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随想 橡の木の葉 (六の四)

前頁より


          五二

  私は家族の意向が手術に傾いていた頃、その成り行きを恐れていました。いつまで生き
られるという「期日」については、誰からも話されたことがなく、また誰も知らされてい
なかったので、治療しないで放置した場合の父の死期を、各自が臆測しながらの選択でし
たが、八十一歳の父の、全身を麻酔しての肺の手術を想像しますと、どうしようもない不
安に囚われていました。

  重い肺ガンの診断に「あと数ヶ月」などという死期の予告が、今になってみますと可能
とは思えません。死の際になればなるほど、家族が知りたいのは「今日か明日か」という
厳密な話になるのでしょうが、父の場合は「三、四日でもう一段の変化」と予告されたそ
の翌日には亡くなったのですから、一ヶ月ないし数ヶ月先の予告はもっとブレが大きくな
るはずです。また、死期を知らされなかったので頑張れた(と私が思う)父の肺ガンの場
合、もし死期を予告されたとなりますと、その結果は患者に対しても家族に対しても「許
されないほど大きな影響」を与えてしまいます。主治医が死期を告げなかったのは当然だ
ったと思います。

  胸は呼吸のため常に動いている部位なので、手術の予後も平坦には行かないことを、父
の死期が迫ってから知りました。そのためでしょう、高年者の肺ガンの、手術の成功率に
ついての説明がなく、ただ「八十五歳の肺ガン患者も手術したことがあります」だけが、
父や家族に、手術に希望を抱かせる言葉でした。我々も、手術成功の確率と延命の年数を
一度も質問しませんでした。

  母は父の死の直前まで父が生きられると信じていました。自分の不安を払拭できるほど、
母には強い愛情と介護の決意があったのです。

  第三の選択肢「医学的治療の放棄」は、広がっていく肺ガンの写真を見ればすぐに問題
外になります。

  胸を開いた結果、あるいは手術がうまく行かなかった場合、すぐに父が死ぬようにでも
なれば、その打撃に母は耐えられるでしょうか。酷なようですが、父も母も病気と闘って、
二人の力が尽きたときに父と別れるのであれば、母も父の死を受け入れられるのではなか
ろうか、私はこのように感じていました。しかしこの考えは、ただただ「運」がよかった
だけです。

  二者択一のもう一つ、放射線照射による治療は、劇的効果は得られなくても、手術や治
療放棄と違い、誰でもある程度、死期を先延ばしできると思いこんでいましたので、手術
は無理との結論が出た時は、私は父の病気が治ったような解放感を味わい、手術回避に気
持ちが変わった母も安堵の表情を浮かべ、さらに父は、病院一階のレストランで珈琲を楽
しむほど気力が回復、家族の誰もが、完治できたような落ち着きを得られたのです。

  しかし父の死後、放射線照射は治療中に副作用に苦み、その鎮静措置で衰弱が増し、急
速に死に至る症例が少なくないと聞かされました。父の病状は、一般的には手の施しよう
がないほど進んでいたのです。
  
          五三

  誤解のないように念を押しておきます。主治医がはっきり手術をすすめた場合は、劇的
効果を期待するのではなく、医師が決めたというそれだけの理由で私は手術を選びます。
父の場合は年齢と病状とで、結局、手術を選べなかったにすぎません。その後の経過は父
の体質ゆえの幸運であり、主治医も助手も話しているように、あくまでも珍しい例だった
のです。現在の放射線照射による治療には、腫瘍を封じこめる著しい効果があることを、
テレビ番組でたびたび知らされていましたので、父の照射は「あたりまえの効果」だった
と錯覚したほどですが、誰もが父のような経過を辿るかどうかは、死期の予告が「患者に
よっては困難」なように、不確かなことではありますまいか。

  優れた医師のすすめる処置を敬遠すれば後悔すると思います。手術も放射線治療も、統
計的な実態がどうであれ、患者は経済力、家族状況、年齢、体力、体質、病歴、病状など
まったく千差万別、百人百通りの違いがあるのですから、一般論として言えるのは、重い
病気にも「運」があるというそれだけにすぎません。しかし「運」の有無は、実際に生き
られる限り生き続け、患者も家族も自ら確かめてみるほかに調べようがありません。当事
者として挑んだのち、もし各自が幸運だったと思えば「運」があったことになり、不運だ
ったと思えば「運」がなかったことになりますが、それとて一瞬一瞬の過程では、意味が
あるとは思えません。

