(C)Copyright 1999-2000 SHIMADA, Ichiro. All rights reserved.
複写、転載、引用はいずれもお断わりします.
随想 橡の木の葉 (六の六)
前頁より
七六 (一八)
麻痺しはじめています。
病室内の、装置と器具の操作、食事やベッドや投薬の世話、酸素吸入の方法、栄養剤や
抗生剤の点滴の要領、点滴注入休止のときに接種する血液溶解剤の注射、患者に異変があ
った場合の緊急呼び出し器具の取りつけ、尿量の記録法、血糖値の測り方など、手洗いや
シャワーなど患者の介護だけでなく医療処置もある程度理解、また許される範囲はやらせ
てもらっています。
湯沸しやお茶っ葉や持ちこんだお弁当の片付け、枕元のティシューの補充、お花の水や
り、着替えの下着を窓辺に置く、食べ残しの持ちかえり、痰と鼻水ですぐに一杯になる屑
箱を空にする、床の汚れをぬぐう、持ちこんだ食器を洗う、入れ歯をすすぐ、薬を飲ませ
るなど、狭い病室で、普段の状態とは違ってしまった母の代わりにやろうとしますと、父
の気持ちも母の気持ちも忘れてしまい、事務所を掃いているような気分になります。
看護婦さんは昼夜数名が交代で担当、主治医、その助手の先生、当直の先生、院内の家
政婦さん、掃除のおじさんとおばさんなど、完全看護の病室には何人もの病院関係者が出
入りしますので、勝手をして皆さんの気分を害してはと思い、持ちこむお弁当は隠してい
ますので父のお昼はせわしいです。しかし「ああ、おいしかった」の言葉と、寝こんだと
きの寝息を聞きますと、これほどの幸せはないと思ってしまい、父と母の心には思いが及
びません。麻痺しはじめているのです。
看護婦さんに声をかけてから事務所に戻ります。看護婦さんの控え室では、担当医から
父の病状を聞くこともできるのですが、際立った変化がない限り、何も聞く必要がないほ
ど情報を得ており、また聞きたいことは以前、一般論としてズケズケ聞いてしまっていま
すので、知らされないでいる不安からは解放されています。
七六 (一九)
今の容体での退院は自ら危地に入りこむのと同じです。訪問看護を受け、いつでも再入
院できると約束されていましても、退院後の生活には衰弱を悪化させる材料があるだけで
すから、介護と看護の苦労を背負ってまで退院させる意味がわかりません。
七六 (二〇)
注射を打つのに慣れるため朝の七時に病院に入りました。院内は静かですが朝食前の活
気が感じられます。看護婦さんの挨拶もすがすがしい。父もご機嫌で、お腹がすいたと話
していました。
考えられないほど回復しています。一般例では疾うに発生しているはずの症状が現われ
ません。あれこれ考えなければ朗らかな気持ちになれます。父の不満は退院の遅れです。
飽きてしまったとこぼしていました。
七六 (二一)
事務所に戻って珈琲を入れました。退院の準備が終わりました。いよいよです。
とても緊張しています。二日食欲がなかったら救急車を呼んですぐに連れていらっしゃ
いと言われています。先生方にも看護婦の皆さんにもよくお世話していただけます。薬一
式のほかに、病室で使っていた軟膏や注射針も添えてくれました。
看護婦さんがサイズA4の五枚に、マジックインクで、家族用に介護マニュアルを書い
てくれました。最初の訪問看護は今週の金曜日。
七六 (二二)
お父さんも疲れたろうから、今晩はスープにパンだけで済ませるよ。
父の食欲不振は脱水症状と背中合わせです。血糖を下げる注射も打っていますから、父
に普通の食事を与えないと、すぐに「救急車で病院へ」となり兼ねません。
おふくろさん、おやじさんの食事は普通に用意しましょう。食べ残しを見て食欲を判断
しましょう。今日は疲れたでしょうから、おやじさんもおふくろさんもコンビニの弁当に
しませんか?
