編集中記 【その67〜その74】
【その67】
体育館では跳び箱の授業が印象に残っています.もともと私には、体育と図画工作
は、つまり体育館と運動場と図工室は、教室には分類されていなかったので、心踊る
授業はあって当然、という訳で体育と図工の「教室」は特にご紹介する必要もないの
ですが、跳び箱はその後の夢に、比喩ではなく誰でも寝ているときにみるあの夢に影
響しているので書いておきます
私もまた、尾てい骨を打つ痛みを知ったのは跳び箱でした.運動は負けず嫌いだっ
たので、皆がとべる高さであれば自分もとべる、と勝手に決め込み、男の子の降順で
最後に挑んだそのとび方に難がありました.すでにとべない生徒が何人もいたのです
から、軽く見てはならない高さだったのですが、とべる子の力強い跳躍を真似たとこ
ろ、物の見事に尾骨を直撃、一瞬呼吸が止まり、最上段の箱を跳ね上げ、マットにド
スンと尻餅をつき、目に涙を溢れさせました
助走は力まず、踏み板の正位置に勢いをつけてとび込めば、踏み板の反動で自然に
体がはね上がります.但し、踏み込みの度を越すと、今度は跳び箱をとび越して、上
体をマットに打ちつけることになりますが、踏み込みの加減と方向を会得すれば、跳
び箱を一番高く積み上げても、また跳び箱を横に向けても、倒立跳びも、なんとかと
べるようになるものです
とぶことが好きでした.スキーも切り立った崖のような斜面を、はねながら落ちて
いくことが好きでした.若い頃は走り込んではいなかったので、足腰はすぐにガタつ
くし、技術は今も大した事がないので、斜面にコブがあるとはね飛ばされてしまいま
すが、滑り降りる斜面ではなく、とび降りるような斜面であれば、といっても高すぎ
たり凍っていては駄目ですが、その崖をはねながら落ちていく感触が好きでした
飛行機は、晴れ渡った上空からはるか遠くの地表を見るのが好きです.飛翔感覚の
優れた映画はすべて好き、ということである時から私は、自由自在に空を飛べるよう
になりました.急上昇も急下降も水平飛行も、自分の意のままに飛行する技術を会得
したのです.都市の密集地上空を道路に添って飛ぶことも、高圧線をスクリュー状に
飛ぶことも、放牧場であれ草原であれ砂漠であれ、低空であれ高空であれ海上であれ
渓谷であれ、自由自在に飛ぶことができるのです.そして飛翔しながら繰り広げる新
たな世界の物語り
飛翔している夢は目覚めた後まで爽快になれます.無論、布団が濡れている心配も
ありません.私は既に三十年以上も前から、Virtual Reality の具体化に成功してい
たのです.それも狭い視界のお仕着せの世界ではなく、精神も肉体も完全に解き放た
れた自由という名の仮想現実、ということは現実そのものではありますまいか?
Jun 11, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その68】
情報が事実か作り物かの判断は、報道のドラマ化や、あるいは湾岸戦争で問題にな
った「意図的な報道」によって、最近は大人でも分かりづらくなっています.そして
視聴者の側も報道された事実をドラマや劇画感覚で見始めている、あるいは折り込み
チラシのようにさっと目を通して読み捨てる、としたら、事実と作り物の違いも我々
の生活には、大した意味を持たなくなります.以前は感情ではなく理性で判断しなさ
い、と言われたものでしたが、今は実際の犯罪も劇の一幕のように受け止められ、当
事者の痛みや苦しみは、視聴者の好奇心の影で、無視されてしまうように思われます
子どもの変わり様はもっと大きいかも知れません.後から後から刺激的な情報に漬
けられている状況下では、刺激に耐性のできない子どもはたちまち潰れてしまうでし
ょう.実際、家庭では、悲惨な画面に目を背けていた子どもが、話題の仲間外れを嫌
って、毎週見るようになったテレビ番組の二ヶ月後には、惨たらしさに夢中になるま
でに変わります
強い耐性のある子どもの方が、生存競争には有利です.感受性の鋭い子どもは事実
に対しても仮想現実に対しても、過敏に応じてしまうので苦しむ度合いが強くなりま
す.ここに一つの選択が生まれます.刺激的な情報に対して(当然、刺激と慣れの循
環を考えると刺激はさらに強くなると思われますが)耐性が強い資質をより評価する
立場に立つか、あるいは強い刺激に立ち往生してしまうほど鋭い感受性を評価する立
場に立つか、という二者択一がそれです.この二つの立場の相克は、自分に都合のよ
い居場所をより多く獲得するかという「環境と状況の奪い合い」として起こります.