  父は晩年「父親の歳まで生きたい」と話していましたので、自分の願いより六年も早く
亡くなったことになり「運」が悪かったと思います。しかし、父は「運」がよかったと思
います。なにしろお見合いから挙式までの期間が二ヶ月だけの相手と、五十七年間も連れ
添うことができたのですから。

          五四

  高年者の肺ガンでは、腫瘍の進行や転移のほかに、内臓や循環器も年齢ゆえの異常が見
つかり、その段階で手術に耐えるかの検査も中止、痛みと鎮痛処置による衰弱で、発見か
ら二週間で亡くなってしまう例もあり、父のように心臓も肺機能も丈夫で、次々と検査が
進み、三週間も検査する高年者は少ないそうです。

  一回も休まず母がつき添い、週に五回、七週間続けた放射線照射による治療も、人によ
っては効き目が乏しく、薬剤注射が必要になったり、照射開始後しばらくしてから現われ
る副作用に苦しみ、患部も痛みを増し、鎮静処置による衰弱で、やはり数週間で亡くなっ
てしまう患者もありますから、増殖が素人目にも認められる腫瘍に怯え、夏は越せないと
思った私はそれでも楽観にすぎました。しかし、父の放射線照射は副作用の徴候さえ現わ
れず、各担当医の指示を几帳面に守ったほかは、食事も、事務所での執務も、健康時の生
活そのものでした。

  放射線照射を終え、主治医の「旅行もゴルフも大丈夫」のお墨付きを得て、父は肺ガン
を「克服」しました。

          五五

  放射線照射による治療中に、同じ治療の患者さんと顔見知りになり、母は患者さん一人
一人の厳しい状態を知らされたと話しています。

  父への「告知」はあったのでしょうか。主治医の先生からは、婉曲な言いまわしで伝え
てもらえたのですが、この病院の方針は患者に病名を「告知する」でしたので、二回目の
入院直後、ベッドの脇で看護婦さんが「肺ガンですね」と病名を確認した時は、思わず唇
に人差指をあて、黙って欲しいとお願いしたほどです。

  患者に隠そうとしても、病名は隠し切れないのではありますまいか。主治医の専門が肺
ガンであり、放射線照射の順番待ちが何のためかは、先ずわかってしまうでしょう。ただ
でさえ勘のよい父が、自分の病名とその困難な状態を知らないはずはありません。しかし、
我々は決して肺ガンとは言いませんでした。また先生にも看護婦さんにも、両親の前では
病名を口にしないようにお願いしました。

  患者にも家族にも「回復する」あるいは「退院できる」と希望を抱かせるのが治療の第
一ではありますまいか。死の三日前の朝、わざわざ先生が母に「よくなってきました」と
電話、そのお昼、母が衰弱しきった父に退院を示唆、父の表情が動いたのも、希望が湧い
たからだと思います。

  絶望すれば、それだけで生きる力は弱まります。健康であっても絶望すれば、自ら死を
選ぶ場合もありますから、まして体力も精神力も衰えている患者には、表現と介添えによ
って希望を与える努力が、周囲の誰にも必要だと思います。父はよい先生とよい看護婦さ
んに恵まれました。同時に、母は最後の最後まで父が退院できると信じていました。母の
信念以上に優れた治療法は、今の世の中にはありますまい。

          五六

  京都旅行は断念しました。検査入院の折、テレビも雑誌も見なくなった父に、京都の観
光案内書を届けたところ、見ている様子はありましたが、入院時の記憶はできるだけ拭い
去った方が爽やかです。改めて行き先を考えることにして、旅行社に近くの温泉を尋ねま
すと、水上の旅館に空きがありました。奥利根は両親が昭和三〇年代に小売店を招待した
ことがあり、大穴は家族が初めて出かけたスキー場ですので父も了解、何もかも旅行社に
まかせ、放射線治療が終わって三週間ほどで、温泉旅行が復活しました。

  痛々しかったです、父の体は----。

  照射の照準が痩せ細った胸や肩に墨で描かれ、まるで落書きでした。歩みは一層遅くな
り、曲がりくねった廊下をゆっくり露天風呂に向かい、五月の微風を受けながら、ぬるい
お湯に心行くまでつかっていました。部屋から露天風呂に出かけ、再び部屋に戻るまでに
口にした会話は「お風呂、行きますか」「露天風呂がよい」だけでした。

  脱衣も着替えも父一人では腕が動きません。相変わらず棒立ちのままの着替えですが、
今は介添えが必要でした。家では母が、父の動作すべてを、介添えするようになっていま
した。