父と母と訪問看護だけですと、在宅介護そのものが不安になります。
七六 (二三)
二人の城には、我が家には、深緑同様、癒しの効果があります。午後になると微熱が出
ますが、三食とも車椅子で食卓につき、食事がうまいと喜んでいます。
母も生き生きしてきました。雪原で迷ったような言動が影をひそめ、家事も、家族への
気配りも、入院前の状態に戻りました。
七六 (二四)
明日は姪の挙式です。妻の姉の家族とは、お盆とお正月に挨拶を欠かしたことがなかっ
たので、我が家も全員参列します。父の状態が急変したときは、式に出られない事態も考
えていましたが、最近は孫娘の晴れ着に気をつかうほど回復していますので、式には心配
抜きで列席できます。
父の右腕つけ根の痛みは、湿布薬で鎮めることにしています。退院してからは、体を動
かすのが軽やかになりました。
生き甲斐だったお風呂に入りたいと言わなくなりました。寝顔は穏やかですが、今の病
状ですと無痛であるとは考えにくいです。間断なく襲ってくるある種の痛みを、黙ってや
りすごしているのかも知れません。
七六 (二五)
結婚式当日は午前十時に家を出て、車で都内に向かい、帰宅したのは深夜でした。
花嫁は義姉の長女で、義父にとっては初孫であり、私が身近に見た初めての赤ん坊です。
妻と私は例年欠かさず、また子らもほとんど毎年、お盆とお正月に義父母の家でご馳走の
宴、花嫁を除いたそっくりそのままが、一つテーブルに坐りました。
義父は片方の耳は聞こえないのですが、最新の機器に買い替えたとかで、補聴器をはめ
ている側は、以前よりも具合がよいと話していました。
足の痛みが進んでいます。それを迂闊にも、私は気づかなかったのです。我慢強い義父
であり、律義な義母でしたから、送り迎えは申し出ても無駄と思いこんでいましたが、電
車に乗った往路から痛みに耐えていたのです。
七六 (二六)
酸素吸入器が搬入されます。精力的に動かないと潰されそう。
大手の、繊維部門とはウチとも取引のある会社の、医薬医療関連事業の子会社が、酸素
発生装置を運びこんでくれました。担当者は若かったのですが、説明は的確です。自ら出
向を申し出、在宅医療の事業に従事しているそうです。やり甲斐を感じているのでしょう、
溌剌としていました。
持ちこんだ酸素吸入器は、部屋の空気から酸素を抽出する空気清浄機のような装置と、
停電時や病院に出かける際に用いる携帯用ボンベの二通りでした。酸素ボンベは全国に配
達ネットがあり、旅行の折は、出かける先々でボンベを補給してくれるそうです。酸素ボ
ンベは、酸素発生装置とは扱い業者が別でした。
患者が必要とする酸素の容量にもよりますが、携帯用ボンベ一本で二時間ほど持つそう
です。今日は三本のボンベが運びこまれました。
七六 (二七)
指先に小さな器具をはめますと、血液に酸素がどれほど取りこまれているかがわかるそ
うです。父の場合、その齢の平均を明らかに下まわっており、不足を補うのに必要な酸素
の量が決められました。
家庭訪問の看護婦さんが父のベッドの脇で、寝た状態の酸素の値と起きた状態の酸素の
値を見くらべながら、時間をかけて絞りこんだ値は、最初に病院で告げられた値と違いが
あり、ややもすると我々家族の、一度指示された内容を機械的に守ってしまう処置や観念
を、改めるのに役立ちました。
入院中に、インシュリン注射の薬量が決められた時も同様の経験をしました。耳たぶか
ら血液をとり、やはり小型の器具で、朝食時と昼食時に血糖値を測りながら、家庭介護で
は誰が注射するか、その状況と照らし合わせ、一週間ほどテストした結果、インシュリン
注射は当初の朝昼各一から、朝食の三十分前一度だけになり、家族の負担が減りました。
七六 (二八)
介護の基本は何でしょう。病巣の治療? 患者の配偶者の心? 重い患者の家庭介護は、
伴侶にとり想像以上に打撃になります。もし、医療関係者や介護関係者の一人が、伴侶の
気持ちをうまく汲めない場合は、その一つの資質ないし能力が、他の卓越した医療すべて
を打ち砕き、患者の伴侶の脅威になります。配偶者もまた目の前の死に対して、やり場の
ない気持ちを抱いているのですから。
かゆくて眠れない患者のつらさと、二十四時間つき添う伴侶の苦労は、私を含め、身内
でも真に理解しているとは言えますまい。母は頭が重くなったと言います。頭痛や悩み事