そして双方の資質が存在する限り、一方が他方の環境をすべて奪ってしまうのは公正
とは言えませんが、現在の情報社会では、一方がすべてを奪いつつあるように思われ
ます
強い人間にも弱くなる時があります.失業した時や病んだ時がそれです.あるいは
死に向き合った時がそれですが、健康な時には健康の有り難みを理解できないように、
有職の現役や恵まれている引退者には、失業者の絶望や、打ちひしがれている人々の
心を理解することは困難です.むしろ敬遠や無視、さらには鞭打つことさえ起こりま
す.ここに「もう一つの環境の保障と整備」の必要が生まれてきます.安らぎを得ら
れる「環境」と、安らぎを得られる「表現」が必要になるのだと思います.それは誰
であっても晩年になれば、必ず必要になるのだと思います
Jun 12, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その69】
体育館には舞台を兼ねた演壇がありました.演壇は結構高さがあり、踏み台がない
と当時の私の背丈ではとても上がれませんでしたが、それだけに適当な遊び場になり、
休憩時間になると、舞台の袖から上がっては壇上から飛び降りる遊びを----、そう言
えば校舎の西側には一、二年の教室があったので、その子らの遊びの一つとして、よ
く跳ね回っていた記憶があります
一、二年の頃は、まだ教室で、先生の顔を見ていることが出来たのかも知れません.
この当時は発育がさらに遅れていたので、授業が分からなくても、先生を恐ろしく感
じることはなかったのだと思います.その低学年が男女一つになって、歓声をあげる
遊び場は、鉄棒のある校庭の日当りの良い体育館前、幼い私も皆の中で、心から楽し
んでいたのだと思います、その根拠は
初恋----、おやまあ! それも一人ではなく二人の女の子に恋をするという、発育
遅れにしてはやけにませた話ですが、一人はすくすく育った女の子、一人は色白で小
柄な子、一人は姉のような温もり、一人はクロマツ林のお屋敷に住む内気な子(など
と小一にも分かるのでしょうか)
二人とも三年生になると私の心象から急速に薄れていきます.その頃から心象の光
度は急速に衰えます.しかし二人の姓と名は、学校の資料は紙の切れ端さえ残っては
いませんが(ない筈です.大昔にすべて燃やしたのですから)、二人の表情と姿とは、
今でもくっきり描き出せます.無邪気な子らの遠い微笑み
Jun 13, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その70】
学芸会は体育館の壇上で演じられました.クラスの劇の木の置物を、裏から支えて
いたことが最初に浮かんできます.もっと幼いときは兎の耳のかぶりもの、母は当時、
編み物の先生を手助けしたり、国際展で入賞したり、作品を編み物の雑誌で紹介され、
そのモデルに幼い兄弟がなったこともありましたが、母が丹精して編んでくれた兎の
帽子、かぶる本人はあまり愉快ではなかったのでは? そして合唱の後列袖側カーテ
ンの影での口パク
この小学校の黒の制服は蛇腹で縁取りする必要があったのですが、それを母は、吊
るしの詰め襟に手縫いで仕上げたところ、人目を引く仕上がりだったとかで、学級の
父母から頼まれ、生活の足しにしていたようです
六年生の演じた「夜鷹の劇」が、四年の心に刺さりました.筋は忘却の彼方に消え
去り、配役も舞台衣装も二度と蘇ることはありませんが、夜鷹の悲しみに満たされた
呟きが、「自分もまた生きている」という訴えが、子どもの心を抉りました
太陽に訴えたかったのでしょう、地球の生命の創造主の、その専断を----
Jun 14, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その71】
体育館のさらに南、校庭の西側出入り口----、そう言えばこの小学校の正門はどこ