          五七

  母は父の葬儀が終わった直後から、休日を除いて会社に出勤、型紙制作に復帰していま
す。四十キロを割っていた体重も、一昨年の水準にあと二キロまで回復、日本画を描くの
はまだですが、黒ずんでいた手も色艶が戻ってきました。

  他業界の知り合いで、ごく最近お父様が亡くなられたご家族も、やはりお母様は会社に
出勤してもらい、私の兄同様、平日の夜はお母様宅にご長男が泊りこみ、一人になった寂
しさをやわらげようとなさっています。

  母は今も目をうるませることがありますが、通夜と告別式では涙の跡さえ見せませんで
した。気丈と思っていましたところ、一昨日、父の写真を整理していた折、葬儀中は頭の
中で「三曲糸の調」を弾いていたのだと教えてくれました。

  水上の温泉で父は生ビールを飲みました。母も飲みました。しかし二人のグラスは、運
ばれてきた量がほとんど減らなかったので、妻と私は自分たちのグラスのほかに、両親の
グラスも飲み干しました。私がグラスを飲み干すなど滅多にないのですが、水上温泉での
夕食は全快のお祝いです。誰よりも母が嬉しかったのではありますまいか。

          五八

  私の頼んだ旅行社は大手ですが、自宅最寄駅の、洋菓子屋が立ち行かなくなったあとに
入居した狭い事務所で、接客は二組が限度、電話中はひたすら待機させられる状態です。
ここのAさんと気が合って、娘の航空券をお願いした折は、ご自分の趣味の切手まで持ち
出して娘にニューヨークの渡航案内、書類の記入要領も、ほかの客を待たせて説明してく
れましたので、その後の国内旅行は電話一本でお願いするようになりましたが、水上温泉
の手配では、一ヶ所、強く薦められた場所があります。

  水上は「天神平スキー場」しか浮かびませんので、ロープウェイで上がって山を見てか
ら、温泉に直行しようと考えたのですが、Aさんはしきりに「イチノクラサワ」を強調し
ました。

  上毛高原駅で下車、五人は小型タクシー二台に分乗、ロープウェイの乗り場で帰りのタ
クシーを予約しましたところ、運転手も「イチノクラサワ」を持ち出して、沢では「待ち
ましょう」と申し出ました。
  
  病み上がりの父に一日二ヶ所は無理ですから、天神平の眺望はあきらめ行き先を変えま
した。

  Aさんの言葉を信じてよかったです。父は我を忘れて見入っていました。母も父の背中
で感嘆の声をあげました。一の倉沢出合を背にした二人の顔には、昔の笑顔が戻っていま
した。

  今年三月の温泉旅行では、Aさんが不在でしたので女性社員に頼みましたが、今年五月
の旅行を予約した折、三月のAさんの不在が、定年記念の海外旅行のだったことを知りま
した。Aさんと縁が切れたのを知って父の旅行を不安に思ったのですが、不安は現実にな
り、今年五月の旅行は違約金を払って解約しました。

  一の倉沢出合の眺望に力づけられ、父はゴルフを再開しました。

          五九

  父からは叱られた覚えがありません。不惑までの私は決して控え目ではなく、無口であ
っても私を従順と見た教師や上司は先ずいないでしょうから、両親に対しても「よい子」
であったはずはないのですが、持病と、小学生時代の「遅れ」で手をかけたほかは、人並
み以上に負担をかけた記憶はありません。

  母には大学進学に対する悔しさがあったのでしょう、忙しい中でも進学に手抜きはしま
せんでしたが、兄が私立中学に入ってからは、私の進学は私まかせになり、我が家では食
事以外、飲酒も、遊びも、店を手伝うのもまったく自由、我が子が贅沢を要求をすれば二
つ返事で与える始末、ですが私が贅沢に染まるには、周囲の状況が厳しすぎました。

  父の葬儀後、主に戦後の混乱期、父が縁者に仕事やお金を援助していた事実を教えられ、
母だけが知っていて、子には知らせなかった父の一面を知りました。それまでは穏やかな
がら、他人のことには無関心の、内向きの資質と思っていた私は、父の生前、父を理解で
きてはいませんでした。

  しかし今も私の父は、夢でうなされ、誉め言葉も叱り言葉も発せず、相談すれば言葉少
なに忠言を与え、争いを嫌い、母を生きる支えにしながら律義に働き続けた存在です。

  もし仕事に適性が考慮されるなら、父は商売に向いていなかったと思います。戦後の一
時期は並々ならぬ力を発揮しましたが、父は猪突できずに、事業の先行きに(流通革命の
進展に)恐怖した時期があったのではありますまいか。