ではありません。頭の重量を重く感じているのです。父が退院してからの母の変わりよう
には言葉を失います。それまでまっすぐに起きていた頭が、首の位置で前に折れてしまい
ました。骨の老化ではないのです。首を起こせば元の状態に戻ります。表情も別人になり
ました。
七六 (二九)
くれぐれも慎重に、と申し渡されていた注射液が別の濃度になっていました。ステッカ
ーの色の違いに気づき大事に至らずに済んだのですが、こんなことがあってよいのでしょ
うか。注射の担当が母でしたら、間違いがわからなかったでしょう。今の母は、昨晩発見
した父の爛(ただ)れを、今朝、新たに発見するような状態ですから。
七六 (三〇)
昨日はベッドから置きあがれずシャワーもお預け、私も発熱していましたのでほっとし
ました。あとでぐっすり眠っているという電話が入り、さらに今朝は父が電話口に出て、
シャワーが使えなかったことを詫びてきました。その言葉のたどたどしいこと! 父が電
話に出られたので、母はとても嬉しそうです。
父の発病後、我々身内の関係は一層よくなりました。今までが悪かったのではありませ
ん。私の子時代のあたたかい情景が、頻繁に顔をのぞかすようになったのです。今、一番
嬉しい会話は
父の「おいしかった」「よく眠れた」という言葉
母の「お父さんが食べた」「お父さんが眠れた」という言葉
七六 (三一)
弱っているのですから言葉がもつれ、疲れきっているのですから判断力や思考力が欠け
ているように振る舞っていますが、八十二歳や七十九歳の、自己の死と、配偶者の死の影
を直視している人間には、考えられないほど豊かな感受性が息づいているのです。
七六 (三二)
手洗いから立つ際に意識を失い、救急車で病院へ。
私は事務所から直接病院へ出かけ、急患受け入れ口で待機、サイレンが聞こえてくるの
を待ちました。
七六 (三三)
右腕の点滴は、腕全体がむくんで栄養剤が漏れてしまい、もう右腕からの点滴はできな
いため、左腕の肘(ひじ)のあたりから心臓まで血管に管を通して、濃い栄養剤を注入する
ことになりました。
脱水症状と栄養不良と肺炎が重なった、その前々日の訪問看護では異常なし。母は数日
前から心配のあまり、すぐに入院を!と漏らしていた矢先です。
朝も昼も夕も深夜も、夫婦で苦しんできた症状が、病院の、湿布薬や飲み薬や点滴やベ
ッドの角度でみるみる薄れ、母は五十日振りで熟睡することができました。入院の翌日、
病院のレストランで、黙々と天丼を食べる母の姿に、思わず涙がこぼれました。
幸い病院は都内の事務所に遠からずのため、毎日通っても負担は知れています。持ち寄
るのは中トロのお刺身か鰻の蒲焼きに果物だけ。食べる量はお刺身なら三、四切れ、西瓜
は一口大を二、三個、それに牛乳を小さなコップで一杯弱。朝と晩は食べ物を口にできな
い状態です。入院直前の自宅では、それに焼きプリン一個でしたが、入院してからは、プ
リンも食べなくなりました。
一口食べさせては少し待ちます。もういい?とか、もっと?とは言いません。父が言う
まで待つのです。その間、母はひっきりなしに語りかけていますが、五十七年も連れ添っ
た伴侶の言葉は、音楽のように聞こえるのでしょう。子の私にはわからない言葉も、父は
うなづいて聞いています。
七六 (三四)
話す言葉はわからなくなりましたが、意識はしっかりしています。父は煩わしい約束事
を忘れてはいません。
航空機が苦手な妻は海外旅行の経験がありません。家族の世話をよくみます。十五年続
けてきた答案添削の内職は徹夜も珍しくありません。忙しいことは事実ですが、本人がそ
の気になれば、今時の海外は、すぐにでも出かけられます。
一昨年の、両親との旅行の際、父は嫁にも海外旅行をと考え、母と私だけに告げ、毎月
積み立てを始めてくれました。その積立金の入った袋を、第二回目の入院時はベッドの枕
元に置き、今回の入院では母に命じて渡してくれました。
七六 (三五)
今日の父の言葉は「帰る」でした。父は自宅に帰る、その日時を尋ねたのです。自宅で
の受け入れについて、誰は?とか、何は?などと途切れ途切れの言葉で確かめます。です
から私も、真剣に退院の方法を考えようと思います。
検査用の血液を採取できません。代わる代わる採血を試みた看護婦さんが三人になりま
