と一緒に買いに出ました。
スコアは乱れていましたが、あの夏まで、休日の父はゴルフを楽しみ、浴衣売り場に父の
姿はなかったです。
三五
両親と合流したニューヨークの子が、再び欧州経由で渡米後も、当地の二人はまだ遊び
足りないとかで、夏休み最後の土曜日に、行きそびれた繁華街でバーゲンを漁り、ライブ
の券が入ったとかで、喜び勇んで出かけました。ライブの券は、もう一人の子の感謝の気
持ちです。
二人は紛れもなく高校の女の子でしたから(以前、何気なく「コギャル」と呼んだとこ
ろ、娘は強い不快感を示しました)髪は茶色、爪は紫、踝(くるぶし)に達するへなへなの
スカート、素足に下駄と、阿呆丸出しの姿に衝撃を受け、顔の化粧は、恐ろしさの余り見
ることができませんでした。
開演が遅れたとかで、最寄り駅に着いたのは十二時近く、手をつないでトボトボ歩く姿
は幼稚園児のあどけなさ、ひと夏の心配がようやく安堵に変わりました。しかし三人の子
は自分たちだけで楽しんだのではありません。父と母に、生涯最後の夫婦の旅行も、贈り
届けてくれたのです。
娘の美術鑑賞は闊達です。惹かれる作品に自在に溶けこみ、さらりと抜け出し、好きな
作品を踊るように楽しんでいます。先入主や固定観念はまだ稀薄ですから、初見の作品や
初対面の芸術家を好奇心で篩(ふる)い、感性で学び、好みで腑分け、貪欲に吸収する姿を
見ていますと、私も視野が広がり、意欲と創造力を掻き立てられます。父と母も同じです。
三人の子を目のあたりにして、再び二人で、海外を旅行する勇気が湧いたのです。
両親はその後、私が用意した家族旅行を楽しみ、また放射線照射後は今一度、身内につ
き添われ海外に出ましたが、まだ元気であった昔のように、二人だけで参加した旅行は今
回が最後でした。以前の二人は、母が「人生観が変わってしまった」と誉めるTさん(女
性)の海外旅行に繰り返し参加、父も最高の楽しみにしていたのですが、父は衰えを感じ
たのでしょう、旅先で足手まといになるのを嫌い、数年前から海外旅行を断念、母が年に
数度、日本画の写生旅行に出かけるほかは、二人は国内旅行もやめていました。この夏の
父は八十歳、母は七十七歳でしたから、旅行にはためらいがあったのです。
三六
二人が海外旅行に出ると決めたのは、子らの夏休みが終わってからです。行くのなら早
くと考え、父はTさんに問い合わせ、冬場なら南半球がよいであろうと、ニュージーラン
ドとオーストラリアの「新婚さんに向けた海外旅行」に決めました。今回はTさんの企画
ではなかったのですが、Tさんの配慮が行く先々で現われ、半世紀余りも連れ添った夫婦
でも十分に楽しめる「新婚旅行」でした。
出発の当日は、午後の三時まで仕事に追われていた母も、往路の飛行機で熟睡、疲れが
とれ、衰えが心配されていた父も元気を盛り返し、年末の一泊旅行へと続くのですが----。
父は旅行会社の封筒を私の机に置きました。留守宅に預ける資料と思いこみ私は放って
置きました。ところが改めて「頼むよ」と声をかけられ慌てました。封筒の中には二人分
の書類が手つかずのまま入っていました。
父は中学校を卒業後、就職の準備のため珠算道場で合宿、算盤の番付は横綱の実力者で
したので、出先での加減乗除は暗算で済ませてしまいます。祖父に見こまれただけあって
お金儲けの才覚もありましたが、事務もこなし、父の帳簿は文字まで見事です。母の芸事
もそうですが、父も、手習いは身につけて当然という時代に育ち、何でも自分でやりまし
たので、書類を白紙で渡すなど、以前は考えられなかったことでした。
三七
七七日忌(四十九日)の席で、昔話に花が咲きました。
母の実妹のBさんは、Kという女学校に通っていました。Kは勉強は今一つでしたが、
富裕な家庭の子女が通う学校で、月謝が高く、母の通っていた女学校が十三円だった時代
に、二十五円もかかったそうです。学校の解散後も財産が残り、宴会場で開かれる同窓会
も無料だったのですが、会員の高年化が進み、参加者が減る一方で同窓会も解散、残金で
記念碑を建てたと話していました。