  ある日突然、途方に暮れてしまった父の姿を、母も克明に記憶しています。しかし母は、
父が惑ってしまった理由を未だにわからないと話しています。中学生の私はその折、父を
責めてしまったことが悲しい気持ちで思い起こされます。

  病状を告げられる前から、父は自分の死を悟っていたのではありますまいか。検査入院
の三週間は、医師からも看護婦からも注意されながら寝たきり同然になったのも、その後
の頑張りからは想像もできないほど絶望していたからでしょう。しかし四十年前同様、う
ちひしがれた一時期がすぎると、二度と現実から逃げることなく、不安も恐怖も口にしな
いで、医師に対する感謝の言葉と、我々への贈り物を心に秘め、再びゴルフを始めました。
  
          六〇

  ゴルフ仲間は高年ですから次第に減ります。手術を重ねながらそのたびにに復帰するお
仲間もいれば、風邪一つ引かなかったのに突然亡くなってしまうお仲間もいました。次第
に減っていくね----が皆の共通した想いでしょう。今まで入院とは無縁だった父のゴルフ
も例外ではありません。

  一年半の間、病院であれ自宅であれ、子と孫以外、見舞い客は一人もありませんでした。
妻の実家には日々、詳しい様子を伝えていましたが、父の実姉や従兄弟や姪は、父が死ぬ
まで父の病気を知らなかったと思います。例外は数年前まで神田で紙業を営んでいた父の
甥のNさんです。年に数度、郷里から上京、父に挨拶していたNさんが、事務所の父と病
気について話していたことがあります。一方、父と同じ病院を利用、日本画も一緒に習っ
ている母の実妹のBさんは、母と電話で話し合うだけでお見舞いは遠慮、また自宅介護の
折や三回目の入院時はお見舞いどころではなく、皆さんにお見舞いを遠慮していただけた
ことは何よりもありがたかったと思います。

  父の葬儀の折は懐かしい人に会えました。母にとっての懐かしい人は、女学校時代の友
人や父の親戚を別にしますと、私にとっても懐かしい人が少なくありません。私の仲人だ
ったS先生もそのお一人です。両親とのおつき合いは市川時代でした。補聴器をつけてい
ますがお酒が入ってご機嫌でした。S先生の奥様は外出が難しいご様子。ここ十五年ほど
お二人だけの生活とか。お孫さんもいらっしゃるので、ご迷惑であろうと思いご無沙汰し
ていましたが、もっとお邪魔すればよかったです。母と同い歳----、お寂しいのかも知れ
ません。

  私の学生時代から母の下で働いていたKさんも懐かしい一人です。結婚して二人目の子
の出産時に退社。専門学校を卒業後二十年ほど勤めたことになります。父と母は商品企画
の社員と何度か海外旅行に出ましたが、メキシコ旅行では現地在住のKさんのお姉様一家
がお世話してくれました。青山のT先生、両親、Kさん、そして外国の有名デザイナーが
一緒に写っている写真が残っています。よく来てくれましたねKさん----の目に大粒の涙。

  ゴルフ場には体の不自由な人のために電動カートがありました。しかしカートがあって
もなくても関係ないほど父のスコアは乱れていました。父のゴルフ仲間はお一人を除いて
私も面識がありましたが、以前は父より老けて見えた方も、告別式では、発病後の父とは
比較にならないほどお元気そうでした。副作用がないと思われていましたが、父はプレイ
時に現われる不調を口に出さなかったのかも知れません。ゴルフは数回プレイしたあと、
お医者様への土産話を最後に父の前から消えました。

          六一

  放射線照射の治療が済むと、父と母の安定した生活が始まりました。事務所での外出は
父一人でしたが、たどたどしい歩行に不安が募り、杖の話を持ち出したましところ、父は
要らないよと相手にしません。足許が危ういので、母は足をもっと上げて歩くように注文、
母の言葉は素直に容れ慎重さを増しましたが、やがて母は片時も離れず、父につき添うよ
うになりました。

  父が激しく転んだことがあります。ビルの入口の段差につまずいて一メートルほど吹き
飛んで、膝の高さにあった感知器に頭から倒れこんだのです。プラスティックの蓋が割れ
たのが緩衝になり、出血と打撲だけで、脳に異常はありませんでしたが、壁に直接ぶつか
った場合を考えますと血の気が引きます。もう一回はベッドから立ち上がった時に、両足
がもつれ倒れこんでしまい、体をテレビの台に打ちつけました。二回とも衰弱が進み入院
に至る前触れでした。