した。それでも血液は流れて来ません。針傷が増えてしまい、看護婦さんは、父に済まな
そうに謝っていました。
今の父は形骸そのものです。言葉も聞きとれなくなっています。昨日の食事は一日一回
だけ、蒲焼き一匙に、ご飯を小匙半分だけでした。今日は牛乳も飲まず、二センチ角の西
瓜一個と番茶一口、それ以上は食べられません。しかしお昼になって「食べる?」と尋ね
ますと、体を起こす仕種を見せ、小匙から食物を含み、新しい入れ歯を動かします。
七七
身を切られるように寂しく、やり切れないほど悲しくなることがあります。
週末は母を誘って四人で美術館を訪問、あるいは二人で近郊の植物園を訪れ、レストラ
ンでお昼を済ませ、土曜は私も泊まり、日曜は炊事と掃除を手伝い、母につき添って食品
スーパーに出かけ、お弁当と洋菓子を買って帰り、母と子二人だけの昼食を済ませ、明る
いうちに別れを告げ、バックミラーに映った母を見ますと、寂しくて悲しくて、やり切れ
なくなることがあります。
葬儀後に遺品の片付けを手伝っていた折、散逸していた写真を整理、母の昔が目の前に
現われ、母の話に耳を傾けましたが、同時につらい昔も掘り起こしてしまい、切なさと懐
かしさに再び涙、しかし、ようやく転機が訪れました。
昨日今日、母は「二人」だけの寝室に、卓上式のトレース台を置き、自分専用の椅子に
坐り、服飾のデザイン画や、新しい日本画の下絵にかかっています。日本画の教室にも、
まだ一度ですが出かけました。来年に予定した海外旅行も、私が希望を記した便箋を手渡
したのち、一ヶ月ほど手元に寝かせていましたが、先々週、母はTさんに郵送しました。
母は父の遺志を果たそうとしています。出かける先も合意がとれました。現代美術が生
活に溶けこんでいる街、A国のB市がそれです。孫娘に刺激され、母も西欧の現代美術に
関心が強く、今回はB市一箇所を希望、母が投函した週明けに、Tさんから電話が入り、
打ち合わせた結果、その日のうちに、お薦めの資料を送ってくれました。
父もTさんのファンでした。Tさん自らが企画して添乗した海外旅行が、昨年で四百回
に達したそうです。ある時期から両親の海外旅行は、Tさんの団体か、Tさん紹介の旅行
に限られていました。
我々四人だけの旅行は割高ですので、希望とは違いますが、ある団体旅行を予約、飛行
機の座席は二人分だけ、一ランク上を頼みました。
七八
母の実妹のBさんも母を大切にしてくれます。Bさんの周囲には母同様、夫に先立たれ、
落ちこんでしまい勝ちな友人がいますので、先方の家に出かけ話し相手になっています。
Bさんは背広業者に嫁ぎ、数年前まで自らも営業され話し上手。体調に不安があり、歩く
のも難儀な様子で、手を添えないと危なくて見てられませんが、寂しさに耐えられないご
友人からは、とても頼りにされています。
父の七七日忌に、Bさんは、母も忘れてしまった昔話を聞かせてくれました。両親と兄
と私が、祖父母の家族四人と一緒に暮らしていた頃、Bさんが赤ん坊の私を抱いてくれた
話もありました。私の這い這いは早かったそうです。
両親にとっては必死の時代でした。家族四人が六畳間で寝起きしながら、病床の祖父を
師として店を再興、両親二人で八人の生活を担っていたのです。母は徹夜仕事が続いたた
め、アイロンの鏝(こて)を握り締めたまま気を失ってしまい、回復が危ぶまれたある日、
祖母が養子の父に、後妻にBさんをどうかと話したなど、母も知らなかった昔話もありま
した。当時、祖母が赤ん坊かわいさにオイモを与えてしまい、栄養失調の下痢でオシメの
洗濯に追われ、母は実母の愛情を恨めしく思ったそうです。
母は昭和五五年(一九八〇年)から日本画を始めました。女学校時代の母は絵の卒業制作
で金賞を受賞、習字も達者で、戦後は服飾デザインに従事、筆づかいだけでなく色彩感覚
も養われ、日本画も初心者とは言えませんが、絵画教室では初歩から練習、幸い母は、長
唄や学業や型紙同様、よい師に恵まれ、作品の完成度はわかりませんが、日本画の技術も
目に見えて上達しています。
母は習い始めて三年後、仕事が忙しく日本画の教室をやめましたが、母より数年早く日
本画を始めていたBさんが、母を誘ってくれましたので、改めて姉妹二人で教室へ通い今