祖父の商売は繁盛しましたので、母も、Bさんも、母の実弟も、真新しい着物があたり
前でした。新調の着物が届きますと、祖母は、今まで子が着ていた着物を惜し気もなく与
えてしまう、その江戸っ子気質が枷となり、かたくなに疎開を拒み、祖父の説得でようや
く転じた直後、東京大空襲で焼け野原になった、中に、店の金庫がぽつねんと立っていた
そうです。
戦時中に復員した父は、祖父が養子一家に買い与え、疎開する際、無人は危険だと、隣
り組の某に、タダ同然で買い取られてしまった家から、はじめは郷里に本社を置く紙業会
社に、次いで日本橋のS鉄鋼に通い、その関係先で室町のM造船を義妹に紹介、Bさんは
造船会社に就職しました。
不発弾が庭に落ちたので、築地の病院を予約していた妊娠中の母は、長男を連れ真間の
家を離れ、父の郷里(静岡県)に疎開、実家で出産しましたが、その後の住まいは遠縁の
家で、実家からやや離れた民家の二階でした。父は兄姉が多く、郷里には寝泊まりできる
場所がなかったのです。しかし出産時に、贅沢に育った母は義母から家事を仕込まれ、そ
の後の母の生活にとても役立ったと感謝しています。
疎開先の民家で母と乳飲み子は栄養失調になりました。勤め先が爆撃で焼失後、父も母
の元へ疎開しましたが、F川の土手で栽培した苦労が忘れられず、亡くなるまでカボチャ
は口にしませんでした。
両親はF市で終戦を迎え、家族四人で引き上げたのが市川の祖父の住まいです。両親が
疎開先を引き上げる際、郷里に預けておいた家財を運んだのが馬力、馬力とは馬をつない
だ荷車のことです。人でも引ける荷車に、家財を積んでもまだ空きがあったので、薪を積
み上げ、F市から市川まで届けてもらったそうです。
三八
二人の旅券は期限切れでしたが、新たに申請する際、有効期間に困りました。十年後に
父は九十歳になります。その歳でも海外旅行は可能でしょうか。父は母に、自分の父親が
亡くなった歳、八十八歳まで生きたいと話していましたが、寿命は延びていますので、父
は百歳になっても達者でしょう。持病を意識して、控えめな期待を話しているのです。二
人とも「十年」で申請しました。
今回は旅行社主催ですから、面倒な手続きはありません。残るは外貨です。父の希望は
現地通貨を日本で両替、となりますと大手の銀行でも取り扱う支店は限られます。二人の
家計は父の領分なので、つき添うだけのつもりでM銀行のH支店に同行しました。
御影石の床は手を添えないと転んでしまいそうに、父の歩行は頼りなかったです。両替
の申請用紙を渡してもおっくうな様子、なので私が金種を選び、両替を済ませますと、外
貨を手に取って実感が湧いたのでしょう、浮き浮きした表情で事務所に戻りました。母も
嬉しそうに寄り添い、異国の紙幣に見入っていました。
三九
母はこの旅行が済むまで、父の衰えを口にしたことがありません。
私は自分に老いを認めるたびに、恐怖心を抱いていましたが、離れている父の衰えには
関心が湧きませんでした。そこに突然、娘を泊めてもらう必要が割りこんで、否応なく父
の衰えを突きつけられ、相棒を失ったような寂しさと、悲しみのこもった労りの気持ちが
湧きましたが、私の心配は結局、傍観者の哀感と、立場ゆえの相乗りにすぎませんでした。
ニューヨークから戻った娘の土産は、兄二人と、妻と、私と、妻の両親と、私の両親の
誰にも美術館のネクタイかスカーフでした。品物の素材や機能に目新しさはありません。
美術館の所蔵品から図柄を選び、繊維製品に仕上げただけです。この種の土産は身につけ
る本人次第です。ありとあらゆるデザインが出まわっているネクタイとスカーフを、単に
色と図柄の組み合わせだけで、ニューヨーク旅行の土産として喜んでもらうのは、並大抵
ではありません。
受け取る側にも同じことが言えます。贈られた品のデザインの個性を生かせるか? 着
こなしが悪ければ、どんなに吟味して贈っても空まわりになってしまいます。
娘は祖父と祖母に高価な土産を贈りました。父が亡くなって、処分に困ったネクタイを