  検査入院時は歩かないと寝たきりになると言われましたが、医師も看護婦も強く注意し
なかったのは、症例一般の判断に従って、余命短いと考えたからでしょう。しかし二度目
の、衰弱が進んで入院した折は、今度は入念に、病室で骨折した場合の回復の困難さを教
えられました。父の「これから」に期待がもてたからでしょう。

  最後の十日間の入院は衰弱がひどく手洗いに立つのも無理でした。足腰は骨と皮だけで
したが、肺の写真を撮るために、抱き起こされた勢いですっくと立ち上がったには驚きま
した。目の前に車椅子を認めると、倒れこむように坐りました。ベッドから起こされた父
は、退院できると思ったのかも知れません。

  父はもう一度二人の城に帰りたかったのです。しかし翌日は、移動式のレントゲン装置
が病室に運びこまれ、寝たままの撮影になりました。

          六二

  両親の間は一般の夫婦以上に、齟齬や亀裂の生じる機会が多かったと思います。二人の
前には四六時中、商売が立ちはだかっていたのですから、二人三脚は綺麗ごと、互いに遠
慮がないだけに意見や判断の溝が深まります。

  母の仕事が事務や秘書であったなら、もっと調和はとり易かったでしょう。しかし、商
品を企画して卸す業務の、仕事を分離できるのは資金繰り程度、営業も仕入も生産も一体
で動きますから、二人の意見の違いは、仕事の不手際や体の疲労が引き金になり、感情的
な対立まで進んでしまいます。正論をぶつけ合っていたら、夫婦による商売などたちまち
頓挫、どちらかが譲歩しなければならないのですが、通路での譲り合いとは訳が違って、
自己の意見や信念さえ譲らなければならない場合もあるのです。

  過去の随想で「修羅場」と書いた状態が、私の両親には幾度となく現われていました。
母は「修羅場」を一度も忘れたことはないでしょう。父の死後、母との昔話から、今も忘
れていないことがわかります。父もまた忘れるような記憶力ではありませんでした。しか
し二人は別れませんでした。昔、別れて欲しいと父を責めたのは私です。無論、父は私の
言葉も忘れなかったでしょう。その時の父の気持ちが、母と一緒に写真を整理していて、
痛いほどわかります。

  二度目の入院で両親の昼食を持参したとき、手持ち無沙汰でしたので、上の子の近況を
報告、軽い気持ちで「そろそろ嫁さんだ」と話したましたところ、父は真顔になって「よ
い嫁を探しなさい」と、まるで私に息子の嫁選びを命じるような口調でした。

  父は母には、家族のことも縁者のことも、率直に話していたことを父の死後に知りまし
た。父の生前は商売の懸案を除いて、母もまた父の話を漏らすようなことはありませんで
したが、今は折に触れ母の口から、父の言葉を伝えてもらっています。しかし私は、かつ
て父から意見された記憶がないので、嫁さんの件では返事に詰まってしまいました。

  父には遺書を書くのに十分な時間がありましたが、母を頼むとも言わずに逝ってしまっ
た、その父の言葉としては異例です。笑いながら相槌を打ちましたが、父はその時、母と
のお見合い当時を思い出していたのかも知れません。お見合いの瞬間から、父には母が掛
け替えのない人だったのです。

          六三

  一泊では短いねと、父から旅行の誘いがあったのは昨年の六月でした。娘が重い腰をあ
げ、ようやく受験勉強に入った矢先でしたが、美術の研究所(予備校)通いも、お盆は休み
なさいと親の権威で勝手に決め、さっそく旅行社のAさんにファックス、折り返し知らせ
てくれた内容通りに予約、裏磐梯の二泊三日が決まりました。

  父は一週間ほど泊まりたかったのですが、私には一週間はとても無理、の訳を話さなく
ても黙って了解してくれる父でした。父は自分の予定表にホテルの名前を書きこんで夏の
温泉が本決まり。この頃、娘はデッサン力に自信をなくしていましたが、父も母も大丈夫
と信じて譲りませんでした。

  出発前夜、居間で寛いでいたところ、電話に出た娘の会話から、娘の級友の死を知りま
した。糖尿病が悪化、田舎から戻って入院、一週間後に逝去、明日が通夜、明後日が告別
式です。娘は告別式の帰りに合流すると決めましたが、裏磐梯への道順を説明するのは骨
なので、郡山で待ち合わせることにして、さて、父には娘の遅れる理由を何と言って伝え
ましょうか。死の話題を遠ざけたかったのです。