にあったのでしょう.こちら側は私の住んでいた方面とは反対の昔からの住宅街、私
の生まれる前の親の住まいは、こちら側にありました
母の実家は、両親と母と弟妹の五人家族、問屋街では成功した分限者として知れ渡
り、交際は歌舞音曲の「頂点」と鳴り物入りのおつきあい、母は満五歳のときから、
家元の一番弟子に仕込まれ、お浚いの時は本職の居並ぶ中、家元の隣りに座らせてい
ただいたこともあったのですが、その一家五人が問屋の二階、六畳三部屋、内一部屋
は客間を兼ねていたので、富裕な家族が実質二部屋、大森の別宅は人に任せてほとん
ど空き家
子ども心にも聞き惚れました、昼下がりの母の三味線、あでやかな舞台の面影
没落の原因は預金封鎖と新円切り換え、財産はほとんど現預金という嘘のようなほ
んとの話.因みにこの問屋の在所は当時も今も借地であり、おまけに大手金融機関を
定年で退職した地主様が、バブル期に借地権者に通告せずに、右舷だか広域団だかに
底地権を売却したため、今も弁護士がつきっきり----.維新以降、浅草や神田に住み
込んで、商売に励んでいた一族の、戦前の金銭感覚が窺われて興味深いとは思いませ
んか
生臭いお話をもう少し.物心ついたころ住んでいた家の八畳間には、四隅の天井ま
で積み上げられたお道具がありました.子どもの遊び場としては最高のガラクタの山、
実はこの中の茶釜の一つが、我慢出来なくなった時の緊急○○○.そのガラクタの山
が一夜にして消えてしまった、道具屋がほくそ笑んで帰っていった、などというお伽
話もありました.普通なら歯ぎしりして悔しがる場面でしょうが、両親には猫に小判、
「部屋が空いてすっきりした」程度の感覚しかなかったようです.今も二人の食器棚
には「木米」の徳利が置かれ、デザインがよいとかで、飯茶碗同様によく使い込まれ
ているようです
くだんの借地に限らずバブル期に「活躍」した人々は、またリストラなど他者の悲
しみと引き換えに裕福を手に入れた人々は、サンタクロースがお嫌いですか? 子や
孫に豊かな夢を、我が孫にも人の孫にも豊かな夢を、贈る喜びも手にされてはいかが
ですか
どこまで行きましたっけ? そう、正門は何処か、でした
Jun 15, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その72】
小学校の正門は、私が裏門と思い込んでいた西側出入り口がそうだったのでしょう.
生け垣の隙間など非公式の出入り口を除けば、この小学校への出入りは、ア)砂地の
路地を経由して二本の杭の間を抜け、運動場を横切り下駄箱置き場へ.イ)私鉄の最
寄り駅から幼稚園を経由して運動場の外側を巡り、学校のほぼ中央の、門扉のない入
り口を通って下駄箱置き場へ.ウ)私鉄のもう一つの最寄り駅から古い市街地を抜け、
西側の出入り口から校庭を横切って下駄箱置き場へ、の三通りであったと思います.
私がもっとも利用したクロマツ林は、幼稚園前を少し駅よりに歩き、東に折れた辺り
から始まります
体育館の南側、西側の出入り口を隠すように建っていたのが図工室.市街地から迷
い込んだ人間が、西側の門から構内に入って最初に目につくのも図工室.ですから、
夜間や早朝に、思いつめた人間が西側から構内に入れば、椅子や机を簡単に利用でき
る図工室を選ぶのも自然の成り行きです
その姿を目撃したのは二年か三年の時だったと思います.窓を割って図工室に入っ
たのでしょうか.白髪まじりの薄い髪と、きなりの作業ズボン、皺のよったYシャツ
から、初老の印象を受けました.すぐに大人が取り囲んでしまったので、それ以上見
ることはできませんでしたが、恐い、と思うと同時に、言いようのない不安に襲われ
ました.その後、四十年以上経過して、今まで幾度となく経験してきた不安の概念が、
恐怖に導く螺旋階段であり、恐怖の原因を除かない限り、一時的に忘れることはでき
ても、決して解消することのできない「もう一つの鼓動」であることを知りました.