かたまりごと渡されましたが、母が箪笥に残した一本は娘の土産、また母が受け取ったス
カーフは、買い物や日本画の集まりで幾度となく母の胸を飾るのですから、娘の目利きは
上出来でした。
父が自分で旅行の案内書を買い、頁をめくり、夢中になって探していたのも孫への土産
です。
父は二つの国の土産がわからなくて困っていました。現地に行けば何でもあるのですが、
本当に喜んでもらえる土産の、品種についての確信が持てなかったのです。私も聞きかじ
りでしたが、ある品を口にしますと、その品種を孫の喜ぶ保証と思ったのでしょう、途端
に笑顔を見せ懸案解決、脇にいた母が、ここ数日、父は家でも、土産で頭を悩ませていた
と教えてくれました。
土産探しに夢中な姿を見て、父の衰えを忘れてしまいましたが、母は介護する当事者の
目で、派遣家政婦や訪問看護士など「他者」ではなく伴侶の目で、父の衰えを普通でない
と感じていました。
四〇
私の恐怖とは、生きる上での様々な不安がどうしようもない壁に遮られ、自分が奈落の
ふちに立たされたと感じている状態を指します。幼い子が得体の知れない影に怯える恐さ
と違い、私の恐怖は状況に応じて変わる相対的な意味合いです。若い頃は、病気には覚悟
で対処、職を失う恐れさえ新たな機会と感じ、希望を抱くことができましたが、老いたと
感じている現在は、もし深刻な不安に直面すれば、容易に恐怖に囚われてしまいます。
居間で寛いでいても、全身、冷や汗で濡れてしまうほどの恐怖を体験したことがありま
す。事業に関して、関係者相互の立場から避けられない壁に突きあたり、精神も体調も崩
れてしまった、その状態は、普段であれば心配程度で済んだのでしょうが、自分にはこれ
からがあるのだろうかと、改めて老いた自分に愕然としていました。現在の私は同世代に
くらべ、あるいはひとまわり上の世代と比較しても、心と体の綻びが進んでしまったよう
に思われます。早朝に走るのは強健とは違います。通勤電車や繁華街に立ちますと、潰れ
てしまいそうな脆さを感じ、踏ん張りが効きません。幸い、今は不安の段階まで後退しま
したが、当時は子らの学費を考えた段階で、私の恐怖は頂点に達していました。
私はいつまで自力で生活できるでしょうか。何かの理由で、夫婦で生活できなくなった
場合は、私は一人で暮らします。病気のときは、老若問わず他者に依存しなければなりま
せんが、子らが自立したあとは、私は父と同じ考えで、我が子であっても他人であっても、
妻以外とは暮らしたくありません。
それを阻む壁はお金です。お金に阻まれたとき、老いては蓄財の機会も操舵を奪い返す
力もないでしょうから、伴侶に先立たれますと、自分の思惟と自分の感性を封じない限り
生き続けることは難しいでしょう。父の死の経過で、改めて老いの恐怖を認識しました。
現在の母には、当面----、お金の心配はないでしょう。それにもかかわらず、私にも悲
しみが居座ってしまいました。母の悲しみを癒すなど、できるものではありません----。
四一
写真の整理を手伝っていた折、新婚直後の父と母が、銀座通りを歩いているスナップを
発見しました。太平洋戦争突入の翌年でしたが、写真屋が撮影したのを買わされたとかで、
自動撮影の証明写真さながらに、四連一葉の映像を、私は一目で気に入りました。
医療であれ介護であれ、夫婦に対する割りこみをことごとく排除した献身には、驚きも
し、学んだこともありますが、私には介護している母の気持ちを、また寡黙な父の気持も、
感受できてはいませんでした。
母はお見合いの瞬間から父の死後まで、父は死ぬまで、伴侶を想い続けていたのです。
中学生の私は修羅場にあった二人に、どうしてもわからないことがありましたが、銀座の
写真は、昔の疑問「なぜ別れないの?」に答えていました。
この随想を書き始めてよかったです。祖父と母の絆が(父と娘の絆が)祖父と祖母の間
に実の子をはさんだ齟齬を生み、祖父の死後、母は夫しか頼れなかったのですから、絆は
強まって当然ですが、齟齬があろうとなかろうと、二人は出会いの瞬間から、互いに最高
の伴侶だったのです。