  この頃の両親は二人だけで出歩くことができましたので、我々は上野駅で待ち合わせ、
ホームに立ってから、娘が通夜に行くこと、娘の宿への到着は明日になることを知らせま
した。しかし二人は気落ちした様子を見せず、旅に出ることが嬉しくて仕方ない様子。夫
婦一緒の温泉なら、父も母もそれだけでよかったのです。

          六四

  温泉旅行とは別に、父は放射線照射の治療後も海外旅行に出かけました。裏磐梯の温泉
旅行が済んだお盆開け、最初の診察日に、待合室でTさんの旅行案内を見ていた父が、主
治医に唐突に、この秋「ライン下りの船旅」に出かけてよいかを尋ね了解を得たのです。
さすがに今回の海外旅行は二人だけですと、参加者やTさんに迷惑がかかります。介添え
に別の家族が同行することになりましたが、父は自分の楽しみよりも、二人一緒に出かけ
る海外旅行を、最後にもう一度、母に楽しんでもらいたかったのです。

  娘不在の裏磐梯は何かが足りません。一泊後、娘が早く到着することを願って、朝のバ
スで猪苗代駅に出かけ、磐越西線の快速で郡山着、猪苗代と郡山で時刻表を調べましたが、
バスも鉄道も極端に便が少なく、裏磐梯到着は乗り継ぎが順調に行っても夕方になり、一
列車乗り遅れると夕食に間に合いません。待たせては両親に済まないので、郡山駅でしび
れを切らしていますと、ぎりぎりの時刻に娘が新幹線から降り立ちました。すかさず遅い
昼食にとオニギリを渡し、磐越西線の特急に走りこんで人心地、猪苗代と宿の間はタクシ
ーを利用、二泊三日の温泉旅行に華やかな宴が訪れました。

  宿の正面玄関では、痩せ細った父と、小さくなった母が、立ったまま出迎えてくれまし
た。二人一緒で迎える姿は、結婚後、幾度となく目にしています。子が生まれ、両親宅を
訪れた時も、子が幼かった頃、山道で迷い、夜更けになって着いた時も、父と母は自宅の
門前で、宿の玄関で、立ったまま出迎えてくれました。両親の家を去る時は、二人は連れ
添って見送ってくれました。

  二人一緒で迎える姿と、二人一緒に見送る姿が、目に焼きついてしまいました。二人一
緒の幻覚が、発病直前の、娘を泊めてもらった夏休みに繰り返し現われて、懐かしく、ま
た不安にも駆られたのですが、肺ガンが不安と一緒に父を運び去ってしまった今、週末に
母を訪れる折、週末に母と別れる際、一人の姿と二人の姿が重なってしまい、うまく焦点
を結べません。

          六五

  誰に老後を見てもらいますか。私の場合、子が三人いますので判断に迷います。子の住
宅事情や子の懐具合?  嫁さんや婿さんとの相性?  何もかもわかり合える相手?

  私も夫婦二人だけで生活します。では私が先に死んでしまったら?

  見栄張る人が視野になければ、家は襤褸のまま三十年でも五十年でも住んでしまうほど、
私には向上心も意欲もありません。単に同級や同僚や隣人と思っていた相手に、競り合っ
て来られる経験がありましたが、競争心を以って対されますと気持ちが乱れてしまいます。
先週、見栄張るのも競るのも「天下の土俵」でお願いしたいと話しましたところ、筑波山
麓のフラワーセンターに向う車中で、母が面白いことを言うねと笑っていました。

  二人の城は一世紀後もこのままであって欲しい。地震が嫌いだった父ですから、二人の
城は公共の建物のように基礎も壁も堅固です。黴や雨漏りや亀裂を放置しても千年は持つ
でしょう。

  廃虚なのです、二人の城は----。門前も食堂も、応接間も客間も、経済的に許されるの
であれば、夫婦を除く誰であっても、伴侶に先立たれた高年者に、自己の現実を持ちこん
ではなりますまい。

          六六

  畳に坐りこんでしまいますと、発病の数年前から父は立ち上がるのに難儀していました。
両親の住まいには客間以外、畳の部屋はありませんので、数十年間、二人は椅子とベッド
の生活を続け、食事まで居坐ってしまう我が家とは生活習慣が異なり、我が家に二人を招
いた折は、父が畳から立つのに手助けが要りました。

  温泉旅館や観光ホテルには洋室が少ないです。和洋室は比較的ありますが、二人だけで
和洋室に泊まるのは割高ですし、我々のように間際に予約しますと、和洋室は先ず一杯で
した。