に至っています。近年は教室とは別に日本画の先生宅にも、年に数度、訪問するようにな
りました。そのBさんが先々週、勤労者の美術展に出品するよう母を励まし、先週、母は
額縁店に出かけ、出品作の額をあつらえました。
絵は父の発病直前(九七年秋)、二人で訪れたシドニーの遠景です。この絵はほぼ仕上が
っていましたので、Bさんと先生宅を訪問、批評を仰ぐはずが、父の看病のため、代わり
にBさんが先生に発送、その批評の手紙と作品が返却され、母が受け取ったのが父の死の
前日でした。
父はシドニーの絵と奥入瀬の絵が仕上がるのを心待ちにしていました。そけれだけに、
母は絵を見るのがつらかったのです。
七九
車のドア越しに「希望を与えてくれてありがとう」と真顔で言われ、私は黙ってうなづ
きました。
高校時代、美術部に入っていた妻には、美術好きの友人がいますので、ごく稀に、画廊
で開かれる個展の案内状が届きます。数年前、妻から渡された案内状を持参、その一つに
母も出かけたことがありますので、描くのが生き甲斐の母姉妹には、個展の想いがないは
ずはなく、父が倒れる前から、二人の作品の仕上がり点数を密かに数えていたのです。
Bさんと母の間で、勤美展(勤労者対象の美術公募展)だけでなくほかにも機会を!と
いう話があり、また、葬儀のあとに母が最初に考えたのは、父との最後の温泉旅館で、椅
子に坐っていた孫娘を描くことでしたので、その絵を仕上げたとして、選の評議にさらす
などできるはずがなく、母の家からの帰りぎわ、姉妹で個展を開いてはどうかと提案、そ
の場で合意を得たのです。母が電話したBさんの反応も、開催前提の質問でした。
母は、椅子に腰掛けた孫娘の、表情と姿勢と服装が気に入り、調度の配色に惹かれ、や
り切れないほど寂しい夜を、その絵を準備することで耐えていました。ほかにもう一点、
これはどうですかと差し出した画題も、その場で描くことに決めました。来秋の話ですが、
私も個展の準備を思いますと、静かな喜びにひたれます。
八〇
療養中、父は何を望んでいたのでしょう。
放射線照射の治療後も、父は、母の絵の仕上がりを楽しみにしていました。ゴルフの代
わりに家族旅行や美術館に出かけ、孫の進学を喜び、孫の就職を気づかい、とても死期の
迫った患者とは思えませんでした。
検査入院直後は事務所の窓から、首都高を走る自動車を眺め、物思いに沈んでいました
が、それはその時限りで、衰弱の進んだ昨秋以降も、食料を持ちこみますと、冷凍庫に収
納する母の動作を嬉しそうに眺め、滞留した食品を持ち出しますと、私に悲しそうな表情
を向ける、その穏やかさはどこから来ていたのでしょう。
母は家庭介護のはじまった日から、父の表情で気になっていたことがあります。性急な
介護でない限り、また、若輩が先達を諭すようなお見舞いでない限り、苦い顔も厳めしい
顔も見せませんでしたが、母は父の顔から笑いが消えてしまったことを、悲しく思ってい
たのです。
父はおよそ愛想笑いのできない人です。しないのではなく、儀礼であることがわかって
しまうのです。一方、仕入先が相手であっても、ゴルフの話題や旅行の話は、自然に笑い
がこぼれていました。その父の笑いが消えてしまったのですから、母がつらく思ったのも
無理ありません。
最後に入院した翌朝、母は父に言いました。
お父さん、最近、笑ってませんよ、笑い顔、見せて下さいな。
八一
父の笑いが記憶にあるのは今年の春までです。そう、今年だったのですね、もう十年も
昔のようです。葬儀から、まだ四ヶ月も経ってません。この随想を書き始めた当座は、死
の想い一色でしたが、家庭介護の記憶も、みるみる薄れていきます。
私の娘は一番下ではありませんが、進学先が決まらなかった最後の孫でしたので、父は
孫娘の受験をとても心配していました。
娘は高校在学中、厳格に自己を査定しており、美術科の大学進学希望者の中ではただ一
人、「芸大」は記念受験もやめました。美術担当の先生方も、娘の合格には首をかしげた、
その理由は安定を欠くデッサン力にあり、孫娘を買っていた母は譲りませんでしたが、期
待してがっかりすることのないようにと、私は受験前から、父には「浪人する」と伝えて
ありました。
美大の合格には、先生方も信じられない様子でした。娘は教えられた描き方にこだわっ
て手が思うように動かなかった、それが「実地」に臨み、自分流に描き出したのが壁を越