父もまた祖父の死で保護者を失い、姑からうとまれ、なお勤めに戻らず、店を再興した
のは伴侶への想いがあったからです。
写真の二人を見ていますと嬉しくなってしまいます。介護に献身している母の姿は、夫
を見つめている街頭写真と同じでした。母に介護されている父の安心も、二人の写真と同
じでした。
四二
帰国した母から「お父さんは衰えた」と言われた時は血の気が引きました。得意だった
計算をおっくうがり、ちょっとした手続きにも立ち往生したのです。土産を買うための熱
意や帰国後の活気を考えますと、母の観察は杞憂にすぎないと思っていましたが、母はい
ち早く父の異変に気づいていました。
父には昔、腎石の持病がありました。急性の膵臓炎で一瞬、心臓がとまったこともあり
ます。敗戦直後は、結核性肺門リンパ腺炎で半年ほど療養、中年以降は糖尿病もありまし
たが、決して虚弱ではなく、体躯は小柄でも、荼毘(だび)に付したお骨は容器に入りきれ
ないほどで、足腰が黒ずんでしまった晩年でしたが、父の骨は白磁のように明るく、柔ら
かい光沢さえありました。
大腸のポリープも切除して懸念は去り、当時は父の一病息災を、疑う家族はいませんで
した。それは父も同じだったでしょう。
仕事の合間に母は日本画を描いていますが、西欧の芸術家で、画布を銃で打ち抜くなど、
一時は過激な作風で知られた女性作家に、まさか惹かれるとは思いませんでした。五月の
宿題の折、娘と出かけた美術館で、妻も私も気に入ったのがこの作家の、過激を超えた時
代の作品でしたので、何かの折に、この作家の美術本を贈ったところ、目を輝かせた母が
新鮮でした。
母は自分の父親同様、美術が好きでしたので「年末にこの作家の美術館に行くつもりで
す」と声をかけましたところ、二人はその場で同意、両親を交えての家族旅行が実現しま
した。
四三
子が小さかった頃は、三家族十数人の旅行もありましたが、働きだした子もいる現在、
六人を集めるのがやっとです。
参加者は両親と我々夫婦、それに中の子と下の子(娘)です。中の子は家族旅行でもノコ
ノコついてきます。しかし大学の行事や徹夜のバイトのため(深夜放送の手伝いとかで、
夕刻から翌朝までのバイトを毎週続けていました)中の子とも家族旅行の機会はなかった
です。
上の子はある年から「家族とは絶対に旅行に行かない」と宣言、それ以後、宣言を誠実
に実行し、祖父母にとっては初孫なのに、やはり中学の頃から、祖父母とも我々夫婦とも
旅行には行きませんでした。しかし父の最後の入院時、自分から時間を空け、見舞いに来
た孫はこの子でした。父は病状が悪化後、孫にも特別な親しさを見せなくなり、母も極度
の疲労から、面倒見の必要な孫の来訪には負担を感じ、以前は物心両面で恩恵を受けてい
た孫たちも、見舞いの足が遠のきましたが、死の前日に病室を訪れ、意識がはっきりしな
かった祖父を見届けたのはこの子です。
親との家族旅行を拒否したのは下の子も同じです。しかし、五月の宿題がきっかけで、
美術館に限って我々と出かけ、また祖父母には感謝していますから(我が家の子らは、父
方であれ母方であれ、我々夫婦より、祖父母の方が優れていると思っています)先約がな
い限り、美術館と祖父母を引き合いにして家族旅行に誘えば、あとで友達から誘いがあっ
ても、家族旅行を優先する力関係が生れていました。
四四
中の子が新幹線のホームで両親に会った時は、ただでさえ無愛想な性格でしたから、ぎ
こちなさを隠せませんでした。ですがこの子は、酒席を除けば「枠外」を自分の居場所と
心得ていますので、放っておいても満足できる、そのことを両親もすぐに理解。
以前、笑いについて書いたことがあります。笑いを緩衝材にしないと、人間関係がうま
く行かない社会は貧しいと思います。親子の間に友人関係をあてはめる社会も、祖父母と
孫の間に甘えを持ちこむ社会も貧しいと思います。時に甘えるのは自然です。しかし、細
やかな心づかいに重きを置き、創造的営みに傾聴する状況が、祖父母とほかの家族との間
でも必要ではありますまいか。