  温泉旅館や観光ホテルの洋室は、窓外の景色も内装も、総じて和洋室や和室より質が落
ちる印象です。洋室がビジネスホテル並みで、両親に済まないと思った観光ホテルもあり
ました。内装も窓外の景色もよく、広すぎない「椅子とベッドの部屋」を、手頃なお値段
で確実に予約できたらどんなによいでしょう。

  部屋だけではありません。二部屋を予約した場合、夕食はどちらかの「部屋で一緒」が
よいのですが、大概の温泉旅館では「自室の、椅子での夕食」は願うこともできません。
病気の末期には、父は、名所旧跡の観光は負担が増すだけになりましたから、温泉と食事
と部屋が楽しみの、最大の喜びは水入らずの夕食です。自室で椅子に坐っての夕食でした
ら、もっと楽しめたと思います。

  父は小柄ですが、助け起こすには体力が要ります。大浴場も露天風呂も、浴槽から上が
る時は、つき添いの私が足場を固め、父の両脇に腕を挿しこ、痛みを与えないように、父
の動きに合わせて立たせないと、父は浴槽から出ることができません。最後の温泉になっ
た熱海では、大風呂の湯船で父の腰が抜けてしまい、しかも昼日中で入浴には早すぎる時
刻、我々以外、誰もいませんでした。

  父を湯船のふちに引き上げ、大理石に横たえ、脱衣所へ走り、新しいバスタオルを三枚
持ち出し、父の体を拭い、肩と腰にバスタオルをあて、あたたまった状態で乾いた体を休
めてもらったところ、自分で足腰を動かせるようになり、抱き起こし、一歩一歩確かめな
がら脱衣所へ向かい、何事もなかったように着衣、何事もなく部屋に戻り、夕食の準備が
済むまでベッドで休んでもらいました。

  父が風呂場で腰が抜けたのは、すでに母が体験済みです。その後は私が父の入浴を介添
え、さらに入浴用に頑丈な椅子を持ちこんだところ、椅子につかまりながら風呂に出入り
できるようになるなど、父の入浴については知識と心構えがありましたので、湯あたりも
慌てずに対処できましたが、露天風呂や大浴場にも、把手や緊急時の連絡機器があります
と、四ヶ月後には死を迎える高年者も、もっと安心して楽しめます。

          六七

  今年三月の熱海旅行では、東京駅を入念に下見、駐車場から大丸店内を抜け改札に向か
う経路を下調べ、地下の食品売り場では、二人好みのお弁当に目星をつけ、手洗いを探し
て置き、新幹線の予約車輌に最も近い改札を確かめ、一歩でも負担を減らすように配慮し
ました。東京駅の八重洲口には、高年者の休める椅子が極端に少なく、中央の一角にわず
かに坐れる場所がありましたので、当日は娘を先に行かせ椅子を確保させましたが、温泉
旅行が終わったあとで、大丸内の喫茶店で休めばよかったと気づきました。帰りは大丸の、
エレベータが直行する食堂街で昼食を予定、広い東京駅をうろつく必要はなかったです。

  かゆいという言葉以外、苦痛を漏らさなかった父も、娘の卒展では立っているのがやっ
とでしたから、その直後の旅行では、万全を尽くしても尽くし足りなかったのです。

  次に父の病気の経過をまとめてみます。一期二期の言葉は医学とは関係ありません。

  一回目の入院 九八年一月下旬〜二月上旬  三週間
  二回目の入院 九九年五月                一ヶ月間
  三回目の入院 九九年七月                十日間

  一期前期 一回目の入院。腫瘍摘出手術に耐えられるかを検査。激しい気落ち。
      後期 放射線照射治療の七週間。副作用なく入院前の生活に復帰。気落ちを克服。
  二期前期 年末までの意欲的生活。次第に衰弱。水上、裏磐梯、ライン川、鬼怒川旅行。
      後期 年明けから四月下旬までの坂を転げ落ちるような衰弱。娘の卒展と熱海旅行。 
      変事 四月末に下痢が突発、極度の衰弱。外来診察室の椅子から直接病室へ。
  三期前期 二回目の入院。点滴で衰弱は回復。しかし退院時も立てる状態ではなかった。
      後期 家庭で生活できる限界域での五十日間。母は自分の首が重くなってしまった。
      終期 三回目の入院。退院を信じて食物を口にした十日間。

          六八

  二人の城は、私が所帯を持ってから計画され建てられましたので、なぜ埼玉県なのかわ
かりませんでした。また関心もなかったのですが、昔の写真を整理した今になって父の気
持ちに気づきました。二人の城の所在地は、母の祖母(母の父親の母)の実家のすぐ近く
です。家族が一つにまとまって暮らしていた市川ではなく、母が好きだった父親ゆかりの
土地を選んだのです。市川には繊維問屋「内紛」の記憶がこびりつき抵抗があったのでし
ょう。母の気持ちがなごむ故郷は、その地しかありません。