恐怖の原因が漠としたものであれば、胸苦しい不安に取りつかれ、恐怖の原因が深刻
になれば、体を蝕み、心を破壊する不安に取りつかれます.小学生が垣間見た初老の
死----.見ず知らずの男ですが、今になってようやく、悲しみを共にできるようにな
りました
Jun 16, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その73】
怪談の種を蒔かれた図工室ですが、絵画には光が必要です.採光の優れた図工室に
居座れる幽鬼はなく、図画工作の時間になると、クラスの教室から廊下に飛び出し、
体育館を通り抜け、硝子戸を開け、体一杯に光を浴びます
画用紙や絵筆の感触に得も言われぬ親しみを感じます.絵の具の匂いも、指にこび
りついたクレパスも、絵の好きな子には幸福の身繕いです
画板を掛けて野原に出ると、そよ風に祝福され、空の彼方に舞い上がる心地がしま
す.うららかな太陽のもと、シロツメクサの楽園が、白根山の麓まで続いています
Jun 17, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その74】
野原に出たのですから、遠足の思い出もたぐってみます
間食はよくないとする家庭に育ったので、家には飴や煎餅などというお菓子はおよ
そなく、三食と、おやつの「果物や芋やトウモロコシ」が一日のすべてであったと思
います.親に内緒で駄菓子屋で買い食いするほかは、遠足であれ運動会であれお菓子
はほとんど用意しなかった.学校側からお菓子の数を制限されていたのかも知れませ
ん.しかしお菓子の多い親子から、チョコをわけてもらった記憶があります.また運
動会ではお菓子の制限はなかったのだと思います.ともかく運動会も遠足も、私には
お菓子の位置は低かった、親の考え方に影響されたのでしょう.我が家ではお菓子を
三通りに区分けしていたようです.第一は和菓子や洋菓子やカステラなど、お店で売
っていても「手作り」の菓子、そのうち和洋菓子は無縁だったので、母手作りのカス
テラやカスタードプディングを、私には重いので夕食兼用になりましたが、ごくごく
たまに食べる機会がありました
特別な材料は要らなかったのですが、当時は、家でカステラを焼く主婦はほとんど
いなかったと思います.母は昭和十二、三年の女学校の頃、新宿のレストランの調理
人から、洋食や洋菓子の作り方を本格的に習っていたので、戦後の大変な時期にあっ
たとはいえ、年に一、二度、玄関の外に、豆炭で加熱するブリキのオーブンをしつら
え、長崎カステラを焼くものだから、その芳しい香りに近所の悪童どもが列をなす、
ほど多くは集まりませんでしたが、母は焼き上がった熱々のカステラを、惜しげもな
く振る舞っていました(本当は取引先へのお使い物として焼き上げていた、我々はそ
のおこぼれに与っていた、ということを最近知りました)
袋入りの飴や箱入りのキャラメルが第二のお菓子です.このお菓子に比べると、第
三の駄菓子屋のお菓子には寛大でした.同様に夜店のお菓子も父を交え、母は子ども
たちと一緒に楽しんでいました.そして当時の私も、第二のお菓子には手を出すべき
ではない、という観念を抱いていたのです.今の私とは大違い
お菓子には「謹厳」でしたがお弁当は----
おかずは心のこもった一品料理、これが我が家の家風だったので、どうしてもお弁
当の彩りが寂しくなります
私の当時のご馳走は「のり弁」でした.ご飯の上にお醤油に浸したおかかを敷いて、
その上にお弁当箱の隅々まで海苔をかぶせ、さらにご飯、おかか、海苔の順に詰めた
二段重ねの「のり弁」に、一世を風靡したあの卵焼きと、ほうれん草のおひたしを添
えた母の「のり弁」は、おひたしは別ですが、私の特別な食べ物でした
母は家庭にありながら仕事に追いまくられ、役付きの学年を除き、遠足につき添え
る余裕がなく、遠足のお昼は私一人、であっても、母のお弁当を一人で食べるのに寂
しいということはありません.一人で食べられなかったことが辛かった
つき添いのない子には他の母親が声をかけてくれますが、おかずやお菓子に囲まれ
たにぎやかなお弁当、の中に「のり弁」一つ、では、消え入りたい気持ちになるのも
無理ないです.かと言って善意の誘いを断わることもできません.お昼が近づくにつ
れ、気持ちは次第に沈んでいきます
お昼が済めば再び跳ね回る遠足です.帰ったら真っ先に報告します.今日の「のり
弁」うまかったよ〜♪
Jun 18, 1997 plnssnr@reverie-prmnr