十年ほど昔の家族旅行は、そのつど「これが家族団欒の最後の機会」という悲愴な覚悟
がありました。しかし今回の二家族合同の旅行では(一つの家族ではありません)恐怖感
が遠のいた上に、命じれば面倒を見てくれる子が二人も加わったのですから気楽そのもの、
十分に両親を気づかうことができました。タクシーに乗る時は、自分の家族ではなく、両
親と乗車すればよいのです。歩く時は、妻と娘が母につき添い、三人でお喋りを楽しめば
よいのです。その折、父はなごやかな顔で聞いています。
私は案内板で行く先を確かめ、案内所で説明を聞き、中の子に買い物を頼み、帰りの昼
食の場所と、電車待ちの喫茶店を探し、みやげ物店を確かめ、海外旅行のように至れり尽
くせりとは行きませんが、母と妻と娘が気持ちよくお喋りできればよいと、思いもしない
で歩きまわっていました。
母は三人一緒のお喋りを楽しみにしています。Bさんとの長電話を除けば、母が手放し
でお喋りできる相手はほとんど見あたりません。父の存命中はそれでもよかったのです。
しかし今は、一人で生きるために、他者の庇護者然とした態度ではなく、自然の会話が要
るのです。
四五
師走の二十七日は温泉街もすいていました。賢明な時節選びとはタクシーの運転手の言、
渋滞を知らずに美術館に到着、雪はなく、霜枯れた雑木林をゆっくり歩いて入口へ。
入場券を買って、最初にのぞいたのは記念品売り場。どれも女性作家に関連した品々で、
踊っている人型のブローチに魅せられ、さっそく買ったのは母でした。このブローチと娘
のニューヨーク土産のスカーフが、日本画の教室で評判になった取り合わせ。
見終わってから、改めて画集も絵葉書も買いましたが、美術館の記念品売り場で、鑑賞
前にお土産を買ったのは初めての経験です。母はよほど嬉しかったのでしょう。
入り口ですれ違った男女のほかは無人でした。鑑賞中も、監視人さえ見あたりません。
現代美術の企画展でも、これほどの貸し切り状態は滅多にないでしょう。
記念品を買ってひと安心したのですから、先ずは一服、前に進めば展示室、右にそれれ
ば喫茶室、を素通りするほど急ぐ必要はありません。六人坐っても、まだゆとりのある大
テーブルに案内され、カップチーノ、エスプレッソ、アイスクリーム、珈琲など各々好み
の飲み物を注文、父と母も、六人の真ん中で寛いでいました。
外出の折、母は大きな鞄を抱えています。カメラが入っています。私のカメラは記念撮
影が目的ですが、母は日本画のスケッチ代わりです。よい構図を発見しますと、表情豊か
に喜びます。水分の補給用に、烏龍茶も「二缶」入っています。母の細かい心づかい!
喫茶店でもレストランでも、母は鞄を抱えたまま、あるいは背もたれに押しつけながら
飲食するので、着席する際は置き場所を探してあげます。床置きはいけません。離れて置
いてもいけません。母はそっと自分の膝に戻してしまいます。私が抱えるか、目の前の空
き椅子に置かなければなりません。母の鞄には、心が入っているのですから。
四六
小さな美術館でしたが、作家一人の展示場としては贅沢な方でしょう。宿は歩ける距離
にあり、今日一日、好きなだけ観られます。時間も気持ちも、これほど余裕のある鑑賞の
機会は滅多にありません。絵画や塑像だけでなく、この作家を取り上げた雑誌の記事まで
丹念に読み、父と二人の子は自分の歩調で、母と妻は会話を楽しみながら堪能しました。
先日の海外旅行の父は、飛行場で受け取った荷物を持ち出すのに、足の遅い母よりもさ
らに遅く、母は不安を感じていましたが、館内の父は、展示物の前で丁寧に解説文を読み、
作品一点一点を仔細に眺め、得心が行くと次の作品に移って行きましたので、意外な父の
一面を見出したほかには、心配の種はありませんでした。
翌日は待ち時間を潰そうと、市街地にある美術館に立ち寄りました。新年を意識したの
でしょうか、常設展示のほかに、百人一首に因んだ絵や書が並べられ、父は丁寧に読んで
いました。一方、私は、これからは率先して旅行を準備、両親に楽しんでもらう必要を感
じていました。