  父は時折、一点豪華な買い物をすることがありました。父の実母は厳しい人で、近親縁
者の嫁は厭がっていましたが、母は次男を出産する一年弱を父の実家で生活----疎開した
家は遠縁の二階、その時に仕込まれた家事一切が、戦後の窮乏期を乗り切る礎となったと
感謝、姑の合理性を理解できなかったので、周囲は煙たがっていたのだと話しています。
そのような母親の下で育った父でしたので、放縦には無縁でしたが、できる時にする一点
豪華は母を喜ばせました。

  母が知らなかったこともあります。結婚後、母は自分の収入を父に委ね、父が死ぬまで
自分のお金のことは知りませんでした。一方、私はいろいろな資料から、例えば、両親は
年金を受給する給与所得者ですから確定申告が必要になり、父は毎年、二人の申告計算を
私に委ねていましたので、資産面から父の考えがわかっていました。父は前々から、自分
の死後も母が困らないようにと、万全の配慮をしていました。

  一点豪華主義の父は、他者一般に対する社会性が不足だったと指摘されればその通りで
す。しかし社会性の線引きはどこまで拡張できるのでしょう。明日の浮沈がことごとく自
助に委ねられている商人です。少なくとも父が近親縁者に尽くした努力は、並みではなか
ったと思います。その配慮以上に社会一般に献ずる余裕は、うなされる夜の連続だった父
には生まれなかったと思います。

  父の母に対する想いは、お見合いの瞬間から五十七年間、変わらなかったのではありま
すまいか。母あっての父でした。その父は自分の死後も、母が静穏に、幸せに暮らして欲
しいと願っていました。父の生涯には母だけが必要でした。覚悟も哲学も要りませんでし
た。ですからあまりに切なく、今もって母の悲しみが癒えないのです。

          六九

  母のことも次第にわかってきました。女学校を卒業した夏、祖父の一家が伊香保に出か
けた折に、母だけが店(繊維問屋)に残ったことがあります。祖母と母に行き違いがあっ
た際、祖母が母に「嫁に行ってしまえ」と言ったことを、聞き流すことができなかったの
です。

  祖父の一家は長男の死後、跡継ぎを誰にするかで、祖父と祖母の間に軋轢が生じていま
した。長男の死から次男の成人までに、二十七年間も空白がありましたので、祖父は母に
継がせる意思を固め、次男が生まれ、その子が成長したのちも方針を変えませんでした。

  今日でも跡継ぎの序列を崩すのは容易ではありますまい。母の場合は当主である祖父の
意向でしたが、祖母は親の情としても社会通念としても、祖父の考えを認める訳には行か
なかったのです。祖母には士族出身の自負が抜けず、平民の祖父に対し実家一族を優越視
する気持ちがあり、祖母の一族は祖父から多額の援助を受けていたにもかかわらず、祖母
一族の祖父に対する信義に背く行為が発覚、それを契機に祖父母の溝が深まってしまい、
祖母は祖父への反発を母にぶつけるようになったのです。因みに祖父は、手形決済に窮し
た同業者(まったくの他人)に三万円もの大金を、あるとき払いの催促なしで貸与、実質
は与えてしまったこともあります。
 
  祖父が倒れた終戦直後は、父は義母と義妹弟(私の祖母や叔父叔母)の生活だけでなく、
義母の縁者の仕事まで面倒をみていましたが、祖父母の確執のため、母も気持ちの上で祖
母と決別していたことになります。後年、死の床で祖母は、自分の二男(母の弟)の名前
ではなく、初孫(母の長男)の名前をうわ言で繰り返していたそうです。今になって祖母
の悲しみもわかるようになりました。

  跡継ぎの考えそのものが苦手です。夫婦や家族の序列も事業の継承順位も、私には感覚
でも理念でも受け入れることができません。しかし今の社会でも、継承の序列を崩そうと
しますと、敵意や攻撃は避けられますまい。母はその敵意を、兄の死をきっかけに全身で
受けとめ、祖父の死後、伴侶一人が身寄りになったのです。この事情を知らずに二人の絆
を理解するなどできません。介護する立場の「他人」にとっては尚更でしょう。

  伴侶との関係如何で、他人による介護の親身が、ある時は慈愛になり、ある時は攻撃に
なる現実を知ったのは、父の「在宅介護の五十日」を通してでした。


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