える鍵でした。先生の一人は娘に「卒展の作品を見て、初めて合格した理由がわかった」
と話しています。
美大の来期の受験案内に、合格者の色刷りの答案が四点だけ載っていますが、その一点
は娘の作品でした。卒展の作品一点も学校預かりに残り、心配のし通しだった妻もようや
く安堵。
受験の様子は逐一報告、思わしい結果が得られず悲観的になった、その時の、気落ちし
た父を見るのがつらかった----。
娘が専攻した科も美術一般の例に漏れず、技術修得の地味さ、悲しいばかりに立ちはだ
かる才能の壁、独創に対する評価の両刃、収入と職場の不安定、そのすべてを解決できた
ところで、感性の違いによる「共感」の難しさが待ち受けています。
来年に予定した母との旅行を、我が家だけで出かけるのがためらわれ、母にそのことを
告げますと、母は「感性は別」と言い切って、迷いの影さえ見せません。絵が好き同士も、
感性が異なれば好みの画風は違ってきます。目を背けたくなるような作品を、気に入る人
もいますから、美術館内は静かであっても、妥協を許さず、相容れない感性が衝突し合い、
好悪の壁が共感を阻んでしまいます。三世代が歩みをともにできる機会は、一朝一夕では
生まれません。
家族の感性が偶然に一致したのではありません。母は五歳の頃から長唄を稽古、女学校
時代には、現代の本職が「当時、望める最高の顔触れ」と話す舞台で「立て三味線」を演
じるなど、素人であっても並み以上の実力がありました。書や手編みも本職に通じる技術
があったことが、父の遺品を整理した折、写真の束から知りました。
一つ、資料になかった情報もあります。母の祖父に対する敬愛です。長唄も、お茶も、
お花も、習字も、着物も、そのどれもが祖父の力、生涯の伴侶に父を選び、養子に家業を
譲ったのも祖父でした。祖父なくして母の青春はありません。その想いが、孫娘の美術専
攻の生活に触れ、蘇ったのだと思います。
長唄と着物の母は、父にとっても最高に値しました。銀座通りを行く新婚当時の写真が
あります。二人の歓びが手に取るようにわかります。父も一時期、書道とお茶を習ったこ
とがあり、晩年になって、美術に関心を寄せたのも単なる偶然ではありません。美の世界
は二人の青春の象徴でした。孫娘の美術中心の日常は、父にとっても生きる歓びだったの
です。
八二
描いた画題は「浅草」でした。のんびり見物して持ち帰った下絵は、犬と散歩する少年
とお寺でしたが、どんなに早く描いても、三週間では仕上がりません。結局方針を変え、
背景は塗らずに、雷門の大提灯を描いた一点を中心に、二点は駄菓子屋の硝子容器、課題
作一点に、茶碗とグラス各一になりましたが、大提灯同様、どれも描きかけの印象は免れ
ず、卒展会場での娘を思うとつらかったです。しかし、背景を塗る時間は欲しかった様子
でも、娘は「これで完成だよ」と平気な顔で、私の両親にも、妻の両親にも、見に来て欲
しいと頼んでいました。
娘は卒展準備の三週間を、人生最高の充実だったと話しています。そのことを我々より
先に両親が理解、二人の歓びは一入でした。まして浅草は母の両親の出身地、浅草寺近く
の料亭は、結婚披露宴の会場でした。パネル一杯の大提灯に、二人は何を見ていたのでし
ょう。
死の前日、休みの取れた上の子と、病院の入口ですれ違いました。初孫が病室を訪れた
時、父の意識はありませんでした。
死の前々日、母も私も「もう一段の変化」を予想、まだ頑張れると思いこみ、母は十時
に病室に入り、次いで私もお昼を持参。
この日はたまたま、数ヵ月に一度の妻の検査日でしたので、外来の待合室に下りて行き
ますと、まだ順番待ちのため、診察後に母と三人で食事を予定。
ほどなく妻もやって来て、女二人、お喋りに花が咲き、私は手持ち無沙汰になりました。
おや! 娘が来たではないですか。
どうした?
先生の個展があるの。でも道がわからない。
お父さんの携帯もつながらないので、新橋から歩いてしまった。
この病院が見えたので寄ってみた。
おじいちゃん、どうしてる?
起きてるぞ、ほら!
突然の娘に、病室は華やかな雰囲気に包まれました。
おじいちゃん、セイコだよ。
父の顔が綻びました。
孫娘に、笑いかけていたのです。
一九九九・一一・一九
前頁へ戻る
散歩者の夢想メーリングリストの表紙へ