女三人が女性作家への親しみを増し、次はその作家が設計した公園へ海外旅行を夢見た
ところで遅い昼食、館内の喫茶室は利用済みなので、最寄りの観光施設を予定、案内書で
は徒歩十数分の距離、ならば風もなく、散策には手ごろと考えたのが間違いでした。見通
しはよいのですが、舗装道路に歩道がなく、坂が多く、タクシーの姿も見えず、様子を見
に走った私の足なら、確かに十数分で着きましたが、道ばたで待たせてあった父や母は、
二倍の時間がかかりました。
父の歩行は、遅いだけでなく足許も危ないので、父の手を取って歩いたのが娘です。握
る手は強すぎてはならず、形だけでは危なく、歩調が合わなければぎこちなく、手にぬく
もりが必要なのは、私も父の闘病中に学びましたが、当時は、父には足が遅い以上の配慮
はできませんでしたので、危ぶんだ娘が父の手を取らなかったら、父は歩き続けることが
できなかったかも知れません。母は体力からも身長差からも、父の歩行を介添えするには
無理があります。その母が五十日も父を介護したのですから、首が前に垂れ下がってしま
い、九月末の今も、元の姿勢に戻れません。
四七
遊園施設の食堂でお蕎麦を注文、簡単なお昼を楽しみ、鱒釣り場の前で記念写真を撮っ
てから、少し早いですが宿に入ることにして、公衆電話でタクシーを呼び、ややもすると
立ちどまってしまう父を促し、駐車場前のベンチに腰掛け、タクシーの到着を待ちました。
無為も疲れもただ一つことさえなければ、旅行中の齟齬はすぐに楽しみに変わります。
父は自分の衰えを認めていました。母は父の衰えに不安を感じていました。しかしただ一
つことはまだ存在していなかったのですから、この家族旅行はどのような不手際が生じた
ところで失敗はありません。子らが成長後、初めて二日も一緒だったのですが、笑いを必
要としないほど溶けこんでいましたので、お風呂と夕食を考えただけで、疲れは吹き飛ん
でしまいます。
旅館は期待したより質素でしたが、部屋は広く、露天風呂もありましたので、女三人と
中の子は放って置いて、父と二人で風呂場に向いました。父との入浴は十年前にゴルフ場
で経験、体の老化は想像通りで驚くような変化は認められず、むしろ走りこんでいた私の
方が贅肉のない分、すじ張り、肋骨が浮き出て、老化が進んだような状態でした。
風呂場ではそっと手を取り、一歩一歩確かめながら洗い場に向かい、奥の扉を押し開け、
露天風呂に導き、今度は父の手を握り締め、滑った時は受けとめられるようにと足場を固
め、風呂の中央に導きますと、自分で坐り心地のよい石を見つけ、ゆっくり湯につかり始
めました。
湯はぬるめで、松の木を吹き抜ける風が心地よく、いつまでつかっていても湯あたりの
心配はありません。風の音が聞こえ、父となごむのに言葉は要らないと、考えることさえ
やんでしまい、父には私がいるだけで、私には父がいるだけで、満ち足りていたのです。
四八
風呂から部屋への帰り道、父から「露天風呂は初めてだよ、いいものだね」と言われ、
にわかには信じられませんでした。両親は昭和三〇年代に毎年一、二度、温泉への招待旅
行を実施、当時の店ではサービス券を発行、近所の蕎麦屋や寿司屋で食事に引き換えられ
るほかに旅行の特典もあって、上客は温泉旅行を楽しみにしていたのです。
両親の問屋は、最盛期には五百以上の小売店と取引がありましたが、その中でサービス
券を集めていた約百五十の小売店が、温泉旅行に参加しました。
当時の店の招待旅行は、例えば熱海でも、一流旅館の柿(こけら)落としを利用するなど
豪華なものでした。父の最後の旅行も熱海になりました。今の熱海は、タクシーの運転手
によりますと、有力旅館の閉鎖や倒産が目につくそうです。
脱衣所での父は棒立ちのまま着替えます。左手で棚につかまり、新しいパンツを右手に
持ち、片足を上げ、パンツに入れようとしますがうまく行かず、見かねて手を出したこと
もありましたが、パンツをはく手助けを父は「要らないよ」と聞き入れません。しかし肌
着や浴衣は、先に片袖を通し、もう一方の袖が通らない時は助けを求めます。
母や妻は入浴中でしたので、二人だけでエレベータに乗り、夕食の準備が済んでいた私
の部屋に案内、室温を調整、安楽椅子の坐り具合を確かめ、お茶を入れ、皆が揃うまで休
んでもらいました。
四九
わずかな量のお酒でしたが、父のほろ酔いには十分です。食べられる量も減ったので、
夕食の途中で食事が済んでしまい、母が工夫した手順で立ち上がり、部屋の寝椅子に腰を
下ろせば、寝こんでしまうのは明らかですから、両親と我々は部屋を入れ替わることにし
て、残り五人で再び夕食を続けました。
発病前の父の旅行はこれで終わりです。上野で別れた翌日は大晦日、毎年、両親が送り
届けてくれる「お節」を除夜の鐘を聞きながら食べ、一晩眠ればお正月、狭い車に家族五
人が乗りこんで、改めて両親の家へ出むき、しばらく寛いでから、引きとめる母に笑いを
残して近くのお寺で初詣、例年、両手を合わせるのは元旦の暮れ方になりました。
母は口にもそぶりにも出しませんが、感受性が自然に伝わってくる食事や旅行を好いて
いました。夫婦二人でしたからそれが可能だったのです。しかし今の母は一人です。誰一
人、父の代わりは務まりません。
五〇
年が改まり、事務所で昼食を済ませた一月中旬、父から「また出かけよう」と切り出さ
れ、中の子は就職活動で無理ですから、下の子(娘)の春休みに五人で出かけることになり、
前々から美術には不自由しない京都を提案、もとより父にも異存はなく、京都旅行が本決
まり、父は予定表に記入、母もそばで嬉しそうに聞いていました。
雑談中も父は咳きこみ、痰を吐くことがたびたびでしたが、お行儀が悪い程度にしか頭
になく、血が混じったと聞いたときは、容体に気づかなかった自分が情けなかったです。
父は糖尿病の検査と治療で必ず毎週、内科や眼科に通っており、ほかに重い病気があれば
まさか見逃すはずはないと、思いこむ方が自然ではありますまいか。
胸の写真の病巣は見まちがえのないほど大きく、手術に耐えられるかどうかの検査でし
たが、はじめは一週間と聞かされ、一週間経ってからは翌週退院と伝えられ、さらに退院
が一週間延び、病状の深刻さに恐怖しましたが、最もつらいのは患者なのだと、父の前で
は明るさを装い、またこの頃は、身内の誰かしらが見舞いに来ていましたのでお昼は避け、
毎朝欠かさず経済新聞とスポーツ新聞を病室に届け、検査の終わるのを待ちました。
五一
父は検査入院中、ほとんど何も話しませんでした。もともと口数が少ない父でしたが、
入院中は挨拶と諾否の返事とお礼の言葉以外、入院当初はテレビも見ず、入浴も髭剃りも
頭髪の手入れもやめてしまい、見かねた家族が手を貸さなかったら、三週間、検査と診察
とトイレと食事以外、起き上がることもなかったでしょう。余りにも大きな壁を前にして、
この時に限って生活する意欲を失ったか、或いは病巣の影響で、この時に限って精神の抵
抗力が衰えてしまったように思われます。
医師の判断を仰ぐのか、あるいは患者および家族の気持ちが先なのかは、父の今回の場
合、主治医ではなく、患者と家族が決める状況にあったと思います。手術を承諾するしな
いではなく、治療の方針そのものを、主治医の呈示する案から二者択一するのは患者と家
族であったほど、不確かで危険な状態であったと当時の私は考え、今もその解釈は妥当だ
った信じています。
時間に委ねるか、劇的回復の可能性を選ぶかは、病院は哲学ではなく医学の場ですから、
主治医に委ねるのが「道理」です。ですから「先生のお考え通りに」と答えるのは確かに
安全ですが、私は突然断たれる危険と背中合わせの回復よりも、現状が少しでも長続きす
る生活に固まっていましたので、外科の主治医に迷いが生じれば生じるほど、私の迷いは
薄れて行きました。但し、これは現在の我が身に対する考えですから、家族に強いる訳に
は行きません。
父の死後に知らされたのですが、主治医の迷いには、隠されたもう一つの現実がありま
した。
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